ふとパソコンのファイルを整理していたら、大学のときにゼミで書いたレポートが出てきました。我ながらまあまあの出来だと思い、せっかくなので記事として公開しようと思います。今考えてみれば、この頃から既に今の自分が持っている考えが形成されていた気がします。もう3年ぐらい前になるのか、、、
1. はじめに
文系の学部を卒業する大学生は、その専攻科目には全く関係のない就職先を選ぶことが多いようである。それでは、大学に通うことは学生にとってどんな意味があるというのか。日本の大学が世界的に評価されていない現状などを踏まえ、日本の大学教育に対して大きな危機感を抱いた。そこで、大学教育と就職の関係性について研究し今後の日本社会が目指すべき姿を考えていきたい。
2. 現状と課題
まず初めに、濱口桂一郎氏によって提示された、ジョブ型社会とメンバーシップ型社会という分類を紹介する。
ジョブ型社会とは、「職業」というものが確立され、厳格に決められた「仕事」に対して、その「仕事」にもっともうまく合致する「人」を選んでいくという性質をもつ社会をいう。これには欧米や日本以外のアジア諸国などほとんどの国が当てはまるとされている。このような社会では企業の採用活動は専ら欠員補充によって行われるため、職業経験を持たない若者が職業経験の豊富な中高年層よりも不利な状況となってしまう傾向が強い。しかし、職業能力さえあれば年齢に関係なく会社に入ることができるのであるから、会社への間口が広く、入口が特定のものに限られないという構造になっている。
一方、メンバーシップ型社会では、「仕事」と「人」を結び付ける際に「人」がベースとなり、その「人」に対して「仕事」が振り分けられるという性質をもつ社会をいう。当然日本はこちらに当てはまる。このような社会では企業の採用活動は専ら新卒定期採用によって行われるため、職業経験を持たない若者が中高年者より不利に扱われないようになっている。しかし、このような社会では教育機関を卒業してから直ちに会社のメンバーとして正社員にならなければ、その後は正社員になるチャンスが極端に少なくなり、非正規雇用を余儀なくされるという危険性をはらんでいる。また、日本企業の現状として、世界的な経済不況などの影響から正社員の厳選採用が進み、正社員としてのパイが減少している。そして、近年大きな社会問題化している「ブラック企業」は、このメンバーシップ型社会の生み出した負の遺産の一つであるといえる。「仕事」を特定しないことによって労働時間などを曖昧にし、過酷な労働環境の中で正社員を餌に若者を食いつぶしていく。正社員雇用は、従来のような終身雇用を前提としたものから全く異質のものへと変化しつつあるのである。
このような2つの社会においては、教育が果たすべき役割は大きく異なってくる。ジョブ型社会では、学生は職業能力を身につけなければ就職が困難なため、高等教育において何らかの職業的な専門技能を学ぶ必要がある。そこでドイツなどのジョブ型社会では、教育機関が企業と連携し学生が教育機関において主に座学で学んだことを、実際に企業の現場で働くことによって磨きをかけていくことができるシステムが構築されている。一方、メンバーシップ型社会では、新卒定期採用において基本的に職業経験は不問とされる。そうなると、教育機関は学生に対して何をすべきなのか。その答えは簡単に言ってしまえば「何もしないこと」である。これはどういうことかといえば、これから会社のメンバーの一員となる学生に対して、会社にとって都合の悪い価値観や考え方を教え込まれては困るということである。例えば、かつて学生運動が盛んだった時代には過去に学生運動に参加していたというだけで内定(正しくは内々定)を取り消されるケースがあった。企業のメンバーとして長期間働いてもらうことを意図している採用では、ものの考え方や思想というのはとても重要で、そのヅレが企業に大きな損失を生みかねないのであるから仕方のないことではある。それでは、日本の高等教育機関には何の役割もないのだろうか。現状として、高等教育機関は学力を測る「ものさし」としての役割を果たしている。私は、世間では感情論的に学歴社会が批判されてはいるが、学力には理解力や集中力、我慢強さなどの諸要素が関わっていることは確かであり、それらを客観的に測ることができるという点においては大変有益なものであると考えている。ただ、ここで問題にしたいのは日本の高等教育機関がその本来あるべき姿から大きく乖離し、単なる就職のための道具と化している現状のことである。
他にも大きな論点として、採用時における合否の基準の問題もある。これは、ジョブ型社会においては起こりえない問題であるが、日本のようなメンバーシップ型社会においては社会問題化するほどの課題になってしまう。前述したようにジョブ型社会では、人材を採用する際決められた「仕事」に対して、そのための能力を有する人材を求める。その単純かつ明確な基準のもとでは、求職者は自らの能力が企業の求める基準に達していればよく、仮に不採用になったとしても余程の問題がない限りは自らの職業能力が基準に達していなかったからだということが理解できる。理由がわかれば次に向けての対策を立てることができるだろう。つまり、ジョブ型社会の採用活動は合理的なシステムが確立しており人間の感情や思想の入り込む余地は極めて小さい。一方、メンバーシップ型社会の日本では就職活動が求職者の人格を否定するというような事態が生じている。日本で「就活」と呼ばれているそれは、職業能力を求めない代わりに「人間力」なるものを学生に求め、人事担当者や役員の主観に大きく依存した採用基準によって多くの学生を切り落としていく。この非合理的な採用構造が、学生の精神に影響を及ぼすのである。不採用になった学生は、エントリーシートの書き方を修正したり、面接の練習をしたりといった対策しか講じることができない。そして、それらの対策を万全にしたとしても必ず採用されるわけではなく、不明確な採用基準の前に夢を絶たれるのである。こうして学生たちは不採用の原因を自己の人格にまで突きつけられているような錯覚に陥り、就活自殺やニート、フリーターなどの様々な社会問題へと発展しているという可能性が考えられる。日本の若者に関する社会問題は、そのほとんどがメンバーシップ型社会としての性格を持つ日本の構造にその原因の一端があることは確かだろう。
3. 考察
現状を考察すると日本の大学は高等教育機関としては、その立場が非常に中途半端であることがわかった。研究大学として学術の研究を行うための機関ならばもっと専門的なカリキュラムを組む必要があるし、何より大学院への進学率も上げていく必要があるだろう。また、従来のような「就職予備校」的な役割を担うのであれば、最近増えつつある専門職大学院のような形が望ましいのではないだろうか。そしてはっきりと言っておきたいのは、日本の教育においてもっと早期に職業についての理解を深める必要があるということである。企業のメンバーとしての「入社」に終身雇用の保険が効かなくなってきた現代の日本社会においては、自らの職種について自発的な選択が重要になる。そしてその自発的な選択をするためには、現代社会にどのような仕事・職種が存在するのかを知識として取り入れる必要があると思うのである。
4. まとめ
私は自らの就職について考えたときに、日本の企業の多くが導入している「総合職」という職種に大きな違和感を覚えていた。まさに、多くの大学生が行っていることは「就職」活動というよりは、「就社」活動であると言わざるを得ない。しかし、私はこのような日本特有の文化を全面的に否定するつもりではなく、良い部分もたくさんあるのだと考える。ただ、世界では日本とは異なる仕事観が存在するということ、それを知ったうえで自分がどのような職種に「就職」するのかを決定するべきなのではないだろうか。急速なグローバル化が進行する現代社会では、もはや日本国内でのみ通用する能力だけでは足りない。ましてや一つの会社内でしか通用しない能力だけでは生きていける保障もない。そのことを認識したうえで、私と同じようにジョブ型の就職を志す若者が増えていくとすれば、私がこの卒業研究に取り組んだことにもいくらかの意味があったのではないかと思える次第である。
<参考文献>
濱口桂一郎(2013)『若者と労働「入社」の仕組みから解きほぐす』中央公論新社
常見陽平(2013)『「就社志向」の研究――なぜ若者は会社にしがみつくのか』角川書店
稲継尚「雇用流動化と高等教育―職業指導の観点から―」
吉村大吾「キャリア政策の動向と高等教育機関の現状」