強迫神経症 | 強迫障害 | OCD闘病記

強迫性神経症(強迫性障害/OCD)の娘と向き合う父親の体験記

670.娘とともに「老いを深める」

2015.12.26 [ Edit ]

末娘が、旦那の仕事が忙しいので、
孫を連れて帰ってきています。
末娘の旦那もサッカーをしており、
孫の名前は、アルゼンチンのアイマール選手から、
”碧丸”アイマールではなく、”あいまる”です。

その”あいまる”の子守役は、もっぱら、姉娘の役目になっていて、
末娘より、うまくあやしている。

姉娘が、
「父さん、元気でいててや」
「私の子供の子守してや」
と、”あいまる”を抱きながら、笑顔で言っていました。

フラつく身体で、
"あいまる”をうまく抱けない私を元気付けてくれる言葉です。

先日、母親の一周忌の法要の時に、
お坊さんの法話で、
「老いを深める」という話をいただきました。

老醜や、さまざまな老いに愚痴を言うのではなく、
年老いて、耳が聞こえにくくなるのは、
いやな話を聞かなくて済むようにしていただいている。
老いて、物忘れが多くなっているのは、
なにも考えずに気楽に生かせていただいている。
目が見えにくくなっているのは、
嫌な世の中を、見ないようにさせていただいている。
感謝の発想。

壁を扉に変えて受け取れば、幸せな発想ができる。
すなわち、「老いを深める」という境地。
こんな話でした。

それを聞きながら、
「生きるのが、しんどい」
「私の周りには、誰もいてへん」
こう言う娘に、
「父さんは、おまえの病気のおかげで、長くいっしょにいられる」
「他の親子より、娘と長く共に生きられると思っている」
「ありがたいことやと思っている」
こんな話を何度もしたなあと、ぼんやり思い出していた。

苦しむ娘にとっては、空虚な話だったかもしれないけれど、
「壁を扉に変える」実践をしてきたなあと。

「苦し紛れ」そうだったのかもしれないけれど、
いろんな、娘との話し合いの中で、
父娘で、壁を扉に変える話し合いをしてきたなあと。

これから、実際に老いを深めていかなければならない私だと思うが、
娘とともに、老いも、苦しみも、深めて、味のあるものにしていこうと。

あらためて、考え、深められるように決意した法話だった。

姉娘の子供が抱けたら、どんなに嬉しいだろう。

前向いて、がんばろ。





669.美しい男気

2015.12.20 [ Edit ]

サッカーの先輩、うちのクラブで上から6番目のメンバー。
78歳のKさんが、亡くなりました。

真っ白で美しい白髪。
眉毛まで真っ白で、なかなかの男前。

子供のサッカー指導もされていて、
一回り以上も年下の私にも、優しく接していただいていた先輩。

私の息子も同じクラブでサッカーしていましたから、
「あれは、おまえの息子か?」
「礼儀正しい、ええ男やないか」
そんな言葉もかけていただいていました。

40歳になって、シニアの、このクラブに参加してから知り合ったので、
何の仕事をされていたのかも知りません。
サッカーのみの付き合いでした。

練習ゲームの休憩時間に話すだけ。
そんなサッカーのみの付き合いでしたが、
娘の病気のこと、息子が不良をしていたこと。
いろいろ、温かく、微笑みながら聞いてくださった、
「生きてる中には、いろんなことがあるわい」
そんなすべてを包むような答えを返してくださった、
温厚で優しい先輩爺ちゃんでした。

そんな先輩の訃報が入り、
全メンバーに訃報をメールで送りました。

通夜の会場にクルマで到着した時、
葬儀会場の玄関に、40歳代の後輩に似た男がおり、
「あいつとKさんには、接点あまりないよなあ」
「よう似た人が、葬儀屋の従業員にいてるんやなあ」
そんなことを考えながら、クルマから降りて、
会場に入ろうとした時、
その従業員だと思ってた人が、私に会釈を。

「あれっ? Mくん」
「なんで来てるの?」
失礼な声のかけかただったと思いますが、
彼と、故人は、あまり面識も無いはずだと思ったがゆえの失礼発言でした。
60歳以上のメンバーは、木曜日に練習会。
それ以外が、土曜日に練習会なので、
70歳代と40歳代は、あまり面識が無いものですから。

「Hくんから、仕事終わったら、顔だけ出そうと誘ってもらいましたので」
そんな答えが返ってきました。

Hくんは、40歳代のキャプテン。
男気のある、今風ではない、古臭さの残る男です。

二人に、
「Kさんて、あまり面識もないやろ?」
「話したことも、無いのとちがうか?」
「よう、おまいりしてあげてくれたな」

ちょっと感動してしまいました。

会社時代に、よく通っていた焼肉屋の店主に言われたことを思い出しました。
その店主、韓国のおばあさんで、
日本語は、片言。
その片言の日本語で、
「あのな、にいちゃん、人はな、嬉しい時は、ほっといてもええ」
「でもな、人が悲しい時は、必ず、とんで行け」
「悲しいときには、義理はたさんと、あかんぞ」
こんなことを、韓国なまりの日本語で言ってくれていたのを思い出しました。

会社を早くに辞めた私は、仲間に飢えているのかもしれません。
若いHくんと、Mくんが、通夜に来ていたことに、
「ありがたいサッカー仲間」
独り感動に舞い上がって、お礼のメールを送りました。

H君、M君、

そんなに深い付き合いでもない先輩の通夜に参列していただき、ご苦労様でした。

ちょっと、俺は感動しています。

葬儀会場の玄関に森本くんが、寒そうに立っているのを見て、
「よう似てる人が、葬儀屋の従業員におるんやなあ」と思いました。

近づくと、Mくんだったので、
「なんで来てるの?」
失礼な話ですが、知り合いであるはずも無いので、出た言葉がそれでした。

「Hくんが、顔だけ出しておこうと、誘ってくれたので」と、Mくんからの言葉。
Kさんは、俺の息子にも、よく声をかけてくれた、あまり多くを語る人ではなかったけれど、
人柄の優しい、いい先輩だった。
あの白髪のカッコええ爺さんだった。
祭壇の写真を見ながら、川村さんの優しい雰囲気を思い出しながら、
HとMの、侠気というのか、男らしい思いやり、義理堅さを強く感じ、
このクラブ、ええクラブやなあと、しみじみ感慨を持ちました。

Kさんも、「えらい若いのが、来てくれてるやんけ」
「Yよ、あの若いの二人は、誰や?」
と俺に声をかけて、聞いてくれて、喜んでくださってたんやろうと思います。

仕事が忙しいのに、義理堅く、お参りしてあげていただき、ありがとう。

こんなメールを舞い上がってしまって送ってから、
なんで黙って、ありがとうと思っておけへんねん。
アホなやつやな俺は。

そんなちょっと恥ずかしいような、反省ともなんとも言えない、
男らしさから、かけ離れた所作に、独り、照れを感じていました。

得意の、余計なお節介やなあ。
苦笑いしきりの、照れくさまじりの反省でした。

668.娘の社会との接点

2015.12.16 [ Edit ]

長い間、娘には社会との接点が無かったような気がする。
気がすると言うより、それは現実に、まったく無かった。

娘に、年賀状が届いたとき、
「これ、高校の同級生やろ?」
「おまえも、出しとかんとあかんぞ」
私が、こう言うと、

「もう、ええねん」
「私は、ひとりで生きていくねん」


心が傷ついていることに気づいてなかったので、
耳が聴こえにくいところを、こういう形で跳ね返していくのも、
強く生きていく方法なのかもなんて、思っていた。

それと、今になって、つくづく思うことは、
娘の歳が、重ねていくということに気づかなかったということ。

38歳になる娘が、
結婚、育児、母、家庭・・・
そんなものへの、あこがれ、羨望を感じることを、
想定できなかった父親がいたことなのかな?

これは、男の俺の、大きな娘への不足部分だったのだと思う。

こういうふうに書くと、
男女差別なんていう、難しい指摘をされるのかもしれないけれど、
単純に、俺としては、女の年代区別というか、
女性としてのターニングポイントみたいなものは、
男のそれよりは、複雑で多岐なもののように思う。

「私は、恋もしたことないし」
「結婚も出来へんやろ」
「もう、子供も育てられへん」


娘がこんなことを、娘がこういうふうに考える時が、
すぐそこに、あるものだったということ、
まったく、気づいていなかった。

先日、パソコンを整理していて、
アルバムに残っている写真を、なんとなく見返していて、
ほんの数年前、娘といっしょに、神社仏閣めぐりをしていた写真を見ながら。
あの時、まったく、こんなこと考えてなかったなあと、
反省というものでもなく、悔恨というものでもなく、
どこか、すごく、寂しい気持ちに襲われ、
時を戻してくれと、叫びだしそうな自分に出会ったものである。

未来永劫、俺と娘は、共に生きられる。
助けていってやれるものだと思っていた。

癌になり、脳梗塞になって、
娘に助けてもらっていたり、
娘に、俺の身体を気遣わせたりしていること。
俺自身の寿命に気づきだしていること。

突きつけられている現実に、突然、気づいた、今日この頃だからなあ。

娘の社会との接点は、唯一行けるところの、
パチンコ店にしかない。

なにもかも、世の中のすべてが汚いものなのに、
パチンコのハンドルは、触れるんや。
この不可思議。
でも、これは、責められないもの。
唯一の開放。
そんなものであり、唯一、気持ちを助けられるものであるから。

そんなパチンコ店で、
真面目そうな、いつも作業服姿の、娘と同年代の男性と、
何度か、娘が話しているところを見た。

黙って気づかないフリをしていたのだが、
娘が、
「あの人、九条ねぎを家族で生産して、販売までやってるんやて」
「この間、雨のとき、クルマで家まで送ってもらったんや」


何も言わず、ニコニコ聞いてやっていた。

そんな、ある日、娘から、
「アドレスと電話番号、教えてもらったわ」

そういうことへの免疫の無い娘の失恋は、
とても辛いので、そういう進展に対しての、
実は期待感もあるんだけれど、
なんとなく過ぎ去ってほしいなあとの複雑な思い。

しばらく経った日に、
「私と、付き合っても、ええって言うてくれはった」
こぼれる笑みでの、報告を受けた。

その次の日から、もう一ヶ月になる。
彼は、パチンコ店に、姿を現さない。

どうなるんやろ?
黙って、ドキドキしている俺に、娘が、
「病気のことも、耳のことも話したから、逃げられたのかな?」

答えられずにいる俺に、

「心配せんでええで」
「私、別に落ちこまへんし」
「ちょっと悲しいけど、そんなに苦しいこともないし」
「年末で、仕事が忙しいのかもやと思ってるし」
「逃げられたとしても、ゆっくり、慣れていくようにするしな」


私から見ても、スレていない38歳。
少女のような感性の娘なので、
普通の女の子の、男女の駆け引きみたいなものとは、
縁遠い、純真そのものの感性の娘なので、
恋に破れることへの免疫なんて持たないものだと思っていた。

38歳なりの、心の強さみたいなものは、あるんやなあ。

変な感心。
寂しく、哀しい安堵。

そんなものを、私の苦しい、哀しい心が感じていた。
娘の、数少ない、社会との接点の話だった。






667.聞いてください涙の感動

2015.12.07 [ Edit ]

今日は、娘のことではなく、自分自身の素晴らしく嬉しい話。
まあ、最近というか、しばらく、ここでの話は、
俺の思いを吐き出すという話題が多かったと思いますが、
今日は、特別に嬉しかった俺の報告です。

本日の素晴らしい同点ゴール
おめでとうございます(^0^)/
お祝いのおすそ分けが未だ届いておりませんが………
これを機にVへの復活を期待しています
アシスト M


Mさんは、サッカーどころ静岡出身の二学年歳上の63歳の先輩。
Vへの復帰のVは、60歳代のクラスの呼び名。
Rはロイヤル70歳代、Vはヴェテラン60歳代、Aはアダルト50歳代、Bはボウイズ40歳代。
こんな年代のクラス分けがあるんです。
Vへの復帰は、M先輩から、60歳代に帰って来いとの温かい言葉です。

今日、毎年年末に招待していただいている、
県内のクラブチーム主催の大会に参加。
70歳代、60歳代、50歳代、40歳代の各年代で、
クラス別にエントリーしてあったので、
私は、例のごとく迷惑かけないように、裏方として参加しようと、
参加費の支払いもあるので、寝ぼけ眼をこすりながら、早めに出発した。

70歳代の先輩から、
「おまえも、70歳代のメンバーとして試合に出ろよ」
と、声かけしていただいていたので、一応、試合に出られるように、
ユニフォームは着て、準備はしていったのだが、
昨日の練習会の後、練習グランドのある公園の階段80段を、
上下3往復、リハビリの為の昇り降りしたので、
麻痺してる上に、太ももが筋肉痛で、その上、気温が低く麻痺がきつい。
ほとんど走ることは出来ないので、今日は、あかんなあと思っていた。

60歳代の試合が、一試合目、いつものとおり、羨ましく応援し、
70歳代の試合が、その次の二試合目、
70歳代のキャプテンの先輩から、
「後半に交代して出場やぞ」と言われ、後半に出してもらったが、
思ってたとおり、足が動かず、これは迷惑になると、
5分も参加せず、交代してもらった。

やっぱりあかんなあと、心の中でうつむいていた。

もう一つの裏方の仕事では、
各クラスのメンバーが足りず、ギリギリの状態だったので、
4クラスともゲームが出来る人数になるよう、
メンバーの貸し借りの調整。

60歳代のメンバーが当初は十分足りていたのだが、
肉離れで参加できないメンバーが二人発生、
日本サッカー協会の役員をされている先輩が、
J1への昇格プレーオフの為、一試合目が終わったところで帰られ、
ゴールキーパーを70歳代から応援してもらったが、
どうしても一人足りなくなり、
「立ってるだけやけど、俺が出るわ」ということになった。

二試合目は、京都の60歳代との試合。
京都のチームは、何度も対戦しているので、
顔見知りの方ばかりで、朝一に「身体の調子はどうや?」と、
暖かい声をかけていただいた長年のサッカー仲間。

試合前の両チームの挨拶の時にも、
「おっ、試合にでるんやな」と笑顔の挨拶、
「がんばれよ」の握手をいただいた。

試合が始まり、二年ぶりの同年代の仲間とのゲーム。
足が動かないとか、言い逃れ、逃げ口上は封印して、
迷惑かけんように、恥ずかしくないように、
仲間に声をかけ、守りは、あまり出来ないので、
攻めに貢献できるように、必死で動き、ついていっていた。

京都に一点シュートを決められ、
身体が覚えている雰囲気を思い出して、
なんとか、反撃しようと、パスをもらい、パスを出し、
頑張れていた満足感があった。

そんな時、全体が攻めあがっていたときに、
メールを送ってくれたM先輩が、
右サイドからグランダーの横パスを出してくれた。

その一瞬、パスを出す味方がいない、
ゴールまでは、すこし距離があるし、
軸足の左足が麻痺で踏み込めないので、シュートする自信がない。

「えーい、いってまえ」思い切ってシュートした。
右隅を狙って、振りぬいたシュートが、いいコースに飛んだ。
ゴールキーパーが手を伸ばして飛んでも届かない。
右のサイドネットにボールが飛んでいって入った。

脳梗塞発症から、二年目のシュートが入った。

同級生のフォワードのあいつの祝福の笑顔が目に入った。
シュートを入れたときの喜び方、忘れてしまっていた。
なんか、ぎこちなく、はにかんだように喜びを表現していた。
振り返ると、後輩たちが、喜び、祝福してくれている姿が目に入ってきた。

「いつか、もう一回、シュートを入れてみたい」
「試合の中で、ガッツポーズがしてみたい」
大げさかもしれないけど、夢だった。

ハーフというポジション柄、
シュートを入れて、大げさに喜ぶのは、あまり好きでないというか、
渋く、カッコつけたいタイプの俺なので、
そんなにオーバーな表現は、若い時からしていないのだけれど、
心の中では、喜び爆発だった。

試合でシュート入れたら、きっと泣いてまうやろうなあ。
そう思っていたけれど、ぎりぎり涙は我慢できた。

M先輩のパスから、俺のシュートが入るまで、
ほんの10秒くらいの出来事に、これだけ心が動いた物語。
後輩たちから、「ええシュートでしたね」たくさん祝福はもらったけど、
誰にも、解らないやろうなあと、この俺の気持ち、そう思っていたけれど、
M先輩から、こんな暖かいメールが届いた。

クラブメンバー総勢110余名。
その中で、裏方、まとめ役をしていると、
「偉そうな先輩」「生意気な後輩」「うっとうしい奴」
そんなふうに思われてるんやろうなあと、
反省したり、後悔したりすること、たくさんある。

このメールを送ってくれたM先輩は、
どちらかというと、寡黙な方で、
サッカーに関しては熱い人だけれど、普段はおとなしく、
気持ちの繊細な方なので、いつも厳しいような発言をする俺に対し、
「生意気な後輩」だと思ってはるのと違うかなと思っていた。

ちょっと寂しいけれど、皆をまとめる為には、
嫌われ者になることも、仕方なしとあきらめている俺には、
この優しい、暖かい、思いやりのこもったメールに、
「このアドレスは、Mさんからのメールやなあ、なんやろ?」
と思いながら、メールを開いた瞬間に、やられてしまいました。

涙が止まらなくなってしまいました。

「ありがとうございます、ありがとうございます」
何度も、何度も、感謝の言葉を心の中で繰り返していました。

サッカー最高、先輩最高、仲間バンザイ。
「生涯現役」さらに目指して、生きていきます。

666.娘の発症の原因、その反省

2015.12.03 [ Edit ]

先週の日曜日、60歳代のシニアサッカー大会。
近畿一円のチームを、我がホームに迎えて開催した。

残念ながら、俺は、まだ60歳代の試合に出る自信は無く、
それでも、「やめんとこ」と思っているサッカーなので、
ホストとしての裏方での参加。

準備諸々と、審判なら出来る。
試合開始の両チームの挨拶のとき、
「レフリー、足が少し不自由なので、あまり走れません」
「遠くで判断してしまい、迷惑かもですが、お許しを」
そんな言い逃れを冗談風に言いながらの審判だったが、
元気なときの俺を知ってくれている他府県の仲間から、
励ましを受けながら楽しい時間だった。

そんな時間をすごしていた時、
69歳の先輩、大学時代に日本一になったこともあり、
サッカーマガジンに「K大学T選手のタックル」という特集で、
分解写真が掲載されたこともある往年の有名選手で、
俺の高校時代、コーチとして指導もいただいた神様の先輩から、
「ちょっと来い」と声をかけられた。

「身体の調子は、どうや?」
「ちょっと動けるようになったみたいやな」
「おまえが俺は、かわいいし、好きやから言うねんけどな」
「病気になるまでのお前は、時々びっくりするほど、
 厳しすぎることを、後輩や、時には先輩に言うてきたやろ」
「お前の言うてることは、間違いでは無いんやけど、
 ちょっと厳しすぎると俺は思ってきたんや」
「どんな失敗、間違いした奴にも、逃げ道は作っておいてやらんとあかん」
「身体が不自由になって、ちょっと丸くなってきたなあと思って、
 よかったなあと俺は、思ってるんや」
「お前が病気になって、不自由になって、ざまみろと思ってる奴もいると思う」
「こんなん言うたらあかんのやろうけど、正直そう思うんや」
「指導的立場にいるお前も、俺のかわいい教え子やからなあ」
「冷静になって、ゆっくりな口調で、指示、指導していくようにせいよ」
「険しい言葉より、優しい言葉で教えることのほうが耳に入るからなあ」
「仲間は大切なものやからな」


62歳のおっさんでも、先輩は神様なので、
中学生や高校生に教えるような口調は、当たり前であり、
ありがたく、真摯に頂戴したお言葉だった。

それと同時に、
サッカーの仲間うちの話だけでなく、
娘のことが思い浮かんできた。

娘の病気がはっきりしたころ、
まだまだ、父親として自信満々だったころの俺に向かって、
「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
娘に言われたことを思い出した。

「ざまあみろ」そう思っている後輩もいると思うぞ。
まったく考えてもみないことだった。
でも、そうかもしれん。

「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
この娘の言葉に、ショックを受けたことを思い出した。

「ええ父親」
「ええ先輩」
子供のことを精一杯考えてきた。
後輩の為を思って、厳しいことも言ってきた。
そんな自信。

でも、これは、俺の「独りよがり」。

この「独りよがり」が、娘を神経症に導いてしまったのかも?
そんなことを、今更考えても仕方ない。
仕方ないのかも知れないけれど、
後悔してしまうし、仕方の無い今更の反省をしてしまう。

62歳、もう終いに近づいているのかもしれんけど、
開き直らずに、素直に反省していこう。
残された時間が少なかろうと、反省しながら歩んでいこう。

そんな有難い先輩のかけてくれた言葉だった。

665.「弟が汚い、弟が嫌いや」

2015.11.07 [ Edit ]

幼い頃から、弟と妹は、いつもいっしょに遊んでいた。
姉と仲が悪い訳ではない。
姉がいて、仲のいい弟と妹がいて、
三人は仲のいい姉弟妹なのである。

兄として、いつも妹をつれていた。
自分の友達と遊ぶ時も、妹をつれていった。

こちらも、姉ちゃんが嫌いなわけではなく、
なんというか、姉は、姉のポジションに拘っていたような気がする。

高校生くらいになってから、また、それ以後も、
姉として、というところに拘っていた気がする。

「弟と妹の為に」
姉には、こういう縛りがあったような気がする。

それとは違って、弟と妹は、自然な兄妹。
そうやったんやろうなと思う。

ただ、私から見ると、それぞれのポジションでの思いやり、
優しさ、仲の良さがあって、いいバランスの3人姉弟妹だったし、
普通の、当たり前の、大切な微笑ましい子供たちだった。

姉が強迫症になってからも、
理屈に合わない無茶なルールに黙って従い、
姉の嫌がることは、絶対にせず、
姉が生きやすいように協力してきてくれている。
二人とも、「してやってる」という言葉も態度も出したことはないし、
ありがたいことだと思っている。

ただ、姉は、自分の生き難さから、
仕方はないのだけれど、より高い要望を出してくる。

弟が、切れてしまわないかと案ずるところはあるが、
もう20年近く、黙って従ってくれている。
トイレに入れば、黙って風呂に入るし、
姉の機嫌が悪いときは、もう少し、居間にいたいだろうと思っても、
さっと、気を使わせないように自分の部屋に入る。
もちろん、家に玉子が無いのも当たり前として受け入れ、
玉子が食べたいとも言わず、
姉が、恋人を家に入れるのが嫌だと言えば、
彼女とは外でしか逢わない。

親が言うのもおかしいが、
よく我慢してくれている優しい弟だと思う。
姉にとって、感謝するべき存在であると思う。

ただし、これは、姉娘を悪く言っているのでは、けっしてなく、
姉娘本人が言っているのではなく、病気がこれを言わせている。
そんな認識は、もちろん持っているものではある。

「ユキは大好きやし、いろいろ助けてもらってるのは、よく解ってる」
「私が、しんどい時、ドライブに連れ出してくれたり」
「知らん顔で、お姉、どこか買い物でも行こう、
 そう言って、連れ出してくれて、気分を変えようとしてくれた時もある」
「でもな、ユキが外で彼女とご飯食べて帰ってくると、
 何を食べたんやろって考えてしまうねん」
「外で食べるものには、ほとんど、玉子が入ってるから、怖いねん」
「悪いなあと、思うんやけど・・・」


こういうふうに、悲しそうな顔をして、娘が訴える。
どうしようもなく、どう返事してやっていいかも解らない。

どこかに部屋を借りて、一人住まいするか?
と、提案したこともあるが、
「私は、この家にいない方がええのかなあ」
という考え、発言につながってしまうし、
38歳の姉と、36歳の弟の関係ではないのかもしれないけれど、
うちの家では、こういう関係が、当たり前というか、
仕方のない関係性とでも言うべき通常なのではある。

お互いに爆発してしまわないことが、
姉弟の美しき関係性なのだと感謝している。
「我慢と思いやりの融合」
きっと、そんなものでバランスをギリギリ保ってくれているんだろうと思う。

「弟が汚い」
「でも、弟は大好き」
「弟は、ありがたい存在」

そんな話では、あるのだが、

極端に、そう、極端に、
「弟が嫌い」
ほんとに、超極端に、
そんなことになることもある、心とは裏腹にである。
難しい話である。

何年、考え続けてきても難解。

とても、とても、難しい話である。

664.爺さん救命の不思議な涙

2015.11.04 [ Edit ]

10月31日から3日間、広島へサッカー遠征。
二度の入院を挟んで、2年以上のリハビリ生活があり、
プレーはできなくても、なんとか事務方で参加できるかと、
一員に混ぜてもらった。

添乗員兼、マネージャー兼、監督。
そんなポジションでの参加だったけれど、
プレー出来ない寂しさにも慣れて、
落ち込むことも、マシになったし、
走れない以外は、前の私に戻れたのかなと。

マイクロバスで4時間、
車中も楽しく、仲間の笑いの中、
おっさん達の修学旅行。

50歳代の大会だったが、
50歳代が少なく、先輩3人を含めて60歳代が6人。
なので、私の年代の仲間の、
スポレク(廃止になった50歳代の国体みたいな大会)の再来。

4試合したが、シニアの試合は若ければ強いというようなもの。
メンバー表を提出し、相手チームのメンバー表をもらって、
対戦相手は、1960年代の生まればかり、
我がチームは1950年代ばかり、
50歳過ぎのチームと60歳過ぎのチームの対戦。

初戦、2戦目は敗戦。
3試合目にやっとの思いで1勝。
4試合目も負けて、それでも4試合ともベンチは笑いの渦で、
おっさん達の青春そのもの。

二泊三日のスケジュールはあっという間、
50から63歳までの17人が、
夕食の宴会の後、宿舎の一部屋に集まり、
サッカーについて、それぞれの仕事について、
夜中まで酔いながら熱く語り合い、
睡眠不足をものともせず、翌日元気にサッカーをする。
そんないつもの遠征風景。

三日目の最終試合を終え、
会場グランドに隣接するスーパー銭湯に全員で入った。

私はサッカーしていないので、
入浴の必要は無かったけれど、
気温が低く、身体の麻痺がいつもよりひどかったので、
温まろうと、それに添乗員は皆の入浴料金を支払う必要もあったので、
一緒に入った。

後輩と、浴槽につかって身体を温めていた時、
私の向かいに浸かっていた爺さんが、
80歳は超えているだろう爺さん、
浴槽で立ち上がって、しばらく、じっと立っていた爺さん、
よろっとバランスを崩して、
危ないぞっと思っていたら、
今度はグラッとコケかけて、
次に、ゆっくり倒れこんだから、
急いで、助け起こして、

「おっちゃん、大丈夫か?」
最初はうなづいていた爺さん、
だんだん意識が朦朧と。

近くにいたおじさんと私が、爺さんを両脇から抱えて、
浴槽の階段を3段、浴槽から出してあげたが、
私も階段は、一人でもよろめくので、
自分の中で、「麻痺が麻痺を助けてるようなもんやなあ」苦笑い。

いっしょにかかえてるおじさんに、
「そこの椅子に座れせよう」と。
でも、椅子に座れせようとした時は、もう、
爺さんの意識が無く、
足にはまったく力が入ってなくて。

そこに、いっしょに風呂に浸かっていた、
医師である仲間がよってきてくれたので安心してると、
いろんな裸のおじさんが、ああだこうだと声かけしてくる、
いろんな声を制して、
「この人、お医者さんやから」と。

「救急車、呼んでくれ」の私の大声に、
仲間の一人が、フロントに裸で走って行き連絡。

爺さん意識無いでと焦っていたら、
仲間の医師が、爺さんの腹が動いているのを見て、
「呼吸はしてるし、大丈夫」
「風呂の中より、外で寝かして」
と、さすがの冷静で適切な指示。

どこに寝かせてあげようと考えてたら、
また仲間の医師が、「担架を持ってきてあげて」。

時折、うっすら意識が戻る爺さんに、
「お名前は、だれかといっしょに来てますか?」
冷静に聞いてくれてる。

一番近い私が、もう一度、爺さんの耳元に、
「おっちゃん、名前は?」
「だれかといっしょか?」
大きな声で聞くと、

「家内と・・・」
「わたなべ・・・」
か細い声で。

職員に、
「奥さんが女風呂にいるから、連絡してくれ」
「この人、わたなべさんやから」と。

そこで、仲間の医師が、
顔色良くなったし、脈も大丈夫やから、
もう大丈夫でしょうと。

その声で、
我がクラブの裸の救出劇は終了で、
風呂に入りなおして、幕を閉じた。

風呂から出るときに、
奥さんが付き添って救急隊員に運ばれて行く爺さんを遠めで見送った。

仲間の一人が、
「救急車来たから、Yさんかと思ったで」と、
私を心配してくれたらしい。

「違うわ」と、爺さんの件を話そうとした時、
なんか不思議に、涙が出そうになって、

「なんやねん、これ?」と心の中で。
その後も、バスに乗るまで、何度も、
鼻が、きな臭くなって、嗚咽がもれそうな、
涙が出そうな、不思議な感覚。

爺さんが倒れたことを、自分に重ねてるのか?
爺さんが無事運ばれたことに感動してるのか?
まったく自身で理解できない嗚咽寸前の状況。

話そうとすると声がつまり、
涙が出そうになるような不思議な感覚。

「これって、俺も爺さんやからかなあ?」
「死ぬことに対して敏感になってるのかなあ?」
「まったく、意味わからんなあ」

そんな、クラブの仲間たちの、
遠征の締めくくり、
爺さん救命劇だった。

そして、私の不思議な感覚。
年寄り特有の感覚なのかなあ。

663.親友の死、突然の別れ

2015.10.07 [ Edit ]

息子が不良少年になっていた時、
「どうしてやればええんやろ」ではなく、
「どうしよう」と一人称で考えてくれていた、
サッカーの後輩が突然亡くなり。

そして、今度は、また、
俺と同じ視線と、同じ態度で娘と接してくれていた、
高校からの45年の付き合いの親友と呼べる男の死。

癌になり、脳梗塞を発症し、
いろんな麻痺で息を吸うことが、うまくできなかったり、
何気ない自由な行動が思うように出来なかったり、
「寝ている間に、呼吸できずに死んでるのじゃないかなあ」
なんてことを、日常に考えるようになった俺ではあるが。

病院で出会ったときに、
「なんで、病院に来てるんや?」
「糖尿の調子が良くないので検査や」
なんて会話をしても、
「そうか、また、ヒマな時、電話してくれよ」
なんて、お互いが死ぬことなんて考えもしない二人だった。

確かに、お互いに、
「まだ死ぬなよ」なんてことは言いあっていたが、
彼からも、
「不自由になっても、寝たきりになったわけじゃなし、
 無理せずに、くよくよせずに、ゆっくり生きたらええ」
なんて励ましをもらい、
「糖尿は、運動も必要なんやからパチンコばかりしてんと、
 散歩したり、健康にも気をくばれよ」と、
私からも、言ってはいたけど。

現実に、お互いがいなくなることは、考えていなかったと思う。

息子さんからの彼の死の知らせに、
とにかく急いで、家に行って、彼の寝かせられてる顔を見に行った時も、
私の感覚は、彼の死の現実ではなくて、
彼から「お茶でも行こうか」と誘われて、家に行った感覚だった。

寝かせられている、彼の顔の周りにドライアイスがあっても、
「おい、オタ、起きろよ」
「パチンコ行こうか」
なんて声をかけて、笑いながら大きな声で、いつものように話しかけていた。

勤めていた葬儀場の祭壇の前の棺に納められた彼を見ても、
まだ現実を受け止められずにいて、
通夜が終わり、葬儀に、もう一人のこれも親友と呼べる友人が、
葬式の始まる前の時間に、家に迎えにきてくれて、
葬式の会場に向かう時、
こんな時は、オタも誘い合って、必ずいっしょに行ったのにと考え、
式場について、祭壇にオタの写真がかざってあるのを見た時、
「おかしいやろ」と、
突然、怒りのような不思議な感覚が沸いてきて、
「あかんやろ、こんなん」と、
大きな独り言が出た時、
「仕方ない」と、
いっしょにいた親友が、なにかを堪えたような声で、
これも、私に言うようでもない独り言のようにつぶやいた。

それから後は、あんなこと、こんなこと、
いろんな思い出が、湧き出してきて、
「これって、耐えられるんかな」みたいな、
胸の締め付けが続いている。

オタとは中学も、高校も違う別の学校で、
どうして友達になったかというと、
高校一年の時、
サッカー部の同級生が、二年生と喧嘩をして、
オタが通っていた高校の、一年生で一番の奴に助けを求めて、
一番というのは、今は私語になってしまっている「番長」的な強い奴のこと。

その喧嘩が大事になって、
JRの駅前で、オタの高校と、うちの高校の、
一年生と、二年生が、一触即発状態のにらみ合いになっていた時、
うちの高校の教師が警察に通報して、
警察が出動してきて、にらみ合ってた中の誰かの、
「逃げろ」という掛け声で、集団がバラバラになってしまい、
その後、自然解散みたいな形で、帰ろうとしていた電車の駅で、
出会ったのが初めての出会いだった。

今は見ることが、ほとんど無くなった、ボンタンの学生服を着て、
怖い顔をしていたオタに、
「おまえ、K高校やろ、どこから通ってんねん」
私が声をかけたのが、長い付き合いの始まりだった。

聞くと、家が私の近所だったので、
それからは、お互いに連絡を取りあい、
学校に行く前に、待ち合わせて、喫茶店でタバコを喫い珈琲を飲み、
お互いの学校へ出発するというような仲になり、
同じバイトをするようになり、
私が乗っていたオートバイの後ろに彼を乗せてバイトに通ったり、
彼は、就職し、私が進学しても、
ヒマがあれば、何をするというのでもなく、
いっしょに遊んでいた記憶が、いろんな、かわいい悪さの記憶がいっぱいある。

昭和の匂いがプンプンする、青い思い出が、彼とは詰まっている。

軍歌「戦友」の一説にある、
”思えば去年、船出して、御国が見えずなった時、
玄界灘に手を握り、名を名乗ったが初めにて、
それより後は、一本の煙草も二人分けて喫み、
着いた手紙も見せおうて、死んだら骨を頼むぞと、
言い交わしたる二人仲”
そんな戦友だったように思う。

お互いの結婚も、子供が生まれることも、彼の転職も、
何から何まで、45年間、共にすべてを見ながら、
お互いの悩みや苦しみや、悲しみも共有して生きてきた。

特に、娘が、強迫性神経症になってから、
彼の優しさや思いやりには、今、本当に感謝している。
「感謝」こんな短い言葉で表してしまうのは、
許せないと思うほどのありがたさ、
それと、なんとも言えない、得体の知れない悔しさみたいな重い感情。

麻痺した身体を思って、悔しさを打ち明けた訳でもないのに、
「くよくよ考えるなよ」
「それより、お茶でも飲みながら、なんでもない話でもしよう」
そう言って、仕事中に家に誘いに来てくれたオタだった。

葬式の帰り、もう一人の親友、平井が、
「死ぬなよ、おまえ」
「オタがいなくなって、おまえもいなくなったら」
と、後に続く言葉を消して、そこで終わりよった。
彼も、俺と同じ感情に立ち向かっているようだった。

苦しいので、書くことによって、思い出すことによって、
紛らわそうとしている、青い思い出話。

短い一生、残りの生きる時間、
これを大切に生きんとあかんと、
俺にも、必要としてくれている人があるんやと。
そう思いながら、がんばらなあかん。

オタよ、
「俺は、もうしばらくは、がんばるからな」














662.オタのおっちゃんの死

2015.10.06 [ Edit ]

62歳、私の同級生の大谷。
50年近く付き合ってきた友人、大谷なので、オタと呼んでいた。
そいつが亡くなった。

オタから、携帯に電話があった。
朝方に寝た私は、ほんとに仲の良い友達なので、
寝ぼけまなこで、携帯の着信の名前を確認して、
「オタか、また後でかけよう」
そう思って、もう一回、眠ってしまった。

それから数時間寝て、目が覚めた時、
別の友人から携帯に着信。
電話に出たとたん、「オタが死によった」と。

「冗談言うな、さっき電話がかかってきたわ」

それは、オタの息子からの連絡だったとのことだった。
テレビを見ながら、死んでいたらしい。
急性心筋梗塞で、前日はゴルフに行っていたらしい。

娘の病気を理解してくれている数少ない友人の一人で、
娘をさりげなく気遣いながら可愛がってくれ、
見守ってくれた奴だった。
パチンコが大好きで、ヒマがあればパチンコに行っていた。

娘がパチンコに行けるようになったころから、
パチンコ屋で出会うので、
「どういうふうに接してやったらええねん?」と、
私に聞いてくれて、
「娘に触れないようにしてくれ」
「それと、病院に行ってきた時は、言わないように」
「トイレは、隠れて行ってくれ」
「おまえの仕事の内容は内緒にしてくれ」
そんな、訳の解らないしばりを、
「わかった」と、何も聞かずに、しばりを守ってくれた。

もちろん、娘に、どんな症状があるかは、
都度、聞いてくれていたので、
そんなことを理解してくれてのことだったけれど、
なかなか理解してもらえない神経症のことだから、
親でも、わからないことが多いところを、
よく理解してくれていたと感謝している。

娘が「オタちゃん」と呼んで、仲良くしてもらっていた。
缶コーヒーを買ってやってくれて、
それを手に持ち、「智沙、飲むけ?」と聞いてから、
娘が飲むと言ってから、渡してくれるという、
親がしていると同じ気遣いをしてくれていた友人だった。
娘が安心して接しられる希少な「オタちゃん」だった。

オタは葬儀屋に勤めていて、
葬式のコーディネーターが主な職務だったので、
「病気や死」と結びつくものである為、
娘には、その仕事を最初は隠していたのだが、
少しずつ、その仕事を娘に理解させるようにしていき、
時間をかけて、葬儀屋の仕事を、娘にオッケーにさせ、
今は、まったく大丈夫になり、
彼の勤める葬儀場にも平気で入れるようになっている。

ある意味、反応暴露治療を共同でしてくれたようなものなのかなと思う。
そんな言い方より、なにより、
真心ある優しさみたいなもので娘を元気づけてくれていたと感謝している。

そんな「オタのおっちゃん」が亡くなったことに、
かなり娘はショックを受けているが、
私のショックも大きいのがわかっているので、
その話題を出さないようにしている様子だ。
そうではなくて、実は、
現実を見つめるのが辛いというのが本当のところかもしれない。

葬式から帰ってきて、
「オタの棺に、パチンコのプリペイドカードを入れてやったわ」
と話したときも、
寂しそうな笑顔を一瞬みせただけだった。

父さんが死んでも、オタのおっちゃんに頼ったらええと思ってたのに、
先に死なはったなあと、寂しそうに言っていたので、
私自身も、そんないろいろを思い出して、
苦しくなってきているところではあるが、
娘と、寂しさと悲しみを共有して乗り越えようと思っている。

最後に、こんな娘との共闘を与えてくれよったのかなあと思っている。

ありがたい友人に、大きな感謝。
そして黙祷。
合掌

661.ラグビー日本、感動感謝

2015.10.04 [ Edit ]

ラグビー日本代表のサモア戦。
地上波で観て、BSでも二回目を観て、
10試合分の涙を流させてもらった。

サッカーはプレーして楽しむことが好き。
ラグビーは見て楽しむのが好き。
ラグビーをするのは、ちょっと恐ろしくて、
でも、あの男らしさカッコ良さには、憧れがある。

ラグビーの好きなところ、
先ず、監督がグランドにいないところ。
人に指示を受けて動くより、
仲間たちで決めて動くラグビー。

もちろんシステムや方針の決定は監督の仕事ではある、
しかし、試合になると、
グランドに出ると、
純粋な“ONE FOR ALL,ALL FOR ONE”。
そんなラグビーの精神に憧れみたいなものを感じる。

サッカーの監督もグランドにはいるが、
この部分は、同じものだと思う。

野球文化の多くの日本のアナウンサーは、
監督の采配という言葉が好きなのか、
交代選手が出てくるときにも、
「流れを変える」みたいな効果を求める発言をする。
間違いではないが、ちょっと含みが違うところがある。

ラグビー、サッカーの監督の仕事は、
試合までのプロセスでの影響力にウエイトがあって、
チーム全体の力を、より出せる為の、
選手の特徴、長所短所を把握したり、
このチームには、どんな攻め方、守り方が有効なのか、
それを見極め、活用することに監督の手腕が必要なのだと、
俺は考えている。
きっと、違う意見の人も多いのだろうけれど。

ラグビーとサッカーは、
同じ親から生まれた兄弟のようなものだから、
とにかく若い頃から、親近感が強く、
サッカーの次に好きなスポーツは、ラグビー。

たしか、イングランドには、
サッカーの代表選手であり、ラグビーも代表選手だった、
というような選手がいたような記憶があるけど、
俺の記憶違いかもしれないかも。

サッカーの高校選手権よりも、
ラグビーの高校選手権の方が、
たくさん観戦に行っていると思う。

場所が花園というのもあるかなあ。
それと、なにより、俺は山口良治ファンなので。
歌手や俳優にファンなんて感情を持ったことはないが、
伏見工業の山口良治監督は好きやなあ。
古き良き日本の男みたいなものを感じて、
唯一の俺がファンになった男だと思う。
いや、違うかなあ、“「北の国から」の五郎さん”がいるなあ。

脱線を戻して、今日のサモア戦、
ONE FOR ALLの極致みたいな試合だった。
きっと、また、日本のマスコミは、
五郎丸にウエイトを置いた報道をするんやろうけど、
ピッチャーで4番が好きやからなあ。

五郎丸も一員というふうにしてしまうと、
なかなかドラマが作れないから仕方ないのかもやけどな。
まあ、マンオブザマッチに値する活躍やったからなあ。

田中からの展開での山田の反転してからのトライ。
痺れさせてもらった。
まあ、素人の俺の見方も、
ヒーロー探しになるということやな。

とにかく、最近、歳をとったからか、
涙腺が非常にもろい。

その山田が、勇気ある低いタックルで、
頭を蹴られて担架で退場していく時も、
五郎丸が、角度のあるゴールキック決めた時も、
日本のスクラムがサモアを押し込んでも、
試合中ほとんど、涙が止まらなかった。

カッコ悪いから、少し言い逃れしておくと、
わぁと泣いてるわけではなく、
ウルウル、じわじわ涙が出る、
鼻の奥に火薬の匂いが充満する、
そんな感じの涙なので。

でも、いっしょに観ている娘から隠れるのが、
忙しかったです。

ちょっとラグビーとは違う話ですが、
地上波のローカル放送局で、
最近、“キャプテン”というアニメ番組を再放映してて、
俺は、この“キャプテン”と“プレーボール“という漫画が好きで、
たしか、月刊と週刊の少年ジャンプで連載されていた時、
欠かさずに読んでいた野球漫画で、
この野球チームには、監督がいなくて、
ここにも“ONE FOR ALL”が存在するものだから、
好きだったのだと思う。

録画してある“キャプテン”を見ていた時、
延長18回に逆転ホームランを打って、
疲労で倒れて走れない、後にキャプテンになる、
イガラシ君を、相手の監督がキャッチャーに、
助けてやれと声をかける場面で、
不覚にも涙腺が壊れてしまって、
娘に見られてしまった。

「テレビ番組も昭和やけど、観てる親父も昭和やなあ」と、
「確かに、ウルッとくる場面やけどなあ」と、
大笑いされてしまったという話。

こんな気持ちのいい、単純な感動も、
難しい人生の中、たまには、あってもええもんや。

そんな、“桜のジャージ”の大男たちに、
泣かされた話でした。



最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

最近のトラックバック

カウンター

プロフィール

一人の父親

Author:一人の父親
強迫性神経症(強迫性障害 | OCD)と闘う父親の日記。画像は娘が描いたものです。

囲炉裏端(仲間の集い場) 

ブログ内検索

RSSフィード

リンクと読んでいるブログ