星空文庫

星空文庫

理想の世界 (まとめ1/2)

  1. プロローグ
  2. ツチグモ襲来
  3. 闇の球
  4. イントロダクション
  5. 訃報
  6. ハノン
  7. アポトーシス
  8. ノト
  9. ひらめく力
  10. AURA
  11. 昔日の
  12. 水爆の男
  13. そろいたての歯
  14. アレキサンドライトの塔で
  15. 図書館
  16. 宝石窓職人
  17. セントデルタ
  18. 享楽の男
  19. 夕方の三人
  20. モエク
  21. 告白
  22. アールグレイ・ティー
  23. 婚礼の日
  24. クリルの心は
  25. 虚無への地平
  26. 挑発
  27. 聖絶令
  28. 断罪
  29. アジンとの遭遇戦
  30. 恩師
  31. 邂逅
  32. 出し抜き
  33. 利用されるもの
  34. 対話
  35. 癒着
  36. 託される真実
  37. なぜ助けた
  38. 超弦の子
  39. 喫茶店で
  40. 帰るために
  41. 動き出す、最後の勢力
  42. 援軍
  43. 運命の戦い
  44. 小さきアルマゲドン
  45. 二枚舌によって
  46. 敗北
  47. 死にゆく者たち
  48. 激昂
  49. 突破口
  50. TNT
  51. 離脱
  52. 惜別
  53. アーメン
  54. 超弦のしがらみ
  55. 逃がしはしない
  56. みかた
  57. 遺すもの
  58. メメントモリ
  59. 遺言
  60. 暗躍
  61. 破滅への潮流
  62. 決断
  63. 助けてあげて
  64. 解放戦線

プロローグ

     1

 ファノンには昔から、ふしぎな能力があった。

 それは怒りを覚えたときにしか使えない物だったが、その条件さえ満たせば、ファノンは思う存分にその力を暴れさせることができた。

 どんな力かというと――

「見える、見えるぞ――女の裸が、見える!」

 場所は露天風呂。竹で組んだ仕切り板に開いた穴に、みずからの目玉を密着させながら、ファノンはあたかもプレパラート上に新細胞を見つけた学者のように、興奮ぎみに述べた。

「だけど、いまいち全体が見えないな……穴を開けた場所を間違えたか……」

 ファノンがそうしゃべった次の瞬間、見えている穴が、闇に染まった。

「ドラぁぁぁっ!」

 さらに次の間には、仕切りをかち割りながら、長い、小麦色をした脚がファノンの顔面に食い込んでいた。

「うぉろふっ!」

 ファノンは温泉にぬめる石の床に、投げられた手裏剣のように、五体を回転させながら滑り込んだ。

「おいファノン。ずいぶん大胆じゃないか」

 穴の開いた仕切りから脚を引っこめると、そこから能面のように無表情をした少女が、顔をのぞかせた。

「きゃーん」

「いやーん」

「メイが穴から覗いてるわ、やーね」

「変態よー! すけべよー!」

 上記にて黄色い声をキャーキャーさせているのは、すべて男湯の若い連中である。

「……」

 女湯のほうからの脚の主、メイは男どもには目もくれず、いま自分が足の裏でぶち抜いた穴から、鼻の骨格整形をされて昏睡するファノンをにらんだ。

 メイの顔は脚と同様、小麦色。

 その顔立ちは整っていて、小顔に均整のとれた位置に目鼻が座り、その瞳も大きく黒目がちで、トレードマークの亜麻色の長髪のおかげで、誰でも遠くからでも彼女と判別できる。

 ファノンはまだ一度もおがんだことはないが、身体のラインもすらりと整い、まるで海魚のようなバランスの良さだった。

「つまり胸がない」

 ファノンが寝そべったまま目を力強くひらいたかと思うと、得意げに付言した。

 その瞬間、ファノンの両目に石鹸が突き刺さった。

「目ェェェェっ! なんか目が痛い! 二重に痛い!」

 床を転げ回るファノンを、メイが殺意のこもった瞳で見下ろした。

「またつまらん超能力を使ったのか、このカス」

「ひどいことをする……石鹸は目に刺すものじゃあないぞ」

「アアそうだったな、食べるものだった、お前にとっては」

 メイがふたたび石鹸をかかげ、ファノンの口に狙いを定めた。

「あ、いや……もう腹一杯だよ、おかげで。たっぷり両目で石鹸、食べられたからな」

 ファノンは目と鼻から大量の血を、軒先からこぼれる雨水のように垂らしながら、ゆっくり起き上がり、開いた穴から不機嫌な顔をのぞかせるメイに近寄った。

「ファノン。その力、悪いことに使わないってクリルさんに約束してたろ。その力は……」

 メイは感情の抑揚もなく、空豆のような顔に変形したファノンに、雑言をぶつけてきた。

 と。

 しゃべりかけるメイの額が、にわかに、チリチリと熱を帯び始めた。

 それはすぐに、耐えきれないほどの熱さとなって、メイの脳にヤケドを伝えた。

「あっぢぃぃぃぃ!」

 メイはのけぞって、女湯に首を引っこめた。

「フッ、アホめ」

 ファノンは仕切りの陰に消えたメイに向けてほくそ笑んだ。

 その手には、黒く渦を巻く、異形の球体を持っていた。

 だがその球体は、溜飲を下げたファノンの気持ちを見届けたとたん、するすると小さくなり、やがて消滅した。

 これこそ、ファノンが生まれながらに持つ力だった。

 この力は強力で、できることといえば……

「ドラぁぁぁっ!」

 幼馴染のキックを、顔面に買う程度の現象を引き起こせる。

「ぺらりおんっ」

 ファノンの顔は空豆状から、さらにへこんで、赤血球のようになった。

「この変態。お前のために言ってるんだろーが。聞こえなかったのか、その力を使うなと。この壁の覗き穴も、お前が今の力で作ったんだろう」

「……小さい穴だったはずだが、よく俺が覗いてるの、気づいたな」

 ファノンは膝を折りながら、気丈に語った。

「えーと……その黒い球体を出す技、日の光を一点に集めて物を燃やす技だろ。焦げ臭かったんだよ、さっきから」

「湯気に隠れて煙も見えないと考えたんだが……甘かったか」

「イヤ甘いとかどうとかじゃなくて、やめろよ」

「メイ……一つだけ言っておきたいことが」

 ファノンは指を立てて不敵に笑った。

「さっき変態と言ったな。この稀代の術士ファノン・ガルーシャ・レグナスを評するには、変態だけでは足りない言葉だよ」

「るせー変態。親からもらった名前を捏造すんな」

 メイが吐き捨てる。

 ちなみにこの変態の本名は、ガネーシャでもレクサスでもないし、ましてやガルーシャレグナスでもない。

 彼にはファノン・パケプケモンテンという、ちゃんとした名前があった。

 ただ当人は、自分以外の全員が、自分の名前を覚え間違えている、と信じているだけである。

「それより、クリルを出せ。朝風呂は休日をかみしめる俺たちの日課だろ」

「クリルさんはもういねぇよ」

「なんでだよ、いつもお前と来てるのに」

「今日はリッカさんと先に行って、もう出て行ったよ。だいたい何の用だよ」

「昨日の風呂覗きを撃退してくれたからな、その仕返しを。俺の収束レンズ攻撃に恐れをなしたな」

「いまやってた、虫メガネに太陽光を集中させるのと同じ原理の技か。地味すぎだろ」

「そんなことより、クリルはどこに?」

「知らん」

「ウソつけ」

「本当だよハゲ……いや待てよ……そう言えば、風呂を出る二人とすれ違いざま、ゴドラハンの森に行くとかいう話が聞こえたような」

 押し問答を中座して、メイがひとりごちた。

「ゴドラハンの森か! よし、俺も行く! たまにエロ本見つかるんだよな、あそこ」

「あそこはここと違って、水爆津波の放射線が飛びまくってる。あまり長居できる場所じゃあない。なんでそんな所に、命をかけてエロ本探しに行ってんだよ。しかも日常的に入ってんのかよ」

「なあメイ。俺たちの寿命は、短いんだよ……」

 にわかに、ファノンの表情が鋭く冴えた。

「む、なんだよ……」

「何かやったら死ぬかもしれない。でも、何もやらなくても死ぬんだ。だったら、一度きりの人生なら、捨て身でかかるべきだ。それを、子供達に見せてやるべきだ」

「うん……まあ、そう、だけどな……」

「俺は子供達に呼ばれたいんだ。羨望をこめて、親しみをこめて――エロ本読むマン、と」

「けっきょくエロ本かよ」

 メイが顔に手を当てて、あきれた。

「ともかく俺はいくぜ……あそこには自警団も歩き回ってるはずだから、隠れるのも醍醐味のひとつさ」

 ファノンは、首だけ男湯にのぞかせるメイから顔を逃し、森のある東を見つめた。

「おいファノン、行くのかよ」

「冒険が俺を呼んでる」

「お呼びじゃねぇよ、お前みたいなの」

「止めるなよ」

「止めないよ、アホらしい……おいファノン、行くのなら槍を忘れるなよ」

 メイはあきれ加減に息をついたが、ちゃんと忠告も添えた。

 ファノンは片手を上げてメイの視界から消えると、男湯の扉を出て、松の木の床の張られた更衣室ですこし体を冷ましてから、適当に体を持ち込みのタオルで拭いて、この村の民族衣装に手を通した。

 それを終えると、ファノンはやや足早に更衣室を抜け、銭湯出入り口の引き戸をスライドさせた。

 ファノンの足元には赤い光沢を放つ宝石、ルビーの敷石が迎えた。

 続いて見える、なだらかな坂の下には、幅の広い、浅い川が寝そべってせせらぎを奏で、その水面にのぞく小石群にも、七色の宝石がきらめくのが見えた。

 この世界の五分の一を占めるのは、種々の宝石。

 それがファノンたち人類がよりどころとする、セントデルタの村だった。

ツチグモ襲来

 場所は離れ、セントデルタより3キロ東の、葛の木のツタがからむ、高層ビルでのこと。

 その傾いたビルの中に、ファノンの探す目標人物がいた。

「おーい、クリルー。見つけたよーエロ本」

 ショートカットヘアの、大弓を背中にかついだ褐色の女性リッカが、朽ちたアルミ製の引き出しから、腐ってほとんど黒ずんだ本をつまんで見せた。

「ナニ見つけてんのよリッカ……そんなのファノンしか喜ばないよ」

 黒い長髪をうしろに白いリボンでたばねた女、クリルは左耳からずれかけた、アクアマリン製の補聴器を耳に付け直してから、ため息をついた。

 クリルは左耳が少しばかり不自由なのである。

「しっかし、ファノンはこの本のためにビルに入るらしいけど……これ使えんの? 表紙は腐りすぎてて、めくれやしない。しかもその表紙だって、水着の腰のくびれしか見えないんだけど。ここ以外は想像でまかなうの? この場合」

「何をまかなうのよ。そんなの知らないよ。そのへんは男の世界なんでしょ……それに500年も経てば、雑誌なんか、みんな朽ちちゃうよ」

「イヤ待てよん? 腰のくびれだけじゃー、男か女かさえわからんよねえ。その場合も想像でまかなうの?」

「それより、探しなさいよ。あたしが探してんのは、そういう本じゃなくて、ちゃんとした本でしょ。歴史書でもいいし、このビルの報告書とかでもいいし、新聞でもいい。一行でも、過去のことがわかるものを探すの」

「そんなこと言っても、見つからんじゃん」

「これであたしの小遣いも変わるのよ。それまで気張って護衛しなさいよ、スーパーハンターさん」

 叱咤するクリルだが、その本業は、教師。

 だが、ときおり休日を使って、500年前にほろびた文明の遺物を探して、美術館なり博物館なり図書館なりにおさめるため、こうしてセントデルタ外に出るのである。

 この対価は微々たるものではあるが、失われた500年を取り戻すのに大切な役割を持つ仕事であることは、クリルもリッカもわかっている。

「これは文献としちゃー使えんの? 古代の風俗史ってことで」

「腰の肉しか写ってないものなんか、ファノンの煩悩をかきたてる以外に使えないでしょ」

 クリルはリッカの意見を弾いてから、四角く切りだされた窓の外を眺めた。

 眼下には、地平線を埋めるほどの、茫漠とした広葉樹の森林が広がっていたが、ところどころにキラキラと、ガラスのように光を反射する巨岩がみえた。

 もちろん、それはガラスではない。

 方錐形に地面に突き刺さっている緑色の岩はエメラルド、広場の池のように赤い楕円を広げているのはルビー、いびつに固まった、民家ほどの大きさのダイヤモンドやサファイアがそこかしこにゴロゴロと頭を伸ばしていた。

 それらすべてが、高純度の宝石である。

 クリルの見下ろす景色の一部分に、大きなくぼみがあり、そこにさまざまな宝石瓦の乗っかる住居が見え、そこから、のろしのような煙が数条、たなびいていた。

 そして、その村落でいっそう主張しているのは、美しい南国の海から切り出して固めたかのような、高い高いエメラルドグリーンの塔。

 500年前の、第三次世界大戦を生き延びた唯一の人間エノハが作った、そしてクリルとリッカが生まれた村、セントデルタだ。

「どうしたのクリル、窓なんか見て。もうお家が恋しくなった?」

「イヤ……ちっちゃい村だなーと思って。あんなのが、人類最後の拠り所なんだなって」

「またエノハ様の悪口? それはいいから、本をせめて一冊は見つけようよ。まだ何も見つかっとらんじゃん」

「そろそろお酒飲みたいしね」

「お酒って……まだ昼にもなってないよ?」

「せっかくの休日なんだし、楽しまないと。お互い、寿命も短いんだしさ」

「また出たよ、その話」

 リッカがいささか、ウンザリ気味に返した。

「もう5階ぶんほど探したら帰るわよ」

 クリルは居並ぶオフィスデスクにもどろうとしたときだった。

 背後の、窓の外から、ドンッと心臓を揺るがす、大太鼓を思い切りかき鳴らしたような爆音がとどろいた。

 それから、メキメキと音をたてて倒れる、大木の声なき断末魔が数本分。

 その異常事態に対応が素早かったのは、リッカだった。

 音がするや、クリルが反応するよりも先に、リッカは窓の隅にはりつき、こそっと外を盗み見ていた。

 その機転と機敏さは、やはりハンターとして一流だと、クリルはおもった。

「どうなってるの?」

「クリル、声が大きい。まだ残ってたよ、ツチグモ」

 リッカは隠れ見るのをやめて、壁際にしゃがみこんで、外側を親指でしめした。

「ツチグモが……?」

 クリルはその名前をオウム返しにした。

 ツチグモ。

 それは第三次世界大戦の始まる少し前から、投入されていた無人兵器だった。

 ツチグモという名のしめすとおり、足が八本あるその兵器は、象より小ぶりではあるが、砲門は20箇所、それらのほとんどが光とおなじ秒速30万キロのスピードで対象をそぼろに刻むレーザー砲をそなえており、狙われればとうぜん、人間に回避は不可能。

 くわえて前部に八つそなわる高度のセンサーは、赤外線センサーや暗視機能はもちろん、動物の体表を流れる生体電気の動きも読み取ることができるため、対象のつぎの動作を、動く本人の自覚より早く検知することが可能。

 ようするに、人間が避けようとする方向に、レーザー光線を放てるわけだから、百発百中、しかも確実に急所を射止められるという意味になる。

 燃料は水さえあれば、常温核融合エンジンでいくらでも生み出せる。

 水のなかの水素を分離して、核融合で調達しているものだから、机上の理論においては何万年でも人間を狩ることができるのである。

「あいつらはエノハが駆逐したはず。セントデルタどころか、この島自体から奴らは消されたはずだよ」

「エノハ様だってもとは人間だったんしょ。勘違いくらいするさ――問題は、ツチグモの狙いは、あたしたちってわけじゃないってこと」

 リッカがしゃべっている間にも、何回かレーザー光線の耳をつんざく裂音が、届いてきた。

 ツチグモが誤射や無駄弾を撃つことはありえないので、音のするぶんだけ、誰かが殺されているということだ。

「誰か襲われてるのかもしれない。助けにいかなくちゃ」

 クリルがつぶやく。

「モウ間にあわないよ。行けば、あんたも無駄死にすんよ」

「それでも、あたしは行くわ」

「いちおう、止めたからね?」

 リッカは、案の定の返答だといわんばかりに息をついた。

「リッカ、お願いがあるんだけど」

「酒おごってくれるなら、何なりと」

 リッカは内容を聞きもせずに首肯した。

 そういう反応を取るのも、クリルを信頼しているからに他ならない。

「いいわ、それでね……」

 クリルは壁に寄りかかるリッカに近づき、何か耳打ちしたあと、オフィスを飛び出た。

「じゃああたしも、あたしの仕事すっかね」

 リッカはクリルの背中を見送ってから、何度か深い呼吸をして立ち上がると、背負っていた弓を手にもちかえ、弦の張りを指でたしかめた。

闇の球

 少し前、といっても30秒ほど前のこと。

 ファノンはダイヤモンドの槍を固く握りしめ、意気揚々と、森の獣道をひとりで進軍していた。

 だが、その意気揚々ぶりは、すぐに意気消沈にとって代わることになった。

 細く踏み固められた獣道の向こうにいた、数人の知り合いと目があってしまったのである。

「あ、ファノン……ファノン・パケプケモンテン」

 ファノンと同じように、宝石の槍で武装した男のひとりが、大声をあげた。

「おいこらファノン! 外出許可はとったのか!」

 筋肉質な男がかなり遠いところから叫んだ。

 建築屋のボワニ。

 趣味はダンベル上げ、三度の飯のオカズにはかならず肉を食べるほどの肉体派であるが、20秒もあれば子供と仲良くなれる人物としてのほうが有名だ。

「パケプケモンテン……? ここにいるのはファノン・ウォリシス・フォレスターだが……」

 ファノンは困ったように首を回し、パケプケモンテンさんを探した。

「うるさい、お前のことだよバカ! ここに来るなら、クリルみたいに外出手続きしろよ。遭難した時、わからないだろ」

 めんどくさげに、ボワニがもう一度ほえた。

「ボワニさん、クリルを見たんだな?」

 ファノンは相手の話にはまったく耳を貸さず、たずねた。

「クリルを見たかだと? 今は違う話をしてんだろ。エノハ様に言われてるだろ、ここに来たけりゃ、役所で許可を取ってこい」

 ボワニの横にいた細身の15歳、ベチが重ねる。

 前時代に絶滅したブドウ業を試行錯誤の末、14歳のときに復活させ、人々にその味を教えた男である。

 かなり真面目で、冗談を言うこともなく、見ても聞いても笑わない。

 もちろんファノンのしょぼくれた話題そらしなど、効くはずがない。

「まあまあ、話をきいてやりましょうよ」

 なだめたのは、眉のさがった顔貌のおかげで、いつも泣きそうな顔だと誤解される男モーテン。

 これでもセントデルタに三人しかいない税務官のひとりである。

「ファノンくん、クリルさんもここに来ているのか?」

「ああ。あっちはちゃんと手続きは踏んでるはずだから、俺はその随伴だよ」

「随伴だよ、じゃねえだろ。2分くらいで終わる手続きを、どうしてそうも面倒くさがるかね。とにかく帰れ。このことは自警団長リッカと、エノハ様に報告する」

 ベチがファノンの肋骨を指で押さえながら、追撃した。

「おい、チクんのかよ」

「チクるなどと、小学生レベルな話にするなよ。お前はエノハ様の禁をやぶったんだ。お前のために言ってんだぞ」

「いや、俺の話も……」

 ファノンがそう申し開きかけたとき、だった。

 脈絡も予告もなく、目の前で怒っていたベチのこめかみと、そのうしろで腕を組んで見ていたボワニの首に、いきなり大きな穴がひらいたのである。

 そのまま穴は横へとスライド式に広がり、あたかもホースの水で、土に穴をうがつように、ベチの後頭部と、ボワニの延髄を切断し、ふたりは目を剥いたまま血を噴き出し、地面にくずおれた。

 少しのタイムラグののち、一緒に立ち割られたうしろの大木が炎を上げて、めりめりと音を立てて巨体を地面に沈めていった。

「え……ベチ、ボワニ……?」

 ファノンは呆然と、にわかに死体へと変わった二人の知人を見下ろし、固まってしまった。

 ファノンには、何が起こったのかわからなかった。

 ファノンの肉眼からは、ベチとボワニの体に、とつぜん致命的な穴が開いたふうにしか見えなかったが、じっさいはこうだった。

 正体はフッ化重水素を由来とする、不可視の化学レーザー。

 50キロワット、つまりエネルギーの射出口付近は19200度という、超大出量の赤外線エネルギーである。

 とてつもない高熱源ではあるが、3.8マイクロメートルの赤外線なので、380ナノメートル以上の光しか見えない人間には、判別不可能な光なのである。

 ゆえにファノンにはレーザーをとらえることはできなかったが、その動線だけはくっきりと認めることができた。

 岩石も気化させるほどのエネルギー。それの通る道には、焦げ目をさらした小さなトンネルができるからだ。

「ファノンくん!」

 モーテンが飛びかかるようにして、立ち尽くすファノンを押し倒し、ともに茂みの中に飛びこんだ。

「あ……あの二人を助けないと」

「あれで助かるわけ、ないだろう」

 抱きすくめるようにファノンの両肩を掴み、モーテンがきつく諭したが、モーテン自身、顔から血の気が引いていた。

「今は僕たちが生き延びることだけ考えよう」

 モーテンは茂みのヤマツツジを手でかきわけ、向こうを監視しながらつぶやいた。

 ファノンからも、そこから外部がうかがえたが、熱線を放った相手はまったく見える様子はなかった。

「今死んだベチとは、長年ケンカしあってたんだ。僕はあいつが嫌い。あいつも僕を嫌い。さっきも言い合ってたところで、君と出くわした。死ねばいいと思ってた矢先が、これだ。寝覚めの悪い話だ」

「モーテン……」

「ひどいよこれは。謝ることさえできなくなってしまった。ブドウの復活には、かなりの年月をついやしたのは知ってる。そこは正直、すごいと思ってた。これから何十年、セントデルタの人々はブドウのない暮らしをするんだろうな」

「そうだな……それにボワニのこと、あいつの奥さんになんて報告すりゃ、いいんだ」

「とりあえず逃げるよファノンくん。僕たちだけでも生き延び、エノハ様にしらせないと。何かが村に侵入し…………ウグ」

 そこまで言ったモーテンの腹に、いきなり円形にコブシ大の穴が開いた。

 その穴もまた、あたかも木登りするトカゲのような動線をなぞって、モーテンの頭頂部までのぼって、その顔を両断していった。

 ボゾボゾっと、血と肉を蒸発させる音を立て、肉の焦げる醜怪な臭いを放ちながら、膝立ちするモーテンは仰向けに倒れていった。

「モ、モーテン!」

 そう叫ぶファノンの肩と脇、腰を、レーザーがすり抜けて、そのうしろにある木々をなぎ倒していった。

 もちろん、そのレーザーも目視できたわけではないが、鬱蒼とした木々に穴が開くから、軌道だけはわかるのである。

 一瞬にして火を起こす大木や葉が、黒い炭の粉になってファノンの頬を撫でる。

 ファノンでも、理解できた。

 今のレーザーは、あきらかに、わざと外されたものだと。

 レーザーはその特性のために、前から来たのか、うしろからきたのかもわからない。

 どちらに逃げればいいかもわからない中、ファノンの『前』から声が起こった。

「ファノン、やっと会えたな」

 肉感のある、人間の男の声だったが、それはファノンの知らない人物のものだった。

「何者だ」

 ファノンは精一杯の強がりとともに、厳しくたずねるつもりだったが、それと裏腹に声はすっかり震えていた。

 一瞬で知人を三人も殺した相手なのだから、自分の生殺与奪は思うがまま。

 こんな声音だと、相手に付け込まれるのが目に見えているのに、どうしても声帯の制御ができなかった。

「まずは出てこい、お前も横の男のように死にたいか」

 声の主はファノンと雑談を楽しむつもりはないようで、要求だけを告げてきた。

 とつぜんの脅迫そのものの命令に、ファノンは無策を強いられたまま、両手を挙げて立ち上がり、茂みから一歩進んだ。

 数発のレーザーのせいで、森は完全に森林火災のありさまで、木は炎にただれ、熱風をあたりに吹きさらしていた。

 立ちあがっているにもかかわらず、相手の姿は、まだファノンからは観察できなかった。

 だが、それは短時間だった。

 炎と黒煙の踊る木々の中から、ファノンの部屋より少し小さいほどの、クモ型のマシンが現れたのである。

 ファノンは知らないが、それ以外のセントデルタ人はこれのことを知っている。

 ホロコースター・ツチグモ型。

 かつて、人類の虐殺に使われた、無人の軍用兵器である。

「な、なんなんだよ、お前は」

「お前と、話がしたいと思っていたのさ。俺と同じ……いや、それ以上のことのできる、今の所、この世でただ一人の、超弦の子ファノン。

 お前の力は、ただ太陽の力をあつめるだけの、しょぼくれたものじゃあない。俺と一緒に来い。お前には、宇宙の不条理を断つことができる力がある」

「俺を、知ってるのか」

「知ったのは最近だよ。もしも赤子の時からお前を知っていれば、そのときに引ったくって洗脳していた」

 ツチグモが含みを持たせながら、強硬さをこめてファノンに近づこうとしたときだった。

 にわかに、そのツチグモの背後から、アクロバティックな動きで、細身の人物がツチグモの脚を伝って駆け登り、手にしていた泥の塊を、ツチグモの八つのカメラ・アイに叩きつけ、さらにその周りにも土を塗りたくった。

 ファノンには、その殺人マシーンに密着して工作するという危険行為を、たやすくやってのける人物の名前が、すぐに浮かんだ。

「クリル!」

 ファノンが叫ぶのと同時に、クリルはツチグモを蹴って、地面に飛び降りていた。

「何やってんのよ、あなた」

 クリルは不審者を尋問するように、顔をしかめてたずねた。

「お前が心配で、ついてきたんだ」

「あーもー……とにかく隠れて。とてもじゃないけど、ツチグモに無手でいどむのはマヌケすぎる」

 クリルがそう決めたところで、だった。

 動きを止めていたツチグモが、八本のうちの一本の脚を、背中を向けているクリルの腰にからめてきた。

「うっ」

「甘いんだよ、ツチグモは耳もいい」

 ツチグモが得意げに、みずからの機能の説明をする。

「クリル!」

 ファノンがクリルに駆け寄ろうとしたとたん、その眼前に、爪のように尖ったツチグモの脚が飛んできた。

 それはファノンの鼻先に突き刺さろうかという、数ミリ直前で寸止めされた。

「さてファノン。お前にふたつの選択権をやる。俺とともに来るか、それとも、ここでこの女の拷問死を目の当たりにしてから俺と来るか、だ」

「ファノン、こんなの聴いちゃダメ。逃げて!」

 クリルがツチグモの爪に腰をつかまれ、空中にぶら下げられたまま、さけぶ。

「まずは、こいつの脚をつぶす。つぎは太ももから骨を抜きとる。続いて手をちぎって捨て、二の腕も折る。傷からこぼれる血はレーザーで焼き止めるから、しばらくは安心だ」

「やめろ……」

「四肢をもいだら、つぎは腹だ。腸、子宮、脾臓、肝臓を、ひとつひとつえぐり出し、森に捨てて行く。まだ死なないぜ、これだとな」

「やめろ……」

「いいや、これはお前の決断が招くことだ。この女の死体は全裸にしてセントデルタに放り捨てる。村人全員の、いい思い出になるだろうさ」

「やめろ……!」

 ファノンがもう一度、それを言ったときだった。

 あきらかに、周囲の景色が変わっていった。

 クリルの視界が、少しずつ暗くなってきたのである。

「……!」

 クリルとツチグモが、ともに空をあおぐ。

 クリルは不審に思ってそうしたのだったが……ツチグモは違った。

「予想通りだ……」

 クリルを束縛するツチグモのスピーカーから、羨望ともとれる声音がもれた。

 そこに隙が生まれているのを、見逃すクリルではない。

「リッカ! お願い!」

 クリルが片手を挙げた瞬間。

 上空のほうから、駿馬のように、矢が一本飛んできた。

 それはクリルをつかむツチグモの爪の、関節にあるわずかな動力パイプを切断した。

 これだけでツチグモの脚が使えなくなることはないが、それでもツチグモはクリルの体を握りしめるための握力を、再計算するのにわずかな時間を要することになった。

 そして、その時間をこそ、クリルが期待していたものだった。

 クリルはとっさに腰にからみつく爪から身を引っこ抜くと、その脚を蹴って土に降りた。

 ファノンは我を忘れているのか、その間、ずっと手のひらをツチグモに向けたままだった。

 クリルはそこから、やっと悟った。

 人の髪の毛を焦がすときと、ファノンが同じ格好をとっていることを。

「これは……ツチグモの周りを暗い球体が、とりかこんでる。まさかこれは」

 クリルは再びファノンを見返した。

「ねえファノン……ファノン!」

 何か怖くなって、クリルは敵をにらむファノンの名前を呼び止めた。

 ファノンは少しの間まで、クリルの声が耳に入らないようだったが、にわかに眉をあげて、信じられなさそうにクリルを見返した。

「ああクリル……無事だったか……」

「ファノン……大丈夫なの?」

「クリル……俺のうしろへ。今なら、できる気がする」

「なにを?」

「わかるんだ……今までとは比較にならない力が俺に集まってる」

 ファノンが自信をこめて、そう言った瞬間、だった。

 ツチグモの周囲が、さらに暗くなり、そこだけがまるで新月の夜の景色のように闇に覆われた。

「はは、いいぞファノン。思ったとおりだ。お前こそ超弦の子……俺の夢を叶える力だ……」

 意味深なことを吐きながら、そこでツチグモは黒い巨大な玉に飲みこまれていった。

「光が集中しすぎて、まわりが黒くなってる……ファノン、これは」

「わからないけど、太陽光をあいつに集めて倒したいって思ったら、できたんだ……待っててくれ、いまこいつを焼き殺す」

 両手を前にかざしていたファノンが、その手のひらを握りしめると、さらに光がツチグモに収束していった。

 光も通れない、暗い球状の闇の中からは、なんの音も聞こえてこない。

 光と同じく音も波長ゆえに、球体から逃げられず、ファノンの力によって、一箇所に集められているのだ。

 ツチグモは光からのがれるべく移動を繰り返すが、そのつどファノンの操作で闇の球に追われ、かくじつに焼かれ続けた。

 みるみるツチグモの動きは鈍くなり、やがて闇の球体は動かなくなった。

 ファノンはそれでも、念のため力をこめてツチグモを焼き続けていたが、闇の球の周囲の土が赤く輝くマグマになりだしたのを認めると、さすがに力を弱めていった。

 それとともに、すぐに景色が晴れて、球の中のようすが取り戻された。

 そこでは、身体の左半分を溶かされたツチグモが、地べたに腹をつけて絶命、いや、機能停止していた。

 その有様を確認して、ファノンはクリルへ振り向いた。

「……無事か? クリル」

「おかげで……でも、その力。どうしたの。いままで虫メガネと同レベルのことしかできなかったのに」

「わからない。クリルをひどい目にあわせられない、と思ったらできたんだ」

 ファノンがそう告げるが、それは嘘だった。

 『太陽を集める力』は、激しい怒り……もっと言えば、憎しみに反応することを、何年もこの力と付き合ってきた当人であるファノンが、わからないはずがなかった。

 だがそれは、あまり胸を張って話せるようなことでもない気がしたので、わからない、で済ませたのである。

「ん……そうなの」

 クリルは顎に手を添えて、少し思案をめぐらせてから、ファノンを改めて見た。

「ねえファノン……あたしのために、あんなことができたのは喜ぶべきところかもしれないけど、もうあの力は使わないで。あの力はあなたを孤独にする。孤立させる力」

 ファノンより2センチ小さなクリルが、ファノンを戒めるように、強く見つめた。

「なんでだよ」

「そのうちわかる……いや、わかってからじゃ遅い。約束して」

 クリルがあまりにも真摯にまなざしを向けるため、ファノンも飲まれる形で、うなずかざるを得なくなった。

「わかった……約束する。このことは、誰にも言わないよ」

 とはいえファノンにも、クリルのほのめかす言葉の意味は、伝わっていた。

 この力は、指のつけられた銃のトリガーと同じだ。

 そのトリガーにかかった銃を前にして、人は平常通りに、いままでと同じようにファノンと接することができるだろうか。

 それがわかるからこそ、ファノンは約束を切ったのである。

「うん、ありがと」

 クリルはうしろに束ねた髪を揺らし、にこりと微笑んだ。

「さあ、帰ろうよファノン。エノハにバレる前に」

「いいや、そうもいかんな」

 ファノンのうしろで、にわかに否定の声がまくりあがった。

 ツチグモからの声だった。

「こ、こいつ、まだ!」

 ファノンは振り返りざま、ツチグモに手をかざし、闇の球の発生を強くイメージした。

 これで再度、ツチグモを飲みこむブラックホールを発生させることができる。

 かと思いきや。

 ツチグモの目前に生じたのは何とも頼りない、こぶし大ほどの球体にすぎなかった。

「え」

 予告なき力の弱体化に、ファノンは息をするのを忘れるほどに固まった。

 その間にツチグモはよろつきながらもファノンに近づき、腕を振るう。

 運動不足ぎみのファノンには、それに対処することなど、できるはずがなかった。

 ファノンは、横薙ぎにされた爪を腹にもらい、ゴムまりのように吹っ飛ばされて、背中を強く大木に叩きつけられて土に落ち、そのまま動かなくなった。

「ファノン!」

 クリルは己の背後に追いやられてしまったファノンの元に駆け寄りたかったが、それはできなかった。

 それをすれば、目の前のツチグモが、クリルにも爪を食らわせるからだ。

「光量子をあやつる技とは、なかなか恐れ入ったが、派手な見た目ほど強大な力じゃないな……誰かが、わざとこの力しか授けなかったとしか思えん」

「くっ……」

 クリルには、このピンチを切り抜ける閃きも湧かず、ほぞを噛むしかできなかった。

 それでも、ファノンを守るためには、せめて相打ちに持ちこまないと……。

 クリルがそう決意した瞬間。

 クリルの運動スピードを越える速度で、クリルにもツチグモの爪が薙ぎ払われてきた。

 そもそもツチグモには、敵の運動神経まで計算した上で攻撃する目と知能があるため、人の身たるクリルにこれをかわすなど、できようはずもなかった。

 そのことを知り及んでいるクリルは、初めから無傷で済むことはあきらめていた。

 その代わりにクリルは、爪から離れるように、力の限り、逆の方向へ飛んだ。

 来る方向から逃げるので、これで威力を軽減させたようというわけだ。

 理想的なタイミングで飛んだクリルに向けて、重い一撃が、両腕でかばう腹にのしかかる。

 内臓すべてが揺さぶられるほどの振動と衝撃に、クリルの数十キロはある身体はあたかも小石かボールのように、軽々と吹き飛ばされ、ファノンとは反対側の大木に、したたかに打ちつけられた。

 クリルはあまりの強撃に意識もゆらぎ、受け身も取れずに土の上に突っ伏して倒れた。

「ファ……ノン」

 クリルは息ができないながらも、精一杯、顔を上げ、動かぬファノンへ声をしぼった。

 そこではすでに、ツチグモが倒れるファノンを担ぎ上げていた。

「では、こいつをもらってゆく。超弦の魔王になってもらうためにな」

 よろよろしながらも、ツチグモは残った三本の脚で立ち去ろうとする。

「ま、待ちなさ……い……」

 クリルが腹ばいのまま、片手をあげてツチグモをとどめた時、だった。

 とつじょ、クリルの視界の隅にそびえていたアレキサンドライト宝石の塔から、一条の赤い光線が伸び出てきた。

 その光はツチグモの数メートル離れたところに着弾したのち、地走りのように地面をうねるようにして、ツチグモへ向かっていった。

「――ちっ……」

 ツチグモから舌打ちがもれる。

 そのままツチグモは身じろぎする暇もゆるされず、光線によって体を刻まれて、メラメラと炎を上げながら、地面に抱きついていった。

 そのさいに、ツチグモの両足によって、お盆でも持つように抱えられていたファノンも、土の上に放られた。

「ファノン……」

 クリルはまだ痛む体を起こし、よろよろと千鳥足で歩き出すと、火球になったツチグモから、ファノンの両脇をつかんで引きずり離した。

「……」

 安全だと思えるところまでファノンを運んだクリルは、そこでファノンをやさしく下ろして、レーザーの飛んできた、緑色に輝く塔のほうへ首を向けた。

 目のいいクリルには、はっきり見えた。

 そこから小さく張り出たテラスから、一人の女性がこちらを見下ろしていた。

 その女性の前腕からは、刀の柄ほどの太さの砲塔がついており、それがこちらに向いていた。

 ツチグモのものとは違い、可視色のついたレーザーを放つ武器。

 クリルも、気絶しているファノンも、この武器を腕に内蔵した女性を知っていた。

 500年前の第三次世界大戦をただ一人で渡り切り、永遠の命を手にして、この地上で神を自称するようになった女。

 エノハである。

「あいつの力は、借りたくなかったんだけどな……」

 クリルはファノンを、膝の上に抱きあげた。

 小さくうなだれて瞳を閉じるファノンは、その前髪の陰から、赤い幕をおろすように、大量の血をこぼしていた。

「ファノン……あなたは死なせない。守ってみせるからね」

 山火事の様相となった森の中でクリルは、気絶したファノンをしばらく見つめてから、つぶやいた。

イントロダクション

 第三次世界大戦のことはわからないが、第四次世界大戦のとき、人類は石器で戦っているだろう、とアルバート・アインシュタインは言った。

 これは彼持ち前のユニークな皮肉だったが、おおむね、未来は正しい形で具現された。

 なんにせよ第三次世界大戦はまず、金も人脈もない、ひとりの男が、ぐうぜん出会った若いアラブの石油王を、理論で説きふせ涙で揺さぶり、時間をかけ手間を使って、洗脳することから始まった。

 そうして男は、石油王のかんぜんな同意のもと、数百発の水素爆弾の仕入れに成功したのである。

 男はそれを、船団をもちいて南極まで運び、氷に穴をうがち、124発の水爆を設置、世界への破壊宣言もなく起爆ボタンを押して、その氷床の西部分をまるごと焼き払って、地球全土に60メートルの津波と、40メートル以上の水位の上昇をおこし、未曾有の死者を出したのである。

 これは、のちに水爆の男と呼ばれる人物の大凶行である。

 残った数億人は寄り添い、お互いを助け合うと約束したものの、結局はその残数を派にわけて、意見を通そうとして戦争をおこし、虐殺の風を天地に吹き荒れさせた。

 それもやがて――ただ一人の少女・エノハの勝利で、数年後に終わった。
 その日、人類が自然界を牛耳った戴冠の日は終わりを告げ、新たな時代が遂行されることになる。

 その新時代の名前をつけるものは、まだ現れてはいないが、今から起こる世界大戦は、たしかに石器を持った人々の手によって始められ、そして終わらされようとしていた。

訃報

        2

 二日後。

 人類最後の村落・セントデルタの朝は、雲の出た日になると、たいへんカラフルになる。

 大地の5分の1以上を占める宝石――直径1あるいは2キロメートルはざらにあるガーネットやトパーズ、ダイヤモンドやシトリン、エメラルドなどの高純度巨石が、太陽光を反射して、雲にその色を写しだすからだ。

 ジュエル・プリズムと呼ばれる現象だが、セントデルタに住み慣れる人々に、その景色は、美しいとは感じられてはいるが、珍しいものではない。

 そんな朝の七分晴れ、メイが息を切らして、部屋に飛び込んできた。

「ファノンが……死んだぞ!」

「あ?」

 ベッドに横たわり、漫画を読んでいたファノンが、顔をあげた。

 ツチグモによって頭に包帯を巻き、頬や肩にもヤケドを負い、そこにアロエを塗布した湿布を貼ってはいるが、ファノンは健康そのもの、体力も有り余りすぎて、頭の中は青少年らしく、ロクでもないことで一杯だった。

「突然きて、何いってんだお前。俺がもし今エロマンガを読んで何かに打ちこんでるのを目撃したら、どうするつもりだったんだよ」

「……すまん、言い間違えた……亡くなったのはファノンじゃなく、ハノン……ハノン先生だよ」

「ハノン先生が? いつ亡くなった」

 ファノンは漫画を閉じて、メイにそうたずねるが、なぜ亡くなったのか、その理由は聞かなかった。

 このセントデルタ村にいる人間なら誰しも、ひとが突然死ぬ理由は、ほぼ一つしかないことを知っている。

 ――それは、老衰である。

 ただし、ふつうの老衰ではない。

「昨日だよ。20歳になってたからな、ハノン……いつ逝ってもおかしくなかった」

 メイは涙に声をぶれさせながら、こたえた。

「なぜ、俺に教えてくれなかったんだ……俺なら怪我をおしてでも見送りに行ったのに」

「そういうのがイヤだったのさ、あの人は」

「……ハノン先生の葬式は今日の何時だ?」

「もうすぐだよ。遺体は祭壇へ。まもなくエノハ様が喪主を取り仕切りにいらっしゃるはず」

「喪服に着替えないとな。今日もパジャマで過ごせると思ってたんだけど」

「クリルさんはどうする? まだ寝てたけど」

「起こすに決まってるだろ。あいつだってハノン先生とはよく酒を飲んでた」

 ファノンがそう懐古していると、ゆっくり木の扉があいて、寝ぼけ眼のクリルがあらわれた。

「『あいつ』じゃないわ……お姉ちゃんと呼びなさい……」

 クリルは文字通り、先ほどまで睡魔の誘いに任せていたのだろう、胸元ののぞける紫のタンクトップ姿だった。

「クリル、起きてたか」

「今起きたところ。話は聞いちゃったわ……聞きたくない話だった」

「俺だって信じたくない。喪服着ろよ。飲みトモの葬式、行っとかないと後悔するぞ」

「当たり前じゃない。飲む理由がひとつ減ったんだもの。文句、言いにいかなくちゃね……あたしの喪服どこ?」

「自分の部屋の、タンスのすみっこにかけてあったろ」

「えー……あそこ、あったっけかなあー」

 クリルは頭をかきながら、きびすを返して自室にもどっていった。

「何でクリルさんの服の場所、知ってんだよ」

 メイがツインテールを手で直しながら、いささか詰問かげんにたずねた。

「家族だしな」

「……それ以外にもあるんじゃないのかよ、この変態」

「しょうがないだろ、あいつが自分でやらないんだから、俺が片付けてんだよ」

 ファノンが肩をすくめていると、クリルが真っ黒のワンピースを着てもどってきた。

「着替えたよ、いくよ皆」

「クリルさん……学校の教師とはおもえないルーズさですね」

「あら、ルーズだけどキュートなクリルさんとして、昔はモテたんだよ」

 クリルはウインクとともに、ぺろりと舌を出したが、本当は気がそぞろなのだろう、声のトーンに、いつもの明るさは発揮できていなかった。

ハノン

 ハノン・ジャガイモセンセー。

 ファノンと名前の似た、逝去した人物のフルネームである。

 この友人の名前もたいがいだが、ファノンが気に食わないのは、自分の苗字である。

 ファノン・パケプケモンテン。

 この苗字について、かつてファノンはクリルにこぼしたことがある。

「俺、こんな名前いやだよ。ヒムロとかミッターマイヤーとかのほうが良かった。なんで人類の復活をやり遂げたとき、古代の人間たちの姓を与えなかったんだ、エノハ様は」

 その小さな愚痴にクリルは苦笑しながら、

「さあ……エノハにとっては、このセントデルタの人間は自分が産み出したもの。だったら自分の子どもみたいに感じてるんじゃないかしら。人類も一人もいないし、自分の決定に文句を垂れる者もいないんだから、苗字もゼロから作れるとなると、かわいい名前にしたかったんじゃないかな」

 そんな思いつきの持論をクリルは返してきた。

「とりあえず俺の名前、今からローエングラムとかにするわ。本当はヤンのほうが好きだけど」

「……改名の法はセントデルタにはないからね?」

 という話をかつて、クリルと交わしたことがある。

 そうかもしれない、とファノンが納得したのには理由がある。

 つい最近、ファノンはメイのノートを見てしまったときがあったが、メイはそこに自作小説をしるしていて、そのペンネームが「うなぎもんじゃくん」だった。

 たぶん響きがかわいいからメイも採用したのだろう。

 追記しておくと、その自作小説をのぞいたことがバレて、ファノンは三日間、メイに口を聞いてもらえなかった。

「ジャガイモセンセーってのもないよな。あの人、教師でも何でもないのに、あだ名が先生だもんなあ」

「なあ、そういえばさ」

 ファノンの独白に、メイが合いの手を入れた。

「先生とファノンって面識あったっけ」

「ハノン先生には世話になった」

「私は川遊びにつれてってもらってたけど。彼、サケをとるのうまかったよな」

「おー、おまえもか。俺も良く連れてってもらったぜ、下着泥棒」

「ぜんぜん違う場所じゃねえか!」

 メイがすかさず、ファノンの脇腹にヒジ鉄を叩き込んだ。

「どぅるふっ!」

 ファノンは妙な鳴き声をあげながら大小のルビー小石やガーネット小石の敷かれた舗道に膝をついた。

「お前だけじゃなかったのかよ。いつも、お前しか下着ドロで見つからなかったぞ」

「見つかってボコられてたのは俺だけだったからな。あの人は身軽だったぜ。なんせ、俺を追いかけてくる女のほうに突き飛ばしてから逃げてたからな。ヨッシーみたいなもんだよ、彼にとって俺は。崖下に落ちそうになった時に、かわりに落ちてくれる便利なやつなのさ、俺もヨッシーも」

「なんだよヨッシーって……それはともかく、どうしようもない奴だというのはわかった。お前もハノンも」

 そんな掛け合いを交差させていると、だった。

「クリル先生」

 とつじょ、うしろからクリルを呼ぶ声があがった。

 その声は慇懃でよどみなく、ゆっくりとした、落ち着きのある声だが――声の主は、変声期のまだおとずれていない、子どものものだった。

「あら、こんにちは」

 クリルはその子どもに振り向き、屈託なくほほえんだ。

 ファノンも彼のことは知っていた。

 クリルの勤める学校の生徒で、よくハノン先生に肩車をしてもらっていた子供だった。

「こんにちはクリル先生。ぜひ、ジャガイモセンセーの弔辞を読んでいただきたいのですが、お願いできますか?」

「……死んだハノンがいってたの? あたしに読め、と」

「はい、亡くなる前、是非クリル先生にたのみたいと。彼女なら面白く見送ってくれるだろう、といっておりました」

「ハア……それって遺言じゃない……」

 クリルは頭をもたげた。

 しばらく、何かを思案するというより、耐えるように沈黙したあと、クリルは面をあげた。

「わかったわ」

アポトーシス

 第三次世界大戦、通称ハルマゲドンの折、人類はエノハという少女ただひとりを残し、地上から消えうせた。

 そこでエノハは人類を復活させるために、死者のDNAを採取して、それをもとに今のセントデルタ人をつくったのだが、そのさいに、セントデルタ人には、それまで地上で生きていた全人種のDNAを配合していた。

 ゆえにセントデルタ人は白人・黒人・黄色人種の特徴全てを、まぜこぜにした風貌をしていた。

 だからファノンもクリルもメイも、みな肌は白人ほど白くもなく、黒人ほど黒くもなく、黄色人種ほど眼窩がでっぱってもいない。

 ただDNA統合のせいなのか不明だが、セントデルタ村の人々は、端正な顔立ちが多く、いま青緑に輝くアレキサンドライトの巨石の上に横たわっているハノンの顔立ちもまた、そのセントデルタ人の特徴を如実にあらわしていた。

「ホント、お別れもなしに闇に帰るなんて、あなたらしいわ」

 死者の傍に立ちながら弔辞を終えたクリルは、硬いアレキサンドライトのベッドに近づき、横たわる死者を見下ろした。

 その死者の顔は、少しばかり、ふやけている。

 生まれてから二十年たったとき、すべてのセントデルタの人々の体には、はっきりとした異変が起こる。

 アポトーシス。

 かんたんにいえば自滅だが、ここでは細胞の自壊という生物学的な意味で使われる。

 おもに壊れるのは筋肉細胞。

 もちろん、心臓も筋肉でできているので、ただで済むはずがない。

 今寝そべっている死者ハノンだけでなく、セントデルタの人々は、20年生きたのちに、これが原因で死ぬことになる。

 このアポトーシスが起きて死んだ者は、体中がふやけたような遺体になるのだ。

 『ふやけ』が起こる間、脳内ではステロイドが分泌され、興奮と高揚を得られるという。

 その状態で死んでいくので、苦しみあえいで周囲の悲しみと憐れみをかきたてる、ということはないが、死は死に違いない。

 苦しまない、という一事はクリルにとっても、知人の死の悲しみをやわらげることはできるが、心にあいた人型の穴がふさがるわけではない。

 ――でもなんとか、式の間に泣かずにすみそう。

 そう思いながらクリルは、主賓用のトパーズの席へ向かおうとした。

 と、そこには、一人だけセントデルタ人とは異なった身なりをした、長い金髪の、旧代のゲルマン系民族のような、すらりとした長身の女性が控えていた。

 このセントデルタをつくり、第三次世界大戦を昔話にした立役者にして、この地球でゆいいつ、みずからを神に昇華させた女性。

 エノハである。

 体にはキトンとよばれる、一枚布をたばねた、旧時代のギリシャという国にあった衣服をまとっていたが、幅の広い腰のベルトにはオニキス、ラピスラズリ、サファイアをあしらっていた。

 それに、純ゲルマン系なのだろうか、肌は混交人種たるセントデルタ人の黒味のこもった肌ではなく、真っ白な白人由来の皮膚。

 全身の特徴といえばそれぐらいだが、クリルたちセントデルタ人は知っている。

 そのたおやかな肢体はすべて機械仕立てのもので、人間の形を演じているに過ぎず、両腕には、数メートルの厚さの鉄壁も切り刻む口径22ミリのレーザーキャノンが仕込まれていることを。

 二日前、ファノンに凶行を働いたツチグモを、包丁で肉を刻むかのごとく、まっぷたつにした武器である。

 今は人工皮膚によって見えないが、必要とあればどこででもその銃器を発露させることができるのだ。

「……」

 クリルは自分用の席に戻るにあたって、エノハに会釈をして横を通りすぎようとした。

「クリルよ」

 横切るクリルに、エノハがペリドット・グリーンの瞳を向けて口を開いた。

「ゴドラハンの森は危険だということ、身にしみたろう。これを機に、過去の遺物を探す趣味をあらためてはどうだ? その副業は危険がともなう」

「……助けられたのは感謝しています」

「お前だけでなく、ファノンやリッカもいたのだ。助けるのは神としては当然のことだ。だが、次に同じことがあっても、守りきれんぞ」

「……エノハ様、おたずねしたいことが、二つほど」

 クリルはエノハを正面に見据えた。

「何だ」

「ゴドラハンの森で襲ってきた無人機……あれは、何者ですか? まるで人間が遠くで操作しているようでした」

「私もいま調べているところだ。この島国からは無人機はいなくなったと思っていただけかもしれん」

「……本当、ですか?」

「その質問には他意があるように感じるが?」

「いえ……もうひとつ、よろしいですか」

「手短になら」

「……闇へ帰命したハノンは、なぜ二十歳で死んだのですか」

「寿命が来たからだ、彼の体には時計があり、それが正常に作動した」

「そういう意味ではありません。なぜ、私たちの体を二十年しか生きられないように、なさったのですか」

「清く生きるためだ。人は死を近くに感じるからこそ優しくなれる。愛することができる。進むことができる」

「第三次大戦……ハルマゲドン前の人間に、その感情はなかったと? 優しさは死を感じなくとも、表現できるものです」

「優しさはハルマゲドン前にもあった。だが戦争をとめたり、憎しみを食い止める、くびきになったことは一度もなかった。あくまでも愛情は家族と、せいぜいが知人にだけ向けられた。ほんらい愛情とは血のつながった、かつ情のうつったものにしか使えないものだが、それを無理に他人に向けた者が現れた。

 それは癒着や門閥となって弊害をもたらし、しがらみに息吹を与え、不公平と不平等を生んだ。

 そういった日常的なものの積み重ねが政治レベルに影響をおよぼし、さいごには――水爆の男フォーハードの誕生を促してしまった。

 やつは自分一人の力で、なるべく現実的に、金をかけず、世界人類を駆逐できないか、考えた。

 その結果が、殺戮無人機の世界中へのばらまきにつながり、南極に124発もの核爆弾を仕込むという大悪事になったのだ。

 だが、この人物が現れるのを許した罪人をさがすとなると、けっきょく民衆にゆきつくのだ。為政者をえらんだのは民衆で、その暴挙をゆるしたのも民衆だ。民衆は為政者のくわだてを占いもせず、その洗脳に甘んじて酔いしれた。そうしているさなかにも窮乏者が生まれ続け、けっきょく水爆の男の誕生を看過したのだ。

 その精神が絶滅戦争を呼びこんだと言っていい。

 私はそれらが差し挟めないほど、全てを私の管理においたぞ。文化は守るが文明は捨てさせ、土着の社会のみしか許さない。それも、ひとえにあの絶滅戦争を蒸し返さないためだ。

 げんに私はこの500年、理想の世界を実現している。歴史に500年間、内戦さえ起こらない、争いのない時代を築いた人間がいたなら、その例を挙げてみせろ」

「500年間も、身体を機械で固めて、永遠の統治をなさっていますものね。涙ぐましいかぎりです」

 クリルはエノハに指を突きつけた。

 じっさい、エノハは表面こそ合成皮膚をまとっているが、その中身は一から九まで機械仕掛け。

 脳だけが人間のものだ、といわれているが、本当のところは誰もわからない。

「あの戦争を目の当たりにすれば、だれでも人に従来の自由を残そうとは思わんよ」

「民族意識を消滅させるために、私たち人間を復活させるにあたって、単一の、白人黒人黄色人すべてのDNAを混ぜこんで作ったんでしょう? おかげで人種差別のしようもなくなりました。でもそれは、けっきょく人間が不寛容だと決めつけておられるのではないですか」

 クリルは言いながら、左耳のアクアマリンの補聴器のずれを直した。

「不寛容だろう? 人種が違えば殺し、宗教が違えば殺し、宗派が違っても殺し、考えが違っても殺し、あるまじきは覇権を得るためだとか、金を得るために人を殺し、そうでなくとも我が意に反せば敵意や悪意をむき出すのだ。不寛容の入る余地をなくすことの、何が悪い」

「それは解決になっていません。同じ民族でも少し思想をへだてれば、西と東に貧富が生まれ、あるいは北と南にわかれて権勢を争ったという事実もあります」

「それは国家が作った不和だ。国家など未来永劫、このセントデルタ以外には生まれない」

 ふたりの人物が、式典の進行をそっちのけで議論に入りだしたので、さすがに出席する群衆も、ざわめき始めた。

 それに一番に先手を打ったのは、あまり理解できないまま傍聴していた、ファノンだった。

「クリル」

 ファノンが席を立って、クリルの腕をつかんだ。

「死者の前だよ、せめて今はケンカはやめてくれ。これじゃハノン先生が完全に闇に帰れない」

「……」

 そのときファノンは初めて、クリルの表情をのぞいた。

 その瞳は赤らみ、頬はいらだちで震えていた。

 ファノンのそのまなざしを吹っ切ろうとするように、クリルは死者のそばにある、トパーズの席にもどっていった。

 ファノンは憮然として、こんどはエノハのほうを見た。

 エノハの、透明がかった緑色の瞳と、目が合った。

「ファノン、白血病がぶり返す気配は?」

 エノハは先ほどまでの尖った刃物のような口調ではなくなり、ゆるやかな言葉にもどっていた。

「おかげさまで。あれから5年近くになるけど、なんの不都合もないぜ」

「それは良かった」

 エノハはにこりと笑ったのちにファノンから目線をはずすと、台座前の数段の階段をのぼって、喪主として、死者ハノンの傍らに立った。

 エノハがそこまで行くのを見送ってから、ファノンはクリルの向かい側に当たる、同じくトパーズ製の席についた。

 眼前のクリルはぶすっとして、うつむいて石のように動かずに座っていた。

 いきなり立ち上がって、エノハに何かしないものかと、内心ファノンはどぎまぎしていたが、席が離れているので、どうしようもなかった。

「大丈夫かよあいつ、顔真っ赤だぞ」

「心配するなよ」

 横に腰かけるメイが、ファノンの不安に請け合いをつけた。

「あんな風になっても、お前よりは冷静だ」

「そうは言うけどなあ……」

「信じてやれよ、私たちの親だぞ」

 そうこう二人で小声を交わしているうちに、エノハが死者のそばで、経をそらんじはじめた。

「――この日、運命をまっとうし、闇より生まれたハノン・ジャガイモセンセーを、慎んで闇へと返す。

 借りたる身体は土とならん、虫とならん、水とならん、雲とならん、あるいは闇へもどり、億年京年へだてて、かならずわれらに巡回す……」

 ファノンはエノハの経を前に、背を伸ばして聞いていたが、集中できてはいなかった。

 ハノン先生が死んだ。

 目の前にその事実があるからだろうか、今まで思い出しもしなかったことが、どんどん心にわいてくる。

 頭からでてくるのは、一緒に女湯を覗いたことと、女湯を覗いてバレそうになったことと、女湯を覗いてバレたあと、ファノンを追ってくる女たちの方に突き飛ばして、先生のほうは逃げおおせたこと。

 ……ろくな思い出がない。

 だが、笑いたくなるような思い出のはずが、今はひどく懐かしいメモリーに思える。

 ふと、死者ハノンをみつめる。

 二十歳を迎えて亡くなったハノンの顔は、わずかにふやけたように皮膚に波がたっていた。

 ほんとうはハノン先生は今も家で酒を飲んでいるのではないか。彼は独酌も好きだったから。

 ――そうだ、酒、好きだったんだよなあ。

 あまりにも酒を飲んで一人でベロベロになって喜んでいるから、そのうちアル中で田んぼの中で水死してるだろうな、あんた、と本人に話したことがある。

 そのとき、ハノン先生は愉快そうに笑い、人生は長く生きれば輝くんじゃない。輝かせようと頑張るからハリがでるんだよ、そのほうが楽しいってことだ、と酒臭い息とともに吐き出した。

 仕事はこれでもちゃんとやっていたふうに思う。

 焼き物職人の彼の工房に遊びに行くと、お客の途切れているのを見たことがなかった。

 ファノンが起居するクリルの家にも、クリルが買ったのだろう、彼の食器がたくさんある。

 ただ、ともファノンは思う。

 ハノンは死ぬ間際、自分の人生を楽しんだかどうかはともかく、長い人生だったと満足できただろうか。

 制限された人生。

 ファノンもいま15歳。

 あと5年で、ファノンの体も闇に帰る。

 それまでの間に、満足した生き方ができるだろうか。

 そこまで考えが走ってから、はっと我に返る。

 クリルの影響を受けすぎたか。

 クリルは二十歳に寿命が終わることに反発していて、なおかつそれを公にしている。

 先ほどもクリルはエノハとやりあったが、あれが初めてというわけではない。

 見ていてハラハラするが、とはいえ、たぶんエノハの怒りを買って殺されるようなことはないだろうとも楽観している。

 この村にも警察機構はそなわっていて、しかもそれはエノハの直属ときている。

 だがエノハが我が意に添わぬという理由で人を裁くことは、いままで一度もなかった。

 じっさい警察機構のほうも、それを強いて実行しようという様子もない。

 エノハに変わって罪を裁くのは自警団に任されているが、その自警団のトップは、クリル無二の親友の、リッカなのだ。

 ツチグモにさえ効果を発揮する弓の腕前は、ときにエノハの密命をうけて、犯罪の取り締まりにも用いられる。

 警告から刑罰、死刑の執行まで、自警団のトップにかぎり、独断する権利を持っているのだ。

 一万人のセントデルタ村はエノハの保護と、ただ一人、任命される自警団首長の威光のもとに保たれている。

 そんなことを考えているうちに、エノハの経は終盤に差し掛かっていた。

「……闇より宇宙へ旅だち、星になり銀河の一部となり、不可視の次元を漂わん。ただしこれは永遠の惜別にあらず。宇宙をめぐり億年京年を待ち、ふたたびわれらに巡回す……」

 エノハがそこまで言い終わると、黒い長袖の喪服を着た屈強な男(もちろん二十歳未満の少年)が二人、前にでてきた。

 その男二人が祭壇にのぼって、おのおの死者の肩と足をつかみ、もちあげて祭壇を降りると、そのままその体を、ひとりの男の前まではこんでいく。

 待ち構える男の足元には、大きなジルコン製のマンホールのようなものがあり、男は死者をはこぶ二人が近づくと、両手の袱紗にのせた鍵を、高くかかげた。

 鍵の男は何かつぶやくと、マンホールにしゃがみこみ、鍵を差しこんだ。

 マンホールが開くとそこには真っ暗な穴しか見えなかった。

 セントデルタの人間なら、誰もが知っている。

 そこは地下水脈の入り口で、入ったら最後、海まで一直線だ。

 その水脈に向けて、男たちが三人がかりで、死者ハノンの体を、マンホールの中に入れていく。

 死者はその穴へ落ち込み、形跡も残さず、マンホールの闇に消えていった。

「これにて葬儀は終わりだ、ハノンの体と魂は、数京の素粒子となって、天地を漂い、やがていずれ、この大地に戻り、生命の一部となることだろう」

 エノハは来賓席にむけてそう述べると、一枚布でできた衣服、キトンを翻しながら、もと来た道をたどって退出を始めた。

 そこでエノハは改めて、トパーズの席からみつめるファノンと目を合わせた。

「ファノン、このたびは不幸だったな」

「うん……エノハ様」

「はい、だろお前」

 ファノンが神に対するものとは思えないほど気安くうなずくものだから、横に座るメイが肘で小突いてきた。

「いいのだメイ」

 エノハがたしなめる。

「もう少し話をしたいが、離れたところでも、また闇に帰命したものがいてな。遺族も自宅で執り行って欲しいとのことなので、すまんが、そちらへ行く」

「うん……エノハ様も、がんばって」

ノト

 葬儀が終わって、続々と帰宅する者がでる中、ふたりの姉弟がトパーズのイスに座ったまま、話しこんでいた。

「あの女、またエノハ様にたてついたぞ」

「いつものことじゃん」

 遠くの席からクリルにむけ、ほぞを噛む弟、ノトにむけてリッカは軽くかえした。

「ねえさま、それでも自警団長ですか。この村を守る権利を与えられた、最高位の役職なのに。あいつをのさばらせては、セントデルタにどんな害悪がもたらされるか」

「言葉を暴力で抑えることは、過去にいくらも存在した悪政府と同じおこないだよ。あたしたちは誇り高いセントデルタ人なんよ。あんたも過去の人間と同じ考え方ではないことを、この二十年の人生で、証明しなさい」

 リッカが毅然といいはなつと、ノトは膝をみつめ、ブルブルふるえはじめた。

「ね、ねえさま……」

「何よ」

「やはりあなたは理想の自警団長だ」

 ノトが次に顔をあげたときには、そこに恍惚の色がうかんでいた。

「ねえさまの言う通りです、我々は世界唯一にして、最強の民。過去にあふれていた戦争狂い、排他主義の果てにほろんだ野蛮人とは遺伝子レベルで違う。われわれはエノハ様より、DNAの優秀部分のみで作られた、選ばれた民なのですから」

「管理されて悪事を働くヒマもないのを、優秀ってゆーのかいな」

「管理こそ人間に必要なものです。ひとの欲は無尽蔵で、与えればきりがない。奪って監視し、抑えつけるからこそ、人は清く生きられる」

「イヤ、そーゆーことじゃなくて……」

「俺も自警団長になる。あなたのような、優秀な人間になり、エノハ様をお助けする」

「……アアそう、がんばってね」

 リッカはノトとの問答に疲れて、腰をあげた。

「あたし、ちょっとクリルと話してくんわ」

「あの女にセントデルタ最高水準の、ねえさまの教えを説かれるわけですね?」

「ええ、まあ、そんなところ」

「是非その姿を、俺にもお見せ下さい、あの女がベソをかく姿を」

「いや、あんたは連れて行かんよ、話がこじれるもん」

「……ねえさまの言葉なら神の言葉と同義。従うしかありません……神の使徒として」

「ああ……まあ、がんばりーや」

 リッカはそそくさと、その場を離れた。

 ノトも昔はあれほど極端な人間ではなかったはずだが……などと思いながら、リッカは祭壇をあとにして、スピネルやカーネリアンの石畳を踏んで家路に向かうクリルたちを追った。

「クリル、ちょっと」

「何、いまエノハをグーで殴るかパーで叩くか悩んでるところなの」

 リッカに呼び止められて振り返ったクリルは、あきらかに不機嫌な表情だった。

「殴ることは決定事項かよ」

 いっしょに歩いていたファノンが肩をすくめた。

「リッカさん、お疲れ様でした。リッカさんもハノン先生をご存知で?」

 メイは礼儀正しく、腰を深々と折ってあいさつしてから問うた。

「うん、あたしとクリルとハノンと、あと何人かでよく酒盛りしたかんねー」

「リッカとも知り合いだったか。ハノン先生、ただの変態じゃなかったんだな」

 ファノンが死者をこきおろしたが、これがファノン流の悼みかただと、リッカもクリルも知っていた。

「基本、変態だったよ、でも、ちょっとだけマシなところがあったから、腐れた縁がつづいたんかもね……で、クリル」

 リッカは神妙な面持ちで、クリルに手招きを始めた。

「ん」

「ちょっと、こっちに来てもらっていいかな」

「いいわ、何かしら」

「何だよ、俺も混ぜろよ」

 ファノンが不平を鳴らしたが、すぐに横のメイがさえぎった。

「わかりました、ファノンの馬鹿にも言い聞かせておきますので、クリルさんもゆっくりしてください」

 メイの助け舟に、クリルはほほえんだが、やはりどこかに疲れがあった。

「ありがと。家に帰るとハノンのことをたくさん思い出しそうだし。こういう思い出は、お酒のように、少しずつ時間をかけて、飲みこんでいきたいからね」

「しかもあんた泣き上戸だしね、それぐらいがいいかも」

 リッカはうなずいてから、先んじて歩きだした。

「じゃあファノン、メイ。どっかで昼食すませてくるから、適当にそっちはお願いね」

「はい。いこ、ファノン」

 メイはファノンの手をとり、少しだけ声を弾ませてこたえた。

「走んなよメイ、俺、おまえほど運動得意じゃないぞ」

 そんな他愛のない会話を交差させながら、ふたりは遠ざかっていった。

「若いって、いいね」

 そのさまを、クリルは頷きながら見送った。

「あたしたちだって18歳、ピチピチじゃない。ちょっと余命が2年をきってるだけで」

「風前の灯みたいに言わないでよ、さすがに今日ハノンの死んだあとにそのネタされると、へこむわ」

 クリルがため息をついた。

「ごめん……じゃあいつもの『無人小屋』に行きましょうか」

 二人は人の往来のある間だけ無言で、ルビー・ガーネット通りのとなりにあるアメジスト通り、その隅の『無人小屋』を目指した。

 そこの家主は1年ほど前に亡くなり、その家を引き継ぐ預かり子もいなかったため、現在に至るまで無人のまま。

 だからこそ、二人の議場に選ばれたのである。

「クリル……ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」

 無人小屋に着くなりリッカが切り出した。

「ん……なあに?」

「ファノンのあの力のことなんだけど……あれは何?」

「……エノハにも聞いたんでしょ? どう言ってたの?」

「あの方は、教えてくれなかった。あんたなら、何か知ってるかも、と思って」

「リッカ……話してもいいんだけど、そのことで、ちょっとしたお願いが」

「誰にも言わないから安心して」

「そっか……ならよかった」

「クリル、あの子があんな力を発揮するの、知ってたの? あの力……危なすぎだよ。一緒に住んでて、アアいう目に遭わなかったの?」

「ないよ。あんな力を見たの、あたしも初めてだったし」

「ツチグモを倒して、ファノンとあんたがボロボロになって帰ってきた日、エノハ様に会って話したよ。あの力、エノハ様もご存知みたいだったけど、詳しく話してくれなかった……話せない理由がある感じだった。クリルならあの力のこと、詳しく知らないかと思って」

「あたしも知らないのよ。ただ、ツチグモは言ってたんだよ。ファノンの力は、誰かによって意図的に抑えられていたものだったって。おそらくだけど、ファノンのあの力は、エノハによって、ずっと下火にされてたもの。あの子を守るために」

「下火? いままで風呂覗きくらいにしか使えなかったのは、エノハ様のおかげであって、本当はあれぐらいできるってこと?」

「わからないよ……あたしにも。少なくともエノハは、ファノンが5歳から10歳まで一緒に暮らしてたんだから、何かできたでしょ」

「……クリルの言う通りだとすると、エノハ様は頑張って、ファノンの暴走を食い止めてたってことだね」

「あたしは、あの子を普通にこのセントデルタで暮らせるようにしたい。だからこのことは、メイにも黙っておくつもりだよ」

「ん……あたしも、無駄に騒いだりして、セントデルタの治安を騒がせるようなことはしたくない。でもねクリル……ファノンがあの力を、ここの人たちに使わないと確約できるの? そして確約したからといって、どうやってそれを守るの?」

「……リッカ……それができなかった場合のことを考えてるの?」

「ごめん」

 いったんリッカはそこで、クリルから目をそらしたが、すぐにまたクリルを正面に見据えた。

「だってあたし、自警団長だもん。エノハ様から授かった、大事な最高権威。セントデルタが乱れて、たくさんの人が死ぬ原因になるかもしれない子を、そのままにしておくことはできない」

「そう、エノハが言ったの?」

「いんや。あたしの独断」

 リッカのいう『独断』には、かなりの重みがあった。

 先述のとおり、自警団長には、多くの権限が与えられている。

 刑事罰も民事罰も、リッカは自分の思うままに処断できるという、強大な権力を持っていた。

 だがリッカはそれを重責として、疎んだフシがある。

「独断ね……セントデルタでは充分、裁きの対象になるんだよね、残念ながら」

「あたしは、こんなの振るいたくないよ。だいたい、何であたしが自警団長に選ばれたのか」

 自警団長。

 自警団長にかぎっていえば、いつもエノハみずから選ぶが、実のところその判断基準ははっきりしない。

 リッカのようにエノハへ敵意も好意も腹蔵していない人間が選ばれることもあるが、人間を裁くことに何のためらいもない人物を登用することもある。

「ファノンを殺すの?」

「それは……したくない。ファノンのことは良く知ってる。あの力を人に使って喜ぶ奴じゃないことも」

「エノハがあなたを自警団長にしたのも、そう考えられる人だからかもしれないね」

「約束して、クリル。あいつの力を、もう発現させないって。あの力はたぶん、あんたを守るために発揮されたもの」

「……わかった。もう簡単な理由でセントデルタ外に出たりしないよ」

「ありがとう……その約束だけでも、少しは楽になれるよ」

 二人はそこでやっと、この日初めて、声をあげて笑うことができた。

ひらめく力

 ファノンが喪服を着替え、藍染の麻の長袖に服装をかえて家を出た直後だった。

「クリルの預かり子、ファノンだな」

 庭の芝生の外で控えていた小男がやぶからぼうに、言葉を投げつけてきた。

 話しかけるタイミングからして、ずっとここで自分を待っていたのだろう、とファノンは悟った。

「誰だよお前」

「あの女……クリルはどこへいった、あいつに話したいことが」

「イヤ、だから誰だよお前」

「俺はノト。自警団長の弟だ。クリルの居場所を」

「知らない」

 ファノンは首を振りながら、この数度の会話で、ノトのことを、話の通じにくそうな奴だな、と評していた。

「勉強のことでわからないことでもあって、あいつにききたいのか?」

「俺は学生じゃない!」

 ノトはにわかに激昂し、もともとツリ目だった眼光を、よりいっそう上に尖らせた。

 ファノンは別にそういうつもりで、たずねたわけではない。

 指摘されずとも、ノトが学生でないことはわかっている。

 二十歳で死ぬことから、セントデルタの人々の学生期間はほとんどない。

 12歳になるとセントデルタの人々は学校を卒業し、おのおの仕事を始めないとならないのだ。

 だが人生があまりにも短いためだろうか、好学の徒はたいへんセントデルタには多く、10代後半の人物でも、クリルの博学をたよって家の扉をくぐりにくる。

 ファノンは、そういう意味で言ったのだろう、と予測して答えたのだが、どうやら相手のコンプレックスを逆なでしたようだった。

 ノトはたいへん背が低く、160センチもないだろう。おそらく昔から学生だとか子供だとか言って、からかわれてきたのだ。

 ファノンが憶測するとおり、事実、それはノトが一番気にすることだった。

「貴様、俺の背の低さをバカにしたな? 俺のことをバカにするってことは、自警団長リッカをバカにするってことだ。謝れ!」

「あ、ああ……すまなかった」

 ノトの虎の威を借りた言いように、ファノンは憤然とやりかえしたい衝動に駆られたが、なんとか飲みこんで、小さく頭をさげた。

 じっさい、悪いのは自分だから。

「ふん、ならいい」

「……」

「ならば、隠してないで、クリルの居場所を教えろ」

「……は?」

「知ってるんだろう、居場所を教えろと言っている」

「俺が、ウソをついていると?」

 ぎりぎりまで耐えていたファノンだったが、最後のその一言で頭をあげた。

 ファノンはクリルの居場所は本当に知らなかった。

 だから、その言葉を叩きこまれるまでは、おとなしく引き取ってもらうつもりだったファノンだったが、その気が変わった。

 悪いと指摘されれば謝るが、そうでないことには、断乎抵抗すべきだ。

 と、死んだハノン先生なら言うだろう。

 セントデルタ人は短命ゆえか、気が短い。

「なあノト」

「なんだ」

「あれだな、自警団長が身内にいるからといって、身内全員が自警団長になったのをきいたことはない。エノハ様は血縁で自警団長を決めはしない」

「そんなことはわかっている! だが俺は自警団長になるつもりだ!」

「選定基準もエノハ様は気まぐれでやってるふうなのに、どうやってなるんだ? エノハ様の喜ぶことを100回やっても、エノハ様が自警団長にするかはわからないぞ」

「んぐ……それより、クリルの居場所を教えろ。あの女の」

「イヤだね、お前嫌いだし」

「貴様、下手に出ていればズケズケと」

 どうやらノトは下手のつもりだったらしい。

 だがここまでくると、ファノンも怒りを抑えられない。

 ――人間世界はおよそ売り言葉に買い言葉なら、買ってやろうじゃないか。

 ファノンはもう、気づいていた。

 鼓膜の奥のほうでファノンは、空気がふるえるブブブという連音を聞いていた。

 本能でわかる。

 ファノンの『力』だ。

 ファノンはその本能のささやくまま、右手をノトに差し向けた。

「――う」

 ノトは、ファノンが聞いた振動音とは比較にならない高さを、聞き分けていた。

 強烈な雑音と、そして、全身に帯び始める、熱。

「なんだ……これは」

 ノトはみずからの手のひらを眺めたあと、ファノンのほうを見た。

 ノトに向けて手のひらをかざしているファノンが、何か仕掛けていることは、明白だった。

 ファノンが何か異端の力を使うことはセントデルタでは有名だが、ノトが聞いている話では、虫メガネと同じように、せいぜい黒い紙に煙をまぶすていど。

「バカな。こいつはせいぜい、髪の毛を焦がすしかできないはず」

 ノトは体の奥から、どんどん熱が湧き出してくるような感覚に、身じろいだ。

 そしてそれは、みるみる耐えがたいほどの熱さになっていった。

「く、あ、熱……!」

 ノトは両膝をついて、体を抱きしめるが、熱の襲来がやむことはなかった。

 ファノンもファノンで、普段と自分の力のようすが違うことに気づいていた。

 だがそれでもファノンは、腕をおろす気はなかった。

 こんな力が出たことは、今まで一度もない。

 止め方もわからない。

 いや、そもそも、この力を止める気も、ない。

 ――このままこいつを……

 ファノンがさらに腕に力をこめた時、だった。

「ファノン! やめろ!」

 ふいに、ファノンの右耳から声が飛びこんできた。

 ファノンがそちらを振り返ると、メイが顔を青くしてファノンを見ていた。

 ファノン同様、葬式終わりに着替えの終わったメイが、ラフなポンチョ状の服に替えて、外出とばかりに玄関の扉を開けたところ、ファノンの凶行に出くわしたようだった。

「メイ……」

 ファノンは指の先にまで集中していた力をほどき、メイのほうを向いた。

 ノトはあえぐように口をあけ、どしゃりと四つん這いになった。

「ファノン……お前、どうしたんだよ、その力……」

 メイはそう言うが、ファノンが何をしたのかは見えていない。

 だがそれでも、ファノンがノトに何かをしていたことは、はっきりと状況が示していたのである。

 ファノンが遠くで手をかざし、それを受けて、赤の他人のノトが体を丸めて苦しんでいれば、否が応でもファノンが何かしていると思わざるを得ない。

「……」

 ファノンは恥じるように、メイから目をそらした。

 だがその先には、憎々しげにファノンをにらみながら、片膝をつくノトがいた。

「きさま……この殺人マシンめ。ウソの噂をでっち上げていたな? こんな能力があったなど、聞いていないぞ」

「違う、俺は」

 ファノンの、違う、という気持ちは真実だった。

 ふだんと同じように、抱いた苛立ちの感情にまかせて、この力で相手の服を少し焦がす。

 見知らぬ相手にこの技を使えば、今後ファノンから距離をとるに違いない。

 ファノンは力を発するまでは、たしかにそう考えたのだ。

 だが現実にファノンの目の前で起こったのは、それよりはるかに強いエネルギー場だった。

「この真実をどう言い訳する。貴様は化け物だ」

 ノトは立ち上がると、前のめりになりながら、まるで泥棒でもしたあとのように不恰好に、あわててその場から逃げていった。

 ノトの背が遠くなるころ、ファノンはみずからの両手のひらを前にかざした。

「なんだ……どうなってんだよ、俺の体……」

「ファノン、今のはいったい」

 メイがおずおずと、ファノンの横にきて、その顔をのぞきこもうとした。

「近寄るなメイ!」

 ファノンはまるで醜いものを隠すように、メイから身をのがして、背を向けた。

「ファノン……」

「近寄ると、お前までケガをする!」

「おいファノン、私は」

「たのむ、お前まで傷つけたくないんだ」

 ファノンは顔をそむけたまま、全力で走っていった。

「待てよファノン!」

 メイには、去りゆくファノンの背に、その言葉しかぶつけられなかった。

AURA

「エノハを……セントデルタの旧習を、終わらせたい」

 無人小屋でまだ討議を続けていたクリルが、リッカに決意を込めて伝えた。

「……またその話?」

 リッカは自分の指定席である、放棄されたダイヤモンドのテーブルに腰をついたまま、顔をしかめた。

「何度でも話すわ。人々からの信頼や、判断力。あなたなら、エノハを越えることができる」

「あたしに、セントデルタの神になれって? あたしゃー大好きなエノハ様にクーデターなんてゴメンだよ」

「あなたなら、絶対に理想の世界を築けるよ」

 腰かけるリッカに向かって、クリルは立ったまま話した。

「あのさぁ、クリル。いちおうこれ、不敬罪もしくは転覆罪だよ?」

 この話をされるたびにリッカは困った。

 この場合、自警団長としてのリッカには、やるべきことは明らかだ。

 その場でクリルを斬り捨てることは、自警団長に許された特権である。

 だがリッカ自身は、まだ話を聞く姿勢をくずすつもりはなかった。

「エノハ様はそりゃもう、立派にこのセントデルタを取り仕切ってらっしゃる。公平さ、公正さ、柔軟さ、寛大さ、どれをとっても、歴代の為政者なんて比肩することはできんじゃん。なんで……」

「人工的に制限された二十年の寿命と、エノハ独自の世界観でこしらえた闇宗教。科学技術開発の禁止。これだけ押さえつけられた世界を、他のみんなのように、エノハの自称に誘われるまま、理想の世界だ、素晴らしいユートピアだ、とは、あたしには唱えられない」

 闇宗教。

 エノハは白人・黒人・黄色人種の統合によって人種差別を消滅させたほか、もうひとつ世界中からなくしたものがある。

 宗教である。

 エノハにとって、文明の保護がゆきとどいてしまえば、セントデルタ人に数多の宗教を学ぶ自由を与えるメリットはなかった。

 それがまた人を隔てる可能性があると、エノハは決めつけたからだ。

 だが、死んだ人間がどこへ向かうかという、かつての全ての宗教がカバーしていたことは、エノハも説明できる必要があった。

 とはいえエノハ自身は完全な無神論者。

 自分が何も信じていないのに、戦前の特定の宗教をピックアップして、他人にこれはいいものだと勧めることはできなかった。

 そこでエノハが注目したのが、当時研究されていた、ダークマターとダークエネルギーだった。

 ダークマターもダークエネルギーも、見ることも、さわることも、感じることもできない物質だが、確実に存在する、と理論で予言されているものだ。

 その理論によると、この世にある、鉄や土や人、空気など、見たり触ったりできる物質は4パーセントに過ぎないという。

 残りの96パーセントは、このダークマター、ダークエネルギーだというのだ。

 神も闇も、不可知のものというくくりでは同じではないか、ということで、エノハは人間にこれを信奉させようと決めたらしい。

 他にも理由はあるが、エノハはこの闇こそが、万物の根源だと主張したのである。

「だいたい、宗教が生まれる理由を考えたら、とてもじゃないけど闇宗教ひとつだけで足りるとは思えないわ。過去の宗教はみな、その土地や気候にあう必要があって生まれたんだもの。厳しい気候の土地にはきびしい神を奉る宗教が。

 たとえばユダヤ教の神はそれはきびしい、雷の神に選ばれていたわ。その神は自分のえらんだ民に、仕打ちに近いほどの試練を与えた。四季折々の環境からは、八百万の神の信仰が生まれ、いろんなものに神が宿るという考えの宗教があらわれた。豊かな環境には豊かな神が。きびしい環境にはきびしい神が現れるの。

 イスラムも道徳規範を宗教を通して教えるだけじゃなく、民衆が食あたりを起こさないようにする生活への配慮まであった。豚を食べてはいけないってのは、食あたり防止にじっさい役立っていた」

「あたしにゃー闇宗教がいいか悪いか、考えてもよーわからん。だってエノハ様好きだし。それじゃ、いけないの?」

「あたしだって別に、エノハが憎くて、あなたに神になれとそそのかしてるわけじゃないよ。あいつのやってることが問題だって言ってるわけ」

「だったら言えばいいじゃん。エノハ様、あたし二十歳で死ぬのはイヤです、宗教も自由に学びたい、人種もたくさんいたほうが、違いを楽しめますって」

「人種の話は、さっきあたしが面と向かってエノハと話してたでしょ。聞く耳持たなかったじゃない」

「だからエノハ様を引きずり下ろすって、なんか暗くない?」

 リッカのハッキリとした指摘に、クリルはつい笑ってしまった。

 ここまで直接的に忠告してくれる人間とは、ありがたいものだ。

 友人とは、自分のやることに何でもかんでもイエスと答える人間のことではない、とつくづく思う。

 いい友人だと、クリルはうれしく感じていた。

 エノハは人々の統治者にしかなれないが、リッカならば、人々の友人になれる。

 だからこそ、リッカには味方でいて欲しいし、エノハ以上の統治者になれると信じているのだ。

「お願いだよ。あなたが一言、エノハに言えばいいの。人間の統治は人間にしかできない、と。そうすれば、聞く耳を持つエノハのこと。退位して、あなたを次の神にしてくれるはず。あの塔には、人の寿命を無限にする装置が眠ってるはずだし」

「そんなん、わかんないよ……あたし、神様なんてやりたくない」

 リッカは磨いた黒曜石のような綺麗な黒目を、涙でうるませた。

 それはクリルと、弟のノトにしか見せない表情だ。

 いつも自警団長として、弓矢の腕前をふるってセントデルタの人々を畏怖させているリッカだが、ほんとうは暴力の嫌いな、人前で話すのも苦手な、服を着るのにもどれにするかで迷ってしまう、素朴な女性なのだ。

 なぜ自分が自警団長になったのか、本心では、いまでも呪わしく思っているはずだ。

 ほんらい彼女がなりたかったのは、看護師だったのだから。

「あたし、なりたいこと、やりたいことも満足にできずに死んでいく、いまの世の中は間違いだと思う」

 クリルはめそめそしているリッカにむけ、話し始めた。

「エノハがいなければ、少なくとも、あなたを戸惑わせることもなかったから。でも、そうして苦しむことを知るあなただから、あたしはあなたに神になってほしい」

 そうクリルは自分の信念を、涙で喉が詰まるリッカにむけ、正面から伝えた。

 リッカは答えない。

 クリルはそれでも、ひとかけらの満足を抱いて、リッカの前から立ち去ろうとした、そのときだった。

 後ろから、誰かが全速力で近づく足音がした。

 振り返ると、ノトが鬼神の形相で走るのが見えた。

「クリルゥゥ!」

 ノトの手には、アメジストの果物ナイフ。

 それを逆手にもって、ノトはクリルに振りかぶったが――ノトにできたのは、そこまでだった。

 背後でぐずついていたリッカが、自警団長としての才能を振るったのだ。

 リッカはノトの果物ナイフをもっていた手を掴み、そのまま一本背負いにかけ、ノトを土間に叩きつけていた。

 柔道に心得のないノトは、受け身も取れずに、もろに内臓をいため、体を丸めて悶えることになった。

「う……お……あ……」

 ナイフをほうって、ノトはあたかも土中の幼虫のように、背中を丸めて腹をかかえた。

「ノト! なんてことを! あんた、いつも自警団を気取って私闘はしないって言ってたじゃん!」

「お、俺は自警団員じゃあない、だからそのくびきには、当てはまらないのです……」

 ノトは苦し紛れに、眼上のリッカに吐いた。

「私刑は重罪よ。あたしにゃ、これをエノハ様に報せる義務があるし、その場で罰を独断で決定したり……執行する権利もある。あ、あんたを殺すことだって、できるんだから……」

 そこでまたリッカは口を覆い、涙にむせた。

「そ、その女は危険です。エノハ様に意見するなど、しもべたるセントデルタ人にあるまじき行為。死人に口無しを実行して、何が悪い……」

 まるで重罪人のように批判をぶつけられるクリルだが、とくに意に介した顔色はなく、ノトのそばに寝そべるアメジストのナイフを拾って、まじまじ眺めていた。

「それに、触るな……この悪党め」

「いいナイフだね、刺されちゃ困るから、もらっていい? リッカ」

「うん、そっちで確保しといて。あたしの家に置いとくとまた取られるだろうし」

「ねえさままで……なぜ、その悪党に甘いのです。そいつはセントデルタに破滅の思想をばらまく。生かすべきではありません」

 少し内臓の痛みが和らいだのだろう、ノトは横たわったまま、饒舌に抗議する。

 どうやら、この言葉の内容から、ノトはいまのクリルたちの会話を聞いて、飛びかかってきたわけではないと、クリルもリッカも心の中で、安堵のため息をついた。

 だが次にノトが語る内容には、さすがのクリルも耳を向けざるを得なかった。

「ファノンともども、死ぬべきだ……あんな化け物を育てたその女にはこの世からの帰命で責任をとってもらうべきです」

「化け物って?」

 それまでノトの讒言を、流水をながめるように軽く聞き流していたクリルが、初めて反応した。

「あの男、俺を焼き殺そうとした。奴には人を殺す力などないと、お前は人々にそう確約しはずなのに、だ」

「ナニ、夢みたいなこと言ってんのよ。それに殺人未遂なら、あんたもいまクリルにやろうとしてた。申し開きをエノハ様の前でやってもらうからね」

 リッカは自分の弟が殺人未遂を働いたことがショックで、頭の中が真っ白だったが、なんとか自警団としての職分を口に表すことができた。

「望むところです……エノハ様に会えれば、あの危険な男を殺してもらえるよう、掛け合える」

 姉リッカに二の腕を抱えられて、ノトはよろよろ起き上がった。

「クリル、あたしこの子をエノハ様のところにひったてるから、あとはよろしくね」

「うん……」

 クリルもやはり、ファノンの話が信じられずに生返事を返すのみで、視線はリッカを見ている様子はなかった。

 二人とも、同じことを考えていた。

 ファノンの力がセントデルタで顕現しないよう尽力する。

 それを約束したとたん、さっそくセントデルタで、よりにもよってリッカの弟に振るわれたのである。

 クリルもリッカも、止めがたい波乱を予感していた。

昔日の

 それは、ファノンが7歳のころだった。

「おはよー! お前ら今すぐ俺に今日のパンツの色を報告しろ」

 その日の朝、小学校の教室に入ると、ファノンはそう叫んだ。

 それによって、苦笑いする男の子、軽蔑の視線を向ける女の子、そしてたくさんの、その言葉に慣れて無反応な男女の顔を見れる……はずだった。

 だが、この日の同級生たちの顔色は、いつもと大分、違った。

 皆が、ファノンを一瞥したのち、目をそらしたのである。

「……おい、どうしたんだよ……俺のブリーフの色なら白だぜ」

 ファノンはいつも遊ぶ男友達を見た。

 その子は沈黙とともにファノンを見返すだけだった。

「あー……まあパンツなんか、どうでもいいんだけどな」

 ファノンは片思いの女の子を見たが、その子は初めからファノンに背を向けて、他の女の子とひそひそ話していた。

「……なんだよ、お前ら……揃いも揃って」

 ファノンは口をとがらせて、自分の席に着いた。

 その日、なぜ同級生が冷たかったのか。

 ファノンは放課後、すぐに気づいた。

 アクアマリン通りに沿った、隣のクラスの男の子の家が、全焼したのである。

 家の中にいたその男の子と、育ての親は焼け死んだが――その犯人が、ファノンということになっていたのだ。

 ファノンはその男の子と二日前、殴り合いのケンカをしていた。

 当時からファノンが光を思う場所に集めることができることは、セントデルタ人全員が知っていた。

 出火元は外。

 犯人はファノンだと誰かがうそぶいたのが、めぐりめぐって学校中の子供たちのみならず、セントデルタ中の人間が知るところとなったのである。

「エノハ様……俺、やってないよ。俺、あいつとは確かに殴りあったけど、あのあと、ちゃんと仲直りだってしたんだぜ?」

 当時のファノンの住まい、アレキサンドライトの塔の三階で、ファノンはエノハを見上げ、潔白を涙ながらに訴えた。

 エノハは何も語らず、ファノンと同じように……いや、ファノン以上に悲しげな表情で、ただファノンの頭を優しくなでるのみだった――

水爆の男

「……」

 セントデルタの舗装路は街路ごとにちがう宝石が用いられており、ファノンたちのいる地区はルビーとガーネットでできていた。

 家から2キロほど東に歩くと、村の境界ポワワワンの川が現れる。

 川幅は100メートル近くもある遠大な川ではあるが、かわりに深いところでも、せいぜい50センチほどの、浅めの水深。

 11月に入ると、産卵のためにサケとマスがのぼってきて、さらにそれを狙って熊やサギなども集まり、人間以外の声や存在感にあふれた、活気の満ちた景色になる。

 ファノンはそのポワワワン川のほとりに、一人でしゃがみこんでいた。

 メイから逃げるようにしてここへ来て20分、自分の心の中を吹き荒れている波乱を、どうにか抑えようとしていたが、考えがまとまらないまま時間がすぎていた。

「古代のマンガとか嘘だよな……いつもこういう昔のイヤな思い出話は、寝てる時に蘇ってたりするけど……」

 ファノンは髪の毛をもんだ。

「起きてるときに……一人でいるときに……弱ったときに限って襲ってくるんだ」

 化け物。

 ひとしきり昔日のエピソードが頭の中で一巡したあと、こんどは先ほどノトに叩きこまれた言葉が衛星のように、ファノンから付かず離れず、ぐるぐる頭の中で回りはじめた。

 同じことを考えているうちに、初めて化け物として扱われたあの日のことを、思い出してしまったのである。

 ――痛い目にあわせてやる。

 ――ぶっ殺してやる。

 セントデルタは楽園ではないから、こういう感情は、あの日の7歳の時にも感じたものである。

 だがノトのような独りよがりな、断罪的な人間にあったのは、初めてだった。

 怒りをおぼえた。

 痛めつけてやりたい。

 その口から、いや、頭の片隅にさえ、二度と生意気な言葉が生まれないほど、ノトを矯正してやりたい。

 恥ずべきことだが、たしかにそうファノンは思ったのである。

 そして同時に、ファノンは願った。

 ツチグモと対したときに発現した、あの力を。

 そう思ったら、あんなことができた。

 あの力を実際に、自由に振りかざすことができれば、永遠にストレスと関わりのない生活がおとずれる、と思いこんでいたが……真実は違った。

 ノトの、いや、それよりも、メイの恐怖の表情。

 にわかに、自分が違う生き物に浸食されているようで、気味が悪かった。

 そしてノトの言葉。

 化け物。

 こんなことをできる自分が、これまでと変わらずセントデルタ村で生きることが、できるのか。

 これまでになく体験したことのない不安にファノンが襲われていると。

「どうしたんだ、そんなところで」

 背後から、低音だが涼しげな声がかかった。

 振り返ると、そこには見たことのない長髪の男が、河原の土手からファノンを見下ろしていた。

 その顔は二十歳前なのだろうが、いささかその予想年齢より、男は老けて見えた。

 セントデルタに生きる人々はみな、エノハに寿命を統一され、二十歳で死ぬのだから、二十歳に見えなくとも、二十歳以上であるはずがない。

 男はエメラルドから染め出したような色彩の、セントデルタの民族服を着てはいたが、上着は羽織らず、心臓の数センチ下あたりには、裂傷を包帯でくるんでいて、そこから血をにじませていた。

 だがそれ以上に、ファノンには、この男に興味をそそられる、ふしぎな感覚をおぼえていた。

 例えようがないが、こう、運命の友人にあったような気持ちに近かった。

「嫌いなやつだったけど、傷つけるところだったんだ」

 だから、ファノンは初対面の男に、幼馴染のメイにも打ち明けられない内心を吐いた。

「ああ……たまたま見ていたよ。ノトというんだったかな? あの男、びびっていたな」

 男は吹き出すように笑った。

「見ていたのか? 俺がノトに力を使うところを? 人影はなかったと思うが」

「遠くから見ていたからな。たしか君は、虫メガネのように、光を思った場所に集める能力があったんじゃあ、なかったかな。それなのに、ノトにはそれとは違う、まったく異なった力を見せた気がしたんだが?」

「昨日もツチグモと戦ったけど、虫眼鏡の収束レンズだとあんまり効果がなかった。ほかに何かできないかとおもったんだ。マンガで見たことがあるんだよ。昔は電子レンジっていう、食べ物を温める機械があったらしい。それのことを考えながら、こいつを温められないかって思ったら、本当にできたんだ。あんなに強い力になるとは思ってなかったけど」

「電子レンジ……? 知ってるぞ。マイクロ波という電波で水分子を揺らしてあたためる道具だな」

 マイクロ波。

 波長12センチの長大な電磁波で、金属には反射するが、それ以外の物質は通り抜ける、不可視の光線である。

 2450MHzのエネルギーで水にぶつかると、水がプラス極とマイナス極に、一秒間で24億5000万回変化する。

 温度とは分子運動のことだから、その振動によって水は温まるのである。

 ただ電子レンジがものを温めることができるのは、せまい金属の箱で、そのマイクロ波を箱の中でいかんなく乱反射させているためだ。

 ひらけた場所では、それほどの効果はなかっただろうが、それでもノトが熱いと感じたレベル。相当な量の電磁波を、ファノンが発生させていたはずである。

「殺せなかったのは、まだ君の力が成長段階だからさ」

「殺す……? 俺はそんなつもりは」

「ウソをつくなよ。殺意、悪意、憎悪、怒り。そんな感情に反応するんだよ、その力は」

「……待てよ、その声……聞いた覚えがあるぞ」

 ファノンが眉をあげて男を見つめ直すと、男のほうは喜ばしげに口元をあげた。

「やっと気づいたか――ツチグモでは失礼したな」

「お、お前! やっぱりツチグモの声の主!」

 ファノンはとっさに地べたから尻を離し、男から距離をとって、その悪人に向けていつでも『力』を発することができるよう、手をかざした。

「ノコノコと、よく俺の前に……セントデルタに姿を現せたもんだな」

「俺は必要さえあれば、どこにでもノコノコと姿を現すのさ」

「だ、だまれ!」

 ファノンは叫ぶとともに、手のひらから力を解き放った。

 だが、先ほどまでノトに猛威を振るっていた力は、まったく呼応してこなかった。

「な、なぜ……」

「なぜ、力を使えないと思う? それはお前が俺に恐怖しているからだ」

「い、言いたい意味がわからん」

「恐怖と憎しみは同席できないらしい。ドストエフスキーという古代の文豪が、白痴という小説で書いていた。なんでも憎みながら、その相手を恐れることはできない、だそうだ。その逆も真なり、だよ。

 ツチグモを操作していたあの時、俺はお前が憎しみをいだくように仕向けるために、お前の家の同居人……クリルの惨殺をことこまかに詳述した。怒れただろう? 憎めただろう? 恐怖など吹き飛ぶほどに。

 だが今は、俺のことを不気味にでも思っているんだな。なぜ俺がクリルのことまで知っているか、なぜノトのことまで掴んでいるか、わからないんだろう? 恐れていては、その力は破壊のエネルギーをお前に貸しはしない」

「お前、いったい何者だ」

「――俺はフォーハード。かつて人類を96億人、殺した男だ。歴史では100億を葬ったことになっているがね。お前らの間じゃ、水爆の男、という呼び名のほうが、しっくりくるのかな」

「水爆の男だと……? あいつが生きてたのは500年も前だ。病院はあっちだぞ」

「……」

 フォーハードはうつむき、そのまますっと片手をあげると、手のひらを天にかざした。

 その瞬間、である。

 ファノンの見る景色が、いきなり開け、前もうしろも大空になったのである。

 足元に雲があり、その隙間から七角形をしたセントデルタの街と、エノハの住むアレキサンドライトの塔がうかがえる、と思ったのもつかのま、ファノンは真っ逆さまになってその雲に吸いこまれ始めた。

「うわ、うわあーーっ!」

 ファノンは高速で地面に向かって落ちていく中、絶叫を上げるしかできなかった。

 日常で味わうことのない、無重力状態に、かんぜんに冷静さを失っていた。

 あまりの高度のためなのだろう、風を二つに断ちながら高速で落下しているにもかかわらず、いっこうに地面に近づくことはない。

 だが、ファノンが思っていたより、はるかに早く、ファノンは地べたに激突した。

「ぶぎゃっっ」

 ファノンは、顔面から元いた「ポワワワンの河原」に着地したのである。

 鼻の奥のツーンとした痛みに悶えながら、ファノンはふるえる顎を無理に上げて、目の前の男……フォーハードをにらんだ。

 フォーハードは、すました笑みをファノンに向けて、たたずんでいた。

「俺の力は時空を操ることなんだ」

「時空……今のが?」

「知ってるか? 時間と空間は同じものなんだ。つまり俺は今みたいに瞬間移動じみたこともできるが、時間を飛び越えることもできる。戻ることはできないがね。その力を使って、こうして今、未来旅行を楽しんでるってことさ」

「本とかだと、お前は南極の水爆で吹っ飛んで、死んだと書かれてた。でも違ったんだな。爆発する前に、時空に逃げこんだ」

「まあ、だいたいそんな感じだな」

「俺をどうしたいんだよ。昨日みたいなことをやって、わざわざ俺を怒らせて……何が目的だ」

「あの時に言っただろう、超弦の子。お前は俺のやりたいことを可能にする力がある」

「なんなんだよ、チョウゲンのコって。俺はウン子とかクソムシとかなら女の子に呼ばれたりはするが、誰も超弦の子だなんて名で呼んだことはない。病院はあっちだぞ」

「……俺に畏怖しているわりに、よく回る舌だ。これもエノハの世界のたまものか。強い生命力だ。

 お前の力はそもそも、太陽光を収束させてモノを焼くなどと、そんなショボくれたシロモノではない。お前の力は万物の基礎をあやつるもの。だから超弦の子というのだ。

 気づいているんだろう。お前は、自分の知っている科学現象しか、起こすことができない、と」

「それがどうした」

「俺が教えてやるよ。この宇宙さえ消滅させる力の使い方を」

「ふざけんなよ。俺がそんなことをする理由、あると思うのか」

「セントデルタの箱庭に育ったお前に、人間の狭量と、世界の悪を憎むことなど、できんだろうさ。エノハはそれを見事に駆逐したからな。ここはいい世界だと思うよ。ここが永遠に続く、と確約するものがありさえすれば、な」

「……何を言ってるんだか、さっぱりだ」

 ファノンは会話をつなげながらも、意識は他のことに集中させていた。

 昨日ツチグモにされたことと、先ほどノトに言われたことを、なるべく事細かに思い出していたのである。

「ところで、あんたのやりたいことについて、聞きたいんだけど。興味はないけどな」

「およそわかってると思ってたがな。俺は宇宙から生物という生物の痕跡を消したい。物質から生物が生まれた形跡もあるから、けっきょくは物質もだけどな」

「殺したいのは人間だけじゃないのかよ。てっきり俺は、人間は愚かで自然破壊ばかりする、だからやっつける、とでも言うのかと思ったよ。今俺が読んでるマンガとか、そんなん多いぜ」

 ファノンは語りながらも、自分の手首のほうに、充分なレベルの小さな熱源が集まりつつあるのを感じていた。

 力だ。

 人間相手になら深刻なダメージを与えられる、闇の球を作る力が、ファノンの体内に取り戻されつつある。

 だがその力を振るうためには、もっと時間稼ぎをする必要があった。

「お前の理論だと、こういうことか? 人間でさえなければ、清い世界が作れると? スズメでもイルカでも、進化の果てに高い知能を得れば、人間には叶えようのない理想郷が完成すると? 動物は清らかで、人間のような邪念がないと? 争うこともなく、融和が可能だと?

 ――違うな。人間だから争うのではない。人間だから、醜さを露呈して歴史に醜聞を連ねるのでもない。

 人間だからではなく、生命だからなのだ。

 けっきょくどんな生命も知恵をにぎれば、人間と変わらんことをする。

 知ってるか? 海に生きているシャチという動物は、皆ではないが、生きたアザラシの赤子の皮をはぎ、仲間同士でボール遊びのように投げ合うそうだ。

 アフリカのオグロヌーという水牛は、皆ではないが、ワニの群集する河をわたるとき、まずは子牛を先に行かせるものもいる。

 もちろん、それと同数の美事はあるが、それは人間も同じこと。

 これぞ感情の証明だ。喜怒哀楽があるから、それでモノを判断する。子供を尊び他人をしりぞけるのも感情だ。そこにやがて格差が生まれるし、その末路も人間と同じになる」

「俺はべつに、そもそも人間がどうのと議論するつもりはなかったんだが……それでも、およそ、お前の考え方というのはわかったよ」

「わかってくれて嬉しいよ。で、その右手にあるエネルギー体で、どうするのかな?」

「――!」

 ファノンはぎょっとして、得意げに指をさしてくるフォーハードを見た。

「さっきなぜ、お前は初対面の俺に、ノトを焼き殺そうとしたという、そんな深刻な話題を振ったと思う? お前も俺に対して、意味のわからん友愛を感じたんじゃないのか? それこそが、俺たちの力の、もう一つの特徴だ。この力は引き合うのさ」

「スタンド使いのようにか」

「……? 何の話かはわからんが……ともかく、お前はまだできないだろうが、俺にはお前がどこで、どんな力を爆発させているのか、わかっていたぜ。つまりお前は」

 フォーハードがそこまで告げたところで、だった。

 ファノンが溜めこんでいた力を、手のひらから解放したのである。

 そのとたん、フォーハードの周囲の景色がにじんで、やがてそこはあたかもブラックホールのようになった。

 そしてフォーハードは完全に、その漆黒の中心にくるまれていった。

 だが。

「――つまりお前は、俺からは逃げられない」

 フォーハードの声が、ファノンの背後から襲ってきた。

「!」

 ファノンの振り向くところに、フォーハードが不敵にほくそ笑みながら、腕を組んで立っていた。

「何を不思議そうに。俺は時空をあやつる、と言ってるだろうが」

「こ、この」

 ファノンは振り返りざま、拳を耳のそばにかまえ、突きを繰り出した。

 術で勝てないなら、殴り合いで。

 短絡的なファノンの、きわめて単純な結論である。

 だがそれも、フォーハードは折りこみ済みだった。

 顔面に飛んできたパンチを、フォーハードはすれすれでかわし、距離のちぢんだファノンの顎に、強烈な肘を下から浴びせた。

「がっ!」

 ファノンは口から血の霧を吐いて、石ころだらけの河原に滑りこんだ。

「……その力を振るうだけなら、事実をかいなでるだけでいい。だが本当のその力を発揮するためには、窮理を知っていなくてはならん。今のお前じゃあ、神にはなれんぜ」

 フォーハードは顎を抑えながら倒れるファノンの傍らにしゃがみ、うそぶいた。

「誰が、そんなものに」

「そうだな、エノハの代わりに神になってもらっても困るしな……そこでだ、ファノン。面白いことを教えてやるよ。今よりも、もう少し強い力の使い方だ」

「そんなもん、聞かせるな!」

 ファノンは仰向けのまま、うしろずさろうとしたが、その動作はフォーハードに髪を引っつかまれたため、かなわなかった。

「超弦とは、万物の根源だ。お前はほんらい、万物そのものを自在に操ることができるってことだよ……たとえば、肉を鉄にする、とかな」

「……じゃあ今すぐ、あんたの鉄の彫像を、俺の作品の第一号にできるってことか」

「言っただろ、お前ができるのは、お前が知っていることだけだと。あとで調べてみろよ、超弦っていう言葉の意味を」

 ファノンに破滅的な力をさずけようとする張本人は、愉悦の笑みを絶やさず続けた。

「なんなら試してみるがいい。この俺フォーハードに鉄になれ、と」

「ああ、やってやるさ!」

 ファノンは間近にあるフォーハードの眼前に手をかざすと、念をこめた。

 だが、三秒待っても、五秒待っても、景色が何がしかの変化を遂げることはなかった。

「くそっ、効果ないのかよ」

「そうでもないぞ。万が一にでも、今のとぼしい知識だけで、その力が発動したらと、俺は内心不安だったからな。弾丸の入ってない拳銃でロシアンルーレットをする気分ぐらいにはなれた」

「ふざけやがって」

「だが残念なのは……今俺が話した言葉、ほかの人間にも聞かれてしまったことだな」

 そこでフォーハードはファノンの髪から手を離し、降参するかのように、軽く両手を挙げた。

「ど、どういう意味……」

 ファノンがそう呟いた瞬間、うしろに気配が生まれた。

 ファノンが振り向くよりも速く、その気配は長い黒髪をたなびかせながら、ファノンの横へ並び、さらにその前へ、ファノンの盾になるように進み出た。

 クリルだった。

「ク、クリル!」

「ファノン、大丈夫?」

「あ、ああ……どうしてここへ」

「ノトが騒いでたのよ、あなたが異形の力を使ったと」

「異形じゃあない、超弦だよ」

 ファノンとクリルの問答に、フォーハードが言葉を滑りこませた。

「……ファノンを、たぶらかさないで」

 クリルはファノンが聞いたこともないほど、声を低くすごませた。

「イヤだね、そいつをたぶらかさないと、俺に次のステップは生まれない」

「議論だと、平行線になりそうだね」

 そういうとクリルは、広がる袖から一本の、アメジストの果物ナイフを取り出し、そのままフォーハードへ向けて駆けていった。

「お、おいおいおい」

 まさかいきなり武器を取って襲ってくるとまでは考えていなかったフォーハードは、動作が遅れた。

 頸動脈をすくいとるようなナイフの横薙ぎと、次に来た逆手持ちの右肩への一閃をフォーハードはかわすものの、最後に飛んできた、クリルの膝蹴りを、フォーハードはよりにもよって、包帯で薄膜を張っただけの傷口にもらってしまったのである。

「うぐゥっ!」

 渾身の蹴りを食らわされたことにより、フォーハードは初めて苦悶の表情をあらわして、たたらを踏むように、うしろずさった。

 その足のそばから、紅茶のカップからこぼしたような鮮血をボタボタと垂らしながら、フォーハードはかろうじて態勢を保った。

「最悪な場所を蹴ってくれるな、お前は……」

「ファノンを傷つけた。その報いとしたら、まだ5リットルは血を流して欲しいぐらい」

「死ぬだろ俺……まあいい。とりあえずの目的は果たした。今回は帰ってやるよ」

 そういうと、フォーハードの体が、うしろの景色と融けはじめた。

「ま、待ちなさい!」

 本当にまだ殴り足りないのかどうか、クリルがフォーハードをとどめたが、そのころにはすでに、フォーハードはそこから消滅していた。

「なんなのあいつ……」

 クリルは吐き捨てたが、背後にファノンがうずくまっていることを思い出して、心配げに振り返った。

「ファノン、大丈夫?」

「ああ……大丈夫だ。クリル、あいつを知ってるのか? いきなり見知らぬ人に斬りかかるなんて……病院はあっちだぞ」

「だってあなた、口から血をだしてんじゃん。状況的に、あの男がやったって考えるでしょ、フツー。

 それに、あの顔にはあたしだけじゃなく、セントデルタのみんなが、歴史書で見てるわ。奴はフォーハードだよね。人間をあれだけ殺しといて、平然としてたヤバイ奴。でもなんで、ここにいるの、あいつが。死んだはずだけど」

「あいつ、次元を超えたから核爆発から逃げられたとか、布団の中で考えたような設定を得意げに言ってたぞ」

「ねえファノン……あいつから、何を吹聴されたの?」

「……超弦について調べてみろ、みたいなことを言ってた」

「超弦……フォーハードも超常の力を持つから、直感的に他者の力がわかるのかもね……ファノン? どうしたの?」

 クリルはそこで気づいた。

 気丈にジョークをまぜて会話するファノンが、本当は顔が青ざめていることに。

「大丈夫?」

「違う、違うんだよ、クリル」

 ファノンは必死に首を振った。

「俺、これからどうなるんだろうな。少し怒るだけで、こんな力が生まれるってこと、心配したことなんかなかった。俺、本当に化け物になっちまった」

「ノトの流言なんか、フォーハードの戯言なんか、信じないで。あれはあなたを迷わせる。不幸にする。あなたはウチの子だよ? どこにも行かせない」

 クリルが尻餅つくファノンの丸い背を、うしろから抱きしめた。

「ファノン……泣いてるの?」

「泣いてねえよ、ちょっと目に涙が入って痛いだけだ」

 ファノンは目をこすって、瞳から垂れる涙をしぼったが、目の奥はどんどん痛くなってくる。

 とつぜんの嗚咽が始まったのも、ファノンは認めたくはないが……クリルが優しい言葉をかけてくれたからだ。

 意地という名前の堰が、優しさに触れて、ふやけてしまったのだ。

 甘ったれな自分、というフレーズが浮かんできて、また涙がこみ上げてくる。

 情けなくも泣くわが身の未来が不安で、というだけではない。

 悔しかった。

 フォーハードには術を使っても腕力でも、いいところなし。

 いいようにコケにされて、それなのに手も足も出ずに叩き伏せられ、地面の砂を舐めさせられた。

 フォーハードだけではない、ノトにはまるで殺人未遂犯のように指差されて、人格どころか存在そのものを非難された。

 ここに居場所がないような気持ちで、一杯だったのである。

 涙とともにそういった耐えられない感情を頬から捨てていっても、後から雨水のように涙は出てきて、枯れるを知らずにファノンの目から出てくる。

 それでもファノンは、こんな所でうずくまっていても、ものごとは何も解決しない、ということをわかっていた。

 強く、なりたい。

 ファノンは背中にクリルの温かみを受けながら、無様だと知りつつ弱々しく顔を片手で隠しながら、たしかにそう決意していた。

そろいたての歯

 セントデルタの村を上空からながめると、あたかも何かの要塞のように七角形をかたどっていて、中央からのびる放射街路に応じて宝石の色が定まっているのがわかる。

 ファノンたちの住む家のそばにはルビー・ガーネット通り。

 ルビーの赤と、ガーネットの紅茶色の敷石が特徴の大通りである。

 道路の周囲にはルビーやガーネットを筆頭とした、パイロープやカーネリアン、スピネルといった、赤みの強い宝石の使われたレンガや屋根が用いられている。

 説明の通り、ここらの道路は赤で彩られているわけだが、エノハは敷石にあしらう宝石こそ法で定めてはいたものの、そこに列する家の素材まではどんな宝石かまでは指定していなかった。

 マイホームぐらいは、自分の好きな形をしてよいと尊重したのである。

 だがエノハを敬愛する人間が多かったためだろう、ルビー・ガーネット通りの家は壁も屋根も、木で作られていない部分はほぼルビーやパイロープ、そのほか赤みの強い宝石で、こしらえられていた。

 そしてそれは、ほかの宝石通りでも、同じ様相だった。

 ルビー・ガーネット通りの隣に位置する、橙色に輝く敷石が特徴の、オレンジダイヤ・ファイアオパール通りをいま、水爆の男フォーハードが左脇の傷に手のひらを当て、悶え声を、のどの奥に飲み潰しながら歩いていた。

「う……うっぐ……あの女」

 フォーハードは人目のない裏路地に身を逃がすと、オレンジスフェーンの家壁に体をあずけ、脇の傷口を抑えながら、歯の間から怒りをひり出した。

 血はあたかも岩清水のように、いまだフォーハードの脇からこぼれている。

「くそ……血が止まらん…………やばいぞこれ……」

 フォーハードはそこで、強い貧血による立ちくらみを覚え、視界がにわかに、まるで白黒テレビの景色のように、見える世界のすべてが灰色に暗転した。

 それとともに、体が数百倍の重さにでもなったかのような脱力感に襲われ、たまらずフォーハードは、どしゃりと乱暴に片膝をついた。

「この俺が、こんな所で……」

 フォーハードは耐え切れなくなって、埃むす地面へうつ伏せになった。

 このまま謎の変死体として、死後にエノハに報告されるのだろうか。

 そうでなくとも、動けなくなった状態で誰か村人に見つかり、彼らの善意で病院にでもかつぎこまれれば、話はかくじつにエノハの元まで行くだろう。

 まさかエノハも、フォーハードが女に蹴られて死にかけているとは考えていないだろうが、悪事の限りを尽くしたそのフォーハードが生きながらえて、のさばっていると知れば……そしてその世紀の悪党が弱っていると知れば、おそらく、ここぞとばかりに殺しにくるだろう。

 自分ならば、目の前に手負いのアドルフ・ヒトラーがいれば、迷わずトドメを刺す。

 戦うにしても抗うにしても、今のフォーハードには、時空の力は具現できない。

 遠くなってきた意識が、燃料である悪感情……つまり憎悪の想いをさらっていっているのだ。

「どうしたの?」

 名案も浮かばないまま、横たわっていると、フォーハードのうしろ、というより、頭上から声がかかった。

 男女の区別のつかないハイトーンの声色から、子供のものであることだけは、フォーハードのうつろな頭脳でもわかった。

「動けないんだね? 待ってて、お医者さんを呼んでくるから」

「ま……待て……医者はまずい。医者は呼ばないでくれ」

 約100億人を殺戮してきたフォーハードは、普段ならこの状況さえ逆転させただろうが、今はまったく頭がまわらず、命乞いめいた言葉しか、口にできなかった。

「どうしてさ、そんなに死にそうじゃないの」

 子供は横にうつり、うつ伏せのフォーハードの、土のこびりついた横顔をのぞきこんできた。

「……動かなければ……なんとかなる……血も止まる……」

 いや、ならないかも、と内心では考えていたが、ともかく今のフォーハードには医者から処方を受けないことが、もっとも長生きできる選択肢だった。

「そっか……なら仕方ないな」

 子供はあっさり引き下がったかと思うと、フォーハードの横から顔を引っこめ、立ち去っていった。

「…………」

 適当に自分をなだめすかして、医者を呼びに行ったのだろう、これで終わりか、と、フォーハードが覚悟を決めたときだった。

 子供は何分かして、ひとりで戻ってきた。

「お待たせっ」

「待ってない……向こうへ行ってくれ」

「うん、テーブルの上に熱湯消毒したシーツを敷いてたから手間取ってたんだ。お湯を沸かしてて良かった。今から始めるよ」

「始めるって、何をだよ……」

「その傷口の縫合。僕、お医者になる勉強をしてるんだ」

「ガキは蟻の巣をほじくってればいい、人間の体をさわる前に、何年かおとなしく勉強をしててくれ。立派な医者になることを期待しているよ」

「――その傷、負ってからかなり長いでしょ」

「……なぜ、そう思う」

「包帯ににじんでる血。変色して茶色くなってる部分がある。つまり、その包帯は、ちゃんと処置をした証拠でもあるんだ。

 流血は多いけど、そっちは傷口が開いたためであって、内臓……その位置だと大腸から出てるものじゃあない。ただ、動脈はやられてるから、安静が必要なレベルだね」

「……で?」

「僕が傷口を縫ってあげる。まだ失敗したことないから、大丈夫」

「縫合をするのが初めてだ、という意味だな?」

「たしかに初めてだけど、手順は知ってるよ」

「断る」

「医者の世話にはなりたくないんでしょ? 僕はまだ医者じゃないから、安心してよ」

「……なるほどね」

 フォーハードは数秒、目をつぶって言葉をためてから、ふたたび口を開いた。

「……言っておくが、金はないぞ」

「望むところさ。立てるかい」

「辛いが、なんとか」

 フォーハードは、よろよろと起き上がった。

「麻酔はできないけど、我慢してね」

「最高にイヤだぞ……それしかないんだな?」

「クロロホルムくらいなら、本物のお医者さんから借りることならできるよ。何に使うかは、聞かれるけどね。そうなれば当然、僕には無理だとお医者さんは判断するだろうね」

「いや、いい……」

「決まりだね。それでだけど……あなたの名前は?」

「俺の名前か……フォ……マハト。マハトだ」

 フォーハードは朦朧としながらも、答えた。

「マハト……奇な名前を付けられたね。虐殺者フォーハードのファーストネームじゃないか。肌もすごく白いし、本人だったりして」

「……」

 フォーハードは落ち度を踏んだと感じていた。

 いまのフォーハードには、まさかマハトの名前だけで自分のことを連想されるとは、考えるだけの余力がなかったのである。

 思えば、このセントデルタは白人・黒人・黄色人のまざった風貌の人間ばかり。

 フォーハードのような白肌がいれば目立つし、マハトの名前からフォーハードまで行き着くのはしごく当然だったのである。

 幸いだったのは、この少年も、フォーハードが過去に水爆に巻き込まれて死んだと思っていることである。

「俺ばかり聞かれるのはつまらん……お前の名を聞きたい」

「僕? アエフ・ミンモン。お礼は生きるメドがついてからで」

 そう言うとアエフは、そろいたての永久歯を見せびらかすように、大きくほほえんだ。

アレキサンドライトの塔で

 アレキサンドライトの塔、二階正面にある、応接広間。

 このアレキサンドライトの塔はエノハが建てたものではないが、その内部はエノハ好みに改装され、かなりシンプルに作りかえられていた。

 4ヘクタール、つまり200メートル×200メートルの敷地をほこる一階はエントランスホールしかなく、周囲を飾るものといえば、外装と同じアレキサンドライトの宝石壁面と、その壁を薄暗く照らす常温核融合のランプに、二階へとのびる階段のみ。

 そして二階には、一階同様にだだっ広い広間に低めの牛皮ソファが、低いテーブルをはさんで向き合っていた。

 ここまで徹底的に殺風景なのは、エノハがあまり調度品にこだわりがないため……というのもあるが、当人いわく、人間だったころから、あまりにも物のない中で用を満たしていたため、もう慣れてしまったから、だそうだ。

 ただ現在、その二階応接広間の、ソファの背もたれに片手を置いているエノハは、すこぶる機嫌が悪かった。

 眉間にはほんのりシワが入り、人差し指はいらだたしげにソファの肩を小刻みに叩いている。

 理由はふたつ。

 ひとつは、いま目の前で、敗残兵のように後ろ手に縛られて膝をつくノトから、ファノンの力の暴走を聞いたこと。

 そしてもうひとつは、クリルからの報告で、フォーハードがファノンへの接触をしたと聞かされたこと。

 その話を聞いたときから、エノハはずっとこの表情だった。

「殺人未遂にもかかわらず、一週間の独房という寛大な処置、痛み入ります……ですが、それならあの男もそうなるべきでしょう」

 ノトはみずからに刑の執行が課されたにも関わらず、興奮ぎみに進上した。

「あの男……? どの男のことだ」

 エノハはいつもは使わない、意地悪げな言い方で聞き返した。

 殺人未遂の罰は、ほんらいは一週間どころか、2年から5年。

 それを一週間にしたのは、ファノンに課される罪と相殺したからだ。

 ノトが一週間の独房入りなのに、ファノンはお咎めなしなのにも、理由があった。

 わずかにノトのほうが罪が重かったのは、ファノンは異形の力でノトを焼く直前、幼馴染の一言でやめたのに対し、ノトのほうは、力でねじ伏せられなければ、殺人を果たす気だった、という違いにある。

 ファノンはともかく、ノトが世間に出れば、また殺人を働く可能性がある。

 それでも処罰を軽くしたのは、自警団長リッカのためだ。

 フォーハードが暗躍するいま、大権を持つリッカの弟に厳罰を処して、リッカの気概をそこねることは避けたかった。

 それに、ノトの罪を重くすれば、おのずとファノンにも数年の禁固を言い渡さないとならない。

 時空をまたぐフォーハードなら、どこにファノンがいようと、そこに行って、ファノンに持論を吹き込むことができるだろう。

 ファノンが暗い独房の中で、ほとんど何もできない中で、毎日フォーハードの闇の信念を説かれれば、どうなるだろう。

 フォーハードはかつて、自分が資本を得るために石油王を洗脳した経歴がある。

 意見の違う、赤の他人の力を自分のために使うには、洗脳はたしかにひとつの手段だ。

 それを、フォーハードがやらない理由がなかった。

 つまり、ファノンを一人にはできない。

 ファノンを、セントデルタを守るため、エノハは初めて、政治的な理由でノトの罪を軽くする決定を下したのである。

 これまでにない最悪な状況と、そのためにみずからの理念を曲げなくてはならない自己嫌悪が、エノハを苛立たせるのである。

「ファノンです。あの男は化け物です。あれが生きていると、大勢の人々が死ぬことになります!」

 そんなエノハの内心も知らないノトが、前のめりになりながら吠えたが、ノトの腕を縛る紐をにぎるリッカが、馬の手綱を引くように、その動きをいましめた。

「それをお前が言うか。お前が生きていることでも、少なくとも確実にふたり、つねに死の危険が迫っていることになるのにな」

「そ、それがエノハ様の意思に反するなら、私はもう、そのようなことはしません!」

「ほう、神の前で誓いを立てたな? もしも破れば、次こそ厳罰だぞ……もうこれ以上、話すこともない。連れていけ」

「……はい」

 リッカがうなずくと、白いオパールの扉のそばに控えていた二人の自警団員が、ノトの両脇をつかんで、入ってきた扉から出て行った。

 その扉は過去にあった自動扉というもので、手の力を用いなくとも、勝手に左右にスライドして通行人に道をゆずった。

 広間には、エノハとリッカだけとなった。

 だがエノハはまだ考えがまとまらず、うつむいて考えこんでいた。

「あの……エノハ様……どうしてノトの罪を、あれほどまでに軽くなされたのですか?」

「厳罰にして欲しかったのか? 弟にも手厳しいな」

「いえ、そういうわけでは……でもファノンへの配慮だけでは、それが説明できない気がするんですが」

「そうだな……お前たち自警団には語っておこうか」

 エノハが顔を上げてリッカをまっすぐ見つめたから、リッカもわずかに背をただした。

 リッカはこんな表情のエノハなど、見たことがなかった。

「……フォーハードが、この村に潜伏している」

「フォーハードが? 史上最凶の殺戮者ですが、あれは500年前の人間ですし、自分の設置した水爆で死んだはずです」

「今さら隠してもしょうがないな。奴には超能力がある。時間と空間をワープする力だ。南極を水爆で破壊した時、奴は時空を飛んで逃げおおせたのだ」

「……にわかには信じがたい話ですが……つい二日前にもファノンの力を見たばかりだし……それにエノハ様のお話だからこそ信じます」

「ありがとう、説得の手間がはぶける」

「フォーハードだとして、私たちはどうすれば。まずは触れを出して、フォーハードが生きてこの村に隠れているから、見つけ次第、通報を、と言うべきでしょうか」

 リッカは心細げに進言した。

 ツチグモにも臆さず攻撃をこころみたリッカでも、さすがに100億の人間を相手にしたフォーハードには鼻白んだのである。

「それは無用の混乱と不安をまねく。それに奴を刺激すれば、破壊作業の続きを始めることだろう。奴にとって、たかだか1万人のセントデルタ人を全滅させるなど造作もない」

 エノハは顎に手を添えながら神意をのべたが、それは誤りだったと、あとで悔いることになる。

 いまフォーハードは、道端で出くわした子供に施術をおこなわれ、生死の境をさまよっているのだ。

 ここでフォーハードを見つければ、たやすくその息の根を止められ、この危機を乗り越えられたはずである。

 エノハも、クリルがフォーハードの脇腹に鋭い蹴りを喰らわせたのは知っていたが、まさかフォーハードがそれで死にかけているとまでは、思わなかったのである。

「では、いかがなさいますか」

「触れはなしだ。だが自警団員には、色白な男を見かければ、捕縛はせず、深追いもせず、私に報せにこいと伝えよ。くれぐれも相手を刺激しないように。奴はほかの大陸に闊歩している殺戮機械を召喚することもできる。このあいだのツチグモも、それで呼び寄せたのだろう」

「そもそもフォーハードは、いったい何をしにここへ来たのでしょう。あの男は生命の絶滅が目的のはず。それなら潜伏などせず、さっさと行動に移せばいいのに」

 リッカが素朴な疑問を呈したが、それはまさにエノハも先ほどまで自問していたことだった。

「おそらくフォーハードの狙いはファノンだ。あの子の力は超弦とやらに関わるものだと、クリルが言っていた」

「チョウゲン……?」

「万物の根幹をなすものだ、とだけ。ともかく、その根幹をあやつることが、ファノンにはできるのだ。このままフォーハードの思うままにファノンを利用させるわけにはいかん。あの子を、守ってやってくれ」

「かしこまりました……そのように」

 リッカは頷いたが、内心は複雑だった。

 弟をケガさせた人物を、ていねいに守護することに、言い知れぬ抵抗感があった。

 それにファノンの力がまた暴発するとき、おそらく自警団員の誰かが、そばで見ていることになるだろう。

 ――その時、あたしはファノンをかばえるだろうか。

 ――かばいたい、と思えるだろうか。

 そんな不安をかかえながらも、リッカはそれを顔に出さず、続ける。

「あと、エノハ様」

「なんだ」

「その……ノトの話なんですが……ファノンをこれから、どうされるおつもりですか」

「お前ならどうする?」

「わかりません……あの子は15歳になるまで、あんなことはできなかった。これから、ああいうことが起こらないとは限りませんけど、あの子の寿命があと5年なら、見守ってあげたいです。

 でもノトの言い分もわかるし、他の人にもノトに近い意見もあるはずです。その時のことを考えたら」

「……かつて一度だけ、ファノンと同じ力を使う人間を見たことがある。

 あの力は、憎めば憎むほど増長した力をもたらし、しかも憎しみが晴れたあとにも、以前より強いエネルギーが当人に宿る」

「あのツチグモを焼いた力が、もっと強くなる……フォーハードが利用するに値すると判断した力。私が言うのも何ですが……つまりファノンは、フォーハード以上に危険な存在になり得る、ということではないのですか」

「……歯に衣着せぬやつだ。たしかに、ファノンを闇討ちすれば、フォーハードの目論見は潰えるだろうが……それこそフォーハードの絶望に火をつけるだろうな。

 ファノンやフォーハードの力は、憎しみによって力を得る。

 絶望は憎しみになりやすいのだよ。そしてフォーハードが憎しみの光をセントデルタに向ければ、ここはひとたまりもない」

「エノハ様。あたし、正直に言って、ファノンを守ることは迷ってます。ノトはあんな性格ですが、弟は弟です。それを傷つけたファノンを、許すことができないでいる。

 ――それでも、あたしはあの子を守る、とお約束します」

「お前はいい子だ」

 エノハは小さく笑って、リッカの肩に手を置いた。

「それでこそセントデルタの人間だ。ここを未来永劫、道徳だけで成り立つ、究極の理想の世界としてたもつ。そのためには、このフォーハードの意図に、なんとしても抗わねばなるまい」

「はい……」

 普段からクリルのエノハ不要論を聞かされているリッカには、こういう生返事しかできなかった。

 それに、違和感も覚えていた。

 フォーハードへの対応が、普通の逃亡罪人と比べると、かなり手ぬるいのだ。

 ――法は罪の重さにかかわらず、かならず処罰が行われるということが大事で、それができないとき、人は法が無力だと判断する……と、ふだんのエノハは論じている。

 ノトやファノンへの軽い処分も、フォーハードのためなのだろう。

 100億人を殺したフォーハードとはいえ、少し慎重すぎるのではないか。

 慎重にならざるを得ない理由がある……?

 これが妄想でなかったとしたら、エノハは何か、自分に隠しごとをしている、ということになるが、優しすぎるリッカに、そこを突き詰める勇気はなかった。

図書館

 翌日。

「ない……だって?」

 図書館員の貸本受付の女から告げられたファノンが、弱った顔で自分の髪の毛をもみながら、オウム返しに問うた。

「ええ、リッカたち自警団員たちが来て、みんな持ってったのよ。わざわざ荷車まで出して」

「超弦に関する本だけ?」

「当時のメジャーな呼び名は超ひもって単語だったみたいだけどね。その本が根こそぎ禁書になって、エノハ様のアレキサンドライトの塔に引っこめられたわ」

「そうか……」

 ファノンは困った表情を片手で隠し、思案した。

「どういう理由で、リッカたちは動いたんだ?」

「エノハ様の命令でないと、リッカたちが動くことはないから、エノハ様がなんらかの目的を持ってやらせたんだろうけど……そこまでは」

「そうか……ありがとう」

 ファノンは受付から離れると、板ばりの床を踏みしめて、窓際の、よく太陽のあたる四人がけのテーブルに座って、肘をついた。

 窓はアクアマリン製のため、太陽光は深海のような日差しとなってファノンの横顔に当たる。

「誰かが、俺が超弦の力に目覚めないよう、エノハ様に働きかけをした……? でも誰が」

「あたしよファノン」

 にわかに、ファノンの背後から声がした。

 ファノンのよく知る声だった。

「っ……クリル?」

「へへー。ビックリしたな、この小心者」

 両手をうしろに組むクリルが前かがみになって、腰かけるファノンをのぞくようにして、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「クリル……フォーハードの話を、エノハ様に教えたんだな」

「当たり前でしょ。あいつが何を考えて、ファノンにそんな言葉を教えたのかはわからないんだから、手は打っとかなきゃ」

「なあ……お前も気づいてるんだろ。俺の力は怒りとか憎しみに反応するけど、その度合いが強ければ強いほど、高いエネルギーを俺に与え、しかもそれ以降、ゆるんだゴム紐のように、それまで締め上げられて出られなかった力を示すって」

「うん、うすうす。昔からあなた、怒ったときだけ、あたしとかメイにその力を使ってたけど、人畜無害な力だった。それがツチグモとの接触からずっと、強い力になってる。今までが小さい力しか出なかったのは、それだけこのセントデルタの住み心地が良かったから、と考えたいものだね」

「わからなかったのは俺ばかりか」

「おそらく、フォーハードはあなたの力を、なんらかの形で利用しようとしてる。心当たり、あるんじゃないの?」

「あいつは言ってたんだ。俺の力は、俺の知ってることじゃないと、ちゃんと具現化できないって。それで超弦について調べてみようと思って、ここへ来た」

「それこそ、あいつの思うつぼね。それとも、新しい力が手に入らなくて残念だと思った?」

「イヤ特に。たしかに好奇心はあったけどな。

 あいつ、俺にはあいつの夢を叶える力が、備わっていると言ってた。でも、イマイチ意味がわからなかったな。あいつは一体、俺に何をさせたいんだ?」

「夢ね……その話ならあたしも知ってるよ。かなり物騒で、現実味のない目標なんだよね。

 宇宙を、再生の余地もなく、永遠に命の生まれ得ない世界に変えること、とか。当時、それをする方法が浮かばなかったから、南極に水爆を埋めこんだそうだよ。アホらし」

「なんであんなにゆがんだオッサンになったんだろうな」

「さあ……わからない。ただおそらく、フォーハードはしばらく、あなたの周りをうろつくだろうから、その時に聞いてみれば?」

「遭遇すんの確定かよ。なんかあいつ、意地悪だから会いたくない」

「あたしだって、あいつと関わりたくないよ。でもあいつは100億の人間と戦って、勝ち残ってる。あなたを利用することを考えてるってことは、すぐにあなたを殺しに来たりはしないだろうけど、油断はしないようにね。なるべく、あなたと一緒にいるから」

「そ、そ、それは」

 ファノンは顔を赤らめ、目をそらした。

「ん? 寝る時も一緒よ、なんて言うと思う?」

 皮肉もなく含みもなく、クリルはあっさりファノンの言わんとしたことを否定した。

「いや……」

 ファノンは肩を落としてうつむいた。

 だがめずらしく、頭は動いていた。

「待てよクリル。エノハ様のことが嫌いなのに、自警団を動かすように進言しに行ったってことか?」

「当然じゃん。100億を殺したフォーハードのことが絡んでるんだから、さすがに個人感情だけで対処はしないわ」

「エノハ様、すぐ動いてくれたんだな。お前の言葉だったのに」

「あっちも同じ気持ちだよ、きっと」

「……」

 ファノンは思案をやめなかった。

 自分の周囲の織りなす渦に飲みこまれないため、この図書館にきた。

 それこそフォーハードの思うつぼだった。

 たしかに、思えばその通りだ。

 フォーハードは100億の人間と戦い、勝ち残った人物。

 その邪悪な勝利の過程で、フォーハードは筆舌に尽くしがたい権謀術数をめぐらせたこともあっただろう。

 となるとフォーハードには何らかの方法で、ファノンの力を利用する算段がある、と思うべきだ。

 そこを考えないとは、自分はなんと迂闊なのだろう。

 クリルやエノハがいなければ、何かまずいことを、引き起こしていたかもしれない。

 そのことに思案がゆきとどいた途端、ファノンは背筋の震える思いをしたのである。

「ねえファノン、ついでだし、なんか本でも読んでこうよ」

「ああ、そうだな……質英雄の伝説とか、久しぶりに読んでいこうかな。質屋で七人の男女がアニメについて批評しまくる、古代の人気マンガ。あれ未完だけど。俺はやっぱりリーダーのワグ+スと、その親友のノエノレが好きだな」

「あれの最後、あたし知ってるよ。作者が死ぬ前に書いたプロット、みたもん」

「ほんとか? 教えてくれ!」

「ごほん」

 ファノンが食いついたところで、それまでずっと受付に座っていた図書館員が、耐えきれないように咳払いをした。

 無言でたしなめられたクリルは、ファノンに向けて舌をだしてから、声をとめた。

「はは、怒られてやんの」

 ファノンは小声で笑ったが、頭の片隅にはまだ、フォーハードの捨て台詞が消化されずに残っていた。

 超弦。

 それが一体、自分にどんな力を与えるというのか。

 ファノンはクリルの背後にある、空となった本棚を見つめ、宇宙の先のことでも空想するように、自分の体の謎へ想像を走らせた。

宝石窓職人

     3


 悩もうと、悩むまいと、日は昇り、沈み、そして人は眠気をおぼえ……何よりも、腹をすかす。

 自分の運命航路の目前に、とつぜんフォーハードという名前の渦潮が巻かれだしたからといって、ファノンもまた、飯を食い、冬を越すべく、そして可能なかぎり古代のマンガとエロマンガをそろえるため、金を稼がなくてはならない。

 超常の力に目覚めたといえど、日々の仕事をやめるわけにはいかないのである。

 だが、頭の片隅にはフォーハードが自分を利用するために暗躍する絵図が、いつもくすぶっていた。

 そんな有様で仕事におもむくものだから、当然そのクオリティにも誤差をこうむっていた。

 ファノンは窓ガラス職人。

 繊細さを問われる職人仕事に余念が入ると、出来上がりに影響が出るのは当然と言えた。

「……」

 ファノンは、冷えたモリブデン鋼板の上に張り付いたルビーの平面板を手にとって、おのれの無力感を息に乗せて吐いた。

 窓職人と言うからには民家の窓を作って生計を紡いでいるのであるが、今日は満足のゆくものを作れずにいた。

 ファノンの悩みを写し出すかのように、紅色のルビー窓の中には、生成の過程で空気が入りこみ、あぶくがそこらに残っている。

 ルビーを加工すると熱生成のときに、結晶の再組成のための空気の泡や縦筋がどうしても生まれてしまうのだが、窓職人の真価は、このあぶくや縦筋をいかに減らし、宝石窓の美しさを残すか、にある。

 落ちこんだ瞳で、となりの職人のモリブデン板をみると、そちらには美しい光彩をたたえる、青紫のサファイア窓が横たわっていた。

「不満足な顔してんな、ファノン」

 サファイア窓の傍らに、これを練り上げた男が立っていた。

 灰色のバンダナにヒゲ面、つねに怒りあがった両肩。

 その貫禄は10代どころか30代でさえ持ちえるものではないが、この人物もまた、セントデルタの法則の中で生きる、りっぱな18歳だった。

「ゴンゲン親方……」

「悩んでいるんだな、何なら聞くが?」

「いえ、何とも例えがたい話ではあるんで……もう少し煮詰まれば話させてもらいます。

 でも、こんなことで仕事に差し障りがでるなんて。才能ないのかな、俺」

「さい……のう……だと?」

 ファノンのため息を聞いたとたん、ゴンゲンの張り上がった肩が、険しい岩脈のように、さらに上がった。

「才能なんか、予言や占いと同じぐらいの架空の産物だ。そんなもん信じんな! 努力だ! お前にたりんのは努力! 才能じゃない! 努力と努力と……それから努力! 毎日百回の努力! 百トンの努力! 百光年の努力だ!」

 ルビーも溶かす2000℃のカマドと同じぐらい熱く、ゴンゲンは1.5メートル先のファノンの顔に、ツバを飛ばしながら語った。

「ウチのメイが予言も占いも信じるタチなんですが」

「そんなもんも努力次第だ! 努力さえあれば俺は幸せだ!」

「イヤあんたの話になってんじゃん、いつの間にか」

「それはそうとなファノン、そこの家のモンモさんちの窓が割れちまったらしい。ってことで、こいつをはめこみに行かなくちゃいかん。お前も来い、これも修行だ、努力できるいい機会だぞ」

 ゴンゲンはファノンがうなずくより、はるかに早く、自分が磨きあげたサファイアの窓をかついで、わざわざファノンに受け渡した。

「おっ……おっも……」

「いい顔だ! 努力してる顔だ! 忘れるな、その顔だ! ずっとその顔でいろ! うぉぉぉ輝いてるぞお前!」

 ゴンゲンは何やら、ひとりハッスルしていた。

 戦前に量産されていたガラスという素材は比重2.5キロ。

 つまり水の2.5倍の重さということだが、それに比べサファイアは比重約4キロ。

 これほどになると、持ち上げてみると、いくら宝石だ装飾品だといわれても、その真実は『石』だと痛感させられる。

「おっと、落とすなよ! お前が担ぐのも努力に違いないが、俺のこの作品も、努力の賜物だからな! 落として傷つけたら、お前の頬に俺の努力パンチをせにゃならん」

「は、はぃぃぃぃ……」

 ファノンはよたよたと千鳥足になりながらも、真向かいの顧客の家まで、ちゃんと窓を抱えて歩を進めた。

「モンモさん! 窓もってきましたよ!」

 ゴンゲンは乱暴に隣人の家の杉製の扉をたたいた。

 セントデルタの人々は宝石を見飽きているせいで、たいていの家は木造か、せいぜいが外壁や塀を宝石製にするぐらいだ。

 それでも、ガラスの原料のないセントデルタにおいて、宝石窓の需要はすこぶる高いのである。(とはいえガラスの原料になるものはないわけではなく、たとえば宝石のペリドットなどを精錬すれば、ガラス材料のケイ酸塩を取り出すことはできるが、現在のところ、あまりメジャーではない)。

「は~い」

 モンモとよばれる、女性の家主がしばらくして顔をのぞかせた。

 髪を洗っていたのか、湯気のにじむ頭をタオルで巻いていた。

「まあ親方、早いですね」

 モンモはゴンゲンが来たと知るや友人に接するように話しかけた。

「努力のたまものです! これでこの家の窓は二百年はもちます!」

「まぁ、さすがね。取り替えてもらう窓のところに案内しますよ」

 モンモは玄関からでてきて、先んじて裏手に回った。

「お、親方……重いです……」

「努力を信じろ! 昔のえらい哲学者……ニーチェも言ってたぞ! お前が努力を見つめるとき、努力もまたお前を見ている、と!」

「ゴンゲン親方ー。努力って部分、暗闇じゃなかったでしたっけ?」

 前を歩くモンモが、顎に人差し指をそえながら、ゴンゲンに訂正をこころみた。

「うむ、その通りです! 努力は人の上に人を作らず、人の下に人を作らん!」

 どこらへんが『その通り』だったのか、ゴンゲンは上機嫌だった。

「親方~、こっちこっち。こっちの窓ですよー」

 モンモが手招きをする。

「はい! すぐ参ります!」

 ゴンゲンはさっさと、そちらへ向かうから、ファノンものっそりとサファイアの窓を持ったまま、おもむいた。

 そこでは見事なまでに、窓枠だけになっている窓がのぞけ、モンモのぬいぐるみだらけの室内をありありと外に晒していた。

 既婚者なのでツインベッドなのだが、部屋の四隅には、まるで結界でも敷くかのように、子供ぐらいの大きさのカエル、ヘビ、イグアナ、カメを、それぞれに配置していた。

 本棚の中の一部分やタンスの上などにも、やはり爬虫類や両生類タイプのぬいぐるみを置いている。

 徹底的にそういうぬいぐるみが好きなことで周囲に通っているモンモだが、本物のトカゲを彼女に見せると、悲鳴を上げることを、ファノンもゴンゲンも、わきまえていた。

「なんと難儀な! すぐに取りかかります!」

 ゴンゲンはひょいっとファノンのかつぐ窓を片腕にとりあげると、木の板でもはめこむかのような軽快さと正確さで、その窓に新しい顔をはめこんでしまった。

「さすがゴンゲン親方、頼りになるわ」

「あなたのためにと、突貫で作ったんです!」

 大きな声だが、耳に心地よいバリトン調のトーンでゴンゲンは答えた。

「助かりました、またよろしくね」

「はい、毎度!」

 ゴンゲンは納品書を渡して、部屋をあとにし、工房へと背をかえした。

 その横顔は、ニコニコと満足そうに頬が上がっていた。

「親方」

「なんだ、努力の徒よ」

「怒らないで聞いて欲しいんだけど……親方は悩むことって、あるか?」

「あるさ! がっはっは!」

「……そんなとき、どうするんですか」

「簡単だ! 悩みのもとをブッ壊す! つまり努力するのさ!」

「努力でどうにもならない壁だとしたら?」

「……?」

 ゴンゲンはさすがに、いつもふざけた調子のファノンが、今日に限って、いささか塞ぎすぎているのに気づいた。

「うむ……わかった!」

 何がわかったのか、ゴンゲンはうなずいてから、続けた。

「いまお前は、悩む努力をしているんだな。

 努力は最良の教師である。しかも授業料も安い! これはカーライルだったかな!」

「経験は最良の教師である、ただし授業料が高すぎるが、でしょ。もはや別の言葉じゃないか」

「だが間違いではないだろう! 悩むも努力だ! 今日は上がっていいぞ! そして今日は悩んで悩んで、悩む努力をして強くなることだ!」

 ゴンゲンは満面の笑みで、猫背になっているファノンの背中をバシバシたたいた。

 ――悩みのもとをブッ壊す、か……。

 ゴンゲンに叩かれるにまかせながら、ファノンは心の中だけでつぶやいたが、雲の中に手を突っこんで物を探すような気分にしかならなかった。

セントデルタ

 エノハの住む塔、それを構成するアレキサンドライトという宝石は、かなり特殊な石である。

 発されるスペクトル分光により、色が変わって見えるのだ。

 どういうことかと言うと、この石は強い日の光で照らすとエメラルドと同じ、あざやかな緑に輝くが、夕日やロウソクの灯に当てると、赤色に姿を変えるのである。

 確定された説ではないが、1800年代のロシア皇帝に献上されたこの石が、たまたま息子のアレクサンドルの誕生日と同じだったから、アレキサンドライトと名付けられたらしい。

 ともかく、セントデルタにあっても希少な、そのアレキサンドライトだけで作られた塔は、村の中心からだいぶ逸れたところの、緑色が特徴のエメラルド・ペリドット通りにそびえている。

 このセントデルタは、読んで字のごとく、デルタ地帯、つまり三角州に設けられた村である。

 水爆の男フォーハードにより、地球の原発の70基が水没したことで、地球に放射線の影響のない場所はなくなった。

 一基の原発の放射線被害がどのようなものかを知るには、かつてソビエト連邦という国にあったチェルノブイリ発電所の例が適当だろう。

 チェルノブイリ原発事故とは、1986年に起こった、ずさんな運営管理のために起こるべくして起こった、大規模な放射能汚染事故のことである。

 少なくとも4000人(これより多い可能性もある)の死者を出し、それ以降、周辺地域の子供に甲状腺がん、成長の遅れ、大人でも気管支不全、体調の悪化、子宮がんや大腸がんなどが起こり、チェルノブイリ周囲の雑木林の落ち葉が腐らなくなった、という報告もあった。

 約600年経ったこのセントデルタの時代でも解決していない問題だし、その完全な浄化には、太陽さえ燃え尽きると言われている、あと100億年のちのことだ。

 チェルノブイリの事故より25年後の西暦2006年、英国保健省がウェールズ355ヶ所、スコットランド11ヶ所、イングランド9ヶ所の農場でチェルノブイリ原発事故の調査をしたことがある。

 そこで調べた羊、合計20万頭が、セシウム137に汚染されていた、という報告が出ているのだ。

 セシウム137が半減期を迎えるのは……つまり半分の量の物質になるのは30年。

 もちろんセシウム137だけでなく、ウラン235、プルトニウム239などの消えにくい物質も、フォーハードの手によって、海に流れこんだのである。

 500年たって、それらはいずれも経年によって半減期をなぞったものの、その影響は今もなお濃く残っている。

 だが放射線という目に見えないカミソリが飛び交っているのは、セントデルタ外での話だ。

 リクビダートル。

 かつてチェルノブイリ発電所で作業していた人々の呼び名で、意訳すると決死隊、ということになる。

 そのリクビダートルの名前を借りた、まさに決死隊が、あるかないかわからない、放射能汚染のされていない土地を探し、遭難し、海難し、ロボットに襲われて横死しながら、かろうじて見つけたのが、ここセントデルタだった。

 理由は今にいたるまで謎だが、このセントデルタには、放射線はいっさい来ず、川の魚も木の実も、飲める水も取れる作物も、すべてが放射能汚染されることがなかった。

 リクビダートルの犠牲の上に発見されたこの土地を、残った人々は願いをこめて、聖なる三角州、セントデルタと名付けたのである。

 このアレキサンドライトの塔はその安逸の土地の中心、として建立されたのであるが、あとで調べてみると、その中心点は少しばかりズレていたため、ほんらいの中心地には、死者をほうむるためのアレキサンドライトの中央祭壇が置かれることになった。

「フォーハードの動向は何かわかったか?」

 七つの放射街路ののびる中央広場を、アレキサンドライトの塔のテラスから見下ろしながら、エノハが横のリッカにたずねた。

「いまも調査を続けてますが……目撃者さえいないんです」

 リッカがわずかにくだけた口調で伝えた。

「ふむ……人々に行方不明者が出ていないのは幸いではある。奴が動くとき、そういうことが増えるからな。引き続き、部下の安全性を重視して探してくれ」

「はい」

「で、だ……実のところ、もう一つ心配事のタネが増えそうなのだ。自警団には、そちらにも力を入れてもらいたい」

「心配事、とは……フォーハードのことより、見過ごしがたいことですか?」

「奴と同等のことかもしれん。フォーハードによる水爆炸裂と殺人ロボットのばらまきによって、地球の人口が4億にまで減ったのは、お前も知っていようが、そのあと、この地球に覇を唱えた男がいた」

「存じてます。享楽の王ゴドラハン。フォーハードの水爆津波による、原発の水没のために放射能化した海や大地の中、食料さえまともに得られなくなった地球で、自分についてくれば酒池肉林を約束すると言って、一大勢力を築いた男」

「うむ。そしてそのゴドラハンに対抗する勢力が、私だったことも知っていよう。だが私は人々の支持を得られていなかった。人間を20歳の寿命に統一し、人種も言語も宗教もただ一種類のみにする、という話など、誰も見向きもしなかったのだ。

 それでも私はゴドラハンに打ち勝った。奴らはしょせん快楽が欲しかっただけの烏合の衆。皆が皆、自分のことばかり考えていたから、自滅したのだ」

「その時にゴドラハンは死んだ……と、このセントデルタ歴史教科書には書いてあります。まさか」

「ああ、ゴドラハンは生きている」

「ゴドラハンまでが……」

 リッカは絶句かげんにつぶやいた。

「なぜ、それほど大事なことを隠されていたのですか」

「フォーハードが死んでいないことも、ゴドラハンが生きていたことも、知りながら隠していたのは、人々の混乱を招かないためだ。

 ゴドラハンは500年経った今もまだ、生きている。私とフォーハードを倒すためにな」

「500年も生きる人間、ということですか……執念だけでは無理な気もしますけど」

「そう、人間にはほんらいの寿命がある。頑張っても120年ほどのな。

 ゴドラハンの話をするためには、500年前のフォーハード誕生よりも少し以前の話にさかのぼる必要がある。

 かつて私やフォーハード、ゴドラハンの生まれた時代は、便利な利器がそこらにあふれていた。

 だがそれが加速したのは、私の時代からではない。

 産業革命という発明品がたくさん現れたころのことだ。

 そのおかげで人々は便利を手にすることができた。

 だが時代が進むと、さまざまな物事を、経済システムと無人機械が代替するようになった。

 船の漕ぎ手は機械になり、物の運び手も機械になり、物品の作り手も機械になった。

 人間の手がそれほど必要となくなったことで、その機械の恩恵を手にしたものは、莫大な富を得た」

「このセントデルタではありえない話です……」

「未曾有なことかもしれんが、当時の人間にとってそれはよくある話だし、とどめられる話でもなかった。その富を得た者も、べつに悪意から人々の便利を求めたのではない。みずからの名声と、自分が知る人々の幸福を願って努力したわけだからな。よい物ができるまでの過程だと見ることもできるわけだ。

 だがそれに加えて、あるころから、人間の中でも難しいとされてきた仕事まで、機械が行うようになってきた。

 それまで単純作業しかできなかった機械が、ついに一部の人間の、高度な職務も担いだしたのだ。

 会社受付は機械が負い、修理は機械がおこない、電話対応も機械が待機し、果ては銀行員の出資の判断まで機械がする。あるときから数百種類の職が、人間より機械がうまくこなせるようになった」

「ひどい時代ですね。まるで機械をそだてるために人間が頑張ってきたみたいです」

「とはいえ、それも産業革命が始まったころから少しずつ起こっていたことだ。

 だが、その流れに決定的なことが起こった。

 人間が、永遠の命を得る技術を開発したことだ。

 すでにその技術が生まれた時には、1パーセントの超資本家と、20パーセント未満の中流階級と、80パーセント近い窮乏人。

 座したまま、汗水たらして働く人間の数億倍をかせぐ人間が、若い体をとりもどし、死ななくなったのだ。

 それが子供を残し、それもまた数億の富をみずからに集中させる。

 それまで富は、その持ち主が死ぬことで、富をまわりに拡散させていた。

 だが、それが停滞してしまったのだ。日を追い月をまたぐに従い、死なない資本者はさらに富を集めていった。

 中流階級はさらに減り、窮乏人はさらに増えた。

 不満をうったえる場所もない中で、フォーハードが生まれた。

 そして、奴は金持ちも貧乏人も、まとめて殺してしまった。人間が生きる限り、このサイクルは続くから、という理由でな」

「フォーハードが凶行におよんだ理由。それが永遠の命だというのはわかりました。

 そして500年をいまだに生きているゴドラハンが、その1パーセントの生き残りだということも。

 なぜ教科書では、まだ生き延びている彼を死んだことにしているんですか」

「ゴドラハンが生きていると知ったら、人々はどう思う? 奴はかつて、この地上にただれた世界を作ろうとしていた。遺伝子操作で美男美女をそろえ、みなで永遠の命を得て強欲の限りを尽くそうと唱えたのだ。

 やつの主張は、あまりにもセントデルタとは矛盾する世界だ。

 だからこそ、奴の教えになびくものもいるだろう。奴が生きていれば、奴に迎合もするだろう。

 奴には死んでもらわなくてはならんのだ。これまでも、これからも」

「ゴドラハンの居場所はわかるんですか」

「見当もつかんが、おそらく奴は、ここを監視できる位置には陣取っているはずだ。だからこそ、フォーハードの動きに同調すると踏んでいるのだ。

 ゴドラハンにとっては、私の究極倫理の世界も、フォーハードの破滅の未来も邪魔なのだからな」

「このセントデルタ以外で、放射能汚染されていない場所があり、そこでゴドラハンはエノハ様を倒そうと目論んでいるのですか……?」

「セントデルタは特別だが、唯一無二のものではない。ここが聖なる場所と名付けられたのは、なによりも人が社会を形成するだけの、広い安全圏を温存していたからだ」

「小さなホットスポットが、いくつかある……と。そこにゴドラハンは住み着いているわけですね……ゴドラハンのことも織りこんで動きたいんですが、私ではどうすればいいか……」

「簡単なことだ」

 エノハは目下の村に落としていた視線を、ここでやっとリッカに向けた。

「キーワードはファノンだ。あの子に注意を向けてやってくれ。フォーハードもゴドラハンも、狙いはあの子のはずだから」

享楽の男

 樹齢600年の樫の木が、男のはなった正拳突きによって、小さく震え、その葉から小鳥のシジュウカラが、ピーピーと悲鳴を立てながら飛び立っていった。

「準備はできたか?」

 男は空手特有の姿勢である残心という体位を終えて、うしろに控える気配に向けてつぶやいた。

 男は胴着姿だったが、上衣は羽織らずに裸で、下半身に裾のすり切れた下衣を装着したのみだった。

 上にむき出しの筋肉の表層にはほどよく脂肪がのっていて、そこから健常にたぎる生命力を放っていた。

「はい」

 男の問いに、背後の気配が、低めの女の声で返事してきた。

 シャギーカットの金髪をした、昔にいたケルト民族ふうの碧眼。

 ととのったその顔色だが、それを忘れさせるほどの無表情さが女にはあった。

「地下の最終点検、起動シークエンス完了しました。間違えてボタンだけは押さないように」

「ご苦労だったな。機材も何もない中で、よくやってくれた」

 男は女をねぎらいながら、木の枝にかけていた半袖胴着を取ったが、着ずに肩にかけて歩き出した。

 女もその背に追随して歩く。

「フォーハードが復活しました。おそらくこの時代に、あなたの予想された子供がいます」

「君はずっとセントデルタの監視もしてくれていたからな。そいつの顔も名前も、とっくにリサーチ済みだろう?」

 男はいちど立ち止まり、雑に自分で刈り上げた短髪を、女に振り向けた。

「はい、子供の名前はファノン。遠方から望遠レンズを通して読唇術を試みてきましたが、ふしぎなことにその子供は、自分で名前を名乗るとき、ファミリーネームがいつも違うようです。この間はファノン・ウォリシスとか名乗っておりました。その前はファノン・キルヒアイス。さらに前はファノン・ノビノビタでした」

「……? 最近セントデルタは時間に応じて名前の変わる法律でも作ったのか? エノハのやつも奇なことをする」

「それはわかりかねますが、フォーハードはそのファノンに接触を試みたようです。運命の子は、ほぼこの少年で間違いないかと」

「運命の子ね……そいつも難儀なものになってしまったな」

「その子に会うために……いえ、その子をとりまくエノハ、フォーハードと戦うために、あなたは空手の鍛錬を、500年ずっと欠かさずに続けたんでしょう? エノハとフォーハードを殺し、セントデルタを破滅させるために」

「殺すとか破滅とか、人聞きが悪すぎるな……たしかに、このゴドラハンが新しい人間の王になりたい、というのは、嘘ではないがね。そのためにファノンを利用するというのは悪辣だな、たしかに」

「では、これからのアクションプランを」

「焦るなよロナリオ」

 男――ゴドラハンは、進言する女をさとした。

「チャンスはある。まずファノンの職業を、教えてくれないか」

「宝石窓職人です」

「なるほどね……ならそいつの仕事柄、どうしても、やらなくちゃならんことがあるな。そこを突こう」

 ゴドラハンの言葉に、ロナリオは返事の代わりに、ちいさく頷いた。

夕方の三人

 翌日の夕方、台所。

 今日の料理当番のファノンがつくったのは、ダール豆やカルダモンを、数種のスパイスとともに煮込んだスープだった。

 そのほか、土間のほうでゆるりと湯気をあげる土鍋には、煮込んだココナッツミルクに、挽いたコリアンダーとクミン、大きく角切りにしたジャガイモやホウレンソウ、それから、あらかじめ炒めておいた鶏肉が投入されたものが。

 かつてインドという国にあった食べ物、コルマである。

 ファノンが、ゆいいつ食べられる肉類が鳥肉。

 そのファノンが料理当番になると、ヘルシー傾向の強いメニューになるのである。

 誤解がないように追記すると、ファノンが当番の場合、いささかインド寄りな食生活になるというだけで、本来のセントデルタの料理は、さまざまな国の食べ物が調和したものだった。

「メイ!」

「あ?」

 ダイニングテーブルで、肘をつきながら片手で本を読むメイが、いつも通りの、にべもない返事をした。

「そろそろセントデルタ感謝祭がくるから、なんか俺らも出し物やろうぜ」

 コルマ鍋をテーブルの真ん中におきながら、ファノンは言った。

「やだ、目立ちたくない」

「そういうなよ、お前バイオリン得意じゃん、何かやろうぜ」

「バイオリンじゃない、ヴァイオリンだ、これだから音符の読めない奴は……」

 メイははじめに置かれていた、テーブルの真ん中のダールスープをオタマですくい、自分の皿にうつすと、黒光沢をはなつトルマリン製のスプーンで飲んだ。

「……しかし、これはすごくうまいな。本当にうまい。全部食べるのがもったいないくらいだ……宝物を食べられるというのは、幸せだよ」

 メイは毒舌だが、そのかわり、ほめるときも徹底的だった。

 聞くほうは照れ臭くなるが、ファノンはいま、ほかに話したいことがあった。

「感謝祭で何かやって、人気者になりたいんだよ。そうだ、バンドやろうぜ」

「お前は何ができるんだ」

 メイが顔をしかめつつたずねた。

「口笛」

「……私はそんなバンドには付き合わんぞ、他を当たれ」

「わかった、クリル!!」

「んぁ」

 ソファに寝転がって寝息をたてていたクリルを、ファノンは言葉でたたき起こした。

「バンドやろうぜ」

「いいけど、あたし昼寝ぐらいしかできないよ」

「それでいい! 三人揃ったな」

「三人じゃたりなくない?」

「おい私はやらんぞ」

「あと一人は欲しいな、リッカはどうかな」

「あの子は無理でしょ。運営側らしいし」

「もう一人欲しかったんだけどなあ……まあメイがバイオリンできるってのはよかった。バンドできるな、これなら」

「ヴァだ。間違えるなゴミクズ。あと私はやらんといってるだろ」

「ヴァンドやろうぜメイ」

「そっちじゃねえよ」

「しょうがないな、誰か探してくる、特技のあるやつを」

「んー、がんばれー」

 クリルは気に留めた様子もなく手を振って、黄色い水玉パジャマのまま外に出て行くファノンを見送った。

モエク

 何をファノンはこんなに張り切っているのか。

 理由はいちばん、自分がわかっている。

 フォーハードの不吉な宣告がまだ、胃袋に消化されずに残っているのである。

 宇宙の永遠の終わりを実現する力。

 そんな力、自分にはない……と信じたい。

 そう、俺にはほかにできることが……と考えようとするが、その先の答えが浮かばないのである。

 ファノンには、やりたいことがない。

 だが周りをみれば、メイやクリルや、リッカや、ノトでさえやりたいことが明確に決まっている。

 メイは本当はバイオリ……ヴァイオリニストになりたいらしい。

 だがメイは同時に、人口の少ないセントデルタで芸術をやって生きていくのは難しいと感じてもいて、次善の策として勉強していた、歯医者をしている。

 クリルは休日こそアザラシのように横たわってすごすが、教師という、やりたい仕事について、子供たちに道と知恵を示している。

 リッカは自警団長として、誰もがうらやむエリートだし、ノトは嫌いだが、姉を目標にして、自警団長になる方法を探している。

 ひるがえって、自分はどうか。

 未回答にせざるを得ないその思いが、洞穴のようになって、ファノンの心を吹き抜ける。

 本当に目立ちたいから、感謝祭に当たってこんなことをしているかというと……断じて違う。

 ――自分はフォーハードに利用されるための破壊の力しか、持ち合わせていないから?

 その思索を打ち払うように、ファノンは頭を振ったが、あたかもその考えはファノンの生き血を求める蚊のように、追い出されてはファノンのそばに戻ってきた。

 免罪符を探すように、ファノンは村を闊歩するが、答えは道に落ちていない。

 せめて力以外のことで人に必要とされれば。

 ――それなのに俺は一体、何をしているんだろう。

 そんな、哲学めいた自問をしていると。

 子供たちの声が、黄色い宝石が特徴の、シトリン・トパーズ通りの路地に、ひびいてきた。

「逃げろーー」

「妖怪眠らんオバケがでたぞー」

「眠らんビームでたーー」

「あーー! 俺バリア張ってるから効かんもんねーーー」

 子供たちはキャッキャといいながらファノンの脇を走り抜けていった。

 何だよ眠らんオバケって、と吹きだしそうになりながら、ファノンは視線を正面にもどした。

 その子供の駆けてきた方向には、ひとりの中背痩身の男がたっていた。

 その髪はボサボサ、ヒゲは生え放題で、そのちぢれたヒゲが数本、口の中に入っている。

 服にも頓着はないのか、シャツのすそが半分はだけていた。

 ファノンも現在パジャマで往来に出没している身なので、大きなことは言えないが、その男はたいへんだらしなく見えた。

 ただし、際立ったのはその瞳。

 10代とは思えないほど肌の血色は悪く、目の下にはクマが幾層にも重なって黒ずんではいるが、眼光は黒曜石の槍のように、目の前のものをまとめて貫いていた。

 だが、それはわずかの時間でしかなかった。

 やがて男は白目を向いて、剥がれおちる壁面のように、その場にくずおれていった。

「お、おい!」

 ファノンはとっさに、その男に駆け寄った。

 抱き起こしてみると、きたない見なりのはずなのに、風呂には入っているらしく、ほんのり石鹸の匂いがした。

「石鹸の、匂い……」

 あまりにも意外だったので、ファノンはおもわず口に出してしまった。

「風呂は……考え事をするにはうってつけだからな、何時間でも入っていられる。ただし熱すぎると眠くなるから、ぬるま湯だけどね」

 男はすぐに黒目をとりもどすと、ファノンの独白に気を悪くしたふうもなく、寝そべったままつぶやいた。

「何か病気か? エノハ様なら治せるぞ、すぐつれてってやる」

 ファノンが男を担ごうとしたが、そのとたん男に全力で押し返されてしまった。

「イッテぇっ! おい、意地はるなよ」

 ファノンは尻もちをついたまま、抗議した。

「僕は病人じゃあない……睡眠不足なだけだ」

「睡眠不足……? 急ぎの仕事でもやってんのか」

「急ぎの仕事……たしかに、今も急ぎの仕事をやっているよ――人生という、期限つきの仕事をな」

 それまでうつむいていた男は初めて、ファノンを見つめた。

 やはり、眼光はわずかな真実も見逃すまいとするほど、鋭いものだった。

「あんた、いったい」

「僕はモエク。学者になりたかった、家具職人さ。だからこそ二足のわらじで学者の道をめざすだけでこんな風になる」

「……俺はファノンっていうんだ」

「ファノン? 知ってるぞ、たしか手品じみたことができる男だときいたが」

「んぐ……今はそれはいいだろ。学者って、何を研究してるんだ」

「ツチグモにも使われている、常温核融合を。だが、僕にはそれを作る機材が足りない、設備もここにはない、昔には存在したという、パソコンというものが一台でもあれば、何とか演算もできただろうが、それもない。何より、それらを揃えるための、時間がないのだ……」

「時間……」

 ファノンには、モエクの言わんとしていることが、イヤという程、突き刺さった。

 時間とはもちろん、寿命のことである。

 二十歳になると『闇』にその身体を返却しないといけない運命にあるセントデルタ人に、これは切実なことだった。

「だからそんなに睡眠不足なのか、いったいどれぐらい寝てないんだ」

「寝るのは2日に1回だよ、5時間ほど。仮眠はとるがね」

「寿命がくるより先に死ぬぞ」

「僕の寿命がほんらい80年ほどあるとすれば、それはたしかに、今の時点で50年は縮んでいるだろうさ。だが考えてもみてくれ、僕たちは起きていても寝ていても、20年しか生きられないんだ。お前さんは何か命をけずって、なしたいことはないのかい」

「……俺にはない。見つけられないんだ」

 ファノンは少し小声になった。

 それこそ、ファノンが自分に与えたいものだった。

 今の自分はフォーハードに利用されるためだけにいるようなものだ……と、ファノンは思っている。

 だからこそファノンは、自分が許せないのである。

 せめて何か自分に、自分ながらの価値があれば。

 クリルのように、人にものを説く弁舌。メイのように歯のエキスパート。ゴンゲン親方のようにガッハッハと笑いながら一流品を作る腕前。

 ほかの人間には夢も希望もあるのに、自分だけにはそれがなく、自分ばかりが、高みを目指す、ほかのセントデルタ人を見送る後進人間だと宣言しているようで、肩身がせまかった。

 最近亡くなったハノン先生も、変態ではあったが、焼き物屋としての腕前は一流だった。

 ハノンには、ちゃらけた言動ばかりが目立ったが、本当は、仕事をきわめ、そして次代に手渡すことを本気で考えていた。

 だから今、ハノンの工房には、その弟子がかつてハノンのやっていたように、自分の食器を並べている。

「あんたはそこまでして、どうしてその……常温核分裂? をしたいんだ?」

「核融合であって、核分裂じゃあないんだが……説明する時間は長くなるから省略させてもらう。そうだ、それで思い出した、僕はクリルのところへ行かないといけないんだ。彼女の知恵があれば、あるいは機材を作り出すこともできるかもしれないからな」

「クリル? 一緒に住んでるぜ俺」

「夫なのか?」

「まさか!」

 ファノンは水を被った犬のように、ぶるぶると首をふった。

「あんな、私生活のぶっ壊れたやつ……」

「そうか。僥倖とはこのことだな。僕をつれていってくれ、彼女と話したいことが」

「いいけど大丈夫か? 足がガクガクしてるぞ」

 ファノンは立ち上がりながら、まだ寝そべるモエクの太ももを指差した。

「仕事部屋と、机とトイレと風呂以外には往来しなかったから、運動不足だな。幸いなのは、僕にも預かり子がいて、食事は彼が作ってくれることだ。こんな無茶な生活を続けて体が壊れないのは、その子の栄養管理がしっかりしているからだね」

 預かり子。

 ファノンやメイも、その名前で呼ばれることがある。

 セントデルタ人の寿命は二十年。

 たとえば両親がともに16歳で子供を作ったとしたら、その両親のほうは4年後には、アポトーシスによって、子供を残して他界してしまう。

 本当はセントデルタの中においても、16歳の出産など早すぎる、最低18歳で子供を作るべきだという議論もあったが、だいたいこの年齢におちついてしまった。

 それはともかく、4歳で天涯孤独が運命づけられた子どもに、生活にかかわる上中下すべての用事を片づけられるわけはないから、そういう子供を育てる相手が必要となる。

 そのときに出番なのが、この預かり子システム。

 生前の親には世話になったとか、身寄りのない子供を我が子のように預かりたい、といって、自活のできない子供を、他人が自宅に引き取るのである。

 ただ、ファノンはじつのところ、この預かり子システムは、子供の頃に使ったことはなかった。

 親が死ぬ少し前、ゆえあって、ファノンはセントデルタ村にはいなかったのである。

 ファノンとメイは同い年だが、クリルの家に行ったのはメイが5歳のとき、ファノンは10歳のときだ。

「預かり子、か」

「そろそろお前さんも、預かり子を受け入れてはどうだ?」

「結婚して子供を作って父親になれ、とかじゃないのか?」

「お前さん、モテなそうだしな。パジャマで外をうろついてることだし、女と縁がなさそうに見える。それなら僕のように結婚は捨てて、さっさと他人の子供を預かって、思想ぐらいは残すべきだよ」

「……あんたは子孫とか考えてないんだな。まあ俺もだけど」

「子孫は義務じゃないからパスだ。その暇がない。本当に残すべきものとは、おのずと血も時も言語も超えるものだ」

「変な奴だな、あんた」

「お前さんは、普通の男だな」

「普通……? 俺が普通だと? 俺は怒ると光を集めてモノを焼くってこと、お前も知ってんだろ?」

 モエクの素早い評価の色に、ファノンは抗議をしめした。

 不必要なもの、とファノンが決めつけている超弦の力なのに、少しバカにされると、すぐにその超弦にすがる。

 ファノンは自分のこの考え方に嫌気がさして、顔をしかめた。

「そんなものは、僕の大事なことじゃない。これから500年経ってみろ。ほとんどの人間が、お前さんがその力を振るっていたことなど、信じる者はいなくなる。それは、お前さんの力は一代かぎりで、おそらくもう生まれないからだ。

 そうだろう? 文明が進み、利器を得て、さらに便利を求め、その果てに人間の限界というものを知り、現実を割り切る人々が多くなった時代に、お前さんという存在がかつて太陽を自在に操った、と本気で信じる者は何人残っていると思う?」

「……」

「そういうことさ。それにな、あとに続く者は、お前さんのできることを見るんじゃない。お前さんのやったことを見るんだ。

 Aという男は世界を操ることができた、ただし生涯、その力を使うことなく、自分の部屋から出なかった、では誰も憧れはしない。誰も興味を惹かれない。

 お前さんが何を語り、どんな姿勢で物事にのぞんだか、どんなふうに人と接したか、そして何をなしたかを見るのさ。それが未来に残っていくものだし、まだやってないのなら、その努力をするべきだ」

「……はは」

「どうかしたか?」

「あんた、いろいろ考えてるんだな」

「考えなんて重要じゃないよ。閃いたあとは大量の行動、これさ。それをしている間は、悩みも不安もなくなる。ぜひやってみるといい」

「そう、か……」

 ファノンの心は晴れることはなかった。

 大量の行動以前に、まず閃きがない。

 100億人を死なせてきたフォーハードが自分を狙っているのに、それに抗う方法など、そうそう思いつくものではない。

 だがファノンは、モエクの言葉から一抹のヒントは得たような気にはなった。

「モエクだっけか。クリルのところに行きたいんだったな。ついてこいよ」

 ファノンはきびすを返し、モエクの前を先んじた。

告白

「メイー」

 ダイニングで食事を終えたクリルが、そのダイニングと同じ部屋にあるソファに腰かけて本を読んだまま、メイを呼ばわった。

「なんですか、クリルさん」

「ホントに感謝祭、ファノンと参加しないの?」

 たずねてからクリルは、開いた手でトルマリン製のカップで紅茶をすすった。

 ちなみにトルマリンには様々な色があるが、クリルの持つものは、かつてこのセントデルタに存在した国にあった、緑茶という飲み物と同じ色だったから、紅茶とあわさって、黄金色に輝いていた。

「興味ありませんから。それにクリルさんだって、ホントにファノンとあのバンドやるんですか?」

「想像するだけで面白いじゃない? みんなの白ける顔、目に浮かぶわあ」

「私は白けることがわかってるのに、やりたいとは思いません。どうせなら、みんなが恍惚としたり感動したりすることをやりたいです」

「ノリが悪いなあ、メイちゃんは。ファノンといいメイといい、いつになったら、あたしをお姉ちゃんと呼ぶのかしら」

「呼びませんよ、お姉ちゃんっぽいこと、してくれたことないじゃないの」
「えー……でもホラ、家事とか……」

「引き取られたその日から、家事は私がやりました。何も知らない五歳児に、何てことしてくれたんですか」

「でも掃除と洗濯は……」

「それも私が。いまここにファノンがいないから言えるんですけど、パンツを台所に放置とか、相当長いことやってましたよね」

「う、それはファノンがきてからやめたわよ?」

「当然でしょ、男がいるのにあの生活続けられたら、私が人間不信になります」

「初めてウチにきたときは、メイが5歳で、それから5年後にファノンが10歳で。あのころはどっちもピュアだった」

「クリルさんは最初からスレてましたよ」

「んー、ところでファノンはどこまで行ったのかな。仲間を探すとか言ってたけど」

「そろそろ帰ってくるでしょ。あいつ寝る時間だし。あいつ、時間だけは守るから」

「お、よくわかってんじゃん、あの子のこと。さすが恋愛適齢期。もういっそ結婚しちゃいなさいよ」

「あんなのはイヤです。ちゃらんぽらんで、なんにも考えてない。無神経さで嫁とか泣かすタイプだよ、あいつ」

 ファノンをこきおろしながらも、恋愛適齢期とは、よくいったものだとメイは内心、同意していた。

 メイももう15歳。

 セントデルタの基準だと、この年齢ならば、相手の男を見つけて、恋愛できるならそこそこ恋愛し、できないならさっさと妥協するかして、そうして子供をもうけ、ギリギリまでその子を自らの手ではぐくみ、そしてメイの両親のように、誰かに託して死んでいかねばならない。

 なんて慌ただしい人生だろう、と思う。

 クリルのように、そういったものを諦めている人間もいるが。

 クリルは今年、18歳。

 子供はまだ産めるが、子供のほうに顔を覚えてもらえない年齢だ。

 闇に帰るまで、彼女にはもう、二年もないのだ。

 クリルが、死ぬ。

 考えないようにしているのに、少し油断すると、想像が氾濫する河のように、押し寄せてくる。

 クリルは子を残すつもりがないというのなら、どうするつもりなのだろうか。

 何をしたいのだろうか。

 聞こうか、聞くまいか。

 そんなことを悩んでいると、だった。

「たっだいまーーー」

 パジャマ姿で外出していたファノンが、帰宅してきた。

 うしろには、なんだか臭そうで臭くない男をともなって。

「モエク、紹介するぜ。胸のあるのがクリル。胸のないのがメイだ」

「おい、なんつー紹介だ」

 メイが眉をひそめた。

「クリル、久しぶりだな」

 ファノンのうしろに控えていたモエクが、ソファで紅茶を飲んでいるクリルの前まで歩くと、そこで仁王立ちしたが、ひょろ長い体型なので、それほどの威圧感はなかった。

「ん、久しぶりー」

 クリルはモエクの薄汚れた服装のことは、気にしたようすはなく、紅茶をコースターに置いて、片手を振った。

「知り合いか?」

 ファノンが意外に思い、たずねた。

「クリルとは同い年だからな。学生の時に少し」

 モエクがクリルを凝視したまま、説明した。

「で、なんか用? モエク」

 クリルが紅茶のカップを再度つまんで、言葉をなげる。

「ああ、だが始めに前置きしておきたいことがある――僕はお前が嫌いだ」

「そ、そんな……二年ぶりに会ったのに、ひ、ひどいよ…………んばぁ」

 クリルは最初だけ泣き真似をしてみせたが、途中でおどけた顔になった。

「おい、喧嘩しに来たのかよ、モエク」

「もういいよ、こいつ追い出しとけファノン」

 ファノンが仲裁をこころみ、メイが追放をすすめるが、かんじんの二人は目線をぶつけあったままだった。

 それが敵意ではないことがファノンにもメイにもわかったから、しばし二人は傍観を決めこんだ。

「お前はいつも、そんなふうに酒か茶を飲むか、そうでなければ寝ているか、友人とバカ話をしているか、そんなことしかしていなかった。僕はそんなお前を見下し、こうはならんぞと勉学に打ち込んだ。それなのに、僕はお前に勉強で勝てたことはなかった。

 いつも無責任そうにヘラヘラしているのに、みんながお前にあつまった。それが許せなかった。僕が勉強のためにこんな生活をするのも、お前に勝つためだった。

 ――だけど、僕にはもう時間がないんだ。だから手を貸して欲しい」
 クリルは目をつむり、だまって先を促した。

「この世界をこわし、昔の秩序を取り戻したい。従来の命、幅のある宗教、多様な人種、すべてを人間の手に抱き寄せたい」

「おい、その話、見過ごせないぞ」

 目を剥いたのは、ファノンだった。

「あんた、常温核融合のつくりかたを一緒にクリルと研究するんじゃなかったのか。だから俺に案内させたんじゃないのか」

「これ、エノハ様にチクるだけで不敬罪が成立するな」

 メイもためらいがちに口をはさんだ。

「待って、モエクに語らせなさい」

 二人のこれ以上の参戦を、クリルが許さなかった。

「続けて、モエク」

「……ありがとう。でも、これらの理想は、本当は僕自身が享受したい。

 でも、それは無理なんだ。DNAに仕込まれたアポトーシスの二十年時計が、僕を闇に取りこもうとする。

 だから僕は無理でも、せめて次に生まれる命に、二十年の呪いを受け継がせたくはない。エノハを倒すのを、手伝って欲しい」

「なぜそれを、あたしに打ち明けたの?」

「このあいだ、ハノンの葬儀のあった時に、エノハに絡んだらしいじゃないか。ウチの子にきいたぞ」

「あなた、子供いんの?」

「預かり子だよ、そこのファノンやメイのように。前の自警団長の子供、アエフさ」

「アエフね。賢い子だとは思ってたけど、あなたの所に住んでたとはね」

「それより」

 モエクが咳払いをする。

「答えを」

「イヤに決まってんでしょ」

 クリルは即答した。

 それにはさすがのモエクも慌てたように目を開いた。

「な、なぜだ! 君も感じてるだろう、この世界の矛盾と不条理を。だからエノハに直接意見したんだろう。君だって、ほとんど僕と同じ意見のはずだ!」

「え、そうなの? ごめん、最初のほうしか話を聞いてなかったわ。理屈っぽかったんだもの」

「こ、この……」

 モエクが拳を握り、何か言おうとしたが、クリルがそれより先に口を開いた。

「あたしが断る理由はただひとつ」

 クリルは、モエクの話の長さのせいで冷え切った紅茶を一気に飲み干してから、モエクになおった。

「あなた、あたしのこと嫌いじゃん」

「そうだ」

 モエクはうなずき、クリルの次の言葉を待ったが……それ以降には、沈黙しか続かなかった。

「……終わりなのか? まさか、それだけの理由で?」

「重要でしょ、だってあたしのことを嫌いなやつと、仕事でもないのに組まなきゃいけないなんて、罰ゲームでもない限り無理」

「な……き、君はそんなことで……」

「よしモエク、クリルを好きになれ。そしたら解決だ」

 空気もかわったので、遠慮なくファノンが茶々をいれた。

 モエクは真面目を保ったまま、瞳に急激に冷静さをとりもどしていった。

 何かを決意した目だった。

「――ああ、そんなお前が大好きだ」

「え」

 モエクのいきなりの方向転換に、三人が同時に声を裏返らせた。

「嫌いだというのは嘘だ。ああ言わないと、何かあったとき、僕は自分の心を守れないと思ったからだ。僕はずっとクリルに恋していた。焦がれていた。毎日、思い出さない日はなかった。かなわない勉強を続けているのも、お前に近づけないかと思ったからだ、振り向いてくれないかと思ったからだ」

「おい、なんでいきなりコクってんだよ」

 メイが眼を白黒させながら、追及した。

「言っただろう、僕たちに時間はない。悩み、ためらう時間すら。言わずに後悔するなど、僕にはできない」

「こ、ここで言わなくたって」

 メイは動揺しながら反論した。

「僕もそれはしたくなかった。予定では、クリルと共に常温核融合の機械をつくっている、二人きりの時を狙うつもりだったが、いま断られてしまったからな」

 モエクは平然をよそおっているが、メイにはモエクの指がぶるぶる震えているのが、見てとれた。

 それが、モエクの本気も示していることも。

「僕の反乱に協力があおげないことはわかった。なら、僕のこの気持ちは、どうだ」

「そ、そ、そんなの」

 畳みかけられっぱなしのクリルも、顔が真っ赤だった。

 そこには、先ほどまでの余裕はなく、声もしどろもどろで、そこに稀代の天才のおもむきは、どこにもなかった。

「……」

「……」

 モエクとメイの二人が黙ってなりゆきをみていると、やがてクリルも、唇を動かし始めた。

「……い、い」

 そこまででクリルは口をしばらくモゴモゴさせていたが、やがて、ためらいのフタを吹き飛ばすように、勢いよく叫んだ。

「イヤです!」

 クリルは目を引きつぶり、天井をあおぎながら言い切った。

 メイはこのとき、初めてクリルがエノハ以外に敬語を喋っていることに気づく余裕があった。

 そして、この場にすでに、ファノンがいなくなっていることにも。

「帰って! もうモエク、帰りなさいよ!」

 クリルは目をうるませながら、モエクにソファ上の羊毛クッションをなげつけた。

 運動神経のないモエクは、それをもろに顔面にうけとめたが、痛いものでもないので、反応はみせなかった。

「わかった……この答えについては、一ヶ月は待てるから……」

 モエクは肩を落として、玄関へ消えて行った。

アールグレイ・ティー

 ファノンはひとり、セントデルタの村を流れる、ゆるやかな下流、ポワワワンの河原のほとりに座っていた。

 宝石世界のセントデルタだから、河原に転がる丸石も、ただの玄武岩だけでなく、ガーネットであったり、シトリンであったり、ダイヤモンドであったりと、川面に負けないほどの光沢を、河原のほうでも放っていた。

 頭の中が、真っ白になった状態で歩いていたら、いつの間にか、ここに座っていた。

「…………」

 これでいい。

 これでいいんだ……。

 独り言はあまり好きではないので、心の中でつぶやくが、その言葉のつど、そうではない、と返事がもどってくる。

「……」

 所在なげに、両手を胸元に持ち上げて、あたかもその場から気持ちを逃がすように意識を集中する。

 と、手の間の空間がゆがみ、やがてそれはモヤをともなう、黒い球体になっていった。

 光の動きを制御し、一点に集中させるから、このような黒い球体に見えるのだ。

 ファノンは気づいていた。

 先日のツチグモ襲来の日から、この収束レンズが大きくなっていることに。

 以前は、旧代にあった野球ボールほどの大きさしか具現できなかったのに、今ではバスケットボールほど。

 なぜこうなったかも、ファノンにはわかっている。

 この力は憎しみと怒りをエネルギーにする。

 そして強い憎しみを抱くごとに、この力はあたかも、水中に空いた穴を広げるように、勢いを強めていく。

 自分の腹の中に得体の知れない生き物がいて、それが少しずつ成長し、自分の腹を食い破り、やがてセントデルタの皆を襲うかもしれない。

 そのとき、一番最初に犠牲になるのは、クリルなのだろう。

 クリルは自分を守るために、かなう目処のないツチグモに挑むぐらいだし、ファノンが何かやろうとしたら、真っ先に立ちはだかるだろう。

 だからこそ。

 クリルとは、距離をとるべきなのだ。

 モエクとクリルが結ばれれば、ファノンとはもう、ほとんど会うことはなくなる。

 それが、一番いいんだ……。

 そんなことはない……という心の声は、徹底的に直視をさける。

 そんな、自分の頭と心がせめぎあって、勝敗もつかないまま時間をすごしていると。

 ファノンの頬に、とつぜん、熱いものが押し付けられた。

「あっちいい!」

 ファノンは頭をそらしたあと、反射的にそちらを見た。

 メイが、トルマリンの紅茶のカップの取っ手をつまんで、ファノンの顔にくっつけていた。

「ここで何をしてる、ガキは寝る時間だ」

「お前だってガキだろうが」

 ファノンはメイから紅茶をうけとり、少しだけ口につけた。

 ほんのりとした柑橘系の香り、アールグレイが、いまの気持ちを少しだけ和らげる。

 いや、和らげているのは紅茶ではない、ということもわかっている。

 自分で入れて、一人で飲む紅茶なら、この安らぎは得られないはずだから。

「ショックだったか?」

「な、何がだ。俺はただ、ここで鼻毛を抜いて楽しんでるだけだ」

「楽しいのか?」

「お前もやってみろよ、白熱するぞ」

 そこまで言ってから、ファノンはうなだれた。

「俺、この生活が永遠に続くと思いこんでたよ……俺がいて、お前がいて、クリルがいて……明日もあさっても、5年後も10年後も、それが続くと思いこんでいた。いや、終わらないと信じたかっただけなんだ。本当はあと2年もすればクリルは死ぬし、俺たちだって5年もすればこの世にいない。直視すると泣きそうになることだから、願望で本物の未来を塗りつぶしてただけだったんだ」

「一気に砕けたわけだな、その願望が」

 メイもファノンの横に腰掛けた。

「まあ私も、その点にかけちゃ、同じ気持ちだがな」

「メイ……ところでモエクは?」

「帰ったよ、コテンパンに振られてな」

「そう、か……あいつ、すごい自分に正直なやつだったなあ」

「まあな、かなり面食らったけど、カッコよかったよ」

「やっぱ、そう思うよなあ」

 メイはとにかく歯に衣着せぬ物言いなので、ファノンにとって、よく的確なアドバイスをくれる。

 それが幾度、ファノンを救っくれたことだろうか。

「俺には、あんな勇気はないな」

「そうだな、カッコも悪いもんな、とくに顔とか。いつもパジャマだし」

「行動力もないし」

「あと顔がきもいし」

「あんなにうまく喋れないし」

「顔きもい」

「お似合いかもしれないな、あの二人……」

 ファノンは夕空を見上げ、嘆じた。

「おいファノン」

「何だよ」

「あー……その、な、聞きにくいんだが」

 メイは珍しく、まどろっこしい尋ねかたになった。

 しばらくメイはそこで間を作っていたが、やがて意を決したように口を引きつむって、ファノンを見つめた。

「――クリルさんのこと、好きなのか」

「え、お、おい、それは」

「正直に答えてくれ」

 メイが覗きこむようにしてファノンに顔を近づける。

 月明かりに照らされるメイの、まっすぐな瞳に、ファノンもしどろもどろなままでいるわけにもいかなくなった。

 モエクがあんな直情な行為に及んだのを、目のあたりにしたせいかもしれない。

 だからファノンは、本当に、正直に答えることにした。

「……好き、なのかもしれない」

 さすがに、少し声を震わせながら、ファノンは幼馴染に告げた。

 それを聞くメイは、瞳を大きく開いて、何かを耐えるようにまばたきを止めてファノンを見つめていた。

 その意味を、この時のファノンはまだ、わからなかった。

「そう、か」

 メイは息をつくとともに、顔をわずかに伏せた。

「なら、お前も言ってみればいいじゃないか。クリルさん好きだ、と」

「ダメだ」

「私に言えて、本人に言えないのかよ、このヘタレ」

「言えない理由が、あるんだよ」

 ファノンは追及を避けるように、天の川のかかる空にアゴをもたげた。

「よけるも下がるも知らないお前が? いったいどんな愉快な理由だよ」

「……」

 メイのからかいにも、ファノンは口をつむって空を見るだけだった。

「……まさかとは思うが、その力が強くなったことと、関係あるのか」

「ああ……そうだ」

 ファノンはうなずいてから、続けた。

「俺、変な力もってるじゃん。この間から、その力がすごいことになってるんだ」

「ノトの奴に、いままで見たことのない術を使ってたもんな」

「あの時、お前に止められなければ、最悪なことになっていたかもしれない」

「ノトのことだから、クリルさんにも伝えただろう。でもクリルさんが、そんなことを気にする人でないことは、わかってるよな」

「俺自身を許せないんだ。今の俺には、ものを破壊することしかできない。そうじゃないことを示したいのに、やりたいこと、やるべきこと、何も見えない。

 目的を掴みかねてる俺には、クリルともモエクとも……お前とも、自分が釣り合ってない気がするんだ」

「……何の話だ?」

「恋愛論以前の話だよ……俺、恋愛と限らず、何をするにも、胸を張れるようなこと、一つや二つ、持ってないとダメだって思ってんだ。でも俺には、それがないんだ……」

「……ったく、わりとネガティブなんだよな、お前」

 メイはファノンから首を引っこめて、後頭部をかいた。

「それが悪いことだって、気にしてるのか」

「そうかもしれないな。みんな、俺より先に行っちまう。何か探すけど、これぞ俺の生きる道って言えるもんに、出会えないんだ」

「仕事があるじゃん」

「仕事か……仕事は、飯を食うためにやってるってのが正直なところだ。悪いことだと思うだろ?」

「ゴンゲン親方が聞いたら泣くな」

「しょ、しょうがないだろ」

「仕事の意義ねえ……私なんかは、いつの間にか見つけてたからなあ。別にいいんじゃないのか。お前、顔がキモいだけで充分だよ」

「……」

「ウソだ、すまない」

 メイはすぐに言葉を打ち消してから、続けた。

「なあファノン。私は思うんだけど、目的がなければ、生きる資格がないのか? 生きる意味を即答できないやつは、それのできる人より下なのか?」

「え?」

「目的が今なければ、明日も目的がないのか? 悩んでるのに、死ぬまで答えが見つからないと、運命に面と向かって言われたのか?

 ただ、目の前にいる人を精一杯幸せにしたり、楽しませてあげたり、信じてもらえれば、それでいいんじゃないのか? その背中を、ちっちゃい子どもとか、お前みたいに悩んでるやつに見てもらって、それを受け継いでもらえれば、それだけで十分なんじゃないか?

 お前、職人だろ、りっぱな技芸があるだろ。その技が明日もお前に使われることを待ってるのに、お前はそいつと向き合わずに、精一杯そいつを使ってやらないのか? 腐らせてしまうのか? 私はそいつを泣かせるのがいちばん怖い。お前はどうなんだ」

「メイ……」

「超能力のあるなしじゃあない。人って、生まれた瞬間から価値を持ってるんじゃない。自分の力で……いや、自分の力だけじゃ、それが難しいなら、まわりの力を借りて、価値をせっせと作り上げて行くんだ。それが命の輝きってやつだろ?」

 メイは言い切った後、恥ずかしそうに顔をそむけた。

「……こんなん、言いたくなかったよ、照れるから。だけど、いまのお前がそんなんじゃ、こんな言葉しか言えなくなるだろ。きもいって言いにくいんだよ」

「言ってんだろ、さっきからさんざん」

「言いにくかったんだよ、本当は」

 メイは目を川に逃がしたまま、なおも告げた。

「お前の価値は、そんな怪しげな超能力じゃあない。それを示すチャンスは、いっぱいあるんだよ。気づけよハゲ」

 メイは照れ隠しに暴言をまぜて、言葉を終えた。

「……ありがとうメイ。お前、やっぱり凄いよ」

「ばーか」

 メイは何かを探すように、今度は夜空を見上げた。

「死んだハノン先生の受け売りも入ってたけどな……ああ、そうだった。お前がツチグモと戦って死にかけてたあの日、ハノン先生から遺言をあずかってたんだ」

「先生から? なんで今ごろ、それを言うんだ」

「伝えるかどうかを、私にまかせるって言われたんだ。たぶん先生、隠れネガティブのお前が自分の位置を見つけられずに、困るときがくると思ったんだろうな。しかもどうやら、その通りのようだ。先生がこの言葉をささげてくれって――レッフ・レハー、と」

「なんだよそれ」

「ヘブライ語だそうだ。出でよ、自分に向かって、という意味。旧約聖書の言葉で、そのレッフ・レハーのあと、自分の国から、自分の血族から離れ、自分の父の家からも出ていけ、と書いてあるらしい。要するに、進めってことだな。フワついてるお前に一番ふさわしいと思ったんだろ」

「死んでまで心配させてたのか、俺」

 ファノンは脳髄が痛く、熱くなるのを感じていた。

 メイといわずハノンといわず、気にかけられることが、こんなに嬉しいことだとは。

 ありがたく、そして心救われることだとは。

「ありがとうメイ。俺、まだまだ頑張れそうだ」

「よかったよ、お前の役に立てて」

 メイははにかんで、てへへと笑った。

婚礼の日

 その日、クリルが着ていた婚礼衣装も、セントデルタ民族衣装を膨らませ、裾を長くしたようなものだったが、それに加え、幾重にも巻かれた金のネックレス、プラチナの腕輪を身につけていた。

 セントデルタにおいて宝石の価値は石ころと何ら変わりはないが、金や銀、プラチナといった貴金属は希少なために、装飾品としては好んで用いられた。

 つまり、貴金属はセントデルタの礼装にはうってつけなわけだ。

 ただクリル本人は、あまり煌びやかにすると派手でケバいからヤダ、と常々言っていたが。

 その本人評はともかく、もともとセントデルタでも色白なほうのクリルはこのとき、メイクもほどこされ、いっそうの際立ちを得ていた。

 クリルは自室でその支度を終え、立ち上がった。

「……ありがとファノン」

 見送りに来ていたファノンに、クリルは独身者として最後のほほえみを向けた。

「あっちでも達者で。こうして毎日顔を合わすことが、できなくなるな」

 ファノンも笑い返したが、こちらは口端をくずれさせないことで、精一杯だった。

「料理は覚えろよ、もう俺もメイも手伝えない」

「うん」

「洗濯はモエクはするみたいだけど、甘えないように」

「うん……」

「掃除はマメに。生まれる子どもに、出したオモチャを片付けさせるには、まず自分が。言葉には説得力を持たせないと」

「……うん」

「あ、あと……モエクによろしく。あいつのこと知らないけど、クリルが見込んだ人間だ。お前の審美眼がはずれたことはない、信じ続けて」

「ありがとファノン――行ってくるね」

 クリルはピンク色のルージュを引いた唇を短く動かしたのち、ファノンの横をすりぬけ、婚礼場である村の中心部へ進んでいった。

「……クリル……」

 ファノンはつぶやいたが、小声すぎたためだろうか、もうクリルが振り返ることはなかった。

 クリルは介添えの女性に手を引かれ、家の前に待たせる馬車にむかう。

 そこにはセントデルタ民族の正装になって、これまでになく襟首を正したモエクが立っていた。

「きれいだ、クリル」

 モエクは顔色を変えずにつぶやいたが、顔には明らかに紅がさしていた。

「あなたは、もう少し太ったほうがいいわね」

「追々、そうしよう――かならず幸せにする、安心してくれ」

「うん、期待してるから」

 二人は見つめあうと、どちらからともなく唇を近づける。

 ファノンはそれから目を背けた。

 それなのに、なぜかまぶたの奥には、その景色が映る。

 長い接吻。

 だがその中で、二人の顔にみるみる、水ぶくれが湧き上がり始めた。

「!」

 ファノンは異常に気づき、前のめって二人を見る。

「アポトーシスだ――クリル! モエク!」

 ファノンはクリルたちの所へ走りだしたが……いくら全速力をかけても、くずれゆく二人の体に距離をつめることは、できなかった。

「クリル……クリルっ!!」

クリルの心は

「――ッ!」

 ファノンはそこで、布団を蹴飛ばし、大きく体を跳ねさせながら、まるでバネでも使ったかのようにビュンっと上体を起こした。

 月明かりに照らされる自室。

 片付いてはいるが、読み飽きた漫画や中身のない貯金箱など、何となくいらないものが多い、ファノンの見慣れた部屋だった。

 ――何て夢だ。

 メイと話したことで、悩みが吹き飛んだような気になっていたが、よくよく考えると、何も問題は解決していない。

 心臓はばくばくと動悸を打ち、汗でヒザの裏や背中がべっとりしている。

 水でも飲もう、と思い、ファノンはけだるさを孕む体を動かし、一階へと向かった。

 隣の部屋で寝息をたてるメイを起こさないよう、気をつけて、きしむケヤキの床を歩いて一階へ出る。

 そこでファノンは、一階が明るいことに気づいた。

 台所の扉のすきまから、燭台のほんのりとした明かりが、しのんだ光を廊下にこぼしていた。

 ロウソクを消し忘れたか、もったいない、とファノンは台所のドアを開けた。

 そこにはクリルがソファに座って、アクアマリンのワイングラスを口にする姿があった。

「クリル、寝てなかったのか」

「はあ?」

 クリルの虫の居所は最高潮の悪さのようだった。

 うつろに座った瞳で、ファノンをにらむ。

「あんなこと言われて、グッスリ眠れるほどあたしは強くも図太くもない」

 ふてくされた物言いだった。

「あんたたち、モエクが帰ったあと、どこ行ってたのよ」

「え、あ、え……メイと買出しに」

 ファノンはとっさに言い訳を速射したものの、この瞬間にやっと、自分のあのときの行為を後悔した。

 ファノンはあの時、自分ばかりがショックを受けて川に逃げていたが、クリルのほうもその時、すがるものが欲しかったのだ。

 クリルがファノンたちに己の進路を相談することはありえないのは確かだが、それでもファノンやメイに、あの瞬間には、傍にいてほしかったのだ。

 大丈夫か、ちゃんと眠れるか、妙な一日になったな、あまり気にするな、というファノンやメイの繰り出す慰めを、見栄を張って、あたしは大丈夫、何とも思ってないし、と痩せ我慢するために、ファノンやメイの存在が不可欠だったのだ。

 クリルはそうして自分の耳に届くように、あたしは大丈夫、と言う機会を欲していた。

 その、ゆいいつの方法がファノンたちだったのだ。

 それができなかったのだから、クリルは見捨てられたような寂寞感に襲われていただろう。

 いつも聡明で、ほがらかなクリルだが、じつは打たれ弱く、手がないと知るや、すぐにこうしていじけるのである。

 それを話すようなクリルでないからこそ、ファノンにはその思いが伝わった。

「俺がメイを誘ったんだ。立てこんでるようだから、俺たちで少し時間をつぶそうって」

 メイに被害が及んではいけないので、ファノンはさらにウソで過去を塗り固めたが、クリルの視線は、そのウソの解明などへの興味はなさそうだった。

「まあいいわ、そこ、座んなさいな」

「うん」

 ファノンはクリルのうながすまま、正面あってソファに腰をおろした。

 燭台にささる、ロウソクのやさしい炎が、クリルの顔を照らしている。

 こうして黙ってると綺麗なんだがな……とか思いながらも、ファノンは先ほどの夢のこともあり、ひどく今はクリルが五体無事で酒を飲んでいることに、安堵していた。

「何よ、じろじろ見て」

「いや……綺麗だなって思って」

「何なのよ、ファノンまで」

 セントデルタ人より幾分か白い、クリルの頬に強い赤みが増えた……ような気がした。

「どいつもこいつも、あたしを悩ませる」

「どいつもって……やっぱりモエクのこと」

「ん……悩むわよ、でも返事は今でもノー……あの気持ちには、応えられない」

「どうしてだよ」

 ファノンはテーブルに手を突かんばかりにたずねた。

 そのとき自分の中にたしかに、この答えが欲しかった、という悪心が芽生えているのに気づいたが、ファノンにはどうしようもできなかった。

「応えられるなら、モエクと言わず、とっくに結婚してたわよ。でも、それができないの、あたしには」

「なんでだ?」

「え、言わなきゃダメ?」

 いつも瞬時に英断をくだすクリルが、珍しく本当にためらっているようで、聞き返してきた。

「ここまできて、もったいぶるのかよ」

 クリルが自分の夢について語るのを聞くのは初めてだったファノンは、先をうながした。

 ――いつも、クリルは人のことばっかり優先するからなあ。

 そもそもクリルがこんな話をするのも、気持ちがさかむけている今だからこそ、なのかもしれない……とファノンは思った。

「ん……あたしね……やりたいことがあるんだ」

「やりたいこと?」

「あたし、セントデルタを変えたいんだ。それをこの目で見るまでは……少なくとも、見れる段取りがつくまでは、結婚なんて時間のかかること、できっこない」

「……そ、そうか」

 ファノンはクリルの淡々とした夢語りに、かなり動揺していた。

 結婚する気はない。つまり、誰とも付き合う気はない。

 ファノンのことも、恋愛対象として、まったく眼中にない。

 それを突きつけられた気がしたからだ。

「そ、そうだよな。でなきゃ、エノハ様と口げんかなんて、大衆の面前でやったりしないよな」

「今のセントデルタでは救えないものがある。色々エノハにも進言したけど、聞き入れられなかった。だから、それを変えられる人を探してるんだ」

「セントデルタを変える……? 待てよ、それって、エノハ様を倒すって意味か?」

 さすがにファノンの心はざわめいた。

 もしそうなら、見過ごすわけにはいかない。

 ファノンにとってクリルは大事だが、エノハも育ての親なのだ。

「そのセントデルタを変える人間ってのは……まさか、もう見つけてるのか?」

「うん、まあね」

「誰だ、そいつは」

「言わないよ、その人のために」

「そうだろうな。でも俺はエノハ様に育てられた立場として、お前を止める義務がある」

「ふうん……どうすんの?」

「……考えてない」

「よかった。刺すって言われたらどうしようかと思ったよ」

「そんなこと、できるわけないだろ」

 クリルの言葉の軽さに、ファノンのほうが危なげな気持ちになって、首を横に振った。

「まあ、あたしも今のところ、その相手に断られ続けてるんだけどね」

 クリルの頭の中に、リッカの横顔がうかぶ。

 無人小屋で、かねてから何度もアプローチしているのだが、リッカにその気配は生まれない。

 自警団長にえらばれる彼女が一言、エノハに「退位を」と進言すれば、聞く耳を持つエノハのこと、かならずリッカにその座を譲るはずだ。

 彼女の優しさこそ、これからのセントデルタには必要なものだ。

 それが、クリルの考えだった。

「なんだよ、できないんじゃないか」

 ファノンは一気に、そこで楽観した。

 実行のめどが立っていない様子をただよわせるクリルの表情が、ファノンに選択を保留にさせるきっかけになったからだ。

「そのくせ、さっきモエクに、ともにエノハ様を打倒しようと持ちかけられても、蹴ってたじゃないか。モエクこそ、ちょうどいいんじゃないか? 変えられる人としては」

「蹴った理由は、モエク本人に言ったとおり、最初はあたしを嫌いとか言ったから。今は少し断る理由は違うけどね」

「そう、か」

 ファノンは胸の奥がずきん、ときしむのがわかった。

 じゃあ、いまの断る理由は何だ、とは、聞けなかった。

 告白相手と顔を合わせづらいから、という、クリルらしい理由なのだろう。

 それでもファノンには、じゅうぶん辛い気持ちになれる理由だった。

 自分に対して、クリルはこんな表情を見せたことがないから。

「ファノン?」

 クリルが、ボンヤリするファノンを心配し、上目遣いで見る。

「あ、ああ、すまない、続けてくれ」

「うん……でも、あたしもモエクと同じよ。この箱庭世界を変えたいと考えてる」

「本当に、やる気なのか」

「ええ」

「俺は反対だよ。エノハ様は今も一生懸命だ。自分のためにセントデルタを扱ったことなんて、一度もないんだぜ。それに……あの人は俺の親だ。俺の命だって救ってくれた」

「白血病にかかったあなたを手厚くも、全治するまでエノハの塔で療養させたんだものね」

「そうだ」

 ファノンはうなずいた。

 ファノンは4歳になったころ、余命数ヶ月という、重い白血病になったことがあった。

 白血病とは、血液のガンとも言われる病だ。

 しかも判明したころには、血液中はほとんどガン化した白血球で一杯で、医師では手の施すことができないほどの、重い末期ガンとなって、ファノンを痛めつけていた。

 ファノンは20歳どころか5歳を待たずして闇に帰る、そのはずだったが、エノハがそれに動きを示した。

 ファノンの罹患を知るや、エノハはファノンのもとまで自らおもむき、両親に許可をとり、ファノンをエノハの塔へつれていったのである。

 そうして第三次世界大戦の間につちかった技術をもちい、ファノンをガンの脅威から救出したのである。

 メイが5歳でクリルの元にいたのに対して、ファノンがクリルに預けられたのが10歳のときだったのは、この療養が原因だったのである。

「このセントデルタが作られてから、俺が一番エノハ様との付き合いが長いんだ、賛成できない」

 おそらくファノンだけだろう。

 エノハの喜怒哀楽を間近で見てきた人物は。

 その自負が、ファノンを意固地にさせていた。

「味方になってもらおうとは思わないわ。だから今まで言わなかったんだもの。でも――あたしを止めるために、あたしを殺すなら……あなたになら、大人しく殺されるわよ?」

 クリルはそこで、にこりと笑った。

 それがあまりに屈託なく、自然で、とてもではないが、この場にふさわしい笑い方ではなかったから、ファノンはむしろ戦慄を覚えた。

「殺せるわけないだろ、俺はエノハ様と同じぐらい、お前に育てられてきたのに」

「へへ、腰抜けー」

「だいたい、何で退位がどうこうという話で、お前を殺さないといけないんだよ。俺、エノハ様にも、お前にも死んで欲しくないよ」

「……」

 クリルはワインをまた、ひと含みしてテーブルに置きもどした。

「ねえファノン、さっき、メイと川に行ってたんでしょ」

「何でもお見通しだな」

「だって、ここの窓から出てくのが見えてたし。あー、川に行ったんだと思ってたよ」

 クリルは親指を傾けて、横にあるルビーの窓をさした。

「あの川、好きなんだよね。足とか入れると気持ちいいし」

「俺も好きだぜ、立ちションできるし」

「……ウソだよね?」

「ああ、ウソだが」

「安心したよ、ワイングラスで人を殺せるか、試す必要がなくなった」

「おう……」

「そういう冗談はさておいて」

 クリルは天井をあおいで、大きく、疲れた息をついた。

 本当はもうクリルは、かなり眠たくなっているのかもしれない、とファノンは思った。

「そろそろ、あの川に鮭が遡上してくるわね」

 クリルが何を言わんとしているか計りかねて、ファノンは黙ってうなずくのみにした。

「エノハはあの鮭を見ていて、あたしたちの命を制限することを思いついたらしいわ」

「俺たちの命って……アポトーシスによる、二十歳の寿命のことか」

「そう、鮭は生きているうちのほとんどを海で過ごすけど、子どもを残すときになると、故郷の川に戻ってくる。その頃になると、鮭たちに仕掛けられた遺伝子の時計が、いっせいに鳴りだすの。筋肉細胞の自爆と言う形でね。エノハは人類の復活のさい、この時限爆弾も埋めこんだ」

「葬式のとき、ハノン先生の顔がふやけてたのも、そのせいだってのか」

「そうよ、エノハは人間を500年に渡って、罪人のように扱い続けている。自由を奪い、狭いセントデルタに隔離して、ちゃくちゃくと、依存心を高めて独立心をくじき、それをもって人間を清い生命に昇華したと唱える」

「それが許せない、だから革命家になるってことなんだな」

「本当になりたいのは啓蒙家よ。エライことを紙に書くだけで、ご飯を食べられる仕事」

「昔の啓蒙家ってのは、副業でやってたぐらいだろ。本業として金をガッポリもうけてる人間のことは啓蒙家じゃなく、教祖としか言わないよ」

「だったらここにいるわね、セントデルタで一番エライのは、まさに闇宗教とかいう、自分の空想宗教のカルト教祖さま」

「エノハ様の悪口はやめてくれ」

「これだけ言ったら、少しはエノハが嫌いになったかしら」

「そこまでエノハ様が憎いか。一体なぜ、そこまでエノハ様を憎むんだ。昔のいじめっ子に顔が似てるから、とかか?」

「いじめられた記憶もなくはないけど、エノハ似じゃあ、なかったなあ」

 クリルは左耳にくっつくアクアマリンの補聴器を、指でもてあそびながら続ける。

 補聴器をいじるのは、クリルが考え事をする時の癖だった。

「あたしがエノハの法が間違ってると言うのは、彼女が人の可能性を否定してるからよ。

 可能性がないと感じているからこそ、エノハは人種を消滅させた。宗教も自分が用意したもの以外は認めなかった。二十年のくくりの中で、人を束縛することを選んだ。ここまでがんじがらめにするのなら、人類を復活なんてさせず、自分だけで生きればよかったのよ」

「エノハ様もさみしかったんじゃないか?」

「そうかもね。たぶん彼女は、死ぬ勇気もないんでしょう。だからダラダラ500年も、同じ生活をしてる」

「俺は少なくとも、エノハ様に感謝してるぞ。でないと俺、クリルに会えなかった」

 ファノンが真顔で言うと、クリルは目を少し見開いた。

「……そう言われるのは嬉しい。ファノンは、このセントデルタが好きなんだね」

「好きさ、この村の人が、みんな好きだからな」

「あーもー、調子が狂うわね。一緒になってエノハの悪口、言ってくれたらいいのに」

 ファノンがあまりにも同意しないせいで、クリルは頬をふくらませたが、これはクリル天然のリアクションであって、本心から不快をしめしているわけでも、ファノンにイエスマンを望んでいるわけでもない。

 それがわかるから、ファノンも安心してクリルにノーと言えるのだ。

「でも俺はたぶん、どっちかを選ばないとしたら、クリルと一緒に行くだろうな。クリルに傷ついて欲しくないから」

「――っ」

 ファノンの宣言に、クリルは言葉をつまらせた。

「エノハ様に槍を向けることはできないけど、クリルを守ることなら、できると思うんだ」

「ありがと、でもあなた、あたしより弱いじゃん」

「盾ぐらいにはなるさ。それにクリルも、ツチグモと戦った時、火の海になった森の中で、俺に言ってくれただろ。俺を守るって」

「聞いてたの? あれ」

「うん、意識は飛びかかってたけどな。うれしかったぜ」

「も、もう寝るわよ、なんか眠たくなっちゃった」

 ついっと顔を背けながら、クリルはごにょごにょ言った。

「あとファノン?」

「ん」

「話、聞いてくれて、ありがと。少しは楽になったわ」

 心なしか猫背になって表情を隠そうとするように、クリルはファノンにつぶやいた。

虚無への地平

 便利を追った必然というもので、時代の進歩とともに経済は発展し、人間のする仕事を機械が代わっておこなうようになった。

 初めの本格的な機械化は西暦1800年前後。

 いわゆる産業革命だが、その時の革命には、人間の作業が必須だった。織物機を動かすのも印刷機を動かすのも人だったし、鉄道を操縦するのも、その故障を見るのも人で、そのころの人間と機械は、反発運動や議論もあったが、おおむね蜜月を過ごしていた。

 決定的に変わりだしたのは……いや、代わりだしたのは1900年後期。

 機械を動かすのに必要な人間の数が、減り始めたのだ。

 さらに2000年代になると、この流れは加速。人間から機械への変換は随時におこなわれた。

 そのつど、人の雇用はうしなわれ、その流れに抗うために、新しい、人間にしかできない仕事を生み出そうとする動きは人間のほうにも見られたが、それ以上のスピードで、機械化はすすんでいった。

 結果、失業者は増えた。

 機械の仕事や生産物の恩恵をうけた人物はより金持ちに、困窮者やそれに近いものはより貧しさに苛まれることになった。

 とうぜん、貧しさに落ちた人々は危機感をいだいた。

 危機感は人間を何かしらの行動に駆り立てさせる貴重な原動力となりえるが、その貴重な原動力がもしも、空回りするばかりで、現状を打ち砕くことができなかった場合はどうなるか。

 それに加えて、国や他者からの救いがほどこされなければ、どうなるか。

 多くの人は、略奪や強盗などの、悪行に走る。

 そしてその中には、テロで主張を叶えようとするものも。

 そんな中、決定的な発明が起こって、その格差が拡大した。

 永遠の命の誕生である。

 人は金さえ積めば――つまり積むほどの金があれば、永遠の命を手に入れることができるようになった。

 相続税は貧乏人だけが払うものとなり、金持ちには長寿税が課せられたが、彼らはそれ以上のスピードで富をかき集める事ができた。

 若い体を永遠のものとできた彼らは子を作り、それにも永遠の命を与えることで、死による世代交代と循環を、完全に終わらせてしまった。

 一握りの彼らが覇権を永遠に私有したことにより、深刻な格差が世界を覆った。

 第三次大戦の起こる前触れは、こうして培われ養われて、降り積もる雪のように声も音もなく、地球の土壌で、息を潜めつつ育まれた。

 そんなある時、ひとりの人物が、アラブの富豪の家庭教師になった。

 彼は正義を願うアラブの少年に、何年もかけて上記のことをささやき、その正義の気持ちを焚きつけた。

「人間に生まれただけで、おのれの生誕を悔い他者を憎むしか、やることがない世界、君は正しいと思うか?」

 その家庭教師の質問に、青年へと成長を遂げたアラブの男は、首を横に振った。

「ならば水素爆弾を揃えられるだけ揃えてくれ。それを南極の西に埋める。その指揮は俺にまかせてくれ」

 南極西氷床・WAIS。

 ここだけで約2500万立方キロメートルの氷が備蓄されているが、ここの氷が全て地球に流れ出すだけで、地球の水位は10メートル上がると言われている。

 そこに、アラブの男をたぶらかした家庭教師は、巧みな細工を施し各国政府の監視を逃れ、まんまと南極にそれらを設置し、さいごに、ボタンを押した。

 じっさい、水爆の男フォーハードはWAISだけでなく、南極中央部にも大打撃を与えたため、水位の上昇は40メートルにもなった。

 これで減った人類は1億。

 未曾有であるが、それ以上に被害をこうむったのは経済だった。

 第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件のように、ひとつの事件が、より大きな事件を引き起こすのが社会である。

 フォーハードの凶行により世界中の企業が損害にまみれた。

 まず、世界で海岸沿いに作られていた約70基の原子力発電所が、まるごと海に浸かったのだ。

 つまり原発の多いアメリカの東海岸、日本沿岸、中国の海沿い、イングランドほかヨーロッパ各国にひしめくものが、いっせいに行水したわけである。

 旧ソビエトにあったチェルノブイリ原発が停止したとき、だいたい世界で二万平方キロメートルの土地が使い物にならなくなったと言われているが、これは途中で停止の努力をした場合の数値だ。

 今回の70の原発は人知のとどかぬ海の底。

 手の施せない場所にもぐった原発が、そこでせっせと、海洋にプルトニウム239やウラン90という、五万年は消えない深刻な量の汚染水を吐き出したのである。

 結果、数年の間、人間の目にもわかるほど、海水が光った。

 世界でどこの海に浮かんでも被曝するようになったため、海産と海運業は全滅、いや、絶滅。

 海運がすたれると、引きずられるように金融も衰え、株価は下落。世界はふたたび大恐慌におちいるが、今度の場合、先進国は経済対策にあわせて、放射能対策もしなくてはならなかった。

 ここまでは冒頭で説明した通りの話だが、もうひとつ、フォーハードがこの世界から人類を駆逐するため、水爆を南極に炸裂させる前に手を打っていたことがあった。

 フォーハードは石油王の資本を使って、世界にシェアを持つ、一大家電ロボット企業を作っていたのだ。

 家事をこなし、人の言葉を理解し、想像力を働かせて問題に先んじて対処する……と、ここまでは、フォーハードの企業でなくとも、できるロボットはすでにあった。

 水爆の男フォーハードがやったのは、そのロボットの価格破壊。高級車なみのロボットを、百分の一、つまり庶民が頑張れば買える値段にまで下げたのである。

 それを実現したのは、ロボットの製造から運用、運搬、修理まで、すべて同じロボットにさせたからである。

 つまり、このロボットは、何もないところに工場を作り、拠点にしていくことができるため、フォーハードは座りながらにして巨万の富を得ることができた。

 さらに、水爆の男フォーハードは自社で衛星を打ち上げ、そこからロボットのアップデートを図るから、小さなミスはみるみる改善されていった。

 だが人々に気づくものは、ほとんどいなかった。

 水爆の男はいつでもアップデートで、ロボットを殺人鬼に変えることができる、ということに。

 そしてある日、世界中のロボットに一つの命令が下された。

 人間を見つけ次第、殺せ、と。

 2500万台というロボットが、各国の家庭に食い込み、料理のために包丁を握っていた手を、子供と遊ぶために力強くされた脚部を、暴漢から人間を守るためにプログラミングされていた、日用品を武器にする知恵を、にわかに人間にむけたのである。

 ロボットには社会を混乱させる方法を、人間とは違い、悩むことなく実行にうつすことができた。

 少数で、もっとも効率的に社会をみだす方法。

 つまり、政府の要人……の近親者を人質に取ることである。

 近所にいたロボットがいっせいに、それをやったのだから、人間のほうはさしたる抵抗はできなかった。

 政府機関は麻痺した。

 政府の方向を決める人々の子や夫、妻の命を、ほとんどのロボットが握ったのである。

 世界は乱れに乱れた。

 その間隙をついて、水爆の男はさしたる抵抗もうけないまま、南極に水爆を設置したのである。

 そのときに水爆の男も死んでいるが、彼のした命令は、彼の死後も、ロボットたちに守られ続け、みるみる人類を減らしていったのである――

挑発

「――と、いうのが、俺のおおよそのプロフィールだ。知ってるよな?」

 正午まわったころ、突如空間から浮かび出たフォーハードが、『セントデルタの社会 3年生用』を音読したあと、そう付け加えた。

「……いきなり現れたと思ったら、何を語りだしてんだ、お前は」

 宝石窓工房の土間で、ファノンが溶けたサファイアの出るパイプのツマミをいじる手をとめ、敵意のこもった視線を投げながら言った。

「必要だからさ。俺はお前らセントデルタの人間ほど寿命を削られちゃいないが、無駄なことをする時間はない。俺はべつに永遠の命を持ってるわけじゃないんでね」

「お前の目的は、俺を魔王に育てあげて、生命の生まれない宇宙を作るんだったかな」

「よく覚えてるじゃないか」

「ああ、俺はそのとき、お前にお断りだと言ったことも覚えてる。今でも変わらんぞ」

「つれないやつだな」

「そんなに人間が憎いか。どうせあれだろ。親とか恋人が悪人に殺されたとか言って、ダークサイドに落ちたんだろ。それなら息子に腕を斬られたら目が覚めるから、それまで待て。ちゃんと皇帝を穴に捨てろよ」

「なんの話だ……? だが勘違いしないで欲しいな。俺の憎しみの程度は、かつての民衆が周囲にいだいていたレベルと、さして変わらん」

「そんなに世の中を憎んでなかったのに、100億を殺したって言うのか」

「誰でもそうなる、とは言わんが、俺のように、かつて人類が持ちえなかった力に目覚めれば、何人かは俺みたいなことをするだろうさ。俺が特異だったわけじゃあない」

「ああ……名前を書きこんだら死ぬノートの話を、マンガで読んだことがある。あれが熱狂をもって受け入れられたのは、自分がこの力を手にしたら、同じことをするかもしれないからだ、とは思ったよ。お前は、する方、だったんだな」

「それまた何の話だ……? 俺はたしかに古代の人間だが、マンガは読まなかったもんでね。ただ、動物学者はかつて言ったな。人間は驚くほど意外性のない生き物だと。俺が右だと思うときには、他人も同じものを見れば右だと思うものさ」

「で、何しに来たんだよ。お前の顔を見ると胃が痛くなる」

「忠告しに来たのさ。お前はしばらく、村の外には出ないほうがいい」

「どういう意図だ。お前が胡散臭すぎて、まったく信用できない」

 ファノンはひょうひょうと語るフォーハードに、睨みをきかせた。

 この男は、ファノンの目の前で、三人もの知人を殺したのである。

 油断はできないし、何より、許せない男だ。

 だが、ここでファノンが逃げても追ってくるだろうし、自警団にフォーハードのことを教えようものなら、すぐに時空の向こうへ雲散するだろう。

 フォーハードの性格上、ファノンを助けにきた自警団員を殺害するかもしれない。

 そしておそらく、フォーハードはファノン自身も、すぐに殺す力があるはずだ。

 結論として、ファノンはフォーハードの話を聞くしかないのである。

「ゴドラハン、という名を知っているか」

「……お前と戦った場所の名前が、ゴドラハンの森だった。とうぜん知ってる」

「森のほうは、ゴドラハンの名を拝借しているだけだ。そいつが、お前を狙っている」

「いや、俺を狙ってるのはお前だろ」

「すっかり疑り深くなったな。微笑ましいことだ」

「……で、そのゴドラハンが、俺に何をしようっていうんだ。たしかゴドラハンってのは、お前の死後、エノハ様と意見を戦わせてた男だとは聞いたけど」

「俺と違って、奴はお前を殺そうとしている。俺がやったように、村の外に出たところを、奴は狙ってくる。だから村に出るなっていうのさ」

「だいたい何者だよ、ゴドラハンってのは」

「かつて俺が、この世から人間96億を消去したあと、俺は少しの間、何もしなかった。正確には、できなかったんだがな。

 その間に、この地球に人間の覇権を取り戻そうとする者が現れた。その一人が、ゴドラハンだった」

「わからんでもないな。食べるものも着るものもないんだからな。お前の津波のせいで」

 ファノンはせめてもの抵抗として、悪口を放つが、フォーハードはこういうのには慣れているのだろう、まったく動じた気配はなかった。

「さっきも説明しただろ。津波で96億の人間は殺せないぞ」

「じゃあなんだよ、その宇宙の力か?」

「それも無理だ。俺の力には、そこまでのものはない。複合的なものだよ。南極爆破は、経済を混乱させるためにやった。70基の原発が海に沈めば、海運もタダですまないのはわかっていたからな。このあいだ、お前を襲ったツチグモがいただろう。俺はかつて軍と民間に、ツチグモのような無人機を売りさばいていた。軍には無人戦闘機や無人戦車や歩兵型ロボットを。民間には家事ロボットを。

 世界トップシェアのそれら無人機に、いっせいにアップデートをほどこしたのさ。人間を、殺せと。

 そうして人間と機械の戦争が始まったが、俺はそのやり方を工夫した。鍵を握っていたのは人間生活に深く食いこんでいた家事ロボット。政府要人の家で使われるロボットはかなり多かったから、その家で働く家事ロボットには、政府要人の家族を人質にさせた。効果はてきめんだったよ。腐敗した政治家や官僚であればあるほど、その効果は高かった」

「難しい、もっと短く」

「……話を理解できなかったってことだけ、伝わったよ」

「お前のヨタ話はもう充分だって意味だ」

 ファノンは手をフォーハードへ向けてかざした。

「俺がお前を許せない、と思えるぶんには、理解できたよ」

「やる、というのか? 力を二つしか使えないお前が? 人も殺せないのに?」

「お前をのさばらせちゃ、たくさんの人が死ぬ」

 ファノンは手のひらから、熱いものを感じていた。

 ノトにやった、マイクロ波の熱と同じものである。

 ファノンが熱いと感じるのは、わずかにある空気中の水分子が発熱しているからだ。

 そのエネルギーを、ファノンはすでにフォーハードに差し向けているのだが、フォーハードは顔色ひとつ変えずに、それを眺めているだけだった。

「ちくしょう、何で効かない」

「効かないのは当たり前だ。お前が放っている電波を、俺の目前で違う空間に飛ばしてるんだからな」

 たぶん、本当にフォーハードは目の前に不可視のバリアを張っているのだろう。

 フォーハードの声はその口からではなく、工房の壁のほうから聞こえていたし、じっさいフォーハードの姿もおぼろにゆがんでいた。

「何だと」

「もしかしたら、お前の部屋の隣にいる幼馴染が、熱い思いをしている頃かもな」

「メイが……!? きさま!」

 ファノンは怒りをおぼえ、さらに手のひらに強い力が宿るのを感じたが、これ以上その力を振るうわけにもいかなくなった。

「俺に指向性のある攻撃は効かないぜ。500年前、俺の頭上に核ミサイルを飛ばされたことがあったが、ちゃんと送り主のところに返してやったよ。特等席で花火を観れたことだろうな」

「どこまで、人を馬鹿にするんだ、お前は」

「ヒントをやったんだよ。ほんらいお前は指向性さえ超越した力を使えるのに、わざわざ宇宙の法則に乗っかっている。超弦の力はエノハに隠されてしまったから、俺が少しずつ教えていくしか、ないかな」

「フォーハード……なぜ、お前はそんなに宇宙を破壊したいんだ? 俺たちだけじゃなく、お前にも、なんのメリットもないだろ」

「すべては虚無の彼方へ向かうからさ」

「は? なんだそりゃ」

「……俺の生きている時代は、憎しみの連鎖の末端だった」

「意味がわからん」

「そうだろうさ……だがあの頃は100年前に縁もゆかりもなかった民族同士が100年後には憎み合っているような時代だった。

 わかるか? 時代が進む、文明が進むというのは、人々の軋轢も増えるということなんだよ。

 その中には覆しがたいこともあった。さっきも言った、永遠の命を持った者による、富の集積だ。

 その過程で、20年前より10年前、5年前より去年と、時間が経過するごとに、富のあるものに選ばれなかった人間の命が供物となっていた。

 俺は思ったよ。この時代を終わらせるには、そういう連中だけを殺せば終わるものじゃあない、と。

 そいつらが、ことさらに悪人だというのではない。

 たぶん、誰がその一握りの人種に落ち着いても、同じことがおこるんだよ。

 だったら1億、10億殺しても、けっきょくこの時代を求めて人間は働き続ける。

 だからこそ、完全な絶滅が必要だった」

「人間はおろかだ。だから絶滅させる! ってやつだな」

「人間だけ絶滅させてもな……他の生物が覇権をとるだけだろ。人間以外の生物が清く正しい性質を持っている、と考えるのは誤りだよ。結局のところ、ほかの生物の進化を待っても、それほど今と変わりはしない。生物は意外性がないんだから、やることは決まりきっている。

 人間と限らず誰であっても、自分がかわいい。自分の身内も大事だ。

 そこで身内に善人ヅラすることで、見えない多くの他人が割りを食うことを、人間と限らず、どの生物も顧みはしないのさ」

「お前は文明の頭打ちになった時代に生まれ、生き物ってもの、そのものに絶望した。だから水爆やロボットの反乱をやらかしたんだな」

「俺以外の人間はみな可哀想だとは思うよ。よくわからん理由で、実際に殺されたんだからな」

「そうさ、誰も殺されるほどの理由じゃあない。ならなぜ、殺した」

「そこで同意を求めようとは思わんよ。誰かに応援も肯定もされるようなことじゃあなかったことは、知ってる。議論するだけ、おたがい時間の無駄だぞ、そこは。俺はそもそも議論で打ち負かされても、これをやめるつもりはない。

 それより、他の話をしよう……お前は宇宙の始まりと、宇宙の終わり、見るとしたらどっちを見たい?」

「なんだよそれは」

「俺は宇宙の末路を見たい。これが俺の一番見たいものだ。

 次に、人間が絶滅する確率は何パーセントだと思う?」

「知らないよ、そんなもの」

「逆に考えてもみろよ。1秒後に巨大隕石が地球に衝突する可能性は? さんざんな低確率だろうが、ゼロではない。

 ほかにも、あした致死率100パーセントの疫病が流行る確率は?

 地球規模の大地震や大噴火で、地球が住めなくなったら?」

「そういう時はマンガみたいに、宇宙船とかで脱出して新天地を目指すんだよ」

「まあ百歩譲って、その通りになるとしよう。だが人間と限らず、生物は生きている限り、つねに絶滅の低確率にさらされているんだよ。どこへ逃げようと、それは追ってきて、俺たちの首を絞めようとするのさ。

 ためしに数値化してみよう。

 無限の時間を、その低確率の絶滅の可能性に掛け算してみると、どうなる?

 答えは、人間の絶滅する可能性は、100パーセントと出る。

 俺はそのはるか先の未来を見たい。そして俺には、その能力があるんだ。

 それこそ、俺が一番やりたいことだ」

「その時空を駆ける力のことか。だったら、俺のことはほっといて、未来の果てまで飛んで、その立派な、一番目の夢とやらをかなえる努力をしてこいよ」

「俺は欲張りなんだ。自分の手でほろびた文明や宇宙も見てみたいのさ」

 フォーハードは不敵に笑うと、そこから少しずつ姿を空気の向こうへと霞ませていった。

聖絶令

 一週間後。

「へこんでるね、リッカ」

 いつもより早いペースでビールをあけるリッカに、テーブル向かいのクリルが述べた。

「わかるぅ?」

 リッカは前の空席テーブルを、ぼんやりととろけた視線で眺めた。

 そこには、誰かが忘れた財布が置き引きの憂き目も見ずに乗っかっていた。

 セントデルタ名物文化のひとつ、『知人の物なら拾って家まで届けるが、そうでないものなら触らず持ち出さず』である。

 そんな文化なので、セントデルタには忘れ物が同じ場所に数日放置される時もよく見かけられる。

 道徳水準の高さからくる治安の良さを誇るセントデルタでは、財布を忘れたところで、だれもその中身を抜いたりはしないのである。

 リッカも、財布を見かけたからといって、それを着服しようという気持ちは全くなく、目の前の空のジョッキと同じで、背景のひとつにすぎなかった。

 セントデルタの人間がそういうふうに感じるのは、たんに人々が飢えたこともないほど、恵まれた大地に息づいているからではないか。

 もしくは、盗んだことがバレれば、村の反対側の子供の名前と顔まで、お互いが知り合うセントデルタだから、一生を後ろ指さされながら生きることを考えて、やらないだけではないのか。

 この高い道徳水準は、まやかしではないのか。

 それがクリルの意見だが、いまはそれを話す空気ではなさそうなので、黙っておくことにした。

「酒くっさ……あたしが来る前に、何杯飲んだのよ」

「酒でも飲まなきゃ、やってられんもん」

 リッカは空になったアクアマリンのジョッキを、テーブルにうなだれたまま、指でつまんで自分の泥酔ぶりをみせびらかした。

「言ってごらん、力になれるかも」

「言っても無理っぷ。あんた自警団員じゃないじゃん」

「昔のキリスト教の宣教師が言ってたわ。悩みの半分は、語ることで解消されるって。ためしてごらんよ」

「ん……そうしてみる」

「よしよし、いい子だ」

 クリルはテーブルに突っ伏し、長髪で顔も頭も隠れているリッカの頭を撫でた。

「エノハ様から……ノエムを聖絶してこいって、言われちゃった」

「聖絶……?」

 向かいの椅子に腰掛ける動作を中断して、クリルは声を上ずらせた。

 聖絶とは、古代にあったイスラエルという国で生まれた語で、いくつか意味がある。

 捧げられたもの、呪われたもの、という義になるが、ときに聖絶は、異民族を殺すときや、その宝物を奪うときに使われた。

 セントデルタにおいての聖絶は、「犯した罪は血や死でのみあがなわれる」という建前のもと、おこなわれる。

 救いがたい罪人を、殺すことによって清め、その清くなった体を神にささげる、という理屈であるが、ようは死刑である。

 そして死刑はエノハが断行するときもあるが、たいがいは自警団員がおこなうのである。

 エノハは万が一、自分が死んだときのため、いつでも人間だけで法を執行できる状態にしておきたいから、自らはあまり聖絶に手をださない、とのことだ。

「わかるでしょ? あたしが聖絶せんにゃーいけんのは、幼馴染なんよ……」

「ノエムって、あなたの三軒となりの家の子だよね」

「悪いやつじゃあないんよ。いっこ下だけど、飼育係とかやって、ニワトリにも懐かれてたし。あの鳥けっこう懐きにくいのに」

「エノハに奏上したの? 聖絶は許してって」

「無理だよ、だって、あいつの身の回りで、ふたり、行方不明になったもん。一人はウチの自警団員」

「検分はしたの?」

「あいつの家に、あたしも行ったよ。台所から、すごい血の匂いがした」

「台所から……血の匂い……」

 クリルはおおよそ、ノエムという男が何をしたのか、察しがついた。

「限りなくクロだね、それ。すぐに捕まえれば良かったのに」

「いなくなってたんだよ、ノエム。始めはただの借金の返済踏み倒しだったのに。それで金を貸した友達と、ウチの団員が返済を迫りに行ったら、友達ごとウチの自警団員が。なんでこんなことに」

「すぐにでも、見つけたほうがいいね、それ。でも聖絶の許可がでてるってことは……刻限は?」

「今日の日没まで」

「すぐじゃん……それで見つけたらノエムを、どうする気?」

「自首させたいよ。聖絶はまぬがれないかもしれないけど」

「やるだけやってみるってことだね」

「ね? 助力できるような話でもなかったしょ」

「あたしはバッチリ介入する気だけど」

「そっか……ありがと」

 そこで初めてリッカは、テーブルから顔を上げ、弱々しくも微笑みを見せてきた。

 その瞳はうるみ、目にはほんのり黒いクマがさしていた。

 突っ伏していたときは、きっと、もっとひどい顔をしていたのだろう。

「あ……景色がナメクジみたいに歪みながら動いてる。これで仕事、できるかな。酔い覚ましにもう一杯、飲んでこう」

「おいアル中……そのへんにしときなさいよ。ベロベロに酔っ払ってエノハに会う気なの?」

「そうだねえ……酒を抜くためにも歩かなきゃ。ついといで、クリル伍長」

「イエス・サー、リッカ軍曹どの」

 ふらつきながら立ち上がるリッカに合わせ、クリルも腰を上げてから、ゆるい仕草で敬礼を決めて、リッカのあとに続いた。

「で、どこを洗うのよ、軍曹どの」

「考えてない」

「はぁ? もう昼だよ? この酔いどれバカ」

「間違えんな、軍曹だよあたしゃー。でもホント、どこを探せばいいか、見当つかんもん。村の外なんかに逃げられたら、探しようがない」

「リッカ。考えられるんだけど、ポエムだかドエムだかは、村の外に逃げたって線は薄いよ」

「ノエムね。それは何で、そう言えるの?」

「ツチグモが来襲してから、村の警備は増やされた。交代制で、仕事の終わった村の人間を1000人も、夜の警護にあてている」

「夜だけじゃん、人手増やしたの」

「このセントデルタの人間は、視力も高いから、昼間ならなおさら無理だね。そこらへんはあなたも、わかってるでしょ。そして、その見つかる危険を考えたら、村の外に出るより、放置された家に潜伏したほうがいいわ。それが見つからなかった時になって、慌てたらいいのよ」

「なるほど! そういう所を探せってことだね」

「そういうこと。行くわよリッカ。まずは、あたしたちがよく行く廃屋」

 そうクリルが語って、そちらへ足を向けたときだった。

 酒場と隣家の間の、路地というにも忍びないほど狭い通路に、人影が引っこんでいくのが見えた。

 麦わら帽を目深にかぶった筋肉質な、だが背のそれほど高くない男。

「ノ、ノエム!」

 とつぜんの遭遇に、リッカがすっとんきょうな声をあげた。

「え」

「今のノエムだよ! 追うよ、クリル」

「え、ええ」

 クリルは完全に状況をとらえきれていないまま、リッカのうしろを駆けた。

断罪

 肩を疲労で上下させながら早駆けをする中、あれは何のフレーズだったかな、と、クリルは思っていた。

 環境さえととのえば、犯罪はなくなるか、という話に、それはありえないことだ、と言い切った男がでてくる話。

 ――ああそうだ、罪と罰とかいう小説だった、とクリルは頭の片隅で、そんなことを考えた。

「ノエム!」

 クリルがそんなことを考えているうちに、リッカがノエムを行き止まりに追い詰めていた。

「エノハ様は何だって与えてくださる。なんで、あんなことをしたんさ、ノエム!」

 エメラルド・ペリドット通り。

 ここはセントデルタで初めて作られた市街地ゆえに、エノハも区画整理を考えずに作ってしまい、そのため袋小路がめっぽう多い。

 そこの行き止まりに、クリル、リッカ、そして壁に背をつけたノエムがいた。

「そんなもん、俺だってわからねえよ、へへ」

「笑いごとじゃ、ないでしょ!」

 リッカはさけんでから、大弓に矢をつがえ、構えた。

「ぬるい世界で生きてきたお前らだから、お前らの道徳でしか考えられんだろう。だが生物学的には俺のようなクズはどうだ? 世界から食料が消え去ったら、お前らはどうする? 道徳をとなえて、腹をすかせながら、ただ死んでいくだろうが、俺は違う。お前らの肉をむさぼってでも、飯を見つけるまで生き残る。そして子孫をつむいで未来につなげていく。俺のような奴が現れるのは、地球のえらんだ必然なんだよ」

「だ、黙りなさい!」

 リッカが矢じりに顔を寄せ、弓を射る姿勢になって威嚇するが、ノエムの減らず口は止まらなかった。

「今はたまたま、その必要がないから俺は殺されるが、いつか、俺と同じ選択をしたものだけが生き残る時代が来る。そのとき、俺はアダムになる」

「いや、それはないわ」

 それまで二人の会話を聞いていたクリルが、間に入った。

「人が人を食べなきゃ生きられなくなって、それで生き残ったとしても、そのあとで、あなたは淘汰される。ただの犯罪者としてね。

 見くびらないことね、人間の生存本能を。あなたでなくても、他の何人かは食べざるを得なくなって食べるから。

 あなたは食べたくて食べただけじゃない。

 どんな食糧危機の時代に生まれても、あなたはただの三流ポエマーか食人鬼にすぎないわ」

「なんだと!」

 ノエムは目を剥いて食い下がった。

「だってそうじゃない。文化とかまじないとかで食べるってのならまだしも、食べるものが他にあるのに人間を食べるなんて、害悪以外のなにものでもない。あなたのやってることは、ただの正当化。生物界の欠陥よ」

「ちがう! 俺は崇高だ!」

「もういいわ、やっつけて、リッカ」

 クリルは横のリッカに目配せとともに告げた。

「え、で、でも」

 リッカはまごつくばかりだった。

 口下手なリッカのことだから、それでもまだ、ノエムには公正するチャンスがあると言いたいのだろうが、クリルを説き伏せるほどの言葉がでないのだ。

 ようするにリッカの優しさが、大弓を使うことを、ためらわせているのだが、クリルのほうはノエムと話してみて、すでに方向性は決めていた。

「ん……わかった、なら」

 クリルは自分のVネックにあいた胸元に手を入れると、そこからアメジストのナイフを取り出した。

 それをクリルは、モーションがないと錯覚するほどの手際で、ノエムに向けて投げつけた。

「うっ」

 カッ、という烈音を立て、それはみごとにノエムの眉間に刃先の半分を食いこませていった。

 前頭葉を二つに割る刺さり方だが、クリルが投げたのは、もともと切れ味のよくないアメジスト製果物ナイフ。

 刃先の半分、といっても、刺さったの4センチほどにすぎないため、ノエムは倒れもしないし、興奮しているから痛みに悶えたりもしない。

 だが、脳に一撃、致命傷と言えるものをもらったことに変わりはないため、その足元はぐらついていた。

 クリルは一気にノエムと距離を詰め、右足で軽く、浮わついていたノエムの足を払った。

 ノエムはたやすく、クリルの予想した通りに地面に仰向けに倒れ落ちた。

 そのノエムの上にクリルがまたがると、右足でノエムの左手首を、そして左足で、ノエムの眉間に刺さっているナイフを、まるで山頂に登りつめた登山者のように、もったいぶるような仕草で――ただし力強く踏んづけた。

「うが……や、やめ」

「どうしたの? いきがってみなさいよ」

 クリルは冷たい目線のまま、左足に力を入れると、するり、と刃渡り8センチのナイフは根元まで脳に入っていった。

 さすがにノエムも、これには体を痙攣させ、クリルの足首から力なく手を離して、絶命した。

「ク、クリル……」

「聖絶完了だね。報告は好きにして」

 クリルは捨て台詞よろしくそう吐くと、ノエムのむくろから降り、リッカを横切って路地を出て行った。

「クリル」

 リッカが背を向けたまま呼びとめると、クリルは無言で足をとめた。

「……ううん、なんでも、ない。ノエムはあたしがやっつけたことにしとく。この場にあんたは、いなかった」

 リッカの言葉を最後まできくと、クリルは頷くでもなく、その場をあとにした。

 いなくなったクリルの背中を見るように、リッカはただ、立ち尽くしていた。

「クリル……なんで、そんなに鮮やかに、ためらいもなく人を殺せたの。まるで……」

 リッカは死体として寝そべるノエムを見るが、もちろんそれから返事はなかった。

アジンとの遭遇戦

 三日後の早朝、村の外れ、5キロ。

 ファノンはこの日、同業の宝石窓職人ヨイテッツとともに、ルビー配送業者のカンザサと会っていた。

 窓の材料になる宝石の、指定量の仕入れおよび、配送の手伝いに来たのである。

 ――村の外に出るな、ゴドラハンに狙われるぞ。

 フォーハードの忠告は、おぼえている。

 だがその忠告者はなんといっても、かつて舌先三寸で世界を混乱させてきた人物ゆえに、まともに取り合う気にはなれなかった。

 だからゴンゲン親方が用事で村の外への仕入れができない、と困った顔で言った時、ファノンはためらわずに、自分が代わるとのべたのである。

「カンザサさん、今日のルビーは量が少ないね」

 ファノンは大八車のカゴに盛られるルビーの小石群を、ジャラジャラと手で弄びながら評価した。

 ファノンの指摘するとおり、カゴにはもう少し、ルビーの入りそうなスペースがあった。

「んなことを言うがなファノン、セントデルタも開府500年となりゃー、近場のルビーはみんなご先祖様がつかっちまってら。今あるのはこんなもんだ、質には問題ないだろ」

「たしかにそうですがね、もうチョイ欲しかったね」

 ヨイテッツがファノンに調子を合わせた。

「エノハ様からのお達しで、俺たちは遠出を禁じられちまってる。いないと思ってたツチグモが見つかったからだ。ツチグモと出くわさなけりゃ、いくらでも遠出してやんよ。ツチグモがいなけりゃ」

「ツチグモかぁ……たしかに、あれはまずいよなぁ」

 ヨイテッツが空をあおいで嘆じる。

「ファノン、お前、あのツチグモから逃げのびたんだってな。すごいよな」

 カンザサがファノンの顔をしげしげと観察しながら告げた。

 すでに出回っているノトの話が、ウソか真かをさぐるような視線だった。

「逃げてただけ、ですけど」

 カンザサの視線の意味をなんとなく嗅ぎ取ったファノンは、ごまかしの笑みを浮かべた。

 わざわざ自分から詳細を説明して、ノトの悪意ある噂話を裏打ちさせる必要もない。

「あれからエノハ様も警戒を強められて、村の外に商売道具を取りにいく連中には、塔の監視カメラに映らない場所には入らないように、とのお達しが出た。見守られてるのはありがたいが、おかげで遠出ができなくなっちまった」

 カンザサが安堵と不安の混じった、複雑な顔をした。

「感謝するべきところだよな、それは」

 ヨイテッツがそんなカンザサに、ねんごろに助言する。

「でもなあ、これだけじゃ、まだ不安だよな」

 にわかにカンザサは周囲をうかがった。

「何がです?」

 ファノンが先の言葉が読めず、首をひねる。

「そりゃ、ツチグモみたいな巨体は、確かに監視カメラで見つけやすいさ。だけど、無人機はあいつだけじゃない」

「ああ……もっとエグいのがいるな」

「アジンかな、あのアルマジロみたいなやつ」

 ヨイテッツが名前をそらんじた。

「そう、アジンだよ。あいつら、もともと小型だからってのもあるけど、隠れるの、うまいからな」

「はは、だったら今も俺たちを陰から見てるかもな」

「そうそう、それで、俺なんかを、うしろから、持ち合わせの武器で、こう、ぐわーっと……」

 そう言いかけていたカンザサの背後の茂みから、にわかに木の棒切れが伸び上がった。

 その棒切れは残像を描いて振り下ろされて、ゴンッと、頭蓋骨と木材がかち合う音をひらめかせ、カンザサの後頭部で炸裂した。

 カンザサは右目と左目の向きをあべこべにしながら、ゆっくりくずおれていった。

「カ、カンザサ!」

 ヨイテッツは倒れたカンザサに駆け寄ろうとしたが、それはできなかった。

 カンザサのそばの茂みから、何人もの人影が現れたからだ。

 いや、人影でも人物でもない。

 その手に、そまつな白樺の棒切れをにぎった、人型の機械だった。

 体型はまさに人型だが、その体の表皮は、ゴムのようなものでできていて、アルマジロの体皮に似た、硬そうな鱗甲板で体を包んでいた。

 それが、ぶきみな紫色の両目で、ファノンたちをにらむ。

 のけぞったのはヨイテッツだった。

「じょ、冗談だろ! 本当にアジンが出てきやがった!」

「何が! こんなやつ!」

 ファノンは勇敢さというよりは、単なる怒りに任せて飛びかかり、アジンの右頬に、思い切り肘を食らわせた。

 アジンはされるがままにそれを受けると、首をぐらつかせながら、機械特有の甲高いひしめきを関節から垂れ流しつつ、倒れていった。

「なんだったんだ、こいつ……」

 横たわるアジンを眺めるのもそこそこに、ファノンは生死不明のカンザサを抱きあげようと、彼のほうへ振り向いた。

 そのとき、ヨイテッツの顔も視界の脇に写ったが、その表情は、青ざめ切っていた。

 いぶかしく思って振り返ると――さきほどのアジンの湧いた茂みから、何十体もの、先ほど倒した機械人形と、まったく同じものが荒れた草林のように並列して立っていた。

 その手には、各々のアジンがそこらでこしらえたとおぼしき、棒切れや錆びたナイフ、錆びた鉄パイプをもち、ゆっくりとファノンに近づいていた。

「アジンが一人で徘徊することはありえんのだ! 早くそこから逃げろファノン!」

「アジンってのは……まさか」

 ファノンの脳裏に、フォーハードの言葉がよみがえっていた。

 かつて人類を決定的に追い詰めたのは核でも大津波でもなく、2500万台の家電ロボットだったと。

 ファノンの頭の中で、フォーハードがほくそ笑んだ。

「何をやってる! 離れろ!」

 ヨイテッツが叫ぶが、言われるまでもなく、ファノンはすぐにそこを駆け出していた。

 その動きをサーチしたのだろう、それまで忍び足だったアジンたちも、いっせいに、静かな動作をかなぐり捨て、ファノンを全速で追いかけ始めた。

「なんだよあいつら! 人殺しが趣味なのか! いきなりカンザサを殴りやがった」

「ツチグモが無人機の破壊や兵士の殺害をするために作られた、まさに戦争用の機械なのに対して、あいつらはもともと、ただの家電製品だ。フォーハードのやった大アップデートで殺人機械に成り下がったが。本当は、抵抗能力の低い民間人を殺したり、政府要人の身内を襲うため、大量投入された連中だ。

 現地で限りなく人間の武器を奪いながら民間人を殺すため、人間と同じ武器を扱う必要があって人型になってるが、個体の力はあのとおりなので、集団で必ず動くのさ。

 補給を奪って戦いつづけるというのは、まさに孫子の兵法そのままだな」

「なあ、孫子ってだれだ」

「偉い人さ、それ以上は俺もわからん」

 ヨイテッツは後ろを振り返った。

 何十体ものアジンが、さながら古代の長距離マラソン選手の集団のように、首位のファノンに追いつこうと、全力スパートをかけていた。

 ただマラソンと違い、追いつかれた時、ファノンたちに次の日は笑ってくれなくなるが。

「冗談じゃねえ、俺には妻も子もいるんだよ、ここで死んでたまるか」

「村までもう少しだ、走って、親方!」

 励ますファノンだが、焦りを覚えていた。

 弱いエネルギーではあるが、ファノンは体内に『超弦の力』が沸くのを感じていたのである。

 だがこの力を、ヨイテッツの前で使っていいものか。

 ノトが騒いだファノンの秘密を、ヨイテッツの前でさらけ出すことに、ファノンはためらいを抱いていたのである。

 ファノンがそんな悩みをめぐらせている間にも、状況は悪い方向へ進んでいた。

 疲れを知らない機械に比して、人間のほうは疲労も限界も持ち合わせている。

 その距離は、どんどん狭まりつつあった。

「……」

 ファノンはヨイテッツを見る。

 ヨイテッツは走り方も疲労に制せられ、まともな手足の動きになっていなかった。

 このままいけば、ファノンより先にヨイテッツがアジンに追いつかれ、なぶり殺しになるのは、たやすく予想できた。

 ヨイテッツには妻子がある。

 ヨイテッツが死んで悲しむ人間は、ファノンより多いかもしれない。

 ――俺の寿命はまだ5年もある……。

 ――このまま脇目もふらず、俺だけ走りおおせても、誰にも文句は言われないさ。

 ――俺、まだ5年は生きられるんだぜ……。

 ――ちくしょう……。

 ファノンは目を引きつぶっていたが、少しすると、釣り目になるほどにまぶたを広げた。

 と、ファノンは砂煙をたてて立ち止まり、うしろのアジンたちに向けて、きびすを返したのである。

「ファノン! 何のつもりだ!」

「あんたは生きてくれ、俺はここで村までの時間をかせぐ。村のみんなやエノハ様にも伝えてくれよ」

 ファノンはそう言い捨てると、ヨイテッツの返事もきかず、アジンたちに走りこんで、いちばん近い敵の胴体に、飛び蹴りを食らわせた。

 アジンはそれをもろにくらい、うしろのアジンを巻き込んで、倒れていったが、どれかが行動不能になるようなこともなかった。

 瞳からアメジストの光を憎々しげに放ちながら、ゆっくり立ち上がるアジンたち。

 ファノンがやろうとしているのは、コップの水を一滴の血で真っ赤にしようとするかのような、無理のある行為。

 敵の数は先ほどよりもさらに増え、ファノンから勝てる見込みを秒刻みで奪っていく。

 それでも、ファノンには逃げる選択肢はなかった。

 セントデルタに迎撃の準備を、一秒でも多く与えるためには、ここでアジンと可能な限りの持久戦をしなくてはならない。

 それに、完全にヨイテッツが見えなくなれば、超弦の力をふるえる。

 ファノンがここで残ったほうが、本人はともかく、セントデルタには都合がいいのである。

「こいよアルマジロ怪人」

 ファノンの挑発が聞こえたのか、ファノンが構えるのも待たず、アジンのうちの一体が両腕をあげて掴みかかろうとしてきた。

 ファノンはそれをすり抜け、後頭部に肘を食らわせた。

 火事場の馬鹿力だろうか、ファノンは自分でも驚くほど、よく体が動いた。

 倒れかかるアジンの背中に、ファノンは全体重をかけて飛び乗ると、その右腕に握られていた、鉄の靴べらを奪い、ファノンをにらむアジンたちと再び対峙した。

 ファノンが武器を握ったことで、アジンたちの動きがにぶり、様子を見つめるようになった。

 いや、様子をみている、というより、ファノンの動きの分析をし始めたようだった。

 もともとアジンは家庭用万能ロボットではあるが、そのプログラムの中には空手や剣道の有段者と同じ所作も入っているがゆえに、身体能力も低くはない。

 そんなアジンだが、入力された殺人コンセプトはというと、自分自身が少しでも無傷で生き残り、つぎのターゲットを殺すこと、である。

 いま止まっているのは、どうすればファノンを一方的に殺せるか、数学的に計算しているからである。

 そしてその自問には、すぐに答えが出たようで、たいへんシンプルな作戦に移ってきた。

 すなわち、周囲を仲間で取り囲み、ファノンを袋叩きにする、という戦法だ。

 一人で砂利の往来に立つファノンに、それを防げようはずがなかった。

 だがファノンは、完全な無思慮でこんな蛮勇に望んだわけではない。

 勝つかどうかはともかく、ファノンには戦う算段が、一つだけあるのである。

 つまり、いつもは煙たく思っているはずの、超弦の力である。

 ファノンは手をかざし、迫りくるアジンの壁の一部、十数体にむけて思念を集中させた。

 そこにすぐに、両腕を広げたほどの大きさの黒球が複数、団子状に連なって現れ、アジン数体をかこんだ。

 ツチグモの時とは違い、かなり小さな球体だった。

 非力なエネルギーゆえに、溶融温度1584度の鉄製アジンの体を一瞬で焼き尽くすことはできない。

 だが球体はアジンが右によれば右に、しゃがめば下へと、正確に追いかけるため、確実にアジンを弱らせていった。

 複数の黒球を発生させることは、ツチグモとの戦いではできなかったことだ。

 ――俺の力はどこへ向かうのか。

 この力に命を預けるしかない今でも、ファノンはあまり力の発現をうれしくは思えなかった。

 ファノンは黒球によって包囲網に穴の空いたアジンのほうへ走った。

 少しでも有利な展開へ向かわせることを急がなくてはならなかった。

 というのも、ファノンの体にくすぶっていた超弦の力が、みるみるしぼんでいくのがわかったからである。

 それはちょうど、思いきり殴り合いをしたとき、ストレスが発散されて満足する、というふうな気持ちに似ている。

 ようはスッキリしてしまうのである。

 おそらく、超弦の力は、まもなく使い物にならなくなる。

 このエネルギーが底をつく前に、少しでも囲まれにくい場所へ後退する。

 つまりファノンが選んだ逃避ルートは、先ほどアジンが湧いて出た森の中だった。

 ファノンは葉っぱを割って、そこへ駆け込みをかける。

 ここなら少しはファノンも見つかりにくいし、木々がアジンの侵攻を邪魔もするから、敵を分散させられるかもしれない。

 何より、アジンの包囲網を突破したのだから、このまま村の周りを、アジンたちから付かず離れずグルグル走っていれば、援軍もくるに違いない。

 そう考えたファノンだったが、それは浅はかだったと、すぐに悔やむことになった。

 茂みを抜けたところに、セントデルタで最も幅広なダイヤモンドの舗装路があるところまではファノンもわかっていた。

 だがそこに、女がひとりで歩いているとは、想像だにしていなかったのである。

 セントデルタには先日のツチグモ襲撃を折として、厳戒態勢になっていたから、往来を行き来するものは激減していたが、それは減ったのであって、皆無になったわけではない。

 げんにファノンたちもツチグモとの遭遇を予期しながらも、食いぶちのためにセントデルタ外に出たのだ。

 他にこういう結論を実行する人間が、いないわけがなかった。

 ファノンの、完全な誤算だった。

「オイあんた! ここで何をやってるんだ!」

 ファノンがさけぶと、その女はゆっくり、短いボブヘアーをしゃなりと揺らし、振り返った。

 女は、よく白んだムーンストーンのような肌だった。

 フォーハードやエノハも白いが、それを凌ぐ肌の透明感。

 閉鎖されたセントデルタに住むファノンには例えようもなかったが、それはまさに北欧系の顔立ちだったのである。

 エノハによって人種を統合され、白人黒人黄色人の肌色をまぜたセントデルタ人には、ほとんど見られない素肌。

 ――こんな目立つ肌の女、見かけたら忘れないはずなんだが。

 そう怪訝に思いつつ、ファノンは言葉を続けた。

「ここは危険だ! 早くセントデルタへ戻れ!」

「あなたは……?」

 ファノンの鬼気迫る忠告にも顔色一つ変えず、女はのんびり聞き返した。

 服装も、ファノンの見慣れたものではなかった。

 ファノンの読む漫画には、サラリーマンなどが着用する『スーツ』なる衣装が見られたが、彼女の着ていたのは、それと同じだったのである。

「アジンが来てるんだよ! 早く戻れ!」

「アジンが……? ところで、あなたはファノンですか?」

「――!? そうだが、それがどうした」

「もう少し手間取ると考えていましたが……お会いできて良かった」

 女はそう言うと、わずかに膝を曲げた。

「何を言って……うっ」

 ファノンは全てを言い切ることができなかった。

 出し抜けに、女の細い腕が、ファノンのみぞおちに極まっていたからだ。

「かっ……はっ……!」

 呼吸もできないほどの衝撃に、ファノンは腹をかかえ、激痛と窒息を同時に味わって、ダイヤモンドの敷石に両膝をついた。

「ごめんなさい。あなたを連れて行かないと」

 ファノンが聞いたのは、そこまでだった。

 最後に見たのは、ひざまずく自分の顔面に飛んでくる、女の膝だった。

恩師

 当時、うしろの土手を走る子供の笑い声を背中に聞き流しながら、ファノンは体育座りになって、ポワワワンの川を見ていた。

 いや、ほんとうは川を見てもいないし、そのせせらぎを耳にしているわけでもなかった。

 この川で、沸き上がるコンプレックスを洗い流そうとしていたのかもしれない。

 12歳、小学校卒業とどうじに、ファノンは無職としてスタートを切った。

 小学生時代、やりたいことが見つからないファノンは、その就職活動も気がそぞろだった。

 面接をする八百屋、メガネ販売員、宝石瓦職人、ほか諸々の仕事人も、ファノンをひと目見ただけで、見抜いたのであろう。

 こいつに伸びしろはない、と。

 けっきょくファノンは、同級生が一人残らず職についているさなか、この人通りの少ない川に逃げ込むしかなかったのである。

 他に手段がないわけはないのだが、少なくともファノンの頭の中ではそれしか選択はなかった。

 何日かそんな暮らしをしていると、すれ違う同級生が、自分を見下しているような気がしてきた。

 隣人が、陰でファノンを揶揄しているような気がしてきた。

 この川に座りこんでいても、それが聞こえてくるような気がしてきた。

 じっさい、たしかに人は口に出さずともファノンをバカにしているが、それは一年のうちの数十分、もしくは数時間にすぎない。

 それでもファノンには一年のうちの一年が、それで満たされているふうに思えたのである。

 ようするに、そんな風に思うのは、人が自分を許せないのではなく、自分が自分を許せないからである。

 そうして失職生活を、自虐的にすごして、2ヶ月がすぎたころのこと。

「ファノンじゃねえか」

 その日は珍しく、ファノンの背に声がかかった。

 振り返ると、そこにいたのは、まるで肩が山のように上がった身長185センチの巨漢と、それよりは少し小さいが、キウイフルーツのようなヒゲをアゴにびっしり生やした、筋肉男。

 いかつさ選手権でもあれば、間違いなく優勝争いしそうなふたりが、ファノンの背を見下ろしていた。

 当時16歳だった、ゴンゲンとヨイテッツだった。

「どうした少年! 悩んでいるようだが!」

「いえ……座ってただけです」

 関わりあいになりたくなかったから、ファノンはとっさに嘘をついた。

「ほう! 俺は君が昨日も! そこに! 座っていた気がするが!」

 ! を言葉に混ぜないと死ぬ病気にでもかかっているかのごとく、男――ゴンゲンは叫んだ。

「イヤおとといも座ってたぜ、そいつ」

「何を! 俺は三日前にも見た!」

「ふざけるな! 俺は四日前にも見ていた!」

 いったい何の勝負なのか、ゴンゲンとヨイテッツはにらみあった。

 そんな二人の気迫を、今なら軽くいなすことができるファノンだが、12歳の時には、ただただ萎縮するしかなかった。

「おい筋肉デブ」

 ゴンゲンがヨイテッツに雑言をあびせる。

「なんだヒゲ」

 ヨイテッツも応えてにらみかえす。

「少年が泣きそうだぞ、俺たちの努力オーラを浴びすぎたらしい」

「俺はそんなキモいオーラ出しとらんわ」

「なら、なぜ泣きそうかも、わかってるな?」

「お前の顔がことさらに気色悪いからだろう?」

「違う! 少年はいま! 悩んでいるのだ! つまり今! 努力ッッしているッ! さなかなのだ!」

「でたよこのバカ……」

 ヨイテッツは困ったように顔を手で覆った。

「言わずともわかる! 少年はいま! 無職! 無職なのだ!」

 ゴンゲンはびしりと、ファノンを指差したあと、ものすごい剣幕で、ガニ股になって土手から駆け下りると、ファノンの背まで歩いて、その後頭部を両手でつかみ、ゴンゲンのほうに無理やり振り向かせた。

「少年! この俺を見ろ! 俺はお前にどう見える! 強そうか! 弱そうか!」

「つ、強そう、です……」

 ファノンは本当に泣きそうになっていた。

 ゴンゲンはいつ殴りかかってきても不思議ではない、そんな気迫をにじませていた。

「それは俺が努力してきたからだ! 明日のために! それを夢にえがけるから、がんばれる! そうだろう!」

 目を見開くファノンの目玉に、至近距離からゴンゲンのつばが飛び散ってくるが、とてもではないが、それを忠告できる空気ではないので、ファノンはウンウンとうなずくだけだった。

「未来には、お前に生み出されるために、何かが待っている! 人生は、お前が努力を生み出すことを待ってるんだ! もしもお前がいなくなれば、その努力も、生まれることなく消えちまうんだよ! ……これは誰の言葉だっけか!?」

「心理学者のフランクルだが……本物は努力についてなにも触れてないぞ」

 ヨイテッツがめんどくさげに付け足した。

「まあ、そういうことだ! だからヨイテッツ! こいつを雇え!」

「イヤ、どういう理屈だ」

「雇え!」

「雇うのはお前だ」

「なぜだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 ゴンゲンは衝撃波のような咆哮をほとばしらせたが、その20センチ目前にはファノンの顔面があるので、ファノンはひたすらその騒音を黙って耐えた。

「俺、弟子いるし。二人を養うほど金がねぇよ。それに子供がまもなく生まれるからな。新人教育をするヒマがねえ」

「そうか……」

 そこで初めて、ゴンゲンの語気が弱まった。

 と、思ったのは一瞬だった。

「よしわかった! 今日からお前は俺の弟子だ! よろしくな少年!」

「えええ……」

「そこはハイ! だ! お前はこれから栄光の努力ロードを走るんだ!」

邂逅

「……」

 ファノンには、ずっと意識はあった。

 ヨイテッツのことを考えていたら、いつのまにか、そこまで思い出がさかのぼっていたのである。

 懐かしくもないし、いちばん行き暮れていたころの自分。

 それでも、あれから少しずつ人生を楽しい、と思うようになったのかもしれない。

「ヨイテッツ親方、ちゃんと、生き延びただろうか」

 そこまでつぶやいて、ファノンは周りを見渡した。

 黒ずんではいるが、まめに洗濯されているシーツのかかったベッドに、ファノンは寝そべっていた。

 そこはマンガなどで見た、旧時代のビルディングの一室らしかったが、コンクリートの壁面だけでなく、天井にはすべて、ブナの木を×字に組んだ、鳥籠構造の補強が当てられていた。

「その壁、珍しいだろう?」

 とつじょ、ファノンの背後から声がかけられた。

 そこには、ファノンと同い年ぐらいの、頬に健康的な赤みがさした、一人の少年がいた。

 その背後の壁には、ファノンが逃亡のさなかに出くわした、古代の「会社員」のスーツをまとった金髪女が、神妙な面持ちなのか無関心なのか、それとも怒っているのか、よくわからないポーカーフェイスでファノンを見ていた。

「古代にあったコンクリート建造物は、定期的な人間の手直しを受けられなければ、すぐに倒壊するから、そうやって付け足してあるのさ。おかげで見かけより丈夫だぞ」

「あんたが俺をここに連れてきたのか。いったいなぜだ」

「そりゃあ、セントデルタを破壊してもらうためだよ」

「そんなこったろうと思ったよ。カンザサを殺しやがって……フォーハードといい、どうして俺の周りにはテロリストしかいないんだ」

「カンザサ? 『彼女』の報告にはなかったが……誰だ?」

 少年はうしろにいるスーツ姿の『彼女』へ振り向くが、女のほうは首を振るのみだった。

「俺と一緒にいた男だ。草むらからアジンを忍ばせて、頭を殴ってたろ」

「おいおい……俺は無関係の人間に手はださねえよ。そもそもアジンは俺の部下じゃあない。フォーハードの家電兵器なのは、知ってると思ったが」

「あ……」

 ファノンはそこで思い出した。

 かつてフォーハードが世界中の人間を殺すために使ったのは、あの家事ロボットだったと。

「じゃあ、あれはフォーハードの仕業……しかしなぜカンザサを」

「見てないからわからんが、お前たちを狙ったのではなくて、俺を探していたのかもな」

「あんたを……? それは」

 ファノンが疑問を喉からだすが、少年のほうは別のことを思案中らしく、ファノンの言葉は無視して、その思案中なほうを口にしてきた。

「フォーハードに会ってるんだったな……あいつを、どう思った?」

 少年は鹿の毛皮で修繕したアルミのイスにかけると、ねんごろにたずねた。

「その質問に答える義務が、俺にはない」

 ファノンの反応はとうぜんだった。

 素性の知れない相手に情報を吐き出すのは、危険以外のなにものでもない。

 じつのところ、ファノンはすでに超弦の力をとりもどしている。

 その力を即座に、この目の前の少年にかざすこともできるのである。

 力をさっさと行使しないのは、この少年の目的がまだ見えてこないというのもあるが、カンザサへの暴挙にこの二人が絡んでいない可能性があるなら、今のところ倒したいと思う理由にもならない。

 だが、この少年が、カンザサへの攻撃に携わっていないことが真実か嘘かまではわからない。

「そうか……それなら仕方ないな」

 少年は困った表情になると、うしろの女に目配せした。

 女はうなずくと、壁から背を離し、ファノンに無造作に近寄ってきた。

「や、やるか! このやろう!」

 ファノンは先手必勝とばかりに、大きく腰だめに拳を引いてから、女に放った。

 だが女はファノンのパンチが自分の腹にめりこむ前に、ファノンの脇をすり抜けていた。

 がら空きの背中に、なんらかの反撃を浴びせられる……と思ったファノンだが、それは一秒待っても二秒待っても、おとずれなかった。

 ファノンが振り向くと、女はファノンのうしろにあった、土のかまどの上で湯気をふくサファイアのヤカンを取っていた。

 女は横に添えられた急須にその湯をそそぐと、少ししてから、嗅ぎ慣れないが、薬湯とはちがう香ばしい匂いが鼻をつくのに気づいた。

「なんだ、それは」

「セントデルタじゃあ飲むことはないだろうな。あそこは紅茶が主流のようだし」

 女が応えないので、少年が代わりに説明する。

 その間に女は手際よく急須の中の、エメラルドを薄めたような液体を、取っ手のない、ガラス光沢をした土器のようなコップに入れた。

 いわゆる湯呑みなのだが、セントデルタ以外の文化を知らないファノンには、わからないのである。

「あれはなんだ」

「緑茶というものだ。フォーハードの凶行のおり、この国の人間もみな死んだが、茶は虐殺の対象ではなかったのさ」

 少年は女から見慣れないコップ……湯呑みを受けとると、少しだけ口につけた。

「君も飲んでみるがいい。毒も薬も入っていない」

 少年は湯呑みから口を離し、ファノンにすすめてきた。

「……」

 ファノンはおそるおそる、その液体を口に含んでみた。

 口の中に、苦味のあと、ほんのりとした甘みが広がる。

 その匂いと風味で、なんとなく指先にまで張り詰めていた緊張がゆるみそうになったファノンだが、なんとかこらえて、少年をにらんだ。

「なぜ縛りつけない。俺はすぐに逃げるぞ」

「逃げられないことはないだろうな。ここから50キロほど歩けば、セントデルタだ。道はないが、あの村には、ここからでも見えるアレキサンドライトの塔がある。迷うことはないだろうさ」

「ガバガバな拉致だな、なら、すぐにでも帰らせてもらう」

「止めやしないよ。俺はお前と会うために、命を賭けてるがね」

「命を……?」

 その言葉がファノンの心をつかみ、思わずファノンは少年の目を見た。

「あんた、何者なんだ」

「……俺はゴドラハン。かつてフォーハードによって96億の人間が殺されたのち、荒廃した世界で理想の世界を打ち立てるため、エノハと対立し、敗死したあわれな亡霊さ。聞いてると思ってたんだがな、フォーハードから」

「やっぱりそうか……ん? フォーハードがあんたのことを話すと予想していたのか?」

「おおかたフォーハードのことだ。俺に会えば殺される、とでも吹聴されたんじゃないか。言っておくが、そんなことをする気はないからな」

「じゃ、じゃあなぜ、俺をここへ連れてきた」

「話すためさ」

 ゴドラハンはテーブルに肘を乗せ、ファノンへ向けて前のめった。

「俺と、お前と、人間の未来のために」

出し抜き

「なんたることだ!」

 エノハはテラスを彩る、アレキサンドライトの欄干を、乱暴に両手で叩いた。

「おのれ……してやられた! ゴドラハンに!」

「ファノンは、どこへ連れて行かれたんでしょう、エノハ様」

 リッカは神妙な顔ではあるが、落ち着いた声でたずねた。

 リッカも拉致の事実を憎んではいたが、エノハよりは冷静だった。

 ファノンをこのままセントデルタで生活させて、いいのだろうか、という疑念が、リッカに冷静さを与えていたのである。

 もちろん暗殺すべきだなどとは思っていないが、リッカの中では、救出か、この機会を使っての放逐か、その二つの気持ちでぐらついていた。

 恥ずべきことだと自覚しているが、リッカはどうしても、そう考えてしまうのだ。

「それはわからん。自警団200を動員する。やつの逃げた方角を徹底的に洗い、めどがたち次第、私も出るぞ」

「団員のみんなに、武器を支給します。200人を選ぶとして、残りは村の防備に?」

「それがよさそうだ。生き残ったヨイテッツの報告では、ツチグモだけでなくアジンまでここを徘徊しているようだ。それに、このファノンの拉致自体が陽動の可能性もある」

 エノハは檄をとばしつつ、頭では思案をめぐらせていた。

 この島国からはたしかに、エノハが無人機をいちど、根絶やしにした。

 なのに再び無人機が増殖しているとしたら、考えられることはひとつしかない。

 フォーハードが空間を操る術をもちいて、ほかの大陸から無人機を運んできたのだ。

 エノハ以上に、フォーハードがゴドラハンを倒したがっている。

 アジンがあれだけ森を徘徊していた理由。

 おそらくフォーハードが、ゴドラハンを探すために、アジンをここに召喚したのだろう。

 だが皮肉なことに、アジンが先走ったために、エノハもフォーハードも、ゴドラハンの後塵を拝すことになってしまった。

「ファノンを、ゴドラハンと会わせてはならんのに……つまらんことをしてくれたな、フォーハード」

「? エノハ様?」

 リッカが怪訝な表情で、エノハの独り言の尻尾をとらえた。

「いや、すまん、なんでもない……ともかく、ファノンの足取りがつかめ次第、すぐにでも出立してくれ。私もこの機械の身体を使い、ここから望遠モードで捜索する」

「あの、エノハ様」

「なんだ」

 とつぜん遠慮がちな声音に落ちたリッカに、エノハは柔らかく先をうながした。

「エノハ様……ゴドラハンは永遠の命を持ちはするけれど、ただの人間でしょう? なら、あたしが後れを取ることはありえないかと。妖怪じみたフォーハードとかと比べると、ぶっちゃけヌルそうじゃないですか」

「フォーハードほどの策士でもないし、私のように体を機械に改造しているわけでもない。だがそれでも、私やフォーハードが500年間ずっと、仕留めそこねている人間だ。油断はしてはならん相手だ」

「は、はい……すいません」

 エノハに鋭く睨まれたので、リッカは首をすぼめて謝罪した。

「奴が生きていれば、あの享楽の思想も、復活するだろう。だからこそ、死んでもらわなくてはならんのだ」

「はい……」

 リッカはうなずいてみせたが、何かひとつ、釈然としないところがあった。

 だが、エノハのこれまでの統治にはたしかに私心はなかったし、自分たちをだましてエノハだけが何らかのメリットをむさぼることは、一度もなかった。

 だからリッカはその違和感に、あえて深入りしないことに決めた。

利用されるもの

「クッソ……あの腕力ゴリラめ」

 赤く腫れ、丸みを帯びたおのれの頬をさすりながら、ノトはここにいないゴンゲンに呪いの句をぶつけた。

 いま、ゴンゲンにファノン化け物説を唱えに行ったら、殴られて追い返されたところなのである。

 ノトは先ほどからずっと、見かける人間に片っ端から、啓蒙活動をしかけているが、誰もかれもナシのつぶて。

 白昼の大通りで、ファノンの手のひらから電子レンジと同じ電波が出た、という話など、誰が信じようか。

 それに加え、いまのノトは前科者として、すでにセントデルタ人の噂になっていたのだから、なおさら耳を傾ける者もいなかった。

「やつは……やつは危険なのだ。セントデルタの破壊神ファノン……なぜ、そのことを認めん」

 ノトは忘れたくて仕方ないのだが、アメジスト通りの端に掘られた地下独房から解放されてすぐに、自分の職場に向かったのである。

 シトリン・トパーズ通りの少し裏手にある八百屋。

 そこに、一週間も刑罰を受けていたために、仕事に穴を開けてすいませんでした、と謝りに行くために。

 だがノトがその八百屋に顔をだしたとたん、主人の男は顔をそむけがちに、言いにくそうに、それ以上に、関わり合いになりたくなさそうに、切り出したのである。

 言葉をやんわりとほぐして告げていたが、たしかな解雇宣告を。

 ノトは、八百屋をクビになったのである。

 殺人未遂を犯したものを職場に置いておくのは外聞が悪いから。

 ようは、そういうことである。

 ――俺は至聖の売り子とまで呼ばれたのに、あいつとクリルのせいで、仕事を失った。

 ――八百屋の店主とて、真実を知れば、俺と同じことをするだろうに。

 ――みな、同じ目にあえば、殺しやすそうな細身の育ての親のほうに、ナイフを持って駆けていく。

 ――俺は正義だ。正義をおこなったのだ。なのに、なぜ、こんな扱いを受けねばならんのだ。

 ――あいつらがいなければ。

 ――あいつらさえ。

「モンモさん」

 ノトはそんな暗澹さを口腹にかかえながら、大通りを歩いている女、モンモを見つけると、近づいていった。

「あ……ノトじゃない」

 モンモが少し翳りのある笑顔を浮かべた。

 いつも八百屋で見かけたときには、屈託のない、1オクターブ高い声でノトに話しかけていたモンモも、ノトを前にして、少しひんやりした表情になっていた。

 この常連も、ノトが人を殺そうとしたことを知っている。

 さすがのノトも、その事実に居心地の悪さを感じていた。

「ファノンという男。あれは化け物だ。追い出したほうがいい。あの超能力はけっして微弱じゃあありません。俺は殺されかけたのです」

「ファノンの今の状況、わかって言ってるの?」

 モンモのまなざしに軽蔑がこもったが……ノトはそれに気づかなかった。

「わかっております! だからこそです」

「……あの子のことは、よく知ってる。あの子は自分の力のことを疎ましく思ってる。そのために苦しんでる。私はそんな子を殺人未遂犯みたいに言いたくないし、言ってるのを聞きたくもない」

「俺が……ウソをついているというのですか! それはあのクリルが、友人のあなたに都合のいい話を吹聴しただけだ!」

「クリルは何も言ってないよ。それにエノハ様の裁きは公正だもの」

「ならなぜ、俺が悪いと」

「あなたが抜き身のナイフを持って走ってるの、見た人は何人もいるのよ。それにヨイテッツ親方が、ファノンが命を捨てて俺を逃がしてくれたって、言ってたわ……泣きながらだよ? なんどもなんども、そう言ってたんだよ? ファノンだって怖かっただろうに……それでもヨイテッツ親方を逃したんだよ? 私はそんな人を化け物と呼びたくはない」

 モンモは抑えていた怒りを、ノトに弾けさせた。

「あの人が泣くなんて、ありえない話だってゴンゲン親方も言ってたよ。親が死んでも預かり親が闇に帰っても無理して笑ったのに……泣いたんだよ? その顔で、奥さんと子供を抱きしめたんだよ? この意味、わかる?」

「う……それは」

「……もう、行くね」

 モンモは顔を真っ赤にしてしゃべったあと、ツイっと背を返して、まるで道端の犬のフンでも忌避するようにノトから離れていった。

 ノトは目を見開いたまま、しばらく立ち尽くしていた。

「いったい……何なのだ。あいつは化け物なのだ。これから、助けた数以上に、奴は人を殺していく。わかるのだ。奴は、そういう奴なのだ」

 ノトも、そう言っていないと、自我が破裂しそうだった。

 ファノンを認められない。

 認めるわけにはいかない。

 ――認めれば、今のノトを覆う現状も認めなくてはならなくなるから。

 信頼を失い、人格を疑われ、仕事を亡くし、次への行き場所も見えない今のありさまを……ノトに直視できるわけがなかった。

「クソ……なぜわからん……! 愚民どもめ!」

 セントデルタは狭い。

 狭く、そのくせ人々の接着は多く、目新しいものも何もない。

 小さな噂も大きな事件も、ひとたび生まれれば、たちどころにセントデルタじゅうへ駆け抜ける。

 悪事千里を走るとはいうが、セントデルタは千里どころか4里ほどしかない村。情報がこの村を伝わるのは、凄まじい早さと残酷さであった。

 それがノトの凶行を囲い込み、ノトの居場所を奪っていた。

 ――ファノンはいま誘拐されているというが、もし帰ってきたら……。

 ――殺してやる。

 ――それに、クリルという女も。

 ――俺の正しさを示すには、それしかない――

 セントデルタ以上に世界のせまいノトの結論が、そうならないわけがなかった。

 だが、そのときだった。

「そこの方……」

 大通りで正方形の小さな四脚を前に出して腰掛けていた人物が、うつむくノトに話しかけてきた。

 黒いフードを目深にかぶった、中肉の男だった。

「私は、あなたの話を信じますよ」

 男は涼しい声で、先ほどからノトがまくしたてていた話を肯定した。

「なんだ、お前は……」

「あなたには運命の星が見える。セントデルタを救う星が」

「意味のわからんことを……それより、信じる、と言ったな」

 ノトは歩調を早めて、腰掛ける男の前に立った。

 無菌状態で暮らしているセントデルタ人は、基本的に、相手が何か詐欺を働いてくるとか騙そうとしているとか、そういうふうに考えたりはしない。

 一度も、そういうことがなかったからだ。

 それは、人間不信におちいりかけているノトとて、同じだった。

「はい、信じますとも」

 フードに覆われていない口元が、ふっと笑顔を浮かべた。

「私は、あなたが正しいと信じるだけの証拠を、この目で見たからです」

「見た、だと? ファノンが化け物の力を行使しているところを、見たというのか。だが傍目にあれは、奴が何をしているか、わかるものではなかったはずだ」

 ノトがファノンに食らわされたのはマイクロ波。

 火や太陽、そのほかのものと違い、これは不可視の光線である。

 当然それは、横から眺めているだけでは、ファノンが手をかざし、ノトが遠くで脈絡もなく苦しんでいる風にしか見えなかったはずである。

「それにも出くわしました。ですが、ファノンがそれより前に、あきらかなる異形の力を使ったことは、ご存知ですか?」

「異形の力だと」

「はい、ファノンとクリルとリッカで、ゴドラハンの森に入った時、彼らがツチグモに襲われたのは聞いたかと思います。たしかに彼らを救ったのはエノハ様ですが、その助けが入る前、ツチグモを決定的に弱らせたのは、ほかならぬファノンなのです」

「奴が……?」

「彼はあなたに暴力をはたらく前、ツチグモにその力を使っていました」

 男は弁解するような口ぶりのあと、ローブの裾から、手のひらほどの板状のものをとりだし、机に置いた。

 それはぴったりと二つ折りになった、ジルコン製の水色の板だった。

 男はその二つ折りになった部分の一枚を手前に引くと、そこに長方形の黒いガラス素材のものが見てとれた。

 それはあたかも古代にあったノートパソコンのような形態だった。

 ――ノート……パソコン……?

 そう、それはまさに、ノトが学校の教科書で見た、旧代の道具だったのである。

「これはエノハ様より禁制にされた、古代の遺物ではないのか」

「その通りです」

 男はあっさり認めながら、ジルコン板の隅にある出っ張りをわずかにずらした。

 すると、それまで黒いだけだったガラス部分に光がともり、そこに映像が現れたのである。

「これは」

 とつじょ現れた映像に、ノトは食い入った。

 その画面の中で、ファノンが片手をかざして、そばにいるツチグモに黒い球を発現させていたのである。

「……なぜ、こんなものをお前が撮れた。エノハ様は古代の文明をお喜びにならない。これは古代の遺物……セントデルタの禁制品だ」

「その通り……これは禁じられた文明物。名をムービープレイヤーと呼んだそうです」

「それは持っているだけで処罰の対象だ。自警団の元へ来てもらうぞ」

「構いませんが……この禁制品こそが、あなたを救い、そして英雄にする唯一の道具ですよ」

「なんだと」

「あなたは今、セントデルタの人々に真実を告げようとなさっているのではないのですか。ですが、言葉だけでは、伝わっていないのではないのですか。

 ファノンは危険だ、いずれ彼はセントデルタの破壊神になる、その前に手を打つべきだ……そう、今も話していたではないですか。

 ですが、このままでは、ほとんど信じるものはいないでしょう。この道具がないままならば」

「し、しかしこれは禁制品……」

「知られればエノハ様もお怒りになるでしょう。回収もされるでしょう。罰されもするでしょう。ですが、真実は耳に語るだけではダメです。時として、このように可視できるもので見せなくては、人は正しい方向へ導けないのです」

 ノトの返事も待たず、男はそのプレイヤーを開いたまま、ノトの前に、ぞんざいに、片手で差し出した。

 その態度はまさに、ノトが受け取る以外の選択をしない、と確信しているかのようだった。

「あなたは罰されます。ですが、これで何十人も、何百人も、真実に目覚めるのです……そして、あなたは英雄となるのです。

 見えます。あなたがセントデルタを救い、エノハ様を守り、次代の自警団長として人々の尊崇をたばねている姿が」

「お……俺が……英雄……」

 ノトはうわ言のように、まさに白昼夢でも見ているように、病的に男の言葉をなぞった。

 知ってか知らずか、ノトはそのジルコンの板を、片手で強く握りしめていた。

「そうです……期待しておりますよ」

「俺が……俺が…………!」

 ノトは目を見開き、亡者のように大通りをまた歩き出していった。

「そう……それでいい……」

 男はぶきみな応援の句をノトの背につぶやいてから、立ち上がると、脇に空いた裏路地に入った。

 人目につかないところまで入ると、男はすぐに鼻先までおおうフードをうなじに弾いて、顔を見せた。

「戒厳令なんぞ敷いて、情報統制なんぞするから、俺に付け込まれるんだよ」

 男――フォーハードは静かにほくそ笑んだ。

 戒厳令。

 どうも、いまエノハは自警団員以外にフォーハードの跋扈のことを話していないようだ。

 フォーハードを刺激すれば、すぐにでもセントデルタの破壊を始めるだろうから、という計算からだろう。

 おかげで、少し顔を隠せばセントデルタを歩ける。

 しかも今、ファノンはゴドラハンに拉致されている。

 ファノンには、ゴドラハンと会えば殺されると伝えたが、それはウソだった。

 ゴドラハンがファノンを手にかけることはありえない。

 それなら、エノハと同じようにやきもきするのではなく、この混乱に乗じて仕込みを入れる。

「あのノトという奴……いろいろ使えそうだ」

対話

「……俺のことは、ろくな奴じゃないと教わったんじゃないか? セントデルタの授業では」

 ゴドラハンがしたり顔で、ファノンの心内をすっぱ抜いた。

「……ああ、歴史上、最低最悪の倫理観を持った男だと聞いてる。女をはべらせるために、エノハ様と敵対した人物」

「まあ、完全に否定はしないさ。俺だけの理想の世界があっても、悪いとは思わんからな」

「ホントは違う、と言いたげだな」

「放蕩は好きさ。サボるのも好きだし嘘も好きだし、酒も好きだし女も好きだ。それは間違ってない。だがそれに他人の涙が入ることなら謝絶すべきだね。自由とワガママの違いは、他人に迷惑をかけるか、かけないかの違いだよ」

「つまり、セントデルタ教科書みたいなことは主張してない、と言いたいんだな。信じる理由がないよ。俺は……俺たちセントデルタの人間はずっと、お前が悪意で世界をたばねようとしていた、と教わった」

「Aの話を先に聞いた、ゆえにあとで聞いたBの話は間違っている、と。お前の真実とは、聞いた順番だけで決まるのか?」

「む……」

「まあいいさ、俺はエノハの世界を否定する話を聞いてもらうために、お前をさらったんじゃあない。俺の潔白を訴えるためでもない。俺の言葉を信じなくてもいい。だが、フォーハードを倒してもらいたい。それだけだ」

「倒せるものなら倒すよ。あいつ意地悪すぎだし。だけど、なんであいつを倒したいんだ。それにさっき、セントデルタを破壊してほしいと言ってたろ。セントデルタの破壊をするのにフォーハードは関係ないし、どっちかというと、フォーハードがセントデルタを破壊しようとしてるじゃないか。あいつに頼めばどうだ」

「あいつじゃダメだ。他のものも破壊する気でいるからな。あの男がいるかぎり、人間世界が停滞するか、地球が破滅するか、どちらかしかない」

「停滞とは、エノハ様のやってる統治のことだろ。エノハ様はそうやって理想の世界を守ろうとしてる」

「ん……そういうふうに、セントデルタでは教わっているのか?」

「いや、俺の好……知ってる人間が言ってた言葉の受け売りだ。なんだ、それも嘘だと言いたいのか」

「エノハとフォーハードは、切っても切れない結びつきがあるのさ」

 ゴドラハンは湯呑みをあおってから、さらに語った。

「なぜなら――お前らが奉じるセントデルタを作ったのは、ほかならぬ、水爆の男フォーハードだからだ」

癒着

 アレキサンドライトの塔、最上階。

 リッカを塔から帰らせて、少しして。

 それまでエノハ以外に誰もいかったはずのソファに、いつの間にかフォーハードが腰を沈め、背を向けるエノハに、不敵に笑いかけていた。

「バラしただろうな、ゴドラハンの奴。この500年の秘密を」

「伝えられてはいけない人物に、適切に伝えてくれた。ファノンはもう、疑心なくセントデルタで暮らすことができなくなってしまった……」

「まだファノンの平穏な暮らしを望んでいたのか」

「元はと言えば、お前がセントデルタ外に、私に断りなくアジンなど配置するからだ」

「ゴドラハンを探してたんだからしょうがないだろう? 奴は俺の動きに気づいていたはずなんだ。どこかに尻尾が出ていたはずだからな」

「……お前なら、ファノンの居場所がわかるのだろう? 超常の力を持つもの同士、感じるものがあるはずだ」

「ある程度の距離がなくてはわからんな。それ以外だと……ファノンが力を振るった時。それしかない」

「お前を買いかぶっていたよ」

「心配するな。ファノンの超弦の力を煽るために、他大陸からワープさせた5000体のアジンども……あいつらに捜索させよう」

「アジンをセントデルタの周囲にばらまいたのは、ゴドラハンを探すためだ、と今言っていたと思うが?」

「おっと、失言」

 フォーハードはわざとらしく笑った。

「あれだけの数を揃えれば見つけられるだろうし、そしてあいつらに襲わせれば、ファノンにその力を使わせることができるだろうさ」

「私が大量破壊兵器を利用するとはな。セントデルタの人々が聞けば、憤慨するだろう」

「俺がお前と結託していることはファノンの知るところになったろうが、まだお前には崇拝の対象でいてもらわなくてはならん。協力は惜しまん気だよ」

「本気で、そうおもっているのか」

「もちろんさ」

「ノトに妙な接触を図っていた、と感じたのだが?」

「彼を励ましていただけさ。それとも、ファノンを魔王にするための仕込みでもしていたか、とでも言うつもりか? そして、俺が『そうだ』と答えたら、お前はどうする気だ? もちろん、俺を倒せるんだよな」

「……」

 エノハは答えず、ただ苦悶の表情を浮かべた。

「お前は、賢明だよ」

 フォーハードは立ち上がると、きびすを返した。

「どこへ行く」

「アジンどもに命令を出したあとは、そのアジンどもがファノンやゴドラハンを見つけるまで、俺には鋭気を養うぐらいしかやることがないのさ。俺はいちおう、怪我人なんだぜ」

「フォーハード」

「なんだ」

 エノハに呼び止められたフォーハードは、背を向けたまま返事した。

「……正直に話せ。ファノンに、何をするつもりだ」

「俺とお前の力量ははっきりしている。俺の機嫌をそこねれば、いますぐセントデルタを終わらせることもできるんだぜ。そもそもこの島国に呼んでいるのは、取り回しの悪いツチグモや、水素電池で動く家電製品にすぎないアジンだけじゃあない」

「あれまで出しているのか……このセントデルタに」

「話せるのはそこまでだ。お前がセントデルタを未来永劫の理想郷にしたい、というなら、それ以上、踏み込まないことだ」

 フォーハードは振り返ると、念を押すように、エノハに人差し指を突きつけながら、その場から姿を薄れさせていった。

託される真実

 同じころ、まだファノンとゴドラハンの会話は続いていた。

「ウソつけ。エノハ様がセントデルタを作ったんだよ。なんであの破壊主義者のフォーハードが町を作らないといけないんだよ。あいつはモノを壊すことでしかイケない変態のはずだ」

 ファノンが反論した。

 あの村セントデルタは――フォーハードが灰燼に帰した焦土から、悪の権化ゴドラハンとの争いに打ち勝ち、そしてただ一人の生き残りだったエノハが、孤独の中で研究をかさねて、人間の髪の毛からDNAを吸い取り、それを加工することで人類の復活を果たした村である。

 人間が対等に生きられるように、との願いによって築かれた最後の理想郷セントデルタ。

 なぜそれが、96億人を殺してもなお足りなそうな顔をしているフォーハードによって作られなくてはならないのか。

「代わりに考えてみてくれ。俺はエノハと対立するにあたって、ハーレムを約束し、そして大勢の人間をまとめてエノハと戦ったという。そんな理由で人々の心を集めて勢力を築くことが現実に可能な話かを。

 人間には外聞があるんだ。

 隣の人間に、あいつは女を、あるいは男をはべらせるためにゴドラハンのハナクソ理論に下った、と言われて平然としていられる人間が、それほどたくさんいるのか、と。隣人の目があるのに、恋人が横にいるのに、結婚相手が隣にいるのに、子供が見ているのに、その相手の目の前でハーレムに手をだせる男女が、何十万人もいるかどうかを考えるべきだな」

「お前はそんな約束をしていない、つまりエノハ様が嘘を言っていると?」

「時間は積もる。そして時間はやがては歴史を自称するようになる。だが時にその歴史は勝者がねじ曲げる時がある。本当はエノハと競ったのは俺ともう一人いたんだが、その人物はセントデルタの歴史から、存在した証そのものを消去された。そして俺はエノハによって、怠惰の王と銘打たれて、死んだことにされた。いまのエノハの統治には悪が必要で、そのためには俺を悪にして、エノハは善になる必要があったのさ」

「……じゃあ、あんたは本当は、なにをもって、人の心を集めたんだよ」

「人間が一番信じるもの。生まれた時も、死んだあとでも変わらない想いだ。

 人々が思うままに耕し、思うままに笑い、思うままに生きて、困れば助け、窮すればすがって、肩を組んで手を取って、幸せをもとめるために頑張っていい世界。

 つまりフォーハードが生まれる前の、旧時代の復活だよ」

「やっぱり暗黒時代を呼び戻したいんじゃないか。その時代があって、便利を求めた末にフォーハードが生まれたんだ。エノハ様はそれを蒸し返さないために、こんな世界にした。俺にはエノハ様のやることを否定できない」

 ファノンは持論を並べながら、エノハを批判するクリルのことを連想していた。

 クリルも、エノハの統治に反対していたし、その気持ちを隠しもせずエノハにぶつけていた。

 内容はクリルのものに似ているゴドラハンの弁舌だが……クリルのものとは何かが違う。

 その何か、というのは、今の議論慣れしていないファノンには、うまく言葉にできなかった。

「信じる信じないはまかせる。ともかく俺の手勢は、人間を寿命にいたるまで管理すべしというエノハの派閥をはるかにしのぐ数だった。なのに負けたんだ」

「それは本とかに書いてたぜ。数が多すぎたからみんながみんな、違う意見を言い合ってるうちに、内部分裂したんだろ?」

「ん……内部分裂ってほどのことは起こってないぜ。そりゃあ意見は右に左に分かれはしたが、それで殺しあうほどになっちゃいない。つまり俺たちは最後の最後までエノハたちを圧倒していた。

 それなのに俺たちは負けた。それからは俺にとっての暗黒時代さ」

「優勢だったんだろ? 分裂してないなら、なぜお前らは負けた」

「そこだよ」

 ゴドラハンは人差し指を立てた。

「エノハがとんでもない策に出たことで、形勢逆転を遂げたんだ――エノハはあろうことか、フォーハードと密約を交わした」

「フォーハードかよ……あいつが社会に貢献するような奴じゃあないことは、少しはわかるつもりだぞ」

「ところがそうでもないのさ。500年前、あいつは……フォーハードはほんらい、生物の終焉までは考えてなかった。

 あいつは本当は、完全な善意だけでできた社会を作ろうとしていたんだが、割と最近になって、それが出来ないと知ったんだ。人間が、いや、生物が生きるためには、人間が悪意と名付けたもの、それが必要だからだ。

 いま、お前が狙われているのは、フォーハードの変心のためだな」

「変心かよ……ともかく、フォーハードは人間の悪意に絶望したってことか……? たしかに、悪意ってのには、いい印象のないものだが」

「悪意は、そんな単純なものじゃないさ。

 傲慢さは不和を呼び起こすが、その感情の弱まった感情、プライドは人の心を盾のように守る。

 嫉妬は愛を独占する行為だが、それがあるから人間は恋愛し、他人を敬愛し、子孫を愛せる。

 憤怒は時として戦争の引き金にもなるが、悪事への怒りとして現れれば心強い。

 怠惰は無為の極みだが、安息なき疾走では、人間の心は奴隷の心のように破滅を迎える。

 強欲は他人の富にまで手を出す行為のことだが、それをほどほどにすれば、子供や自分に必要なものを満たす原動力となる。

 暴食は必要のないものを食べる、つまり必要なく命を刈り取ることだが、と言っても、暴食を嫌って断食すれば、1日もまともな動きはできん。

 色欲は度が過ぎれば気色悪いだけだが、これがなくては子孫は生まれない。

 ――どこか間違ってるか?」

「い、いや……」

「フォーハードは潔癖なんだろう。そういう悪感情そのものを否定したのさ。だから人間と限らず、生命に理想郷を作ることはできない、と考えた。作ることができないなら、滅ぼす。それで水爆やロボットを使って、生物の駆逐をおこなった。そうすることで、新しい時代が開けるとおもったんだろうさ。

 だがそれをやっていた頃はまだ、フォーハードは理想の世界を作ることを、あきらめていなかった。それをエノハは見抜いたんだ。

 だからエノハは持ちかけたのさ。

 理想の世界を作りあげる。その協力をしろ、と。

 この言葉によって、フォーハードはエノハと契約したんだ。有利だった俺たちを倒すための契約を。96億人と戦って勝った男だ。残りの4億がどうなったかは、お前らも知るところなんじゃないか?」

「エノハ様が……フォーハードを使って戦争した……? 嘘だ」

 ファノンは目を見開いて虚空を見ながら、否定の句を吐いた。

「……まあ、信じないのも自由だって、俺は初めに断ってるからな。だがお前は、フォーハードを倒したいと思ってるんだろう?」

「もちろんだ。あいつがいると、たくさんの知人が死ぬし、殺されてきた」

「だがわかっているか? フォーハードを倒すことは、セントデルタを終わらせるということに」

「俺はあんたと違ってエノハ様に手を出す気はない。フォーハードがセントデルタを作ったってのは譲ろう。だがセントデルタの維持をしているのはエノハ様だ。それなのになぜ、セントデルタが終わる」

「お前も知っているだろう、歴史の中で、権力を手に入れた人物がどうなったかを。みなその強権に酔いしれ、私利私欲に走る。その結果、政治の腐敗をまねいて、結局また乱れるのさ。誰がやっても、な」

 そこでゴドラハンは何かに想いを馳せたように、目を細めた。

「そんなことはない。エノハ様は500年間も、心変わりすることなくセントデルタを守ってきた。あの人が腐敗した政治をしたのを、見たことがない」

「それは不可能なことだ。だが、それができるシステムを、エノハはフォーハードと結んだのさ――」

「そこは嘘だな。その話にフォーハードが乗ったとしたら、エノハ様だけでなく、フォーハードもいまごろ、ありがたい神様として、みんなに拝まれていたはずだ」

「フォーハードが神になることは、エノハが譲らなかったんだよ。96億も殺した人間を神にはしたくなかったんだろう。それでフォーハードを、よくある国の官僚のように、陰から口を出せる地位に据えたのさ。

 その危険な官僚と、エノハは約束した。もし自分がセントデルタの統治に私利私欲を持ちこんだ場合、理想の世界の実現は不可能と判断し、皆殺しにしてくれて構わない、という契約を」

「エノハ様は変わらない統治を実現するために、フォーハードに500年のあいだ、頭に拳銃を突きつけられたまま、この村を取り仕切ってたってのか……だから……だからセントデルタは500年の平和を得られたってのか。フォーハードの悪意の手によって、この理想郷は理想郷になっていた、と?」

「まあ、そういうことなんだが……」

 ゴドラハンは息をつきながら、木枠で修繕されたビルの四角い窓から、外をながめた。

 そこからはルビーのような色の斜陽がさしこみ、赤い炎のようなきらめきを、窓のそばにいるファノンとゴドラハンの体を照らしていた。

「日も沈む。きょうは泊まっていくんだな。ここにはクマも出るし、どうも最近はフォーハードの奴がアジンもばらまいてるようだ。俺を探してるんだろうさ」

なぜ助けた

「まだ、かなり痛むな……」

 フォーハードは敷き布団のないベッドのフレームに腰かけ、自分の脇腹の裂傷に、手のひらを添えた。

 このころ、フォーハードは怪我を心配するアエフの家から離れ、無人の家屋に住むようになっていた。

 セントデルタには無人家屋が多い。

 人口増加に比して家屋建築が多いから、そういう不思議なことになっているのだが、その無人家屋はみごとに、フォーハードのつけこむ隙になっていた。

 世帯よりもわずかに家が多い理由は、預かり子というシステムによるところが大きい。

 親を失い、他人に育てられている子供のことをセントデルタでは預かり子と名付くが、その子が一家につき二人いた場合、成長したのちには片方は家を継ぎ、もう一人は別の空き家を探すことになる。

 だがまれに、それをせず、新築家屋を建てる場合があるのである。

 そして、家は余る。

 土地の余るセントデルタだからこその現象である。

 ただし、無人となった家は、ただ朽ちるにまかせるわけではない。

 万物はすべてエノハの奉じる『闇』からの借り物ゆえに、いつでも誰かが住んでもいいように、無人の家も、地域ぐるみで掃除が行われていて、いつも綺麗・清潔にたもたれ、空気も澄んでいた。

 ここ一ヶ月の、この空き家の掃除当番はアエフだったため、逆に言えばアエフ以外の人間はここに立ち寄らない。

 古くからセントデルタのシステムを熟知していたフォーハードは、そこに隠れ家を移すことに決めたのである。

 そうしないと、アエフの育ての親に、フォーハードが起居していることが、知られてしまいそうだったからである。

 アエフは事情も聞かずに手術までして、エノハへの通報まで控えてくれたが、家主のほうまで同意見とは限らない。

「ん……?」

 フォーハードはオパールの窓ガラスの向こうで、人影が左右するのを視界の隅にとらえた。

 つねに命を狙われてきたフォーハードは、すぐさま手のひらの中に、次元のエネルギーをくすぶらせた。

 まだ万全な体調ではないが、今のフォーハードなら戦うこともできるし、逃げることもできる状態だった。

 この不調なコンディションでも、セントデルタの人間を皆殺しにすることができるぐらいには、回復していたのである。

 だが、その人影はこの無人家屋に入ろうとはせず、何か違うものに執心しているようすだった。

 オパールの窓ガラスのせいで見えにくいが、そこには一本のサルスベリがくねりながら生えていることは、フォーハードも知っている。

 しばらくその木の周りをうろついていた人物だったが、少しして動きに変化が起きた。

 その人物が、木登りし始めたのである。

 フォーハードは、警戒心というよりは興味を感じて、スライド式の窓を相手に悟られないよう、少しだけ開けた。

 その隙間から外界を見渡してみて、フォーハードは小さくうなった。

 そこには、フォーハードの救い手だった、アエフが見えた。

 アエフが木に登り、降りられなくなった白黒ブチ模様の子猫を助けようとしていたのである。

「おいおいおい……」

 フォーハードは思わず、ひとりごちた。

 きのうは雨が降っていたから、ツルツルとした木肌のサルスベリは、文字通り滑りやすくなっている。

 こんな時に木登りをするなど、正気の沙汰ではない。

「あいつ……大人を呼ぶとか、ほかの方法があるだろ」

 フォーハードがぼやいた、その時だった。

 フォーハードが心配する通りのことが起こったのである。

 案の定、アエフがあたかも足をこすらせるようにして木からすべり落ちて、320センチ下のジルコン岩のせり出た地面に、猫を胸に抱きしめたまま、頭から落下した。

 その瞬間、フォーハードの体は動いていた。

 フォーハードは敵襲のために備えていた右手の空間跳躍のエネルギーをひらめかせ、瞬時にしてアエフの落下点に現れていた。

 それからまばたきをする暇もなく、フォーハードは両腕にアエフの身体を支えていた。

 腕にのしかかる衝撃が、フォーハードの重症の脇腹までかけめぐり、激痛を踊らせる。

「イっっ、…………!」

 フォーハードは口の中で悶え声をひねりだした。

「マハト……」

 いぶかる表情で、抱きかかえてくるフォーハードを見上げ、アエフは名前を呼んだ。

「大丈夫なようだな」

「いつからいたの? さっきまで、いなかったのに」

「お前の注意不足だ。俺はずっとここにいたよ」

「そうだったのか……ありがとう、助けてくれて」

「まだ麻酔ナシで手術してくれた礼をしていないからな」

「大人が痛さで泣く姿、初めて見れたよ」

「減らず口を」

 フォーハードは苦笑しながら、アエフの身体を地面におろした。

 そこでまた、フォーハードはみずからの脇腹に、ひどい鈍痛が蘇るのを感じて、ふたたび顔をしかめた。

「イテテテ……帰って寝るよ」

「ねえマハト」

「んあ」

 腰痛持ちのように腰を支えながら背を向けかけたフォーハードを、アエフが呼び止めた。

「――あなたは……セントデルタの住人じゃあ、ないんでしょ」

「……」

 出し抜けの質問に、フォーハードは顔にこそ出さなかったが、内心おどろいてアエフを眺めた。

「なぜ、そう思う? セントデルタには一万の人口、お前が知らないだけだよ。その中には、俺のような肌の白い奴も、何人かはいる」

「逆だよ。たった一万だからこそ、そんなに白い肌の人がいたら忘れられないよ」

「……」

「あなたは、何者なの? さっきだって、うしろにあなたはいなかったのに、突然現れた。

 それに……あなたの顔、教科書で見たことがあるんだ」

「へえ……誰だ?」

「その……」

 そこでアエフは口ごもった。

 それは、もしも今からアエフが言うことが違ったら、それを聞かせる相手に申し訳ない、というような顔色だった。

 その態度で、フォーハードはすべてを悟った。

「――お別れだな、アエフ。俺はそろそろ、行かなきゃならないようだ」

 アエフが言葉を選んで沈黙する間に、フォーハードが口を割りこませた。

「……どこへ?」

「なあアエフ。お前は死んで神に会って、願いを叶えてもらえるとしたら、何を願う?」

 フォーハードは講演でもするように、横を向いて、空をあおぎながら尋ねた。

「神様はエノハ様しかいないよ。それに死んだら、僕たちは闇に帰って数京の数億乗の時間、素粒子としてただよいながら、一部分が虫になったり花になったりするんだ」

「ん……そういや、ここはそんな宗教だったな」

「やはり、あなたはフォーハード……」

「認めるよ。よく見抜いたもんだ」

「……闇に帰ったあとで、願いが叶うとするなら、あなたは何を願うの」

「かつて、俺の大事な人が見たいと言っていたものを、見たいんだ。

 それは――未来の果てさ」

「未来の、果て……?」

「この地球の寿命は、どうがんばっても50億年ももたない。太陽の寿命が尽きて、この暖かさも保てなくなり、冷たい惑星になるからだ。

 かつて、太陽が死ぬとき、地球は太陽に飲み込まれるという人間がいたが、太陽から離れるという人間もいた。その議論の決着する前に、俺は連中を滅ぼしたが。

 なんにせよ星は永遠じゃあない。月も、地球も、太陽も、ほかの星々も、いずれ消える。たとえ永遠の命を得ようとも、この必滅の法則からは逃れられん」

 フォーハードは天に向けて指を突きはなった。

「この宇宙から銀河という銀河が瞬きをとめ、太陽という太陽が光るのをやめ、ブラックホールさえ寿命を終え、天という天が闇の一色におおわれ、光もなく温度もなく、それでもなお時を刻み、その果てに終末を迎えた――さらにその後を見てみたい。

 常人ならば、それを夢想するしかない。

 神にたよるしかない。

 せいぜい、少しく賢いものが数式によって未来を予想するだけだ。

 だが俺は神にたのまずとも、賢者に頭を下げずとも、空想で我慢する必要もない。俺には、それを見届ける力がある」

「マハト……あなたは」

「このセントデルタは、俺にとっては、その宇宙の末路を見るために存在するのさ」

 フォーハードは、心の中で、その鍵になるのがファノンだよ、と付け足した。

「じゃあな、アエフ。死ぬまでは達者でやれよ」

 フォーハードはそう言い残すと、ゆっくりとした足取りで、その場から去っていった。

超弦の子

 拉致されて一日が経ったが、ファノンはまだゴドラハンの隠れ家から動かずにいた。

 ゴドラハンが最初に白状していた通り、ここはたしかにすぐ逃げられそうな警護体制であった。

 見張りとおぼしき、はじめにファノンを殴った金髪ボブヘアの女も、いつもファノンを監視しているわけでもなく、普段はビル一階をまるまる畑に変えた菜園で、野菜をいじっている。

 そして今も捕虜をほうって、外で元気な掛け声とともに、空手着に着替えたゴドラハンと組手をしているのである。

 いまのファノンは、オフィスの一室に、一人で拘束もされずにほったらかされているのだ。

 これで逃げられないはずがなかった。

 もしかしたら見えない場所に、もしくはファノンの知らないハイテク古代技術で、罠や監視カメラを仕掛けているのかもしれないが、少なくともファノンのすべての動作を分析している、というふうではなさそうだった。

 ――ゴドラハン……今いち、つかみどころのない男だ。

 だからこそ、ファノンは少しだけここに居座ろうと決めていた。

 真の狙いがゴドラハンの自白する通り、フォーハードを倒してセントデルタを転覆させることなのか、見極めたいと思ったのである。

「ふー、いい汗かいた」

 しばらくしてから白い空手着のゴドラハンが、首に巻いたタオルで顔を拭きながら戻ってきた。

「ファノン、お前もどうだ。どう見てもその体、運動不足だぞ」

 ゴドラハンは太い腕をあげて、向かいに立つファノンのひょろ長い身体を指差した。

「遠慮しとく。俺たちはそんな仲じゃないだろ? アジンにやられたカンザサだって、フォーハードのせいにしてるだけで、お前が殺してるかもしれないんだからな」

「証明できないから、辛いところだよ。な、ロナリオ」

 体を動かしたあとだから、いささか快活な声で、ゴドラハンは隣で無表情に添いよる女に振った。

 女、ロナリオは無表情に、こくりとうなずくだけだった。

「あ、それより、だ」

 ゴドラハンは後頭部をかいてから、続けた。

「逃げずに待っていたんだな。ありがとう」

 ゴドラハンはにわかに居住まいを正し、目を伏せて礼を述べた。

「俺を試したのか? 俺がお前に興味を持つかどうかを」

「試せる余裕なんかないさ。お前がセントデルタに帰れば俺は死ぬんだからな。エノハに居場所が割れれば、すぐにフォーハードが俺を取り殺しにやってくる。そうなれば打つ手も逃げ場も、どっちもない」

「命をかけてる、と言いたいんだな。俺だけがフォーハードを倒せる、と思ってるから、そんなことを?」

「いいや? この方法しかない、という考え方は好きじゃないんでね。本当にフォーハードとカタをつけなくちゃならんのは、お前ではなく、俺……いや、俺たち常人なんだ」

「なら帰っていいか?」

 いささか意地悪すぎるとは思ったが、ファノンは冷たく放った。

 ずっと自分ばかりが試されているようで気持ち悪いから、ここらで一つ、自分がにべもない態度をとったらどうなるか、試し返したのである。

「マア待てよ。俺が本当にやりたいことは、伝えることなんだよ。俺や、俺たちがどう思いながら生きたかを。なるべく強い奴に、それを知ってほしいんだ」

「強さなんか関係あるのかよ。確かに俺もフォーハードは倒したいが、それ以上にセントデルタを守りたい」

「考え方は一つでなくていい。人間の数だけあっていいんだ。俺はそれが許される社会を作りたかった。俺が死んだあとでそれが達成できるなら、喜んで危険に身をさらすさ」

「許される? エノハ様が考え方まで統一させる人だというのか」

「宗教も人種も消したんだぜ? そういうのが許せない奴なんだよ、エノハは」

「それの何が悪い。過去には人種が違えば争い、宗教のことで殺し合いが起こってたんだ」

 ファノン自身、あまり口上手ではないから、かねてからエノハが唱えている持論を、そのままコピーして述べた。

「許すっていう言葉があるよな。これは過ちを許すときにだけ使う言葉じゃあない。ほかの考え方をうけいれるときにも、許すって言葉は使えるんだ。

 世の中を渡るのに、いちばん大事なのは、人を許すこと。許すってのはすごいエネルギーを使うことだ。そのわりに評価はあまり省みられないし、あるまじきは、その許しにつけこむ奴もいる。

 それでも、人は人を許すべきだし、かつては、それをできる勇気のある人間もたくさんいた。許すから人は先に進めるんだよ。

 だがエノハは……ことさらにフォーハードのほうは、許すことができなかったんだ。許せない者同士、あの二人はよく似てたのさ」

「昔は、善意でなら人を殺してもいい、悪意がなければ悪事をしてもいい、だから善人は泣き寝入りしていたって世界だったんじゃないのか?」

「そこまで極端じゃあなかったさ。エノハはそんなふうに過去を語ってるんだな」

「エノハ様が過去を捏造してると?」

「セントデルタの人間をたばねるには、そう言うしかなかったんだろうさ。

 古代の人の心は澆季のるつぼ……つまり退廃した道徳心ってことだな。見たことのない過去を、そういう末期的なものにしておいたほうが、現在が理想の形態であると言いやすいもんだ」

「わからんな」

「ならエノハが正直に、過去はこんなによかった、だが現在は人間が二十歳で死ぬ、文明の利器の開発も許されない、それでも現在がいい、という理論を言ったとしよう。これを納得するものはいるか?

 エノハが悪人だってんじゃあないのさ。国には方便も必要だ」

「そんなん今となっちゃ、どうでもいいことだよ。過去の歴史は、お前ら過去の人間が作ったもので、俺たちはそれになんの関係もない。この時代が悪いものだって言うのなら、その責任はお前ら過去の人間にある」

 ファノンがゴドラハンの言葉をふさいで、やや早口に告げた。

 さすがにこれには、ゴドラハンの表情がさみしげに歪んだ。

 ファノンはそこに罪悪感をおぼえたが、それを噛み締めるほどの度量はこの時のファノンにはなかった。

 だから、さらに畳み掛けた。

「過去のことは罪だ。だからお前たちはみんな、フォーハードに殺された」

「それは、違います」

 反論は、思わぬ方向から響いた。

 今までいっさい、ファノンとゴドラハンの会話に混ざろうとしてこなかったボブヘアの女――ロナリオであった。

「100億の人間すべてが、罪人だったから死んだと言うのですか? 彼らすべてが潔白だったわけではありませんが、罪を負うべき人間は一握りでした。他はほとんど、善もなく悪もなく日々を生きていた人々だった。それを、フォーハードは罪人と断じて殺したのです。

 殺されるにあたって恐怖に泣いた人間もいたでしょう。残される家族を案じながら死ぬ人間もいたでしょう。やり残したことを悔いながら逝く者もいたでしょう。子を守りながら死ぬ親も、抱かれながら死ぬ子供も、フォーハードはまとめて手にかけたのです。

 そうして死んだ本人たちに、あなたは面と向かって、死んでよかったな、と言えるのですか? そう言われた死者が、それを言われて喜ぶと思うのですか? 自分は殺されて当然の生き方だった、と考えていると?」

「う……」

 もとより歴史について持論など持たないファノンだから、ロナリオからそんな追及を突きつけられたら、反論なく喉を鳴らすしかなかった。

「いいんだロナリオ。彼を責めても何もならない」

 助け舟はゴドラハンから出た。

「俺はもう一つ、お前に伝えなくちゃいけないことがあるんだ。

 おそらく、フォーハードも伝えようとした力……超弦の力を」

「超弦だと……? それは俺があつかうと世界に破滅をもたらす力のはずだ。何よりもそれは、フォーハードが俺に身につけさせたがっていた力だ。それを教えるのは、あいつの思うツボだぞ」

「それを踏まえてなお、お前はその力のことを知るべきなんだ。その力はたしかに危険だ。だがフォーハードを倒せる力だというのも確かなんだ。たぶん、フォーハードのやつは、お前の力の取扱にしくじれば、自分がその力で倒されるかもしれないことまで予想している……いや、覚悟している」

 ゴドラハンは、迎え入れるように、両手を広げた。

「お前さえ良ければ、この力のことを教えよう。宇宙の未来なんて茫漠としたもののためにではなく、死んでいった俺の友達や、お前の知人のために。俺の息子も、それを望んでいる」

「なんで、お前の息子が出てくるんだよ」

「なぜ、なんの力もない俺が、力があるかどうかわからないお前にこだわってると思う? 俺はかつて一度、超弦の力を使う人間をみたことがあるんだ」

「それが、死んだ息子だってんじゃ、ないだろうな」

「……そうさ」

 ゴドラハンはなにか悲しい過去を耐えるように、渋い顔でうなずいた。

「……死んだ俺の息子が、お前のことを予言してたんだ」

「その息子がフォーハードを倒して救世主になってくれたら良かったんだけどな」

「ファノン……言葉を選んであげてください。この人は」

 ロナリオが前のめりになってファノンに食ってかかろうとしたが、その進路をゴドラハンの左腕がふさいだ。

「……あいつは、最後までその力を使うことを否定したんだよ。その結果、死んでしまった。

 だけどあいつは知っていた。自分が死んで500年後、お前が現れることを。500年も待ちきれない時は、幾度もあった。仲間を失い友を殺され息子を身まかり、絶望の骨頂に立ち、何度も死にたくなった。だが、それでも腐らずに500年も待つことができたのは、ここにロナリオがいたことと……息子のその言葉があったからだ。

 お前は死んだ100億の希望を叶える、最後の存在なのは間違いないんだ」

「500年前に、俺と同じ超弦の男が……? それが俺を予言していただって? なんなんだよ、超弦って」

「超弦の力はフォーハードの力とは比較にならない。その力で未来視をしたとか言っていた。

 ともかく、俺の息子はその力で、お前がすること、そして、お前が行く場所まで知っていた。それを聞く前に、あいつは死んだが」

「そいつは……俺のことを知っていた。他になにか言ってたか?」

「何を言っても信じないんじゃあないのか?」

「う……いいだろ」

「ともかく、だ」

 ゴドラハンは話を打ち切った。

 息子のことはあまり思い出したくないのかもしれない、とファノンはゴドラハンの顔から察した。

「お前がいちばん、世界に光を取り戻すための源になりえる存在なのはたしかなんだ。俺に、力を貸して欲しい」

 そう言うとゴドラハンは、片手をファノンの前に差し出した。

喫茶店で

 喫茶店兼大衆食堂の「イシカワケン」。

 なんでも、この喫茶店の名前はセントデルタの前にあった地名だか州名だかの名前をとったらしい。

 その150坪ほどの広い間取りにゆったり置かれた丸テーブルに、クリル、メイ、モエクが向き合っていた。

 いや、向き合っていたのはモエクとメイで、クリルは空けたビール瓶を三本、枕元に置いて、普段から人前で絶対にはずしたことのない、アクアマリンの補聴器もそこに転がして、ずっと突っ伏していた。

 クリルは無力感と自責で心の中を吹き荒れさせていた。

 ――何が稀代の天才よ。

 ――ファノンの性格上、外出禁止をもらおうが、セントデルタ外に出ることは予想できたのに。

 ――そしてそれをするのは、仕事のためだって、わかってたのに。

 ――あの子、根は真面目なんだから、出なきゃならないとなると、出ることはわかってたのに。

 ――あたしがいけないんだ。

 ――ファノンが巻きこまれていくことを、止められなかったのは、あたしのせいだ……。

 という内情を、クリルが言葉で表現するはずがないので、ただその心痛に悶えて、机に額を当てているのである。

 モエクはともかく、付き合いの長いメイには、ああ今クリルは自分を責めているんだ、というのがわかっていた。

 いつものいじけ癖が、クリルに降臨しているわけだ。

 だが、これでは家にこもるモエクを引っ張り出してクリルと引き合わせ、二人の共作によるすごい名案を期待することはできそうにない、ともメイは感じていた。

「クリルさん……」

 隣に座るメイはクリルの後頭部をやさしく撫でた。

 クリルは反応こそしないが、その手をどけようとするしぐさはしなかった。

「……ファノンが今、危険な状況にある。なのに私たちは自警団員じゃないから、何もできない。こんなことって、あるか。私もクリルさんも、あいつの家族なのに」

 メイが恨み節を誰にともなく吐いた。

「エノハや自警団長リッカが頑張ってくれる……と言いたいが、なかなか難しいな。そもそも彼は生きているのか」

「おいモエク。今そんなこと、言うなよ」

 メイが歯を見せてモエクを責めた。

「あ……うん、すまない」

 モエクもそこでやっと自分の無神経な失言に気づいて、言葉を打ち消した。

「ったく……私たちでできることを探そうってんで集まってるのに、何も策が浮かばないじゃないか」

「情報がなさすぎるからね。わかるのは失踪した時間と場所と、それにかかわった実行犯がアジンという、この島国から消えていたはずの、フォーハードの殺人マシンのことだけ」

 態度で表現することを忌むモエクが、降参だと言わんばかりに肩をすくめた。

 じつのところ、今回のファノン失踪の直接の原因はフォーハードでもアジンでもなく、実行犯はゴドラハンなのだが、その事実をモエクたちが、想像できるはずもなかった。

 セントデルタの人間は、こんな事態になってなお、エノハに真実を隠されていたのだ。

 セントデルタ人の中ではいまも、ゴドラハンもフォーハードも死んだままになっているから、その犯人はフォーハードの忘れ形見アジンだ、ということになっているのだ。

 だがモエクの鋭敏な頭脳においては、かすかにその話にキナ臭さを感じていた。

「だいたいツチグモといい、なんでフォーハードの手先がここをうろついてるんだ。フォーハードは過去の人々を道づれに、南極の水爆でチリへと消えたはず。それに、過去の人間は二十歳で死ぬこともなかったというが、それでも500年も生きられないんだから、フォーハードが生きているはずがない」

「フォーハードは……500年前に死んでなかったのよ」

 酒に焼けた喉で、クリルが声をあげ、ついでに頭も、のたりとあげた。

 目は酒のためか、泣きはらしたためかは不明だが、涙で潤んでいた。

「どういうことだい、クリル」

「この間、セントデルタの河で、ツチグモを操る男に出くわしたよ。その時、そいつはファノンと接触してた。まさに顔はフォーハードで、教科書に載ってた通りだった。この村では珍しい、エノハと同じ色白だったし」

「500年前の過去の人物が生きている……? どうやって」

「それはわからない。でも古代のことだし、何か方法はあるんじゃない?」

「信じられないが……君が言い切るんだから本当だと仮定しよう。で、そいつは何をしたいんだ」

「ファノンが太陽の光を集める力を持つことは、セントデルタ人ならみんな知ってると思うけど……モエクも知ってるよね?」

「ああ、有名な話ではあるな。憎しみや怒りを覚えた時にだけ使える、虫眼鏡と同レベルの熱を生み出す、と」

 モエクがうなずきつつ、ファノンのプロフィールをそらんじた。

「本当はファノンのそれは、太陽の光を集めてるんじゃなくて、周囲の素粒子を光子に変えて、運動エネルギーの指向性を一極集中させたものらしいのよ。これもファノンがフォーハードから聞かされたことから、あたしが推測したんだけど」

「んん……ごめんなさいクリルさん、話が難しいです」

 メイがおずおずと片手を挙げて質問した。

「んーとね。ファノンは物質そのものを作り変えることができるってこと。土を金にもできるし、逆に金を土や石くれに変えられる。同じように、光のない場所でも、そこに空気さえあれば光を作れるのよ。一箇所に集めてるから真っ暗闇の玉に見えるけどね」

「光を作る力……」

 メイは何日か前の、クリルがモエクに告白された日に、ふさぎこみながら河原で『太陽の力』を発生させていた時のことを思い出していた。

 あの時に出した闇の球は、今までメイやクリルにいたずらする時の球体より、かなり大きかったのである。

「ねえクリルさん。私が最後にファノンのその力を見た時、闇の球が前より大きかったんです。使えば使うほど、それも激しい感情を覚えれば覚えるほど、ファノンのあの力は強大になるってこと……?」

「どうも、そうみたいだね。そしてフォーハードはこうも言ってたそうよ。ファノンに力の使い方を教えて、この宇宙を永遠に再生のない静かな空間にしたい……と。その力のことを知りたければ図書館で、超弦というキーワードについて調べればいい、と。エノハにチクって、その本だけ除いてもらったけどね」

「エノハ様に……? 嫌いあってるのに、よく行かれましたね」

「あいつとは反目しあってるけど、ファノンを守るってところでだけは共通してるし」

「ふむ……超弦、ね」

 モエクは意味深にうつむいた。

 どうやらクリルもモエクも、この超弦という名前だけでフォーハードが何を企んでいるか、おおよその方法を想像したのかもしれない、と、横で観察するメイは察していた。

 話についていけずに神妙な顔になっているメイを慮ったのかどうか、モエクがため息のあとで、わずかに声音を変えた。

「しかしフォーハードも、よくわからない理由で、旧人類の放逐をやったもんだ。少年が陥りそうな思想だな。彼は少なくとも水爆破砕のころは20代後半だったはずだが」

「ガキなんでしょ、要するに。その思想に負けたのは人類の悔やむべき汚点だと思うけどね。でも今は、フォーハードの頭の中は置いておこうよ。

 今からのことだよ、大事なのは。

 最終的に、エノハがファノン救出のために動くはず。それを尾行するなり、泣き落としで同伴させてもらうのよ」

「エノハ様が動く?」

 懐疑的にオウム返しにしたのは、メイだった。

「エノハが動くだけの材料がわからないな。自警団員には緘口令が敷かれていて、細かい情報は何も入っていない。ファノンがさらわれたという情報だって、リッカがその緘口令を破って教えてくれたものじゃないか。しかし情報というのもそれだけ。生きているか死んでいるか、今はどこにいるのかもわからない」

 モエクがまたもファノン生死論を蒸し返した。

「エノハがみずから出なくては、セントデルタのみんながたくさん死ぬからよ。ツチグモの話は聞いてるでしょ。あんなのがファノンのいるところに隠れてるかもしれない。そんなところに、セントデルタの人々をけしかけても、無駄死にが増えるだけよ」

「なるほどな……だがそれだと、エノハについていくことで、われわれもツチグモと出くわす可能性があるな」

「……モエク、あなたも来る気なの? ヒョロガリ・マイスターなのに」

「学者、書にふけるなかれ、書にふけるも酒食にふけるもその罪は同じ、てね。これは福沢諭吉という男が自分の甥に、手紙で伝えたことだ。

 そろそろ知識を活かさないと、何のために勉強したのだか、わからなくなる」

「あなたもあたしも、あと二年も命がないしね」

「……そろそろ僕も腰を上げないと。勤勉さは発揮してきたつもりだが、闇の彼方にその知識や労力を持っていけるかは不明だからね」

 モエクから意識的に軽口が叩き出された。

「止めないよ。あなたがいるだけで、あたしに飛ぶツチグモのレーザーが少なくとも一発分は、なくなるわけだからね」

 クリルはそこで話を打ち切り、酒が入っているとは思えないほど、しっかりした動きで立ち上がった。

帰るために

 鳥のさえずりさえ、まだ寝静まる午前3時。

 早朝とも深夜とも名指せるその時間に、ファノンは廃ビルの二階オフィス出口に、支度を終えて立っていた。

 支度と言うものの、そもそもファノンは着の身着のまま拉致されてきた身なので、できる支度といえば、帰路につく心の準備ぐらいではあるが。

 ともかく、ファノンの背後では、綿を張った木皮の布団ひとつに横たわるゴドラハンとロナリオが寝息を立てていた。

 ふたりは夢見心地に、仲睦まじく抱きあって、目を覚ますようすもない。

 ファノンは二人の目覚める様子がないことを確認してから、こんどこそ歩き出した。

 朽ちかけて鉄筋ののぞけるコンクリートの階段を降りて、一階の室内菜園を抜け、どっぷりと闇をたたえる森林にファノンはのぞむ。

 ビルのエントランスまで抜けたにもかかわらず、心配していた警報もなく、矢が眉間に飛ぶでもなく、落とし穴が足元に開くでもなく、上のゴドラハンたちが降りてくる様子もない。

 ファノンはこの静かな別れに、ほんのりとした寂寥感をおぼえたが、立ち止まって布団に戻るほどの理由にはなり得ず、そのまま闇のほうへ歩き出した。

 古代人のようにネオンやライトで夜を昼に偽造していた時代とは違い、太陽の昇降に起床時間を合わせているセントデルタ人は、かなり視力がいい。

 午前3時の空は曇天で、黒い雲がせめぎあっていて星も望めず、したがって歴戦の航海士がここで方位学を振るったとしても役に立たないほど方角も定まらないロケーションだが、ファノンにはくっきりと、森の影の中で高くそびえる、アレキサンドライトの塔が見えているのだ。

 ――ゴドラハンが初めに言ったように、迷わず帰れそうだ。

 そう考えながら、ファノンはゆっくりと、セントデルタに向けて、歩を進めた。

 ――クマにさえ出くわさなければ、なんとかなるな。

 ファノンははやる望郷の気持ちを抑えきれず、少しばかり早足で宵闇の森を進んでいた。

 だがその夜行軍は、にわかに止まらざるを得なくなった。

 ファノンの進路である森の中に、見覚えのあるアメジストの双眼の光が灯ったのである。

「……!」

 あるていど、この事態を予測していたファノンは、すぐに身構えた。

 例によって、その闇に浮かぶアメジストの眼差しは、2つから4つ、4つから16個、そして100個以上へと増えていった。

 フォーハードの作った家電型マシン、アジンである。

 安っぽい金属とプラスチックの重なり合う、ガシャンガシャンといった足音をがならせて、アジンはアルマジロを思わせる畝状の体を、木々の闇から踊らせて、横列を組んでファノンに迫ってきた。

 だが以前と違い、ファノンがうろたえなかったのは、今度はちゃんと戦う手段が備わっていたからである。

「ギゴ」

 機械が掛け声を発するわけはないから、これは金属の擦れ合う音である。

 だがまるで、それを合図にするように、100体近いアジンたちが、いっせいにファノンに走り出した。

 そのアジンに向けて、ファノンは手のひらをかざすと、目の前にいるアジン四体が、一瞬のうちに、大きな静電気のひらめきを残して、消滅したのである。

「よし……できた」

 ファノンは興奮ぎみに、ひとりごちた。

 これこそがゴドラハンに教わった、いや、ファノン土着の力、超弦の正しい発現のしかた、だった。

 ファノンの力は万物をあやつる力。

 いまファノンがやったのは、アジンの五体を構成する鉄とゴムと水素電池、その他もろもろ銅線やプラスチックなどを、まとめてヘリウムに変じたのである。(静電気が出たのは、ファノンの力の関わった部分とそうでない部分の境界で、半端に原子をヘリウム化されて孤立化した電子が、周囲で弾けたためのものである。)

 以前、ツチグモを焼いた太陽の力とはケタ違いの確実さで、敵を仕留める技。

 ――これなら、勝てる!

 あたかも大河の上流から、無尽蔵に溢れる流水のように沸く力を感じながら、ファノンはそう確信していた。

動き出す、最後の勢力

「あれじゃ、無理だな」

 ビルの二階の真っ赤なカーネリアン製の窓枠に腰を下ろし、交戦するファノンを双眼鏡で見つめるゴドラハンが、あきれ加減に嘆じた。

「おとといより、力は上がっているようです。ですが、あんなに矢継ぎ早に強い力を使っている。あれだと息を止めながら全力疾走するようなもの。長くはもちますまい」

 そばに立つロナリオが意見を重ねた。

「あいつはフォーハードと戦うには、時期尚早だよな」

「アジンはファノンを殺す勢いで襲っています。どうやらファノンの顔を、フォーハードはまだアジンに覚えさせていないようです。このままファノンがアジンたちに敗れれば、ファノンの未来は袋叩きによる失血死しか、ありません」

「フォーハードにとっても、ファノンをこのまま撲殺させるわけにはいかないはずだ。だが交戦データは、すでにフォーハードに届いている頃だろう……奴も動く」

 ゴドラハンは窓枠に腰かけたまま、横のロナリオに振り向いて続けた。

「俺たちも行くぞ。アジンと出くわした以上、確実に俺たちもフォーハードに狙われる。この森の中で、すべての決着をつけてやる」

 すでに空手着に着替えているゴドラハンは、窓から離れ、一階への階段へと背をひるがえすと、ロナリオも黙って追従した。

援軍

「あ、れ……?」

 ファノンは何度目か手のひらを掲げたとき、異常に気づいた。

 そこからは超弦による、現実離れしたエネルギーが発される代わりに、気の抜けた酒のように、覇気のない、見えない流体がファノンの手の外ではじけて、それっきり、壊れたカラクリのように、反応がなくなったのである。

 目の前には、片付かずに残る、大量のアジン集団。

 それが赤外線信号で仲間と歩調を合わせながら、目の前のファノンにいっせいに歩き出した。

 さきほどまで勇者のような心持ちだったファノンだったが、いきなり力に見放されて、にわかに獲物から逃げる小動物とおなじ気持ちに切り替わった。

「嘘だろ……こんなところで」

 無力になって戦地に立っていることに気づいたことで、ファノンの血流の中に冷たい恐怖が駆け抜けて、脳髄から指先に至るまで、脱力が襲ってきた。

「うそ……嘘だろ? 出ろ、出ろよ! 超弦の力!」

 ファノンは声を荒げて、自分の腹の底に眠る力をなじったが、力のほうは、わずかにも呼応することはなかった。

 ――恐怖と憎悪は、同時には感じられない。

 フォーハードが何かの引用でしゃべっていた言葉が、ファノンの脳裏によぎる。

 ファノンは不恰好にうしろにたたらを踏みながら後退するが、そこは森のこと、あたかも森の静けさを破った罰のように、すぐに背中をブナの木がふさいできた。

 そんなファノンにむけて、アジンが、仲間の体の一部分……おそらく脚だったものを握りしめ、振り下ろしてきた。

 落ちてくる脚を、ファノンは自分の腕で受け止めるが、やはり機械と人間の腕力の差、ファノンの腕は下へ押し飛ばされ、ファノンはもろに頭に、アジンの一撃をもらってしまった。

 景色と意識が激しく振動する。

 ファノンはたまらずぐらつき、膝をついた。

 そのファノンの横顔へ、別のアジンが腰だめにしたミドルキックを、頬に向けて放ってきた。

 ファノンは横顔にもろにアジンの足の裏をもらって、木の根でデコボコした土の上に、まるで雪の上をすべるソリのように、すべりこんだ。

「あ……お……ちょっ……やめ……」

 ファノンは無様に地面をなめずるような動きで這いながら、背中に控える大量のアジンへ向けて懇願するが、機械のほうは、哀れな人間の発する小声に、まったく聞く耳を持つ様子はなかった。

 アジンの一体がファノンの背中を、叩き折るほどの勢いで、踏みつけてきた。

「ぎぃあうッ!」

 悲鳴をあげるファノンの上で、アジンは逆手にした、とがった黒曜石のナイフを振りかぶる。

「やめろ……やめろよ……」

 ファノンは涙声で、力なく地面に腹ばいにされて、ただただ、聞く耳のあるはずのないアジンへ、か細い声で頼みつくしかできなかった。

 さきほどまでの調子づいた余裕は、超弦のエネルギー切れとともに、消え失せていた。

 勇気はどこへいったのか。どこへ置いてあるのか。

 そういったものは、身体のどこにもなかった。

 ――勇気じゃなかった。

 ――俺は、舞い上がってただけだったんだ。

 なんとちっぽけな存在か。

 なんと弱い人間か。

 ファノンはこれから、それを噛みしめたまま、死んでいくのである。

 そして、死刑執行をあずかるアジンが、ついにナイフを下ろす。

 だが、それがファノンのあばらの隙間を縫って心臓を串刺しにする直前、先ほどファノンがされたのよりも、はるかに強烈な飛び蹴りが、ナイフを持ったアジンに突っ込んできた。

 アジンはブナの木に頭をぶつけ、そのまま機能停止して、プログラムされた人生を終わらせた。

 蹴ったほうは、脚を開いて低く腰を落とし、つぎのターゲットをしぼっていた。

 ゴドラハンだった。

「ゴ、ゴドラハン……なぜ」

 ファノンは這いつくばったまま、ゴドラハンを見上げた。

「その力、過信しすぎだぜ……お前のエネルギー上限には二種類あるって、言っただろ。一つは体の中に一定して滞留する超弦の力。これは憎まずとも恨まずとも発動する代わりに、貯蓄エネルギーは少ない。もう一つは、憎しみを燃やしたときに出てくる超弦の力。こっちは無限らしい。いまお前が無くして慌ててたのは、前者のほうだ。そのどちらも、恐怖で使えなくなる代物だが」

 ゴドラハンは苔むす土に寝そべるファノンを横目に見たが、それ以上のことは、ゴドラハンにはできなかった。

 アジンが五体、訓練されたコマンドー兵士よろしく、おなじタイミングで襲ってきたのである。

 ゴドラハンが通常の人間だったなら、これで地面に組み伏せられ、なすすべもなく殺されているだろう。

 しかし500年にわたって空手の訓練を続けてきたゴドラハンは、そもそも常人ではなかった。

 寸分違わない動きで連携をおこなうアジンだが、ゴドラハンはそれらと平行に飛んだのである。

 これにより、アジンの左側とは距離がちぢみ、右側とは距離が広がった。

 攻撃できる時間にムラが生じたアジンの前列に、ゴドラハンは文字どおり殴りかかった。

 アジンはもともと家事全般を人間の代わりにおこなう家電製品。

 だからこそ、買い物先で暴漢に襲われたときのために、あらゆる武術の有段者と同等の動きができるようになっている。

 だがゴドラハンのものは、それら有段者とは比較にならない技量。

 そのためアジンはこれから、ゴドラハンの動きの洗練さを学ぶこともできず、沈んでいくことになる。

 手始めとして、ゴドラハンはアジンの腹部へ正拳突きを放った。

 アジンはとうぜん、腹にくるその一撃を防ぐために腕を差し向ける。

 だがゴドラハンの正拳突きはそのとたん軌道を変え、アジンの顎を掌底で叩き上げたのである。

 攻撃をもらって、無理やり夜空を見上げる姿にさせられたアジンは、がら空きの腹をゴドラハンの目の前にさらすことになった。

 そのアジンの無防備な腹へ、ゴドラハンは腰だめにもう一度、正拳突きを入れた。

 腰の入った一撃に、アジンはうしろに並んでいた仲間のアジンを巻き込みながら、地面に倒れていった。

「500年前には空手6段だったんだが、ずっと鍛錬は欠かさなかった。たぶんもう6段じゃあないのかもしれんが……実のところ俺が6段かどうなのか、本当のところはわからないんだ。試してくれよ」

 ゴドラハンは空手の残心をキレのいい動作で済ませながら、残りのアジンへ向けて、挑発の句をまじえた。

運命の戦い

「――ゴドラハンと、ファノンを見つけたぞ」

 フォーハードはアレキサンドライトの塔の最上階にワープしてくるや、テラスから地上を見下ろすエノハの背中に、開口一番そう告げた。

「……本当か?」

「すべてのアンドロイドどもに、通信機能があるのは知っているだろう? 奴らからの報告さ」

 フォーハードはテラスに立つエノハに並ぶと、長袖の下に隠れていた左手首の腕時計を見せびらかした。

 その時計のあるべき部分には時刻表示のための短針や長針はなく、代わりに交戦中のゴドラハンの映像が見てとれた。

「場所もわかるのだな?」

「とうぜんだ、すぐに行ってゴドラハンの息の根を止める」

「ファノンの保護が優先だ。それに、お前が現れればファノンにゴドラハンの話を裏打ちすることになる。お前は来るな。ファノンは無垢だ。ゴドラハンさえ殺せば、いくらでも嘘で言いくるめられる」

「バカにされたもんだな、あいつも」

「ファノンのことか? あの子は素直なだけだよ」

「それもそうだが、ゴドラハンもだよ。まだあいつを、レーザーだけで殺せると思ってるらしい。あいつは俺が相手じゃないと策を使わない。俺以外には普通のオッサンになるのさ。だからこそ、あいつの言葉は多くの人々に突き刺さる。ゴドラハンがたくさんの人間をたばねたのも、あいつのそういう性分の賜物だよ。あいつを敵にする場合、誰を何人、どれをどうやってけしかけられるかよりも、誰が味方につかないかを考えるべきだな」

「えらくゴドラハンを買っているな」

「俺の最後のライバルだからな」

「最後とは、吹いたものだ。ファノンがその向こうに立ちふさがるかもしれんぞ?」

「あいつとは相手にならんよ。俺のほうがな。あいつは宇宙すべての物質に、一度に作用することができるんだ。そんな奴にかなうわけがない」

「怖いんだな、ファノンのことが……ならば、来なければいい」

「行かない理由がないし、その条件を飲む義理もない。あいつを教育しなくちゃならんからな……ん? いや、待てよ……」

 喋りかけて、フォーハードは顎に指をそえて、言葉を続けた。

「やはり、俺は行かないことにしよう」

「どういう風の吹きまわしだ。悪い予感しかせん」

「用事を思い出したのさ。寄り道をしなくちゃならなくなったから、ファノンたちの所へ行くのはお前だけだ」

「来ないのか……? ゴドラハンはライバルだと、今も語っていたのに」

「ゴドラハンなんぞ、お前にくれてやる」

 フォーハードはエノハに言い返す暇を与えることもなく、手のひらをエノハにかざし、その内から黒く小さな銀河のような物質をともらせた。

小さきアルマゲドン

「お別れだな、ファノン」

 残り二機となったアジンのうち、一体を踏みつけ、その腕の関節を逆に極めているゴドラハンが、ケヤキの木に背を預けてかがむファノンに告げた。

「必要なことはすべて話したつもりだ。お前には決定する権利と力がある。どう使うかを、あの世から見ているぞ」

「あの世……?」

 息も絶え絶えに、ケヤキの木にへたりこむファノンが、戦闘を続けながら語るゴドラハンにたずねた。

「あの世とは、昔、人間が死ねば行く場所だと信じられた場所のことか?」

「お前らの宗教だと死後、どうなるかは理解している。同意はしないがね」

 ゴドラハンは言葉を注ぎながら、目下のアジンの頭に、踏みつけた脚を伸ばした。

 ゴキッと首から音を鳴らして、アジンは灯っていた紫水晶の瞳を曇らせて、機能停止した。

「少なくとも、俺の行く場所はそこなのさ」

「どういうことだよ……」

 ファノンに言えたのは、そこまでだった。

 森の闇を切り取りながら、ファノンの目の前を、琥珀のような光をほとばしらせながら、レーザーが走ったのである。

 それがゴドラハンに向かったのであるが、ゴドラハンはそのレーザーが来る前に、あらかじめしゃがんでいた。

 結果、それは列音をがならせて、最後の一体となっていたアジンの眉間を貫きはしたものの、ゴドラハンの頭上をかすめただけだった。

「へへっ、ずっと見えてたよ、お前のことは……エノハ」

 仰向けになりながら、ゴドラハンは闇の帳へ、友人へのあいさつのように、片手をあげた。

 そこからエノハが片手を差し向けながら、前に進みでてきた。

 右腕は肘頭から手の甲にさしかかる部分の肉がめくれ、その切れ目から一本の銀色の筒をひけらかしていた。

 レーザー砲塔である。

「エノハ様……!?」

「助けにきたぞ、ファノン」

 砲を掲げたまま、エノハは森からファノンたちの元へ歩み寄ってきた。

 だがその表情は、ファノンとの再会を喜ぶものではなかった。

「ゴドラハン……彼をたぶらかすな」

「久しぶりの再会なのに、まるで悪党扱いだな」

 ゴドラハンはゆっくり立ち上がり、エノハに構えをとった。

「人間のお前が、私にかなうと? 今度こそ、闇へ体を帰してやる」

「闇に帰す? 俺が死後に行くのは天国か地獄のどちらかで、闇じゃあない。勝手にお前の宗教に入信させるなよ。それに――お前の相手は、別の奴にたのむつもりだ」

「別だと」

 エノハが言葉尻をとらえた瞬間、エノハの横の茂みがバササっと動いた。

 そこから出現したのは、スーツ姿に身を固めた女――ロナリオだった。

「ロナリオか!」

 エノハはレーザー砲塔の露出した腕を、中空に踊るロナリオに向けて構えようとした。

 だがそれが完了する直前、ロナリオはぐるりと上体を回転させて、長い脚を振り回した。

 エノハの砲身にロナリオのかかとが接触すると、砲身から柱のように伸びでたレーザーが、何も焼くことなく、あたかも光の龍のような残影を残して、夜の空を駆け抜けていった。

 第一撃をやりすごされたエノハは続けざま、右手をロナリオの眼前に開いたが、ロナリオは振りかぶった拳を手刀に作り変えて、あざやかな軌跡をえがいて、エノハの砲塔の付け根を狙った。

 あきらかにエノハよりも、ロナリオの動作のほうが俊敏だった。

 エノハはロナリオの目論見のままに、腕にくっつくレーザー砲を切り落とされていた。

「くっ」

 エノハは無傷の左腕をロナリオの前にさらけだし、そこからも同じように砲塔を現した。

 だがそちらは次の瞬間、二の腕ごと、ロナリオが下から突き上げた手刀で、吹き飛んでいた。

 すべての武装を壊されたエノハはうしろに飛びすさって、ロナリオと距離をあけた。

「……貴様もまだ駆動していたのか、ロナリオ」

「フォーハードに奇襲をかけるために隠れていましたが……フォーハードは来ていないようです。なぜでしょうか」

「知らんよ、奴のことなぞ」

 痛覚が備わっていないのだろう、エノハはほとんど表情を変えることなく、眼前に立つロナリオに言葉をおよばせた。

「そうですか……今日こそ、あなたの世界を打ち砕きます」

「破壊はできるだろうな。お前は殺人兵器なのだから。フォーハードを殺すために、フォーハードの弱点だけを詰め込んだ殺人兵器……ホロコースター・ロナリオ型。

 だがお前にできるのは破壊だけだ。人間でもないお前に、人間世界は築けん」

 エノハの厳しい忠告に、ロナリオはうなずく代わりに、黒曜石のような瞳に、わずかに緑黄色をきらめかせた。

「ロナリオが……人間じゃ、ない……?」

 ファノンが木から背中を起こし、苦悶のこもる声でつぶやいた。

 アジンにやられた傷は、おそらく内臓か骨にまで達していて、とてもではないが、しばらく動けそうになかった。

「最終目標はフォーハードです。あなたは破壊命令に含まれてはいない。それでも私はゴドラハンのために、あなたを破壊することができます」

 ロナリオはファノンの疑問を横目に流し、エノハとの対話を続けた。

「ゴドラハンを守る、か。お前にそんなプログラムはされていないのにな。進化したものだ」

「私はプログラムを越えます。それは生き物の希望だと、ゴドラハンは言いました」

「お前は、生き物じゃあない」

「そうですね……だからこそ、あなた方がたやすく命を奪うことが不思議でならないのです……終わりです、エノハ」

 ロナリオは低く腰を落としたかと思うと、ヒョウのように離れたエノハへ飛びかかった。

 エノハはすでに片腕を落とされ、残る腕もうまく動かない。

 そんなエノハの首にむけて、ロナリオの手刀がきまる――その瞬間。

 エノハの姿が跡形もなく、その場から消滅したのである。

「……!」

 ロナリオは別段、眉をひそめるでもなく、エノハの消えたその場所を注視した。

 だがロナリオは何かのセンサーを使ったのだろう、にわかに、すばやくその視線を空に投げた。

 そこには、両手を広げたほどの青白みのまじった、巨大な影があった。

 ムーンストーンの巨石が、曇天の夜空を隠して浮いていたのである。

 ロナリオはとっさに横に飛ぶと、寸でのところで、身をかわし終えたのを待っていたかのようなギリギリのタイミングで、ムーンストーンが根の張り尽くした土に、心臓や肺を揺らすほどの重低音を鳴らしながら、土片をまき散らし、ななめに突き刺さっていった。

「お、お前は……」

 ゴドラハンが声を震わせた。

 土煙をあげるムーンストーンの上には、広い刀身の剣――抜き身の青龍刀を握った、フォーハードが脚を組んで座りこんでいた。

 フォーハードの居座る巨石の背後には、無数の紫色をした瞳が、ホタルの群生のように灯っていた。

「アジンまで……」

 傍観せざるを得ない状況のファノンが、腰を地面にへたらせたまま、絞るようにつぶやいた。

「エノハは退場させた。この場では邪魔だからな」

 フォーハードはあたかも裁判長が刑罰を読み上げるように高所から、眼下のゴドラハンに告げた。

二枚舌によって

「フォーハードめ!」

 一人、どこかの森の中にワープさせられたエノハは、怒りを声音に乗せて吐いた。

「奴め……私をワープさせて、何をたくらむ」

 フォーハードの手練手管は多岐にわたることを、エノハは知っている。

 そしてフォーハードはいつも、相手に意図がすべて見透かされていても、それを回避できない状況に追い込む方法に長けているのだ。

 ――つまり。

「奴はファノンを使い、本格的に宇宙の破滅を始める気だ……」

 エノハは立ち尽くしたまま、苦くつぶやいた。

 フォーハードは間違いなく、エノハの見えないところで、そのための準備を始めたのである。

 それをフォーハードに突き詰めても、おそらく涼しく嘘をつくだろう。

 ――俺はお前と契約したはずだ、お前が俺との約束さえ守れば、セントデルタは守る。

 と。

 今のエノハには手がない。

 エノハは実質、この500年間、フォーハードによってセントデルタを人質にとられていた。

 ――次にフォーハードがエノハに要求することは、わかっている。

 それを知りながら、エノハにはもはや、どうしようもなかった。

敗北

「きさま……フォーハード。それほどの数のアジンを、どこから連れてきた」

 ゴドラハンが、そびえるムーンストーンに腰掛けるフォーハードを睨みながら、たずねた。

「お前を倒すには、アジンの数があの程度じゃ心もとなかったからな。さっき、中国大陸から連れてきたのさ。ちょっと放射能汚染が強いが、すぐに捨てるから問題ないだろ」

「嘘をつけ、フォーハード。俺を始末するだけなら、お前だけで十分なはずだ……何を考えている」

 ゴドラハンが強い口調で詰問した。

「なあんにも……?」

 フォーハードがふてぶてしく、上顎をもたげてこたえる。

 と、そのフォーハードの背に、影が生まれた。

 ロナリオが手刀をかかげて、フォーハードのうしろから飛びかかったのである。

 フォーハードはそちらへ振り返りもしない。

 だが次の瞬間には、ロナリオの身の回りを、水ににじんだ黒い水滴のような、揺らいだ宵の色のエネルギーがとらえていた。

「……!」

「お前にレーザーなんて気の利いた武器はないからな。背中にさえ気をつけていれば、いくらでも対処できる」

 フォーハードがおのれの胸の前でちいさく拳を握りしめると同時に、ロナリオはそのまま音もなく、どこかへ消し飛ばされていった。

「ロナリオ!」

 ゴドラハンがさけぶ。

「フォーハード! ロナリオをどこへやった!」

「あいつはいま、ここの上空5000メートルをスカイダイビングだよ。落ちてくるのは、あと80秒ってところかな」

「なんてことを……」

 ファノンが声を震わせかげんに、つぶやく。

「いや、ファノン……ロナリオはそのぐらいじゃ壊れない。フォーハードにはロナリオは殺せないんだ。なぜなら」

「俺の死んだ恋人と顔も体型も、性格からしぐさまで、全てが同じだからだよ」

 言いにくいであろう自身の弱点を、フォーハードがこともなげに繋げた。

「ホロコースター・ロナリオ型。あいつは俺を倒すために作られた究極の兵器さ。そこまでわかって手が出せないんだから、お笑いだよ」

 フォーハードはまさに自虐するように含み笑いした。

「だがなゴドラハン。俺が手を出せないのはあいつだけだ。それ以外はすべて例外だってことは、いまさら説明するまでもないよな?」

 フォーハードは自分が立つムーンストーンの周りを、雑多に囲んでいるアジンの群れに目配せした。

 するとアジンは円形に広がり、ゴドラハンを囲った。

 これまで100体以上のアジンと戦い漬けだったゴドラハンは、すでに体力が限界だった。

 拳は割れて血が噴き出し、身体は疲労による乳酸に制せられて動きはにぶり、激しい動きをし続けたために、いつも英明な頭脳も、酸欠で回りが悪くなっていた。

 ゴドラハンはすでに、抵抗するだけの気力も策も尽きていたのである。

 そのゴドラハンが最後に持つもの――つまり、命をうばうべく、アジンが囲いをせばめ、ゴドラハンにせまった。

「こ、このやろう……!」

 ゴドラハンは腰を落として突きを放ったが、それは焼き尽くされて最後にはじけた木炭のように、たよりない勢いで、アジンのゴム製の装甲で止まった。

 アジンはそのゴドラハンの手首をつかみ、逆関節に極めて、無理やり地面に膝をつけさせた。

 空いた手で抵抗をこころみるゴドラハンだが、もう片方も同じようにアジンに掴まれる。

「くそ……フォーハード……!」

 跪く格好に強要されたまま、ゴドラハンはムーンストーンの巨石上のフォーハードをにらんだ。

「お前には、悔いるという気持ちはないのか。お前に殺された人間の魂に、少しなりとも悪いとは思わないのか」

「魂の話をしているのか? なら、その魂を俺の目の前に呼び出して説教させてみろ。死者が生者に関われるなら、この世に生者と死者に境はない、ということになる。決定も実行も、生きる者のみができることだ。それに俺は、生者の顔色をうかがうことも、死者の喜怒に気持ちをとがらせることも、愚かしいと考えるが? この体は俺のものだし、この人生は俺のものだ。なぜ他人の意見などに人生を左右されねばならん?」

「お前はそうやって、人の考えさえ否定していくんだ」

「人間には二種類しかいない――自分か、それ以外だよ。それ以外の人間の言葉の、どこらへんが重要なんだ?」

「お前は人類の……いや、生命の欠陥品だ」

「悲しいことを言うなよ。泣けてくるだろうが」

 フォーハードはわざとらしく腕で目をこする真似をしてみせた。

「だがその欠陥品な俺だが、いくら聖者になじられようとも、釈迦の倫理に当てられようとも、孔子の道理にねじ伏せられようとも、ソクラテスの論理で言い負けようとも、やることを変える気はない。言葉なんぞ、俺の前では……いや、力の前では無力だ。それは俺がいまさら説明せずとも、歴史が証明しているだろう?」

「言葉は無力ではない。言葉があるから、人と人はつながれる。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、人は言葉を――そこにこもった想いを、伝える方法も、体にとりこむ方法も築いている。お前はそれを放棄したんだ」

「放棄もしたくなるさ。かつて500年前にいた、何をしても勝てない99の人間と、何もせずとも勝つ1の人間を見ていればな」

「全ての人間を殺す理由にはならん」

「なら言い換えるよ。あの歪んだ時代を生きて、かつ、この力を持ってしまったからこそ、俺は放棄する力を得た、とね。逆に言えば、生命を生んだこの宇宙は俺をのさばらせるほど懐が広いってことだ。俺のような人間が生きていても、宇宙は今のところ、俺の頭上にピンポイントで隕石を降らせてきてはいない。

 ということはつまり、死刑宣告はまだきていないってことだ。だから俺は殺されるまで遠慮なく、宇宙の法則に挑戦するのさ」

「だからこそ、お前の言う宇宙の意思として、俺が500年間、お前と戦っているんだよ」

「お前はたまたま永遠の命を得ただけだ。それを宇宙の意思と結びつけるのなら、100億の人間が死んだのも、俺の意思ではなく宇宙の意思ということになるね――やれ、アジンども」

 フォーハードが、ゴドラハンの両腕をつかむアジンに命令をとばしたとたん、ベキっ、という骨の割れる音がフォーハードやファノンの耳に届いた。

 ゴドラハンの両腕が、折られたのである。

「グ……!」

 目をむくような激痛が五体を暴れているはずだが、ゴドラハンは歯を食いしばり、フォーハードを睨み続けていた。

「見上げた精神力だ――次は両脚だ」

「やめろ! もうやめろ……!」

 脂汗を垂らしながら耐えるゴドラハンの代わりに、ファノンが叫んだ。

「もう、いいだろ……」

 ファノンは涙声でたのみつく。

 これ以上、自分の知る人間が傷ついていくのを見るのは、耐えられなかった。

 なぜ、こんなにゴドラハンが苦しまなくてはならないのか。

 諸悪の根源はフォーハードだ、それは間違いない。

 だが、それを呼び寄せて、ゴドラハンがこんな人知れぬ森の中で拷問をされる原因の一つを作っているのは、ファノン自身だ。

 それを甘んじるしかない無力感。

「やれやれ……お前の心の中が手に取るようにわかる。今のお前には恐怖と悲しみしかないじゃないか。これじゃあ、こいつを拷問し続けても無駄だな」

 フォーハードはそこでやっと、ムーンストーンの巨石から、3メートル下の地面に降り立った。

 その足で、木に背を預けるファノンに歩み寄る。

「かといって、お前を拷問しても何にもならない。これは困ったぞ」

「……」

 ファノンは弱々しくフォーハードを見上げるだけだった。

「だから、これをするしかなくなった」

 フォーハードは左手を真横にのばすと、そこに黒いエネルギー塊を発生させた。

 ついに、フォーハードにトドメを刺される、とファノンは知覚した。

 その冷たい事実にも、もはや希望をうしなったファノンは、何かを感じることはなくなっていた。

 ――だが、すべての感覚を遮断したファノンに、それさえ忘れ去るを得なくなる事実が突きつけられた。

 フォーハードの左の手のひらには、べつの景色が映っていた。

 そこは森の中らしく、どこかはわからなかったが……その景色の中に、たしかにファノンの知る人々の姿があった。

「……!」

 ファノンは木の背もたれから身体を起こし、目をむいてそれに食い入った。

 そこには、クリル、メイ、モエクに、リッカや自警団員数十人……もしかしたら数百人が武器を構え、背中を預けあって、固まっていた。

 それらを大量のアジンが取り囲んで、隙を見つけ次第、殺そうと睨み構えていた。

「フォ……フォーハード!」

「やっぱり赤の他人じゃあ感情の刺激は足りないからな。あいつらに役に立ってもらうよ」

「なぜ……なぜ、そんなことをする! あの人たちは関係ない!」

「お前が愛するというだけて、じゅうぶん関係あるじゃないか。殺されるのがイヤなら、しっかり力を発揮してくれよ」

「やめろ、フォーハード――やめろーーー!」

 フォーハードは悲鳴をあげるファノンを横目につまみ、開いた右手で、指をパチンと鳴らした。

死にゆく者たち

「なんてこと……!」

 ダイヤモンドの槍を握るクリルの両手が、生ぬるい汗でにじんだ。

 目の前には、200人いる自警団の4倍以上の数のアジンが、こちらを見ながらぶきみに棒立ちしている。

 クリルは今、この結果になったことを、後悔していた。

 リッカに無理を言って自警団の行軍にまぜてもらい、ファノン捜索を始めてから6時間。

 何もない闇から気配が生まれたかと思うと、次にはこうやって、アジンたちに取り囲まれていたのである。

 自分だけが袋叩きにされるならいい。

 志願してファノンの捜索班に進みでた自警団員たちも、その長リッカも、あるていど、こうなることを覚悟していただろうから、まだいい。

 だがメイとモエクは何になるのか。

 たしかにメイもモエクも行きたいとは言っていたが、その進路を開いてしまったのはクリルだ。

 その責を果たすには、誰も傷つけずにアジンの軍団を片付けるしかないが……とてもではないが可能な話ではない。

 このままでは誰かが、いや、もしかしたら、全員が死ぬ。

「ねえメイ」

「なんですか、クリルさん」

 答えるメイの顔は青ざめていた。

「あなたとモエクは逃げなさい。あたしと自警団でなんとか突破口を作ってみるから」

 クリルが低く息を吐く合間に、メイに告げると、その横にいるリッカがわずかに笑った。

「そんなのって、ないです……私は好きでここに来たんですよ。私だって、こうなることは予想してました」

 メイが血の気の失せた顔色のままながらも、それに反発するように、樫の木の剣を構えた。

 ほんらい木剣は、セントデルタ人が剣の練習をするのに使う武器だが、宝石の剣よりはるかに軽いため、こうして戦いの心得のない人間が持つ場合があるのだ。

「いや、メイ。僕たちは足手まといになる。少しでもここから離れて、仲間を呼びにいく必要がある」

 モエクがクリルに意見をかぶせる。

 それは決して、命惜しさに言っていることではない……と、モエクのことをあまり知らないメイは、そう考えたかった。

 いずれにしても、メイたちがこれ以上、お互いをよく理解するほどに議論を紛糾させることは、できなかった。

「メイ! モエク! 来るよ!」

 リッカが大声で叫んだのと、同時だった。

 アジンたちが、あたかも鉄の波のように、なだれを打ってクリルたちに襲いかかってきた。

「う、ウワっ」

 自警団員の男があわてた声をあげ、わずかに下がった。

 それを見逃すアジンたちではなかった。

 アジンたちはその円陣形のゆがんだ部分に、さらに歩調の強い進撃をおこなってきたのである。

 アジンのうちの3体が、捨て身の突撃をする。

 そのうちの2体を、自警団員の男2人が槍の切っ先を叩きつけ、いったん下がらせたが……残りの1体がすりぬけて、逃げ腰に堕ちた自警団員に片腕を振り下ろした。

 男はされるがままに、その一撃を肩にもらって、鎖骨を妙な形にひしゃげさせながら、片膝をついた。

 形勢はこれで決まった、といってよかった。

 集中攻撃のポイントが決まったアジンの行動は、早かった。

 残りのアジンも、そこを皮切りに突っ込んできた。

「やつら、陣形を崩しにかかるぞ! 立て直せ!」

 リッカが檄を飛ばすが、それで何とかなる状況は、とうに終えていた。

 自警団員が、ほころんだ陣形を整えようとするが、それ以上の勢いと暴力で、アジンが攻め込んできた。

 整った陣形からは正面のアジンにさえ気をつけていればいいが、いまの陣形は上空から見れば、まさに一切れ食べて欠けたピザ。欠けた陣形の角にいる自警団員にとっては、アジンは正面からだけでなく、サイドからも攻撃できるのである。

 局所的に1対2の様相になれば、人間側が不利なのは当たり前だった。

 そして平和主義、戦争慣れしていないセントデルタの人々にとって、その状況で戦線維持など、できるはずがなかった。

「う、ウワアアアっッ!」

 自警団の男の誰かが、陣形を捨ててアジンに背を向けた。

 無防備になったその自警団の男の背中を、アジンが蹴飛ばす。

 まだ陣形を保っていた自警団員のところまで、男はたたらを踏んで戦いの邪魔に入る。

「こ、この……!」

 小脇にタックルしてくる格好となった男に舌打ちをしかけた自警団員は、次の瞬間、鼻の頭にナイフを突き刺され、ゆらりとうしろに2、3歩さがったのち、くずおれた。

「……!」

 クリルは絶句したが、もう、どうにもできなかった。

 それからは、そこは死出の混戦へと突入していくのみだった。

激昂

「やめろ!」

 ファノンが身体のきしむ音にもかまわず、叫びながら立ち上がった。

「お? ファノン、超弦の力が取りもどされているのが感じられるぞ。やはり2日やそこらしか顔を合わせなかった500歳のオッサンがいたぶられる様を見るより、付き合いの長い人間が苦しむほうが、頭に血が上りやすい」

 フォーハードはまるで子供の成長を見守るような表情を示しながらファノンをながめた。

「フォーハード! 今すぐアジンを引かせろ!」

 いつもハスキー気味な声のファノンが、自分でも驚くほど声を低く震わせて、フォーハードを恫喝した。

 だが、100億の人間からこういう声を浴びせられ続けてきたフォーハードにとって、そういう口調で話されるのは日常茶飯事だったから、さして驚きも怖がりもしなかった。

「やだね」

 フォーハードはファノンの重い要求を、まるで何かの宗教勧誘を断るかのように、にべもなく、軽くすりぬけた。

 そのとたん、空気に変化が起こった。

 ファノンの髪の毛はわずかに逆立ち、その右手に、景色の揺らぎが生じていた。

 ファノンはその右手を薙ぐように横に振ると、フォーハードの左手の上でただよう、クリルたちの危機がうつる映像の中のアジンたちが、みるみる消えていった――

突破口

「これは……まさか」

 土や木に円形のくぼみを作りながら、手や足首を残して消滅していくアジンたちを前に、ダイヤモンドの槍を構えるクリルは絶句していた。

「クリルさん……これってやっぱり」

 人間の円陣の中にかくまわれていたメイが、クリルの絶望の句を受けた。

 数百というアジンの囲いは、まばたきを踏まえるごとに減っていき、ついには人間の数よりも少なくなった。

 それまで混乱に狂っていた自警団員たちも、さすがにそのチャンスに乗じ、さらに前線に立つリッカの強い発破の言葉を叩きつけられて、反撃を始めていた。

「な、なんだか知らないが、助かりそうだ」

 モエクが戦闘の終わらない中で、安堵の顔色を見せた。

「モエク、まだ戦いは終わりじゃない。アジンは隠れるのもうまいんだから、気は抜くな……」

 メイはモエクの及び腰を諭しながら、クリルを見た。

 クリルの表情にはどこにも、アジンからの撲殺死を避けられた喜びはなかった。

「クリルさん……?」

「ダメ……ダメだよファノン。その力は、あなたを不幸にする。使っちゃダメ」

 クリルはうわごとのように、天を仰いでつぶやいた。

 そのクリルの背に、左半身のなくなったアジンが、ふらつきながらも襲ってきた。

「クリルさん!」

 メイは叫んだが、クリルには聞こえていなかった。

 メイはクリルから遠く、自警団員も、リッカも、呆然としたクリルのカバーに向かえる人物は、一人もいなかった。

「クリルさん! 逃げて!」

 メイはもう一度、クリルの名前を呼ぶが、やはり反応はない。

 アジンは右手に持った、バスケットボール並みのダイヤモンドの石塊を握り、クリルの後頭部に振り下ろした。

 クリルに、よける気配はない。

 だが、そのダイヤモンド塊が、無防備のクリルの頭蓋骨を叩き割る寸前、横から飛んできた石つぶてが、アジンのこめかみにめりこんだ。

「ゴギっ」

 視界がズレたことで、アジンの振るう大石もクリルの頭頂部と肩をかすめて落ちていった。

 ――その妨害を果たした石を投げた人物をメイがたどると……そこには、モエクがいた。

「モエク、お前」

「僕は弱い。それでも、弱者には弱者なりの戦い方があるのさ」

 モエクが得意げに語ったときだった。

 そのモエクの脇を、あたかも涼しい風のように、人影がすり抜けていった。

 その人影は、モエクの一撃でよろめいているアジンに駆け、飛び上がると、全体重をかけた飛び蹴りを喰らわせた。

 露出した動力炉に衝撃を与えられたアジンは、すでに機能が死んでいるのだろう、布人形のように関節をしならせて、力なく吹っ飛んでいった。

 一方、蹴飛ばしたほうも、不恰好に尻餅をついて、顔をしかめていた。

 リッカだった。

「アテテ……クリル、いかんじゃん。なんで動かんのよ」

 リッカが槍を杖代わりに起き上がりながら、クリルをなじった。

「あ……リッカ」

「あ……リッカ、じゃないよ。どうしたんよ――やっぱりこれは、ファノンが?」

「……」

「やっぱり、あの子は」

 危険だ、とリッカは心の中でとなえた。

 一瞬で、200の自警団員を取り囲む、1000のアジンを消滅(ヘリウム化させたのだが、さすがにここにいる誰もが、それはわからない)させたファノン。

 そんな危険人物を、命をかけて助けにいく必要があるのだろうか……。

 リッカの疑念は、ついにこのとき、具体性を描きだした。

 だがいまのリッカは、その疑念を行動であらわせる状況ではなかった。

「陣形をととのえて! クリルがどこか殴られたみたい、守ってあげて」

TNT

「すごいな、ファノン」

 フォーハードは驚くどころか、旧知の友人に語りかけるような喜びを顔に浮かべ、たなごころを握りつぶし、映っていたクリルたちの姿を消した。

「すでに俺の何十倍もの力を発している。だがそれでも、俺には効かないぜ」

「るゥおおおおお!」

 獣の咆哮に近い声で吠えながら、ファノンは身体の痛みも忘れ、フォーハードに駆けた。

「いや……そのままの力じゃあ、何千倍になろうと何億倍になろうと、俺には通じない。なぜなら」

 フォーハードは言いながら、せまりくるファノンの右手の、不可視のエネルギー体と重ねあわせるように、みずからの左手をかざした。

 先ほどまでのものと、比較にならない放電現象が、両者からほとばしる。

「俺とお前では、力を使役するキャリアが違う。俺はベテランなんだよ」

「ク、くそ……なぜだ。なぜ効かない!」

 バチバチとはじける電流にはさまれ、目前のフォーハードを憎々しくにらみながら、ファノンがわめいた。

「おいおいファノン。答えならすぐ上に出てるじゃないか。上を見ろ、上を」

「上……?」

 ファノンはフォーハードがおかしな真似をするのを警戒して、ほんのわずかにだけ、広葉樹の森に囲われた天に視線を投げた。

 先ほどまで星や月の望めなかった曇天には、超巨大な円形の雲間が生じ、いつも見慣れた天の川が、ぞんぶんに映えていた。

 その半径数100キロの雲間は、ファノンがエネルギーを注力するほど、ぐんぐんと広がっていた。

「こ、これは俺が……」

 二度見してから、ファノンはフォーハードになおった。

「そうさ。だが、あんなものじゃ、俺の目的にかなわない。これからが最後の仕上げだ――」

 フォーハードは空いている片手で、ファノンの胸倉をつかんで、自分に引き寄せた。

「超弦に目覚めた今のお前なら、俺の言葉の意味もわかるはずだ――粒子と反粒子が出会うとき、世界は強くひらめき、そして、すべては跡形もなく消え去る」

「そ、それは……!」

 ファノンが喉を鳴らしかげんにうなったとたん――

 フォーハードの力とぶつかりあうエネルギーが、傍目にもあきらかに変わっていった。

 同時に、頭上の雲間が、ぴたりと広がるのをやめた。

 ファノンが自分の腕に目をもどすと、先ほどまで片手でファノンの力をいなしていたフォーハードが、両手をだしてファノンの力を包んでいた。

「何をやってるか、わかるか? お前の力があまりにも強力だから、俺の力でできる最大のワープをやってるのさ。何千光年か、何億光年かはわからないが、遠い宇宙で、お前の力が爆発しているはずだ」

 フォーハードがいま対処しているのは、粒子と反粒子の衝突。

 この世のすべての物質には、まったく構造の反対になっている物質がある。

 たとえばマイナス磁極をもつ電子には、プラス磁極を持ち構造も真裏である陽電子。

 ビッグバンから少しして、それらほとんどの反粒子は通常粒子とぶつかり爆発四散したが、なぜか通常粒子だけが余ったから、いまのこの世は消滅もせずに生きのこっていられる……という説が有力だ。

 だがもしも、いまこの世にあるすべての物質のうち隣にある素粒子の半分が、反粒子に変じた場合、この宇宙はふたたび大爆発を迎える。

 そして驚くことに、粒子と反粒子が出会って大爆発したのち、そのふたつの粒子は、消滅するというのだ。

 ――フォーハードの宇宙の末路を見る、とは、こういう意味だった。

「お、お前……!」

「これで前段階は、すべて完了だ」

 フォーハードは汗ばんだ顔を、わずかに笑わせたかと思うと、次には、ファノンのみぞおちに、膝蹴りを食らわせていた。

「っ!」

 ファノンは内臓への強烈な振動に、たまらず膝をついた。

 介錯待ちのサムライよろしく、首の延髄をフォーハードにさらす格好になっているファノンへ向けて、フォーハードは上げたままの足を、みずからの頭より高く持ち上げ、ファノンの無防備なうなじへ、かかとを叩きつけた。

 ファノンは白眼をむいて、土の上にうつぶせになった。

「ファノン!」

 アジンに戒められ、立ち上がることのできないゴドラハンが、悲痛にファノンの名前を叫んだ。

「ファノンが次に目覚めたとき、やつは今の数京倍のエネルギーを持っているだろう」

 フォーハードは身をひるがえし、ゴドラハンの周囲を取り囲むアジンを見渡した。

「アジンども、ゴドラハンはもう用済みだ、殺していいぞ。あとは目覚めたファノンに少しずつ、俺のために動いてもらう」

「いいえ、それはさせません」

 否定の句は、フォーハードの頭上から降りてきた。

 その声の主は、上空から飛空してきて、どすんと地面にめりこむように、着地した。

 ロナリオだった。

「ロナリオ……空中遊泳はスリリングだっただろう。お前が何もできない間に、ゴドラハンもファノンも、みな死にかけだ」

「ならば……私が、あなたを倒します」

「無理だよそれは。そのためにアジンを配置してるんだからな」

 フォーハードがそう言葉をはじくと、合図を受けたかのように、アジン5体がフォーハードの前に陣取って、ロナリオに向かい合った。

「ムダです」

 ロナリオは背筋を低め、アジンに襲いかかった。

 アジンたちはほとんど抵抗らしいこともできず、腹のなかの部品を瓦礫に変えて吹き飛ばされていく。

 アジンは水素電池の発するエネルギーで細々と活動するが、ロナリオのほうは無限に近い核融合をエネルギーの祖とする。

 そこから生じる馬力の差は、歴然のものだった。

「お覚悟を、フォーハード。あなたは私を殺せませんが、私はあなたを殺せます」

「今のアジンの配置は時間稼ぎだよ。おかげで俺の次元のエネルギーは充填された。つぎはブラジルあたりに飛んでもらっていいか?」

 フォーハードはロナリオに向けて手をかざすが、ロナリオのほうは、臆することなくフォーハードへ走っていった。

 フォーハードの広げる時空の入り口にそのまま、ロナリオは飛びこんでいく――ふりをして、足元に寝そべるファノンを素早く抱きかかえ、満身創痍にへたりこむゴドラハンの横に飛んだ。

 その進路には、ゴドラハンの両腕をへし折ったアジンが一体いるが、ロナリオが細腕を横に振るうと、羽虫のように軽々と吹っ飛んでいった。

「へへ……ここでいいんだよな、ロナリオ」

 ゴドラハンが、意味深に血のにじむ唇をほころばせた。

「ゴドラハン……いい場所取りです」

 ロナリオも微笑み返したかと思うと、ゆっくりとした手つきで、両腕の折れたゴドラハンの空手着の上前に指を添わせた。

 ロナリオはそこから長細い、上部に赤いスイッチの座る筒を取り出すと、フォーハードに差し向かい、それを前にかざした。

「おいおい……なにすんの」

 フォーハードの表情が引きつった。

「フォーハード……人間ひとりが宇宙のなりゆきをほしいままにするなど、傲慢の極みです。あなたの思想は、かなえさせはしません。この宇宙の一員として、この宇宙に住む宇宙の意思の一つとして!」

 ロナリオは、ファノンの頭を抱きすくめたまま、捨て台詞ばりに吐くと、握ったスイッチを、親指でへこませた。

 ――そのとたん、ロナリオの、ゴドラハンの、ファノンの、そしてフォーハードやアジンたちの周りの地面が……いや、見える地面のすべてが、とつじょ噴き上がる火薬の炎とともに爆砕した。

離脱

 猛る炎の柱が、土に破れ目を走らせて、同じ地面にいるアジンたちを次々に焼き払っていく。

 ここらで見える景色の、ほとんどが同じように、一瞬にして火にくるまれたのである。

 それを上空から、フォーハードと、その手にぶらさがる形で、エノハが見下ろしていた。

「してやられた。さすがゴドラハンだ」

「用意周到なことだ。また、お前は裏をかかれたのだな」

 先ほどまでフォーハードに置いてけぼりを食らっていたエノハが、皮肉まじりにつぶやいた。

「助けにきてやったんだ。そこは感謝の言葉だろう?」

 フォーハードは落下を続けながら、地面を観察した。

 地下は坑道だったのか空洞だったのかはフォーハードにはわからないが、爆発とともに岩盤は森ごと沈下し、どこがどこだったか、見分けがつかなくなっていた。

「周囲2キロ四方ってところか。ゴドラハンのやつ、TNT爆薬を何千キログラムも埋めていたようだ。加えて地下を掘って穴だらけにしていたから、盛大に崩れたんだな」

 フォーハードがそこまで述べたところで、景色がにわかに、そのゴドラハンが掘ったとおぼしき、坑道の中になった。

 フォーハードが、そこへワープしたのである。

「ゴドラハンの奴……まさかこれで俺たちを片付けられる、と考えているとは思えん」

 エノハを下ろし、フォーハードがひとりごちながら、ファノンによって曇天の中に穿たれた夜空の星々を見上げた。

「奴は生きている。あまり観察する時間はなかったが、奴の周辺だけ爆薬が少なかったふうに思う。どこに、どの程度の爆薬が仕掛けてあるかは、すべて奴の頭の中だけ、というわけだ。せっかく中国から持ってきたアジンを、ぜんぶ壊してくれたよ」

「……ならば追わぬほうがいい。この坑道もゴドラハンの罠だらけ、ということだ」

 エノハが不機嫌に助言した。

「そうだな。いくら超能力があろうと、俺は不死身じゃあない。ここらで逃げるとしよう……それに、やりたかった段取りはつけたしな」

「やはり、ファノンを目覚めさせたか。フォーハード……私があの場にいない間に、仕込みをしたことはわかっている。ハッキリ言えばどうだ。もはや、セントデルタを守る気がない、と」

「いいや? お前が約束さえ守れば、俺はこれからもセントデルタの守護神になる気だぜ」

 フォーハードは真顔で、ウソをついた。

惜別

 瓦礫に埋もれた坑道の中、額からぼたぼたと垂れる血をそのままに、ゴドラハンは卑下した笑みを口元にまとわせて、壁にへたりこんでいた。

 そのゴドラハンに近づく、人影。

「……よう」

 ゴドラハンの挨拶するところに立っていたのは、ロナリオだった。

「ファノンは安全なところに置いてきたか?」

「はい、彼は街道に連れて行きました。まだ意識は戻らないようですが……いずれ自警団員かエノハか、どちらかが見つけるでしょう」

 ロナリオは無表情のままゴドラハンに近づくと、膝をついて、ゴドラハンの煤けた頬を指でぬぐった。

「フォーハードとエノハの気配、消えました。少なくとも逃亡は成功しつつあります」

「やれることは、だいたいやれたな。だがフォーハードと戦うのに、また準備しなくてはならなくなった。爆弾を同時に爆破するのは、けっこう難しいと知ったよ。あいつと戦う鉄則は、姿を見せないこと。顔を出せば、宇宙空間に片道ワープ旅行をさせられるんだからな。卑怯と不真面目さこそが、あいつと戦う武器だよ」

「これから、どうなさいますか」

「このアジトは放棄する。何年かはエノハの警戒も強くなりそうだが、その緊張を永遠に続けることはできん。その日を期して、また潜伏生活をするよ」

「また……負けてしまいましたね」

「生きてナンボさ。フォーハードとエノハも無傷だが、俺も君も生きている」

「また、あなたが辛い思いをします。あなたはこれから、日の光からも逃れるように夜を走ってアジトを探さなくてはなりません。フォーハードはおそらく、アジンやツチグモを野に放ち、あなたを捜索するでしょう。彼らから隠れながら、役に立つかもわからない罠を何年にもわたって作らなくてはなりません。その罠を毎日毎日検査しなくてはなりません。

 何よりもあなたはまた、セントデルタを監視するために望遠鏡を羨ましそうに見つめなくてはなりません。

 本当は一人は嫌なんでしょう? セントデルタのような、あなたの意に反した理想の世界であっても、そこにいる人々と話し、たくさんの苦労に泣いて、それと同じぐらい、言葉にしがたい幸せに笑って、寿命を身に浴びて死んでいきたいんでしょう?」

「……おおむね正解だけど、一つだけ訂正したい箇所がある。お前からしたら俺は孤独な仙人に見えるのかもしれないが、俺は一人ではないってことだ」

「私と一緒にいて、楽しいのですか? 私は機械です。面白い話をできません。助言はできますが、それはあなたが何かを計画した時だけです。私は事実を語るしかできない機械にすぎません。あなたの話にうなずくことしか、できません。あなたが生きたいともらせばハイと答え、あなたが死にたいと告げてもハイというしかできないのです」

「無理に人間のフリをしなくてもいい。お前はそれでも、俺と一緒に笑ってくれた。悲しんでもくれた。それだけで充分だ……そんなお前に頼みたいことがある」

 そこで一度、ゴドラハンは唾を飲みこんだ。

「ファノンを、助けてやってほしい」

「私が……ですか」

「ファノンには力があるし、優しさもある。エノハの親切に甘えたために無知の極みだが、本当は賢いんだろう。だが人間がそなえる、そういう美点や特技を、フォーハードは逆用する術を知っている。あいつをフォーハードの指図で破壊神にされちゃあいけない。となると、今の俺にできるのは、お前を送ってファノンの知恵袋になってもらうことぐらいだ」

「ファノン本人はフォーハードのことはともかく、セントデルタ村やエノハに反意は抱いてないようです。フォーハードを倒すことでエノハの世界が揺らぐなら、ためらうはずです」

「そこでお前の出番だよ。ファノンの好きなエノハを倒せ、と言ってるわけじゃない。フォーハードさえ倒せばいいんだ。フォーハードの強権のなくなったエノハには、かならず変化が起こる。

 永遠に生きる力をもつ、ただ一人の人間が監査もなく審査もないまま、強い権力を預けられれば、いずれ傾きが生じる。

 と言っても、エノハが変心して悪政に走るって意味じゃあない。奴はほんらい、民衆の声を聞くことにやぶさかではない性格だ。

 そこにこそ、乱れが生じるんだ。

 民衆は同じものを喜ばない。俗な言い方をすると、飽きるんだ。こうやったら、よりよくセントデルタは変わる、セントデルタが便利になる。その言葉を、エノハは聞く耳を持っている。フォーハードがこの500年間、それを邪魔してきたから変わらなかっただけだ。げんに、エノハはかつて病気で早死にすることは自然の摂理だと言っていたのに、結局は白血病だったファノンに手を差し伸べた。それからずっと、病気になればエノハを頼れと宣言せざるを得なくなった。ファノンを助けておきながら、他の病人を見捨てるのか、という声を、エノハが無視できるはずがないからな。

 こういうことは、フォーハードがいなくなると、加速する。そしてやがてはエノハが看過しがたいほどの変化を人々がのぞむ、ということも生じる。セントデルタの法に異議が集まった時、エノハがどんな態度に出るか。

 その時こそ俺たちの出番だが、今はそれよりフォーハードだ。あいつが存在する限り、俺たちが未来のことをいくら夢見がちに語っても、白昼夢にしかならない。

 そこで、お前だよロナリオ。

 お前ならセントデルタに潜伏できる。お前の表皮は人間と同じ細胞だが、自在にその顔を変えることができるからな。惜しむらくは、エノハのふりをしてフォーハードに近づき、奴を殺す作戦はすでに失敗していることだが」

「あの時、私もあなたも死にかけました。私たちには500年前の記憶ですが、時空を飛び越えてきたフォーハードにとっては最近のできごと。今も警戒はしているでしょうから、同じことは控え、フォーハードとの接触は避けましょう」

「問題は、誰のフリをしてセントデルタに潜入するか、だ。あそこの人口は1万人だが、他人がほとんど近所付き合いだ。密接なつながりが強く、顔なじみが多いってことだから、見知らぬ人間がいれば、すぐに噂になり、エノハなりフォーハードの知るところとなる」

「それについては心配ありません」

 ロナリオは請け合うように、淡々と頷いた。

「すぐそばに、死をまぬがれない人物が。私のセンサーが、体温が下がり続ける人間をとらえています」

アーメン

 ――血が止まらない。

 少しずつ腹からの激痛は麻痺し、かわりにいつもと違う『眠気』が身体にのしかかる。

 肝臓を、アジンのパンチに貫かれた。

 女はもう、指すら動かせずに仰向けに倒れるのみだった。

 来年には20歳を迎え、アポトーシスによる闇への帰命が待っていたから、前までやっていた裁縫師の引き継ぎは、すでに終えていた。

 ツチグモの騒ぎをきっかけとして常駐自警団に転向。

 セントデルタ、いや、エノハのために一助になればと思って、今回のファノン捜索隊にも参加したが、この始末。

 仲間とはぐれ、アジンに囲まれ、袋叩きの憂き目を見た。

 死ぬ覚悟は、したつもりだった。

 だが、こんなになっても、まだ生きたいという執念は尽きない。

 ――なんで、こんなことに……。

「やだ……死に……たくない……」

 看取る相手もないまま遺言をつぶやいた時、だった。

 女の途切れがちな意識でもわかるほど近くに、気配が生まれていた。

 ボブヘアの、白い肌の女が、無表情に立ち尽くしていた。

 女の記憶の中には、ない顔だった。

 浅いながらも自警団員として、たいがいのセントデルタ人とは知り合いになった気でいたのに、だ。

 セントデルタ人はほんのりと浅黒い肌の人種。

 これほど白米ほどの白さを持つ女は、エノハ以外に見たことがない。

 すれ違ったら忘れるはずがない特徴のはずなのに、記憶にないとは、どういうことだろう。

 だがその疑念を、悪いほうにとらえないのは、セントデルタ人の美点だった。

「あ、あなたは……だれ……」

「私はロナリオと言います」

 ロナリオは左胸に手を当てて、慇懃に自己紹介した。

「あなたの名前は?」

「ニニナ……」

「そう……ニニナさん……」

 ロナリオは血まみれで寝そべるニニナの傍に、膝をついた。

「申し訳ありません」

「なにを、謝るの……」

「私には、あなたを助ける力がないからです」

「そんなこと……あなたが気にやむことじゃ……」

 先ほどまで誰かに気にやまれたかった内心をおさえ、ニニナは苦笑した。

「せめて、あなたのために祈らせてください」

「い、の、る……?」

 ニニナにはその意味はわからなかった。

 セントデルタの宗教は闇を奉じるもの。

 祈ろうが祈るまいが、死ねば五体は闇に溶け、先に消えたものと素粒子レベルで混ざりあい、やがてはその一部分は花になり虫になり、あるいは数億年サイクルで石になる。

 ――祈り? 聞いたこともない言葉。

 だがニニナは、その行為を悪いとも不快だとも感じなかった。

「祈りとは、なに? それをするとどうなるの」

「……あなたが天国に行って、そこで幸せになれるよう、祈っているのです」

「天国……どこ……? それは」

「私にもわかりませんが、光ある世界とのことで、死んだあとにだけ行ける世界だと。私の好きな人や、その人の周囲の人が信じていました。罪深い私がそこに行けるかもわかりませんが、私もそれを信じたい」

「見たことのないものを信じる、ね。愚かな話ね」

「私が天国に行けるのか、わからないのです。でもきっと、私にも魂があるとゴド……ある人が言ってくれました」

「……その、ある人のことが、好きなんだね」

「……好き……はい。あなたにも、そのような人が……ニニナ?」

 ロナリオはニニナの顔を見つめて、知覚した。

 ニニナが、こときれていることに。

 それをセンサーからの情報で分析したあとでなお、ロナリオは眠るニニナに続けた。

「あなたがどんな考え方で、誰と暮らし、何を愛したか。セントデルタに潜入するためにも、そのプロフィールを聞かせて頂く必要がありましたが、何もわかりませんでした……ですが」

 ロナリオは両膝を土につけて、手を合わせた。

「あなたの旅に祝福を」

超弦のしがらみ

 目を閉じるファノンの鼻腔に、懐かしい匂いが伝わった。

 ローズゼラニウムを香料とした、石鹸の匂い。

 アクアマリン通りの路面店にある石鹸屋のものだ。

 たしかメイがここの物を使っていたし、クリルもそうだった。

 ――クリルは青いものが好きだから、石鹸もこの青い奴を使ってるんだよな。そういや補聴器も水色のアクアマリンだ。

 ――あ、ゴンゲン親方もあの石鹸、使ってたな……あと一人、この匂いをさせている人がいた、誰だったか。

 ――ああ、エノハ様だ……。

 ファノンがゆっくり瞳をひらくと、自分の右頬に、エノハの髪がやさしく、そよいでいたのが見えた。

 柳のようにやわらかいエノハの金髪は、ファノンが曇天にこじ開けた夜空の星々によって、ゴールドの輝きを与えられて、ほんのりと煌いていた。

 ファノンは、片腕のエノハにおぶられた状態で、ダイヤモンド街道の上にいた。

「エノハ様……」

「起きたか。ケガは大丈夫か?」

「大丈夫だ、ありがとう……でも、もう歩けるから下ろしてくれよ」

「私が背負いたいのだ……昔のように。それでは、いかんか?」

「……昔のように、か。あんたの中じゃ、俺はまだ5歳児なのか」

「昔の印象というのは、どうも取り除きにくいものだな。我ながら笑ってしまうよ」

「……」

 仮にも女の人に、男が抱っこされるなんて、誰かに見られたら笑われるだろ、とファノンは言い返そうかと思ったが、感傷的に語るエノハに、それは少し言い過ぎな気がしたので、やめておいた。

 しばらくそのまま、黙ってセントデルタへ続く街道を進んでいると。

「……ゴドラハンのこと、どう思った?」

 エノハが沈黙を断ち割って、まっすぐ帰り道を向いたまま、背中のファノンへたずねてきた。

 この話を切り出したら、エノハとフォーハードの癒着の話に及ばないわけがないので、ファノンはてっきり触れてこないものだと油断しきっていた。

 だが、以前なら油断のままにしどろもどろになっていたファノンだったが、今は違った。

「思想の話とか、俺にはわからない。でも、いい奴だったと思うよ」

 ファノンは率直に告げた。

「私も、そう思う」

 エノハはほんのりと神妙な顔をしたが、ファノンに同調してきた。

 エノハの良いところは、自分にとって不快な話であっても、まっすぐ受け止める器のあることだ。

 だからこそ、セントデルタの頂点に立てているのだろう。

「……なら、なんで争うんだよ。考え方が違うから殺すなんて、エノハ様がいつも言ってる旧代の人間と同じじゃないか」

「言うようになったな、ファノン」

 エノハが笑った。

「意見の違う人間同士は、話し合ってもムダなのか。ゴドラハンは言ってたぞ。闇宗教のことは理解している、同意はしないが、と。それに、あいつはこうも言っていた。許すことも……つまり許容することも大事だと。人と人の付き合いって、それが重要なんじゃないのか」

「ファノン……少人数同士なら、それもできよう。だが、10億、100億の人間の集まりに、それは難しいのだ。数が多すぎるからだ。当時から、まともな人々はすでに、殺してねじ伏せるよりも、関わりと議論のほうが重要だと気づいていた。にもかかわらず、できなかった。多数の人間は、会ったことも話したこともない相手を疎み、嫌い、そして憎んだ。もしも人間にそういうこともなく、フォーハードに救いの手があれば、水爆の日はなかったかもしれんな」

「だから、人間の命を短くしたのか? たしかに、すぐに死ぬ自分を哀れむからこそ、人は人に優しくなれる」

「……メメントモリ、というラテン語がある。死を思え、という意味だ。私は人間を徳で動く生命体にしたかったが、それには死を近くに感じるしかないと考えた。

 おかげで、セントデルタは理想の世界として、よく機能していると思うよ」

「それだけじゃないだろう。フォーハードが、あんたの手心、親心、愛情、そういったものを邪魔しているから、セントデルタは粛々と歴史を重ねることができているんだ。

 でも、フォーハードがいなければ、エノハ様は死にゆく人たちに、とっくに手を差し伸べていたはずだ。もしかしたら、いまごろ、誰も死なないエデンが生まれていたかもな」

「やはりゴドラハンは話していたな、私とフォーハードの繋がりを」

「事実なんだな……やっぱり」

 ファノンは苦くつぶやいた。

 事実であってほしくなかった。

 セントデルタは永遠に続く理想の社会で、エノハが鉄の意志で、この500年間、堕落もせず譲歩もせず、甘えもせず甘えさせもせず、たくさんの知人が20年で闇に帰っても心が揺らがず、この平和を保っている……そう考えたかったが、ゴドラハンの話を聞いたあとでは、それは無理だとしか感じられなかった。

 やはりこの窮極倫理の世界は、フォーハードの力で成り立っている……。

 ファノンにはそれだけでもう、ここが理想の世界だと呼べなくなっていた。

「フォーハードがいなくても、今の世界を保つことはできないのか? 会ったことのない人が、会ったことのない人を慈しむ。そんな世界にできるシステムを、あんたなら作れるんじゃないのか」

 エノハの鎖骨に置かれたファノンの手が、力むあまりに、わずかに握りしめられた。

「人の行きつく先をこの目で見た私が、いまさらそんな希望を抱くことはできん……いや、違うか。私もしょせん旧代の人間だ。悪いと気づきながら、変えられんのかもしれん。

 私もしょせん、フォーハードと同じく、死ぬべき人間なのだ」

「エノハ様……それは」

「この話はもう終わりだ。見ろ、ファノン」

 エノハは首を反らして、街道の向こうを示した。

 ダイヤモンド街道の、ほんのり坂道がかった先に、人影がいくつか散見できた。

 その内のひとりは、クリルだった。

「ファノン! ファノンーー!」

「クリル!」

 ファノンが叫び返すと、エノハの右腕に抱えられていたファノンの足の戒めが解かれた。

 ファノンは地面に降り立ち、無表情に立ち尽くすエノハの横を抜けて、クリルに走り寄った。

 クリルはそばまで来ると、ファノンの首に、まるで抱き枕でも締めるように、両手で抱きついてきた。

「ファノン! このバカ! 心配かけて!」

 ファノンの横顔に頬ずりするクリルの声には、涙がこもっていた。

「ごめん……クリル」

 再会を喜ぶファノンの中に、謝罪の念以外の感情がもたげる。

 ファノンもこのまま、クリルの背中を抱き返したい。

 が……ファノンはその衝動を、徹底的に押し殺していた。

 ――この戦いで、俺は完全にバケモノになっちまった。

 ――意識が消えかかる中、フォーハードが言っていた。次に目覚める時、俺の力は数兆倍になっていると。

 ――数兆倍なんてもんじゃない、これは……。

 ファノンの手のひらの中には、いま、銀河ひとつをまるまる消滅させられるようなエネルギーがくすぶっている。

 怒りも憎しみも感じていない、今の状態で、である。

 それはあたかも、火のついたタバコをくわえながら、石油の河を歩いているような気持ちだった。

 熱を帯びた、このタバコの灰が石油の河に落ちた時……一緒に歩くクリルはどうなるだろう。

 側にいても遠くにいても、等しくその100億度の熱波は、ファノンの愛する人を焼くだろう。

 だがそれでも、ファノンは少しでも自分から離れた場所に、クリルにいて欲しかった。

「クリル……本当に、すまなかった」

 ファノンは意識的に、クリルを危険から守るように、抱きつくクリルの両肩をつかんで、正面に見据えた。

 この抱擁の否定を気づいたのかどうか、クリルは涙ぐんだ瞳を、少しばかり見開いてファノンを見つめていた。

 その視線からそれるように、ファノンはクリルのうしろで、ファノンの気持ちを知るがゆえに遠慮がちに立つメイに近寄った。

「メイ……お前にも、迷惑をかけたな」

「……うっせバカ。お前、一ヶ月ずっと料理当番だからな」

「わかったよ……モエクも、ありがとう」

 ファノンは今度は、メイの横にたたずむモエクを見た。

 モエクは無表情に首を横に振るだけだった。

「……」

 ファノンはこんどは、うしろで自分を見守るエノハを見た。

「エノハ様……」

「欺瞞というならそれでもいい。私こそが停滞の権化だという自覚もある。だがそれでも、私はセントデルタを守る」

 エノハは冷たく、まるで挑戦を放つように言い切ると、ファノンたちを通りすぎて、自警団に合流し、そのまま帰路につきだした。

 いや、その中に、一人だけ、ファノンを見つめたまま、動かない人物がいた。

 リッカだった。

 リッカはすごんだ表情のまま、かなり乱暴な歩調で、ファノンへ近づいてきた。

 そうしてファノンの前に立つや、リッカは平手を、火薬が破裂するような音を鳴らして、ファノンの左頬へ叩きつけていた。

 ファノンは目をむいて、おそるおそる、曲げられた首をもどしてリッカを見つめた。

「16人」

 リッカはにらんだまま、端的に告げた。

「え」

「16人死んだよ。あんたのために。ニニナも陣形からはぐれて、死にかけてた。あの子が死んだら17人だったよ。

 わかってたはず。あんたが外に出たら、どうなったか。なんでゴンゲン親方に言わなかったの。命を狙われてますって。そう話したら、こんなことには……」

 リッカが一方的にまくし立てていると、その間にクリルが割りこんできた。

「ねえリッカ……やめて」

「なんでかばうの? あんただって、この戦いで友達が死んだじゃん。なんで?」

「ファノンはさっきまで誘拐されてたんだよ? その話、今でなくてもいいでしょ?」

「今以外に、いつ言うってのよ」

「あたしたちがアジンに囲まれた時、助けてくれたのはファノンだよ。あれだけのアジンがセントデルタを攻めたら、ファノンがあの力を使わなければ……もっとたくさんの人が闇に帰ったよ」

「ファノンのその力は、フォーハードに利用されようとしてる。瞬時に何百ものアジンを消せるあの力が、あたしら人間に降りかかったらどうするの? そんな時、あたしたちは、どうすればいいの? アジンにもツチグモにも弓矢は効く。でも、その力はどうなの?」

「……っ」

 クリルは黙ってうつむいた。

「それに…………う」

 喋らなくなったクリルへ言葉の追い討ちをかけるべく、リッカはさらに警句を重ねようとしたが……できなかった。

 クリルはリッカをまっすぐ見つめたまま、涙を頬から伝わせていた。

「ずるいよクリル……そんなやりかた」

 リッカは唇を噛みながら背を向け、セントデルタのほうへ、去っていった。

逃がしはしない

 翌日。

 藍色の敷石が特徴のサファイア・インディコライト通りに、セントデルタ最大の病院がある。

 そこの病室に、ニニナ……もとい、ロナリオがいた。

「ありがとう……ございます……なんて言えばいいのか」

 ロナリオはベッドから上体をあげて、見舞いに来ていたメイとアエフに、ていねいに礼を述べた。

 本物のニニナからは、ほとんど彼女のデータがとれなかった。

 だからボロを出す前に、ロナリオは自身を記憶喪失だと偽っていた。

「ございます、なんて。あなたは使わないよ。よく戻ってきましたね」

 メイが伝える。

「はい……ええと、あなたは、私の、なんだったの?」

「ヴァイオリンを一緒に習った仲ですよ」

 ねんごろに、メイが告げた。

「本当に、記憶がないんですね」

 アエフも苦々しげに声をひりだした。

「この子は……」

「ニニナさんの近所の子供ですよ」

「そう……覚えてなくて、ごめんなさいね」

「いいんですよ、ニニナさん……僕のほうこそごめんなさい。今日は僕のほうが予定があって、あまり長居ができないんです」

「あら……なら、メイのほうが随伴なの?」

「ええ……この子はヤンチャ盛りだから、見といてほしいとモエクから。この間も、サルスベリの木から落ちかけて、親切な人に助けられたらしいですよ」

「う……まあ、ね」

 アエフがどもった。

 その表情と態度から、フォーハードのことが導き出すことができれば、セントデルタの今後はかなり変わっただろうが、さすがにそれはロナリオにも無理な芸当だった。

「時間はないけど、ファノンのところにも見舞いに行かなきゃ。」

「ファノン……?」

 ロナリオの頭頂部より6センチ深層にあるCPUが、ファノンというキーワードに反応し、高速で動き始めた。

「ここから離れた、もうひとつの病院に、ファノンがいるんですよ。あいつ、骨とかは折れてないけど、何日か入院が必要なレベルって言われてて」

「彼と私には、どんな関わりが」

「とくにはないと思いますけど……風呂は覗かれてたことなら何度も。私が気づけない時には、あなたがファノンの顔面にキックしてましたよ」

「そう……彼は、そんな性格なの……ふふ、あの人には、そんな一面もあったのね」

 ロナリオはニニナの顔で、まさに人間と同じように笑った。

 この500年間ずっと、ロナリオは毎日セントデルタのことを監視していた。

 が、そこに住むファノンが特別な子だということは、フォーハードの接触をきっかけに、やっとわかったレベルだった。

 だから、それまでファノンがバカなことばかりやっていることは、注意もしていなかったし、そもそも見てもいなかった。

 ファノンをしっかり観察するようになったのは、ここ10日ほどで、その間、ロナリオはファノンの悩む横顔ぐらいしか、観察したことがなかったのである。

 ずっと自分の力を疎み、悩み、それと同時に、向き合いながら戦おうとしている表情しか、知らなかったのである。

 真面目な少年というレッテルが、自分の中で小気味よくくずれていくのを感じ、ロナリオは嬉しくなっていた。

 なぜ、自分のことでもないのに喜ばしいのか……最近、やっとその意味がロナリオにはわかりつつある。

 知らず知らずのうちに、ロナリオは少なくとも、ファノンのことを、可愛い弟のようなもの、という単語で、自らのハードディスクにカテゴリ分けして入力していた。

 とはいえ、これを親しみというのかどうかは、ロナリオには判別がついていなかった。

「? ニニナさん?」

「いえ、こちらの話よ……ファノンの家はどこに? 退院したら、一度あの子にも会っておきたいから」

「そ、それは……」

 メイが表情を曇らせた。

 ロナリオには、その反応をメイがとることは計算済みのことだった。

 ロナリオが旅立つ直前、ゴドラハンが予想立てていたことを教えてくれた。

 ファノンの立場はおそらく、フォーハードの一件でかなり人間たちの間で危ういものになっているだろう、と。

 くわえて今のロナリオは、ニニナという名前の自警団員。

 ファノンの先行で、16人(本当のニニナもすでに故人だから、実際は17人)が犠牲になっている。

 メイがその自警団員ニニナのコンタクトに、神経を向けないわけがなかった。

 メイからすれば、もしもニニナがファノンとの接触で記憶を取り戻したら、ファノンに小言を叩きこむ程度では済まさない……と、考えることだろう。

「……やっぱり、やめとくわ」

 ダメでもともと、という気持ちで並べた思いつきだったから、ロナリオは早々に言葉を打ち消した。

「いいんですか?」

「うん……記憶が戻ってからにする。それより、何かファノンやあなたのために、できることはないかしら」

 ロナリオは可能なら、ファノンが人々の心に還れるような図らいをしてあげたいとも感じていた。

 それには、可能な限りファノンに多くの味方をつける。

 それが一番の早道だと考えていた。

「ありがとうございます。今のところは大丈夫です。ニニナさんも、早く良くなって下さいね」

「メイ、そろそろ行かなきゃ」

 アエフが会話の途切れるタイミングに合わせ、メイにすすめてきた。

「そうだな、あいつ、寂しがりやだから」

 メイは横の四脚から立ち上がった。

「また、きますね。ニニナさん」

「うん、ありがとうメイ、アエフ」

 かすかにこうべを垂れて、別れをつげるメイにロナリオは微笑を返した。

 そうしてふたりは、スライド式のドアを開けて退出し、もともと一人部屋の病室が、にわかにしじまに包まれた。

 その中で、開け放しの二階の窓から、ロナリオは森のほうを見つめた。

 ロナリオのセンサーをもってしても、ここからでは木の幹や巨石にさまたげられて、ゴドラハンの消息はつかめない。

 ――ゴドラハン……私は無事です。あなたは大丈夫ですか?

 内心ロナリオは、両腕の折れたままのゴドラハンを放っておいて、セントデルタへ潜入するなど、気が進まなかった。

 だがセントデルタ人が傷つき、倒れ、人数を減らしながら凱旋するそのタイミングこそが、ゆいいつの潜入のチャンスだとも計算できていた。

 フォーハードさえ倒せば、こんな選択をすることはなくなるのだろうか。

 ロナリオの高性能なコンピューターでも、それへの答えはでなかった。

「早く終わらせて、ゴドラハンのもとへ帰らないと」

 ロナリオがそう、ひとりごちた時だった。

 ふたたび病室の扉が横開きになり、ひとりの人物が立っていた。

 忘れ物? と口にしかけて、ロナリオは自らのメモリが固まるのを感じた。

 ――そこには、フォーハードが立っていた。

みかた

「くっそおおおおおおおおおっ!!」

 病院外に響くほど、ゴンゲンの大きな号泣が空気中をのたうった。

「俺の……俺の監督不行き届きだ!」

「ゴンゲン親方……そんなに自分を責めないで」

 横にいるモンモがいさめるが、ゴンゲンは背を丸めてすすり泣くのをやめなかった。

 そしてゴンゲンが泣く原因となっているファノンのほうは、窓に寄りかかって、苦笑いを浮かべてその状況を見つめていた。

 ファノンの頬には黒ずんだアザがのこり、病衣の下に隠れる胸にも、幅広く包帯を巻かれてはいたが、歩ける程度には、この時すでに回復していたのである。

「親方……あんたのせいじゃ、ないよ。俺が選んでやったことだ」

「俺には努力が足りなかったのだ……! 努力の足りない人は、わが身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける……クソ! この言葉はまさに、俺のために残された言葉だったのだ!」

「う、ん……」

 モンモは本当はその言葉が間違っていることを知っている。

 本当は『視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける』という、松下幸之助の言葉なのだが、それを訂正しても、どうせ聞きはしないので、黙っていた。

「それなのに俺はファノンを……ほかの仲間たちも、あんな危険な目に! 16人が死んだ原因は、俺にある!」

「……」

 そこは、ファノンにとって、触れられるとまずいところだった。

 16人が死ぬことになった原因。

 それをたどると、ファノンがさらわれたことと、フォーハードの復活につながるのである。

 だがそのふたつは、自警団とクリル、メイ、モエク以外には、秘密のことになっているのだ。

 とうぜん、フォーハードが生きていることも、それがファノンを狙っていることも、フォーハードと敵対するゴドラハンが今回の拉致を引き起こしたことも、話してはならぬと、エノハに口止めされている。

 ――セントデルタの平穏のため、フォーハードが生きていることも、ゴドラハンのことも隠すべきなのだ。

 今日の朝、エノハが見舞いに来たとき、その念を押してきた。

 ゴンゲンもモンモも、この件に関しては、部外者。

 親しい人々と、重要な話を共有できないのが、こんなに重苦しい気持ちになることだとは、ファノンには思いもよらなかった。

「……俺が、アジンに出くわして逃げてる間に、そんなに死んだんだもんな」

 ――ファノンは、アジンに追われているうちに遭難した。

 これが、ゴドラハンに拉致されていたと自供するかわりに、エノハに言えと命じられた言葉だった。

 セントデルタを守るために。

 人々を守るために。

 真実を隠すこと。本当にこれが、最良の選択なのだろうか……。

 今のファノンは、大いにエノハの持論に疑問を抱くようになっていた。

「遠くからでも、エノハ様がお住まいのアレキサンドライトの塔が見えるはずなのに……そうとう深い谷に迷い込んだのね、ファノン」

「あ、ああ……けっこう谷もあるんですよ。参ったよ、あの時は」

 ファノンは三流の演技でとぼけたのち、ベッドをはさんで向かい合うモンモとゴンゲンに、数歩近寄った。

「あの……モンモさん。ゴンゲン親方も……」

 ファノンは言い出しにくい言葉を吐くため、いちど言葉を置いてから、続けた。

「あまり、ここへは来ないほうがいいんじゃないか。俺のウワサ、知ってるだろ」

 いまのファノンについて、かなり多くの噂が流れていることを、ファノンは知っている。

 その噂の渦の目は、ノトのようだ……と、この病室でファノンの世話をしてくれる看護師から聞かされた。

 ノトの家から遠いこの看護師まで、そのことを知っているほどだから、相当な勢いで、その噂は流布されているのだろう。

 ファノンがブラックホール球でツチグモを焼いた時のありさまを、ノトが動画として、セントデルタの一部の人々に見せて回ったらしいのだ。

 古代には、過ぎ去った映像を見返す技術があったのはファノンも知っている。

 いったいノトがどうして、そんな道具を持っていたのか……というのは、愚問なのでそれ以上は考えない。

 おおかた、フォーハードの持ちこんだ機材だ。

 この騒ぎに油をそそいだのは、フォーハード。

 その動画再生機じたいは、自警団員によってすぐにノトの手から剥奪されたらしいが、それをされる前に、じかにファノンの力を映像で見た人々は、どうやらたくさんいるらしい。

 こうして、ファノンの力が暴走を始めたことを知る人間は、ノトだけでなくなった。

 ひとりの人間が同じことを100回言うよりも、100人の人間が同じことを1回ずつしゃべったほうが、はるかに真実味を帯びる。

 ――ファノンがもしも、自分たちにこの力を使えば……。

 こうしてファノン化物説は、まともな危機意識をそなえるセントデルタ人によって、すぐさま町中に散らばったのである。

 それにくわえて、今回の自警団員が16人も死亡したという話。

 エノハによる緘口令が敷かれているにもかかわらず、すぐさまそれにもファノンが絡んでいることが、即日のうちに街中に流出しているようなのだ。

 いま、入院中のファノンは、直接はそれを目にも耳にもしていない。

 だが確実に退院と同時に、一部の人々の迫害の態度が、ファノンを襲うだろう。

 このことで心の消耗を受けているのは、ファノンだけではない。

 いま目の前にいるゴンゲンなどは、ファノンの勤務先である。ここに精神的な影響、だけで済むわけがなかった。

 化け物を雇っている男として、ゴンゲンの宝石窓工房は、客足を減らしていることだろう。

 モンモの仕事のほうに影響は出ていないが、それでも、ここにファノンの見舞いに来れば、化け物のほうの味方、と世間に伝えるようなものである。

 味方でいてくれるのは嬉しい。

 が……それ以上に、心苦しいのである。

「知ってるけど……それでここを退院したあと、あなたはどうすんのよ」

 モンモの質問には訝しみが含まれていた。

「……このケガが治り次第、セントデルタから出ていくつもりです。ここはもう、俺の居場所じゃなくなった。だから、モンモさんもゴンゲン親方……もむっふ!」

 すべて言い切る前に、ファノンの右頬にゴンゲンのいかつい拳が、ファノンの左頬にモンモの鞭のようにしなるハイキックが、めりこんでいた。

 来たる衝撃を右にも左にも逃がすことができなくなったファノンの脳みそは、床に落としたプリンのように、醜く割れて粉々になった。

 こうしてファノンは死に、人々は超弦の恐怖から解き放たれ、その話をきいたフォーハードは憤怒のあまりプリンを喉に詰まらせて自殺……世界は平和になった。

 完。

「っって、オイ!!!!!!!!!!!!!!」

 水を浴びた粘土人形のように、その場にへたりこんでいたファノンが、立ち上がりざま叫んだ。

「こんな終わり、あってたまるかよ……なんなんだよ」

 ファノンはいま暴力を働いたふたりを、交互に見つめた。

 ゴンゲンは初めからずっと泣いていたが、モンモも瞳を潤ませていた。

「モンモさん……」

「ナニが、ここを出てく、よ。水臭いことを言わないでよ」

 モンモがベッドを迂回して、ファノンの隣に歩み寄ってきた。

「私はあなたの腕を買って、あの工房に来てたんじゃないよ。あなたの心を買って、あそこに通ってたんだよ」

「モンモさん……」

「私は失うのがイヤなの。怖いの。今まで、たくさんのセントデルタの友達を、尊敬できる先輩を、育ての親を、アポトーシスで見送ってきた。いま、迫害なんてしょうもないモノで、あなたがここに居られなくなろうとしてる。失うものの中に、私より年下のあなたが加わるかもしれないなんて、耐えられないの。

 ここであなたを見捨てると、旧代の人間と同じことをすることになる、なんてセントデルタ人がよくしゃべる建前なんかも、どうでもいいの。

 いい? ファノン。初めから無いのと、持ってるものを失うのとじゃ、意味が全然違うんだよ」

 潤んでいただけのモンモの瞳から、涙が粒を作ってこぼれ出した。

「こんなことでファノンがいなくなるなんて、やだよぉ」

 モンモはまさに、幼い子供のように、天井を見上げて嗚咽しだした。

「すまない……すまない、モンモさん」

 ファノンは唇を噛みしめながら、モンモの涙を指でぬぐった。

「なあファノン、よく覚えておいてくれ」

 横からゴンゲンが言葉のくびきをさした。

「人間の命は、生まれた瞬間から、自分だけのものじゃないんだ。いまモンモさんが教えてくれたろ? 初めから無いのと、途中でそれをとりこぼすのは、意味が違うと。

 お前がここでくじければ、そして反対するアホウどもの言葉の通りにすれば――最悪、やつらに殺されるとしたら……お前と戦ってきた人間も、お前を守ってきた人間も、心にひどい穴をあけるんだ。

 お前には戦う義務がある。跳ね飛ばす力を持つ権利がある。そして、それをしながら、生き残る必要がある。

 どうか、モンモさんや……クリルやメイのためにも、ここでくじけてくれるなよ。俺は、俺にできることをやっていく」

 ゴンゲンもまた、モンモの隣に立ち、ファノンの左胸に、何かを託すように、小さく拳を添えた。

 涙で顔がグシャグシャになっているモンモも、それに合わせるように、ファノンの手を取った。

「負けちゃ、ダメだよ」

遺すもの

 ――セントデルタを街と言うべきか、村と言うべきか……はたまた、国と呼ぶべきか。その議論は終わりが見えない。

 ただ、セントデルタにも、エノハのような祭事のリーダーとは違う、実質の統率者が鎮座している。

 そのトップの名前だが、なぜだか村長という呼び名にだけは異論が出ていない。

 村長の家は、セントデルタ中心部、死者の祭壇の東、オレンジダイヤ・ファイアオパール通りにある。

 その内装だが、カエデの板を打ち付けた壁には、かつての人類の覇権をしのぶように、メルカトル図法で描かれた巨大地図が張り付けられ、べつの壁には、夕暮れ時のアレキサンドライトの塔から見下ろしたセントデルタの風景画。

 壷などの調度品はないが、中央には牛皮のソファに壁と同じカエデのテーブルと、少しばかりのシトリンのカップが戸棚の中で逆さになっていた。

「……!」

 クリルがその部屋に入ろうとドアにノックをしかけたとき、まるで待ち構えたかのように、そのドアが先に開き、そこからバスローブを着た女が、顔をうつむけるようにして、クリルの脇を抜け、そそくさと出て行った。

 それを横目に、クリルは村長室に入った。

 そこにはクリルがよく知る男――村長がいたが、その村長もまたバスローブ姿で、ゆったりとソファに腰を沈めていた。

「クリル、私を軽蔑するかい、今のを見て」

「アポトーシスの副産物でしょ、しょうがないことだよ」

 クリルは首を振った。

「ありがたいよ、その言葉で済ませてもらえて」

 村長はソファに預けていた背を上げ、低いカエデのテーブルに両肘をついた。

 アポトーシスの副産物。

 エノハが人間の復活をおこなった際、彼女はその人間に20年の寿命で自滅する遺伝子プログラムを仕込んだ。

 そのために鮭からその遺伝子を拝借したわけだが、まさに鮭の産卵期のように、死ぬ間際の男女は、あたかも媚薬をあおったかのような、激しい発情をおぼえるようになったのである。

 ただ、このへんは遺伝子というものはうまくできていて、男は二十歳の死ぬ直前に、その発現がでるのにたいし、女は19歳になった頃、出産がギリギリできるころに、それが具象化する。

 いま村長に起きているのも、それなわけだ。

「要件はなに? あたし、まだ今日はファノンの見舞いに行けてないんだけど」

「そう……そのファノンに関わることなんだが」

「何よ。あなたもファノンを排すべしとか言うんじゃないでしょうね。ノトのばらまいた噂、知ってるんでしょ?」

「……始めに言っておくが、俺にとってファノンのことは、どうでもいい。会ったことがないからな。だからあいつがノトの流言でどうなっても、セントデルタさえ無傷なら、なんとも思わん」

「セントデルタ人とは思えない、無責任な言い分ね。エノハが聞いたら悲しむよ」

「建前で話しても、君は喜ばんだろう?

 けっきょくのところ、人間とは、知人が死ねば涙を流すが、会ったことのない他人が死んでも涙を流したりはしない生き物だ。それでも泣けるのは、人間離れした感受性の持ち主か、自分の体験をそれに重ね合わせるほど、経験豊かな人物のどちらかだが……そのどちらも多数とは言えない。そういえば旧代の政治家などは、感受性もなく経験豊かでもないのに、こういうことで涙を流していたそうだな。

 じっさい、地球の裏で死んでしまった1人の他人のために、悲しんで崖から身投げする人間がいれば、それは奇人としか言われないだろう」

「まあ、そうだね。で、そのどうでもいいファノンの身の振り方で、何を話したいのよ」

「彼がどうかなれば、君が苦しむかと思ってね。そこは耐えられない。で、なんだが……今のうちに手を打っておかないか」

「手を、打つ?」

 クリルはあからさまに眉をひそめた。

「前にも言ってたろ? つぎの村長の指名を、クリル、きみに決めて欲しいんだ」

「ああ……あれ、本気だったんだ」

 英明なクリルはそれだけで、村長が何を意図しているか、見抜くことができた。

 つぎの村長を、ファノンの後ろ盾のできる人物にしてよい、という意味である。

 こんな状況だが、ファノンにはいまも味方がいる。

 ゴンゲンの胆力は反論者の軽挙も暴挙を寄せつけないし、モンモの優しさはファノンの傷を癒すだろうし、モエクの知恵はファノンを助けるだろう。

 クリルが死んでも、彼らさえ生きていれば、なんとか大丈夫そうだ。

 だが同時に、この3人はクリルの同級生でもあるから、2年以内にアポトーシスの迎えに来る人物でもある。

 ――となると、指名すべきは……。

「本来、村長は私ではなく、君が就くはずだった。私は君にこのポジションを、求婚の謝絶がわりに押しつけられたにすぎない。次の村長指名という仕事を、君に丸投げしても、文句もないだろう?」

「あたしが次代の村長を決める……その指名権をあたしにゆずることで、あたしに何の対価を望むの?」

「アポトーシスに制せられた今の俺が望むことなんぞ、ひとつしかないだろ。シよう」

「アアお断りだね、そんな条件」

 クリルはプイっとそっぽを向いて、扉に向かって歩いた。

「冗談だ――俺はただ、最後に君に会いたかっただけなんだ。こうして会うことができたから、俺はもう満足だよ」

「あっそ。ならいいけど」

 クリルには、とても今の話が冗談だとは思えなかったが、すぐに相手が言葉を取り下げたので、そのまま話を押し切ることにした。

 もとよりクリルも、ファノンのために何かできないかという打算があったからこそ、この呼び出しを機会にと思い、ここに馳せたのである。

 それに、村長が昔から自分を好いていたことは、知っていた。

 その状況をクリルは利用しようとしている。

 ファノンの未来のために、手段を選ばない自分がいる……。

 この心の内を、ファノンにはとても見せられないなと感じながら、クリルは話を続けた。

「だったら、ウチのメイなんかどうかしら。あの子なら大丈夫だと思うよ」

 クリルは軽い言葉で指名を終えたが、その内情は複雑だった。

 ――あたしや、モンモや、ゴンゲン、モエクは同い年。あと2年もしない内に、アポトーシスの腕があたしたちを捉えにくる。

 ――だったら、ファノンを守れるのは、ファノンと同い年で、賢いあの子しかいない……。

「メイか……口はアレだが、能力は十分だな。ただ彼女にその気はあるのか?」

「ないだろうけど、世の中はやらされてる内に、慣れちゃうってことはよくあるから、いいんじゃないの」

「俺もそうだったしな。問題は、俺に彼女を説得する時間が残っていないことだ」

「ほかの子にやってもらいなさい。そのために、あたしたちは子孫をのこすんでしょ。あたしも後押しするし」

「そうするよ……そろそろ時間だ。俺の友人たちに、最後のあいさつをしないとな」

「……黒闇への旅に、平穏がありますように」

 クリルがはばかりつつ、村長に向けて、短く手を合わせた。

「クリル、その……今まで、ありがとう」

「気にしなくていいよ」

 クリルは少しだけ間を置いて、合わせていた両手を下ろすと、言葉をつなげた。

「じゃあ、ね」

 クリルは村長室をあとにしながら、一度だけ振り返ったが、村長は安らかに笑ってクリルを見送っていた。

メメントモリ

 3日後。

「メイ、結婚してくれ」

 夕方の喫茶店『イシカワケン』において。

 モエクは、ほころびた布の長袖という、きわめてカジュアルないでたちで、テーブル向かいのメイにプロポーズした。

 メイのほうは、その出し抜けの告白に、樫のテーブルに両肘をついて、頭を抱えた。

「……恐ろしく見境のない男だな、モエク。もうクリルのことは吹っ切れたのか?」

 火のついていないルビーの燭台ごしに、メイは疲れた返事をなげた。

「悩んでいる時間は僕らにはない、だからすぐに切り替えないとな」

「にしても、回転早すぎだろ。おかげで私は、まったくあんたのことを意識してなかったことを、むざむざと見せつけられたよ」

「そうなのか、女心とはわからないもんだ。こういえば僕のことを意識してくれるかと思ったんだが」

「女心を理解することも、りっぱな学問のひとつだと思うぞ」

「それについて考える暇があれば、この世を転覆させる方策をめぐらせるよ」

「あんたがモテない理由は良くわかった。クリルのことは、もういいのか?」

「ぜんぜん良くない。だが、うずくまる時間が惜しい。そのへんの切り替えが上手いのは、自然界の生き物にごまんといる」

「はあん、たとえば?」

 メイが仏頂面で聞いたのには、個人的な事情がある。

 このあいだの拉致の一件で、一ヶ月はファノンが食事当番ということが決まった。

 だからこの日、メイは油断しきって、安心しきって、気抜けした心持ちで、いつもより30分ほど遅れて起きた。

 だが起きてみると、ファノンはおらず、かわりにクリルが腹をかかえてダイニングの冷たい樫テーブルに突っ伏していた。

「ごはん……ごはんがないよ……ファノン……どうしてごはん作ってないの……」

 そんなクリルのために、メイは急遽、ねぼけてゆるんだ思考のまま、セントデルタ味噌の吸い物を作ることになったのである。

 ――あのキモゴミ、どこで何やってんだ……。

 そんなわけでメイは、朝から予定外な仕事をかかえこんだものだから、むすっとしたまま仕事に行き、それも切り上げたのち、ファノンをなじる句を考察するために喫茶店に寄ったら……たまたまそこでコーヒーを飲んでいたモエクにつかまったのである。

 ――こいつ、理屈っぽいから面倒なんだよなあ。

 くすんだ石英のようなモエクの淡白な表情から、つぎつぎに、機械印字するように言葉がぞろぞろと這い出てくるさまをながめながら、メイはそう思った。

「昔に存在した、東京というところの、不忍池という、それなりに大きな池に起こった話だ。聞きたいか?」

「……長いのか?」

 モエクの勿体ぶった口調のせいで、メイの顔色に、ムーンストーンのような青みが走った。

「5分くらいかかる」

「長すぎて寝そうだ。1分で話せ」

「ああ、十分だ」

 モエクはためらわずに、うなずいた。

 モエクはおよそ、メイにそう返されることを予想していたのだろう、初めから1分ていどの話だったところを、メイの不評を先読みし、わざと5分かかるなどと、長い所要時間を告げたのだ。

 よくよく考えると、関わりたくないと思う相手の話を1分聞くことは、すでにウンザリする話なはずなのだ。

 ――やっぱり、頭脳戦だとこいつがウワテだな……。

 メイがにらんだが、モエクは得意げに痩せた頬を、不敵にニヤけさせた。

 興味を引く話だという自信も、あるのだろう。

「ユリカモメのメスとカルガモのオスの恋愛なんだがね」

「カモメと……カモ? 鳥同士には違いないが、種族が違うじゃないか。恋愛になんのか」

「子どもも作れるそうだ。ただ、ロバと馬の子どものラバのように、生まれはすれど、そのあとは子孫が残せないようだが」

「あと……ユリカモメって渡り鳥じゃなかったっけ」

「そうだ、北国から越冬するためにやってきたこの鳥が、熱くアピールを繰り返すカルガモに心打たれて、つがいになることを選んだ。

 仲睦まじく暮らし、やがて冬を終えて春がきて、北に戻らなくてはならなくなったユリカモメだが、カルガモのために、ほかの仲間を見送り、一羽だけ残ったそうだ」

「ロマンだね」

「そして幸せな生活が続いていたある日、ユリカモメは、車にはねられて死んだ」

「……カモのほうは、どうしたんだ。ヘコんだだろ」

「たいそう沈んでいたそうだ。僕でもそうなるだろう、クリルが死ぬと考えるだけでいたたまれない。君なら、どうする?」

「後追い自殺でもしたくなるが、その話の脈絡からすると、答えは自殺じゃ、なさそうだな」

「ああ、三日後には、そのオスは、メスのカルガモとつがいになっていた」

「三日後って……二年後とか三年後とかならまだわかるけど、早すぎだろ」

「僕もそう思う。けれど自然界の筆法には、感心したんだ。この切り替えの早さ。僕がほんとうに必要なのは、体の強さでも頭の良さでも精神の繊細さでもなく、心の頑強さだ」

「共感しかねるね。つまりお前、クリルが死んでも私が死んでも、1日後には忘れて、2日後には女と知り合って、3日後にはその女と引っつくってことじゃん」

「それぐらいのスタンスになりたい、ということさ。実際できてないんだから、そこで悪く言わないでくれ」

「女のほうとしちゃ、一生忘れないで欲しいよ」

 メイは天井をあおいだ。

 仮にメイが死んだとすれば、ファノンはたぶん泣いてくれるだろう。

 もし自分がいなくても、ファノンには幸せになって欲しいが、自分のことを毎日思い出してほしいというのは、強欲なのだろうか。

 3日で切り替えるのも、生命の強さとしてあこがれるというのは、共感するかどうかはともかく理解するし、たびたび仲間の老衰を見守らなければならないセントデルタの人間としては、その強さを求めることは、悪いことではない。

 それでも、ファノンには。

「……あれ、ファノンのバカをヘコませる言葉を考えてたはずなのに」

「どうしたメイ」

「いや、何でもない。ただ、死んで忘れられることはともかく、強く生きるってのはいいと思う。ファノンを許してやろうと思っただけさ」

 メイがそこまで言ったところで、喫茶店の入り口ドアの、オパールの呼び鈴がコロンコロンと音をたてた。

 メイとモエクが何気なく一瞥すると、そこにはファノンが立っていた。

「ファノン……」

 メイはファノンを認めたとたん、イスを飛ばして立ち上がった。

「ただいまメイ」

 ファノンは持っていたダイヤモンドの槍を、入り口そばに立てかけて、メイたちに近づいた。

「今帰ったぜ。喫茶店に入ったってこと、そこの人に聞いてさ」

「お前……どこにいた。朝食の当番、あと一ヶ月は私じゃないだろ。死ね! 今すぐそこの2ミリの深さの水溜りで溺死しろ!」

 メイは頬を赤くしながら叫んだ。

 目前ではモエクが腕を組んでメイに何か言いたげにしたが、それを口には出さなかった。

「なんで料理当番をサボった、このハゲ」

「すまない、フツーに忘れてた」

「……普通に忘れてた? 知らない言葉だ。そこの水溜りの水を肺に入れてみたい、という意味か?」

「今日はゴンゲン親方に休みをもらってたから、ゴドラハンの森に入って、槍の練習をしてたんだ」

「お前さん、ケガはもういいのか。退院は昨日だったと聞いたが」

 横のモエクが言葉を差し入れた。

「あばらにヒビが入ってるらしい。安静にしてれば全治一週間だと言われたよ。寝返りすると痛いし、大変だよコレ」

 ファノンは掛襟を大きくめくり、おのれの胸板を縛りつける、木製コルセットを見せびらかせた。

「メイ……こんな病人に料理を作らせようとしているのか」

 モエクが信じられなさそうに、クマのついた目をメイに向ける。

「いや……いくらなんでも、それは遠慮したさ。でもこいつがやると言って聞かなかったんだ。すごい奴隷気質だと感心したよ」

「俺はどっちかというと、Sっ気のほうが強いと自覚してたけどな……」

「で……ファノン。どうしてケガを押して、槍の稽古なんか。お前さん、鍛錬を欠かさずおこなうなど、そんな頑張り屋ではなかったはずだが」

 モエクがずばりと問いただした。

「うん、まあそれは……」

 ファノンは言葉をにごした。

 ――このあと、学校の仕事の終わったクリルに、槍の稽古をつけてもらう約束なんだ。だから、あいつに情けないところは見せたくない。

 というのが、ファノンの本音であるが、モエクの気持ちを知っている手前、それは白状できなかった。

 それに、ファノンがそんな殊勝な行動をする影響を与えた人物のひとりは、あきらかにモエクなのだ。

 ――時を惜しむように生きる。

 クリルは18歳と6ヶ月。もうアポトーシスまで2年もないのだ。

 あと何度、クリルと語り合えるだろう。

 何度、心配してもらえるだろう。何度ケンカをし、何度、ともに料理を食べ、何度、同じ家の空気を共有するだろう。

 ――何度、彼女の笑顔を見れるだろう。

 身体が痛いと言って休んでいる間にも、これらは指折りのように、穴のあいたバケツの水のように、慈悲もなく手心もなく減っていくのだ。

 だからケガが完癒していないのに、それを押してクリルやメイのために料理当番をするし、あとのクリルとの稽古にも無理をする。

 少し前までは、こんな考えかたはしなかった。

 寝れるだけ寝て、サボれればサボり、やらなくていいなら、絶対にやりはしない。

 ――でも俺は変わった。変わらざるを得なくなった。

 モエクのことを皮切りにして、フォーハードという名前の、歴史の大罪人もかすむほどの悪の権化との戦い、そして、2年を切ったクリルの寿命……。

 ――少しでも後悔のないよう、自分や人の死を見つめ、生きたい。

 ――セントデルタ人がこういう考え方にいたるのは、すべてエノハ様の目論見なのは、わかっている。

 ――でも、こうするしかないし、そのことでエノハ様を恨む気持ちにはならないな……。

「最近の俺がマジメだって……? それは時間がないからだよ。俺たちには……何をするにも、時間が足りなすぎるんだ」

 けっきょく、これが一番、セントデルタの人々を納得させる言葉だった。

遺言

 秋の斜陽は、まるで空そのものが暖炉の炎に包まれたかのような、やわらかい朱に包まれる。

 一日を締める最後の陽光が、エノハの住まうアレキサンドライト宝石の塔に当たると、その宝石の深い緑色が、赤ワインと同じ色味に変わり、その景色に彩りを与える。

 そんな夕方に、ファノンとクリルのふたりはルビー・ガーネット通りの東を抜けたポワワワンの川で、丸みを帯びた木槍を構え、川原でカンコンと音を立てながら、槍を叩き合っていた。

 いや、ぶつけていたのは、ほんの数回だった。

 クリルが水に浮かぶ藻でもすくいとるように、槍でファノンの足元を撫でると、ファノンの五体は重力を失ったかのように、ふわりと浮いて、その尻をぶざまに河原に叩きつけた。

 今日だけで、通算5回目となる尻餅。

 その衝撃にひるむファノンの鼻先に、すかさずクリルは木槍を突きつけた。

「ダメねファノン。まるでダメ」

「少しは手加減してくれよ。俺、病み上がりなんだぜ」

 ファノンは胸元の衿を引っ張り、中にのぞける木製コルセットをひけらかした。

「だから5回ダウンしたら終わりってルールにしたんでしょ。ハイ、これで終わり。しゅーりょー」

 クリルはファノンの前から、槍の切っ先を、あたかも海面の釣り針を引き戻すように、天に持ち上げた。

 すると、川を無数に舞い遊ぶアキアカネのうちの一匹が、その切っ先にとまり、羽を休めてきた。

 クリルはそのアキアカネを見上げたあと、ファノンになおった。

「でもまあ……意気込みは褒めたいよ。それに、超弦の力を使わずに、あなたはあなたの身を守れるようにならないといけない。でないと、あなたの味方がどんどん、あなたを守りにくくなっていく」

「わかってるよ……わかってるさ。誰にも迷惑をかけたくない。だからこうして、差し当たってお前に手こずってもらってるんだ。人に迷惑をかけずに生きるために」

「めい、わく……?」

「そうさ。他人の世話にならずに自分のことをすべてやる。それが立派な、あるいはまともな個人だと、モエクが言ってた」

 ファノンは最近モエクに教わった言葉を、そのまま述べた。

 ――へへ、どうだクリル。このごろはモエクに勉強を教えてもらってんだぜ。前の俺にはこんな言葉、でなかったろ。

 ――いいんだぜ? 褒めてくれても、いいんだぜ?

 そんな心持ちで、得意にひたっていると、だった。

 その瞬間、ファノンの頭をカコーンと、まるで鹿おどしのような風流な音を立てて、クリルの木槍が叩いてきた。

「あゴにイっ!」

 ファノンはおのれの槍を捨て、両手で頭をかかえ、ゴツゴツした河原の上をもんどり打った。

「なーにが、迷惑、だよ」

 クリルは左耳を覆う、青いアクアマリンの補聴器がずれるのを直しながら、ファノンを叱咤した。

「あのねえ……たぶんモエクはそういう意味で言ってないよ」

「な、なんだよ、じゃあどういう意味だよ」

 激痛のほとばしる頭部をおさえながら、ファノンは聞き返す。

「モエクはなんでもかんでも自分のことは自分でやってんの? 違うでしょ。あいつ、風呂掃除も洗濯も、食事の用意も……つまり人間に必要な後片付けを、ぜんぶ家に一緒にいるアエフにやってもらってんじゃない。

 あいつは、それに甘えてるから、自分の研究に集中できているだけ。それを、迷惑のかけていない生き方だと言うわけ? だいたい、迷惑をかけずに生きるというのを、実際にやってる人がいるなら、名前を挙げてみなさいよ」

「え、あ……も、もしかしたら歴史の人物とかにいるかも」

「あー……たしかにいるね。文明を剥奪された離島の中で、誰の力も借りられずに、ナイフ一本で家を組み立て火を起こし、魚をとって獣を追わざるを得なかった人なら。ただし、その人の1日は、いつもそれだけで終わらざるを得なかった。他人の力がないから、外敵に襲われればひとたまりもない。病気になっても、それがなんの病気か診断する方法もない。

 落ち葉の音にもビクビクと気をとがらせ、病気におびえ故郷にむせび、人を恋い焦がれて……それでもなお、戻れなかった人。

 あなたは、そういうのを目指すわけ?」

「いや……それはそれで、迷惑をかけてるのかもしれないな。そいつを知っている人は、その隠者がすでに死んでいると思って悲しむだろうし、まだ生きているかもしれないと思うなら、心配もやみはしないだろう」

 つぶやくファノンの脳裏に、3日前の、ゴンゲンとモンモの言葉が蘇る。

 ――人は、生まれた瞬間から、自分だけの命じゃない。

「そういうことよ。生き物が生きるってのは、迷惑を1日に何回もかけまくってるってことだよ。それをいちいち重荷に感じてたら生きてられない。かけられた分だけ恩返しをしようなんて思えば、そのあまりの膨大さの前で、自分の一生はなくなるも同然。

 迷惑なんか、いくらかけてもいいのよ。その迷惑の中でいくつか、悪いことをしたと感じられる時もあるでしょう。後悔する時もあるでしょう。そのときは心から謝ればいい、そして言葉で感謝を伝えれば、それでいい。

 そうして、自分が受けたものを、これから続く者に、同じように分け与えればいい」

「クリル……」

「説教みたいになっちゃったね」

「いや……何も間違ってないよ。かっこいいと思う」

 ファノンは上体を起こし、クリルに笑いかけた。

「なら、よかった」

 クリルも顔をほころばせると、ファノンを横切り、川岸のほうに歩いていった。

 クリルはそこにしゃがみこむと、産卵という大仕事を終えて川べりに打ち上げられ、ボロボロにウロコのただれ落ちた鮭を、そっとすくい上げた。

 鮭は喘ぐように、パクパクと口をせわしなく開けており、もはや命が長らえる見込みがないことを如実に伝えていた。

 アポトーシスという名の自然の摂理によって、命が消えかけているのだ。

「ファノン、これ見て」

「ああ……その時期、始まっちまったな……」

「うん……」

 クリルは神妙なようすで鮭を川の流れに返すと、ポワワワンの川面をバシャバシャとしぶきを上げて遡上する、ほかの鮭の群れを眺めた。

 ファノンは、のろりと起き上がると、クリルの傍に立った。

 座りこんだクリルの、その整った横顔には夕日が降りて、まるでルビーのように赤く染まっていた。

「ファノン。あなたがそんな力を得たのは、何か意味がある気がする。きっとそれは、フォーハードにそそのかされるため、とか、村人に怖がられたり、嫌われたりするため……なんて理由なはずがない。もしかしたら――このエノハの時代を打ち壊すための力なのかもしれない」

「なんども言ってるだろ。俺はエノハ様を倒す気はないよ」

「そう……でもねファノン、それだけの力を持ってるなら、誰にもできないことができるはずだよ」

 クリルはしゃがんだまま、川底の石にぶつかりながら流される鮭を見つめていた。

「エノハはこの時代の永続を望んでもいるけど、この世界がよりよくなるためなら、今が滅んでもいいと、思ってるんだよ、たぶん」

 クリルの瞳は、そこで悲しげに落ちこんだ。

「俺は……」

 ――お前と一緒にいられれば、それだけでいいんだよ……。

 という語句を、勇気のないファノンは言えなかった。

 けっきょくファノンはそのまま、夕闇にきらめく川面を、しばらくクリルと見つめるだけだった。

 ――まあいい。まだ時間はある。

 ――もっと……もっといいタイミングで、言える日が来るはずだ。

 ファノンはこの決断を、後悔することになる。

 なぜなら……クリルとこうしてポワワワンの川を見つめることは、この日以降、二度とやってこなかったからである。

暗躍

 セントデルタ大病院の、サファイア屋根にフォーハードとロナリオは立っていた。

 いや……立っているのはフォーハードだけで、青い病衣を着たままのロナリオのほうは腕と足をだらりと、力なく垂らし、フォーハードになすすべもなく抱き上げられていた。

 ロナリオはフォーハードの次元の力によって、四肢の内部にそなわったシャフト(腕脚を動かすための部品)を、根こそぎ奪い去られていたのである。

「あなたを、甘く見ていました」

 ロナリオは自分の身体を抱き上げるフォーハードを、下からにらんだ。

 にらむしか、いまのロナリオに抵抗できる術はなかった。

「こんなに、早く手を打たれるとは」

「三日前の戦いで五体満足だったお前が、何もしないわけがないからな。セントデルタに仕掛けるとしたら、行方不明者に扮するのは想像できた。

 あとは、凱旋するために一列になっているお前らを、一人一人スキャンすればいい」

「スキャン……人間のあなたに、そんな機能はないはずです」

「俺を誰だと思っている? 水爆の男だぜ?」

「次元の力のことを言っているのですか……どうやったのですか」

「ガンマ線を召喚した。そう言えば、お前ならわかるんじゃないのか」

「ガンマ線を召喚……」

 ロナリオはフォーハードの吐き終えた語句をたどった。

 ガンマ線といえば、X線と同じで透過性が高く、人体のDNAを切り裂く特性を持ち、分量が多ければ人の身体を癌化させる電磁波である。

 エネルギーが高すぎるがゆえに、たやすく地球の大気にさえぎられ、自然界のこれらはまず、ほとんど地上で浴びることも見ることもない。

 だが例外的に、これが地上に発される時がある。

 原子爆弾の炸裂や、原子力発電所の事故があった時である。

 フォーハードがこのガンマ線を登用したとなれば、考えられることは一つ。

 フォーハードの手によって人間世界は終わっているが、それでも原子炉施設はいまも核の放射能を出し続けている。

 それを利用するという方法だ。

 人間の世から断絶された原子炉燃料棒のそばに、次元の穴を開けて、撤収をはかる自警団員190人に浴びせたのだ。

 ロナリオに気取られないよう、用心深く、身体の一部分だけに、ガンマ線を照射させたのである。

 そうして身体を透過させたガンマ線を、おそらくフォーハードはその進行方向にも次元の穴を開けておいて、そこに方解石などの感光板を置いたのだろう。

 方解石とは、氷砂糖に酷似した見た目をしているが、エジプトのピラミッドに重ねられている白灰色の巨石や、墓石などに使われる大理石の仲間である。かつてレントゲン撮影機を開発したレントゲン博士が、この方解石も観光板として利用できる、という記述を、フォーハードも知っていたのだろう。

 これを用いることで、フォーハードはたやすく、この光をあてた人物が、人間かそうでないか、わかったことだろう。

 人骨が写れば人間、そうでない骨格が見えれば、そうでない何か。

「……案の定、ガイコツが写らない奴がいた。狙いが当たると、嬉しいもんだね」

「私を、どうする気ですか」

「まず、顔をロナリオに戻してくれよ。あいつの顔を見たい」

「お断りします。私は死んだほうのロナリオではありません。顔が似ている別人です」

「なら、残念ながらお前を殺さねばならんな。ロナリオの顔をしたものでなければ、なんとかできる」

「それは嘘です。あなたに私は殺せない。ロナリオの顔になれる者が、この世からいなくなるのですから。あなたには、私の記憶を消すこともできるのに、それをやらない。あなたは彼女の人格も大事だと思っているからです。私はかなり不完全とはいえ、彼女の性格も参考にされているから」

「その通りさ。俺はたとえお前が顔を変えていても、手は出せない。辛いところだよ……だから、ファノンで憂さを晴らさないとな」

「……あなたは卑怯です」

 ロナリオはニニナの顔で失意の表情を浮かべたのち、その顔の色がみるみる白化し、ロナリオのものになった。

「いい心がけだ。ファノンのやつにも、見習って欲しいもんだ」

「まだ彼に接触するつもりですか。次にあなたが彼の目の前に現れれば、彼はあなたを一瞬にしてヘリウムに変えるでしょう」

「じっさいに会えばそうなるだろう。あいつは強力になりすぎた。これからは奴の顔を見ずに、奴を堕としていくつもりだよ」

「そんなにファノンが恐ろしいなら、彼をそっとしておいてあげればいいものを」

「俺の夢が、それをさせてくれないんだ。それに、奴を堕とす算段はできている。あいつが、あいつの意思と関係なく宇宙の消滅をさせる算段が」

 フォーハードはロナリオを抱いたまま、屋根を一歩進み出た。

「きれいに整った街だよ、セントデルタは。あの雲に反射している巨大宝石の反射光は、セントデルタではジュエルプリズムとか呼ばれてるんだってな。だがこの街の真ん中に、ツチグモがワープしてきたら、この街の空気はどんな色になるかな」

「ま、まさか……フォーハード……やめてください!」

 ロナリオが制止の句を強く叫んだが、フォーハードはかまわず、ロナリオを抱き上げていた片手を離し、まるでセントデルタをつかむような仕草を放つと、そこにエネルギー塊を生じさせた。

破滅への潮流

 セントデルタ中央広場。

 数千席にわたるトパーズの四脚と、それに囲まれるように、新緑に似たアレキサンドライトの扁平な巨石が横たわっているのが、この広場の特徴である。

 7つの放射街路が一点に集まるこの場所では、さまざまな祭事がもよおされる。

 死者のとむらいを執りおこなう葬祭のほか、結婚式もここで挙げられる。

 トパーズのイスを隅に重ねれば感謝祭などもおこなえるし、あるいは今のように……村人の集会も、ここでなされるのである。

 だが、今回の集会に参加する人々は300人にものぼり、とてもではないが、小規模な寄り合い、という空気ではなかった。

 その参加者の表情はおのおのが、神妙なものに支配されていたのだ。

「ファノンの救出のために、自警団員が16人も死んだそうじゃないか」

「これだと足し算引き算が成立しない。なぜ一人を助けるために、16人が犠牲にならなければいけなかった」

「俺もそう思う」

 アレキサンドライトの祭壇そばの階段で、腕組みをして話を聞きながしていた、今回の集会を呼びかけた男、タクマスが、会議が始まって10分後、ようやく相槌を打った。

 黒い髪の毛をオールバックにして、いかつく彫られた眉間のシワから、かなりの気難しさを匂わせていた男だった。

「やはり、ここに集まってくれた同志たちは、同じことを考えていたようだ。ファノンをこのままにしておく訳にはいかん。奴には罰を、エノハ様にしていただく必要がある」

「聖絶が必要だ、とでも言うのか? タクマス」

 そう呟いた男が、言外にその処置をのぞんできた。

 だが、あくまでも言外にである。

 得体の知れない超常現象の使い手、ファノン。

 片手でツチグモをひねりつぶす、謎の力を発するファノンに、みな不気味さを覚えていた。

 その力は、いつも正しくツチグモのような機械を倒すとは、限らないからである。

 これをたとえるなら、枕元に起爆ピンのはずれかけた手榴弾を置いて起居する生活に似ている。

 いつ爆発するかわからない力。

 そういうわけで、この力を恐れて集会に参加しているのは、爆風で被害を受けるだろうと自己評価を下した人々……つまりファノンの住むルビー・ガーネット通りの人々がほとんどだった。

 だが、不気味だから殺すというのでは、かつて自滅した人類の風習と何も変わらない……と、過去は悪いものだと教育されてきたセントデルタ人は考える。

 たとえばセントデルタ人が過去の人を悪辣にして未開だと評するときに持ち上げるのが、魔女裁判のエピソード。

 魔女裁判とは、おもに1500年代から1600年代(じっさいのスパンはもう少し長い)のころになされた、魔術を扱うと信じられた人物をまつりあげるためにおこなった裁判である。

 これで4万人が無実の刑死をしたといわれている。

 とうぜん、捕らえられた人物の100パーセントが、なんの魔力も持たない、ふつうの人々であったことは言うまでもないが、その裁きは残酷をきわめた。

 熱した釘を手足に打ち込み、魔女だと『自白』させ、あるいは万力で指をすりつぶしながら詰問し、あるいは水に沈めて浮かべば魔女、沈んで死ねば潔白など、である。

 そのさまを、セントデルタの人々は野蛮と笑い、あざけってきた。

 だからこそ、自分たちは、その野蛮人とは違うのだ……と言えるだけの、建前を人々は欲していた。

 まだ彼らは、ファノンをどうこうできるほどの建前は得られてはいなかった。

 それに、男がはばかりながら、ほかの聴衆にわかりにくいように死刑の主張をしたのには、もうひとつ理由がある。

 この集会にきているものは、みながみな、ファノン殺すべしと考えているわけでもなかったのである。

 たしかにここに来た者は、一人残らずファノン排斥論に身も心も浸かっていたが、それでもファノンを殺すのは可哀想だ、と感じるものも、半分はいたのだ。

 ようは迷っているのだが、これだけ同情があつまるのは、さすがセントデルタの短命さと呼ぶべきだった。

 自分が死ぬまでに、アポトーシスによって、おびただしい頻度で死者を見送らねばならないセントデルタ人は、悲しいほどに感情のゆたかな人々が多かったのである。

「聖絶は無理だ。奴はそこまでのことは何もしていないし、セントデルタ法でも、超常の力を用いれば聖絶、と書かれてもいない。俺たちにあいつを、どうこうすることはできない」

「なら、どうするんだよ……」

「できないが」

 そこでタクマスは人差し指を一本たてて、付け加えた。

「ファノンが自分の意思で、このセントデルタから出て行く決断をうながすことなら、できる」

「あいつの家の前でシュプレヒコールでも叫ぶのか?」

「そこまでしなくてもいい。あいつに告げればいいのさ。俺たちのために、ここから出て行ってくれと」

 この案こそ、タクマスがファノン死刑論派と温情派のどちらも、ギリギリ納得させられるだろうと踏んでいた言葉だった。

 そしてそのタクマスの読み通り、人々はみな、不服そうではあるが、それ以上にどうこう言えない顔色を見せた。

「まあ……それなら」

「決まりだな、ここにいる全員で、あいつの家に行くぞ」

「誰の家に行くって?」

 議論の方向がさだまりかけたそのとき、今まで聞かなかった声があがった。

 人々がそちらに目をやると、そこには白いタンクトップシャツ姿の、ヨイテッツが立っていた。

「ヨイテッツ……何しに来た」

「ファノンのことを話してたんだろ? 議論するなら反対意見も大事だぜ」

「お前と同じ意見は少数だ。政治は多数の言葉で動くもの。俺たちと議論したければ、俺たちと同じかそれ以上の数をそろえてくれ」

 そういってタクマスはヨイテッツの横をすり抜けようとしたが、そこにヨイテッツが立ちはだかった。

 近くで見る者からすればそれは、まるで筋肉の壁の前に立つような気持ちになる威圧感だった。

 タクマスは本能的に、及び腰にならざるを得なかった。

「タクマス……お前らはよくわからん不安に突き動かされて、ファノンの追放をしたいんだろうが、俺はちがう。この命はあいつに救われた。いま、妻や子供を抱きしめることができるのは、あいつのおかげなんだ」

「感傷を。危険な力を持つ人物を、そばに置いていい理由にはならん」

「ファノンを追い出しても無駄だぜ。あいつの住む場所が俺の家になるだけだ。家族にも、ご近所にも許可はとってある」

「なんだと、ヨイテッツ」

 タクマスのつぶやきと共に、背後の大衆がどよめいた。

「あいつが人を殺すとき、まずは俺から死ぬことになる。お前らは俺が闇に帰ってから、あいつのことで悩めばいい。あいつを疎めばいい。あいつを憎めばいい。だが俺が死ぬまでは、誰にもあいつに手は出させんぞ」

「……」

 ヨイテッツがにらむと、大衆のほうはざわめきを高めたが、そこから具体的な反論はなかった。

「そういう次第さ。俺はもう帰る。お前らもさっさと解散するんだな」

 ヨイテッツはそう言い、背を返した。

 ――そのとたん、ヨイテッツの背中が、ヤケドしそうなほどの熱さを感じた。

 ――なんだ? と思ってヨイテッツが振り返った時、アレキサンドライトの祭壇の上に、音もなく予告もなく、いつのまにか、小屋ほどの大きさのクモ型シルエットが、八つの鉤爪を祭壇のフチに食い込ませて、たたずんでいるのが見えた。

 そのクモの周囲のダイヤモンドの敷石には、放射状に数十本の溶岩の溝ができていて、それらがヨイテッツのまわりを抜けて、そこから嗅いだことのない、きつい臭気と、すさまじい熱気を放っていた。

 そして、その周囲には、ボールぐらいの大きさに切り刻まれ、切り口を焦げさせた肉塊が、無数に転がっていた。

 それが何なのか、一瞬ヨイテッツには理解できなかった。

 だがそれをじっくり観察して怯えたり、悲しんだりする暇は、ヨイテッツは得られなかった。

 石灰の粉のように舞う土煙が、その巨大なクモを灰色に隠していたが……ヨイテッツには、それが何なのか、すぐにわかったからである。

「ツチグモ……!」

 ヨイテッツが呟いたのと、集会に集まった人々がパニックに満たされるのは、同時だった。

 人々はいっせいに悲鳴と怒号をあげながら、ツチグモから離れるべく中央広場から走り出した。

「逃げんなよ、お前ら」

 くぐもった声でしゃべったのは、他ならぬツチグモだった。

 ふたたびツチグモは上部に王冠のようにかぶった20門の砲塔から、カミソリよりもきわどい切れ味をもつ、透明なレーザーをひねり出し、人々の逃げようとしていた、7つの放射街路をマグマに変えた。

 退路を断たれた人々が、抱き合いながら、その場に立ちすくんだ。

 逃げられなくなったことで、人々にできるのは、ツチグモの居住まいから与えられる恐怖に萎縮することと、押し殺した嗚咽をあげることだけになってしまった。

 そんな人々に向けて、ツチグモはみずからのスピーカー音量を上げてきた。

「俺はお前達に、お願いがあるだけなんだ」

「な……なんなんだ、お前は!」

 タクマスが震え声で、祭壇を踏みにじるように立つツチグモを見上げ、さけんだ。

「俺の名はマハト・フォーハード・ミューゲン。お前らが水爆の男と名付けた、機械の王にして、神の敵。以後よろしく」

「フォーハード? それは500年前の死人だ、だれがそんなものを」

「信じなくてもいいさ。俺はいつも、人が信じようと信じまいと、俺の邪心を悟られようと悟られまいと、そいつらを俺の望む方向へ走らせてきたし、今回もそうするつもりだ。お前らの意思なんぞ、関係ない」

「……何を望むんだよ」

「簡単だ。ファノンという奴を知っているだろう。そいつをここへ寄越してもらう。そして、お前らの目の前で、このツチグモと戦わせるんだよ」

「……!」

 タクマスは喉を鳴らした。

 このにわかに出現した機械がツチグモだというのは、わかっていた。

 だから、滞りなく逃げ切れたなら、ここで暴れるツチグモを退治してもらおうと、ファノンを呼びに行くつもりだったのだ。

 ファノンの力を恐れながらも、少しく強敵が現れれば、その力にすがる。

 人間の本心は善である、とかつて孟子という人物が言った。

 人間の本心は悪である、とかつて荀子という人物は語った。

 だが文明が終わるころ、誰かが、人間の心は善や悪でできているのではなく、たんに弱いのだ、と喝破した。

 ――弱いから、善にも悪にもなる……。

 ――俺たちセントデルタ人は、旧代から、心の強さは何も変わっていないんだ……。

 タクマスはいま、むざむざとその事実を突きつけられていた。

「お前らを一人だけ、この広場から逃がしてやる。そいつでファノンを呼んでこい。フォーハードが呼んでいる、来なければ全員を焼肉にする、と言えば、あいつのことだ。必ずくる。

 ああそうだ、エノハを呼んでも役には立たんぞ。あいつの両腕にもレーザーは仕込まれていたが、この間の戦いで、両腕の武器が壊れて、いまも修理できていないからな」

「そんな……エノハ様が……」

 ざわめきの中で、絶望まじりに、誰かがつぶやいた。

 ツチグモ、もとい、フォーハードの説明に、人々はいよいよ追い詰められつつあった。

 数秒後、人々がこぞって、自分が生き延びる可能性を少しでも高めるために、ファノンのもとへ走るべく挙手をしようか、というところで、だった。

「ことわる」

 大きな否定の句がツチグモの音声マイクに突き返された。

 その声の飛んできた位置を、フォーハードがセンサーから探知で割り出すと、そこには、ヨイテッツが立っていた。

「ほお……骨のあるやつもいるもんだ」

「お前の話は受け入れられん!」

 ヨイテッツはもともと大きな地声を、さらに張り上げてツチグモに怒鳴った。

 ゴンゲン親方と口喧嘩をするときよりも、さらに大きな声音だった。

「お前がフォーハード本人かどうかわからない、というのは、このさい目をつぶろう。だが、お前が仮にフォーハードなら、ここにいる人々を生かす理由がない。おおかた、ファノンを葬るか何かのために、全員を人質にとるつもりだろう。

 だがお前は計画通りにファノンを倒したあと、俺たちを生かす気はない。今のレーザーで、まとめて殺す気だよ。お前の目的は、殺戮なのは明らかだ。

 だから俺たちは、命をかけて、お前を倒す必要がある」

「お前はともかく、ここにいる連中に戦意はカケラも見当たらんが」

「だったら……どうしたってんだ!」

 ヨイテッツはしゃがんだかと思うと、足元で赤熱の光を発し、ドロつくダイヤモンドだった溶岩の破片をとると、ツチグモに向けて投げつけた。

 赤く脈打つ石片は、みごとにツチグモのレーザー砲塔へぶち当たって爆ぜ、その砲身を溶けた炭で固めてしまった。

「し、しまった」

 フォーハードは舌打ちした。

 レーザーは確かに強力な上にコストのかからない武器だが、銃弾や砲弾と違い、衝撃能力……つまり反作用力は何もない。

 このレーザーが戦車の大砲だったら、気にせず砲弾を射撃すれば、中にこびりつく炭も一緒に吹っ飛ばすことができるが、ツチグモに備わるのは、超高熱とはいえ、しょせん光にすぎない。

 ホウキではなく、ろうそくの光で掃除ができるかと問われれば、それはとうぜん不可能である。

 その砲身内部にへばりつくゴミを、発射の勢いで洗い落とすことは、レーザーではできないのである。

 だからこそ、ツチグモには20門の砲門がとりつけられており、使えなくなった前部の砲塔をとりかえるように、頭部の円形砲台が、回転できるようになっている。

 そしてツチグモは、その思考ルーチンにしたがって、まだ発射可能な砲身をうしろから回して、ヨイテッツに向けた。

 だがそれにも、ヨイテッツは再び、地面で煮えたぎる炭化したダイヤモンドの敷石の破片を、投げつけていた。

「くそ……歩兵が護衛についていないツチグモじゃ、こんなものか……!」

 フォーハードがうなると同時に、ツチグモのカメラアイにも、熱されたダイヤモンドがこすりつけられた。

 ヨイテッツが肉薄し、右手にソフトクリームのコーンでも握るように持っていたダイヤモンドの破片を、カメラアイにぶつけたのである。

 ヨイテッツは次には、視界を奪われたツチグモの脚のそばにおりると、その関節部分に露出した動力コードにも、片手に掴んだダイヤモンドの破片を押し当てた。

 ツチグモの脚はかなり頑丈だから、これで故障することはないが、それでもその脚は、わずかに動作不順を起こした。

「おめえら! 300人もいて、何をボンヤリしてやがる! セントデルタ人がどうこうじゃねえ! 今、目の前に倒すべき相手がいるんだろうが! 考えるまでもねえ、戦え!」

 ヨイテッツはうしろに振り返り、足をすくませたままの大衆に向けて、吠えた。

 それで、空気が変わった。

「う……うるせえよバカ! ポッと出てきたくせに、仕切ってんじゃねえ!」

 男の一人が、ヨイテッツにならい、地面で赤く輝く炭をにぎり、走ってきた。

 その男はヨイテッツの前で炭を振りかぶると、そのままヨイテッツをよけて、ツチグモの無傷の砲塔に投げつけた。

「ヨイテッツに続け! セントデルタ人の誇りを、こいつに見せつけてやれ!」

 この声に呼応するように、祭壇下で小さくたたずんでいただけだった人々に、活力が――それも、強烈な生命力がもどってきた。

「その通りだ!」

「俺たちの命は、俺たちで守るべきだ!」

「ヨイテッツに続け!」

「ヨイテッツに続け!!」

 男女の声が熱狂になって、中央広場にわきあがった。

「目ェさましたな、お前ら……よし、たたみかけるぞ!」

 ヨイテッツは振り返り、3度目とばかりに、足元の溶けたダイヤモンドをつかもうとした――そのときだった。

 その視界の隅から、とがった、巨大なものがヨイテッツの横腹に飛んできた。

 もとより、足元の石をひろう動作をしていたヨイテッツに、それに対処できる余裕はなかった。

 飛んできたのは、ツチグモの鉤爪。

 50センチのコンクリートも叩き折るツチグモのその一撃が、もろにヨイテッツの脇腹を駆け抜けていった。

「グゥッっ!」

 ヨイテッツの身体はまるで軽石のように宙にうかび、一気に人々の輪から離れたところまで、吹き飛ばされていった。

 ヨイテッツの体は二、三回バウンドを起こしながら、ダイヤモンドの敷石の上を、あたかも雪上のソリのように滑り込んでから、止まった。

「オッ……グゥっふ……ゆ、ゆだ、ん、したぜ……」

 ヨイテッツはうつ伏せになって喀血したあと、自分のドジをあざけった。

 ――だが、あんな直撃をもらっても、意外と痛くないもんだ。

 ――まだ戦える。

 ――立ち上がって、あのツチグモをブッ倒して……そのあと、みんなで……可能ならファノンを誘って、酒を飲みに行けそうだ……。

 そこで、ヨイテッツは気づいた。

 自分の顔のそばに、自分がさっきまで履いていたズボンをつけた下半身が、腸や膀胱をさらして、血まみれで横たわっていることに。

「…………!」

 それに気づいたのと同時に、ヨイテッツの体から、みるみる力が抜けていった。

「ヨイテッツ!」

 張り裂けるほどの声を出して、タクマスが走り込んできた。

「タクマス……何をやってる……ツチグモは、まだ生きている……」

「もう全員がかりで、やつのレーザーは塞いだ。あとはあいつを解体するだけだ。お前のおかげだ」

 タクマスは片膝をついて、ヨイテッツの上体を抱き上げた。

 タクマスの両腕は血まみれになっていたが、それはすべて、ヨイテッツ自身のものだった。

「なにが、おかげ、だよ……俺にはまだ、やることがある……俺はまだ、ファノンを守ってない……家族を守りきれてない……」

「ヨイテッツ……」

「あいつらは……俺が守るんだ……俺が守らなきゃ、だめ、なんだ……」

「か、家族のことは心配するな。俺たちが守ってやる」

 タクマスは乾いた声で、約束を切った。

「ファノンも……守ってやりたいんだ……」

「ファノン……しかし」

「あいつの力はたしかに生物世界の法則を超えている……だが、あいつの心は生き物のままなんだ……叩けば割れるし、落とせば壊れる。

 お前らと同じだ…………俺とも……同じ、だ……いくら常人を越えようと、人間が誰かに助けられなければ、生き延びることはできないんだよ……俺が、あいつを守らなきゃ……俺が、あいつの丸い背中をぶったたかなきゃ………ほかに何人、いるってんだ……」

「……ヨイテッツ、それは……」

 返事をしかけてから、タクマスは気づいた。

 ヨイテッツのまばたきが、止まっていることに。

「……」

 タクマスはうつむき、ゆっくりとヨイテッツの身体を、冷たいダイヤモンドの敷石にもどしてから、立ち上がった。

「……近隣の家から、武器になりそうなものを、ありったけ持ってこい。ハンマー、包丁、庭の石でもなんでもいい。ツチグモを叩き壊せ!」

 タクマスは声が裏返るほどに、けたたましく吠えた。

 そのタクマスの檄に、広場の人々から鬨の声のような、巨大な打楽器を鳴らしたような声音がもどってきた。

 ――ヨイテッツが生んだこの勢い。

 このまま、ツチグモを片付ける。

 そう考えを切り替えたタクマスの背に、とつじょ、暗雲でものしかかったかのような、黒い影が覆いかぶさってきた。

 おそるおそる、振り返ってみると、そこにも、巨大なツチグモが立っていた。

 いや、それだけではない。

 7つの放射街路の出入り口すべてを、おのおのツチグモが封鎖して、人々を取り囲んでいた。

「な、なぜ……! いつの間に! なぜだ!」

「言っただろう」

 タクマスのすぐ真上にあるツチグモのアゴから、フォーハードと名乗る男の声がもどってきた。

「俺はお前らがどんなふうに思おうと、俺の思う方向に進ませる、と。

 もう一度言うぞ、この中から一人だけ、ファノンの元へ走れ。奴を呼び、もどってこい」

 ツチグモのスピーカーからでる冷徹な要求に、ここにいる人々はかんぜんに動きを止め、戦意を失っていた。

 そしてそれは、タクマスも同じだった。

「すまん……ヨイテッツ……」

 闇へ帰ったヨイテッツのなきがらにむけて、タクマスは苦々しく、言葉を絞り出した。

決断

「ツチグモが……中央広場に?」

 ファノンは、家に駆け込んできたアエフからその報告を聞いたとたん、アバラの痛みがギスギスとうずくのにも構わず、ベッドから起き上がった。

「そうなんだ。そこではちょうど300人ほどの集会があったらしくて……その人たちが人質にされてるんだ。すでに何人も殺されてて……誰か一人だけ、ファノンに助けを呼びに行かせてやるとか、ツチグモに条件を出されたらしいんだけど……まだ、来てないの?」

「助けの依頼……? そんな話、聞いてないぞ」

 ファノンはけげんな顔で返した。

「そりゃあ……困ったな」

 メイのほうはファノンから取り替えた包帯を松の桶に入れながら、アエフの報告に、えらく切迫さのとぼしい、ズレた返事をした。

 だがじつのところ、その無表情の裏で、メイは焦っていた。

 ファノンの立場上、この話を聞かされれば、義務感をおぼえずにいられるはずがなかったからである。

 ツチグモを倒す力があるのは、いま、この世にはファノンしかいない。

 エノハもツチグモと対する能力はあったが、いまのエノハは、最大の武器であるレーザー砲を、ロナリオに破壊されていて、まだ修理が完了していないのだ。

 だからこそ、ファノンの身にのしかかるのは『義務感』なのである。

「俺、行くよ。その話を聞いて、寝てるわけにはいかない」

 メイの予想通り、ファノンはそれを口にした。

「待て、まだお前、ケガが治ってないだろ、無理すんな」

「なら俺のケガが治ってからツチグモと戦えって? ツチグモはそれまで、300人の人質を殺さず、彼らに飯を食わせ暖をとらせ、金も与えて、全員の雨露を防いで待ってくれるってのか?」

「それは……」

「ただ、気になることもある。なあアエフ、その情報はどこから入ったんだ? なぜフォーハードから解き放たれた人質代表より、お前のほうが情報が早いんだ」

「え……フォーハード? これに彼が、絡んでるの?」

「そりゃあ……ツチグモから声を出すなんて、あいつしかいないだろ……」

 ファノンはそこまで言って、ハッとした。

 セントデルタの人々にはまだ、フォーハードの復活のことは、告げられていないはずである。

 だが、アエフはファノンが危惧する反応とは、違う表情を見せた。

「あの人が、そんなひどいことを」

「……フォーハードを知ってるのか?」

「……僕、取り返しのつかないことをしたのかもしれない」

「何をしたんだ」

 メイが話を聞くことにした。

 今回の件とは無関係でなさそうだったからだ。

「このあいだ、マハ……フォーハードが、死にそうなケガで倒れてたんだ。僕、良かれと思って……そのケガの傷を縫合したんだよ。それが治ったと思うと、こんなことになるなんて」

「クリルに蹴られた時のことかもな……お前のところにいたのか、あいつ」

 ファノンがひとりごちた。

「どうしよう……だとしたら、僕のせいだ。僕が、フォーハードを助けたから」

 アエフは震え声で、自分を責め立てた。

「僕が……僕がみんなを危険にしたようなものだ。僕は……」

「それは違う」

 ファノンが冷静に否定した。

「見知らぬ人を全力で助ける……それの何が悪い。フォーハードはそのセントデルタ人の良質さにつけこんだだけで、お前は何も悪くない。

 現実に、ツチグモを駆って、みんなを殺しているのはフォーハードであって、お前じゃあない。罪を負うのもあいつで、罰を受けるべきなのも、良心の呵責にさいなまれるべきなのも、あいつだけだ。

 悪いことをする奴が罪に問われないなんてことは……この俺が許さない」

「ファノン……」

「俺、行くよ」

 ファノンがもう一度、決意を告げた。

「エノハ様も腕のレーザーを壊されて3日しか経ってないから、とてもツチグモと戦える状態じゃない。俺が行くしかない」

「ダメだ……お前は行っちゃ、ダメだ!」

 メイが語気を強めて反対した。

「なんでだよ、ツチグモのレーザーは、喰らえばどんな人間もひとたまりもない。あいつのセンサーは、人間の体表を流れる生体電気から、100パーセントの精度で次の人間の行動を洗い出せるんだ。

 大勢でかかれば、倒せないことはないだろうけど、それをするには、レーザーの装填が間に合わないほどの……たくさんの人間の盾が必要だ。俺が行けば、誰も死なずに済むんだ」

「そんなの、わかってる。わかってるよ。だけど」

 メイはその先の言葉を控えざるを得なかった。

 ――ツチグモを倒して平和を取り戻せるだけなら、それでいいさ。

 ――そののちに、以前とまったく変わらない人付き合いが続くならいいさ。

 ――いっときは、お前の力を、人々は讃えるだろう、褒めそやすだろう、羨むだろう。

 ――だが、いっときだ。本当に一瞬のことだ。

 ――次には、そもそも仲間が死んだのは、お前のその力のためだった、と人々は考えるだろう。

 ――フォーハードは何人も、すでに中央広場で殺している。

 ――そんな中で、お前が人々の前で、その力を使えばどうなる。

 ――生き残った人々は、ああ、ファノンのこの力のために自分たちは人質に取られ、仲間を殺され恐怖に怯えたのだ、と感じるだろう。

 ――この日から、かくじつにファノン反対運動が激化するんだ。

 ――そんなところに、お前を送れない。

 ――今はただ噂にかきたてられて不安なだけだった気持ちにすぎないのに、ファノンの力を人々の目の前で発現させて、裏付けるわけにはいかない。

 ――300人が犠牲になるにしても……。

 ――クリルさんは、私にファノンを守ってほしいと、村長に推薦した。

 ――ファノンを守るために。

 ――ツチグモのもとに行かないことで、ファノンは責められるだろう。

 ――だがファノンは行かなかったのではなく、私に力づくで止められて、行くことができなかったことにするんだ。

 ――その責任を、私が一身に受ける。

 ――私は私のやり方で、ファノンを守ってみせる。

「ともかく俺は行く、止めんなよ」

「ファノン!」

 ファノンはパジャマズボンに長襦袢という、寝巻きのいでたちのまま、メイをすり抜け、廊下へ出ていこうとした。

 しかしその片腕を、メイは強くつかんだ。

 そして、そのまま合気道でもするように、腕をひねって、ファノンの腕を逆関節に極めた。

 これによってファノンは重力から抜け落ちたように、みずからの力で放りあがり、その背中を床に叩きつける……はずだったが、そうはならなかった。

 ファノンはメイの全力の腕ひねりに、片方の手で自分の掴まれた腕をおさえ、踏ん張るように支えていたのである。

 運動不足ぎみで、武道の心得も知らない数ヶ月前までのファノンには、考えられない動作だった。

「メイ、離せよ」

 ファノンは投げられかけたのを責めるでもなく、メイに言い放った。

「お前……」

 メイは目を見開いて、ファノンを見つめた。

 メイがファノンをとどめるには、力づくしかなかったが、いまのファノンに、それは通じない。

 それを悟ったメイは、声を震わせた。

 ファノンは、知らぬ間に、強くなっていたのである。

 昔のファノンは、投げれば飛んで、押せば倒れ、蹴れば当たったはず。

 もう、ここにいるのは、バカにされながらも、それ以上に庇護され、愛されるだけだったファノンではなかった。

「ダメだ、あそこへ行けば、お前はもう……」

 だからメイは、言葉でうったえるしかなくなった。

 そしてファノンが、それで止まるはずがないことも、メイはわかっていた。

 ファノンは今度こそ、メイの横をすれ違った。

「ごめん……メイ」

 ファノンはそう言って、かすかにこうべを垂れたあと、こんどはアエフを見た。

「途中まで一緒に来てくれ、アエフ。走りながら話そう。なぜフォーハードの使者より先に、お前が来れたのか聞きたい。少しでも情報が欲しいんだ」

助けてあげて

 急いでいたり、慌てていたりすると、小さなことに邪魔されるだけで苛立ちをかきたてられる。

 そういう時には、道ばたに小石があっても、大岩のように邪魔な存在に見えるものである。

 今がまさにそれで、クリルは自分の家の扉が外開きであるために、ほんのわずかに家の中に入るのが遅れることにさえ、怒り狂いたくなった。

 学校の残務が早く片付いていれば。

 今日の仕事が休みならば。

 どちらかであれば、もう少しマシな気分になれたはずなのに……とクリルが呪うのも、苛立ちの賜物である。

 それもこれも、フォーハードが起こした事件のためだ。

 クリルもまた、ツチグモ来襲のしらせを受け、ファノンのことを心配して、家路を急いだのである。

「ファノン!」

 クリルは玄関に足を踏みこみざま叫んだが、そこからファノンの返事はなかった。

 代わりに戻ってきたのは、女のすすり泣く、か細い声だけだった。

 クリルはその声を早足でたどっていくと、居間にたたずんで両手で顔を覆うメイを見つけた。

「メイ……ファノンは」

「ごめんなさい、クリルさん……私、ファノンを守れなかった」

 メイは涙で声を詰まらせながら、クリルに告白した。

「あいつのあの力、人に見せちゃいけないものなのに……見せれば怖れられるものなのに……あいつ、その力で中央広場の人たちを、助けに行ったんです……あの力で人を救っても、誰にも感謝されないって、わかってるのに」

「メイ……」

「私には、ここまでです。クリルさん……悔しいけど……あいつを、助けてください」

「悔しい……?」

「とぼけないでください。わかってるんでしょう? あいつの気持ち」

「……よく見てるね、メイは」

「こんな状況で、こんな話をするなんて、我ながら卑怯だと思います。クリルさんは、どう思ってるんですか、あいつのこと」

 メイは顔から両手を離し、泣きはらして赤くなった両目をクリルに差し向けた。

「好意はうれしいよ。でも、やっぱりあたしには、そういうのはダメなんだ」

「なんでですか。わ……わたしが言うのも何ですが、ふたりはすごく、仲がいいのに」

「あたしは、他にやらないといけないことがあるの」

「やるべきこと? ファノンの気持ちより、大事なことがあるんですか」

「大事……そうかもね。こんど話せるといいな。今、それどころじゃないじゃん」

「そうですね、わかりました……今は矛をおさめます。

 ファノンが危険なんです。あなたならファノンを助けられるかもしれない」

「やっぱり、あの子は中央広場に?」

「私は止めました。でも、私じゃムリだった」

 メイの瞳に、またも涙がうるみだしてきた。

「そんなこと、ないよ。きっと、あの子には通じてると思う」

 クリルは居間のドア枠に手を添えながら、きびすを返した。

「もう大丈夫。あたしが、ファノンを守るから」

 すでにここまで戻るために息は切れて、肩を上下させるクリルだが、それにも構わず、そこから全力で走り出していった。

解放戦線

 時間は、少し前にさかのぼる。

「ファノン! 中央広場で、俺の友達が捕まっちまったんだ……お前なら、何とかできるんだろう? ツチグモも、お前を呼んでたぞ」

「それはアエフから聞いた。今から行くところだ」

 家の扉を開けたとたん、顔は見知るが名前の思い出せない知人が、ファノンにすがりそうな勢いでまくし立ててきたから、ファノンは静かに返事した。

「ファノン! ツチグモがお前を所望だ。お前のその力が原因だろうが。責任とれや!」

「だから急いでる、通せよ」

 ファノンは広場の方角から走ってきた男になじりとばされるのを、さらりとかわした。

「ファノン……わたしのダンナがあそこにいるのよ……お願い、助けてよ……」

「必ず、無事にもどしてやるさ」

 道すがら、駆け寄って懇願する女を、そうたしなめるも、ファノンは走るのをやめなかった。

「……アエフ、大丈夫か」

 ファノンはうしろを駆けるアエフを気遣った。

「うん、僕は……ファノンこそ、大丈夫なの?」

 アエフはうしろから、わずかにのぞけるファノンの横顔を慮った。

 研ぎ澄まされた頬。

 だがそれはアエフには、人の期待と望みを、背負いすぎているふうに見えた。

「俺は……大丈夫さ。今は、まだ」

 ファノンは自分の心の内を読みあげるように、つぶやいた。

「それより、さっきの話だよ。アエフ、誰から中央広場の話を聞いたんだ」

「うん……あそこは青空広場だし、人質に取られてない人でも、ツチグモの要求を聞いた人はたくさんいるよ。あの広場沿いの住宅にいた人、とかがね。ツチグモも家壁の向こうにいた人たちのことは考えてなかったみたい。その人から聞いたんだよ」

「さっきから俺に助けを求めてるのも、そういう人たちなんだろうな……」

 ファノンは疑念を覚えていた。

 ツチグモ、つまりフォーハードが、人々を人質にとり、そのうちの一人だけファノンのもとによこすと言ったそうだが、話はすでに、無関係のアエフや他の人から聞かされている。

 フォーハードにしては、情報封鎖のやりかたが、甘いのである。

 ――人質を取って利用することが、目的ではない……?

 フォーハードがその気になれば、中央広場の情報を外界からシャットダウンすることもできたはずである。

 たとえば、視界に入るすべての壁にレーザーを浴びせて灰燼に帰せば、そこに住む人々は、知人や親類、あるいは自らの命を守るために精一杯にならざるを得なくなり、フォーハードの主張に耳をすます、どころではなくなる。

 そして、それをした上で、300人の人質から一人をえらび、ファノンのもとへ送るほうが、情報の隔離としては有効なのだ。

 残酷なフォーハードが、広場周辺の建物に人が住んでいることを、考慮しないわけがない。

 それをしなかったとしたら、考えられることはひとつ。

「あいつは人質に恐怖を与えること自体が目的なんだ……すでに何人か殺してるが、それを生き残った人々に見せるのが狙い。

 ――つまりフォーハードは……今の時点で、目的をすでに果たしている。俺を呼ぼうとしてるのは、さらに奴の野望のコマを進めたいからに過ぎない」

 ファノンは頭の中を整頓するために、順序だてて、ぼそりと論じた。

 ――そして、人々にひとつの結論を、あたかも自分でひらめいたかのように、誘導する。

 こんな目に遭ったのは、ファノンの責任だと。

 反ファノン運動という名の、今のところ、それなりの節度がある火に、フォーハードは薪や油どころか、ガソリンをまく気なのだ。

 ――俺を孤立させて仲間を奪い、居場所をなくし、絶望させ、そして、その気持ちを憎しみに変えさせることで、この宇宙を破滅させることが狙いなんだ、あいつは。

「アエフ……もういいよ、ありがとう。あとは俺だけで行かせてくれ」

「でも」

「すまないが……人質が一人、余分に増えるのはゴメンなんだ。それより、エノハ様のところへ、フォーハード襲来の話を伝えてくれ。あの人なら、レーザーが使えなくても、何か策を講じてくれるだろう」

 助言しながらもファノンは、それはあり得ないことだとわかっていた。

 しらせなど送らずとも、確実にエノハはフォーハードの侵攻に気づいている。

 にもかかわらず、エノハは現時点で何もしていない。

 エノハとフォーハードは密約によって癒着しているからだろう。

 とはいえ、二人は友情や愛情とはまったく逆のもので結びついている、ということもファノンは知っている。

 かつてエノハはフォーハードに『完璧な理想の世界を作るから助力せよ、だがもしも自分がセントデルタに私心を持ち込めば、この世界を破壊してもいい』とフォーハードと盟約を結んだ。

 二、三年前ならともかく、今のフォーハードの腹はもはや、セントデルタの維持にはない。

 ファノンという存在に気づいた時点で、もはやその気持ちはなくなっているのである。

 そんな相手に盟約などという口約束が通じないことはわかっているエノハだから、内心はフォーハードを倒したいと願っているはずだ。

 しかしエノハにその手段はない。

 いまのエノハは両腕に仕込んだレーザーが使えないが、たとえそうでなくとも、フォーハードに勝つだけの力はないのだ。

 エノハはけっきょく、フォーハードが500年前に棄却した名目にすがるしか、セントデルタを生かす方法を持っていないのである。

 少しでもうかつなことをすれば、フォーハードは無力な未開の村を、一瞬で焼きつくすだろう。

 今のフォーハードは、虎視眈々と、すべての素粒子さえ生まれ得ない完全な消滅をもくろんでいるから、目先の破壊をしないにすぎない。

 だがフォーハードに、その目先の破壊をさせなかったエノハも、並々ならぬ政略家と言えた。

 ファノンが15歳になるまで、みごとにフォーハードの視線からそらすことに成功しているのだから。

 もしもファノンが物心つかぬころにフォーハードと出会えば、かくじつにフォーハードはファノンに洗脳をほどこし、従順になったファノンの力を借りて、かんたんに目的を遂げていただろう。

「わかったよ……ファノン、無理はしないでね」

 アエフは不承不承に眉をひそめていたが、少ししてからファノンの意見を飲んで、走る速度をゆるめた。

「すまないな、アエフ。帰ったらエロ漫画を貸してやるよ」

「いらないよ、なんか汚いし。それより、万が一ファノンが死んでしまった場合、その部屋のH本を片付ける人の気持ちに、なってあげてほしい」

「ああ……そうはなりたくないもんだな」

 ファノンは立ち止まったアエフを目視したあと、前方に顔をもどした。

 ルビー・ガーネット通りの途切れる、ダイヤモンド中央広場に、一体のツチグモの巨躯がそびえているのが見えた。