写真/時永大吾 model/kaeru chiaki mizuki manami
機材も被写体も似ている、それなのに「何か」が違う……3名の写真家によるトークイベントから、その「何か」を見つけるヒントを得られました。写真は「何」が写るのだろう?
写真は「視点」が写る。
写真は「光」が写る。
写真は「コミュニケーション」が写る。
写真は「生きざま」が写る。
写真は「距離感」が写る。 ── 青山裕企『僕の妹は、写真家になりたい。』(雷鳥社)p,30
写真/飯田えりか(少女写真家)
時永大吾 写真展『-G-』展示風景
文:松本塩梅
3人はどのような「女の子」を撮ってきたのか?
写真/青山裕企
写真/時永大吾 model/kaeru chiaki mizuki manami
写真/飯田えりか(少女写真家)
女子高校生、ギャル、少女……スタイルもスタンスも異なる女の子を前に、彼らのファインダーには何が写り、そして何を写してきたのでしょうか。
「被写体への負い目がなければ、人物を撮る必要があるのか?」
写真/青山裕企
同様に時永大吾さんはギャルへの、飯田えりかさんは少女への負い目があり、ギャル/少女という客観的・表面的なイメージではなく、あくまで「自分の心に居る、リアルでは捉えきれなかったギャル/少女」を撮ろうとしているのが「写真家としての視点」なのではないかと言います。
さらに青山裕企さんは「対象に負い目があるかどうかは、人物を撮る基本ではないかとも思っています。記憶を撮っているのか、記録を撮っているのかの違いでもあります」と言及。負い目がある対象への撮影は記憶をベースにしたものであり、その体験の個人差によって撮られる写真も変化するのでしょう。
写真/時永大吾 model/kaeru chiaki mizuki manami
写真/時永大吾 model/kaeru chiaki mizuki manami
写真/飯田えりか(少女写真家)
そこには高校3年間を通じた「女の子が女の子を好きになるという、憧れとそれ以上の劣等感」を抱えるほどの少女との出会いと日々がありました。その少女が持つ「きれいと思わないものは排除する美学」に飯田えりかさんは価値観を強く揺さぶられたと言います。
写真/飯田えりか(少女写真家)
それぞれが抱く負い目は違えども、その感情が作品に「視点」となって宿っているのです。「写真の定義はそれぞれだけれど、僕は基本的にフィクションで、真実を写そうとは思っていない。リアルな自分と過去の自分とが対峙する中での作品制作は、過去の自分をどうにかしたいと思ってもどうにもならない、絶対クリアできないゲームをやっているみたいなもの。だから、ずっと撮り続けることができる」と青山裕企さん。
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