Ommo's

26年振り、北海道に帰って、3度目の冬。

吉田拓郎のコンサートも、帯広でやったものだが…

2015-12-23 | 日記・エッセイ・コラム

 

 帯広市民会館(いまは、もう無い)。吉田拓郎のコンサートもやったな。1972年。斉藤哲夫、友部正人も出演した。

 その時のポスター。帯広・CLOUD の加藤光邦社長が、40年以上も前のポスターを大事に持っていてくれて、写真家の戸張良彦さんにその古いポスターを撮影していただいた。

 このとき1972年の、帯広の吉田拓郎は、アコースティック・ギターで、椅子に座って歌った。バックバンドは、やはり、アコースティックのギターバンド、猫だ。

 もちろんわたしの企画だから、東京・帯広往復航空運賃、宿泊費、ギャラ、会場費すべて、わたしが払うわけ。これは北海道ツアーではない。帯広だけのコンサート。(当時の業界の用語では、”行って来い”というやつ)。

 拓郎さんの事務所は、エレック・レコードだったか、すでにユイ音楽工房だったか……な? 斉藤哲夫さん、友部正人さんは、URCレコードの東京事務所に紹介してもらった。

 

 このあと、吉田拓郎は、ロックバンドをバックにする。おなじ広島の”愛奴”だ。ギターが町支寛二さん、ドラムスが浜田省吾さん。わたしは、この”吉田拓郎 with 愛奴"の北海道コンサートには関わってない。京都出身の元北大生の、札幌の大西さんがやっていた。

 

 しかし………40年以上前………小さいレコード店のあんちゃんの、素人のわたしがデザインした『吉田拓郎コンサート』のポスター……そんなに、悪くないでしょ?

 印刷は帯広の東洋印刷。東洋印刷は、まだ白樺通りに移転してなくて、東1条南7丁目あたりに工場があった。ファンファンの吉田ママに東洋印刷の坪川部長を紹介していただいて、この『吉田拓郎コンサート』のポスターを刷った。それ以来15年以上、わたしの企画するイヴェントの印刷物すべて、坪川さんにお願いした。帯広に戻って、坪川さんが数年前に亡くなったと聞いた。

 当時、帯広で、わたしがやっている音楽のイヴェントの意味を理解してくれていたのは、印刷物を刷っていてくれた、東洋印刷の坪川さん、そして、新生広告の田西さんかな。

 帯広市民会館の連中(市の職員)には、さんざんバカにされ、ナメられたものだ。「この、吉田拓郎ってなに? 大ホールなんか使って、客、入るのかい(レコード屋のアンちゃん)!」

 

 ところが吉田拓郎コンサート当日、大ホール1600席は満席、立見びっしり(当時は消防法がまだゆるく、立見が許された)、わたしは、2000人くらいのお客さんを入れただろうか。

 わたしが主催した、この吉田拓郎のコンサートに来てくれた方は、いま、60歳前後になるだろうか? 

 

 その当時はまだ、ロカビリーとか、グループサウンズのなごりなのか、なぜか、観客がステージに紙テープを投げる。(お客がステージに紙テープを投げる、おかしな流行りだった。むかし青函連絡船が出港するときも紙テープだったが‥‥‥)

 お客が投げた紙テープが、イスに座って歌っている吉田拓郎の眉間に、バシッと当たった。

 すぐに歌をやめ、「僕らは真剣に歌ってるんだ。君らも、聴く態度というのがあるだろう!」と、言った。帯広市民会館大ホール、満員の会場が、シーンと凍りついた。

 

 

 

 

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