人間はなにかしらのキッカケによってそれまでの歩んできた過去とは別人と思える人になることがある。
それは死する体験によって人生の有限感を獲得し"イマ"の一秒一秒を大事にしはじめたり、何らかの神秘体験が宗教の回心を促したり、人との出会いで内在化する決定基準を大幅に更新したり、心臓移植によって性格が百八十度一変してしまうように、人間の性格や思考方式は簡単に変わるのだろうとは思う。
だが裏返せば「そういったイベント」が発生しない限り人は変わらないんだろうなとも私は思っている。
「三つ子の魂百まで」ということわざがあるけど、あれに科学的根拠があるのかは不明だが、いわんとすることはわかる。たとえば同家庭・同環境で育った兄弟でさえも、内向的で本ばかり読んで口下手な弟もいれば、社交的で人と話すことが楽しそうなお兄ちゃんもいたりする。年だってそう離れてはいないし、教育環境はほぼ一緒だったにも関わらず人間の振る舞いや決定基準・考え方が大きく違うケースを見ると「三つ子の魂百まで」という言葉も信じてしまいそうになる。人の本質は幼少期に決定されてしまうってね。
これの派生パターンとして、私がよく聞いていたのは「ある時期を越えたらもうずっとそいつはそのままだ」とかそういう話は多かった。つまり若い時期は変化を受け入れ順応してくが、老化が進むたびに変化を拒み、性格や思考が固定化されていってしまうというお話。
ギャンブルで一発逆転を狙っている30を過ぎた人はずっとそのように生きてくのだろうし、誰かを怒り続けることで自身の征服欲とアイデンティを満たす術を覚えてしまった人はもうずっとそのように生きてくのだろうし、他者に依存し周囲に迷惑ばかりかけ続ける人はずっとそのように生きていくのは、私の観測範囲から長期的にみても納得してしまうお話でもあったりする。数十年同じ状態を保っているのだからそう思ってしまうのも仕方がない。
そんなある時期を越えたら、もうその人はずっとそのままなのだという、身もふたも無い、残酷な言い分。
ネットを見渡したって、あらゆるニュースに視ねとか首をくくれとか平気でいってのけるアカウントとか、匿名掲示板でルサンチマンをこれでもかと投げつけた挙句自分は発達だと免罪符を掲げるネットストーカーby芸術的盲人だとか、そういうのをふと見てしまったとき「この人たちはずっとそのように生きていくんだろうな」と思ってしまう。もう変わることはないし、変わることがあったとしても、より悪く、よりダメな方向へずぶずぶと堕ちていくだけなのだろうと。「劇的なイベント」なんてそう訪れるわけがないのだから。
私も幼少期から今までを振り返ってみると多少変化した部分は感じ取れるが、根本的なところはあまり変わっていないような気もしててなんだか変な気分だったりする。「何もかも変わらずにはいられない」のがこの世界の絶対的なルールなはずなのだけれど、自分の本質的な部分はあまり影響が受けていない気がしててどういうことなのかとすこし疑問かもしれない。でも負けず嫌いな部分は削り取られてしまったか。
あるいは、「今から過去を振り返って」るからそう思えるだけで、本当は、確実に、どうしようもなく変わっているけれど、「今から過去を振り返って」いるためにその事実が捻じ曲げられて観測されているのかもしれない。だからそういう風に感じているだけで事実としてはそうじゃないのではないのだと。それはありえそうだなと思う。
そしてもし「三つ子の魂百まで」が正しかった場合、それは「日常」から離れられないお話と似ているなって思った。どこまでも絡めとられ元の座標に例外なく戻されてゆく。あるいは "私達は絶対に幸せになれない" というピングドラム的なお話だったりするのかも、とぐるぐる考える。
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