直球感想文 本館 | 
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毎日新聞記者 徳岡孝夫 三島さんが唐突に言った。 「僕はXX子さん〔原文ママ〕と見合いをしたことがあるんです」 とっさに返す言葉が無かった。 三島さんが口にした女性の名は、極めてやんごとなきあたりに嫁がれた方のそれだった。 「と言ってもね、正式な見合いではなかった。まとまらなくてもどちらにも傷がつかないよう、 歌舞伎座で双方とも家族同伴で芝居を観て食堂で一緒に食事をした。それだけでした」 私は思いがけない話に呆気にとられるまま、 「それで、どちらが断ったんですか」とは聞かなかったのだろう。今かえりみて、 三島さんはもう少し詳しく見合いの間の模様を語ったような気もするが忘れた。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 元楯の会メンバー 村上健夫 川戸さんがニコニコ笑いながら、三島さんにとんでもないことを言い掛けました。 「『春の雪』を描いたのは妃殿下にフラれた腹いせって説もありますよ」 三島はこの質問に下を向きます。口をゆがめて黙ります。 「先生、見合いしたんですよね」 「正式のものではない。歌舞伎座で偶然隣り合わせになる形だ」 「先生、断ったの?断られたの?」 「君たちも知っているように、あそこのお母さんはああいう人だから」 三島はいつもの元気はどこへやら、がっくりと肩を落とし頭を垂れて、本当につらそうです。 「あそこのお母さん」が「ああいう人」なことなどメンバーは一人も知るはずがないのに、 「君たちも知っているように」とはおかしな枕詞です。 「殿下や妃殿下に会うことあるんでしょう?」 「子供のことで学校に行った時に、 このままではいけないと思って声をかけようとして近づいても 『あっ、また』とか言って向こうに行ってしまわれる。逃げるのが上手だよ」 と、半分感心するように、今半分は嘆くように語尾を下げて言います。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 演出家・女優 長岡輝子 三島家の近所に住む長岡は、 事件からしばらくして手作りの惣菜を持って三島の母親倭文重を訪問した。 長岡「でもね、由紀夫さんは自分のなさりたいことは全部成し遂げて、 道長じゃないけどそれこそ望月の本望がかなった方じゃありません?」 母親「今度初めてやっとあの子が本当にやりたかったことができたのですから、 その意味では男子の本懐を遂げたことになります。 でも、あの子には二つだけ叶わなかったことがあります。 一つは、ノーベル賞をもらえなかったことです」 長岡「ノーベル賞は俺が取るぞって、意気込んでらしたからねえ」 母親「それが川端先生に決まった時、 弟の千之に向かって大声でくやしい!と叫んでいました。 それともう一つは、結婚問題です。本命の人と結婚できなかったんです。 お見合いをして不成立の縁談で、唯一心残りの方がありました」 長岡「それは、どなた?」 母親「正田美智子さんです。」 母親「のちに皇太子妃になられて、 時とともに公威の意中の人として消えがたくなっていったようです。 もし美智子さんと出会っていなければ、 『豊饒の海』は書かなかったでしょうし、自決することもなかったでしょう」 長岡「でも、どのみち畳の上では死ねなかった方よ。 どこかに死に場所を探されたでしょうけど・・・」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 親友・仏文学者 松村剛 三島は御成婚前の美智子妃をほんのわずかながら知ってもいた。 昭和32年に美智子妃が聖心女子大学を卒業された時には、 彼は倭文重さんと一緒にその卒業式の参観に行っている。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 親友・仏文学者 松村剛 『春の雪』の新潮への連載は昭和40年の8月(9月号)から始まった。 連載の終わりに近い頃、「あれは私小説なんだよ」 何かのおりに、ぽつりと彼は言っていた。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 
	◆昭和42年01月 『論争ジャーナル』 
				
	
		
『英霊の声』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ。 書斎から刀を持ち出して抜き 刀というのは鑑賞するものではない、生きているものだ。 この生きた刀によって60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない。 昭和43年 1968 ◆43歳 『論争ジャーナル』事務所で三島含む11人が血判状を作る。楯の会結成。 一橋大学・早稲田大学・茨城大学でティーチイン。都内各所で学生運動の衝突現場を見学。 自分ではなく川端康成がノーベル賞を獲り、落胆。 ◆02月26日(2.26)、論争ジャーナル事務所で血判状を作る。 <・・・剣を持って起つことを大和魂をもって誓う・・・> 本名平岡公威で血書・血判 血杯 ◆05月 山本舜勝による講義と演習 約1週間変装したり尾行したり張り込んだりの街頭訓練 ◆10月05日、楯の会結成の記者会見。 制服を着た40人とともに ◆10月21日、国際反戦デーのデモを新宿で取材。 昭和44年 1969 安田講堂 ◆05月12日 東大にてティーチイン。 ◆06月 映画『人斬り』に出演。切腹シーンあり。 ◆08月 分裂騒ぎ ◆10月 川端康成にパレード断られる。 ◆10月21日 国際反戦デーのデモを新宿で取材。昨年と比べて失望。 ◆10月31日 楯の会幹部 自宅 三島は実行困難と答える。 ◆11月03日 結成1周年パレード。 ◆12月08日~11日 北朝鮮武装ゲリラと124部隊の調査で韓国に行く。 昭和45年 1970 ◆01月14日 自宅にて最後の誕生日パーティーを開く。 ◆03月 三島と森田との間で決起計画が進行。 ◆05月15日 森田・小賀・小川を自宅に呼び、 楯の会が自衛隊とともに国会を占拠する計画を打ち明ける。 ◆06月13日 ホテルオークラ客室で計画の打ち合せ。 「自衛隊は期待できないから、自分たちだけで計画を実行する」と三島が言う。 市ヶ谷駐屯地で、東部方面総監を人質にし、自衛隊員を集合させて三島の主張を訴え、 賛同する者を募って共に国会を占拠するという計画となる。 ◆06月 クラウンレコード 楯の会の歌・英霊の声 ◆06月21日 山の上ホテル客室で計画の打ち合せ。 人質を東部方面総監から第32普通科連隊長に変更。 ◆06月30日 『仮面の告白』『愛の渇き』の著作権を 母親に遺すという内容の公正証書による遺言書を作成。 もともと今までこの2作品の印税は両親に渡していたからである。 ◆07月05日 山の上ホテル客室で計画の打ち合せ。決行日を11月の楯の会例会日に決定。 ◆07月11日 当日使う中古の白いコロナを20万円で購入。 ◆07月下旬 ホテルニューオータニのプールで計画の打ち合せ。 もし僕が切腹するとしたら生中継するかい? ◆08月01日~20日 毎年恒例の下田に家族で避暑。 ◆08月28日 ホテルニューオータニのプールで計画の打ち合せ。 実行メンバーに古賀を追加することになる。 ◆09月01日 計画に古賀が賛同したため、 実行メンバーは三島・森田・小賀・小川・古賀の5人となる。 ◆09月09日 古賀と銀座のフレンチレストランで食事。11月25日決行を伝える。 ◆09月15日 両国の猪料理店で計画の打ち合せ。 ◆09月25日 新宿伊勢丹会館のサウナで計画の打ち合せ。 ◆10月02日 銀座の中華料理店で計画の打ち合せ。 ◆10月17日 元メンバー持丸博が保管していた 楯の会結成前に『論争ジャーナル』事務所で作った血判状を持ってこさせ焼却する。 ◆10月19日 制服姿の5人の記念撮影。 ◆11月03日 六本木のサウナ・ミスティで計画の打ち合せ。 「全員自決するつもりだったが、小賀・小川・古賀の3人は生きて人質を護衛せよ」 〔自決するのは三島と森田の2人だけ〕と三島に言われ、 死ぬ覚悟で身辺を整理してきた3人は複雑な思いを抱く。 ◆11月12日~11月17日 三島由紀夫展開催 ◆11月13日 夫妻で長男の学校参観へ。 ◆11月14日 六本木のサウナ・ミスティで計画の打ち合せ。 ◆11月15日 背中に唐獅子牡丹の刺青を彫るため二軒の刺青師に打診するが、 どちらからも決行日までには間に合わないと断られあきらめる。 刺青の件は他メンバーには知らせていなかった。 ◆11月19日 新宿伊勢丹会館のサウナで計画の打ち合せ。 ◆11月20日 写真集『男の死』に使う写真を選ぶ。しかし死後出版中止となった。 ◆11月21日 銀座の中華料理店で打ち合せ。 森田が第32普通科連隊長の予定を確認したところ25日は不在とわかり、 人質を東部方面総監に変更した。 三島はすぐに益田総監に電話をして11月25日11時のアポを取る。 刀を2本にするか1本にするか議論したが、日本刀は一本にしたほうが美しいとの結論に達する。 ◆11月23日 パレスホテルにて当日の練習、必要品の準備。 白布に墨で檄を書き、七生報国のハチマキを作ったりなどする。 ◆11月24日 パレスホテルにて当日の練習、辞世の句を詠む。料亭にて5人の最後の宴。 毎日新聞の徳岡記者・NHKの伊達記者に明日11時に取材に来てほしい、 詳細は明日再度連絡すると電話をかける。両名了承する。 新潮社編集者小島千加子に明日10時半原稿を取りに来るように電話をかける。 夜、両親の部屋におやすみの挨拶に行く。 左から 森田必勝 古賀浩靖 小川正洋 小賀正義 手前が三島 11月25日水曜日 ◆朝 瑤子夫人は二人の子供を学校に送った後、乗馬のレッスンへ。 母親は調停委員として家庭裁判所へ。父親のみ在宅。 ◆08:00 三島起床。死に化粧として入念に髭剃りをする。 新品の六尺ふんどしを締め、楯の会の制服を着る。 ◆10:05 徳岡記者と伊達記者に11時に市ヶ谷会館に来てほしいと電話をかける。 ◆10:13 小川の運転で4人が乗った白のコロナが三島宅に迎えに来る。 『天人五衰』最終回の原稿を小島編集者に渡すようお手伝いに預ける。 日本刀と道具類が入ったアタッシュケースを持って玄関を出る。父親が窓から後姿を見る。 ◆車が発進した後、「あと3時間で死ぬなんて考えられんな。 これがヤクザ映画ならここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるんだが、 俺たちは意外に明るいなあ」と三島が唐獅子牡丹を歌い始めたので全員で歌う。 ◆10:40 小島編集者が原稿を取りに来る。お手伝いが三島はもう出かけたと伝えて原稿を渡す。 三島から直接渡されると思っていた小島編集者は違和感を感じる。 ◆10:45 徳岡記者と伊達記者が市ヶ谷会館にそれぞれ到着、ロビーで待つ。 もともと当日は10時半から楯の会の定例会だったため、会員88名中33名が参加していた。 ◆10:58 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門を入る。 門衛にアポイントメントを取ってある旨をを伝えて通過。 本館正面玄関前に到着、沢本三佐が出迎え2階の総監室に案内する。 ◆11:00 総監室で待っていた益田総監が執務机の席を立って三島たちを迎える。 三島は「今日は市ヶ谷会館で楯の会の例会がありますので正装で参りました」と挨拶してから、 「この者たちを表彰するのですが、その前に一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました」 と4人を紹介する。 ◆11:03 総監は三島と向き合って座り、4人には別の椅子に座った。 「先生はそのようなもの〔軍刀〕を持ち歩いて警察に咎められませんか」 「この軍刀は関の孫六を軍刀づくりに直したもので登録しております。 登録証を御覧になりますか?」三島は登録証をに示すとともに軍刀を抜いた。 「小賀、ハンカチ」と三島は言った。この言葉を合図に行動に出るはずであったが、 総監がちり紙を取ってきてやろうとして執務机に移動してしまう。 とりあえず三島は小賀から受け取ったハンカチで刀身を拭い、軍刀を戻ってきた総監に手渡す。 総監は刀をじっくり眺めてから三島に返す。「いい刀ですね。三本杉ですね」 軍刀を受け取った三島は再び刀身をハンカチで拭い、小賀にハンカチを返した。 ハンカチを受け取った小賀は、総監の後ろに回ると腕で総監の首を絞めた。 そしてハンカチで口をふさぎ猿轡をした。「三島さん、冗談はよしなさい」総監は抵抗しながら言った。 三島は抜き身をかざして総監を睨んでおり、小川と古賀が総監の両手両足をロープで縛った。 「なぜこのようなことをするのか。私が憎いのか、自衛隊が憎いのか」 総監は抵抗しながら問いかけたが、椅子に縛りつけられる。 その間に森田が総監室の正面・幕僚副長室に続く西側・幕僚室に続く東側の3ヶ所のドアに バリケードを築いた。日の丸に七生報国と墨で書いたハチマキを全員が締めた。 ◆11:05 市ヶ谷会館で待っていた徳岡記者と伊達記者に楯の会メンバーが三島からの手紙を渡す。 中には、檄文と5人の写真と私信が入っていた。<・・・同封の激および同志の写真は 警察の没収を恐れて差し上げるものですから、何卒うまく隠匿されたうえ自由に御発表ください。 檄は何卒ノーカットで御発表いただきたく存じます。・・・> 写真は集合写真1枚・各人の写真5枚・そして森田の分だけ夏の制服を着た写真が1枚。 私信から互いにもう一人の記者がいると知った両名がお互いを見つけて合流する。 徳岡記者は三島の手紙を靴下の中に隠し、伊達記者はブーツの中に隠す。 ◆11:10 総監室の異常に気づいた沢本三佐が幕僚室の原一佐に報告、 二人で正面ドアを開けようとしたが開かず、「入るな」と中から怒鳴られる。 ドアの下から「要求書」が渡される。要点は以下の通り。 ●市ヶ谷駐屯地の全自衛官と市ヶ谷会館にいる楯の会メンバーを本部玄関前に集合させること。 ●三島が檄を散布し、演説するのを認めること。その間妨害を一切行わないこと。 ●以上のことが守られるなら総監は無事引き渡す、 守られなければ即座に総監を殺害して自決すること。 ◆11:12 防衛庁本庁に連絡、警察に通報することが決まる。 通報を受けた警視庁では公安第1課が臨時本部を設置、 機動隊120人と私服警官150人に衆道命令を出す。 ◆11:15 西側ドアから自衛官5人が突入、 「出ろ、出ろ、外へ出ないと総監を殺すぞ」と三島は叫ぶと日本刀で斬りつける。 東側ドアから自衛官7人が突入、 「邪魔するな。出ていかないと総監を殺すぞ」と三島が答えてこれにも斬りかかり、 森田は短刀、小川は特殊警棒、古賀は椅子を投げて乱闘となり、 自衛官7人が負傷したので全員退去する。 ◆11:20 牛込警察署長が到着。 高窓から中をのぞき「暴挙はすぐにやめなさい」と警告を繰り返すが、三島は睨み返すのみ。 ◆11:25 機動隊一個中隊到着。報道機関がこれを知り動き始める。 廊下側の覗き窓のガラスを叩き割り、吉松幕僚副長が説得を続ける。 「今日は自衛隊に奮起を促すために来た。演説させろ」などと三島は要求を主張し続ける。 ◆11:33 吉松幕僚副長が三島らに演説を許すことを伝える。 「君は何者だ。どんな権限があるのか」と三島が尋ねたので、 吉松幕僚副長は自分が現場の最高責任者だと答える。三島はホッとした表情を見せて 「12時までに集めろ。13時30分まで一切の妨害行動をするな」と言った。 警官が中を覗くと「覗くな」「入ると殺すぞ」などと全員の怒号が飛び、窓を黒布で覆った。 ◆11:40 市ヶ谷駐屯地全自衛官に本館前に集合するようマイクで指示が流される。 徳岡記者と伊達記者が市ヶ谷駐屯地に到着。 100人ほどの自衛官が思い思いに立っていた。それからすぐ自衛官は800人ほどになった。 新潮社に着いた小島編集者が封筒から原稿を取り出すと、 最後のページに<『豊饒の海』 完 昭和45年11月25日>と記されていた。 担当編集者である小島はもう完結するなどと聞いていなかった。 これでは入稿できない、三島に確認しなくてはならないと焦っていると、 テレビに三島を名乗る男が市ヶ谷の自衛隊に押し入ったというニュースが流れ始めた。 ◆11:55 森田と小川が総監室の前のバルコニーに出て 6項目の要求を書いた垂幕を下げ、檄文十数枚を撒いた。 ◆12:00 三島と森田がバルコニーに登場。三島はマイクを使わずに演説を始める。 森田は一歩退いた位置に立っていた。自衛官の反応は冷ややかでさかんに野次を飛ばす。 報道機関のヘリコプターの音で三島の声は聴き取りにくい。 「隊員を静かにさせろ。静かにさせないと総監を殺す」などと原一佐に要求する。 報道陣が次々と到着、テレビ・ラジオが三島由紀夫が自衛隊に乱入と報道し始めた。 自宅にいた三島の父親は正午にテレビをつけて事件を知る。 いつまでも三島が来ないことを不審に思った市ヶ谷会館の楯の会メンバーは、 ラジオをつけて事件を知る。すでに市ヶ谷会館は警官隊に包囲されていた。 警棒を振り回して警官隊の包囲を突破しようとした西尾・今井・田中の3人が 公務執行妨害で逮捕される。 残りのメンバー全員は天皇陛下万歳を三唱したあと、参考人として警察に連行される。 三島の演説は続く。 「4年間待ったんだ。最後の30分だ」 「諸君の中に一人でも俺と一緒に立つ奴はいないのか」 野次<そのために、我々の仲間を傷つけたのはどういうわけだ> 「抵抗したからだ」 激しく野次が飛ぶ。 「一人もいないんだな。それでも武士かァ!それでも武士かァ!」 「諸君は憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。 これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ。それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ」 三島は森田とともに天皇陛下万歳を三唱して、バルコニーから姿を消す。 ◆12:10 三島と森田は総監室に戻った。部屋に戻るなり三島は服を脱ぎながら 「仕方なかったんだ」「あれでは聞こえなかったな」とつぶやき、 総監に対して「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」と言った。 上半身裸になるとバルコニーに向かって正座した三島は、 叫びながら両手で握った鎧通しを左脇腹に刺した。 切腹と介錯の間に自らの血で色紙に<武>と書く予定だったができなかった。 森田が三島の首に刀を振り下ろした。三島の首は半分ほど切れ、身体は前に倒れた。 古賀らが「もう一太刀」と言い、続けて二度森田が斬りつけるも介錯しきれなかった。 総監は「介錯するな」「とどめを刺すな」と叫んだ。 森田から「浩ちゃん頼む」と言われた古賀が森田の刀を取って介錯を果たした。 小賀が三島の握っている鎧通しを取って血を拭い、首と胴を繋ぐ皮を切り離した。 次に森田が制服を脱ぎ三島の横に正座した。森田の介錯は小川がする予定であったが、 小川は正面ドアを押えていて離れられなかった。そこで森田は古賀に介錯を頼んだ。 森田は三島の血のついた鎧通しを腹に刺し、古賀が一太刀で介錯した。 3人は2人の遺体を仰向けにして制服をかけ首を並べて安置した。 戦時中友人の自決を見守ったことのある総監は「君たち、おまいりしたらどうか」と言った。 3人は合掌しながら泣いた。「もっと思い切り泣け」と言った総監は縄を解かれると、 「自分にも冥福を祈らせてくれ」と言って2人の首に向かって正座し、瞑目合掌した。 ◆12:20 3人は総監とともに部屋を出て、日本刀を自衛官に渡し、警官に逮捕された。 ◆12:23 警官が総監室に入り、三嶋の死を確認。 ◆12:30 記者会見。報道機関が2人の死を一斉に報道。 ◆17:15 2人の遺体が牛込署に運び込まれる。 ◆夜 瑤子夫人が楯の会メンバー倉持清に三島の遺書を渡す。 倉持宛の遺書が1通、楯の会全員宛の遺書が1通。 ◆11月26日 慶応大学病院で解剖のち遺体が自宅へ戻る。夜自宅で密葬。 諦聴寺で森田の葬儀。ここで楯の会全員宛の遺書を回し読みする。 ちなみに三島は最期まで知らなかったが、 当日は第32普通科連隊長だけが不在だったのではなく、 約1000名の前衛部隊のうち約900名がともに演習に出ていた。 バルコニー前に集まったのはほとんどが後方支援の自衛官であった。 前衛部隊の自衛官がいたら共に立ち上がったか、逆に三島が切腹できずに鎮圧されていたか、 それは分からない。しかし、マイクやメガホンを準備していなかったことから、 最初から死ぬことだけが目的だったと思われる。 なお決行日が11月25日となったのは、単に新潮の原稿締切日が毎月25日だったからである。 昭和46年 1971 ◆01月24日 築地本願寺で葬儀。 ◆02月26日 楯の会解散。 昭和47年 1972 ◆04月27日 18回の公判の結果、古賀・小賀・小川の3人に懲役4年の判決が下りた。 
	◆43歳 自分ではなく川端康成がノーベル賞を獲り、落胆。 
				
	
		
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: NHK記者 伊達宗克 川端先生のノーベル文学賞受賞が決まった昭和43年10月17日夕方、 私は日本出版クラブで三島さんと待ち合せていた。 三島さんは待たせてあった私の車の中で自宅に戻り、ダークスーツに着替えた上、 今度は瑤子夫人と私の3人で鎌倉の川端邸へお祝いに向かった。 車中での3人の会話はとりとめもないものだったが、 三島さんがふともらした言葉が私の耳に甦る。 「この賞が次に日本人に贈られるのは、少なくとも10年先でしょう」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 作家 瀬戸内寂聴 瀬戸内はテレビ局の取材でポルトガルのリスボンに行く。 そこでポルトガル大使である三島の弟千之と出会う。 大使は毎日のように私を招いて下さった。話はすべて三島さんのことであった。 ちょっと驚いたのは、三島さんが自決の前は川端さんを憎んでいたということであった。 すべてはノーベル賞が原因らしかった。 三島さんの父君の平岡梓氏が、川端さんのことをびっくりするほど悪く書かれているので なにか三島家と川端さんの間では思いがけない齟齬が生じていたらしいが、 梓氏の文章ではなにか一方的に感情的で 川端さんを悪人呼ばわりしてわけがわからなかった。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 毎日新聞記者 徳岡孝夫 私の親しい編集者が別の話を知っています。 それは三島の父親である平岡梓氏からの直話です。 梓氏によると、川端さんが珍しく午前中に例のコロニアル風の三島邸に来て 昼食をはさんで夕方までいた。 帰ったあと三島さんは同じ敷地内にある両親の隠居所に来てポツリと 「とうとうサインさせられちゃった。僕はいいから、ノーベル賞を川端さんにあげてください という手紙にサインしちゃった」と言いました。 当時は川端氏はまだ存命中だったので、さすがの梓氏も書けなかった。 だが、「これを書かねば死んでも死にきれない」と言ったそうです。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 三島から川端康成への手紙 昭和44年8月4日 ・・・11月3日のパレードには、ぜひ御臨席賜りたいと存じます。 ・・・小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。 小生にもしものことがあったら、・・・それを護って下さるのは川端さんだけだと、 今からひたすら頼りにさせていただいております。・・・ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 親友・仏文学者 村松剛 国立劇場の屋上で行われた楯の会一周年記念の式典では、 三島は川端康成に祝辞を述べてもらうつもりでいた。 鎌倉の川端さんの家に行って彼がその依頼を切り出すと、川端さんは言下に 「いやです。ええ、いやです」 にべもない返事なんだよ、と三島はその口調を真似しながら言った。 断られるとは思っていなかったので、打撃は大きかったのである。 川端さんは政治嫌いだからと言って慰めると 「だって、今東光の時には応援に走り回ったじゃないか」 選挙の応援はともかく、 楯の会にまではついて行けないというのが川端康成の立場だったろう。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 唯一の女友達 湯浅あつ子 『鏡子の家』の鏡子のモデル それと、ノーベル賞のことは大きいですね。 あれは三島由紀夫にとって大きなショックだったと思いますから、 もしかすると一因になっているのではないでしょうかしら。 だって、自分では当然受けるつもりで授賞式用の礼服まで誂えちゃって、 はた目にもおかしいほどウキウキしてたんですから。 それが、恩師として立てていた人に横から取られちゃった形で、 私たちの前ではずいぶんくやしがっていましたし、恨んでもいました。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 川端康成を葬儀委員長とすることに三島の家族は難色を示したが、 葬儀の世話役松村剛のとりなしで川端が務めた。 右から 川端康成 瑤子夫人 父 母 
	◆43歳 楯の会結成。 
				
	
		
冬服 夏服 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 西武百貨店社長 堤清二 ペンネーム辻井喬 三島さんから私のところに電話があり、 「今度おもちゃの軍隊を作ることになったんだが、制服はうんと格好良くなくちゃいけない。 僕が調べたところド・ゴール将軍の軍服が一番いい。 あれを作ったデザイナーを調べてくれないか」と依頼されたのです。 調査の結果、そのデザイナーは五十嵐九十九という日本人で、 おまけになんと当時西武デパートに勤めていたということがわかりました。 さっそく電話でそう伝えると三島さんは大変喜んで、 「君のところで作って請求書と一緒に納めてくれ。費用はすべて僕が払う。 だだしできるだけ安くしておけよ」ということになり、 すぐに本人がデザインイメージを描いたものを送ってこられました。 徽章のデザインまで詳細に指示してあり、 文章だけでなく絵も上手いんだなと感心したものです。 言うまでもなく三島さんの指示通りにできるだけ安くして納めました。 三島さんの衝撃的な死を知った私は、 その夜お通夜に参加しようと三島邸に飛んでいきました。 そこへ父上の平岡梓さんが現れて私の姿を見つけると、 「あんなのところであんな制服を作ったから息子は死んじゃったよ」と叱られたのです。 梓さんの反応を見て、三島さんは父親にすら理解されていなかったのであろうと 私は感じましたし、今もそう思います。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ※金額は昭和40年代当時 楯の会の軍服は1着1万円、夏用・冬用を101人分注文した。 ボタン・徽章も楯の会のマークが入ったものを特注している。 軍帽は作ってくれる帽子屋が見つからず、三島本人が下町の職人を探し出して作らせた。 これにも夏用・冬用がある。さらに軍靴・戦闘服・隊旗、自衛隊体験入隊費用、 月1回の定例会の会場費・通信費・・・。楯の会学生長持丸博の記憶によると、 この2年間で三島が楯の会につぎ込んだ金額は1,500万円以上になったという。 三島は貯金が1/10になってしまったと女友達の湯浅あつ子にも愚痴っている。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 親友・仏文学者 村松剛 昭和45年1月22日に僕は日本を発ち、2月08日まで海外にいた。 帰国した翌日に三島から電話がかかり、佐藤栄作首相から楯の会を支援するという 申し出があったと聞いたのはこの時だったように思う。「毎月百万円を寄付すると、 木村俊夫官房副長官を通じて言ってきたんだよ。困っちゃってねえ」 昭和45年の三島にとっては、自民党政府そのものが日本人の魂を忘れて 敗戦後の体制を維持しようとする敵となっていた。当然ながら三島はこの申し出を謝絶した。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 状況を把握できない楯の会に、三島由紀夫の妻瑤子から連絡があり、 三島からの遺書があることがわかる。倉持と堀田が三島邸まで取りに向かう。 倉持宛の遺書と全会員にあてた遺書の2通だった。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 楯の会元メンバー 小野寺彰 先生の遺書は、翌日森田さんの葬儀の時にみんなで回し読みしました。 先生と森田さんたちの行動は、最初で最後の行動だと思いました。 元々楯の会は希望とか展望というものを持つ会ではなく、三島隊長がすべて判断していました。 一回は起つ、一回起ったらもうやらない。その時はもしかして死ぬかもしれない。 みんなそう思っていたのではないかと思います。 ただ、それがどういう行動になるかわからなかっただけです。 ですから、楯の会という名を使った運動はもうできないと思いました。会は解散すべきだと。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 楯の会元メンバー 佐原文東 翌年2月楯の会は解散しました。 みんなで先生の遺書を回し読んで「会としては解散する」と言われ、その通りだと思いました。 あれを境にして全部<個>に帰るべきであると僕は思いました。 つまり、基本的にグループじゃないというのが根底にあるんです。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 楯の会元メンバー 向井敏純 会員の中には「これから楯の会の会員が毎年一人ずつ自決すれば、百年続けられる」 と言った者もいます。私もそれは良い考えだと思いました。 世間を震撼させた三島事件を世の中の人々に忘れられないようにアピールし続けねばと。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 楯の会元メンバー 堀田典郷 堀田は誰よりも会の解散に反対し、「解散反対声明文」も書いた。 「先生に解散と言われて解散するのでは情けないと思った。 ここで解散するのはなく、覚悟を決めて続けようと。 しかし賛同者は少なかった。結局、私も解散に従いました」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 楯の会元メンバー 塙徹二 楯の会の解散に関しては、三島先生がそう言っている以上 それにきちんと従うのがいいんじゃないかという気持ちですよね。 三島先生の命令でもありますし、静かに解散してみんなそれぞれ社会に戻るなり 学校に戻るなりした方が三島先生の遺志に添うんじゃないのかなというのが私の気持ちでした。 基本的にこの事件は、三島先生の個人的な事件だと思っているんですよ。 クーデターをするならもっと違う方法もあったと。 あのやり方では自衛隊も理解できないです。突然ビラ撒かれて、垂幕さげて、演説聞かされて、 立ち上がれ!って言ったって、「それじゃ聞こえない」って野次言うのがせいぜいですよ。 ですから、あれは三島先生の個人的な事件だと考えているんです。 三島先生はずっと死に場所を作らなくっちゃって考えていたんだと思います。 事件後、本を読んでそう思いました。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 
	◆41歳 居合道始める。『論争ジャーナル』の学生編集者たちと出会う。 
				
	
		
『憂国』のモデル青島中尉の割腹現場に行った軍医川口良平に 手紙・電話などで切腹について質問攻め。 ◆42歳 自衛隊体験入隊始める。空手始める。 朗読レコード『天と海 英霊に捧げる七十二章』を作る。 ◆43歳 楯の会結成。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 親友・仏文学者 村松剛 若者たちが三島の家に出入りするようになってから、彼はある日こんなことを言った。 「若い者が来たら、こっちはドテラなんか羽織って玄関に出て『おう来たか、まあ上がれ』 そう言ってほしいのだろうなあ、あいつらは。それは俺にはできないんだよ」 唖然とする思いで僕はこの言葉を聞いた。 磊落をてらうこういう泥臭さを、三島は何よりも嫌っていたはずではないか。 剣道の掛け声も生臭くてファナティックで耐えがたいと、少し前までの彼は言っていた。 「あの生臭い声。それから、試合に勝っても負けても腕を顔に当てて ウーッとかいって泣くだろ。我慢できないな」 『奔馬』を書いていた頃の作者は、こういう嫌悪感をもう口にしなくなっていた。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 今上天皇の御学友・作家 藤島泰輔 昭和42年1月11日、三島氏の前には26歳と25歳の青年が座っていた。 中辻君と万代君である。 「僕は君たちの話を聞いて、破れないと思っていた書斎の壁が破れるような気になってきたぞ」 と三島氏は言った。 「『英霊の声』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」 と真顔で打ち明けるのを聞いている。 そして氏は、書斎から日本刀を三振持ち出してきてそれを抜き放ち 「刀というのは鑑賞するものではない。生きているものだ。 この生きた刀によって、60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない」と言った。 『論争ジャーナル』の2青年に加えて、若い学生たちが三島家の客となるようになった。 後に楯の会のメンバーとなった青年たちである。 三島氏は青年たちに武人としてのシツケを徹底的に施すことを始めた。 午後6時を約束の刻限とし、6時半に夕食が供せられた。 夕食は青年たちにとって極めて贅沢な内容のものに限られていた。 ビーフステーキ・中国料理なども、フルコースとして青年たちの前に現れた。 いつの場合にも、フランス産の最上級のワインが出された。 夕食が終わると3階の展望の良い部屋に誘い、 キューバ産の葉巻の木箱を開けて青年たちに勧めた。 コニャックとスコッチが食後酒として用意された。 中心メンバーによる三島家訪問は定期的に続いていた。 三島氏はしきりに日本刀を書斎から持ち出して、一同に抜かせ素振りを教えている。 切腹の作法、歴史上の切腹の話なども次々と飛び出した。 時には絨毯に青年を正座させ、峰打ちで介錯の作法を教えた。 それを行うのは三島氏に限っており、必ず首の寸前で止めた。 初めはいい気のしなかった青年たちも次第に慣れて、 背後で刀を振り下ろす風を切る音が聞こえても平気でいられるようになった。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 新潮社編集者 菅原国隆 年齢もほぼ同年、育つ環境もほぼ同格という点において作者と一脈通じ合う気風があり、 作家と編集者の関係を超えて生活上の些事も打明け合う親友の間柄に達していた。 昭和42年7月の段階ですでに 「近頃の三島さんは、何を考えているんだかさっぱりわからないよ」 と嘆息まじりに漏らしていた。 昭和43年 三島は「今度、自衛隊に学生を連れて行くことにした」と述べ、 楯の会結成の細かいいきさつも説明したという。できれば菅原さんの賛同を得るとともに、 相談役として一肌脱いでもらいたい気持ちがあったらしい。菅原さんは反対した。 「三島さん、いったい何を始めるつもりなんですか」いきなりそう切り出した。 「とにかくご自分で作り上げた主人公になりきる習性があるから注意してくださいよ」 『禁色』を書く前の三島が男色酒場に出入りし、 <ユウちゃん>という青年を可愛がっていたのを菅原氏は見ていた。 一時の三島は男色の世界に入り浸った。 『美しい星』を書いていた頃の三島はなかば宇宙人になりかかっていた。 『美しい星』の取材に同行した菅原さんの話によると、 空飛ぶ円盤を見る目的で山で夜明しした時のいでたちが、 肩から毛布みたいなものを巻きつけ、もう一方の方には大きな望遠鏡をつけ、 自分でデザインした実に奇妙な帽子をかぶり、格好まで宇宙人を模して現れたので 危うく吹き出しそうになったと言うのである。 格好だけではない、真実宇宙人になったつもりらしい。 「ご自分で作り上げた主人公になりきる習性がある」 と氏が言ったのは過去のそのような経験による。 この言葉は三島の痛いところに触れたようで、彼は悪戯を見つかった子供のような顔をした。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 親友・仏文学者 村松剛 昭和44年の夏の頃、「中辻を呼んであるから、つきあってくれよ」と三島は囁いた。 中辻和彦は昭和41年の暮れに三島の家を訪問した万代潔の仲間で、 『論争ジャーナル』の編集責任者だった。 行き先は赤坂プリンスホテルの喫茶室だった。席に座るなり、彼は中辻君を面罵した。 「君は雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ」 ある右翼系の人物から『論争ジャーナル』が財政上の支援を受けていたことが 三島を立腹させた原因だったと、これも後になってから聞いた。 多少誇張癖のあるその人物は楯の会は自分が養っていると吹聴し、 それが三島の耳に伝わったのである。楯の会を外部からの金銭上の援助なしに 独力で運営してきた三島にとって、これは許しがたい背信行為だった。 絶交宣言の立会人として、僕がその場に呼ばれたらしい。 この事件によって『論争ジャーナル』系の7人が楯の会を辞めた。 その中に持丸博という学生がいた。三島が<祖国防衛隊>の結成を 初めて告げた相手が中辻・持丸の2人であって、持丸は後で学生長に任命される。 三島には彼だけは辞めさせる気はなく、辞めもしないだろうと思っていた。 楯の会の仕事に専念してくれれば、生活は自分が保証すると三島は彼に提案した。 それを振り切って持丸は楯の会を去ったのである。この時も三島は電話をかけてきた。 「持丸が辞めるって言うんだよ。楯の会が成り立たなくなる」 悲しみようは尋常ではなく、大切な右腕を失った嘆きというよりも、 我が子に裏切られた父親の悲嘆を思わせた。 三島は森田必勝を次の学生長に任命した。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 持丸博は後任の学生長に自分と同じく実務的な能力がある倉持清を推薦したが、 三島が決めた学生長は森田必勝であった。  | 
			
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