ミニマリストのパブリックイメージは「なんにもないすっきり部屋に厳選した上質なものを少しだけ持つ豊かな暮らし」になりつつある。少なくとも、ミニマリスト本ではそのように演出されている(TVはちょっと違うようだが)。当然といえば当然だ。「憧れる」要素がなければ訴求できない。そして「真似できる、真似したいと思う」ことも重要だ。不要なものを捨てること、お気に入りのものを買うこと、はバックパックひとつで世界に出るよりはるかに容易い。
ミニマリストの多様性についてはたくさん言及があるし私も多少書いてはいるものの、
いちいち「ミニマリストというと◯◯のような生活を想像されるかもしれませんがミニマリストにもいろいろありまして私の場合はこれこれこういうミニマリストです。」などと説明するのは面倒だしキリがないし、全然シンプルじゃない。
もっとも簡単な回避方法は、ミニマリストを名乗るのをやめることだ。
私はもともと「ミニマリストを知ってミニマリストになった」わけではない。
ミニマリストという言葉ができたから、利用したにすぎない。(要するに便乗です。笑)
ミニマムになろうと思ったのは今から約7年前。当時はまだ「ミニマリスト」という言葉は知りませんでした。
私は「ミニマリスト」という言葉が現時点でいちばん自分の考えに近いし、キャッチ―でわかりやすい、という理由で積極的に「ミニマリスト」と言っています。
それでもミニマリストを自称する。私がミニマリストを名乗るわけ - ミニマリストの小宇宙
ミニマリストが世間に広まりつつある今、「ミニマリストを名乗る」ことで、かえって自分の思いが伝わりにくくなっているのではないだろうか?
持ち物が少ないことはすごいことでも偉いことでもない。かっこいいことでも、憧れられるようなことでもない。
私の意見や主張がおもしろいからという理由の取材であればいくらでも受けたいのだが、
ミニマリストだからという理由であればそれはどうなんだと思ってしまう。
モノを持たないことで有名になるのは本望ではない。
モノを持たないことは単なるスタイルであって、アイデンティティではない。
ミニマリストなどという自覚や自意識を持つから、ミニマリストを名乗ってブログを発信するから、このようなジレンマが発生するのだろう。
自分に対して「ミニマリストらしく、ミニマリストブロガーらしく振る舞う」ことを求めるようになったら終わりだと思っている。
言葉を利用したつもりが言葉に振り回されるようでは本末転倒だろう。
私は「正しいミニマリスト」を体現するために生きるわけではありません。
「ささやかながら、反論をさせていただきます。」あらゆるミニマリストの皆様へ。ミニマリストを批判したい方へ。そして、意識高い系のミニマリズムにちょっと疲れてしまった方へ。 - ミニマリストの小宇宙
言葉や定義にこだわるより、「自分がどう生きたいか?」が先に来るべきですね。
それでもミニマリストを自称する。私がミニマリストを名乗るわけ - ミニマリストの小宇宙
必要なものだけ、という考えは変わらないが、
「ミニマリスト」という言葉には少しずつ閉塞感を感じ始めている。
私が最初に知った人々は、効率や幸福やメリットという言葉は一切語らなかった。
わかってもらえないけど、自分は何もない方が好きだから、要らないから、このほうが落ち着くから、という、それだけの人たちだったし、同じ生活を人に薦めたりもしなかった。
もともと、彼らのスタイルを指す言葉はなかった。
近いと思った言葉は、もはや扱いきれないほど大きくなった。個人が何を主張しようと、ミニマリストのパブリックイメージはメディアに出ている「ミニマリスト」だ。
ミニマリストを名乗れば、「パブリックイメージのミニマリストが牽引するミニマリストクラスタ」へのカテゴライズも覚悟しなければならないだろう。
・・・それってなんか不自由だよなあ。
しかし「ミニマリストを名乗るのをやめるべきかどうか」なんて、真剣に悩むことじゃないですね。笑
ミニマリストという言葉はまだしばらく利用させていただくつもりでいます。
訴求したい層にいちばん届く方法だと思っているので。
何を主張しようと、見てもらえなければ話にならない。