お金よりも大切なモノがあるという風潮と、お金も大切という風潮 この2つが合体した風潮が今の世の中を覆っている。
それはお金よりも大切なモノがあって、金はもちろん大切であるという風潮だ。
馬鹿大学の学生である自分にはそう見える。どちらがかけても不幸である。
しかも、お金よりも大切なモノが生得的なものであり、救いがない。
自分は手に入らなかったようだ。
大学でベンチでも座って、通り過ぎる人間の容姿を見てみれば、カップルというのは男女ともにある一定の容姿の水準をクリアした人間である。
容姿が醜い人間は孤独である。顔の皮膚が土色で、凹凸や膿や腫れで滅茶苦茶になっており、髪がひどい癖毛であり、顔のパーツやら大きさやらも出来が凄く良くない自分は必ず孤独だ。
最近、テキトーに読んだSFに人間は物語なしでは生きられないという感じのテーマだった。
それを踏まえて、自分の行動を考えてみると、自分は美しい物語を求めているようだ。大抵の人間もそれを考えているはずだ。
美しい物語には、それは美しい容姿の人間という美しい存在が必須で、みなそれを欲しがり、それになりたがる。
自分は美しい物語には邪魔で、誰も必要にはしないだろう。自分の遺伝子を背負った髪の汚い子供など、美しい物語には邪魔であるからだ。
必要とされても、金だけだろう。
金を稼ぐだけでは、明るい未来は手にはいらないという風潮は、世間にとってプラスなのかマイナスなのか分からない。
ただ、容姿が醜い馬鹿大学の学生の自分にとってみたら、絶望しか与えなかったりする。
現状のリベラリストとかいうような人間の発言を新聞や、どうしようもないサイトで見ても金を稼ぐだけではダメだということを煽っているような気がする時もある。
例えば、(容姿や経済的になんだかんだ恵まれて生まれてきた、自分には手にはいらないまともな容姿であることが多い)子供を社会で皆で育てなければいけないとか言う時である。
顔が悪くて、金を支えにして生きる人間にとってみれば死ぬ気で稼いだ金を取りあげられ、その金が、金の有る美しい存在にも、無い人間にも渡されるという主張をしていると見えるかもしれない。
生得的な、金で解決ができないものにおいて自分はあまりにも恵まれなかった気がする。金で出来ることと、出来ないことも同じ年代の人間でも、まだ分かっている方だと自信がある。