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【将棋】天野貴元さん、がんと闘いながら棋士の夢追い続けた30年の人生

スポーツ報知 12月21日(月)11時3分配信

 10月27日に多臓器不全のため30歳の若さで亡くなった将棋の棋士養成機関「奨励会」元三段でアマチュア強豪だった天野貴元(よしもと)さんの四十九日法要が、今月13日に行われた。あまりに短すぎる生涯だったが、がんと闘いながら棋士を目指した天野さんの姿は、夢に挑むことの尊さを多くの人に伝えた。両親の良夫さん(67)と幸子さん(65)、青春を過ごした道場「八王子将棋クラブ」の席主・八木下征男さん(72)が在りし日の思い出を語ってくれた。(北野 新太)

 亡くなる9時間前のことだった。消え入りかけていた天野さんの意識が突然戻った。

 両親と懐かしい話をした。小さな頃、青森や諏訪湖まで将棋の大会に出掛けたこと。楽しい思い出ばかりだった。

 再び失われていく意識の中、天野さんが震える声で告げたのは今後の夢だった。

 「1000万円で土地を買って、お母さんのために家を建ててあげたいんだ…」

 「マレーシアで将棋の普及をしたいんだよ…」

 目を閉じる。少したった後、もう一度だけ目を見開いて、両親に感謝の思いを伝えた。

 「産んでくれてありがとう…。30年、生きられてよかったよ…」

 最後の言葉だった。翌日未明、静かに旅立った。

 良夫さん「息を引き取る瞬間まで、貴元は精いっぱい生きたと思います。短い人生だったけれど、生きたいように生きたことは羨ましくもありました。悲しいことですけど、悲劇ばかりじゃない。彼自身、病気になって気が付いたこともあったでしょうし、病気になったことで彼と本当の意味で心を通じ合えたという気持ちもあります」

 幸子さん「子供に対してではありますけど、正直に言えば畏敬の念のようなものがあります」

 生涯を通じて将棋を愛し、将棋のために生きた30年だった。5歳で将棋と出会い、6歳で「八王子将棋クラブ」に通うようになると、寝ても覚めても将棋のことを考えるようになった。

 良夫さん「まだ低学年の頃、法事で道場に行くのを休んだことがありました。すると、途中で『もう道場に行かせてほしい。自分で行く』って言って聞かない。大人でも歩いたら1時間くらいかかる場所だったんですけど」

 天才と称された小学生時代。1学年上の渡辺明二冠(31)=竜王・棋王=らと全国の覇権を争い、小4で小学生名人戦準優勝。翌年、奨励会に入会した。破竹の勢いで昇級昇段すると、中2で学校には行かなくなった。「中学も出ないのがオレのブランドだ」。結局、卒業はしたが、棋士以外の人生など考えもしなかった。

 弱冠16歳で四段(棋士)への最終関門「三段リーグ」入り。夢はタイトルで、棋士になることは通過点にすぎないはずだったが、30数人で戦って半年のうち2人しか昇段できない過酷なリーグを突破できず、停滞する。

 良夫さん「10代のうちは自分が棋士になれないなんて全く思っていなかったと思います。でも、20代になると少しずつ現実の厳しさを見つめるようになっていました」

 恐怖と不安は、酒やたばこ、競馬やマージャン、パチンコという逃げ場所を作り出した。

 幸子さん「孤独に耐えられなかったのかもしれません。でも夜、部屋をのぞくと目の下にワサビを塗って将棋の研究をしたりしていました」

 2012年。年齢制限の26歳を迎え、退会した。人生の全てを懸けた棋士の道を諦めざるを得なかった天野さんに、神様はさらなる試練を与えた。

 13年春、舌に激痛が走り、診察を受けると、最も重篤な「ステージ4」の舌がんを宣告された。

 良夫さん「一緒に聞いた私が意識を失って倒れてしまいました。でも、貴元はすぐに成功率50%の手術を受けることを決めて、葬式のことまで相談してきました。『寂しいのはイヤなんだ。派手にやってくれ』って…」

 亡くなるまで2年半に及んだ闘病生活。天野さんが選択したのは、将棋のために生きることだった。「日本将棋連盟天野支部」を設立して普及活動を行い、アマチュアの大会に出来る限り出場し、勝ちまくった。

 14年11月、アマタイトル「赤旗名人」になって三段リーグ編入試験受験資格を得ると、なんと再び棋士を目指した。試験の結果は不合格だったが、4勝3敗と勝ち越した。

 言語障害になり、肺にがんが転移し、体重は33・9キロにまで低下し、入退院を繰り返しても、筆談ボードに「あきらめない」と書いて盤上の真剣勝負に挑んだ。再入院の度に「くやしい」と書いた。

 最後は歩行も困難になったが、車椅子に座って指した。ツイッターには「将棋の良いところは体がボロボロになっていっても脳さえしっかりしていれば半永久的に指せること」とつづった。

 幸子さん「分かっているんです。世間の常識なら将棋の大会に連れていくどころじゃないということ。でも、将棋を指すことを親として奪えませんでした」

 通夜と告別式には、幼少期から切磋琢磨(せっさたくま)した多くの棋士たちを中心に、550人もの人々が足を運んだ。ひつぎには将棋の駒が入れられた。戒名は「貴将励道信士」。幸子さんは遺影に向かって「天国でも将棋に励ませるなんて、かわいそうだったかしらね」とほほ笑みかけた。

最終更新:12月21日(月)11時39分

スポーツ報知