多肉さんが死にました。
お部屋にいた、自分以外の唯一の生物。
多肉さんが死にました。
お部屋に来た頃、その子はとても貧相で、
こんなにぱさぱさのぺらぺらで弱弱しくて、
生きてなどゆけるのだろうか、と思っておりました。
ですが、多肉さん、いつのまにか、
お水と光のみで、
すくすくと育ってゆきました。
貧相だった茎も葉も色を濃くし、
全体量も増えました。
それはもう、根本の土が見えないくらいに、
葉は生い茂りました。
少し、気持ち悪いな、と、思うくらいの茂りようでした。
普段はお部屋の中から硝子越しの光にしか当ててやれないのですが、
晴れた日にはお外に出してあげることも、
ありました。
直射日光を浴びて、多肉さんは、ああ、ふるさとを思い出すよ、と言ってくれているようでした。
一度だけ、お外から取り込むのを忘れた事がありました。
秋が深まったある日、硝子越しの光では物足りないように思えて、
お昼の間だけ、と、風の当たらない、
でも、太陽の光がたっぷり注ぐ場所へ、多肉さんを置きました。
空気は少し冷たいけれど、それ以上に光は温かくて、
多肉さんは、嬉しそうでした。
朝になって、窓を開けると、なんと、
多肉さんが朝露まみれになって、お外にいるではありませんか。
悲鳴を上げて、慌ててお部屋に連れ戻しました。
多肉さんにとって、寒さは命取りなのです。
どうしよう、どうしよう、と泣きながら、
お部屋の中、一番光が集まる場所へ多肉さんを、
寝かせます。
意図的ではないものの、とんだ、虐待行為に合わせてしまい、
今思えば、
あの時、多肉さんは死んでも、おかしくなかったのです。
それくらい、あの夜は、寒かったから。
でも、多肉さんは、強かった。
あれくらい、平気だよ、と笑って、
でもしばらくはお部屋の中がいいな、と、目を細めたようでした。
ごめんね、と言う声に、多肉さんは、葉の緑をさらに深めることで答えてくれたのです。
そんなことがあった、多肉さんですが、それからも、ぐんぐんと成長してゆきました。
お部屋に来たときから浸かっている鉢では、
もう狭いくらいに葉が増えて、
実際、鉢の回りに茎が垂れ下がるまでになっていました。
多肉さんが、そうして、生まれてから一番、
大きく成長した頃、
自分は壊れてしまいました。
多肉さんの、お世話さえ出来ない日々が続き、
ついには、あんなに大事にしていた、愛していた多肉さんを、
お部屋の中、一番光が集まる場所から、
お部屋の中、日に数時間しか光が届かない場所へと、
移動させてしまいました。
見ているのが、つらかった。
成長する多肉さんも、その美しい緑色も、
多肉さんのわりには、爽やかにただよう、あの瑞々しさも。
多肉さんを見るたび、多肉さんと生きた元気な頃の自分を思い出し、
つらかったのです。
見ようとしないと、見えないところへ、
多肉さんを押し込めて、
それから自分は、死んだように生きてきました。
多肉さんを見には行きませんでした。
お水も、やりませんでした。
お外に、出してあげることも、しませんでした。
多肉さんのことは、しばらく、思い出すことすらありませんでした。
それから、何ヵ月も経ちました。
色々なことがありました。あるいは、
なにもなかった、と、言えるのかもしれませんが。
少しずつ、意識を取り戻す日が増えて、
ある時、多肉さんの、ことを、思い出しました。
思い出した瞬間は、
自分の犯した罪に驚き、溝内にパンチを、食らったような痛みがありました。
しかし痛みの中で、それでも、躊躇いました。
見たくない、とさえ、思いました。
水が足りなくて枯れてしまったか、
光が足りなくてどろどろに腐ってしまったか、
どちらにしろ、
あの頃の、青々として鉢を飛び出す勢いの、多肉さんはもう、いるはずがないのです。
多肉さんは、しかし、特性上、とても、強いです。
もしかしたら、まだ、僅かにでも生きているのかもしれない、
その望みはたしかに、ありました。
けれど、自分はどこか、心の奥で、
それを、望んではいないことに、気が付きました。
多肉さんへの仕打ちに後悔する気持ちと、同時に、
しかしこれで、良かったのだ、と思う気持ちがありました。
自分には、自分一人、生かせられないのに、
多肉さんの、命を守り育てて行こうなどというのは、とんだおこがましい考えであったのだ、と思ったのです。
もし多肉さんが、死んだのなら、それは、
もうこれ以上多肉さんを、自分の勝手で苦しめてしまうことがない、
ということ。
それならばこれで、良かったのだ、とさえ思いました。
そこからまた、しばらくの間、
多肉さんの記憶を封印して生きました。
いえ、封印、など、出来るわけがありません。
多肉さんのいる側を通るたび、
その方向を見るたび、
早く、見てあげなきゃ、という思いに苛まれました。
しかし勇気が出なかったのです。
生きているか、死んでしまっているか、
どちらの事実がそこにあるにしても、
それを確かめる勇気が、ありませんでしたし、
どちらの事実であっても、自分には対処できそうにありませんでした。
つい、先日、
絵を描きました。絵が趣味だとか、得意だとかいうことは全くないのですが、
唐突に、描いてみようかな、と思い立ったのです。
描き終わって、真っ白な、陶器の水受けを洗い、それを、
少し、干さなきゃな、と、思いました。
そうだ、あそこに干そう、と思ったのが、
あの、多肉さんを、置き去りにした半日陰の場所でした。
恥ずかしいことに、多肉さんの生死を確認する躊躇いよりも、
この水受けを干したい、という思いが勝りました。
自分でも怖いくらいの自分勝手ぶりです。
でも、それは、内心、
多肉さんのいる場所へ行く、都合の良い都合を見つけたことに、
あとは、自分はほんとわがままなんだから、という言い訳をプラスして、
原動力にしたのかもしれません。
自分はつくづく、不器用なのです。
水受けを片手に、多肉さんがいるはずのその場所へゆきました。
思い切って、視界を邪魔する物を避け、
ついに、多肉さんの、姿を、この目に見ました。
多肉さんは死んでいました。
瑞々しさとは対極の気配を纏っていました。
いえ、気配すら、無くなっていると、さえ言えたでしょう。
葉があまりに茂ったために見えなくなっていたはずの土が、
今は、露になっていました。
その土の上に、
申し訳程度、色が抜け、萎縮した葉が、ぽつぽつ、と、
散らばっていました。
あんなに、たくさんあった、青い葉は、
一体どこへ消えてしまったのだろう、とそんなことを思いました。
どう見ても、茂っていた頃の葉の量と、枯れて撒かれたこの葉の量とでは、
計算が合いませんでした。
まだぎりぎりで茎に繋がる、枯れた葉に、
指で触れました。
萎縮した枯葉は、カサリと音を立てて、
土の上に落ちてゆきました。
みんな、こうして、少しずつ落ちてゆき、
土に、なっていったのかも、しれません。
しばらくの間、カサリ、カサリ、と音を立て続けました。
その死を、この指に感じて。
多肉さんの、鉢の隣に、水受けを置きました。
ちょうどその時間は、一日のうちの、わずかな、日照時間でした。
死んだ多肉さんに、
ひのひかりが当たっていました。
多肉さんが死にました。
ここから、少し、希望のフィクションを。
青い葉がありました。
死んだ多肉さんの中に、青い葉が、
ほんの少しだけありました。
どうしようか、と悩みました。
何故なら、自分はまた、
同じ過ちを繰り返すかもしれないからです。
外へ置き去りにしたり、あるいはまたすぐに、
お世話をなに一つ出来なくなるかもしれません。
次こそは大丈夫だ、と言える自信などありません。
自分はなにもあの頃と、変わってなどいないのだから。
それでも、
小さな鉢、土に少し空気を含ませてから、
希望を捨てられない愚かな自分は、
死んだ多肉さんからちぎり取った青い葉を、差し込みました。
また、繰り返すのです。
たっぷりの水をやりました。
過ちを。
お部屋の中、一番光の当たる場所へ、移動しました。
痛みを。あるいは、再生を。
多肉さんが死にました。
死んだ多肉さんから、
新たな死を待つ多肉さんが生まれました。
ごめんね、と言う声に、多肉さんは、たった、ひと茎の葉の、緑を揺らして、答えてくれました。
戯言言うな軟弱者、グダグダ言わずに、今度こそはちゃんと育ててみろ!
はい、と自分は頷きます。
多肉さん、春が来たら、一緒にお外に出ましょうね、と。
くらむ