蹴球探訪
手倉森監督 リオへの道はベンゲル流
来年1月五輪アジア最終予選
(10月7日)
トップ > 中日スポーツ > 芸能・社会 > 紙面から一覧 > 記事
【芸能・社会】古舘キャスター 報道ステーション降板 来年3月いっぱい2015年12月25日 紙面から
テレビ朝日は24日、「報道ステーション」(月−金曜午後9時54分)で古舘伊知郎キャスター(61)が、来年3月31日の放送で同番組を降板すると発表した。夕方、東京・六本木の同局で会見した古舘さんは、時にユーモアを交えながら淡々と12年間に及ぶキャスター人生を振り返り、今後は報道番組の制約をいったん離れ、バラエティー番組などで「しゃべり倒したい」と意気込んだ。 2004年4月の同番組開始時からメーンキャスターを務め、来年3月末でちょうど12年。古舘さんは「10年でひとくくりと思っていた」と、約2年前に一度降板を申し入れたが、契約があと2年残っていることを理由に慰留され残留。今年夏ごろ、あらためて「やめたい」と申し入れたことを明かした。 今年3月には元経産省官僚のコメンテーター古賀茂明さんが生放送中、自身の番組降板をめぐり政府側の“圧力”を暴露して古舘さんと言い争う騒動も発生。9月には安保法案をめぐる「偏向報道」を理由に番組スポンサーが契約打ち切りを宣言。こうしたトラブルが降板につながったとの見方も浮上したが、古舘さんは「まったくありません。12年間いろいろ謝ったり訂正したりで免疫ができてる」と否定した。 77年にアナウンサーとして入社したテレビ朝日を「学舎(まなびや)」と呼び、終始円満な降板を強調。「番組のタイトルはしっかり残る。私のみ去る。できれば今までは『報道ステーション エピソード1』で、4月からは『報道ステーション フォースの覚醒』とかが良かったな」と、映画「スター・ウォーズ」シリーズを引き合いに愛着もにじませた。 一方でキャスター打診時に同局の早河洋社長(現会長)から「『自由にあなたの絵を描いて』と言われたのに、ものすごく不自由な10年だった。バラエティーやスポーツと報道は違う。見る方もスタンスが全然違う。中傷や非難でつらいときもいっぱいあった」と回顧。「今後はちょっと緩くなるかな。しゃべり倒したい。12年間うっぷんがたまってる」と話した。 報道キャスターとは? との問いには「私の中では権力に対して警鐘を鳴らす、監視する存在。反権力、反暴力で、純粋な中立公正はありえない。人間で偏っていない人はいない。キャスターも意見を言っていい」と力を込めた。一番印象に残った出来事は「東日本大震災です。3月11日は忘れ得ぬ記憶です。第2はリーマン・ショック」と話した。 降板理由で挙がった「新しいチャンレンジ」については「実は新しいジャンルはもうない。ドラマも出たこともある。体力が続く限り現役のしゃべり手でいたい。ラジオ、テレビ、トーク舞台、何でもやりたい」と意欲をみせた。報道番組への再登板についても「ありうると思う。12年間やって一種の麻薬中毒。禁断症状が出たらやるかも」と含みを持たせた。 同局によれば23日までの放送回数は2960回で、平均視聴率は13・2%。最高視聴率は33・0%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区)。篠塚浩報道局長は「慰留したが最終的に本人の強い思いを尊重した。12年間の大きな功労には感謝しかない」とコメント。4月以降の後任キャスターなどは「検討中」としている。 ◆一問一答(冒頭あいさつ) 2004年のキャスター就任は、その3年ぐらい前から早河社長から頼まれていたが固辞していた。スポーツ実況や娯楽で生きてきた人間だったので。早河社長から「自由にあなたの絵を描いて」とうまく説得されたが、ものすごく不自由な10年だった。10年でひとくくりと思ってた。 主な一問一答 −古賀さんの問題が降板に影響したのか? まったくありません。経産官僚で聡明(そうめい)で、いろいろ教えていただいた。感謝してる。ただ番組内で見解の相違が起きたことは大変残念に思ってる。 −新しいチャレンジとは? 新しいジャンルはもうない。東京五輪の司会とか、宇宙ステーションからの実況とか、深夜デレデレしゃべりたいとか、夢想や妄想はある。 −不自由な10年間とは? いっぱいしゃべりたいが物量の制約があった。バラエティーやスポーツと報道は違う。「ラーメン屋」を「ラーメン店」と言い換えるように、報道特有のコードがある。 −後任にふさわしい人は? 思い切り堅いジャーナリストの線もあると思うし、僕のような同じアナウンサーの線もあると思う。僕みたいに問題発言をしない方がいい。きょうもネットで「古舘降板やったぜ」と。つらいときもいっぱいあったけどへこんだ分だけ育てられた。免疫が強くなった。 −再び報道番組は? 今はない。娯楽番組でしゃべり倒したい。 <古舘伊知郎(ふるたち・いちろう)> 1954(昭和29)年12月7日生まれ、東京都出身。立教大学卒業後、テレビ朝日に入社、プロレス中継での独自のフレーズで注目された。フリー転身後は、F1中継や「夜のヒットスタジオ」など幅広く活躍。94〜96年、NHK紅白歌合戦の白組司会を務めた。久米宏の「ニュースステーション」終了に伴い、2004年4月からテレビ朝日系「報道ステーション」のメーンキャスターに。 PR情報
|