小さな旅 手紙シリーズ 忘れられないわたしの旅 第2回 戦後70年胸に刻んで 2015.12.19


(テーマ音楽)皆さんから頂いたお便りでつづる「忘れられないわたしの旅」。
第2回は戦中や戦後間もない頃の記憶をたどります。
最初のお手紙は…「私にとっての忘れられない旅は65年ほど前母と歩いた『真夜中の旅』です。
6歳の誕生日を前にしたある夏の夜でした」。
長野県山ノ内町で暮らしていた堀内さん親子。
父親が戦死し母親のツネさんが女手一つで堀内さんと2歳上の兄を育てていました。
「手に職を持っていなかった母は農家からお米や小豆などを買い入れ東京に持っていく闇屋さんをしていたのです」。
「幼い私は母から離れられず東京へ行く夜行列車にも何度も一緒に乗っていました」。
「この日私と母は北長野駅で上野行きの夜行列車を待っていました。
やがて列車がホームに入ってきましたがデッキまで人がいっぱいでした。
闇米が入った大きな荷物を背負った私たちは駅員さんから止められてしまいました」。
「列車に乗る事ができず母は困っていましたが私は内心うれしくなりました。
列車に乗らなければ母は闇屋さんをしないですむからです」。
「帰りの列車は終わっていたため母と2人20キロの道のりを歩いて帰る事になりました」。
「最初は意気揚々と歩き始めた私ですが町なかを過ぎる頃には何もしゃべらなくなりました」。
「気持ちが沈みかけた頃須坂市と小布施町の境にある松川橋にさしかかりました。
そこで私は夢のような光景に出会いました」。
「川べりではあっちでもこっちでも蛍がいっぱい光っているではありませんか。
まるで蛍の世界に飛び込んでしまったようでした」。
「私は蛍を捕まえようと必死になって追いかけました」。
「小さな私の手の中はすぐに蛍の光でいっぱいになりました。
ただただ美しく幻想の中にいるようでした」。
出発から2時間近くが過ぎ堀内さんはすっかり歩き疲れてしまいました。
「私は母が『おぶってやるか』と言ってくれるのをひたすら待っていました。
でも母からその言葉は聞かれませんでした」。
「私をおぶって歩けば母自身がつぶれてしまいます。
そして私がひと言でも『おぶって』と言えば次から連れていってもらえない事は分かっていました」。
「やがて我が家のある山ノ内町に着きました。
空がすっかり明るくなっていた事を覚えています」。
「母は言いました。
『もう母ちゃんについてきちゃいけないよ』。
私は『うん』とうなずいてしまいました。
幼い私にはつらかったのでしょう。
こうして母について東京へ行く事はなくなりました」。
お手紙を下さった…母親のツネさんは土木作業や畑仕事などで子供たちを育て上げ5年前に亡くなりました。
「若い母親と幼い子供が歩いている姿を思い返すと母はつらかっただろうと思います。
苦労するために生まれてきたような母の人生。
自分を犠牲にして私を育ててくれたと感じています」。
思いがけず親の戦争体験に触れた旅もあります。
続いては…5年前80歳を過ぎた父親と高校生の娘の3人で京都観光をした時の事です。
「東山の辺りを散策していると父がぽつりと言いました。
『昔ここを鉄砲担いで行進した事がある』」。
「戦時中大津にあった陸軍少年飛行兵学校に在籍した父は京都市内まで行軍訓練をしたと言うのです。
父が少年飛行兵に志願した話は知っていましたが詳しく聞いた事はありませんでした」。
「私たちは京都での観光を切り上げ記念碑が残るだけという学校の跡地に行ってみる事にしました」。
「手がかりは父が昔の仲間から聞いた『商業高校の裏』という記憶だけです」。
「『大津商業高校』に到着しましたがそれらしい石碑も看板もありません」。
「お巡りさんから『お寺さんなら古い話を知っているかも』と言われて三井寺に行ってみました」。
「しかしお寺の人も『さあ知りまへんなぁ』との答え」。
探す事40分。
商業高校の裏手にある丘で小さな看板を発見しました。
「ありました!」。
「『若鷲の碑』と刻まれた少年飛行兵学校の記念碑です」。
「息を切らしながら階段を上ってきた父も碑を前に感無量の様子です」。
「『琵琶湖の眺めは変わらないなあ』。
父の心は一気に少年の頃に引き戻されたようでした。
ポツリポツリと学校時代の思い出を語りだしました」。
昭和18年15歳で陸軍少年飛行兵学校に入学した父秀三さん。
先輩たちが次々と戦線に送り込まれる中厳しい訓練に励みました。
「『訓練中仲間が米軍の機銃掃射を受けもがくように手足を動かして息絶えた。
病死した仲間に夜通し付き添った。
窓から見える琵琶湖のいさり火が仲間の魂のように思えた』」。
「これまでどこか遠い昔話だと感じてきた父の戦争体験がにわかに迫ってきました。
私にとってもそれは父の人生に触れた大切な旅となりました」。
最後は…昭和19年8月5人きょうだいの長女だった宮木さんは都内の自宅を離れ長野県大町市にある木崎湖のほとりに学童疎開しました。
宮木さんが疎開したのは湖のそばにある木崎館という旅館。
同じ小学校の子供たち35人との共同生活でした。
「食糧事情は悪くなるばかり。
丼に盛られる御飯はだんだん少なくなり育ち盛りの子供にはつらいものがありました」。
「寒さも身にしみました。
暖房は1部屋に小さい掘りごたつが一つだけ。
そこに8人が足を入れ暖をとりました」。
「全然暖まらないので布団をめくってみると反対側の子の足元に炭が全部寄せられていた事もありました」。
「ある時先生がホームシックになった私たちを気遣い全員で裏山に登って『お母さ〜ん』と叫ぶよう言いました。
みんなで一斉に『お母さ〜ん』と叫びましたがかえってさみしくなりみんなが泣いて先生を困らせました」。
それから20年余りたった昭和46年宮木さんは幼い息子2人を連れ再び木崎湖を訪れました。
「木崎館では昔お世話になった女将さんが温かく迎えてくれました。
そして湖で遊ぶためボートを貸してくれました」。
「楽しそうにボートをこぐ息子たちを見た時ふと母の事を思い出し胸がいっぱいになりました」。
「母は息子と同じ年頃だった私を『戦争で生き残れるのはこの子だけかもしれない』と考えながら疎開先に送り出したと言うのです」。
お手紙を下さった宮木雅子さんです。
疎開先から戻った時母親がラジオから流れてくる童謡を口ずさんでは泣いていたと知りました。
蜜柑の一房一房を家族に例えた歌でした。
・「つぶら実の蜜柑をむこうよ」・「蜜柑には家族があるね」・「子を抱いて母さまに似たの」・「輪になって輪になってみんな仲良く並んでる」「母が私を送り出す時どんなにつらかった事か。
子を持つ立場になって改めて母の深い愛情をかみしめています」。
70年の時を経てなお心に深く刻まれる記憶です。

(テーマ音楽)
(テーマ音楽)2015/12/19(土) 05:15〜05:40
NHK総合1・神戸
小さな旅 手紙シリーズ 忘れられないわたしの旅 第2回 戦後70年胸に刻んで[字][再]

視聴者からお寄せいただいたお便りでつづる「忘れられないわたしの旅」。第2回は戦中、戦後の記憶の風景をたどる旅。少年時代、闇市へ食料を運ぶ母と見た蛍の思い出ほか。

詳細情報
番組内容
視聴者のみなさんからのお便りでつづる「忘れられないわたしの旅」。第2回は、戦後70年の今年、手紙につづられた、戦中、戦後の記憶をたどります。闇市へと食糧を運ぶ母親とともに、長野県須坂市と小布施町の間の橋で見た無数の蛍。旅先で父が突然語り出した、大津の少年飛行兵学校時代の記憶。長野県の木崎湖畔にある疎開先を30年ぶりに訪ね、母の愛情に思いをめぐらす女性。厳しい時代を生き抜いた人々の人生を見つめます。
出演者
【語り】山田敦子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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