バトルものの創作のために、敵となる女性キャラクター=魔女のひとりのバックグラウンドを盛っていた。
過去にひどいことがあって、深い怒りや絶望のために魔女になったということにした。
ひどいこととは?エバーノートのネタ帳を繰るうちに『八日目の蝉』の感想、レビューの写しが目についた。
この話の実母をモデルにするというのはどうだろう。
幼い娘を女に誘拐され、数年後に犯人は捕まって娘は無事に帰ってきたが、
愛を注ぐ時間を奪われたためか娘は母に全く懐かず、それどころか誘拐犯との思い出の歌を口ずさむ始末だ。
誘拐犯を「母」と呼び、「母」の逃避行をなぞる旅をして、「母」に愛されていたのだと感じ感動して泣いていた。
そして誘拐犯は「自分は母として幸福だった」と宣って憚らない。
夫は不倫して彼女のもとから去っており、実母は独りでそんな娘を何年にもわたり養い続けなくてはならなかったのである。
仮にこういう状況があったら、きっと苦しいに違いない。
そしてメタ的な話だが、『八日目の蝉』鑑賞者で実母に感情移入する人はどうも極めて少なく、
ネットの交流サイトに「実母が可哀想だ」と投稿されたエントリーには、むしろ実母に追い打ちをかけるような
けなし、なじりのコメントが鈴生りになっているというありさまであった。
コメントの多くは悪意によるものというより、気軽で、客観的な立場からの、正論の…というていでなされていた。
これを、この実母のような人が見てしまったら、どんな気持ちになるだろうか。憤懣やるかたないのではないか。
カサンドラ症候群という言葉はあるが、まだまだ世に広く知られているとは言えない。
そのように理不尽な孤独に陥った彼女の前に、もしも「とてもやり手の悪魔」が現れたら、魂を売っても不思議ではない。
悪魔は彼女に大いに同情し、承認や愛情の代用品、避難所など精神の健康を取り戻すのに必要なすべてを与える。
その代りに自分の同胞として共に暮らさないか、寿命も10年分ぐらいいただくけど、悲嘆に塗れた余生をおくるより
ましだろうとかいう内容のことを上手に言えば、取引を無視するのは極めて困難だろう。
そしてこの悪魔は果たして責められるのだろうか。この悪魔は「善人」ではないといえるだろうか。それはなぜだろうか。
悪魔を悪魔であると証明できず、もたもたしている間に悪魔は眷属を増やしていくのだ。眷属の中にはきっと、
自分たちを罵った者たちに属する人たちの首を切って処刑する者も現れるかもしれない。時代と場合によっては。
ここまで構想したところで目覚まし時計が鳴り響き、自分が明らかに実母と悪魔の側に肩入れしていることに気がついた。