昨年、デビュー40周年を迎えた桜井 賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦の3人からなるバンド・THE ALFEEがアルバム『三位一体』を発売した。レジェンドと呼べる立ち位置にいながらも、常に現役を貫き新作発売やライブと精力的に活動し、進化し続ける彼らが、その秘訣とこれまでの軌跡を振り返り語った。
◆音楽性だけでは結びつくのは奇跡、人として繋がらないと長く続けるのは無理
――高見沢さんのソロインタビューでは、それぞれが前に出たがらない“次男坊気質”で、だからこそTHE ALFEEは40年以上続いたと言っていましたが。坂崎さんと桜井さんはどう思います?
【坂崎】 もう、そのとおり。というか、続いた秘訣とかよく聞かれるけど、考えたことないんですよ。聞かれてからいろいろこじつけるんだけど、平たく言うとこの3人だからかな? 音楽性だけでバンドが結びつくのは奇跡っていうか。だから最終的には人として繋がらないと、長く続けるのは無理ですよね。
【高見沢俊彦】 その点、俺らは全員が“どうぞ、どうぞ”ってダチョウ倶楽部精神だから(笑)。
【坂崎幸之助】 バンドをやるヤツはだいたい“俺が、俺が”って感じだし、そうじゃないとバンドなんてやれないんだけど、僕らは最初からそこがなかったんです。
――それで成り立って来たことがすごいですよね。
【桜井 賢】 だから最初は売れなかったんだよ(笑)。バンドって普通、名前まで知られるのってフロントマンだけでしょ。でも3人とも歌っていたから、逆に知ってもらうのに時間がかかったんです。
【坂崎】 僕らは最初から1人で目立つより、みんなでハモったり音楽やることの楽しさを目指していたから。1人でいくのはちょっとこっぱずかしいぞと。
【桜井】 そういう人間が3人集まっちゃった。
【高見沢】 みんなメインボーカルを取るより、ハモる方が好きだもんね。
――41年間の中で一瞬でも「オレ、目立ちたい」と思ったことは?
【高見沢】 (即答で)ないね。だって3人でやるほうがラクじゃん。なのに何で1人で目立とうとするのか逆に不思議。
【桜井】 僕らはデビューして一発目で失敗して、そこからいろんな人のバックバンドをやったり、いろんなバンドを散々見てきたのね。そこで“ああはなりたくない”って思ったから、今があるんですよ。
◆「メリーアン」は売れると思っていなかった
――41年間って、好き嫌いの好みを越える力がありますよね。
【坂崎】 でも売れなかった頃の生活は悲惨でしたよ。高見沢なんて水を飲んで暮らしてたし。
【桜井】 極貧でしたね。
【高見沢】 お金は全部レコードに使っちゃうんです。でも若いときの苦労は苦労と思わないんですよね。
――では、音楽的な行き詰まりは?
【高見沢】 それは「メリーアン」(1983年6月発売)の前、いろんな曲を出しても当たらなかった頃かな。そろそろヒット曲を書いてくれって言われるんだけど、そんなもん、書けるか!って。
【桜井】 それまでいろんなことやったんだけど、見事に全部かすっていくわけです。そのおかげで打たれ強くなっていたし、このままコンサートの動員が増えていけば、確実にどうにかなるだろうと思っていたんだけど、ヒット曲ってそうそう出るもんじゃないんですよね。
――「メリーアン」はいける(売れる)と思いました?
【高見沢】 全然。ていうか、その前のシングルの「暁のパラダイス・ロード」(1983年3月発売)って曲でいけると思っていたんです。そのとき作っていたアルバムからもう1曲シングルカットしよってことになって。もう何を出していいかわからないから当時のディレクターにまかせて出しのたが「メリーアン」。それがじわじわっときて、武道館公演が終わった後にヒットしたんです。
――イメージとしては一気にきた印象でした。
【坂崎】 その頃、『ザ・ベストテン』(1978年1月19日〜1989年9月28日放送 TBS系)に出たのが良かったんですよ。“今週のスポットライト”っていうコーナーで紹介されて。しかもそのとき大阪城ホールからの中継だったから、お客さんが会場で一体になっている映像が流れた。ああいう(ライブの)光景は当時、テレビで流れたことはほとんどなかったんじゃないかな。
――初めて見た人は多かったと思います。今でこそ当たり前になりましたが、当時は何万人ものお客さんが完全に同じ動きで盛り上がっているっていう、あの一体感は驚きでした。
【高見沢】 でも、あれも僕らがああいう風にしろって、お客さんに言ったことはないんですよ。
【坂崎】 僕らは淡々と演奏しているだけなので。
◆5年先6年先のことは全く考えてない! とりあえず(3人合わせて)210歳までやる
――そうやって毎年、ライブを欠かさずやってきたわけですが、休みたいと思ったことはないんですか?
【高見沢】 ないな〜。
【坂崎】 だって休みたくても次がもう決まっちゃってるんだもん。
【桜井】 そこで休んでご覧なさい、お前が責任取れってなっちゃうでしょ?(笑)。
【高見沢】 僕ら常に来年含めて、だいたい1年単位でスケジュールを考えているんですよ。
【坂崎】 だから休むとなると、再来年って話になるから、そうなると今の時点でそんな先のことわからないじゃないですか。
【高見沢】 もし休むって言っておいて、やりたくなっちゃったらどうするの? って話で。それは困るでしょ。
【坂崎】 それがずっと続いてきただけなんです。
【高見沢】 だから逆に5年先6年先のこととかは全く考えてない。そういう戦略はゼロ。常に次のコンサートのために何をやるか考えていて、そこに向かってテレビやラジオに出たり、シングルを出すっていう感じなんです。
【坂崎】 そうやってちょっとずつステップアップしていったんですよね。
【高見沢】 今後もとりあえず210歳までやるっていう以外には特に具体的な目標はないです。むしろ、そこに行き着くためにはあまり物事を深く考え過ぎないことが大事かなと。
【坂崎】 ストレスを貯めないことは大事。で、あとは気をつけるのは塩分の取り過ぎですかね。
(文:若松正子)
◆音楽性だけでは結びつくのは奇跡、人として繋がらないと長く続けるのは無理
――高見沢さんのソロインタビューでは、それぞれが前に出たがらない“次男坊気質”で、だからこそTHE ALFEEは40年以上続いたと言っていましたが。坂崎さんと桜井さんはどう思います?
【坂崎】 もう、そのとおり。というか、続いた秘訣とかよく聞かれるけど、考えたことないんですよ。聞かれてからいろいろこじつけるんだけど、平たく言うとこの3人だからかな? 音楽性だけでバンドが結びつくのは奇跡っていうか。だから最終的には人として繋がらないと、長く続けるのは無理ですよね。
【高見沢俊彦】 その点、俺らは全員が“どうぞ、どうぞ”ってダチョウ倶楽部精神だから(笑)。
【坂崎幸之助】 バンドをやるヤツはだいたい“俺が、俺が”って感じだし、そうじゃないとバンドなんてやれないんだけど、僕らは最初からそこがなかったんです。
――それで成り立って来たことがすごいですよね。
【桜井 賢】 だから最初は売れなかったんだよ(笑)。バンドって普通、名前まで知られるのってフロントマンだけでしょ。でも3人とも歌っていたから、逆に知ってもらうのに時間がかかったんです。
【坂崎】 僕らは最初から1人で目立つより、みんなでハモったり音楽やることの楽しさを目指していたから。1人でいくのはちょっとこっぱずかしいぞと。
【桜井】 そういう人間が3人集まっちゃった。
【高見沢】 みんなメインボーカルを取るより、ハモる方が好きだもんね。
――41年間の中で一瞬でも「オレ、目立ちたい」と思ったことは?
【高見沢】 (即答で)ないね。だって3人でやるほうがラクじゃん。なのに何で1人で目立とうとするのか逆に不思議。
【桜井】 僕らはデビューして一発目で失敗して、そこからいろんな人のバックバンドをやったり、いろんなバンドを散々見てきたのね。そこで“ああはなりたくない”って思ったから、今があるんですよ。
◆「メリーアン」は売れると思っていなかった
――41年間って、好き嫌いの好みを越える力がありますよね。
【坂崎】 でも売れなかった頃の生活は悲惨でしたよ。高見沢なんて水を飲んで暮らしてたし。
【桜井】 極貧でしたね。
【高見沢】 お金は全部レコードに使っちゃうんです。でも若いときの苦労は苦労と思わないんですよね。
――では、音楽的な行き詰まりは?
【高見沢】 それは「メリーアン」(1983年6月発売)の前、いろんな曲を出しても当たらなかった頃かな。そろそろヒット曲を書いてくれって言われるんだけど、そんなもん、書けるか!って。
【桜井】 それまでいろんなことやったんだけど、見事に全部かすっていくわけです。そのおかげで打たれ強くなっていたし、このままコンサートの動員が増えていけば、確実にどうにかなるだろうと思っていたんだけど、ヒット曲ってそうそう出るもんじゃないんですよね。
――「メリーアン」はいける(売れる)と思いました?
【高見沢】 全然。ていうか、その前のシングルの「暁のパラダイス・ロード」(1983年3月発売)って曲でいけると思っていたんです。そのとき作っていたアルバムからもう1曲シングルカットしよってことになって。もう何を出していいかわからないから当時のディレクターにまかせて出しのたが「メリーアン」。それがじわじわっときて、武道館公演が終わった後にヒットしたんです。
――イメージとしては一気にきた印象でした。
【坂崎】 その頃、『ザ・ベストテン』(1978年1月19日〜1989年9月28日放送 TBS系)に出たのが良かったんですよ。“今週のスポットライト”っていうコーナーで紹介されて。しかもそのとき大阪城ホールからの中継だったから、お客さんが会場で一体になっている映像が流れた。ああいう(ライブの)光景は当時、テレビで流れたことはほとんどなかったんじゃないかな。
――初めて見た人は多かったと思います。今でこそ当たり前になりましたが、当時は何万人ものお客さんが完全に同じ動きで盛り上がっているっていう、あの一体感は驚きでした。
【高見沢】 でも、あれも僕らがああいう風にしろって、お客さんに言ったことはないんですよ。
【坂崎】 僕らは淡々と演奏しているだけなので。
◆5年先6年先のことは全く考えてない! とりあえず(3人合わせて)210歳までやる
――そうやって毎年、ライブを欠かさずやってきたわけですが、休みたいと思ったことはないんですか?
【高見沢】 ないな〜。
【坂崎】 だって休みたくても次がもう決まっちゃってるんだもん。
【桜井】 そこで休んでご覧なさい、お前が責任取れってなっちゃうでしょ?(笑)。
【高見沢】 僕ら常に来年含めて、だいたい1年単位でスケジュールを考えているんですよ。
【坂崎】 だから休むとなると、再来年って話になるから、そうなると今の時点でそんな先のことわからないじゃないですか。
【高見沢】 もし休むって言っておいて、やりたくなっちゃったらどうするの? って話で。それは困るでしょ。
【坂崎】 それがずっと続いてきただけなんです。
【高見沢】 だから逆に5年先6年先のこととかは全く考えてない。そういう戦略はゼロ。常に次のコンサートのために何をやるか考えていて、そこに向かってテレビやラジオに出たり、シングルを出すっていう感じなんです。
【坂崎】 そうやってちょっとずつステップアップしていったんですよね。
【高見沢】 今後もとりあえず210歳までやるっていう以外には特に具体的な目標はないです。むしろ、そこに行き着くためにはあまり物事を深く考え過ぎないことが大事かなと。
【坂崎】 ストレスを貯めないことは大事。で、あとは気をつけるのは塩分の取り過ぎですかね。
(文:若松正子)