生賴範義さんの追悼文を書いた(西日本新聞)
そうだ忘れてた。西日本新聞のために生賴さんの追悼文を書いたのでした。
僕は文章を書くプロではないので、言いたいこと、伝えたいこと、知ってもらいたいことが奥の方から湧き上がってくるまでは文章にできないのですが、(なんと、締め切りがなかったのですよ。完成したらそのための紙面を用意する、ということでした)、
しかし、年末に近くなって、もうそろそろやばいという連絡があり、慌てていろいろ思いついたテーマをメモ書きみたいに書いて、そんな文章が5000字くらいになったところで、一旦全てを忘れて、もう一度、ゼロから一気に1200字の文章を書いたのでした。
それを編集部に修正してもらい、さらにそれを自分のリズムに直し、最後の校正刷(といってもデジタルなんですが)チェックして言葉を少し変更したりしたのでした。
フェイスブックへのリンク(登録してなくてもリンクを見られるのかな? よくわかりませんが)
僕が生賴さんとお会いしたのは、昨年の宮崎の生賴範義さんの展覧会でギャラリートークをやるために会場にいった時が初めてでした。
それまでは、一度だけ電話でお話ししたことがあります。昔、妻の提案で、日本SF大会の会場で『ゴミ屑オークション』というのをやることになり、画家やイラストレーター、漫画家の皆さんが、失敗してくずかごに捨てた絵を集めてオークションで売ろう、その売り上げを大会の運営に使ってもらおう、てな企画。
大友克洋さんの絵とかももらったぞ。
そして生賴さんには絵を3枚送ってもらったのだった(板に描いてあった)。そのうち2枚は僕のものにしていいよ、と生賴さんが言ってくれた。電話した時、緊張したなあ。人生でこれほど緊張したことなかったぞ、なくらいだった。
それまでは、朝日ソノラマから出た僕の画集に序文を書いてもらったりしたのだけど、連絡から何まですべて編集部がやってくれたので、僕は「生賴さんに頼みたい」って編集部に言っただけだった。
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