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せっかくなので、

 投稿者:津々浦々  投稿日:2015年12月24日(木)00時32分25秒
  通報 編集済
  思うところもあるので書き足しておかせてください。
実はあのあとずっと書いていくつもりでしたが、除名になった人たちの顔を想像で思い浮かべると
重い気持ちになり、疲労してまで、私もあえて書かなくてもよいかなと思っていました。

見渡す限り。すでに雌雄を決した感もありますし、これでもまだ迷う人がいたら、もう、その人の
責任だと思うくらいですが。ただ、それでも本当にそうなのかと言うと、まだまだ分かっていらし
ゃらない人がいるのではないか。自分が知っていることを人に言っておくべきかとか。
でも私だって楽しい話題でやりたいこともあるのに。

やはり連載は辛いので、連載するつもりだった内容の続きを要点だけを並べることにしました。


① 2013年の聖教および創価新報の発表。先生の著作の改定を先生御自身がすでに認められて
いたこと。それを2014年になって騒ぎ出した宿坊板の人たちが知らなかったこと。これはすで
に述べました。


② しかしこれは単に彼らが知らなかっただけの話では済みません。なぜなら、この事実が教学レ
ポートの内容と食い違うからです。教学レポートの中には、先生の著作から「大御本尊」を削除す
ることが、どれほど無理難題であるのかが、2014年の話題として縷々と述べられています。2013
年に先生が御決断されて出版の改定が進んでいるのに、当事者である教学部の担当者が2014
年にその事実を知らないというのはおかしいです。
仮に、著者に時系列の錯乱があって過去の事実を織り交ぜて述べているのだとしても、2014年の
実際の「人間革命」の出版を見て、それでも不可能だと出来るわけがないとの主張を世に出すもの
かと。
それはおかし過ぎますね。そう考えると、教学レポートの作者と言われる宮地氏自身が、少なくて
もあの時期に自らが世に問うために出した意向をもっていたというのは、事実に沿わないというこ
とになります。あの時期の流出は彼自身の意思ではない。

宿坊板の関係者が、あれほど事実だと言い、作者が世に出すのを望まれたと言ってたのに。
事実は、そうではなかったのだ、ということになります。
もともと彼ら、一部の旧広宣のOBの人たちが教学部の人たちと面識があるのは当然、想像に難く
ないですし、事実そうなのでしょうけど、何か偏向した情報を入手して信じてると思われます。
自分たちがそれらの教学部の一部の人たちと交流があって、まるで宮地氏、遠藤氏らの意向のよ
うに言ってたんですけど、実はどこかで食い違っている。
私には、宿坊板の人たちをはじめ、広く広宣OBが身を張って嘘をついているとも思いにくく、
何か私には分からない、さらに奥に仕掛けた人が存在したのかとも思えます。

偏向情報と言えば、よくネットでは、一部の広宣のOBが、かって斉藤教学部長が法論で負けたと
宣伝しているのを見かけました。私にはそうは思えませんが、仮にそうだったとしてもネットで宣
伝するものかなと。そう考えると、斉藤教学部長の悪口を賢げに述べて貶めることで、自分を偉く
せたい人がいるのだろうなと。(広宣OBのことではありませんよ。)彼らに吹聴した存在。そう
いったところからも、何か事実に沿わない、特定の人を軽視して、自己中心的な利用に振り回そう
とする人物が、教学部か、その周囲にいたのかもしれません。それぞれの方々は、それぞれの事実
が食い違うところをよく認識され、情報ソースのあやふやさを疑ったほうがよいのでは。


③ 彼らの情報が偏向していたという事実をもう一つ。宿坊板が、自分たちの都合で2014年に騒
ぎ出したものですから、彼らは事実をよくは認識していませんでした。その決定板は、彼らの主張
の発端そのものでした。かって何度も言及してきましたが、御本尊の教義改定がおかしいと言いな
がら、彼らの中の誰一人として、先の改定(1993年10月)の内容を正しく知りませんでした。知
っていたらとても恥ずかしくて言えない主張ばかりでしたよね。思い出しても噴飯物で、「今回は、
先生の指導は無いのか!」だなんて。

前回、どんな指導があったかどうかすら、彼らは全然、心に留めていない。まるで無関心のくせに。
普通の人が知っていることよりも、自分たちの情報を有難がる癖がついてしまっています。
その積み重ねで、自分たちは知っていると思っている所が難しい所なのですが。
前回の1993年の改定は、聖教新聞を始め、改定の経緯などが秋谷会長から発表されました、浄円
寺から申し出があって云々とか、でもそれはあくまで「経緯の発表」です。でも日顕宗は頭が悪い
ので、彼らの機関紙がそこにいちゃもんを付けてきましたから、学会のほうもそんなことばかりの
やりとりになって、広宣でもそんなことが中心になってしまいました。でも学会はそのときに堂々
と「教義見解」ではっきりと発表しています。
創価学会こそが「僧宝」の意義をもち、御本尊授与を左右し決する資格を有するのだと。教学部の
見解では観心本尊抄など数点にわたって解説してきたはずなのに。どうして誰もそれを覚えていな
いのか。新聞なんて読まない人でも発表のあったとき、支部単位くらいで音声テープでも指導が流
れたはずです。私の記憶ですが、改正は、各人のいろいろな考え方ではなく、創価学会が地涌の菩
薩の自覚から行うのだという本義、その基本を共有したい旨を、それをどうして誰も覚えていない
のかと。そのあと数か月後に、御本尊の授与が、お取替えの運動になっていくと、先生がどう言わ
れたのか、先生の指導さえ何も記憶にすらない人たちが何を言っているのかと憤慨いたしました。
先生の指導を何も思い出せない、心にとどめていない人たち。彼らのうちの誰一人も知らなかった
のは、2014年の宿坊板を見れば歴然としていることですね。
それを今になって、学会がそんなことを決めていいのかだなんて。ここ数十年間、今までどんな教
義体系でやってきたつもりなのでしょうか。(あ、いけない、要点でしたね。)

しかし、そんな所からも彼らは知っているようでも、学会の当時の教学部が発表した王道を舐めて
気に留めてこなかったことが分かります。御本尊授与を語るのに、当時の斎藤教学部長の見解を無
視するのは情報判断をするのに偏向した姿勢ではありませんか。

1993年10月
「日蓮大聖人の仏法における御本尊の本義に照らすとき」、
「この「信心の血脈」を受け継ぐ和合僧団の資格において創価学会が御本尊を授与していくこと
は、大聖人の御本尊の本義に最も適った ことである。」
どう読まれてきたのでしょうか?


④ 彼らが先生の指導を軽視し、実際にはまるで知らないのは、本年の話題の安保法案の喧騒を
見てもそう言えます。彼らの何人かが法案について作為的な虚言をなしていたのはここでは言
及しません(卑しい人はどうでもよいので)。基本、あらゆる反対意見の中には見るべきものも
あり、賛成意見がリスクが無いと語ることこそ、私には不安です。ですから反対意見は少なくて
もあったほうがいいというのは私の見解です。議論して認識が深まったほうがいいと。しかし、
彼らの意見に実に見るべきものがありません。本当に大切な所、真摯さに欠けているからです。
だいたい選挙の時に応援しておいて、安保反対ってどうなのかと^^;

以前に阿部日ケ~ンさんが、創価大学の反対意見には先生の指導に一致するかどうかばかりで、
法案そのものを掘り下げたものがないと指摘されていたような記憶がありますが、そういう印象
です。つまり幼稚なのだということです。一つの政策の選択が今後にどのような影響を持つか、
その重要さ、リスクを斟酌して道を選ぶのに、悩んで、先生の指導にたどり着いたのではなく、
自分たちの思い付きに先生の指導をもってきて当てはめているだけの作業を見ていると、正直、
吐きそうになります。
どうしてよいのか知っておられたのなら、先生はそう言うでしょう。誰にも未来のことを責任を
もって言い切れないし、皆で考えないといけないというのに。

戦争について、先生の指導は、どうだったのでしょか。本当に人間革命の「全体を」読んだことが
ないのかと疑ってしまいます。それとも何の意識もなくぼーっと読まれてきたのかと。先生は何度
も戦争に行く人に指導をされているではないですか。どんなでしたか?反対されていましたか。米
軍で戦地に行くべきか友人を見捨てても行かないほうがいいのかとか、先生は彼らに何と指導され
ましたか。文章を抜き書きするのは意味がなく、自分で最初から読んでみることを勧めます。悩ん
で学会を云々するくらいならそれくらいしてほしいです。
人間革命だけの話でもありません。イラク戦争の時になぜ先生はあんなことを言われたのか。それ
を考えたこともないのはなぜなのでしょうか。年配者なのに全然知らないとか。
唖然とさせられます。私たちの判断で、多くの子供たちが死んでいった事実は消せません。

先生の考え方は広く深く。どこまでも現実的で、それを変革していこうとされる思想です。
  端的に知りたければ、私は、先生のライナス・ポーリング博士との対談集を勧めます。

これですね。→ 『「生命の世紀」への探究』(1990年)

対談の相手は、歴史上で類例のないノーベル賞を2つ取った人です。この人は分子の化学結合を
提唱した人で、化学をやってて知らない人はいません。それで偉いのは、権威だったけどそれらの
地位を捨ててでも、米国をあげた戦争に反対運動を起こしてた人。当時は殺されてもおかしくは
ありませんでした。実はこの後に、アフリカ人の鎌状赤血球の研究から、人類史上、遺伝子の病気
の存在を発見したので、ノーベル医学賞までもらえそうだったんですけど、2つ目の人も他にはい
ないのに3つ目はちょっとダメということになったんです。
この人が晩年、先生の講演を聞いて、菩薩界(No.9)の思想に共鳴して対談されたというわけ。
その中で、絶対平和主義が話題になって、氏は戦争は命がけで反対したけど、絶対平和主義は懐疑
的だった。ナチスと戦わねば暗黒の世の中になったではないかと。先生は、絶対平和主義とは、こ
れだという選択が最初からあるわけでないって。暴力を放棄できる世界が最初からここに存在でき
ているわけではないのだって。悩んで、そして悩んで、そのぎりぎりの地平線の向こうにかろうじ
て存在するものだと、先生の指導をそう私は受け取りました。

安保に反対するなら、先生の指導を看板に掲げて、単純に賛成・反対を謳うなんてやめるべき。
もっと具体的な、切実な、そんな内容を語れないのに、教条を並べるだけの人に同意なんてできま
せん。宗教的な教条を先に考えるよりも常に人間が大切だという視点を優先して考えたい。


⑤ 彼らが本当には何も知らないのは、最近の話題の「黄金の三年」もそうです。
2014.年の元日の聖教新聞の「今日の発心」が正木副理事長の担当でした。「黄金の三年」、
「発迹顕本」、とかだけが意味深に勝手に思えて、心ときめいてしまったんでしょうね。

まず彼らは2013年に発表された当時にはこの指導を知りません。そしてその後も。巷間では、
その指導が流れたのを知っている人がいて、大きな選挙が無い向こう三年が来ると。これ、学会で
活動してきたことがあるのなら、「黄金の三年」というようなフレーズをよく聞いてきたことがな
いのですかと。おかしいのです。人材育成の行事を入れたりできるからですね。
もしもそこに一般には知られていない深い意味があるのなら、聖教で説明もないのに、その言葉は
使われません、常識的に。そんなことが分からないくらい、情報の偏向を受け入れてきた弊害だと
思います。『一般の人が誰も知らない特別な「黄金の三年」を聖教が発表した』、
これを妄想だと気が付かずに取りすがるその現実。巷間でよく言われている内容だから、説明もな
く使われているというのに。これを誰も知らなかったのですか?


⑥ 心配なのは、彼らの動向を見てると、とかく優秀を自覚するような人は、自分がどう扱われる
か、結局は、それだけで判断して、方向を決めてしまう人が多いように思います。
そういう人を見てると正義とか、何だったのかと思います。私たちととは全然違います。自分が不
遇をあてがわれれば、今度は学会を攻撃し始めている。失礼を承知で言いますが、もしもそんな思
いでよいのだと思っているのであれば、厳しいですが底が浅いとしか言えません。
大聖人が誹謗を受けたとたん、世を呪い、人々の不幸を願う人になったら、どうですか?
それでも正しい人だったと思いますか?仕方がないとか。
牧口先生や戸田先生は、宗門僧侶から嫌われ、嵌められ、それでも彼らを変えていきました。
変節していく人は、それだけの内容しか持たない人でしかありません。

誠実に心配して言いますと、自分の立ち位置を視座に学会を悪く言える人は、やがて師匠が不在に
なれば、必ず今度は、自分たちの正統性を訴えるようになります。師匠がいなくなれば、自分と相
手を公平に対比するだけですから、そうならざるを得ません。分かりやすく言えば、先生無き後、
学会の正統性を訴える別の宗派を立ち上げることになります。今はそんな気がなく、言下に否定さ
れようとも、細まりながらも、その行きつくところはそういう所です。お分かりでしょうか。
彼らは自分の大切な人を引き回して、そこに付いていくつもりなのでしょうか。

戸田先生は、東北の班長が分派したときに、「三年もたない」とだけ言われました。なぜか。
学会が存続していくのがどれほどの難事であるのか、やってみれば分かるということです。活動の
一つ一つ、何気ない、どこにでも代わりがあると思えたことの一つ一つがどれほどの奇跡的な事実
に支えられてきたのか。幹部とはいえそれを支えて来てくれたのは、決して自分の力によってなど
ではない、それが分からないから、簡単に「別にやれるだろ」と思えるのでしょうけど。

不遇は不遇でいいではありませんか。歴史を振り返り、自身は変節などせずに誠実さを貫くべきで
す。

日興上人の弟子、日尊は、ふとしたことで追い出されてしまいますが、門下の誰よりも(というか
この人の影響が大半かも)力を発揮して布教して、やがて凱旋します。今日、正統後継者だと謳わ
れた日道や日行なんてたいして見向きもされませんが、日尊の著作、行動は大きな関心を抱かれま
す。そういう人になってほしいと思っています。

伝教大師の弟子は、年分得度制度で毎年二人が正式な僧侶だと認められても、そのまま比叡山に残
る人は少なかったといいます。やがて籠山制が出来て、十年以上も山を下りずに課題の経典を就学
しました。年分得度制度の二人は、法華経などを勉強する人と、大日経などを勉強する人。伝教大
師の憑依集を読めば、師匠の心は、法華経が優先することは歴然としています。

輝かしい制度の正式な僧侶に選ばれて、人生の大半を使って昼夜に勉強しても、大日経は憑依の
経典。自分の勉強してきたことは、天台の法華経の解釈を超えるものではない。それを知ったと
き、あなたならどうしますか?やっぱり真言が重要だと変節しますか。それとも人は各々本質的な
差別があって自分は上位のコースを歩む人間だという法相宗に降りていきますか。
普通の人の視点ではみなそうだったのでしょう。自分だけが大切ならば。
人々のために、人生の青春期の数十年をかけて地道に真言の悪のトリックを追及しようとされる方
は数百年後の日蓮大聖人を待つより他はありませんでした。
仏法を学ぶのは本当に大切ですね。
 
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