ファミリーヒストリー「柴田理恵〜女たちが守った老舗旅館〜」 2015.12.18


9月20万人を超える観光客が押し寄せます。
町は踊りの熱気に包まれます。
にぎわう表通りに面して立つ老舗旅館。
創業140年の宮田旅館です。
乾杯!
(一同)乾杯!この旅館にルーツを持つ女優がいます。
革命ですかレレレのレー?明るい人柄で舞台やテレビで活躍しています。
この旅館は柴田さんの母の実家。
実は代々女性たちが支えてきた旅館です。
番組では柴田さんに代わり家族の歴史を追いました。
その始まりは意外な理由でした。
旅館経営が軌道に乗り始めたその時…
(おえつ)ただちにここから出ていって下さい!存続の危機は家族で立ち向かいました。
そして…仕事に追われ娘と過ごす時間を持てませんでした。
母が胸にしまっていた思いが初めて明らかに。
この日柴田さんは自らのルーツと向き合う事になります。
ご先祖様というかそういう人に今日は会えるのかなと思うとなんかちょっとすごいドキドキ…。
フフ…はい。
柴田さんのふるさと…富山平野の高台にある門前町です。
江戸時代から飛騨と越中を結ぶ交易の要所として養蚕業や生糸の売買で栄えてきました。
町の中心に立っている旅館。
(取材者)ごめんください。
はいいらっしゃいませ。
現在あるじを務める…この建物は江戸時代から使われているといいます。
作家森村誠一のベストセラー「人間の証明」の舞台にもなりました。
紘郎さんに旅館のルーツについて尋ねました。
「蝋燭屋伝右衛門」とは何者なのか。
八尾町の歴史に詳しい宮本啓宇さんを訪ねました。
え〜とこれはですね…ありますよ。
伝右衛門これですね。
町の伝承をまとめた本に伝右衛門の名前が記されています。
「慶應年間には蝋燭屋傳右衛門大なる生糸問屋ありて盛に内外向けの生糸を取扱ってゐた」。
古くは蝋燭を売っていた一族。
伝右衛門の代になると蝋燭業をやめ生糸問屋を始めました。
安政6年横浜が開港すると日本の製糸業は輸出に力を入れます。
八尾の生糸は安くて高品質のため海外で人気がありました。
こんにちは!伝右衛門の生糸問屋には外国に卸す仲買人が続々と訪れるようになりました。
旅館が始まったきっかけを伝え聞いています。
伝右衛門は生糸業のかたわら仲買人を泊める旅館を始めたのです。
伝右衛門の孫の代から宮田の姓を名乗り頭文字を取ってという屋号を掲げました。
明治21年長男喜代に縁談が持ち上がります。
相手は豪農の娘るい。
地元の名士稲泉清太郎の娘でした。
富山県立図書館にるいの家柄を示す古文書が残っています。
こちらですね。
「明治二十七年地租金百円以上納税者交名」という資料でございます。
こちらのところに138円板倉村の稲泉清太郎という名前があるかと思います。
当時の高額納税者の名簿です。
るいの実家は多くの土地を持つ資産家でした。
豪華な嫁入り道具を携えて宮田家に嫁いできたるい。
意外にも金銭感覚にたけたしっかり者でした。
やがてるいが帳場を任されるようになり一家の財布を握ります。
明治22年長女のぶを出産。
後の理恵の祖母です。
やがて宮田家の本業だった生糸の売買に変化が起きました。
明治27年日清戦争が勃発。
それに伴い海外との生糸売買が中止され問屋の経営が窮地に陥ったのです。
るいは生糸問屋に見切りをつけ旅館一本に絞りました。
そんな宮田家を突然の危機が襲います。
立山連峰から乾いた寒風が強く吹いていました。
近隣で提灯から火が燃えうつり火事が発生。
火はみるみる燃え広がり旅館にも火の手が迫ります。
慌てて逃げ惑う男たち。
それをよそにるいは体を張ってあるものを守ろうとします。
それは旅館の居間にある欄間。
200年前蝋燭屋伝右衛門の代から受け継いだ老舗旅館の看板ともいうべき逸品でした。
その時のるいの行動は宮田家に語り継がれています。
火の手が迫る中るいは欄間を外します。
そして娘ののぶに墨をすらせ屋号のを書かせました。
紛れて無くならないようにというとっさの機転でした。
物事に動じないるい。
その姿を見て育ったのぶ。
やがて火の手が旅館に迫ります。
ところが…。
火災の様子を伝えた当時の新聞です。
突然風向きが変わり旅館の手前で火の手が止まったのです。
るいのとっさの判断と運を味方に旅館は存続しました。
年老いたるいに代わり旅館の女将の座を引き継いだのは長女ののぶでした。
やがてのぶは定次郎を婿養子に迎えます。
2人は一男五女の子供に恵まれました。
四女の須美子が後の理恵の母です。
のぶは子供たちの教育に熱心でした。
「旅館経営は時代の波で浮き沈みする。
学問を身につければ万一の助けになるだろう」。
のぶは強い信念を貫き通しました。
長男喜一は大学の医学部へ進学。
医者の道を目指しました。
5人の娘たちも当時では珍しく皆女学校を卒業。
そんな宮田家を再び危機が襲います。
のぶを支えた夫定次郎の突然の死。
46歳の若さでした。
一人残されたのぶは6人の子供を抱え女手一つで家を背負う事になりました。
大学を卒業した喜一も軍医としてフィリピンへ出征する事になりました。
文字どおり女所帯となった旅館。
戦況の悪化で客足は減り経営は苦しくなっていきます。
終戦を目前にした昭和20年6月。
更に悲しい知らせが届きました。
長男の喜一の戦死でした。
夫と長男を立て続けに失ったのぶ。
終戦後の混乱の中懸命に旅館を守りました。
しかしのぶは過労がたたり床に伏せるようになります。
そんな母を助けたのは娘たちでした。
房子が旅館を切り盛りし須美子も手伝いに回ります。
そんな折ある事件が起こります。
女所帯と聞きつけた男たちが旅館で賭博を始めタダで居座ろうとしていました。
失礼します!あ?房子と須美子が立ち上がります。
他のお客様のご迷惑です。
ただちにここから出ていって下さい!そうだそうだ!ここはあんたたちの来る所じゃない!何!?このアマ!
(割れる音)荒くれ者たちもその気迫に押され旅館から立ち去りました。
老舗旅館を襲った度重なる危機。
女たちの覚悟で乗り越えてきたのです。
いや〜女の人がかっこいいですね。
あの〜「るい」っていうのぶのお母さんのるいという人はすごい人だったっていうのは聞いた事があるんですけども今日初めて顔を見ました。
あの人が結局宮田旅館の「女で守る」というああいう体制をつくったんだなぁと思って。
大事だから持ち出すけど名前書いとけというとこがすごいですよね。
よそにとられたら困るからね火事場泥棒とかにね。
だからちゃんと書いとけっていうのは…。
うちの先祖らしいなと思って!ハハハハハハハハ!続いては父方柴田家のルーツ。
祖父豊三に遡ります。
豊三は晩年理恵さんの家族と一緒に暮らしました。
八尾にある柴田家を訪ねました。
はい。
いらっしゃいませ。
どうぞどうぞお入り下さい。
2人で暮らしています。
豊三は八尾で40年間理髪店を営み70歳近くまで店に立ちました。
私が聞いたのはあの〜…ほらあの〜…相撲好きだったわ。
明治26年豊三は八尾で製糸業を営む家の三男として生まれました。
豊三は家業ではなく髷結いになる夢を追って富山から東京に出たといいます。
豊三が神田にいた大正時代初頭。
万世橋駅が開通し須田町は年間350万人が行き交う繁華街でした。
当時の神田の様子を記した記録です。
人が集まる神田界隈には理髪店がなんと630軒もありました。
豊三は西洋文化が花開いた神田で髷結いではなく理髪の修業をしました。
先代から100年神田で理髪店を営む野城さんです。
当時の修業の様子を先代から聞いています。
昔の小僧っていうのは朝誰よりも早く起きて掃除をして御飯を炊いてそしてみんなに食べさせて。
そういう修業をするわけだよね。
豊三は毎朝10人分の食事を作り料理の基本を身につけました。
豊三はいつも和服に帽子をかぶっていたのを覚えています。
休日は浅草六区に繰り出し舞台や寄席など東京の空気を存分に吸い込みました。
当時の豊三の暮らしぶりをしのばせるエピソードを次男の勲さんが教えてくれました。
腕にこの腕のここにね女の人の入れ墨をちっちゃいんですけどね親指ぐらいのここにしてたの覚えてるんですよ。
お風呂なんか行った時に。
小さくねほんとに…髪が長くてねこういう…。
一筆書きみたいな感じの。
当時神田では職人たちの間で入れ墨が流行していました。
「痛みに耐えて箔を付ける」。
豊三はそんな粋な職人に憧れたのかもしれません。
豊三は21歳で八尾に戻り店を構えます。
その名も横文字で…はさみやバリカンも東京から持ち帰りこだわっていたといいます。
美和子さんは客からこんな評判を聞いた事がありました。
やがて豊三は隣村に住むちよと結婚。
昭和3年長男豊一が誕生。
後の理恵さんの父です。
取材中貴重な写真が見つかりました。
町の有力者として豊三が初めて曳山の管理を任された時の写真です。
曳山とは300年続く祭りで使われる山車。
その年選ばれた者が修繕などの費用を受け持ちます。
記念の写真には妻ちよと息子の豊一も並んでいました。
(取材者)このころの事って覚えてらっしゃいます?ふ〜ん。
豊三は40歳の時に妻ちよを結核で亡くします。
幼い子供たちを思い翌年再婚。
3人の子供が生まれましたが14年後再び妻くにを結核で亡くすという悲運に見舞われました。
おやじが亡くなったおふくろを抱いて頭を…髪の髪のあれをそるというんですか。
あれやってるのは記憶に少し覚えてますね。
悲しんでたみたいな感じはしますよね今思うとね。
豊三は4人の子供を男手一つで育てる事になりました。
役立ったのは東京で覚えた料理でした。
うちのこのおやじも料理が達者なんですよ。
何でも作ってくれたりね。
卵焼きなんか作らしても上手だったしね。
すき焼きだとかそういうもんですけどね。
子供たちを育て上げた豊三。
晩年は孫の理恵に愛情を注ぎ毎日のように手料理を振る舞いました。
亡くなったのは昭和50年。
82年の生涯でした。
おじいちゃんの青春時代がちょっと見れてうれしかったですね。
おじいちゃんほんとに優しい人だったので…。
でもこう若い頃はこう楽しくちゃんとこう青春をおう歌してたのかなと思うとうれしいですね。
死ぬ間際におじいちゃんが子供になって「風呂入れてくれ」っていって風呂に入れてあげた時も覚えてるななんか。
風呂…。
子供になっててせっけんで体を洗おうとしたら「ピンクのシャンプーで洗ってくれ」って。
「これおじいちゃん頭洗うもんだよ」っていうのにそれで体中洗ったりとかね。
おじいちゃんが最後に湯船につかって「おわら節」を歌われてね。
気持ちよさそうに歌った。
それが最後なんですよ。
その次の次の日亡くなったから。
私がお風呂入れたのお医者さんに言ったら怒られたもん。
「え風呂入れた!」って言われた。
でも気持ちよくおじいちゃんはお風呂に入ってきれいにして眠るように亡くなったので…。
おじいちゃんに会いたいですね。
会いたい。
38年間小学校の教員をつとめました。
その半生をたどります。
終戦後須美子は女学校に通いながら旅館の手伝いをしていました。
そんな折ある言葉に出会い気持ちを揺さぶられます。
「男女同権」。
憲法に盛り込まれた戦後の新しい理念でした。
「男と対等に仕事をしたい」。
そんな須美子に代用教員としての声がかかりました。
当時戦争によって男性教員が不足。
女性教員の需要が高まっていたのです。
17歳須美子の教員生活が始まりました。
アルバムの写真に添えられた言葉。
(取材者)「夢」って何だったんですか?昭和29年試験に合格し正式な教員になりました。
教え子たちは須美子の事をよく覚えています。
いつもねスカートをはかれなくていつもおズボンはいてらっしゃるのね。
シャツにズボンで。
でなんか男…ちょっと見たとこ…須美子は成績だけではなく生徒たちの見えない努力にも目配りのできる先生でした。
須美子には宮田家譲りの豪快な一面もありました。
職員…。
いいのかな?職員会議の最中に歯の手入れをなさるんです。
(取材者)歯の?千枚通しで。
ギーって。
私なんて職員会議なんかって今どんな話が飛び交ってるのか必死こいてる時にお隣で「ガガガ」とか「キキキ」とかいう音がすると先生はこうやって「キキキキキ」と歯磨きをされるというか。
こんな事もありました。
ある日須美子は教室に財布を忘れました。
すかさず職員室のマイクの前に駆け寄り自分のクラスの生徒に語りかけたのです。
「教室の柴田先生の椅子の所に先生のバッグがあります。
その中に財布がありますからそれを職員室まで持ってきなさい」って。
そういう校内放送されたの。
みんなびっくりしちゃって。
「ええ?」って。
20代後半須美子は町の青年団に参加します。
そこで運命の出会いが訪れます。
その相手こそ後の夫になる柴田豊一です。
当時豊一は地元の鉄道会社で事務を担当していました。
そのかたわら労働組合にも参加。
弁舌爽やかなインテリ青年でした。
終戦直後でねなんか…若き活動家に一目ぼれ。
恋は実り須美子28歳の時結婚をします。
翌年理恵が誕生。
出産後須美子はすぐ職場に復帰。
当時まだ育児休暇はありませんでした。
幼い理恵を祖父豊三に預けて須美子は仕事に出ました。
負けん気の強い須美子は仕事にのめり込んでいきます。
ある職員会議の翌日の事。
夜遅くまで飲んで帰る日々。
つきあいで家を留守にする時間が更に増えていきます。
豊一も仕事と組合活動で深夜帰りが続きました。
美和子さんは当時の一家の様子を覚えています。
理恵が学校から帰るといつも出迎えたのは祖父の豊三でした。
40代になると須美子は後進の育成にも力を入れるようになりました。
須美子の後輩だった西湖さん。
新人時代に言われた事を覚えています。
「もうあなたがどんな事があっても私が全責任をとるから好きなようにやりなさい!」って。
それがほんとに一番強く心に残ってます。
皆さんが怖いとか厳しいとかおっしゃるけれどももうすごく情が深いというか…。
涙出てしまう…。
すみません。
育児休暇が取れるよう上に働きかけて女性教員が働きやすい環境を整えました。
そして須美子が54歳になったある日。
翌年に定年を控えながら家族に相談もせず退職を決意したのです。
送別会に教員生活38年の思いを込めたスピーチを用意しました。
原稿を持って臨んだ送別会。
しかし…。
40年間…。
例年より退職者が多く代表者1人が挨拶する事になりました。
須美子は話す機会を逸しスピーチは幻になりました。
当時読もうとした原稿を須美子さんは今でも覚えています。
須美子さんは一人娘の理恵さんに対して胸にしまってきた思いがあります。
須美子さんがあるものを出してきてくれました。
昭和59年須美子さんが退職した年理恵さんが録音したテープです。
これおさえてみるね。
おさえていい?流れてきたのは家族3人で歌った八尾の「おわら節」。
父が歌い母が合いの手を入れる。
祭りのあと久しぶりに3人でくつろいだ特別な時間でした。
面白いうちだね。
あれから31年。
須美子さんはテープを大切に持っています。
でもお母さんはすごくこう…自分の仕事を最優先で来た人でしたけれどもあの〜…ほったらかしではなかったとは思います。
今でも私あの…自分が自分自身の事で例えば「これはやった方がいいのかな。
やめた方がいいのかな」とか悩む時は「もしお母さんだったら」って思うんですよ自分で。
お母さんだったらやるだろうなと思うからじゃあやる。
お母さんだったら「これは間違っとる」って言うだろうなと思ったら「やらない」とか「間違っとる」って言うし…。
すごく今自分が仕事をするようになってとても尊敬するし「仕事っちゅうのはこういうもんだ」って事を教えてくれたのはやっぱりお母さんだなと思います。
昭和52年理恵さんは東京の大学に進学。
学生演劇にのめり込んでいきます。
卒業後久本雅美さんらと劇団「ワハハ本舗」を結成。
芝居の稽古に励む毎日でした。
そんな理恵さんから度々実家に手紙が届きました。
それは今も続いています。
「かぜひかないようにころばないように。
いらいらしないように。
来月かえります。
理恵」。
2人だけで暮らす両親を気遣った手紙です。
送ってくれるとありがたいと思います。
須美子さんは理恵さんが東京に出てから送ってきた手紙を今も大切に取っています。
「おとうさんおかあさんお元気ですか。
富山から帰ってきた夜はホームシックにかかりなおしてしまったけど今は元気です」。
大学の時か!「寒くなりますが体に気をつけて下さい。
けんかしたり塩っからいものをたべすぎてはいけませんよ」。
間もなく理恵さんはNHKの「週刊こどもニュース」に出演。
全国に顔が知られるようになりました。
母須美子さんの教え子や同僚は理恵さんをテレビで見た時の衝撃を覚えています。
誰もが理恵さんにかつての須美子さんを重ねていました。
退職して31年。
須美子さんが向かったのは地元の小学校。
月に1度子供たちに茶道を教えています。
87歳になった今も子供たちと関わるのが生きがいです。
若い時は。
柴田理恵さんの「ファミリーヒストリー」。
たくましく情にあつい女性たちが支えてきた家族の姿がありました。
へへ…。
やっぱり母は見本ですね。
2015/12/18(金) 14:05〜14:54
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「柴田理恵〜女たちが守った老舗旅館〜」[字][再]

母の実家は富山八尾の老舗旅館。「宿は女たちが守ってきた」と言われてきた。明らかになる、大火の中で旅館を守るため奮闘する女性たちの姿。理恵さんは涙が抑えきれない。

詳細情報
番組内容
母の実家は、富山県八尾の老舗旅館。「宿は、女たちが守ってきた」。理恵さんは、そんなことを聞いたことがあった。明らかになる旅館の歴史。幕末から明治の激動の中で、意外な理由が創業のきっかけとなった。そして、八尾を襲った大火。迫り来る炎の中で、懸命に旅館を守った女性たちの姿が明らかになる。さらに、現在87歳の母。38年間、小学校の教員として働き、理恵さんを育てた。語ることがなかった、娘への思いとは。
出演者
【出演】柴田理恵,【語り】谷原章介

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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