文/中島恵(ジャーナリスト)
「視界全体に霞みがかかったようで、数メートル先は何も見えません。なんだか変な臭いもするんです。まだ朝なのに、もう夕方みたいな感じで……。こんな中で生活していたら、誰だって体調不良になりますよ」
北京に住む友人、毛燕燕(28歳)さんはPM2.5に汚染された空を見上げながら、ため息交じりにこうつぶやく。北京の名門大学を卒業後、IT企業に勤務しているキャリア女性だ。
移動はできるだけタクシーを使うようにし、なるべく外は歩かないようにしているが、それでも限界があるため、大学時代の友人が多く住むニューヨークに引っ越すことを真剣に検討している。北京の空気があまりにも悪過ぎるからで、とくに12月に入ってからは「もう我慢できない」と、中国版LINEの微信上で嘆いている。
一人娘なので、両親は彼女のアメリカ行きを反対しているというが、それでも「将来、子どもが産めない身体になったらどうするのよ」と彼女がいうと、両親も黙りこんでしまう。
PM2.5が人体にどれだけの害を与えているか、まだ明確なデータは示されていないが、友達も口々に心配しているという。
毛さんは理系だったが、クラスメートの3分の1は現在、アメリカや香港、日本など海外に住んでいる。大学を卒業後、大学院進学のために海外に出て、そのまま戻らない人が多い。キャリアアップのためもあるが、半分は、中国の生活環境を心配していることは明らかだ。
毎年冬になると、日本でも大きく報道されるPM2.5(微小粒子状物質)。中国語では「霧霾」(ウーマイ)と呼ばれる。「霧霾」は冬以外でも、ときによっては深刻化することがある。
私も北京を訪れた際、何度か数値の高い日にぶつかったことがあり、朝ホテルから出るのがつらかった。ふだんはマスクを嫌がる中国人も、そんな日はさすがにしっかりマスクをしているが、医療用マスクでも「効果があるのか?」と不安になる。
北京のみならず、中国東北部や内陸部の工業都市でも公害は深刻だ。あまり物事に頓着しない中国人でさえ、最近の空気の悪化には“危機感”を感じている。
日本でも水俣病やイタイイタイ病のような病気があったが、その時点で身体に問題がなくても、数年後にどんなことが起こるのかわからないからだ。
そんな中、引っ越しを決意し、実行に移す人が増えている。
北京に隣接する河北省に住む知り合いは、今夏、海南島に引っ越した。夫はそのまま河北省で働いているが、自分(妻)と子どもだけ海南島にマンションを買い、そこに住んで、夫が年に数回、海南島に通うという二重生活を送ることになった。
「これほど空気が悪かったら、もうどうしようもない。もともと子どもの気管支が弱く、将来のために決断した。海外に住むことは難しいけれど、国内ならば、お金さえ払えば行き来は自由ですから」
上海に住む友人の母親は天津で教師をしていたが、3年前、定年を機に広東省に引っ越した。「比較的空気のよい南方に住みたい」と考えたからだ。
といっても、中国は広い。天津から広東省までは数千キロも離れているうえに、言語や習慣も大きく異なる。知り合いがひとりもいないどころか、まるで違う国に引っ越すようなものなのだが、その母親は離婚して一人暮らしだったこともあり、あっさりと転居に踏み切った。
今では、地域のマンションで催されるダンス教室などに通うほど溶け込んでいる。私の友人にも「大気汚染を気にせず暮らせるのは幸せだわ」と話しているという。
大気汚染が原因で引っ越しまで余儀なくされるというのは日本人には信じがたい話だが、引っ越しには仕事や住居、言語や習慣(中国の場合)、コミュニティなどあらゆる問題が関係するため、そう簡単にできるものではない。一部の特権階級や富裕層しかできないといっていいだろう。
普通の人はひたすら我慢するしかないのだ。
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