あの日未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第42回は福島県富岡町です。
震災前の人口は1万6,000。
町の南部に福島第二原発があり北隣の大熊町には福島第一原発があります。
午後3時30分。
富岡町の沿岸を巨大津波が襲いました。
死者行方不明者は合わせて24人。
町役場は対応に追われます。
津波は福島第二原発にも襲いかかりました。
そして原子炉の冷却設備を破壊します。
早急に復旧しなければ原子炉に深刻な事態を招く事が判明しました。
懸命の復旧作業が始まります。
震災の翌朝政府は第一原発と第二原発の周りに避難指示を出します。
富岡町は全住民の緊急避難を決断。
しかし大きな問題が立ちはだかります。
想定をはるかに超えた事態に直面した時富岡町の人々はどのように行動したのか?福島第二原発は重大事故の危機をどう脱出したのか関係者たちの証言です。
地震の直後富岡町が立ち上げた災害対策本部です。
今も当時のまま残っています。
町長と共に災害対策本部の中心的役割を担っていました。
ホワイトボードには「毛萱地区7棟全壊。
栄町県道通行止め。
今村病院の入院患者数130」。
警察や消防巡回に出た町の職員からの情報が書き込まれました。
しかし原発事故に関する情報はほとんどありません。
避難所の運営を担当していた菅野利行さんも原発の事をほとんど意識していなかったと言います。
ホワイトボードに記されていた原発からの情報は一つだけでした。
「福島第二原発4号停止」。
地震直後に原子炉が緊急停止した通報です。
津波は福島第二原発にも襲いかかりました。
ここは第二原発の災害時における司令塔となった免震重要棟です。
地震直後3階にある緊急時対策室には続々と担当責任者が集まってきました。
ここに座ってですね…。
当時所長として陣頭指揮を執った増田尚宏さんです。
増田さんは原子炉の自動停止を確認したあと発電所内の地震被害の状況把握を進めていました。
津波は防潮堤を越え原発構内を海抜16mまで遡上していきます。
しかし室内にいた増田さんはまだ事態の深刻さに気付いていませんでした。
その直後突然緊急時対策室が停電します。
すぐに原子炉内の状況確認を命じます。
しかし津波が運び込んだがれきに阻まれ原子炉建屋に行く事ができません。
できたのは原子炉を管理する中央制御室と構内用のPHSで連絡をとる事だけでした。
原子炉の運転責任者…津波が押し寄せた1時間後報告されたデータをノートパソコンに打ち込んでいた時異変に気づきます。
これは当時の原子炉内の圧力の数値をグラフにしたものです。
平常時は安定している原子炉内の圧力が急激に上昇を始めていました。
原子炉内の水蒸気が増え続けているのです。
蒸気を水に戻す冷却装置が働いていないと推定されました。
2日以内に原子炉を冷やして圧力を下げないと原子炉が破損して放射性物質が外部に漏れるおそれもある緊急事態です。
そのころ富岡町役場の北およそ9kmにある福島第一原発では既に原子炉内の圧力上昇を抑える事ができなくなっていました。
東京電力の福島第一原子力発電所では原子炉2基で安全に冷やすための発電機が使えなくなり政府は原子力災害対策特別措置法に基づく原子力緊急事態を宣言した他福島第二原子力発電所などの原子炉4基でもトラブルが起きました。
富岡町の災害対策本部は停電で電気が使えません。
外部との連絡もできなくなっていました。
原子力災害が起きた時町はどのような対応をする事になっていたのでしょうか。
これは富岡町の「防災計画」です。
原子力災害の項目は全部で41ページ。
「原発事故が起きた際には国が設置する応急対策の拠点通称オフサイトセンターから連絡を受けその指示に従って対応する」と記されています。
実は震災当日第一原発に近い大熊町のオフサイトセンターは停電と発電機の故障で通信設備が使えず外部への連絡ができなくなっていました。
機能していなかったのです。
富岡町の災害対策本部が原発の情報を得る手段それは停電時でも使用可能な原発とのホットラインだけでした。
これは町役場に残されていた職員のメモ。
原発ホットラインからの情報を書き留めたものです。
18時33分。
第二原発の原子炉の除熱機能が失われた事が記されています。
原発からの通報を受けた職員の一人です。
そんな中第二原発から2人の東京電力職員が連絡係として派遣されてきました。
第二原発では午後10時すぎ津波で被害を受けた冷却設備の状況確認がようやく始まりました。
調査に行ったのは海水熱交換器建屋です。
原子炉の熱を海水で冷やす設備が置かれています。
設備の保全管理を任されていた…宮澤さんのもとに被害情報が次々と集まってきました。
当時の建屋内の様子です。
1号機の海水をくみ上げるポンプはモーターにがれきが詰まって破損。
電源盤も海水に浸かり使えなくなっていました。
2号機4号機も同じようにモーターと電源盤が被害を受け冷却機能を失っていました。
すぐに対応策が練られます。
しかしその時第二原発には破壊されたモーターの予備はありませんでした。
電源についても問題がありました。
第二原発には外部から4つのルートで電気が供給されていました。
しかし地震で2つのルートが破損。
1つは定期検査中でした。
たった一つの電源がつながっていたのが廃棄物処理建屋です。
そこから被災した設備まで最大800mの距離があります。
モーターと電源をつなぐためのケーブルは延べ9kmほど必要になります。
その大量のケーブルも第二原発にはありませんでした。
10人の担当者が全国に電話をして資材調達を開始します。
タイムリミット2日のうち既に8時間が過ぎていました。
3月12日未明。
富岡町災害対策本部は避難所の寒さ対策などに追われていました。
ラジオや携帯電話のワンセグ放送から原発の情報が聞こえてきます。
午前5時22分。
第二原発の状況は更に深刻な局面を迎えます。
格納容器の中には原子炉内の蒸気を冷やして水に戻す圧力抑制室があります。
圧力抑制室で蒸気を冷やす水は海水熱交換器建屋の冷却装置と循環し海水で冷やされる仕組みです。
しかし冷却装置が壊れたため圧力抑制室の水温が下がらず100℃を超えてしまいました。
これでは原子炉の蒸気を水に戻せません。
圧力を下げる事ができなくなったのです。
同じ頃制御不能に陥った福島第一原発の危機に対し政府は重大な決定を下します。
避難指示が出た10km圏内には第一原発のある大熊町から富岡町の北半分までが含まれています。
富岡町の住民水間マサさんはこのころ大熊町にいました。
同じ頃富岡町職員の石黒さんは大熊町の給油所で公用車に燃料を入れている最中でした。
災害対策本部は大混乱に陥ります。
国やオフサイトセンターからの指示は何も来ていませんでした。
富岡町は10km圏内の住民だけでなく全町民に避難を呼びかける事を決定します。
防災無線で町民への伝達を行った…午前7時。
富岡町全体に向けて避難の呼びかけが始まりました。
目指すのは西隣の川内村です。
北は第一原発南は第二原発。
逃げ道は西しかありませんでした。
川内村へ向かう県道は大渋滞します。
もう一つ町が対応しなくてはならない問題がありました。
町は車を持たない住民に避難所の体育館に集まりバスを待つよう呼びかけました。
しかしそのバスが確保できていなかったのです。
「防災計画」には全町民が対象の避難は想定されていませんでした。
バスが足りない時は県に要請する事が記されています。
しかし県とは連絡がつきませんでした。
手だては防災無線しかありません。
石黒さんはおよそ1時間バス会社や住民に避難用のバスの提供を呼びかけました。
午前7時45分。
第二原発周辺にも3km圏内の避難指示が出されます。
バスに乗るため避難所に集まった住民の不安が高まっていきます。
石黒さんはバスを探そうと車で町を走り回っていました。
諦めかけたその時でした。
石黒さんの呼びかけを聞いた地元のバス会社が送り出してくれたものでした。
地震で通れなくなった道を迂回し到着が遅れていました。
その後更に何台かのバスが到着し川内村へピストン輸送を行います。
最後のバスが出たのは午後2時でした。
第二原発では電源ケーブルを引く作業がなかなか進みませんでした。
肝心のケーブルが届かないのです。
避難指示が出たため第一原発から10km圏第二原発の3km圏には検問が設けられケーブルを積んだトラックが入れなくなっていたのです。
更に…ケーブルの搬入がますます遅れます。
そんな中探していたモーターが三重県で見つかったと連絡が入ります。
作業が遅れる中現場では時間稼ぎの策が講じられます。
「ドライウェルスプレイ」とは高温高圧となった原子炉格納容器内に水をまく事です。
原子炉を少しだけ冷やす効果があります。
その後公表されたデータを見ると確かに圧力上昇が抑えられています。
3月12日の夜。
手配したモーターが愛知県小牧空港から自衛隊機により緊急輸送されます。
3月13日未明。
モーター以外の資材がようやくそろいました。
13日の1日をかけて必死のケーブル敷設作業が行われます。
ケーブルの総重量はおよそ45t。
がれきで重機が使えないため全て人力で敷設しました。
普通1か月はかかる作業を1日でやり遂げなければなりません。
津波から2日余りたった3月13日午後8時。
1号機の冷却装置に新たなモーターが据え付けられました。
しかし問題が生じます。
ようやくモーターが動きだし1号機の冷却が始まります。
原子炉の圧力が限界に達する2時間前でした。
1号機の水温が100℃以下に下がり冷温停止しました。
福島第二原発は危機を脱しました。
しかし川内村の避難所に行った富岡町の人々は町に帰る事はできませんでした。
第一原発の避難区域が20kmに広がっていたのです。
更にこの日30kmまでの屋内退避が指示されます。
3月16日。
富岡町の人々はおよそ6,000人が更に遠い郡山市の避難所に移動。
その他の1万人は全国にちりぢりに避難していきました。
第二原発の所長だった増田さんは今第一原発廃炉事業の責任者です。
これだけの被害が出た事に強い責任を感じています。
町の災害対策本部にいた菅野さんもまた「防災計画」の想定が不十分だったと感じています。
あの日から4年余り。
富岡町の全町民避難は今も続いています。
手入れをされる事なく朽ちていく家々。
1万6,000人の町民は帰れないままです。
富岡町は2017年には町の一部だけでも住民の帰還を始めたいとしています。
2015/12/22(火) 02:10〜02:55
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 証言記録 東日本大震災 第42回「福島県富岡町」[字][再]
富岡町の福島第二原発は津波で冷却機能を喪失、二日以内に復旧しないと放射能がばらまかれかねない。深刻な事故を想定していなかった町は全町民避難をきめるが大混乱に。
詳細情報
番組内容
富岡町にある東電福島第二原発は津波で原子炉3基の冷却機能を失う。二日以内に冷却装置のモーターを交換し、800m離れた電源までケーブルを張って冷却を始めないと原子炉が破損し放射能がばらまかれかねない。懸命の復旧作業は困難を極める。富岡町では事故の深刻化を受け急きょ全町民の避難を決めるが肝心なものが確保できていなかった。事故前の想定が崩れたときどう対応したのか、原発幹部と富岡町職員たちの証言でつづる。
出演者
【キャスター】畠山智之
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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