にっぽん紀行「母と子 初めてささげる祈り〜戦後70年 広島〜」 2015.12.21


案内人の戸田菜穂です。
私は今生まれ育った広島に帰ってきています。
今年広島は原爆投下から70年という特別な年でした。
ここは市の中心部なんですが70年前一瞬にして何もなくなりました。
黙とう。
広島は毎年8月6日世界に向けて原爆の恐ろしさと核兵器の廃絶を訴えてきました。
私も子供の頃語り部の人たちの話を聞いて被爆について学んできました。
だけどその事をどれだけ伝えようとしてきたか自信がありません。
同じ思いを抱いてきた私と同年代の女性が今年ふとした事をきっかけに祖父の被爆体験と深く向き合う事になりました。
今回は70年の時を超えて初めて家族の8月6日をたどった心の旅です。
うわ〜何かすごい懐かしい。
広島市にある平和公園。
戦後爆心地に作られたこの公園は被爆した人たちが子供たちに原爆の恐ろしさを訴える場となってきました。
しかし今年被爆者の平均年齢は80歳を超えました。
かつてここで当たり前のように見られた語り部の姿はほとんど見られなくなりました。
私たちは一組の親子と出会いました。
白神亜礼さんと小学4年生の娘響記さんです。
2人は地域の公民館で開かれた被爆者の体験を聞く勉強会に初めて参加していました。
参加のきっかけは響記さんから「同級生のほとんどが原爆に関心がない」と聞いた事です。
実は亜礼さんには被爆者の祖父がいました。
その体験を娘に伝えずにきた事に責任を感じたのです。
祖父の久保田盛磨呂さんです。
40歳の時に被爆。
17年前に亡くなるまで家族と一緒に暮らしました。
優しい祖父でした。
盛磨呂さんは被爆から30年後自らの被爆体験を記した手記を出版します。
亜礼さんは何度も読んでほしいと勧められましたが一度も読む事はありませんでした。
勉強会への参加をきっかけに亜礼さんは祖父の手記を初めて読む事にしました。
そこには被爆した直後の盛磨呂さんの様子や広島の惨状が記されていました。
昭和20年8月6日。
40歳だった盛磨呂さんは市内の軍需工場に動員され働いていました。
出勤直後の8時15分。
原子爆弾は一瞬にして広島の町を破壊します。
盛磨呂さんは建物の下敷きになり重傷を負いますが辛うじて助かりました。
職場の同僚50人余りは姿が見えず周囲は炎に包まれていました。
「生きながらに一握りの灰になった老若男女の叫びが炎の中で弾けるような響きと共に私の耳に跳ね返ってくるのである」。
それから1年。
いらっしゃい。
こんにちは。
亜礼さんは祖父の体験を本当には分かっていなかったと気付かされる事になります。
実家で盛磨呂さんの手記がもう一つ見つかったのです。
それはタンスの中に日記などと一緒に保管されていました。
誰一人知りませんでした。
原稿は祖父自身の被爆についてだけでなく一人の少年の記述が多くを占めていました。
その少年は十代半ばの日系二世。
開戦と共に母国アメリカを追われた父のふるさと広島へ来ます。
盛磨呂さんとは軍需工場で知り合い親しくしていました。
亜礼さんが驚いたのは少年に対して盛磨呂さんが行った事を記した箇所です。
原爆投下の直後盛磨呂さんは運ばれた病院で偶然少年と再会します。
少年は大けがを負って横たわっていました。
枕元には配給された乾パンが置いてありました。
「私は乾パンを一つ一つ拾い上げて『もうこれは君には要らないものだ。
僕が貰って行く。
僕はまだこれから生きていかねばならないんだ。
どうか許してくれ給え』と少年に言った」。
「闇の中で誰かがこのさもしい行為をじっと見ているような気がした」。
同僚で仲が良かった少年から乾パンを持ち去ったという祖父の姿を亜礼さんは受け止めきれませんでした。
亜礼さんは新しく出てきた原稿をそれ以上読むのをやめてしまいました。
平和公園の中にある原爆資料館です。
今被爆者の家族が遺品を後世に残そうと次々と訪れています。
うん…そうですよね。
祖父盛磨呂さんの原稿を一度読んだきり見ようとしなかった亜礼さん。
再び向き合ったのは半年後11月下旬でした。
娘の響記さんが何気なく口にしたひと言が気になったのです。
なるほど〜そっか〜。
そうよね…実際に被爆した人は祖父が原稿を残した事をどう思うのか。
どうぞ。
亜礼さんは資料館で語り部をしている川本省三さんに話を聞きに行きました。
亜礼さんは祖父の原稿を半年ぶりに読み返す事にしました。
家族のために書き残したのだとしたら目を背けてはいけない。
つらい事実にも向き合わなければいけないと思ったのです。
12月亜礼さんは盛磨呂さんの原稿を持って町に出ました。
祖父はどんな思いで乾パンを持ち去ったのか。
8月6日の道のりをたどる事で理解しようと思ったのです。
盛磨呂さんが被爆した軍需工場の施設があった場所です。
爆心地からおよそ800m。
熱線と爆風その後の火災で壊滅した範囲にありました。
「一人の声も聞かず一人の姿も見ない。
薄れようとしている意識を取り戻すために私の命は懸命にもがき続けた」。
盛磨呂さんは火災を避けようと市内を東西に走る大通りを歩き川の向こうを目指しました。
体にガラス片が刺さり足を骨折。
つえがなくては歩けない状態でした。
しかし背後には火の手が迫っていました。
建物の下から助けを求める声があがり生きたまま焼かれていく人もいました。
周辺では勤労動員の学徒が多く働いていました。
「砂地を踏むたびにザクザクという音がした。
勤労動員の学童たちの白骨が砕けてもう砂に変化した響きに聞こえてならなかった」。
橋から見たのは炎から逃れた人々が川に入っては力尽き亡くなっていた姿でした。
その光景は自分が生きている事を実感させました。
「上流から人間の死体が音もなく無数に私の目の前を流れていた。
生きた人間はどこにもいなかった。
私は生きていた。
生きている以上は生きるために動かなければならなかった」。
そしてようやくたどりついた病院。
盛磨呂さんはここで少年の枕元から乾パンを持ち去りました。
ただ生きるために許してくれと少年に手を合わせた祖父。
たった一人それを背負い戦後を生きていました。
祖父の8月6日を初めて知った亜礼さんです。
1週間後。
亜礼さんは娘の響記さんを連れて平和公園を訪れました。
盛磨呂さんがよく散歩に連れてきてくれた場所です。
祖父は原稿を通して何を伝えたかったのか。
亜礼さんは自分の考えを伝えようと思ったのです。
大丈夫?大丈夫。
70年の時を経て家族の戦争を受け止めていく親と子。
「同じ悲しみを繰り返さない」。
今紡がれていく祈りです。
2015/12/21(月) 19:30〜19:57
NHK総合1・神戸
にっぽん紀行「母と子 初めてささげる祈り〜戦後70年 広島〜」[字]

被爆70年の広島で、偶然、祖父の被爆体験と向き合う事になった女性がいる。手記に記されていたのは思いもしない祖父の姿だった。初めて家族の体験をたどる心の旅を追った

詳細情報
番組内容
被爆70年の広島では、被爆者の遺品が次々と寄贈されている。被爆時に着ていた服や時計、手記など、家族の体験と初めて向き合い後世に残して欲しいと考える人が相次いでいるのだ。広島市に住む白神亜礼さん(41)も、今年初めて17年前に亡くなった祖父の被爆体験記を読み返す事に。すると、思いもしなかった祖父の姿が分かってきた。これまで祖父の話に目を背けてきた事を悔いながら、体験をたどっていく心の旅を追う。
出演者
【案内人】戸田菜穂

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:31290(0x7A3A)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: