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トランスジェンダーに理由は必要ないし「本当の性別」は存在しない [多様なセクシュアリティ]
アニメ『プリパラ』といえば、「かわいすぎる男の子」レオナ・ウェストにかかわる取り扱いが、今日の日本におけるトランスジェンダー描写の最先端を行っているなど、ジェンダーやセクシュアリティの観点からも安心・安定のクォリティであるということは、以前に述べたとおりです。
その後もコンテンツとしての人気は堅調なようで、メディアミックスのアーケードゲームが好調、アニメの2016年春以降の放映継続も決定したとのこと。
そんな『プリパラ』、新キャラクターも続々と登場しているのですが、この2015年夏頃から登場している「紫京院ひびき」、
いかにもな王子様キャラで、なにがしかのいわくありげな雰囲気を醸しだしています。
実際、登場以来いろいろと主人公たちの背後で暗躍し、怪盗姿に変装してライブに乱入するなど、なみなみならない何かを企んでいる様子が描かれてきました。
そんな紫京院ひびきに対して多くの視聴者が早々に指摘していたのが、いわゆる「じつは女性なのでは?」。
たしかに登場時の説明セリフでも「最高のプリンスの称号を持つ理想の男性」などと、やたら「男」が強調されるのは、逆に不自然でした。
なんといっても、プリパラにはすでにレオナの前例もあります。
今さらトランスジェンダルな登場人物が増えたところで、不思議でも驚きでもありません。
はたして、初登場から半年ほどが経過した11月末、第73話「彼女がデビューする日」にて、紫京院ひびきは自らデビューライブの舞台上で、出生証明書に記載された事実を示しながら、「自分は女性である」ことを明かしたのでした。
この場面、視聴者は上述のとおり「……知ってた(^^;)」でしたが、作中では誰もが驚愕。
まさか!?
いったいなぜ?
そうしてひびきの真意や狙い、そうした行動のバックボーンなどには謎を残したまま、次週へ続くとなったのです。
さあ、ではこの「紫京院ひびき」が、いわゆる男装の麗人をしていたのはなぜなのか?
そして、そうしたキャラクターを描きこんできた制作側の意図はどのあたりにあるのか??
アニメは現時点ではまだ物語が一段落しておらず、トータルでの評価には留保が必要です。
それでも、言えるのはやはり、さすがプリパラ! でした。
そんなモンダイの第74話「紫京院ひびきの華麗なる日常」を、それでは順にチェックしていってみましょう。
まずは冒頭、作中では世界的なイケメン俳優やモデルとしても活躍しているという設定の紫京院ひびきがプリパラデビューライブで女性であることを明かしたことがニュースになり街頭の大型ビジョンにも映しだされている、その様子を見たレオナが複雑な表情を浮かべます。
そしてインターネットを再確認すると、ひびきが7歳のときから男の子として子役デビューしていたという情報に、主人公真中らぁらは思わず「本当は女の子なのに、なんで?」と発言。
でも、その台詞は、直後に入るレオナの表情によって疑義を呈された形に位置づけられます。
実際、誰が「女」で誰が「男」かは、政治的に定義された社会的な必要に基づいた約束事に過ぎないと言えます(→次記事も参照)。
ならば「本当は女」の「本当」の根拠がどこかに確固として存在しているというのも、じつのところは仮構されたものであり、フィクション、いわば幻想です。
いやぃや身体的には男女の性差は厳然とあるだろうという意見もあるかもしれません。
しかしジュディス・バトラーの論を引くまでもなく、人の「生殖に関わる身体差」に対して「だから女/男である」という意味を付与しているのは、それもまた社会的文化的なジェンダーなのだという認識は、近年のジェンダー論~クィア理論あたりにおいては主流になってきています。
それをふまえると、これもひとつの丁寧な演出だと言えるでしょう。
それから少しストーリーが進むと、ひびきと、ひびきがプリパラライブを通じた「最高のプリンセス」に育てるべく「パルプス地方」から連れてきたものの、その後の本人の意向との齟齬から袂を分かった形になっている少女・緑風ふわりとの会話シーンがあります。
ここでひびきは、ふわりをわざと(?)突き放すような冷たい態度を取るのですが、その際に自分にとっては「演じることは日常」だという言葉を用います。
この「演じることは日常」というのは直接的には、実際に俳優を生業としていて、かつ普段の言動も芝居がかっているひびきの為人と対応したものと解釈できます。
しかし、社会生活での他者とのやり取りはそもそも、その場に応じた自己呈示とそれに対する周囲の人間のリアクションとの相互作用で成り立っているものです。
すなわち E.Goffman の著作のタイトルが『行為と演技』であるように、社会生活の中で日々自分のキャラを呈示し、その場その場に見合った「自分」の行為を演じているのは、社会学的に見れば紫京院ひびきに限らず、誰もがそうだと言えることになります。
そして、そんな自己呈示の要素のひとつとして「性別」もあるのです。
ジュディス・バトラーもまた、ジェンダーとは行為を遂行することで生成されるものだとの趣旨を述べています。
いわば、女や男というものは「である」ものというよりは「をする」ものだというわけです。
社会的相互行為のステージに、どのようなジェンダー要素を取り入れて自分のキャラとして表現し行為しているか…。
それに対する、他者の認識と反応こそが、社会という場におけるその人の性別だと言うこともできるでしょう。
こうしたことを、このようなセリフにさりげなく含意させているのだとすると、なかなか巧みな演出だと言うしかありません。
次に場面が変わって、今度はレオナが姉のドロシーとともに見ているテレビにひびきが映っています。
そこでは囲み取材を受けるひびきが、「女性だ」と明かしたことを踏まえた「これからは女性として活動を?」とのレポーターの質問に、これからも「僕は僕です」と答えています。
なるほど。そう来たか。
じつは私も73話での「カミングアウト」が出生証明書を示しながらだったことには、若干の引っかかりを感じていました。
つまり、出生証明書で証明できる性別というのは、出生時の身体が女性ジェンダーを割り振られるようなタイプのほうだったというだけのことで、いま現在における法律上の性別がそうであることの証明にはなっていません。
例えば現実の日本国の現行法でも間違いなくそうです(「特例法」にはいろいろ課題もあるとはいえ)。
あまつさえ、現在の本人の内心のありようが、例えばジェンダー・アイデンティティとか、ないしは(わかりやすく便宜上)「心の性別」などと呼ばれるようなものに関しても、いかなる様相になっているかなどは、出生時につくられた書類1枚で説明できるものではないわけです。
そう考えると、73話の時点では、その描写はマズいのではないかとも思えるものです。
しかしプリパラの制作陣が、このことをわかってないはずは、やはりありませんでした。
ひびきとしては、本当にあくまでも出生証明書のうえでの性別が女性であることのみを明かしたつもりだったのでしょう。
たしかに出生証明書に記載されたデータとしての性別は女だと言ったけど、だからどうなんだ?
自分がしたい自己表現をして自分がなりたい自分になるのに、それによる制約を何か受ける必要があるのか?
……ということを言っているわけですね。
出生時の目視確認による「生殖にかかわる身体タイプ」を根拠に判定され各種書類に記載された属性こそが「本当の性別」であるというのは社会的なお約束にすぎず、本当は誰でも、それにかかわらず、何にでもなれるしどこへでも行ける――。
実際にそのことを体現している人も今どきは珍しくなくなってきている現状を踏まえて、視聴者に対しても、思い切ったメッセージとなりえています。
やはり侮れない、プリパラ、恐ろしい子(^o^;)
で、そんなひびきの様子を見て、レオナはやはりいろいろ気になるようです。
矢も盾もたまらず、姉のドロシーを伴って、ひびきが今度主演するという演劇の稽古場に乗り込みます。
「あの……(ひびきさんは、本当は女なのに)どうして男の人の姿をしてるのですか?」
………ニコニコ動画の配信で視聴すると、この場面でコメント欄がいっせいに「お前が言うな」になったのは言うまでもありません(^^ゞ
(もっとも、ここ数ヶ月、画面に映っていないところでレオナがいろいろ考えていたことをうかがわせる描写もなかったわけではありませんから、ここでひびきにこう問う動機は、じつのところ納得できるものですし、作劇上もここでレオナを絡めるのは順当です)
そこでふと思い立ったひびきは、ちょうど到着が遅れていた相手役の女優待ちの時間を、レオナを代役に充てることで稽古をしようと提案します。
ちなみに、その演劇のタイトルは「ペルサイユの騎士」。
………『ベルサイユのばら』と『リボンの騎士』に元ネタが採られていることは推測に難くありません。
もちろん両作品ともに、主人公は女性でありながら男性として生きる「男装の麗人」ですね。
上手い具合に現在のひびきの立ち位置にかぶせた劇中劇です。
しかし『ベルサイユのばら』も『リボンの騎士』も、主人公の男装にはやむにやまれぬ事情がありました。
そのためそれぞれの主人公には、内に秘めた女性としてのアイデンティティとの間での葛藤もあったものです。
そしてこの『プリパラ』での劇中劇「ペルサイユの騎士」の台本にもまた、主人公男装の理由として「家の事情で男として育てられた」からだという理由が記されていたことになっています。
ところが、ひびき自身はどうやらそういうものを超越してしまっているようなのです。
レオナを相手役にした稽古の中で、レオナから再び劇中劇の台詞として「どうして女性が男性の格好を?」の旨を問われたひびきは、そのシークエンスで台本を投げ捨てて言います。
「しょせんこの世は嘘とまやかし。どこに問題がある?」
……なるほど!
これもまた、先ほどの緑風ふわりに言った「演じることは日常」の延長で捉える事ができます。
社会へ向けて開示している自己の表現はあくまでも「自分」。
結局は、その場その場に応じた自分というキャラを演じている――。
そこに周囲が解釈を加えた結果が「女」や「男」なのにすぎず、「性別」の社会的意味とは行為と演技と他者の解釈の相互作用の混沌の中にだけ醸成され、それがその場でのその人の性別の真実。
だから確固とした実体はない曖昧なものにすぎず、「本当の性別」というものが、その場以外のどこかに存在すると考えるのは、社会における対人関係では、じつはあまり意味がない。
その意味では、社会で認識されているその人の人物像というものは、「性別」も含めてすべて虚像であり、それに依拠した社会関係は、まさに「嘘とまやかし」だとも言えるのが標準的な状況なのです。
そして、それゆえに社会という場で「演じる」自己をどのようなキャラに(他者からどのように見られるかという予測も含めて)コーディネイトするかにおいて、「本当の性別」というものを考慮するのもあまり意味がないから、それで制約を感じる必要もない……というのがひびきの考えであり、すなわち『プリパラ』から視聴者へ示された答えなのでしょう。
要は、紫京院ひびきの男装には特別な理由がない。必要ない。
そうしてひびきはレオナに問い返します。
「キミはどうなんだい?」
すかさずレオナも台本を投げ捨てます。
そして、答えて曰く
「あるがままです!」
そう、レオナもまた、本来割り振られている男という性別にあってかような女性的表象の自己であることは「あるがまま」のことであって、何の問題もない自然なことだと表明されたのです。
こうして、『プリパラ』では本来割り振られている性別に抗った自己表現をすることにさしたる理由は必要ないという方針が、18話のときと同様に再確認された形となりました。
日本のポピュラーカルチャーでは異性装キャラはたしかに珍しくないとはいえ、『ベルサイユのばら』や『リボンの騎士』はもとより、ほんの数年前の2010年でさえ、『ハートキャッチプリキュア』で明堂院いつきが男装なのには「家庭の事情」が必要とされたことを思えば、これはかなり隔世の感があります。
「異性装したいキャラにはさせとけばイイ。理由はテキトーでじゅうぶんだ」。
このような『プリパラ』制作陣の方針を、ものすごく先進的で画期的だと言わずして何としましょう。
いゃ、そりゃそうでしょう。
なりたい自分になるだけのことに、なんで理由を説明させられる必要がある!?
このやり取りを経て、レオナも何か吹っ切れたようです。
すがすがしい表情です。
かくして、この『プリパラ』第74話「紫京院ひびきの華麗なる日常」は、最新のジェンダー論~クィア理論に肉薄するエッセンスを、小難しい専門用語を一切使わずに描ききりました。
いやはや、今しばらく『プリパラ』から目が離せない日々が続きそうです。
◎レオナとひびきの「違うところ」とは?
この劇中劇の稽古を終えた直後のセリフでレオナが、自分とひびきが似ているところもあれば違うところもあると口にします。
この「違うところ」についてはネット上でもいろいろ解釈・考察がおこなわれているようです。
たしかに「この世は嘘とまやかし」のひびき、「あるがまま」なレオナ、若干スタンスは違います。
虚飾と自然体……とでも言えましょうか。
しかし私の見立てでは、これは同じことのオモテ面とウラ面にすぎなくて、本質的には両者の「性別」をめぐる自己表現が基づいているコンセプトは同じなのではないでしょうか。
上述の E.Goffman の論も含めた社会的相互行為あたりの知見を補助線に当てて解釈すると…
「この世は嘘とまやかし」→ 社会関係は行為と演技、ドャァ!
「あるがままです!」→ そんな自己呈示を周囲の他者どもよさぁ解釈しやがれ~っ!!
……なわけなので。
結局のところ、「本当の性別」の根拠となるなにがしかが個々人に内在するというのは虚構でしかなく、「性別」とは自己と他者の関係性のやり取りの場に生成される実体を持たないものにすぎないんですね。
※本稿の補助としてこちらの本に書いたものも参考になるかもしれません
→『改訂版 ジェンダー・スタディーズ』にて章担当
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