2015年12月25日

下町ロケット

TBS系テレビで放映されたドラマを見たので、それについて少し思う所を書いてみたい。原作を読んだわけではないし、テレビも一部しか見ていないので、細部の精確さには自信はない。見なかった方のために簡単に要約してみる。第一話は、ロケットの部品バルブを中小企業が担当する話。第二話は、心臓欠陥のある子どものための人工弁を開発する話だ。例によって、大企業や金融機関を相手に、中小企業が高い技術を持ちながら、苦戦を強いられる話である。

全体として、善玉と悪玉がはっきりしすぎているとか、単純なファミリー・ストーリーに落とし込み過ぎているとか批判すべき点もあるだろう(実際この時代、家族や「家族愛」だけが無傷でいられるはずもないのである)。だが、このドラマで面白いのは、味方にも敵方にも、それぞれ異分子や「スパイ」が存在することをリアルに描いているところである。そのため、各部署で演じられる権力闘争が、複雑に入り込んだものとなるのである。

池井戸潤氏の作品は、半沢直樹シリーズにおいても、金融をはじめとする権力抗争がリアルに描かれてはいた。しかし、今回のドラマで新鮮なのは、技術の社会性(公共性)が問題となっている点、したがって権力抗争が公共的価値をめぐって闘われる点である。その意味では、このドラマは政治闘争の性格を帯びてくるのだ。

この点、下町ロケット2(ガウディ計画)では、医療技術が焦点になることによって、一層はっきりする。一方で、医療の革新的技術を推進する技術開発グループ(佃製作所など)が存在し、他方で、それに対抗しつつ、その開発を阻害し、その成果を簒奪しようとする寄生的グループが存在する。後者は、大企業と手を組み、政府官庁の許認可行政と癒着して利権を分け合っている。

ガウディ計画は、人々の生命や健康という明確な公共的価値に関わっている。それ故、ここにおける権力闘争は、公共的価値をめぐる政治闘争としての性格をはっきりと示すことになる。

技術者は当然、それぞれ己れの技術を生かそうとして奮闘する。しかし、それはただ技術の優劣をめぐって競えばよいというものではない。優れた技術でも、それが社会的に実現されるためには、それを利用する社会的承認を得る必要がある。それが市場化である。ここに企業家が働く余地がある。佃製作所の社長佃航平(阿部寛)は技術畑の社長として、技術を追求する情熱を持つ人物である。彼は特定の政治的信念は持たないが、その技術の自然な発展と社会的貢献を目指す限りにおいて、それを阻止する勢力と闘わざるを得なくなる。その限りで自然に「政治」にかかわるのである。
 
そこで敵として現れるのは、もともとの技術を開発した一村教授(今田耕司)から、新技術を盗んだ指導教授、貴船恒広(世良公則)と、それを支援する椎名直之(小泉孝太郎)ならびにPMDA(医薬医療機器総合機構)の滝川などである。ここには、既存の大学権威と大企業並びにそれと癒着した許認可官庁の連合体がある。彼らは互いに情報を共有したり、利害を調整したり、人事交流をしたりしながら、一体となった利益共同体を構成しているのである。

本来公共的な真理を目指すべき大学が私的利益のために真理の隠蔽に加担し、公共的利益を目指すべき官庁が個人的利益供与を行い、大企業の覇権的支配が市場の公正な競争を阻害する姿が、今日の我が国を至る所汚染しているからこそ、このドラマがこれほど支持されたのである。

それに対抗する良心的技術者、地方大学教授、それを支援するフリージャーナリスト(咲間倫子〕などが、それぞれの役割で活躍するわけである。それぞれに無力をかこっていたこの連中が、やがて一つの情熱に結集し、巨大な敵を打倒していく。そこに型通りのカタルシスがある。

ドラマでは、人の命がかかった技術であるにもかかわらず、利益至上主義の大企業が、検査の情報偽装まで行っていることになっており、その反社会性が際立っている。実際にこれほど正邪がはっきりしているものであろうか、疑問の向きもあるだろう。しかし、我々の社会のいたるところにこれに似た問題が散らばっているからこそ、聴取者はこのドラマが一定のリアリティを見ているのではないか?

以前(2012年5月15日「素人経済学」)ここで、三陸の震災復興に対する金融機関の支援について書いたことがある。

地域経済の復興という観点から、地元の信用金庫が地元企業の実態についての経験的知見から優良な融資を決定する知見を持っているのに対して、メガバンクはそのような地場産業から遊離した経営を長らく続けた結果、そのようなノウハウを持てなくなっている。

ところが、政府の信用保証が付くや否や、メガバンクが有利な資金力を利して、その物件を横取りしようとするのである。もし、メガバンクのやり方が通用したら、地場産業の実態に詳しい金融機関が淘汰され、地場産業と地域経済そのものにとって、大きな損失となることであろう。

ここにも、公共観点と私的利害関心の齟齬がある。したがって、ここでも、金融機関同士の対立が一種の政治闘争として闘われるという実例が存在するのだ。

下町ロケットは、このような暗黙の政治闘争が、我が国のいたるところで闘われつつあることを反映している。これを、単純に階級闘争と見ることはできない。技術者の間にも対立があり、金融資本の間にも対立がある。おそらくは、技術そのものの間にも、公共的観点をめぐって政治闘争が存在するであろう。

たとえば、最近、東芝の粉飾決算が露見して、大規模なリストラを余儀なくされた。経営者の付けを労働者が負わされたわけである。

今般発表された経営方針によれば、東芝は今後一層原発開発事業に依存するつもりのようだ。これまでさんざん反社会的なことを繰り返してきた東芝の経営陣であるが、今般の経営方針が何をもたらすかは、まだわからない。

しかしこのような経営方針の決定についても、内部に暗黙の権力闘争があった可能性は十分にあろう。原発開発技術が、公共的観点から見て決して価値中立的なものではないことを考えれば、企業内部の人事抗争が政治闘争の意味を帯びることは不思議なことではないのである。粉飾偽装を体質としている企業が、経営方針を一新する場合でも、粉飾をその本性にはらんでいる原発技術に比重を置いていくことは、「やっぱり」の感があるが、それでも会社内部にも隠然たる反対派は存在するだろう。彼らは、世論の展開(「機動戦」の行方)を、息を凝らしながら見つめているはずだ。

特定部署における権力闘争や人事抗争が、高邁な公共的価値を目指して行われることもあるが、逆に個人的野心や怨恨感情が背景となって、口実として公共的価値への訴えかけがなされる場合もある。そのような可能性を排除するのは、政治をただのきれいごとと見なすことであろう。いずれにせよ、公共的場面で公共性への訴えかけが政治的意味を帯びるのである。

私は、このような社会の多少とも技術的・専門的な部署が抱える問題場面で闘われる政治闘争を、グラムシの用語法をまねて「陣地戦」と呼んできた(2012年11月16日「革命的法創造」参照)。街頭闘争や選挙戦など権力奪取だけに焦点化しがちな政治闘争(これをグラムシは「機動戦」と呼ぶ)に対して、グラムシは陣地戦の重要性を強調したのである。「下町ロケット」はこの意味で陣地戦の一例なのである。

陣地戦において重要なことは、そこでの公共的観点を明らかにして対立軸を明確化することである。それによって初めてその政治的性格が浮き彫りになり、敵・味方の線引きおこなわれる。陣地戦を勝利的に闘うためには、その闘いの公共性に訴え、その問題事態を公共的論争の場面に引きずり出さねばならない。この仕事こそ批評である。

批評の政治を強調したのはベンヤミンである。それによって彼は、政治を審美化するナチズムに対して、芸術の政治化で対抗したのである。ナチズムによる政治の審美化は、ニュルンベルク党大会、ベルリンオリンピック、ベルリン都市計画など多くのところで見られるが、もともとスターリン・ロシアのやり口を模倣したものであろう(ナチズムがスターリンから模倣したものは、その他にも数多い)。

ロシア・アヴァンギャルドは、20世紀初めから極めて活発な活動を始めていた。マヤコフスキー、カンディンスキー、マレーヴィチ、ブルガーコフ、ショスタコヴィッチ、プロコフィエフ、タトリン…綺羅星の如き名前が並ぶ。しかし、ロシア革命後は、彼らの芸術はスターリンの蒙昧主義の中に理不尽な妥協を強いられていく。スターリンは、前衛芸術を全く解さず、ただ芸術の政治利用にしか興味を示さなかった。

ロシア・アヴァンギャルドは、妥協と闘争を繰り返しながら、政治的には敗北していった。それは、その政治がおおむねマルクス主義の政治の域を出なかったことによる。もしマルクス主義のように、政治の敵・味方があらかじめ階級的(経済的)に決定されたものであるとすれば、当面の社会問題を解決する政治課題はあらかじめ決定されているだろうし、その方向も与えられていることになろう。そうであれば、後はその目的のために人々を動員する方策だけが問題となり、その結果、芸術は政治の手段になってしまう。そうなると、「下町ロケット」のような政治闘争は存在しないか、非本質的なものと見なされてしまう。

しかし、芸術的前衛は政治的前衛に先んじて、問題を感知し、その粉飾に終始してきた保守的作品の権威に対して、政治的挑戦をしてきたのである。

とりわけ近代芸術がそうしたものであった。というのも、それ以前には芸術は正統的権威のために(時には王侯、ときには宗教のために)装飾を添える程度にしか見なされていなかったのだが、近代になってかかる権威から独立し、自立した価値を主張し始めるからである。その自律的価値がどこに存するにせよ、作品がかかるものとして存立するとなると、その価値をめぐる美学理論が独自に必要となる。近代芸術にはその美学的批評が付きまとうのはそのためである。それゆえ、政治は芸術の内部に存在した。政治の内部に芸術が存在したのではない。

特に小説は、自身の中にかかる批評性を内包しているものとして登場した。『ドン・キホーテ』が、騎士物語の批判として登場し、プルーストの小説がサント=ブーヴに対する批判として出発したようなものである。それ故、それはもともとジャンルそれ自身において、政治的批評性を帯びたものだったのである。それゆえ「芸術の政治化」は、もともと近代芸術が担っていた特性を純化して表現するものにすぎない。

Posted by easter1916 at 03:53│Comments(0)TrackBack(0)

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