2015-12-27

60代、マザコンおっさん悲劇

私には、昔同居していた伯父がいました。

 同居するまでの経緯

私の生まれた家はいわゆる「膿家」というやつでした。

この膿家の嫁に来た母は、ゆがんだ価値観に潰されて25歳で統合失調症発症しました。

そのあと、母は妹を産み、そのまま妹を連れて実家に帰ってしまいました。


母と妹がいなくなった後も、私はしばらく生まれた家(父方の家)で暮らしていました。

母との離婚後、父は突然再婚し、後妻となる人を家に入れました。

その人と私は一切面識がありませんでしたが、父と再婚してすぐの頃

はじめまして今日からあなたのお母さんになります。前のお母さんのことは忘れてね。」と

幸せそうな笑顔で言っていたのを覚えています


父方の家には私の味方は誰もいませんでした。

父方の祖母は、後妻の人のご機嫌取りのために、

私が母や妹と連絡を取ることを禁止しました。(それでもむりやり会ったりはしていました)

私に対する禁止事項は多岐に渡りモラルハラスメントとして日常的に繰り返されていきました。

そして私は、13歳の秋、とうとう母の実家に逃げ込みました。


 伯父との同居がはじまりました

母の実家には、祖母、伯父、母、妹が暮らしていました。

伯父というのは母の兄にあたる人で、この人は強迫性障害を患っていました。

主治医曰く、「病気自体は非常に落ち着いている」そうなので、本人の持つ激しい性格が一番の問題でした。

伯父は、少しでも気に入らないことがあると何かにつけてすぐ怒り、暴れ、物や人に当たる人でした。

その気性の荒さから仕事もろくに続かず、いつも祖母に泣きついていました。

祖母はいつも伯父の尻拭いをしていました。


 伯父という人

伯父は3人兄弟長男で、小さい頃はそれはそれは可愛がられて育ったと聞きました。

「素直で従順長男」だったゆえに周りの大人に構われすぎてしまい、自主性が育たないまま大人になってしまいました。

いわゆる「内弁慶外地蔵」の極端なタイプで、家の中では物や人に当たり散らすものの、他人の前ではいつも何かに怯えているようでした。

60歳を過ぎても甘えん坊な伯父は、よく祖母に膝枕で耳かきをしてもらっていました。



伯父が上司に叱られた時は、祖母が会社まで出向き弁明をし、謝っていました。

伯父は車の免許を持っていましたが、謝罪のために会社に出向く祖母を送迎するのは、いつも伯父の弟の役目でした。



伯父はいつも、できないことを全て病気のせいにしていました。

もちろん、病気が原因で制限が出てくるつらさはよくわかります

でも伯父は、「病気持ちなりに、少しでも自分でやってみる」というプロセス飛ばし

若い者」や「健常者」に頼り、「病気である自分」に甘えていました。

そして、祖母はそういう伯父を「お前はそれで正しいんだ。それでいいんだ。」と言い

庇護下に置いていました。



伯父は誰かに「かわいそう。」と言ってもらえるのが好きでした。

自分庇護されるべき人間だ」と思い込みたい様子でした。


 伯父の仕事

伯父はいわゆる「旗振り」と呼ばれる仕事に就いていました。

工事現場競馬場交通整理などをして、お金を稼いでいました。

でも、伯父はお金自己管理ができない人でした。

伯父のお給料は祖母が全て管理し、伯父が必要ときお金を渡していました。

伯父の月給はあまり高くなく、また金遣いも荒いため(そのほとんどは外食ツタヤで借りるAVでしたが)

祖母は家計からお金を渡していたこともあったようでした。(家計管理は祖母の仕事でした)

私の友人が遊びにきていてもお構いなしにAVを見ているので、テレビから流れる行為中の音が聞こえていました。



伯父はお風呂に入るのが苦手でした。

強迫性障害のせいで、何時間も体をこすってしまうから入りたくないんだ」と言っていました。

仕事から汗だくで帰ってきても、いつもお風呂はいりませんでした。

2週間に1度でもお風呂に入ればいい方で、それは夏でもおかまいなしでした。



真夏のある日、自分の股間を掻いて見せ、手の臭いを嗅いで「うわ、くっせえ」と笑っていました。


 伯父との過去

私たち姉妹が小さい頃、妹は伯父から性的虐待を受けていました。

妹はちょっかいを出されるたびに、涙が枯れるほど大泣きしていました。

それを見ていた10歳の私は、怯えながら「やめてあげなよ」と言うのが精一杯でした。

しかし、周りの大人は伯父を怖がり誰も助けてはくれませんでした。



大人になってから親戚などの話を聞いていくと、伯父がしてきた性的虐待と呼ばれる行為には悪意などなく、

わかったのは「可愛い子を伯父なりに可愛がっていただけ」だということでした。

「なぜ家族の眼前で堂々と性的虐待が行われていたのか、良心は痛まないのか」という長年の疑問が解けたと同時に

伯父には社会性や一般常識などの一切が欠如していたのだと気付きました。




 伯父との言い争い

私は、些細なことで伯父と言い合いになったことがあります

ある日、飼っていた犬が、扉を閉め忘れた玄関に向かって走っていったことがありました。

それを見た私は思わずコラーーッ!」と大声で叫んでしまいました。



伯父は突然の大声が気に食わなかったのでしょう。

顔を真っ赤にして「うるさい!」と怒鳴り、私を睨みつけました。



伯父を見て、私はまた余計な一言を言ってしまいました。

大事ペットが逃げ出したら大変でしょ。それくらいで怒らないでよ。」



伯父はとうとうなぐりかかるポーズで迫ってきました。



「殺す、お前、殺してやる。生意気に、楯突きやがって!殺してやる!」

そう言って伯父は包丁を持ち出しましたが、祖母と母が伯父の両腕を抑えつけ、事なきを得ました。



伯父は追い詰められると「殺す」と言ってなぐるポーズします。相手を脅すことで物事を解決しようとしてしまます

でも、本当は怖くてなぐれないのです。それに伯父は、必ず最後に誰かが止めに入ってくれることを知っていました。

から私は、一度なぐられて、そのまま病院警察に行って、伯父に相応の処分を下してもらったほうがみんなのためだ、と考えていました。

しかし、私の体に傷ができることはありませんでした。


 マザコンの伯父

ある時期、伯父は「働きたくない」と言い、あからさまな嘘をついて仕事を欠勤しました。

ズル休みは1日では終わらず、2日、3日と増えていき、結局は1週間以上もズル休みをしてしまったのです。

1週間以上も休んだ後の久々の出勤日、伯父は上司から欠勤に対する叱責を受け、肩を落として帰宅しました。

家で発泡酒を飲みながら

「働きたくない、俺は十分頑張ったよな。俺の頑張りがわからないあの上司はひどいやつだ。」と

延々と愚痴っていました。



結局伯父は、上司に叱責されたショックで職場退職しました。

退職意思について、家族の誰も、祖母でさえも事前に相談されることはありませんでした。



伯父は会社制服を返しに行くことすら嫌がって、とうとう制服の返却には祖母が行くことになりました。

といっても祖母も高齢だったので、会社までの送迎には伯父の弟が付き添いました。

祖母は、返却する制服菓子折りと手紙をつけて、上司の方に丁寧に謝罪していたようでした。



会社での伯父はなにかとトラブルメーカーだったようです。

また違う会社では、20代パート従業員仕事のことで注意されたのが気に入らないから、と

会社に無理を言って現場を変えてもらうこともありました。

結局この会社も長くは続かず、

「あの偉そうな若い男が悪い、パートのくせに、上司パートの味方をするなんてひどいやつだ。」と言って

辞表を提出しました。(伯父は資格を持っていたので、契約社員として雇用されていました)



伯父はこんなふうに、会社転々としていました。

「俺は警備しかできないから。」と言って、職種を変えることはありませんでしたが

車を持っていても、通える範囲の警備会社には限りがあります

だんだん転職先の選択肢も減っていき、家にいる時間が長くなっていきました。


 祖母の死

2014年12月、伯父の大好きな祖母(伯父から見たママ)が亡くなりました。

祖母は11月救急搬送されました。

救急車が到着して救急隊員が家に入ってくると、隊員の方が通る通路に呆然と立ち尽くす伯父がいました。

誰かが「ちょっと邪魔!」と怒鳴ると、伯父は、すごすごと布団の中に戻っていきました。



搬送先の病院ですぐさま検査をして、わたしたちは後日、祖母の余命を聞かされました。



意識を取り戻して少し落ち着いた祖母は、私を見て「ばあちゃんは、もう長くないんだろ?」と明るく言いました。

私は泣いてしまいましたが、正直に「うん。」と答えました。

私と妹は、土日も毎日欠かさずお見舞いに通いました。



祖母は1ヶ月間病院のベッドの上で元気に過ごし、最期は静かに息を引き取りました。

亡くなる前日、祖母は痛み止めの薬の副作用でまどろみながら「明日にはお迎えが来るわい、よーいよい」と

両手を頭の横で振って踊って見せました。


 伯父の孤独

祖母が倒れてからの伯父は抜け殻のようでした。

ようやく見つかった仕事もまた辞めてしまい、お風呂にも入らず、家でダラダラと食べて寝るだけの生活をしていました。

伯父が祖母のお見舞いに出かけるのは1週間に1度ほどで、

寝て起きたらお菓子を食べて、それからから晩までテレビを見て、残りは泣いて過ごしていました。



12月明け方に祖母が亡くなったと連絡が入りました。

病院に到着すると、冷たくなった祖母の周りを、私、私の家族、伯父の弟とその家族が囲みました。

伯父は、祖母の左手側に立ち、静かに泣いていました。


 葬儀に出てこれない伯父

伯父は、祖母が亡くなった事実を受け入れられず、長男という立場でありながら

家に引きこもり泣き腫らしていたようでした。

通夜葬儀の指揮は伯父の弟がとり、私たち姉妹もできることがあればサポートに回りました。



葬儀当日、喪主スピーチの打ち合わせ時間になっても伯父は現れず、その場にいた全員が呆れ、落胆しました。

私は「長男が来ないし、喪主はおじちゃんだね。」と言うと

伯父の弟は「そうだなあ。そのつもりで一応聞いておくか。」と半ば諦めたように返事をしました。



結局伯父は、親戚の説得によりお風呂に入り、ギリギリ葬儀会場に到着しました。

本番は、滑舌も悪く、メモ書きを見ながらのスピーチでしたが、なんとか喪主としての役割を終えました。


 四十九日の間、伯父と姉妹

祖母が亡くなってからは、当然ですが、いままでのように伯父の世話をしてくれる人は誰もいません。

家事ほとんどは、母や私たち姉妹がやっていましたが、「祖母のときのように、伯父に依存されては困るもんね。」と言い

自分のことは自分でやる」というスタイルを貫きました。

洗濯物も、食事の支度も、やるのは自分の分だけ。

それを見た伯父は、「なんだ、俺をいじめているのか。」と言って何度も顔を真っ赤にして私たちを怒鳴りつけました。



伯父は、ノックもせずに私たち姉妹の部屋に入ってくるようになりました。

そして、「郵便を出してきてくれ、おやつを買ってきれくれ。ごはんは作ってくれないのか?」と

少し考えれば自分で何とかできそうなことも、すべて私たち姉妹に頼ろうとしました。



1月下旬、我慢も限界にきた私たち姉妹は、引越しを決めました。

できるだけ安い物件を探し、家からできるだけ離れたところに部屋を借りました。


 母

私の母の病気は、祖母の死をきっかけに階段を転げるように悪化しました。

妄想や虚言が再びはじまり、周りは母がしでかしたことの対応に追われました。

「このままじゃ危ない。」と感じた私は、母を説得しかかりつけの精神科に連れて行きました。

先生とよく話し、その場で母は入院することになりました。


 引越し前夜

カレンダー2月中旬を過ぎていました。

この頃には荷物は新居に搬入済みだったので、引越し予定日を静かに待つはずでした。



しかし、伯父にとって私たちは「2代目・お世話係」。

引越しされては困る!」と、なんどもなんども迫ってきました。

水を飲みに台所に行っても、トイレに行っても、どこにでもついてきました。

部屋から出たら最後、襖が開く音を聞きつけて伯父はとんできました。



まりにもしつこいので、私たち姉妹は、とうとう自分たちの部屋の襖に釘を打ち込みました。

出入りができなくなっては不便なので、もう一つの襖は外側からは開かないように、釘とロープガッチリと縛りました。

しかし、そんな抵抗も無意味でした。

伯父は力ずくで釘の刺さった襖を開き、「なあ、本当に引っ越すのか?どこだ?どこに引っ越すんだ?」と焦った声で私たちに問いました。


 夜逃げのような引越し

私は、「昨日、釘の刺さった襖は、けっきょく破壊されました。笑」と伯父の弟にメールを打ちました。



しばらくすると返事がきました。

「今、伯父さんは留守?留守なら、あいつがいない間に荷物持って逃げちゃおうぜ。」

青天の霹靂のようでした。それに、まるで夜逃げみたいだ、と少し気持ちがワクワしました。

妹と荷物をまとめ、飼っていた犬を抱えて、迎えにきてくれた伯父の弟の車に乗り込みました。



新居までは車で40分ほど。

車に乗ると、逃げるときの緊張感と、実家から逃げられた安堵感が一気に襲ってきたようでした。

私はドキドキして、少し震えていました。

車の中で、「本当にさあ、ドラマチックな家だよね。」と笑うと、

伯父の弟は「これから自分のために生きないとな。」と言いました。



ほとんど何もない簡素な部屋に犬と荷物を運び、3人と1匹で一息つきました。

そこで、今まであったことや、これからのことを話しました。

数え切れないくらいいろんな経験をしたおかげか、不思議と大きな不安はありませんでした。



「これから自分のために生きないとな。」という言葉を反芻しながら未来を思い、じんわりと体の芯が熱くなりました。


 おわり



引越し後は、伯父からの連絡は一切ありませんでした。

というのも、伯父が私たち姉妹の連絡先を知らなかったというのが大きいかもしれません。



この悪夢のような生活から離れてそろそろ1年が経ちます

もう1年経ったんだと、ふと強烈な伯父さんのことを思い出し書いてみました。

現在の伯父は、相変わらず仕事もせず、家に引きこもって、食べては寝る生活をしているそうです。

当然のようにお風呂にも入っていないと聞きました。経済状態はよく知りませんが、どうやら行政の人が様子を見に行っているみたいです。



人間の可能性は、良くも悪くも計り知れないんだなあと感じます

「本当につらいときこそ、自分を信じてあげることが大切だ」ということを学べたのはい経験だったと思います

それに、誰かが「つらい」と言っていたらそれはまぎれもない事実で、

その気持ち他人否定してはいけないとも思います

から、伯父は今本当につらいのだと思います

でも伯父は、ずーっと何十年も「つらい、つらい」と言い続けるだけでした。だから人が離れていったのだということに未だに気付きません。

伯父はたぶんこれからもずーっと「かわいそうな自分」だけを見て「つらい、つらい」と言い続けるのでしょう。

そうやって何十年も悲劇感触に浸り続ける伯父は、周りからしたらとても滑稽だと思います。もう目は醒めないんだろうなあ。

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