ヒトゲノム解読完了(2003) 日本経済新聞 2015/12/27(日)
ヒトの設計図ともいわれるゲノム(全遺伝情報)の解読完了から10年余り。データは今や生命科学研究や医療の現場で不可欠となったが、日本の競争力は十分とはいえない。どこで後れを取ったのか。挽回は可能なのか。
ゲノムは生命活動を支える細胞の働きなどを決めるあらゆる事柄を載せた膨大なデータで、DNA上に約30億の塩基対で書き込まれている。ワトソンの強力な後押しにより、米国立衛生研究所(NIH)とエネルギー省が主導する解読プロジェクト「国際ヒトゲノム計画」が90年に始まった。
2000年にドラフトと呼ばれる解読結果の概要版が、03年には完成版も発表された。米国が全体の69%、英国が23%を解読したのに対し、日本の貢献度は約6%にとどまった。
開発着手は先行
しかし、日本の研究者がゲノムの重要性に気付き、高速の自動解読装置(シーケンサー)の開発に着手したのは米国より早かった。
けん引役となったのが東京大学名誉教授の和田昭允だ。日本が得意な半導体や情報関連技術を活用すれば優位に立てると考えた。
81年、和田をリーダーとする国のプロジェクトが始まった。東大や理化学研究所のほかセイコー電子工業(現セイコーインスツル)、富士写真フイルム(現富士フイルム)、日立製作所などの産学連携で優れた技術が生まれた。
日立名誉フェローの神原秀記が開発した塩基配列の読み取り方式は代表例だ。「キャピラリー・アレイ方式」と呼ばれ、多数の細いガラス毛細管を通る塩基にレーザー光を当て配列を一気に読み取る。「論文を出した直後に、米アプライド・バイオシステムズ(ABI、パーキンエルマーを経て、現サーモフィッシャーサイエンティフィック)が接触してきた」(神原)
読み取りに使う試薬を持たず自社でシーケンサー事業立ち上げに踏み切れなかった日立は、ABIの誘いに乗り同社グループと98年に提携した。こうして生まれた新型シーケンサーが、一世を風靡した「ABIプリズム3700」。主導権は米社が握った。
日立は米化学大手デュポンからシーケンサーの試薬を扱う部門を買わないかと打診されたことがあったが断り、ABIが取得していた。「デュポンの提案を受けていれば状況はまったく違っていたのではないか」と神原は振り返る。
試薬は色素を蛍光で光らせて塩基の種類を判定する「4色蛍光色素法」に不可欠だった。実はこの方法は」和田の研究グループも開発し、特許の出願手続きを進めていた。しかし科学技術庁(当時)が国の成果を民間が特許化するのを問題視したためへ出願を取り下げた。その後、米カリフォルニア工科大学が特許を取得しABIに渡った。
結局「日の丸シーケンサー」は誕生せず、日本は覇者となる機会を逃した。ABIでゲノム関連事業を率いたマイケル・ハンカピラーは次世代シーケンサーの専門企業パシフィック・バイオサイエンシズの最高経営責任者(CEO)として、今も最先端を走る。
予算、米の1/30
日本でゲノム関連の研究への関心は薄れ、予算も縮小された。98年に理研のゲノム科学総合研究センターが発足した時、国際ヒトゲノム計画は既にかなり進んでいた。静岡讐葉学園理事長の榊佳之が理研センターのプロジェクトリーダーとなり、態勢強化を急いだ。
米英はシーケンサーを次々に導入して解読センターをつくり、「施設面で圧倒的優位に立っていた」(榊)。理研も10台のシーケンサーを稼働させたが「感覚的にはゲノム全体の2%くらいの解読を担えるかという状況だった」と榊は振り返る。 日本の予算は計100億円程度と、総力をあげる米国の約30分の1どまり。もはや追いつけなかった。
米国ではNIHから独立したクレイグ・ベンターがベンチャー企業セレーラ・ジェノミクスを創立しシーケンサーを大量稼働させてゲノム解読に参入。00年に1月に「ほぼ完了した」と発表した。国際計画側も背中を押され、完了予定を5年近く前倒しした。
ゲノムは遺伝情報を担う暗号の羅列にすぎない。意味を理解し、それが作るたんぱく質の働きがわかってこそ新薬開発などに応用できる。たんぱく質の構造解析で巻き返せ――。こんな掛け声のもと、日本は02年度に「たんぱく3000計画」を始めた。たんぱく質の基本構造は約1万種類とされ、その3分の1の解明をめざした。
2500種類を担当した理研のグループを率いた上席研究員の横山茂之は「米国が00年からプロジェクトを始めていたが、我々には優れた構造解析技術があった」と述懐する。国の予算も約535億円とゲノム解読を上回った。
横山らが開発した、核磁気共鳴装置(NMR)を使う方法は、たんぱく質の構造を結晶化せず溶液のまま解析できる。横山は高性能NMR 100台の設置を要求した。1台が億円単位と高価だったが、40台分の予算が通った。
DNAからたんぱく質の合成に使われる情報を運ぶRNAの解析をもとに構築された「完全長cDNA」のデータも役立った。理研の林崎良英が効率的に重要な遺伝情報を割り出そうと工夫してまとめたものだ。
最終的に理研は人間のたんぱく質など2700種類の構造を決め、古細菌やバクテリアなどの約2000種類を解析した米国を質、量の両面で上回った。しかし、国の評価報告書は07年、「今後の創薬の基礎を作った」としつつも、、具体的な社会還元には「今しばらく時間を要する」とやや辛口な評価を下した。NMRも理研の「お荷物」といわれるようになった。
現在も日本医療研究開発機構で関連事業が続くが、新薬にはなかなか結びつかず恩恵がみえにくい。 「成果を(大学や研究機関発の)アカデミア創薬にどう生かせるか瀬戸際にある」と横山は気を引き締める。
(敬称略)編集委員 安藤淳が担当しました。
日本、挽回は可能か 研究者、世界に目を向けよ
――80年代にDNAの自動解読装置を世界に先駆けて提唱しましたね。
「もともと物理化学の分野で計測が専門だった。計測の対象として器官、組織、細胞、DNAなどがある生物はとても面白い。なかでも基本の設計図であるDNAに焦点を当てて測ろうと考えた。日本の優れたコンピューターや半導体技術と生物科学を組み合わせて世界のトップに出ようとしたが、共鳴してくれた人はごくわずかだった」
「米国はこうしたプロジェクトが世界戦略上、大切だとすぐに気づいた。知り合いの米エネルギー省の局長が来日し、ホテルでともに朝食をとった時の言葉が忘れられない。彼は私が英科学誌ネイチャーに高速自動解読の必要性を書いたものを読んでおり、『あなたも私もこれで金もうけができるぞ』一緒にやろう』と言ってきた」
――日本ではなぜ頓挫したのでしょうか。
「日本は学問の境界を越えるとすぐに足の引っ張り合いになる。60年代、東京大学の生物物理学教室にいた頃には週1回夕食後に和田サロンを開いて工学、理学、動物学など様々な分野の若手が集まって議論していた。すると『いかがわしい集まりに出るな』と言う物理学の教授もいた」
「DNAの自動解読装置の開発プロジェクトも、科学技術庁の医科系出身の担当官がことごとく反対した。参加企業にも圧力をかけた。物理学出身の和田に、先を越されるのは嫌だったのだろう。計測装置を日本が押さえられなかったのは、悔いても悔やみきれない」
――巻き返せますか。
「米国は金に糸目を付けないし、絶対にナンバー2にはならないというこだわりがある。少しでも先行されようものなら血相を変えて飛びかかってくる。国家総力戦をやったら負けるに決まっている。米国は中国に少してこずり、取り込もうとしている。韓国は戦略的に中国に付いたり米国に付いたりしてしたたかだ。そんな中で、日本の存在は消し飛んでしまっている」
――先行きは明るくないと。
「日本の若い研究者が外国に友達を持っていないのが気になる。第2次世界大戦後、非常に優秀で元気な連中が軍の学校から旧制高校に一気に入り世界に羽ばたこうという雰囲気が盛り上がった。それが高度成長期を支えたが、今は韓国や中国に比べても海外に研究に行く人は非常に少ない」
「日本は将来を見据え、戦略を組み立てるのが苦手だ。原因を突き詰めると受験戦争の問題に行き着くのではないか。人間には知識と知恵の両方がバランス良く必要だが、受験で問われる知識ばかりが積み上がっている。ただ、文部科学省も問題に気づき、スーパーサイエンスハイスクールなどを指定しているのは良い動きだ。失敗を恐れない人材が育ちつつあり、希望が持てる」
「科学技術ニッポンの歩み」は今回で終わり、1月3日付から、東日本大震災から5年を振り返るシリーズを掲載します。被災地の復旧・復興や原発事故への対応、政策の変化などを取り上げます。
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