kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブコメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブコメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブコメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年12月23日

再生するということ。

クリスマスといえばベツレヘムである。

今年は2月に忍び込んだガザでねこちゃんなどを描き、つい先日、フランスのカレーの「ジャングル」難民キャンプの高架下の壁にスティーヴ・ジョブズを描いたバンクシーは、10年前(もう10年前!)の2005年、西岸地区の分離壁に「芸術テロ」をぶちかまし、2007年にはベツレヘムで「サンタのゲットー」というイベントを行なった



そんなベツレヘムについて説明が必要だという人はさほどいないかもしれないが、「それって食えるのおいしいの」と思った人はウィキペディアの概要部分の第二段落の最初の文の後半の25字分くらいを読んでほしい。(リンクをクリックして、そのくらい、探して読めるでしょ?)

ベツレヘムはパレスチナ(ヨルダン川西岸地区)にある。そして、ヨルダン川西岸地区は、イスラエルによる不法(国際法の無視)にさらされ、壁とか作られて分断されまくっていて、そして「警察力」的なもの(そういう名目の何か)を行使するのもイスラエルである、という不条理の中にある。それでいてイスラエルは「我が国は宗教に寛容、ユダヤ教以外も厚遇」ということを言いたいので、ベツレヘムに関しては「観光振興」とかいろいろある。しかし現実には……である。

そして外部では、こういう「報道」がなされる。





然るに、私の見ている範囲には「閑散としたクリスマス」とはちょっと違う光景の写真も流れてくる。こういうギャップも、毎年恒例だ。










そして2015年のベツレヘムでは、こういう「再生アート」がある。


ベン・ホワイトさんのツイートに出ている写真は、記事ページのキャプションによると、"Tree of Resistance in the courtyard of the Nativity Church Bethlehem, West Bank."

つまり、ベツレヘムの聖誕教会(降誕教会)の庭にある『抵抗の木』。

The tree is an olive tree that is nearly 2,000 years old which was recently uprooted by Israeli bulldozers in Bir Ouna, near Bethlehem, in order to build part of the wall, according to the event organiser, Mazen Al-Izza.

『抵抗の木』の木は、樹齢2000年近くにもなるオリーヴの木だ。ベツレヘム近くのビール・オウナという場所に立っていたが、最近、イスラエルのブルドーザーによって引き抜かれた。建設予定のショッピング・モールの敷地内になるからだという。


イスラエルというのは、こういうことをやっている。それでいて自分たちのその地での存在を正当化するための理由を探すために、地面を掘り返している(それを「考古学」と呼んでいる)。

On the sidelines of the tree lighting ceremony, Al-Izza said: “Today we place the tree of life here, in the Nativity Church courtyard, as a form of resistance, decorated with the remnants of the occupation’s weapons used to oppress the Palestinian resistance in order for the world to see.”

“This tree was planted in Palestine during the time of Christ and it is proof of the sanctity of Palestine. The occupation uprooted the tree of peace from the land of peace,” he added.

“This tree will remain in the Nativity Church courtyard until the end of the Christmas celebrations,” adding, “we are here to highlight the violations and injustice the Palestinians are subject to.”

『抵抗の木』の点灯式典では、「今日ここ、降誕教会の中庭に、抵抗のひとつの形として、生命の木を設置します。木に飾り付けられているのは、パレスチナの抵抗を押さえつけるために使われた占領の武器の一部だったものです。全世界にこれを見ていただきましょう」という挨拶があった。

「この木は、イエス・キリストの時代にパレスチナに植えられたものです。パレスチナの神聖さの証拠です。占領(者)は、平和の地から、平和の木を根こそぎ引き抜いたのです」

「この木は、クリスマスの祝賀が終わるまで、降誕教会の中庭に設置されます。パレスチナ人がさらされている権利侵害と不正義に光を当てましょう」


「再生」のアートはこのほかにもある。





1分程度の短い映像だ。冒頭、ベツレヘムの大通りを、催涙弾をバンバンバンバンと発射しながら軍用車両が進んでいく。一帯に白い煙が立ち込める。「毎日イスラエル軍によって発射される催涙ガスのキャニスターが、西岸地区の町を散らかします」というようなキャプションが出る。

映像は、そのキャニスターを拾って「クリスマス・ツリーに飾るオーナメント」として再生しているカナダ人の学生を紹介している。「勉強中でもおかまいなしに催涙ガスが窓から入ってくるんですが、このキャニスターを使って何かできるんではと思ったんです」。

そう語るウォルター・ブリンソルフソンさんは、街路で拾い集めた催涙ガスのキャニスターをきれいに磨いて、カラースプレーで塗装し、きれいなリボンをかけてクリスマス・ツリーにひっかけられるようにしている。彼はこれを「ピース・パーセル(平和の包み)」と呼び、個人が手作りアイテムを販売できるサイトでネット通販している。これを通じて関心を高めてほしいというのが彼の考えだ。パレスチナの土地と人々に加えられる抑圧という問題を解決するには、「国際的なプレッシャーが一番効果的」という。

Twitterのアカウントがある。
https://twitter.com/peaceparcels















そしてアルジャジーラに取り上げられ、著名人のツイートもあり、ちょっとすごいことになったらしい。





文字通りの「嬉しい悲鳴」ですね。:)

ベツレヘムのクリスマスについては、3年前、2012年に作成したページもご参照のほど。




※この記事は

2015年12月23日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:57 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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なお、ここに貼ってあったZenbackは2015年2月19日にコードを外しました。今後は検討中です。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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