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Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

あの日、どうしようもない僕に天使が降りてきた。

子育て

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子供を作ると決めたあの日。

結婚した時、漠然とではあるが「子供を作るなら3年後くらいかな〜?」とか考えていた。

自分は考え方が古い人間なので順番を守りたかった。恋愛→結婚→出産という順番だ。別に、それを守らないからどうこう言いたいわけではなくて、自分が単に結婚前に自分の親や相手の家に「できちゃいましたてへぺろ(・ω<)」とか言いに行くのが怖かったからだ。

3年という区切りには特に意味はなかった。要は、少しの間でいいから夫婦2人の時間が欲しかっただけだ。 

その後、複雑な事情が絡んで子作りは延期に延期を重ねた。

まず、リーマンショックの影響で2人が勤めている会社の経営が傾き、大規模なリストラが敢行されて妻が解雇の憂き目にあった。会社更生法を申請したことで、いつ職場自体が無くなってもおかしくない状態になってしまったので、迂闊にその後の計画を立てられなくなってしまった。

そして、一身上の都合により実家からアパートへの引っ越しをした事で資金的な余裕もなくなり、さらに妻が派遣で職が決まったのは良かったが、いきなり産休で休むというのもアレなので、しばらく様子を見ることになった。

そうこうしているうちに2011年に東日本大震災が発生し、またもや子作りどころではなくなった。正直言ってあの時期は、多くの福島県民がそうであったように、原発事故のその後に釘付けで、我が家は家族計画どころの騒ぎではなかったのだ。

ふと気がつけば、もうアラフォーになっていた。

このままでは初産が高齢出産になってしまう。母子ともになにか悪い影響が出るリスクは上がっていたし、結婚した時よりも経済的な後ろ盾は随分と無くなってしまった。

自分は、この状態で子供を作るのは怖かった。

会社は今はなんとかなっているが、もし今後なにかがあったら本当に無くなってしまうかもしれない。貯蓄も思ったように出来ていないし、生物学的なリスクもあるのだから、無理して子供を作る必要は無いんじゃないかと考えていた。

だが、妻は違った。どうしても子供が欲しいと考えていた。その事で言い争いになって、少し喧嘩みたいになった事もあった。

結局、2人でよく話し合い、子供を作ることに決めた。

だが、自分はその時点でも、まだマイナスのイメージを拭えなかった。将来のビジョンを描けなかったし、不安の方が希望よりも遥かに上回っていた。

だから、妻が妊娠検査薬を使って陽性反応が出た時も、顔は喜んでいたが、心は曇ったままだった。

 

それは、さながら戦いだった

昨年の今日、ちょうど仕事終わりの日だった。

その日は、妻が日中に妊婦健診に行って「まだ産まれないね〜」と言われてきたばかりだった。

だが、夕方になって妻がお腹が痛いと言い出した。

出産予定日は1月上旬だったし、よく「初産は遅れる」と言われていたので、単なる前駆陣痛だと思っていた。だが、夕飯を食べても痛みはおさまらなかった。

まあ、不安に思ったらいつでも来いと言われていたので、違ってもいいからとりあえず病院に行ってみようかという事で、しんしんと雪の降る中家を出た。

夜間救急の方から入り、産婦人科で診てもらうと、「もういつ産まれてもおかしくない」と言われた。

え?

昼間はまだ産まれないって言われたのに?

その後は、もうジェットコースターのようだった。

とにかく、自分にできたのは妻を安心させ、少しでも楽になるようにサポートし、そして無事に産まれてきますようにと信じてもいない神に祈る事のみだった。

陣痛も極限に達し、いよいよ出産まで秒読み段階になった事で分娩室に呼ばれた。

テレビなどで出産シーンを見たことはあったが、自分が思っていたよりも開かれた部屋だった。もっと手術室みたいに隔離されたところなのかと思っていたが、随分違っていた。

妻が何度も力を振り絞り、新たな命をいざなおうとする。だが、娘は一筋縄ではいかなかった。気がつけば、もう夜中の5時になろうとしていた。

自分は、妻の汗を拭き、ひたすら励まし、勇気づけた。

「大丈夫だよ。頑張って! もう少しだよ!」

何度繰り返したかわからない。最後はもう言うことがなくなり、同じ事ばかり呟いていた。それしか出来ない自分に歯がゆさも感じていた。もっと妻が安心できるような気の利いた言葉をかけてやれないのかお前は。

いよいよ医師が姿を見せ、最後の戦いが始まった。そう、もうここまで来ると「戦い」と形容してもいいくらいの壮絶さだった。

そして、最後には妻が勝った。

現代日本では、出産については当たり前のように安全だと思われているし、実際死亡率はほとんどゼロに近いのだが、実は今でもこの地球上では1時間に30人以上の妊婦が亡くなっている。妻が後に語った言葉をそのまま借りれば、出産はある意味全治1ヶ月の負傷を背負う事をわかった上での、母としてのチャレンジなのだ。

産まれてきた娘は、この世のものとは思えないほどの可愛さだった。

産まれた瞬間に力強い泣き声を上げ、すぐ妻の手元に置かれた。まだ拭き取り切れなかった血が付いたままだった。少しだけ抱いた後、然るべき処置を受けるために奥の部屋へと連れて行かれた。

自分も部屋の外にいるように言われ、1時間ほど待たされた。全然寝ていかなったので、ベンチに座ったまま少し眠ってしまった。

準備が整って、再び呼ばれて分娩室に入ると、妻の顔の隣に娘がいた。

ついさっき、自分の目の前で産まれたばかりの新しい命。妻が、色々なリスクがあるとわかった上で産むと決め、そして自分が確たる決意を持てぬままに生み出してしまった命。

今まで見たことのない安らかな顔をして娘を見つめている妻を見て、自分はなんて馬鹿だったんだろうと思い知った。どうして、もっと前向きに物事を考えられなかったんだろうと。

 

守るべきもの。

それからちょうど1年が経過し、娘はすくすくと育っている。

これまでは、特になんの問題もない。ちょっと成長曲線の上の方ではあるが、極めて順調に成長している。

当然、生活は全てが娘を中心に回るようになった。時には振り回されることもあるし、事前に予定を立てて行動するのが難しくなった。

びっくりするくらいしょっちゅう風邪をひいているので、ただでさえ抵抗力の弱っている自分は、ほぼ100%の確率で風邪をうつされている。今年に入って5回くらい風邪をひいたかな。

でも、そんな事はどうでもいい。

娘が生まれて以来、我が家には笑顔が絶えなくなった。まあ、生まれる前から笑顔だらけだったのだが、それに輪をかけて一段階明るくなった印象だ。

実家を出たことで、少しギクシャクしていた母との関係も随分と変わった。それまでは、正月やお盆などの年中行事でもない限り、夫婦揃って実家に行くことは無かったのだが、最近は頻繁に行き来するようになった。何もかも娘が産まれたからだ。 

毎日毎日写真を撮って、iCloudの共有フォトストリームに娘の画像をアップロードしている。お互いの母親がiPhoneを持っているので、即座に娘の最新の姿を見ることが出来る。その枚数は軽く1200枚を超えた。

今まで、自分は他人の為に何かをするという事を考えたことはそれ程無かった。妻とは人生を共有しているが、それはお互いを補完しあう間柄であり、どちらかが一方的に何かを与えるという関係ではなかった。

だが、娘は自分たちが何かを与えてやらないかぎり、生きていく事すら出来ない。ここに来て、自分は初めて一方的に守ってやらなければならない存在を手にしたのだ。

子育ては大変だ。

子供を産むのはコスパ悪い。

そもそもこんな時代に産まれてきたことが不幸。

世の中には色々な意見がある。それらを否定するつもりは毛頭ない。それぞれがそれぞれの意見を持っているのが当たり前だからだ。ひょっとしたら、子作りを諦めていれば、自分もそんな事を言っていたかもしれない。

だが、今は違う。そして自信を持って言おう。

ちょうど1年前、あの雪の降りしきる日に産まれた我が娘は、どうしようもない自分に降りてきた天使なのだと。