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【戦後の地層】

<番外編>慰霊、重なり合う戦後 天皇陛下と沖縄

「あの時代を問い続けることが使命」と話す、対馬丸事件の生存者の平良啓子さん=沖縄県大宜味村で

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 二十三日に八十二歳の誕生日を迎えられる天皇陛下は長年、沖縄への慰霊を続けてきた。沖縄では「天皇」という存在に、県民の四人に一人が亡くなった地上戦の残像が重なる。戦争体験者の相克は今も続くが、激戦下の犠牲を問い続けるそれぞれの「戦後」は重なり合う。 (木原育子)

 「めでたいナー、めでたいナー(略)ハワイ州、沖縄県が 千代の千代まで 限り無き、栄エー、栄エー、いやさーかー」

 今年十月、那覇市内であった沖縄と米国ハワイ州の姉妹都市締結三十周年を祝う祝賀会。祖父が沖縄から移民したデービット・イゲ州知事を迎え、人間国宝(琉球古典音楽保持者)の照喜名朝一(てるきなちょういち)さん(84)が、太い声を響かせた。真珠湾攻撃を受けたハワイと、地上戦の舞台となった沖縄をつなぐ「乾杯の音頭」。カチャーシーと呼ばれる踊りがせきを切ったように始まり会場は沸いた。

 音頭は、文化さえも焼き尽くされた沖縄で戦後、琉球古典民謡の名家が創った寿歌だ。

 記者からの「(君が代の)『千代に八千代』という歌詞ではないですね」との質問に、照喜名さんは強い口調で言い切った。「沖縄は、あの戦争でぐちゃぐちゃにされた。だから、戦争を憎む気持ちは強い。千代に八千代とは違います」。君が代への複雑な思いが読み取れた。

 天皇、皇后両陛下は二〇一四年六月、沖縄を訪れ、対馬丸(つしままる)事件の被害者や遺族と初めて懇談した。一九四四年、九州へ疎開する沖縄の児童を乗せた船が、米潜水艦の魚雷攻撃を受け千五百人が亡くなった。生存者の平良(たいら)啓子さん(81)=大宜味村(おおぎみそん)=は、両陛下との懇談会場に足を運べなかった。

 海に投げ出された当時九歳の平良さんの前で、多くの子どもが波間に消えていった。いかだにしがみつき、六日間漂流した。戦意喪失を避けるためかん口令が敷かれ、家族にも苦しみを言えぬまま沖縄戦に突入。「天皇陛下、万歳」と叫び、自決していく人を幾人も見た。

 「両陛下の沖縄へのお気持ちは届いている。けれど、心を許したら戦争で亡くなった人が浮かばれない気がして…。問い続けることが生き残ったものの使命」。大宜味村憲法九条を守る会会長として平和な世を訴える活動を続けている。

 対馬丸で実兄を亡くした安次富長文(あしとみちょうぶん)さん(78)=那覇市=は沖縄県警に勤務し、一九七五年、当時皇太子だった陛下が訪問した際、警備費の予算編成を担当した。

 戦後初の沖縄訪問だったが、両陛下に火炎瓶が放たれる「ひめゆりの塔事件」が起きた。安次富さんは「警察人生で最も印象に残っている」とうつむく。事件後も両陛下の沖縄への思いは変わらず、組織的な地上戦が終わった毎年六月二十三日には黙とうをささげ続けている。

 「天皇に切り捨てられた思いを持つ沖縄の人もいる。だが、沖縄が苦しい時にも一緒に生きてくれたのは、両陛下だと思います」

<天皇陛下の沖縄訪問> 天皇陛下は皇太子時代の1975(昭和50)年に初めて沖縄を訪れ、即位後には5回訪問されている。即位後初となった93年は、糸満市で行われた全国植樹祭でのお言葉で「残念なことに、先の戦争でこの森林が大きく破壊されました。多くの尊い命が失われた」と述べた。戦後50年の95年には、糸満市の沖縄平和祈念堂を訪れたほか、国立沖縄戦没者墓苑で花を供え、平和の礎(いしじ)も視察した。

 

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