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「文藝春秋」 1998.Aug. 文藝春秋社

山一を見よ 拓銀を見よ 会社にすがるな 頼れるのは自分だけだ

大失業時代の過酷な現実を徹底取材!

会社消滅 35歳でゴミになる




 危機を察知して、しかるべき行動を取るのは簡単なようで実は難しい。変化を読み取り、惰性に抗うのもまた容易ではない。
 「危ないと思っていましたが、まさかこんなにあっけなく潰れるとは思いませんでした」と、田口一郎(仮名)氏は語った。元山一證券人事部の中間管理職。48歳。
 「突然、会社が消滅するというショックといったら、大変なものですよ。『冗談じゃない、俺の将来はどうなるんだ!?』という気持ちで一時はパニック状態でした」
 驚きと混乱のあとから、怒りと不安がこみあげてきた。しかし、時間がたち、落ち着きを取り戻すと、「なるべくしてなったんだな」と思い始めたと田口氏は言う。
 「たぶん、ほとんどの社員が同じ思いではないでしょうか。上司にゴマをするのがうまいイエスマンだけが、出世する会社でした。社員同士の人間関係も、ぬるま湯につかっていて厳しさに欠けていた。経営者だけでなく、危機意識に欠けていた社員にも責任があります。『なるべくしてなったな』というのは、そうした自戒の念も込めての話です」
 「山一最期の日」の3月末日まで残務整理にあたっていた田口氏は、翌日の4月1日にはもう次の会社で働き始めたという。
 「社員十人ほどの、クレジット・カード関連の会社です。年収は山一の頃は950万円ほどでしたが、二割ほど落ちます」
 潰れたとはいえ、四大証券の一画をなしていた山一證券のベテラン社員の再就職先が、社員数わずか十人の超零細企業−−。
 その落差にいささか驚きを覚えていると、田口氏は真剣な面持ちで、「現実は本当に厳しいんですよ」と言った。
 「35歳を超えると、求人の数がガクッと減ってしまう。再就職先がすぐに見つかっただけ、私は幸運だったと思います。同僚からも、『お前は運がいい』と言われています」
 田口氏は、かつては将来を嘱望されたエリート社員だった。入社して4年目に、地方の支店から、東京本社の人事部に転属。とんとん拍子に課長に昇進した後、「証券団体協議会」という社団法人(現在は日本証券経済研究所総合調査部に吸収)に出向した。この団体へは行平次雄前会長も出向していたことがある。出世を約束されたコースだった。
 「ところが、出向直後に体調を崩して、本社へ戻されてから以降、出世コースから外され、山一ワールドツーリストという社員20名ほどの子会社に出向となりました。そこで約4年半、経理から人事、総務まで何でもありました。自主廃業のニュースでも、この会社に籍をおいている時に聞いたんです。
 再就職に際しては、出向先のこの小さな会社で何でもやったのが評価されたのだろうと思います。面接の歳には『電球の取り替えから、決算書の作成まで、何でもやりました』と、なりふり構わずアピールしました」
 何が幸いするか、人生はわからない。田口氏に挫折の経験がなく、零細企業で働く人々の人情の機微がわからなかったら、再就職先をスムーズに見つけることは難しかったかもしれない。


35歳以上が敬遠される理由


 山一證券が自主廃業となった時、同時にクローズアップされたのは、35歳が再就職のボーダーラインという事実だった。山一には、約4,200社からの求人が寄せられたが、大半は30代前半までの若手が対象で、35歳を過ぎると極端に求人数が減り、特別な専門技能をもたない一般の中高年社員のほとんどは再就職が難しいといわれた。3月末時点で、次の職場が未定の社員は3割近くにのぼる。そのほとんどが中高年社員である。
 問題は、会社の突然の自主廃業という例外的な事態に陥った山一社員に対してのみ、特別にこうした線引きがなされたわけではないことだ。現在の転職市場では、この「ボーダー」は「常識」なのだという。
 「本誌を見ていただければわかりますが、30代後半になりますと、求人の数は激減します。40代になると、ほとんどありません」と求人情報誌『週刊ビーイング』誌の田中和彦編集長は言う。
 「業種を問わず新しい職場環境に適応できるのは、30代前半までと一般的に考えられている。また、30代後半以降は大半が中間管理職であり、給与も高くなる。それも敬遠される理由です。
 専門技能をもった人材ならば話は別です。金融関係ならデリバティブや株式公開引き受け、ディーラーなどの専門分野に携わっていた方なら、求人がある。本山一社員の中でも、そうした方は好条件で採用されています。
 しかし山一に限らず、大企業の中高年ホワイトカラーは、大半が専門技能や知識を持たないゼネラリストであり、雇用者側には魅力がない。よほど条件を落とさなければ仕事は見つからないのが現実です」
 山一の自主廃業発表と同時期の昨年11月17日、経営破綻により、北洋銀行に営業譲渡すると発表した北海道拓殖銀行も、行員の再雇用先の確保に苦しんでいる。
 「中高年の行員で、当行の経営破綻以降、自ら積極的に再雇用を開拓して出ていった人はほとんど見当たりません」
 東京・日本橋の拓銀東京本部で、人事雇用対策センターの奥井皓夫次長はそう語った。
 「社員が全員解雇となった山一と違い、営業譲渡される拓銀は、嵐の前の静けさですね。今は行員たちはみんな、流出していった預金を取り返すために走り回っています。預金の再獲得は、営業譲渡先となる北洋銀行と中央信託も強く望んでおり、その残高に比例して、拓銀の行員の受け入れ数を決めると表明しているからです。
 先日、北海道新聞に北洋首脳のコメントとして、『貸し出し資産十億円につき、拓銀行員一人を採用する』と出ていた。ということは、2兆円あれば2千人受け入れてもらえることになる。今は、中高年行員のほとんどは、その言葉に望みを託して、黙々と日々の業務をこなしている状況です。現実にどうなるかrは、今年の秋にならないと、誰にもわかりません」
 ベテラン拓銀マンたちの希望に水を差す気は毛頭ないのだが、しかし、拓銀の行員の大半が北洋や中央信託にすんなりと吸収されるとはやはり考えにくい。今は預金の再獲得に奔走している拓銀マンのうち、何割かはジョーカーをつかまされることになるはずである。
 人事部としても甘い見通しを抱いているわけではないが、現実はきわめて厳しいと、奥井氏は率直に語る。
 「打つ手がない。タイミングの悪いことに、三洋証券、山一證券と大型の金融破綻が続き、市場に人材があふれてしまった。実際、『もっと経験のある人が他社から来ましたので」と、決まりかけていた転職の案件が御破算になったケースもありました」
 ごくまれに中高年の採用を可とする案件が持ち込まれても条件が厳しく、50歳男性で年収400万円といったシビアな内容が珍しくない。求人と求職のマッチ率は、わずかに20パーセントという。
 「総合職の銀行員は典型的なゼネラリスト。つぶしがきかない。総務や経理でも、総合職は実務の経験がない。社会保険の手続きでも、実務は一般職の女性がやっていますから。支店長クラスでも、バランス・シートを読むことはできるけれど、自分で作成した実務経験がない。
 結局、一般の行員を再就職先に売り込むには、経営破綻で苦労しているため死ぬ気で働く覚悟がある、という点をセールスポイントにするしかありません」


早期退職の年齢が下がった


 人材紹介会社の最大手リクルートエイブリックの、キャリアプロモーション事業部門マネージャー・八木幹也氏は、「35歳を超えると、転職が極端に厳しくなるのはなぜか」という疑問にこう答える。
 社員が35歳を迎えるころまでに、どの企業も人材の選別を終えているからです。入社したその日から、勝ち残り競争のスタートが切られ、答えが出るのが約10年後。それまで一律で昇進してきた若手社員たちも、そろそろ昇進に差がつきはじめるころです。一方はいずれ会社のコアになる人材であり、他方は将来のリストラ候補です。
 どこの企業も、その他大勢のリストラ候補を抱えているのに、すでに他社で選別の終わった人材を採用しようとは思いません。それが企業側の本音です」
 誰でも課長ぐらいまではなれるが、誰もが部長や役員になれるわけではない。どこかの段階で必ず選別が行われているのである。
 組織の構成員が、年を経るごとに横並びで一段ずつ階段をのぼっていく年功序列型の賃金・昇格制と、ピラミッド型の組織形態の組み合わせは、そもそもはじめから矛盾をはらんでいる。年とともにポストの絶対数が不足するのに対し、賃金は右肩上がりで上昇する。組織の上位へ行けばいくほど、賃金の高さに見合う地位、権限をもたない人間の数が増えてゆく。
 「日本では雇用の安定的維持が第一という社会的コンセンサスがあり、今まではコストが高くついても選別後の社員を内部に抱えていましたが、長引く不況とグローバル化による国内外の競争の激化のために、もはや雇用第一という建前を維持できなくなってきた。
 山一の自主廃業で35歳というボーダーが急浮上してきたわけですが、これを機に今まで見えにくかった企業の本音が社会に表面化してくるでしょう」
 八木氏の言葉通り、雇用慣行の見直しに際して、35歳をひとつの区切りとする動きが、最近になって相次いでいる。
 たとえば三菱商事は、これまでは勤続年数や年齢に応じて最高48歳まで自動的に昇級する年功序列型の賃金制をとっていたが、この上限を35歳にまで引き下げることを発表した(98年4月10日付朝日新聞)。今後は35歳を超えたら、社員の能力によって給与格差が今まで以上にはっきりつくことになる。
 また、KDDは早期優遇退職制度の応募資格を、従来の45歳以上から35歳以上に引き下げた。「35歳までなら再就職が比較的容易なことから、その年齢に達した時点で『第二の人生』を考える機会を与えることにしたという」(5月22日付産経新聞)
 ソニーも、昨年11月から今年3月までの期間限定ながら、35歳以上を対象に早期退職勧奨を行った。その名も「セカンドキャリア支援」。同様の動きは業界を問わず確実に広がりつつあり、中には30歳まで早期退職のラインを引き下げた企業もある。
 こうした動きから、30代前半までの若手会社員が汲み取るべきメッセージは明白である。転職しようと思うなら、30代後半になる前に踏み切るべきだ、ということだ。
 応募年齢が引き下げられた早期退職者への優遇制度を活用すれば、ある程度まとまった資金が入るから、資格取得のための学習に専念するなど、転職以外の道も選びやすくなる。従来、曖昧にされていた選別のボーダーが可視化され、人生の再スタートの一回目の締切りが明示されたこと自体は、若手にとっては歓迎すべきことである。
 もちろん、中高年層にとっては35歳を過ぎたというだけで、まるで賞味期限切れのコンビニ弁当のごとく扱われる現状はとても受け入れられるものではない。少なくとも、転職希望者に最初から門前払いを喰らわせ、面接の機会も与えないような排他的慣行は、早急に改められるべきだ。
 現在の求人市場を支配しているのは、今までの年功序列を裏返しただけの極端な年齢差別主義(エイジズム)であり、個々人の努力で対応するには限界がある。米国の雇用年齢差別禁止法と同様の法の制定も含め、政府は中高年の雇用を促進するための手だてを講じるべきである。
 政策的次元の話はひとまずおくとして、長期雇用を柱とする今までの日本的雇用慣行の見直しが、経営の効率化のために仮に必要だとしても、それが即、「36歳以上の非エリート従業員は不要」とする経営姿勢となってあらわれるのは、企業トップの怠慢であり、無能の証左ではないか。現に、コストダウンや年功制賃金の見直しなどの企業努力によって、ベテラン従業員の雇用を維持している企業も存在するのだ。その一つの例が、山一の自主廃業発表後、あえて、「36歳以上の元山一社員を採用する」と発表した中堅電機メーカー・横河電機である。
 同社の美川英二社長は、本誌2月号に寄稿した「わが社に首切り、定年制はいらない」と題する一文の中で、こう述べている。
 「企業は株主第一主義、従業員は必要なければいつでも切ることが経営者の取るべき姿勢だ、とする米国型経営が妙に持ち上げられるこの時代に、わが横河電機は『会社は家族だ』という考えを守っている」
 「会社は家族だ」などという言葉は、時代錯誤のように聞こえる。しかし、よく読むと、横河の「家族主義」経営は、他企業の経営方針と一線を画すものであることがわかる。
 まず、社員を馘首しない。過去2回の石油ショックの時も、バブルの崩壊直後もクビを切らず、そのかわり徹底したコストダウンを断行、赤字を出さずに乗り切った。
 定年後の社員も、本人が希望すれば「横河エルダー」という会社で再雇用される。最高齢の社員は78歳だという。
 さらに男女の差別、学歴、中途入社、学閥などによる「差別はない」とまで言い切る。3年前まで本社の人事部長を務めていたのは高卒の女性だったという。
 「横河電機に入って、驚きました」と、同社に採用された、元山一證券国際部課長の川村裕司(仮名・41歳)氏は語る。
 「お茶汲みの女性がいない。皆、自分のことは自分でやる。パソコンも、山一では部下にやらせていたんですが、ここでは自分でやらなくてはいけない。ですから今、必死でパソコンを勉強中なんです(苦笑)。
 社内での人間関係の雰囲気も違う。ここではゴミをきちんと分別しているのですが、私がつい今までの癖で適当にゴミを捨てたら、若い女性社員から『ゴミはちゃんと分けてください』とピシッと注意されたんです。ここというときには、年下の女性でも年上の男性に向かって遠慮せず、言うべきことは言うんですよ。
 横河では年齢・性別に関係なく、実力主義だと聞いていたが、たしかに女性を見下すような空気はない。その点では外資系に近い。しかしその一方で、雇用第一を掲げている。その点は日本的です。『和洋折衷』ですね」
 川村氏は最も驚いたのは、コスト削減に対する取り組みの徹底ぶりだという。
 「使用していない部屋の電灯は必ず消す。徹底したコスト意識が全員に浸透している。愕然としましたね。山一では考えられない。私は自主廃業が発表された時、『山一オランダ銀行』に籍をおいていたんですが、実は1月に帰国した際、ビジネスクラスに乗って帰ってきたんです(苦笑)。自分たちの金銭感覚が、いかにズレていたか。ここに来て、やっと目が覚めました」
 自主廃業が決定しており、日銀特融も受けているというのに、社員がビジネスクラスに搭乗するのを許す会社など問題外だが、一方、横河電機も随分と貧乏くさいケチな会社だと思う人もいるだろう。ところが、この「ケチな会社」が、山一で高給をとっていた川村氏に同水準の給料を払っているのである。
 「山一では、最後の年には年収一千万円以上もらっていましたが、ほとんど落差がありません。つくづく、私は運が良かったなと思います」


”ローン地獄”に怯える


 川村氏が、わが身の幸運を喜ぶのには、大きな理由がある。7年前に7千万円で買った一戸建ての住宅ローンが半分以上も残っていたのである。
 「年間約350万円の返済は、いざ解雇となると大変な重荷になりました。『どうしよう!?』とたまらない気分でしたよ。
 ですから、再就職先が決まって、本当にホッとしました。現在は退職金によってローンの残高を3千万円にまで減らし、横河に保証人となってもらってローンの借り換えもできました。ここではリストラの不安もない。安心して働けるのが、何よりありがたい」
 山一や拓銀の連続倒産は、再雇用の年齢制限の問題に加えて、もうひとつ住宅ローンの負担という問題を浮かび上がらせた。
 「バブル期にローンを組んだ人の中には、かなり深刻なケースもあります」と、元山一社員の武田裕一(仮名・36歳)氏は語る。
 「支店勤務だった知り合いは、奥さんに渡せる財産はすべて渡してから、離婚届を出し、その上で自己破産申告をしました」
 不良債権を抱えた企業と同様、今やサラリーマン一人ひとりが住宅ローンという名の含み損、つまりマイナスの資産を抱えこんでしまっているのである。失業したからといって単純に生活をダウンサイジングすればそれですむというものではないのだ。
 「自己破産予備軍の数となるともっと多い。ゆとり返済でローンを組んだ私の元同僚も、『もう爆発(自己破産)しちゃおうかな』と言ってます」(前出・武田氏)
 最初の5年間のローン返済額を低く抑えた「ゆとり返済」制度の利用者は、約71万人にのぼる。この制度の利用者の中には、5年を過ぎると返済額が倍以上にもなる人もいる。近い将来、返済不能の利用者が続出する可能性は極めて高い。
 拓銀の行員たちも、近づく”ローン地獄”に怯えている。札幌で会った、拓銀本店に勤務する中田浩(仮名・45歳)氏は、「私も自己破産を考えた」と語った。
 「地元の北海道出身者の中には、親の資産があり、住宅ローンを抱えていない人もいる。しかし、私のような本州出身者はそうはいかない。私も約4千万円のローンを組んでいます。約1千万円返して、残りは3千万円。ところが、今売ると2千万円にしかならない。1千万円の含み損を抱えているわけです。
 家を売って故郷へ帰ろうかと思いましたが、問題は1千万円の借金です。私には担保になるものが何もない。誰も貸してくれませんよ。
 もし北洋に吸収される際に自分が拾ってもらえず、札幌でまともな転職先も見つけられなかったらどうなるのか。自己破産が一番、ということになる」
 含み損を抱えて立ち往生している自分の姿が、経営破綻に追い込まれた拓銀とダブってみえると、中田氏は言う。
 「拓銀は北海道の経済を育てるため、100年の間、少々無理をしてでも金を出してきた。その結果、北海道の負の資産を抱えて倒れたわけですが、その運命が自分のことのように思える。私も生命と引きかえならば、借金を清算できる。退職金で住宅ローンの残りを払い、死んで生命保険を妻子に残すという道です。
 それではしかし、いったい自分は、今まで何のために働いてきたのか……。拓銀の破綻は、色々なことを考えさせてくれました」
 北海道では、拓銀マンは宴席では床柱を背負って座るのが当たり前などと言われてきた。そんなプライドが今では本当に虚しく思えると中田氏はしみじみと語る。
 「十数年前、拓銀で支店長まで務めたのに、退職して清掃会社の一介の清掃員になった方がいた。黙々とゴミを片づけていました。何が彼をそうさせたのか、心に残ったことがありました。こうなってみて、何となくあの方の心境がわかる気がします」
 男性であれ女性であれ、正社員であろうと派遣や契約スタッフであろうと、これからは誰でも何がしかの専門知識・技能を身につけなければ、生き延びていけない。これは山一などの連続倒産がもたらした貴重な教訓である。見方を変えれば、これからは専門知識・技能をもつ人間が高く評価される時代になるともいえる。今まで日本企業の内部で、「平等主義」の建前のもと、賃金を不当に低く抑えこまれていたプロの専門職が「解放」され、実力次第では今までの何倍もの報酬を手にすることになるだろう。


金融業界の渡り鳥


 ドル円為替ディーラーとして、外資系金融機関を渡り歩いてきた人物がいる。沢井孝之(仮名・44歳)氏。彼の自宅近くのファミリーレストランで会ったのは、モーニングサービス・タイムの午前9時だった。普通のサラリーマンとは逆に、沢井氏は仕事を終えて帰宅したばかり。約12時間の時差のあるニューヨーク市場の時間にあわせて、昼夜が逆転した生活を送っているのである。
 「ディーラーは敏捷性が命。一般に30代半ばが限界です。しかし敏捷性さえ失わなければ、ずっと現場でやっていける。体の続く限り、ディーラーでありたいと思ってます」
 そう語る沢井氏の手には、ポケベルによく似たポケット・ロイターが握られている。時々刻々と移り変わる為替相場の数字が表示される情報端末である。
 「いつも肌身離さず持っているんです。寝ている時も枕元に置いておくんですよ」
 片時も気の抜けいない仕事である。こんなハードな仕事を20年近くも続けてきた沢井氏のモチベーションは、何なのだろう。
 カネが目的ではないですね。もちろん、収入は低くない。年収5千万円以上取る人も珍しくない。でも高収入だけが目当てだったら、とてもじゃないが、続きません」
 沢井氏のキャリアのスタート点は、邦銀である。この点は一般の銀行マンと変わらない。慶応大学経済学部を卒業後、都銀上位行に入行。支店勤務後、本店の為替部に異動、念願の外国為替ディーラーとなる。3年近く本店で勤務したあと、海外赴任を命じられ、その1年半後に退職した。
 「さまざまな部署を移動させられる日本の銀行のシステムでは、ディーラーを続けることはできないと見切りをつけたんです。その頃の私は、とにかくドル円取引では世界一の外為ディーラーになりたいと思ってました」
 知人の紹介で84年に米系のM銀行に転職。86年には欧州系のU銀行にチーフディーラーとして転出し、その3年後の89年、米系のC銀行へ。ここでバブルの頂点と崩壊を経験した。
 「バブルが弾けて成績が落ちたら、即座に上司から『チーフディーラーを別の人物に替える』と言われ、新しいチーフの下につくか、やめるかの決断を迫られた。このあたりは、外資系ならではのシビアさですが、私は『じゃ、辞めます』と返事をし、すぐに欧州系のK銀行に移りました。その後94年から、欧州系のD銀行で働いています。
 年俸は、この仕事の場合、仮に5千万円もらおうと、高いとは思いません。仕事は厳しいし、リスクは極めて高いですから」
 外資系マネジメントの長所も短所も知り尽くしている沢井氏は、「実績第一主義一辺倒のマネジメントが、必ずしもベストだとは思わない」と語る。
 「働く個人に生活の安定感を与える配慮は、やはり必要です。そうでないと、ディーラーは『玉』(掛け金)を大きくして短期勝負に出てしまいがちです。ハイリスク・ハイリターンの博打は、当たればともかく、外れれば大きな損失をもたらすことになる。加えて違法行為への誘惑も大きくなる」
 そういう沢井氏自身は、生活の安定を犠牲にしてまでも、あくまで現役のディーラーであることにこだわり続けてきた。いったいなぜなのか。
 「ひと言でいえば、この仕事が好きなんでしょうね。転職だと思っています。ディーラーは、単純にいえば通貨を売るか買うかの丁半博打です。学歴も派閥もまったく関係なく、その人の相場を読む力だけが頼りの実力勝負です。それはやはり魅力です。しかし、私がこの仕事に魅かれる理由はそれだけではない。
 国際取引の基本となる外国為替のレートには、国内外の情報のすべてが、凝縮した形で投影されている。この為替の売買を通じて、日本と世界の政治、経済、社会の動きを、とことん見きわめてみたい」
 意外なことに沢井氏は、ディーラーという職業の持つ、「ドライに割り切って利益のみを追求するプロ」というイメージを、180度裏切るような言葉を口にした。
 「人間は弱いから、自分を見失いそうな時があります。私も、勝負に負けた時の惨めさと、勝った時の傲慢な気持ちの両極を何度も体験しています。カネ、カネと日々追いまくられていますが、カネよりもっと大切なことがあるという信念がないと長続きしない。目先の結果にふり回されていたら、やっていけないですよ、この商売は」
 「流れに従うは死魚のみ」という。しかし流れに逆らって泳ぐ活きた魚も、津波に呑みこまれればそれまでである。死魚とともに濁流に巻き込まれ、押し流されてゆくしかない。
 「一般のサラリーマンも、昨年から続く大型倒産をみて、どんな大企業であろうと潰れるんだとわかったでしょう。企業に従属していくだけの生き方では生き残れない。外資系では当たり前の、個人が自己責任で仕事を選び、競っていく時代がきている。
 ただし、それには前提がある。政府も企業もディスクローズ(情報開示)しなくてはならない。情報が開示されていなければ、個人は自己責任で判断し、選択していくことはできない。私は個人であることの無力さを何度も痛感してきましたから、その点だけは強調しておきたい。『由らしむし、知らしむべからず』という姿勢をとり続ける企業は信用するな、というのが、個人としてできる自己防衛の、最低限の心構えでしょうね」
 「実力主義」は「弱肉強食」という負のイメージと強く結びついている。しかし実力主義への移行は、同時に雇用の流動化が促され、それが健全な転職市場の形成(年齢や性別による制限、中途採用者に対する差別の撤廃)の方向に向かえば、勤労者に大きなプラスをももたらす。転職が容易になれば、一度出世コースから外れたらそれで終わりという単線的な人生から解放される。人生はワンチャンスだけではなくなり、敗者復活戦への道がいく筋も開かれるようになるだろう。それはまた、学歴偏重社会に穴をあけ、風を通すことにもつながる。


学歴がなくても勝負できる


 「私はソニー生命に入るまで、銀行と証券と生保の区別がつかなかったんです(笑)。本当です。はっきり申しまして、株のカの字、生保のセの字もわかりませんでした」
 荒井淳(43歳)氏は、そう言って笑った。ソニー生命池袋中央支社第三営業所に所属するエグゼクティブ・ライフプランナー。同社のトップ営業マンである。
 「十年前のことですが、ある日、家に電話がかかってきて、『ウチで働きませんか。ソニー生命ですが』って言われたんですよ。いたずら電話かと思ったが、そうではなかった」
 十年前、荒井氏はある清掃用具メーカーの飛び込みセールスの仕事をしていた。完全歩合制で、売り込みに成功すれば、商品一つにつき5千円から1万円の報酬が入るが、売れなければ収入はゼロ。きつい仕事だが、荒井氏は6年間、昼も夜も売り歩き、年に1,500万円の収入を得ていたという。その噂を聞いて、ソニー生命のリクルーターがアプローチしてきたのである。
 「ありがたいお話ですが、迷いました。自分にできるかな、と。経済のことはチンプンカンプンですし、学歴もない。私は昔は、やんちゃばかりしていた不良でして、高校しかしか出ていないんです。
 誤解のないように言っておきますと、私みたいな人間は、当社では例外です。みなさん、立派な大卒です。これ、ちゃんと書いて下さいね。世間様に誤解されるようなことがあっては、他の方々に申し訳ないですから」
 高校卒業後、真面目になり、手に職をつけようと美容師に「弟子入り」したものの、師事していた「お師匠さん」がガンで亡くなってしまった。
 「当時、私はすでに結婚していて、娘も生まれていましたので、何としてでもミルク代を稼がなきゃいけない。それで飛び込みセールスの仕事を始めたんです。
 すごい研修をやらされました。作務衣を着て町へ托鉢に行かされるんです。他人の家を一軒一軒回り、『トイレの掃除をさせて下さい』とお願いする。それもブラシを使わず、手で洗う。それがすんだら、掃除のお礼としてその家で御飯を食べさせていただく。
 半端なプライドを捨てられなかったら、こんなこと絶対にできません。これは、今思えば、いい経験になったと思います。ケンカと同じで腹さえくくれば、何も怖くない。何があっても体ひとつで生きていける。そういう開き直りができましたから」
 営業の基本は同じとはいえ、単純な飛び込みセールスとは違い、生命保険の営業には、また別の種類の苦労が伴う。
 「ソニー生命は、お客様一人ひとりの人生設計に合わせて、細かくプランを立てるオーダーメイドのセールスです。ファイナンシャル・プランナーの資格も取らなくてはならず、猛烈に勉強しました。今でも毎日、日経新聞を読み、経済雑誌を読んでいます。大変です。私は無学で、本といえばマンガしか読んだことがなかったものですから、楽じゃありません。
 セールスすればそれで終わりではなく、自分のお客様は、すべて自分がフォローする。自費で接待もします。寝るヒマがない。最も忙しい年は、正月三ヶ日をのぞいて、一日も休みがありませんでした」
 「寝るヒマがない」というのは、たぶん比喩ではないだろう。荒井氏の現在の年収は経費込みで約5千万円。最も成績が上がった年は、3千8百人の営業マン中25位となり、年収は約7千5百万円だったという。のんびりしていて稼げる数字ではない。
 昨年、大手生保をおさえて、保有契約高の増加額一位となったソニー生命は、設立当初はソニーと米国最大の保険会社プルデンシャルとの合弁企業として誕生した。その後、合弁を解消したが、そのマネジメント・スタイルは完全な米国スタイルである。
 営業マンは社員ではあるが、事実上、独立自営であり、必要経費はすべて自己負担となる。最初の2年間は、一人前になるための猶予期間として、年収1千万円弱の給与が保証されるが、その後はフルコミッションとなる。最低保証はあるが、月に12万円だけ。成績が上がらなければ、自ら去ってゆくしかない。甘えは許されない。
 「オフィスに出社が義務づけられているのは週に二日だけ。誰からの指図も受けず、自分のスケジュールはすべて自分で決めて行動する。本当に自由ですよ。私はもともと、上から頭を押さえつけられるのは好きじゃない。ここは性に合っています。
 でも、自由というのは、その分責任が重く、厳しいものです。自己管理ができなきゃ話にならない。努力したかどうかの結果は、すべて数字となってあらわれます。
 サラリーマンの方、この頃、元気がないでしょう。私のお客様にもリストラにあってクビを切られ、保険を解約された方がいる。でも大変というわりには、なんとか自分の力でやってやろうという覇気が感じられないんですよ。私みたいな頭の悪人間でも、やればこの程度はできるんですから、頭のいい人が頑張れば、もっとできるはずです。みんな頑張れといいたい」
 乗っている車はベンツ。家も建て替えた。ひとつ数百マンするアンティークの時計とランプのコレクションが趣味。十年で数億円は稼いだはずである。それなのになぜハードワークを続けるのか。そうたずねると、荒井氏は「好きなんですよ。この仕事、転職だと思っています」と、前出の沢井氏とまったく同じセリフを口にした。
 「学歴のない者でも実力勝負をさせてもらえる。そこが嬉しい。私、勝ち負けのはっきりつく勝負が好きなんです。
 定年までは現役選手として戦いたい。それから以降は、セーブするつもりですが、ここでは定年後も働けるので、体の続くかぎりやりたい。夢はゴルフの四大メジャーすべてを見に行くことですが、でも、それは定年後の楽しみにとっておきます」
 沢井氏も荒井氏も、スペシャリストとして苛烈な競争を勝ち抜いてきた強者である。誰もが彼らと同じ強度で戦い、同じ成果を手にできるわけではない。大多数の人々は、もっと穏やかな生活を望んでいるはずである。しかし、すでに見てきたように、専門知識・技能を持たずに漫然と会社の言いなりに働くことは、今日では極めてリスクが高い。そもそも正社員としてずっと働きつづけること自体が難しい。新しい雇用のあり方、新しい働き方のスタイルが必要になってくる


アウトソーシングの急成長


 不況のただ中で、リストラ需要に食い込み、逆に急成長している分野がある。人材派遣業やアウトソーシングなど、<労働ビッグバン>関連のサービス業である。
 人材派遣業といえば、派遣される社員は若い女性事務職員と相場は決まっていた。日本人材派遣協会によれば、現在でも登録者の9割は女性で、その3分の2は25歳から35歳までの若い女性である。
 しかし、この業界にも新しい波が打ち寄せてきている。男性専門の人材派遣業者が誕生し、高学歴の若い男性登録者も登場しているという。
 テンブロスは、22歳から72歳までの1万2千人の男性登録者をかかえている、男性専門の人材派遣会社である。同社の永住賢二社長が語る。
 「91年1月に、大手人材派遣会社のテンプスタッフの中に発足したエルダリー事業部が、当社の出発点です。91年当時は、登録者数は700人で、売り上げも3億円程度でしたが、現在は登録者数は約20倍、売り上げは約10倍の約30億円になりました」
 登録者の年齢構成は、20代が約4割、30代が3割を占めるという。
 「若年層は三つのタイプに大別できます。
 第一は、明確な目的意識をもち、それを達成する手段として、収入を得ようとしている人たちで、特に資格を取りたいという人が多い。正社員では勉強時間がとれないため、派遣スタッフになることを選んだわけです。
 第二は、とりあえずある程度働いて収入を得て、残りの時間を好きなことに使い、夢や希望を模索している人たちですね。
 第三のタイプは正社員だと拘束されるから嫌で、派遣にきたという人たちです」
 松本健(33歳)氏は、永住社長の言う「第一のタイプ」の典型的な人物である。
 東大経済学部を卒業後、山一證券に入社し、93年6月に退社した。いくらでも再就職先は見つけられただろうが、彼は「浪人」の道を選んだ。
 「金融の仕事には、今でも興味がある。でも、山一の経験でうんざりしているので、日本の証券会社には入りたくない。今は公認会計士を目指して勉強中です」
 山一を退社後、公認会計士試験のための専門学校へ入学。以後4年間、受験勉強に打ち込んできたのだが、貯金が底をついてしまい、生活費を稼ぐために、昨年の4月にテンブロスに登録したという。
 「フルタイムの仕事についちゃうと、どうしても辞める時に一苦労するじゃないですか。その点、派遣だと気が楽ですしね」
 昨年12月から今年の3月末まで、松本氏は、テンブロスから紹介された東証正会員協会という業界団体の事務をしていた。5月からは、外資系銀行クレディスイスのオフィス移転作業を手伝っているという。
 「山一に未練はありませんでした。”飛ばしが一兆円ある”などという噂は以前から耳にしていましたし、この会社にいても未来はないな、と思っていましたから。
 将来は、もう一度金融機関に戻り、経理や財務、M&Aなどを手がけたい。そのためにもまず、試験に受からなくては。会計士の資格は大きな武器になりますから」
 人的コストを下げるために正社員=常用雇用従業員の数を減らし、その分を外部の人材で補おうとする企業のニーズにこたえる点では、人材派遣会社と同じだが、より大規模に一つの業務や一つの部門をまるごと引き受けてしまうのがアウトソーシング(外部委託業務)会社である。この業種も、急成長を遂げている。
 「経済環境の悪化に反比例して、競争は激化している。企業は経営の効率化のためにムダを削ぎ落とし、外部のリソース(資源)を活用する必要があります」
 日本アウトソーシングの尾関友保社長は、なぜ今アウトソーシングが求められているのか、その理由を雄弁に語った。
 「高度経済成長期までは、終身雇用制と、中年以降の賃金を手厚くして実質的に賃金を後払いにする年功賃金制が、企業を安定的に成長させるシステムとして有効でした。
 しかし低成長下では、組織をスリム化する必要がある。そこで企業の内部には必要なコア人材だけを残し、あとは外部のプロに委託して効率化をはかる。これはアメリカでは当たり前の手法です。規制緩和によってあらゆる業界に外資系企業が参入してきている。今までのやり方では、日本企業は経済競争に生き残れません」
 日商岩井と人材派遣業大手のパソナ、NTTデータ通信の三社が出資し、昨年から営業を開始した同社は、初年度の売り上げ目標の10億円を8カ月で達成したという。
 「我々の目指すのは、たんに機械的に業務を代行することではない。たとえば給与計算や人事、総務、営業業務などの管理部門を我々が引き受けたら、5人でやっていた仕事を効率を上げることで3人で行う。単なる人減らしではなく、作業効率を上げる真のリストラを行うのです」
 アウトソーシングが企業にもたらすメリットはわかったが、働く人間にとってはどんな意味があるのだろうか。体のいいリストラ手法として用いられ、賃金カットの上に労働強化、しかも雇用保障が怪しくなるという結果に終わりはしないだろうか。
 私の疑問に尾関氏はこう答えた。
 「今までの経営だと、正社員以外、パートや派遣などの使い捨て労働力になるしかありませんでした。彼らは教育も施されないし、キャリアアップもない。逆に正社員は社内で教育が受けられ、キャリアアップもあるものの、流動性がない。
 アウトソーシングはこの中間の雇用形態です。スタッフには専門訓練を施し、専門職としてステップアップしてもらう。社員として契約したスタッフには、保険はもちろん、退職金も支払います。
 もう一つのメリットは、色々なワーキングスタイルが可能なことです。他の仕事があるので土・日だけ働くなど、その人の都合に合わせたスケジュールが可能です。また定年後の方が、自分のスキルをいかして働くこともできます。
 今までは『定年まで面倒をみてもらう』かわりに『人生を会社に捧げる』という働き方しかなかった。これからは違う。人生は一回しかないんですから、会社にすべて捧げて、そのあげくクビを切られるなんてことにならないように、自分を大切に生きようよ、ということです」
 アメリカではアウトソーシング・ビジネスは96年で1千億ドルの規模に成長しており、2001年には3千億ドル規模になると予測されているという。日本でも本格的に市場が形成されれば、専門職の新しい働き方のスタイルとして、定着してゆくのかもしれない。


「14社すべて不採用でした」


 しかし、現在のところ、既存の企業のリストラ圧力の強さに、新しい雇用の受け皿の成長が追いついていない。失業の増大は日増しに深刻になりつつある。
 都心が管轄区域の「ハローワーク飯田橋」。平日の午後にもかかわらず、職を求める人で混みあっている。駅のコンコース並みだが、違いは喧噪の有無。誰もが押し黙ったまま、真剣な面持ちで求人カードをめくっている。スーツ姿の中年男性も珍しくない。
 「昨年秋の金融破綻以降、来訪者の数は確実に増えています」と、持田精一職業相談部長は最近の状況について説明する。
 「しかも毎月増え続ける傾向にあり、減少に転じる気配は見えません。新規の求職登録者数は一カ月に約3千5百人余り。その35パーセントを占める45歳以上の方々の再就職率は、きわめて厳しい。
 現在では、とりあえず生活費のために、清掃や保安、倉庫管理などのパートで働くという50代の男性が目立ちます。皆さん血眼になって仕事を探していますよ」
 副都心・新宿にある「ハローワーク新宿」にも、数多くの求職者がつめかけていた。かつては来訪者のほとんどがブルーカラー層だったが、最近はホワイトカラー層の求職者が急増していると、福島孝職業相談部長は言う。
 「皆さん、真剣です。業務終了時刻の午後5時になっても帰ろうとせず、求人カードを見ています。中高年の場合、かなり厳しい。年収1千万円だった人は、四割ダウンの600万円まで下げないと求人側とマッチングしない状況です」
 加速度的に強まる逆風にさらされながら、職業安定所に足を運んでいる元山一社員と会った。石田良彦(仮名・50歳)氏。一月まで関東地方のある支店の課長として勤務していた。
 「私のいた支店は1月末に閉鎖・全員解雇になったんです。支店の同僚たちはすぐに就職活動をはじめて、3月までには皆決まったんですが、私はお恥ずかしいことにまだ決まっていないんですよ」
 山一に寄せられた求人を見て「ずいぶん条件が悪いな」と思った石田氏は、「何とかなるだろう」と考えて、すぐには本格的な就職活動を始めなかったという。
 「失業給付も月に24万円、約10ヶ月間もらえるし、まあいいや、しばらくのんびりしてゆっくり探そうと思ったんですよ。ところがハローワークへ行っても、歩合制の保険外交員とか、警備員とか、そんな仕事ばかりなんですよ。近頃ではもうかなり焦ってきています。
 うちの隣のお宅の子供が、私が平日なのに会社に行かずウロウロしているのを変だなと思うらしいんですね。『隣のおじちゃん、なんでおうちにいるの』なんて母親にきいている。バツが悪いですよ、本当に」
 本人の言葉通り、石田氏の表情には焦燥と不安が色濃くにじみ出ている。今年50歳になったばかりの団塊の世代。まだまだ老け込む年ではないはずだが−−。
 「解雇後、しばらく家でゴロゴロしていた時に、メリルリンチが山一の社員を大量採用するという話を聞いたんです。今さら実力主義の厳しい世界には行きたくないなと思って、応募するのを躊躇していたら、女房に『受けるだけ受けて、採用通知もらってやめれば』と尻を叩かれたんです。その結果、不採用。これはショックでした。女房はそれ以来、すごく不機嫌になってしまって……。
 面接で、ノルマの話が出た時に、『大丈夫です、やれます』と言えなかったんですよ。ノルマの金額は営業マン一人あたり30億円という噂を聞きましたが、私にはとてもそんな金額は集められそうにないし」
 重い腰を上げた石田氏は、中小企業ばかり14社に応募した。その結果は−−。
 「すべてダメでした。面接までいけたのがわずか2社。一つは紙パルプ製造会社で、もうひとつはビル管理会社。どちらも従業員数、百人に満たない小さな会社です。
 出世コースからは外れていたけれど、まがりなりにも私は東京六大学のひとつを卒業して、山一證券という大企業に勤め、1千万円近い年収をもらっていたんですよ。それが名前も聞いたことのない零細企業にすら雇ってもらえない。そんなに自分の評価って低いのかと呆然としましたよ」
 マンションのローンには、退職金をあてたため、残額は数百万円まで圧縮できた。二人の子どもは、社会人として巣立っているので手間もかからない。あとは年金を受給する年齢まで夫婦二人が食べていける程度の収入があればいい、と石田氏は言う。高望みさえしなければ、仕事は見つかりそうなものだが、石田氏の口をついて出るのは、自嘲と愚痴ばかりである。
 「私には本当のプロとして胸を張れるような知識や実力なんてないんですよ。自己研鑽を怠ってきた自分が悪いんですけど。
 私ら団塊の世代って、学生時代はデモばかりで、もともと勉強してないんですよ。でも高度成長期でしたから、就職はすごく楽で、私も経済は何もわからないのに簡単に山一證券に入社できた。日経新聞を毎日読まされたけど、最初の一、二年は何が書いてあるのか、さっぱりわかりませんでしたもん。
 あとは会社にオンブにダッコで、人生設計なんて自分では考えたこともない。会社にしがみつくことしか考えてませんでしたから。だから自分はこれからどうしたらいいか、まったくわからないんですよ」
 歩合制の営業でもなんでも、思い切ってトライしてみたらいかがですかと、私はつい助言めいたことを口にした。
 「いや、歩合制の営業は嫌です」
 石田氏は、私の不用意なお節介をぴしゃりとはねのけた。
 「そんな苦労はしたくない。山一はぬるま湯だったのかもしれませんし、私自身、収入に見合った仕事をしてこなかったと思いますが、それでも毎日つらくて、やめたくて仕方なかった。
 今度、仕事につくなら、とにかく楽な仕事をしたいんです。山一より厳しい仕事なんてしたくない。年収が3分の1になってもいいから、楽をしたい。甘いでしょうか。でも、あくせくしないでのんびりやりたい。何かいい仕事ありませんかね?」
 正直な人である。のんびりしたいとは、心の底からの本音なのだろう。余計なことを言ってしまったと後悔した。経済がグローバル化しようが、大競争時代が到来しようが、我関せずと背を向ける自由は誰にだってある。


「まさか」の日のために


 石田氏は精神的にすでに現役を退いている。それは、会社がつぶれたからだとは必ずしもいえないだろう。人により早い遅いの差はあるが、誰でもいつか、激しく競い合う日々が煩わしくなり、ゲームから降りたいと願う日が来る。その日がその人にとっての「定年」なのだと思う。
 問題は、降りてから先の時間が長いことだ。今や人生80年時代であり、リタイア後も日々の糧を得なければならず、世間との折り合いもつけていかなければならない。公的年金制度の基盤も揺らいでおり、どこまであてにできるかもわからない。
 55歳定年制が導入されたとき、日本人の平均寿命は60歳だったという。定年を迎え、退職金を受け取ったあとは、5年の余生だった。こんな時代の雇用制度を終身雇用制と呼ぶのであれば、それは間違いではない。だが、現代の長期雇用制を終身雇用制と称するのは正しいのだろうか。
 「今は大企業でも、定年まで本社にいられる社員は本当に少ない。業種によってはほんのひと握りです」と、キャリア・プランニング・センター取締役の畑聖一氏は言う。同社は主として中高年ホワイトカラーを対象に転職支援を行う会社である。
 「昔は『一生一業』といい、会社を変わる人間は規格外の扱いを受けたものです。しかし現実には20年以上も前から出向・転籍は行われているし、最近ではリストラは当たり前です。定年後も再就職する人がほとんどですから、一笑のうちに何回か職場を変える人間が今や大多数なのです。『一生一業』の時代はすでに終わっているんですよ」
 「終身雇用制」なるものは、今になって急に崩壊したのではない。はるか以前から虚構と化していたのだ。そうであればサラリーマンは常に、自分の「第二の人生」を念頭においておく必要がある。
 「大企業から中小企業へ出向・転籍した人のなかには、いつまでも大企業の社員意識が抜けない人がいる。そういう人は新しい職場になじめず、必ず失敗する。大事なのは気持ちの切替えです」(前出・畑氏)
 4年前、51歳の時に「肩たたき」にあった元伊藤忠の柿島紀行(仮名・55歳)氏は、キャリア・プラニング・センターの紹介で、現在、神奈川県内の小規模な総合病院で事務長として勤務している。
 「40代のころ皇居の千鳥ヶ淵の桜がきれいに見える小さな会社に、出向していたことがあるんです」
 ぼそぼそとした口調で、柿島氏は語る。
 「ぱーっと桜が咲いて、それはきれいでした。毎年、春が近づくと、ああ今年も咲くんだなあと思う。と同時に暗い気持ちになるんです。ああ嫌だなあ、つらいなあと。
 4月になると、本社に辞令の貼り紙が張り出されるんですよ。それを見て『ああ、また今年もダメだったか』と思う。家長の肩書までは誰でも付くんです。昇進の遅い部類でしたけど、私も40代で課長になりました。課長の次は部長補。ところが私はいつまでたっても課長のまま。仲間は次々昇進していくのに−−。
 毎年、『どうせダメだろうな、今年も』と思うんですけど、『今年こそひょっとしたら』と期待もする。ところが、やっぱり課長のまま。十数年間、そんなことが続き、ついに部長補になれなかった。十年年下の後輩にも抜かれてしまった。桜はきれいに咲くのに、私は毎年、憂鬱でした」
 北大法学部卒。伊藤忠に内定したとき、友人たちは口をそろえて「なんでお前が商社に行くの」と、同じことを聞いたという。
 「私は目端が利くわけではないし、口も重い。性格も堅い。だからみんな、道庁とかメーカーとか、地味で堅実な職場の方が似合うというんです。
 その友人たちのなかに、古河電工に行った竹馬の友がいましたが、彼はぐんぐん偉くなっていった。最近会った時、子会社に出向して常務になり、『今度、専務になる』という。彼は本社では年収1,600万くらいだった。今は落ちているだろうと思って聞いたら2千万円。がっかり、と言ったら変ですが(笑)」
 病院の事務長とはいっても、直属の部下は二人だけ。それだけの人数で院長の秘書業務から、病院内の日常の雑用、トラブル処理、出入り業者との交渉、看護婦の採用まで、ありとあらゆることをこなさなくてはならない。
 「伊藤忠にいたころは、寄らば大樹の陰という意識がなかったと言えば嘘になります。いま思うに自己研鑽に欠けていた。のんびりしていたが、今は一日中、仕事のことばかり考えています。電車のなかでもヒントを思いついたら、細かくメモをとったり」
 年収は伊藤忠時代の1,250万円より、二割ほど下がった。しかしそれよりも今は、定年がないことが一番有り難いという。
 「一般の会社に出向したら、長く働けてもせいぜい62歳まで。ここでならあと10年はやれますから。ここで働こうと決めたのもそこがポイントでした。
 正直言いますと、若いころは伊藤忠の子会社に役付きで転籍できるかなと思っていましたから、グループの外に出なければいけないと知った時は少し落胆しました。
 でも、今はここを選んでよかったと思っています。4年前には、伊藤忠の人事部に寄せられる求人は50歳以上のものがたくさんありましたが、最近は全然ないそうです。条件は加速度的に悪くなっている。
 あと数年、肩たたきが遅かったら……そう考えるとぞっとします。今は院長に信頼されて仕事を任されているので、やり甲斐もある。本当にラッキーだと思います」
 幸運と不運は紙一重である。どちらに転ぶかは、最後は本人の気持ち一つにかかっている。


 企業倒産は、昨年、1万7千439件、負債総額15兆1千203億円と戦後最悪を記録。完全失業率も今年4月に4・1パーセントとなり、完全失業数も290万人とワースト記録を更新した。
 私たちは、途方もない危機に直面している。経済の指標は、すべてそう訴えかけている。だが、頭ではそう理解できても、身に迫るリアルな実感が妙に乏しいのもまた事実だ。
 石油ショックの時は、ハイパーインフレのためにトイレット・ペーパーの買占め騒動が起きた。デフレの今は、店頭で誰もヒステリーを起こさない。
 大倒産・大失業時代というが、三井三池のような労働争議が巻き起こるわけでもない。人はそれぞれ静かにリストラされてゆく。
 モノもある、家もある、貯金もある。所得の目減りでクレジットの支払いの負担が実質的に増え、住宅の資産価値は知らないうちに半減し、貯金の利子は雀の涙ほども付かないとしても、だ。
 このままではまずいと誰もが思う。だが破局が形となってあらわれないので、今日も手をこまねいている。ひょっとしたら明日も。
 「まさかこんなにあっけなく潰れるとは思わなかった」と、破局を体験した元山一社員らは口をそろえて慨嘆した。危ないとわかっていても彼らは手をこまねいていた。
 私たちが、彼らのように「まさか」という言葉を口にする日が来ないとは、誰が言いきれるだろう。


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