私の名は真喜(まき)。いつも笑顔で喜ぶようにとつけてくれた名前だ。でも、笑顔なんて忘れた。もう嫌だ。何もかも嫌だ。会社に行きたくない。彼にも会いたくない。
彼の名は直人(なおと)。彼はやさしくて、かっこよい自慢の彼氏だった。付き合って4年ちょっと過ぎごろから、彼は浮気するようになった。彼は新しい彼女が忙しくて会えない時だけ、私の部屋に来る。私は彼にとって新しい彼女の代用品でしかない。
私はもう、彼のことが好きではない。今となっては、あんな彼のどこが好きだったのか分からない。でも、彼が部屋に来てくれたら、受け入れてしまう。その一瞬だけでも、新しい彼女から彼を奪い取れたという事実が私の存在価値を肯定してくれる。この愛情が歪んでいることは自分でもわかる。でも、やめられない。自分から別れを切り出すことは私にはできない。私には彼しかいない。彼がいなければ私は生きていけない。
隣にサラリーマンの男性が引っ越してきた。先週の土曜、昼からビールを飲むために、コンビニへ行った帰りに玄関前で会った。私の顔をじっと見て話してくる。見た目はやさしく真面目な感じだったが、この人も彼と同じで上辺だけのいい人なのだろう。結局、男はみんな女の体が目当てなんだろ?はいはい、いいですよ。いくらでも見てください。顔だけでなく、胸でも尻でも、どうぞ好きなだけ見てください。いくらでも夜のおかずにしてください。ああ、もう、どうでもいいわ。疲れた。とにかくビール飲もう。
彼は月曜の夜に来ることが多い。今日は月曜だ。今夜も彼は私の部屋に来た。そして、いつものように満足して帰っていく。今日は私の誕生日だった。でも、彼は覚えていなかった。
なんかもうどうでもよくなって、私は裸のままでベランダに出た。今日は満月だったらしい。なんか、もう、疲れているのかな?満月だというだけで泣けてくる。目から涙がとめどなく流れてくる。なんで泣いているのか自分でもよく分からない。悲しいとか寂しいとかそういうものじゃなくて、なんか、泣きたくなる。とにかく泣きたいんだ。外に出ているのは頭でわかっているんだけど、声を出して泣きたくなった。夜中に裸の女が大声で泣いたら近所迷惑だろう。でも泣く!泣いてやる!
?「あの~。僕でよかったら相談にのりますよ。」
真喜「えっ?」
?「とりあえず、服着ません?いくら夏でも、女性が裸というのはちょっと…」
声の主は隣に引っ越してきた男性だった。彼はベランダに置いた椅子に座って、イヤホンで音楽を聴いていたみたいだった。
真喜「すいません。あれですよね。私たちがうるさくて、ベランダに逃げてきたんですよね?」
隣の男「まあ。正直言って、そうです。いや、あなたを責めているわけじゃないですよ。仲が良くてうらやましいなぁと思いますよ。ただ、できれば、よそでやってもらいたいなぁと…。」
真喜「ごめんなさい。彼が強引で…。お名前なんでしたっけ?」
隣の男「悟(さとる)です。あなたは真喜さんでしたっけ?」
真喜「はい。真喜と申します。こんな姿で自己紹介って変ですね。」
悟「これ着ませんか?」
悟さんは、着ていたワイシャツを脱いで私に差し出してくれた。よく見たら、下はスーツだった。残業して帰ってきたら、隣の私たちがうるさかったので、そのまま外へということなんだろう。
私は無意識に悟さんのワイシャツに手を出していた。そのまま、悟さんの好意に甘え、ワイシャツを着ることにした。最後のボタンをとめようとしたら一つボタンが合わなかった。途中でボタンをかけ間違っていたみたいだ。なんか笑える。私何やってんだろう?
真喜「ふふっ。はははっ。おかしい!なんかおかしい!私、変ですよね?」
悟「そうですね。変ですね。でも、たまには、いいんじゃないですか?」
なんか久しぶりに笑った。スッキリした。
悟「落ち着きました?」
真喜「ええっ。ありがとうございます。」
悟「彼氏とはうまくいっていないのですか?」
真喜「直球ですね?」
悟「ああっ、すいません。気が利かなくて…」
真喜「今日、私の誕生日だったんです。でも、彼はそのことを忘れていたみたいで…。」
悟「あっ、いいこと思いついた!ちょっと待っててください。」
悟さんはそう言って、部屋に入って何かを取ってきた。
悟「これあげます!」
悟さんの手のひらに黒いものがあった。満月の明るさのおかげで、照明の明るさがなくても何か分かった。靴下にゃんこだ。 私が好きな黒猫だ。
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悟「良ければこれ、あなたの誕生日プレゼントとして差しあげます。」
真喜「えっ、いただけません。お気遣いだけで、本当にありがとうございます。」
悟「言いづらいんですけど、正直に謝ります。実はあなたが外に出てきてから、しばらくあなたの裸を見ていました。すみませんでした。これはそれのお詫びとして受け取っていただけませんか?それなら、受け取ってもらえますか?」
真喜「変な人ですね。本当に頂いていいのですか?」
悟「いいもの見せてもらったんで!」
真喜「そんなにいい体でしたか?」
悟「いえ、あなたの笑顔がね。」
真喜「弱っている女性に何を言っているのですか?そんなこと言われると女の子は惚れちゃうんですよ?責任とってくれるのですか?」
悟「はい。俺でよければ責任取らせてもらいますよ!」
その後も色々、悟さんと話した。今まで悩んでいたことがすべて吹き飛んだ。私は直人と別れることを決めた。
数日後、直人が来たとき、私は別れ話を切り出した。直人は反対した。私に暴力をふるってきた。やっぱりなぁと思いながら、殴られるまま、なすがままで、直人が気が済むまで耐えることにした。
でも、その時間は短かった。
隣の悟さんが、ベランダを乗り越え、窓を割って助けに入ってきてくれた。ドアは施錠されていたので、窓を割るしかなかったのだろう。悟さんは直人を私から引き離して、大声で何かを叫んでいた。直人が悟さんに殴りかかった。悟さんは喧嘩慣れしているのか慣れた感じでかわし、足を引っかけて転ばせた直人を押さえつけ、手際よく警察を呼んでいた。その時の私は意外と冷静で、他人事のようにその光景を眺めていた。映画みたいだなと感じていた。正直、その後のことはうろ覚えであまり覚えていない。次の日、目が覚めたら、病院のベッドに寝ていた。
軽傷だったので、すぐに退院して部屋の前まで帰ってきたが、部屋に入るのが嫌だった。どのぐらい玄関の前で立っていたのだろうか分からないが、いつの間にか日が暮れていた。
悟「もう、退院されたのですか!」
真喜「ああ、悟さん。昨日は迷惑かけて申し訳けございませんでした。助けてくれて本当にありがとうございました。」
悟「あの~、もし、よければ、僕の部屋に来ませんか?ああ、別に変な意味とかでなく、窓も割れたままですし、割ったのは僕だから…。もちろん、窓は弁償します。今日、修理を頼んだんですけど、本人の承諾と鍵がないと直せないと断られてしまって…」
その日を境に私は夜になると悟さんの部屋に行きご御飯を食べるようになった。ご飯を一緒に食べると元気になれる。私は彼に救われた。だから、私なりに彼を支えてあげたいと思う。
ちなみに、あの時、もらった靴下にゃんこのキーホルダーは悟さんの部屋の合鍵に付けている。これが私と悟さんの絆の証さ!
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