NHK鹿児島放送局時代。スポーツアナとしてスキルを磨くことを決意した(所属事務所提供)【拡大】
“50秒の壁”突破の瞬間
〈NHKに入局したのは昭和42年。報道記者志望だったがアナウンサーに。スポーツを担当したのには理由があった〉
報道記者を志したくらいですから、最初のうちはアナウンサーとしても報道番組に関わりたいと思っていました。ですが、すぐに限界が見えました。
最初に配属されたのは鹿児島放送局です。当時、鹿児島には東大の宇宙空間観測所(現JAXA内之浦宇宙空間観測所)があり、国産ロケット打ち上げという話題がありました。そこで鹿児島局発で1時間くらいの報道番組を作ります。番組では、ずっと国産ロケットを取材している社会部の記者と解説者を相手に、担当アナウンサーが話を引き出していく。つまりアナウンサーはタイムキーパーにすぎないのです。
しかしなんと、このときの担当は小谷伝さんという方。「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを長く務められた小谷真生子さんのお父さんで、宇宙工学の専門知識も豊富な方でした。その小谷さんがご自身の知識を一切封印して、何も知らない立場から番組を回していく。「これはつらい役回りだ」と思いました。
じゃあ、アナウンサーとして能動的、有機的に仕事ができそうな分野は何か、と考えるとスポーツでした。スポーツだけはラジオの時代から、アナウンサーが取材者であり、表現者でもあったのです。そこで、「スポーツアナウンスの分野で東京の本局に戻ろう」と自分なりに戦略を立てました。