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(無題)

 投稿者:さっちん  投稿日:2015年12月18日(金)20時38分37秒
返信・引用
   私も全く同感させて頂きます。何やら、言いたい事が巧く言えないもどかしさを、ゆさん様が全て言い表して下さいました。ゆさん様の仰られている事に尽きると存じます。
 ゆさん様の言葉、全天理教関係者が読んで、新しい再生のムーブが起こります事、切に願っております。
 
 

Re: 教会も出直しの旬

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月18日(金)13時26分1秒
返信・引用
  > 身もふたもない言い方ですが、天理教の教会は日本の伝統的な家制度に支えられています。
> 理の親・理の子というのは、宗教学でいう典型的な疑似親子モデルですが、基本はそうした家制度にあります。
> 家制度は家父長制、大家族制、親族集団によって特徴づけられますが、現代日本では、もうこうした制度はくずれかけています。

> というのも、家制度は中心にいる人が采配をふるって得をし、周辺に行けば行くほど犠牲が大きくなるシステムだからです。
> 家を担保にした多くの教会(とりわけ末端教会)が右肩下がりの急カーブを描いて衰退しているのも、時代の自然な流れだと言えるでしょう。
> 貧乏な末端教会でもニコニコ陽気暮らしという提灯記事が、教内の機関誌などに載っていますが、実際はそんなものではありません。
> いくら鈍感な人でも、もうだまされません。
> そもそも教会は、親様が作った制度ではなく、時代の流れで出てきた制度なので、21世紀を迎えて10年以上たつ現在、もう完全に出直しの旬に来ています。
> 無理やり、教会存続をすると、関係者を苦しめるばかりです。
> この掲示板の投稿を読んで、どれだけ教会関係者後継者とされる人たちが苦しみ、蔭で泣いているか、よくわかりました。
> 陽気ゆさんとは完全に真逆の状況です。教会制度が生身の人を苦しめています。
> 教会というものにとらわれない、個人の主体的信仰をそれぞれに確立していくべきではないでしょうか。
> そしてそうした主体的信仰者の集まりの場、それが「講社」だと思います。
> これはおやさまの精神に帰ることだと思います。 


私も全く同感です。私の思いを分かりやすく代弁していただき、ありがとうございます!!
 

ラグビーさんへ

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月18日(金)08時31分34秒
返信・引用
  心を澄み切るということは文字通り心が汚れていないほこりがない澄んだ状態の事です。どういう状態か簡単に見分ける方法は人から何を言われようが何をされようがちっとも腹が立たない状態かなと個人的には考えています。腹立ちが憎しみになり恨みへと変わってしまうので腹立ちを抑えることでそれだけでとても大きいですね。もちろんその他の心もありますが僕にとってはやはりここがポイントですね。教祖が直接渡されたおさづけや天啓者がいた時代のおさづけはそれはもう魔法のように次々と治っていきましたが天啓者がいなくなり人間思案の天理教では効かなくなってしまったと僕は考えています。しかし神様は扉を開いて世界で働き下さっていますからおさづけという行為自体は効きませんが澄み切った心で日々を通り願い祈る事で思いは届くと個人的には考えています。他の宗教も無宗教も関係ありません。ひのきしんしないと効かないとかではなくです。チリ一つ拾うても誠、大きな大木を切ってきても真実と言えんことがある。とのお言葉通り形ではなくすべては毎日の心の扱い方が重要といえます。天理教をしているとかしてないとか関係ないと個人的には思います。  

教会も出直しの旬

 投稿者:ゆさん  投稿日:2015年12月18日(金)06時01分11秒
返信・引用
  身もふたもない言い方ですが、天理教の教会は日本の伝統的な家制度に支えられています。
理の親・理の子というのは、宗教学でいう典型的な疑似親子モデルですが、基本はそうした家制度にあります。
家制度は家父長制、大家族制、親族集団によって特徴づけられますが、現代日本では、もうこうした制度はくずれかけています。
というのも、家制度は中心にいる人が采配をふるって得をし、周辺に行けば行くほど犠牲が大きくなるシステムだからです。
家を担保にした多くの教会(とりわけ末端教会)が右肩下がりの急カーブを描いて衰退しているのも、時代の自然な流れだと言えるでしょう。
貧乏な末端教会でもニコニコ陽気暮らしという提灯記事が、教内の機関誌などに載っていますが、実際はそんなものではありません。
いくら鈍感な人でも、もうだまされません。
そもそも教会は、親様が作った制度ではなく、時代の流れで出てきた制度なので、21世紀を迎えて10年以上たつ現在、もう完全に出直しの旬に来ています。
無理やり、教会存続をすると、関係者を苦しめるばかりです。
この掲示板の投稿を読んで、どれだけ教会関係者後継者とされる人たちが苦しみ、蔭で泣いているか、よくわかりました。
陽気ゆさんとは完全に真逆の状況です。教会制度が生身の人を苦しめています。
教会というものにとらわれない、個人の主体的信仰をそれぞれに確立していくべきではないでしょうか。
そしてそうした主体的信仰者の集まりの場、それが「講社」だと思います。
これはおやさまの精神に帰ることだと思います。
 

日の寄進、お助け、匂いがけ

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月17日(木)22時00分4秒
返信・引用
  すみませんさん

>わたしも「おたすけ」という言葉と「ひとだすけ」が嫌いです。 「にほいがけ」も「おつとめ」も嫌い、となると
>天理教ではないですね。 「ひのきしん」はまだ好きなほうです。


 私も天理教用語と言われるような言葉が嫌いでした。

 学生時代、駅に向かって歩いている時に、白いつえをついた目が悪い方が歩いていました。ちょっと勇気を出して
「どこまで行きますか?」と声をかけ、同じ方向だったので、肩をかしてあげました。これは小さい「おたすけ」でしょうか?
小さい「ひのきしん」でしょうか?私はどちらでもないと思います。

 水泳の得意な自分が川でおぼれている子供を見たら、何の躊躇もなく川に入ります。
これも小さい「おたすけ」でしょうか?小さい「ひのきしん」でしょうか?これもどちらでもないと思います

 困っている人がいる。陽気暮らしできずに、もがいている人がいる。何とかしてあげたい。身上の人に何とか
良くなってもらいとおさづけを取り次ぎに行く。何とか助かってもらいたいと微力でもやらなきゃと思い、
あれこれ考え、通います。

これも「おたすけ」でしょうか?「ひのきしん」でしょうか?これもどちらでもないと思います。


 結局、当たり前のことを当たり前にするだけ「おたすけ」でも「にをいがけ」でも「ひのきしん」でもないような
気がするんです。

 便宜上、私もそれらの用語を使いますが、ある人間がする行動を、それを周りの人が「おたすけ」「にをいがけ」
「ひのきしん」と表現しているに過ぎないようにも思います。

やっている当人はそんなことどうでもいい些細なことだと思っている様な気がします。

これもこの掲示板でくどくどと何度も書かせてもらっている「形」なのかとも思います。


正直しんどいさん
>しかし貼って頂いた記事の方もそうですがその方に住む場所を与えるだけでは本当に助けている
>とは言えないのではないでしょうか。


ごもっともです。真のたすかりを考えようということですね。

>自分たちの事で精一杯で修養科に行ってもらう。そんなところではないでしょうか。教会長のお助けは
>修養科へのパイプ役になっているところも多いと思います。


 ここに問題がありそうですね。分教会長さんだと一か月の予定が大教会月次祭自教会の月次祭
何人かの信者さん宅の講社祭支部や教区の例会25~27日はおぢばへ参拝という感じだと思います。

 中には「にをいがけ」「おたすけ」なんて通常の予定だけで忙しくてやってられないという会長もいるように
聞いたことがあります。

おぢばに近い、遠いの問題がありますが、江戸時代の参勤交代のようになりがちな制度はやめて
国々、所々で教会が社会に貢献する活動をして行けばいいとも私は思います。

でもそれをするにしてもピラミッドのままでは無理だとも感じます。

ふーてんのプータローさん
>「天理養徳院」という本部が運営する俗に言う「孤児院」

現在もありますね。ホームページはこちらのようです。
http://welfaretenri.com/youtokuin.html

 歴史を見ると明治からあるんですね。児童福祉だけでなく教会本部には社会福祉課という部署もあり
障碍者福祉などいろいろやってるみたいですけど、そういった動きが全国展開で地域ごとに教会ができることを
やっていければ面白いと思うんですけどね。

 その時代、時代によって社会問題も変わると思います。ですからそれらに対応して、本当に陽気ぐらしが
できるようにやっていくべきだと思います。
 

さっちんさんへ

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月17日(木)20時26分3秒
返信・引用
  上沼恵美子さんいいじゃないですか。辛口ですが愛情のあるトークで面白いし好きですよ。是非目指して下さいね。
判断基準なんてコロコロ変わっていくと思いますよ。1年前10年前の自分と今の自分では考え方も違いますし昨日と今日でも違うかも知れませんよ。今の自分でいいと思いますよ。その都度必要ならまた学び新しい自分になれるのではと思います。
あと僕は教団に愛着はないですよ。ただ誰にでも守るべき家族がいて食べさせていかなければならず矛盾を感じながらされてる方もいて教団が潰れ罪のない関係ない子供達まで苦しむことになるのではないかと思った次第です。だからといってこの現状を指をくわえて見てる訳にはやはり苦しむ方がいる限り許す訳にもいかないです。ですから誰も苦しむ必要がない制度を皆で考えようという波が来て改革が起きればと思うんです。甘い甘い何もわかっちゃいないと思われるかも知れませんが僕はそういう形を望みます。
 

正直しんどいさんへ

 投稿者:ラグビー  投稿日:2015年12月17日(木)17時41分38秒
返信・引用
  おさづけは自分がしているのではない神様がお働き下さるのですとのことですがその通りだと思います。しかしお働き下さるのには心を澄み切ることが絶対条件だと思います。毎日の生活の中で自分の心と向き合いほこりを払拭し優しい心でなければいけないと思います。それか医者も諦めもう死を覚悟したが奇跡的に回復を遂げた人かと思います。(死の淵から助かった人は驚くほど優しくなります)そういった心を持ち合わせてない方が声高らかにお助けお助けと言ってるこの状態をすみませんさんはおこがましいと言っているのではないでしょうか。その言葉は我々凡人が扱うには重すぎるといった【謙虚さ】を僕は感じました。

心澄み切るというのはなかなか難しいと、私は常々感じでおります。私の不思議な御守護を戴くための絶対条件は私の経験上、まずはおたすけの対象者をたすけたいと本気で思う心(正直しんどいさんはこの状態を心澄み切ると定義されておられるのでしょうか?)、それとおたすけを受ける側はをやを信じてみようともたれる事が必要だと思います。私は心を澄ますためのおつとめであり、おさづけであり、ひのきしんであると考えています。
 

(無題)

 投稿者:ラグビー  投稿日:2015年12月17日(木)17時10分20秒
返信・引用
  > > No.789[元記事へ]
> >人間の目線から見たら、大衰退していると映るのかもしれません。しかし人間の尺度で神様はご覧になってなってないのではないかと思います。

> ですから大衰退していると感じているのはあくまで、人間からの感覚ですよね。私たちはそう感じているが、神さまは世界中の人間のたすかりが対象ですから、このように申し上げた次第であります


「人間の目線」だから、「人間からの感覚」だから、と人の意見を否定し、「神の目線」、「神の尺度」を引き合いに出して自らの意見を肯定するということは、ラグビーさんには「神の思いや感覚が理解できている」ということになりますよね。
ただの人間であるラグビーさんに、大衰退する現状を 解釈する「神の目線」や「神の感覚」、すなわち「神の思い」がなぜおわかりになるのですか?

言葉が足りなかったようですね。すみません。神様の尺度は神様にしかわかりません。私はあくまでこのようにも考えられますよねと申し上げたいだけです。
以前に、「点にもならない増減の中でさえ現在、信者数が減っているという事は事実でありますので、真摯に受け止め、やはり教会の在り方というものをより良くしていくように考えていかなければいけないと思います。」と書かせていただいたと思いますが、下降線をたどっているという事を考えなくていいと言う事ではございませんので、付け加えて申し上げておきたいと思います。
 

Re: 教会の活動って?

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月17日(木)14時00分13秒
返信・引用
  >  システム的に社会のセーフィティネットからドロップアウトしてしまったら、そこから抜け出せないようになっていたら
> 悲しいことです。私の感覚では昔、教会にはこういった困った人を助けたりしているケースもあったように思うのですが、
> 積極的に教会が何か活動をしている例というのはあるのでしょうか?里親制度などは時報などで時々、記事を見ますが。
> 何かあったら話を聞かせてもらいたいものだと思っております。
>
>  また教会では身寄りもない老人などが身を寄せるところとして通っていたりするケースもあったように思います。
> 高齢化社会になり、家族の核家族化も進み、孤独な老人もどんどん増えていくと思いますが、老人だけでなく
> 先に紹介したニュースのような女性たちも支援できるようなことを考えて、教会の活動としてできればいいなあ
> 思ったんですけど、言うは易し行うは難しです。
>
>  例えば支部や教区で知恵を絞りあって、細々でもいいから何かやるとか、本部主導でキャンペーン的なことをやるとか、
> 自分の教会でもやれそうだと思ったら、地道なことから始めてみるとか。「そばが勇めば神も勇る」とは言いますが、
> 動き出したら案外、神様が裏で働いてくれるということもありそうな気がするんですけどね。一人一人の力は弱いけど、
> 意見を出して機運が高まれば、専門的な人も現れて協力してくれたり、思わぬいいアイデアや意見が出たりもすると
> 思うんですけどね。

 私の若い頃の記憶で、今も現存し機能しているのかどうか存知ませんが、「天理養徳院」という本部が運営する俗に言う「孤児院」があったような記憶があります。これは、あくまでも私の個人的な考えで現実的に実現が可能かどうかの話は別としてお読みいただきたいのですが、各大教会が有している詰所に多数の「空き部屋」なり、「空きスペース」があるように思います。また、本部直轄の建物にもそうした「空き部屋」なり「空きスペース」があると思います。そうした「空き部屋」なり「空きスペース」を社会福祉の施設として活用することができないでしょうか?天理市内には「憩いの家」という立派な病院もあり、また、天理市役所や、奈良県庁にも近いのですから、医療機関や行政と連携をとりながら、社会福祉施設として運営できないものかと考えたりします。もちろん、それぞれの施設として使用する為には、建物の改造も必要になってくるとは思います。これは、あくまでも、ハード面からの視点であり、ソフト面については、また、色々と考えなければならない点も多々あると思います。



 

ラグビーさんへ 6

 投稿者:苦しむ末端  投稿日:2015年12月17日(木)13時36分0秒
返信・引用
  > > No.789[元記事へ]
> >人間の目線から見たら、大衰退していると映るのかもしれません。しかし人間の尺度で神様はご覧になってなってないのではないかと思います。

> ですから大衰退していると感じているのはあくまで、人間からの感覚ですよね。私たちはそう感じているが、神さまは世界中の人間のたすかりが対象ですから、このように申し上げた次第であります。



「人間の目線」だから、「人間からの感覚」だから、と人の意見を否定し、「神の目線」、「神の尺度」を引き合いに出して自らの意見を肯定するということは、ラグビーさんには「神の思いや感覚が理解できている」ということになりますよね。

ただの人間であるラグビーさんに、大衰退する現状を 解釈する「神の目線」や「神の感覚」、すなわち「神の思い」がなぜおわかりになるのですか? 
 

ラグビーさんへ

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月17日(木)13時07分54秒
返信・引用 編集済
  おさづけは自分がしているのではない神様がお働き下さるのですとのことですがその通りだと思います。しかしお働き下さるのには心を澄み切ることが絶対条件だと思います。毎日の生活の中で自分の心と向き合いほこりを払拭し優しい心でなければいけないと思います。それか医者も諦めもう死を覚悟したが奇跡的なお助けで回復を遂げたすけ一条になられたような方かと思います。そういった心を持ち合わせてない方が声高らかにお助けお助けと言ってるこの状態をすみませんさんはおこがましいと言っているのではないでしょうか。その言葉は我々凡人が扱うには重すぎるといった【謙虚さ】を僕は感じました。  

(無題)

 投稿者:ラグビー  投稿日:2015年12月17日(木)09時56分38秒
返信・引用
  > No.789[元記事へ]
>人間の目線から見たら、大衰退していると映るのかもしれません。しかし人間の尺度で神様はご覧になってなってないのではないかと思います。


人間の目線からって言いますけど、ラグビーさんが引用した「成ってくるのが天の理」という言葉は教祖の言葉、すなわち神の言葉(神の目線)であり、どんな状況も結果も親神様がお見せ下さることだということですよね。大衰退してきたのも親神の残念であり、天の理の表れであるということは明らかです。ラグビーさんの言っていることは矛盾しすぎていて論理破綻で理解不能です。

ですから大衰退していると感じているのはあくまで、人間からの感覚ですよね。私たちはそう感じているが、神さまは世界中の人間のたすかりが対象ですから、このように申し上げた次第であります。

>周りに不足していても人間のすることでありますから切りがありません。

「不足をするな」は、天理教の支配層にとって非常に便利な常套句ですね。どんな理不尽でも正当化できる。神の権威を用いれば簡単に思考停止した信者は操れますからね。 批判すること=不足することとお考えですか?批判とは人や物事の誤った箇所や悪い部分を、根拠を示しながら論理的に指摘し、改善を求めることです。 あざない人間のすることだからこそ、批判は絶対に必要だと思います。

私は不足するなとは言っていません。しらないうちにも心にほこりはたまってしまいます。しかし不足してもきりがないがないことは確かです。非の打ちどころがない人間なんかは少ないと思います。神さまからあたわった物差しは人にあてる為のものではなくて、自分にあてるためのもだと、思います。どんなに自分がまっすぐだというものでも天の定規に照らし合わせると狂いが生じるというお言葉がありますが、天の理を聞いてそれを自分なりに解釈し、その物差しで人に合わせると余計に狂いが生じて、いいことはないと思うんです。

この掲示板の皆さんはラグビーさんの言う通り「教会の在り方というものをより良くしていくように考えること」を談じ合っているのであって、ほとんどが根拠に基づく批判をされているのであり、ただの不足をしているのではないと思います。「人間のすることだから仕方ない」から教団幹部や大教会長達の横暴を末端や信者は(教外者も)黙ってみていろと言いたいのですか?そういう横暴を許してしまう構造は改革すべきじゃありませんか。教団にとって都合の悪いことは黙っていろ、「事実であっても憶測だと言い逃れて臭いものにはフタをしろ、教団には批判もいっさいするな」と、ラグビーさんは言いたいのですか? ラグビーさんの書き込みの目的は教団にとって都合の悪いことを言う人間の「口封じ」でしょうか?

ほとんどが根拠のある事、仰いましたが、一部は間違ったこともあるわけですよね。やっぱり自分が経験したしたことより、間違いのないものはありませんので、その範囲で談じ合う事だけでもいいのではないかと思っただけです。私も教会のありがちな問題として感じている事は、会長さんと談じ合えるような空気がないところが多いと思うことです。(私の妻の出先の上級教会がそうでした)わからない事や納得できないことなどを話し合える空気がないんです。いくら会長が言った事とはいってもやるのは自分でその会長の言葉を採用するのも自分ですので、納得いくように談じ合っていただきたいですよね。いろんな質問をした方が、会長も成長していくと思いますしね。自分の近くの教会ですらこうなのに、それを上級、上上級の教会まで変わってほしいと思っていてもかなり難しいですよね。ですから自分の周りからそういう空気にしていけば、それが理に適っていればいずれ小さなうねりが大きな渦となると思うんです。ですからまずは自分が実行することが大切であると思います。
すみませんさんの人が人を助けるなんておこがましい感じがします。と言われておられましたが、おたすけは神様が働いてくださるからこそ、たすかるんです。自分の力でしているのではありません。おさづけけもそうです。よくおたすけをいらぬお世話。有難迷惑と言われ方がおられますが、一つの家族が治まるためにはお互いが思いやる事がなければ、家族は一つにまとまる事はありません。もし受ける方がしんどい場合などは相手に気をつかわせないようなおたすけをする事が重要であると思います。
 

正直しんどい様

 投稿者:さっちん  投稿日:2015年12月17日(木)09時30分6秒
返信・引用
   正直しんどいさん、私の事、辛口コメンテーターなんて、心外ですわ。私は上沼恵美子か!? (笑) あなたに対する親愛で書いたのだから、気にしないでくださいよ。
 でもホントに私は、自分の言ってきたこと、辛口なんて全然思ってないのだけど・・。自分では、正当な評価だと思ってるんですよ、その価値基準が間違ってるかもしれないとしても。
 正直さんがそういう風に思われるのは、きっとやっぱり、教団に対して愛着があるからでしょうね。自明のことだけど、天理教(しかし、この天理教という名前自体も、教祖が実際にご存命であられた頃から、教祖ご自身がそのように称されておられたのでしょうか?)と教団とは、別とみなすべきだと思うのですよ。
 

返信です

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月17日(木)01時51分9秒
返信・引用
  さっちんさん

僕は教会の後継者という立場ですが継ぐつもりはありませんよ。教団が望む立派な教会長とは大教会や本部に忠実になり支えていくことだと思います。部内教会には素直になれ、お供えしろと言い、上には矛盾を感じながらも素直に従うことは僕にはできません。形に縛られることに度々問題が出ると思います。例えば人が自分を必要としているなら自教会や大教会の月次祭だろうがそっちに行くと思います。しかし神様との約束の月次祭があってのおたすけだと言われると思いますがしかし僕は人助けが最優先であるべきでそれこそが本当の神様が望むことだと思います。本部から尊い理を受けた月次祭と言われても何とも思いません。こんな考えでは確実に破門でしょう。それに自分に実力があるからなれるんではなくて世襲制で講習さえクリアすれば寝ててもなれるからあえてしない。というのが結論です。

すみませんさん

気付く気付かないは時代と環境も大きく関わっているのではないでしょうか。僕は小学生の頃スポーツで活躍したりテストで良い点を取っても親は全く褒めてくれず天理教の事や行事に参加するといつも褒めてくれる親に違和感を覚えていました。なぜ自分が頑張った事に褒めてもらえず天理教の事だけ褒めるのかとその頃から疑問は始っていたと思います。それに安心して下さい。僕もおつとめは嫌いです。なにせ僕の教会では1日3回おつとめがあり、夕勤のあとは見たいテレビがあってもみっちり修練がありましたので本当に嫌でしたね。

一文字さん

教会が人助けの場になることは社会に大きく貢献することと思いますので困った方を支援する場にすることはとても良い事と思います。しかし貼って頂いた記事の方もそうですがその方に住む場所を与えるだけでは本当に助けているとは言えないのではないでしょうか。その方の考え方を前向きに変え自立してもらう事が助かりだと思います。そんな力が教会には果たしてあるのか疑問に思います。自分たちの事で精一杯で修養科に行ってもらう。そんなところではないでしょうか。教会長のお助けは修養科へのパイプ役になっているところも多いと思います。
 

Re: すみませんさんのご意見に同意

 投稿者:すみません  投稿日:2015年12月16日(水)22時48分48秒
返信・引用
  > No.833[元記事へ]

正直しんどいさま

> しかし皮肉なことにすみませんさんや色々な方がそこまでの考えにたどり着くには矛盾だらけの組織にいたからこそだとも思えるのです。そう考えると何が正解だとわからなくなります。意味のないものだと思っていたり最悪の環境でも学ぶべきことはどこかにあると僕は思います。

本当ですね。私もこの世に意味の無いことなんてないと思っています。
意味のあることにできるかどうか、それで生き方が違ってきます。
自分が教会に生まれたことを、意味のあることにできるように、ただいま精進中です。
正直しんどいさんはお若いですが、わたしは50年間生きてます。
とっくに悟ってないといけない年齢ですが、「不足するな」「素直になれ」に素直に従って来た思考停止期間が長くて、今頃この課題に取り組んでいます・・・
「不足するな」「素直になれ」、この言葉は本当に罪深いですね。



縁の下さま

わたしも「おたすけ」という言葉と「ひとだすけ」が嫌いです。
「にほいがけ」も「おつとめ」も嫌い、となると天理教ではないですね。
「ひのきしん」はまだ好きなほうです。
人が人を助けるなんておこがましい感じがします。
誰の目にも困っているとしか見えない人も、実際困ってると言ってても、そこで安住し絶対に受け付けない人もいます。
さりげない「ひのきしん」の積み重ねで接するのがちょうどいいと感じています。
つくづく人のために何かをするということは、難しい事だと思います・・・
 

教会の活動って?

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月16日(水)21時36分29秒
返信・引用
  さっちんさん
>表面は教会長の仮面を被り、人に会長として一目置かれていようと、クズ以下としか言えないような人間を、
>私は確実に一人知っています。


 私は数人います。既に罷免された人もいるし、問題を起こして消えていった人もいます。その元会長さんはともかく、
その教会の信者さんたちが気の毒です。逆に喜んでいるケースもあるかも知れませんが。

正直しんどいさん
>自主的でなく水の流れに逆らわず立場上何となく教会長になり無難に皆と意見を合わせていたらいい、
>この流れが信仰だ。流れに沿わない者はわからない徳のないものだ。とでも思ってるのかも知れません。


 私もそう思っております。前回の書き込みでも友人の例を出しましたが、結局、主体的に考えるより、流れに
乗る方が楽なのだ
と思います。以前の書き込みで青年会のひのきしん隊は夜は大宴会というような話もありましたが、
酒を飲みながらでも、じっくり教団のこと、信仰のこととか話さないんでしょうかね。むしろタブーなのでしょうかね。

+++++++++++++++++

 ちょっと新しい話題と思って書いていた文があるので、書かせていただきます。
インターネットでいろいろなニュースをチェックしていますが、ちょっと驚くようなニュースがあったので紹介させてください。


「路上にいないホームレス女性たちの見えない貧困」
http://news.yahoo.co.jp/feature/79


 海外ではまだまだ貧困から抜け出せず、教育水準も低く、識字率が低い国もあります。スラム街を車で走った時、
本当に貧しく学校にも行けない子供を見たことがありますが、それに比べて日本はなんと幸せな国なのだろうと
実感したこともあります。海外へ行くと当たり前が当たり前じゃなくなることはよくありますが。

 識字率は99%以上の国が50か国以上ありますが、中には50%を割る国も世界にはいっぱいあります。
言葉を話せても字が「書けない、読めない」人が人口の半分くらいいる状況というのは想像できますか?


 識字率が高く乞食も見かけない国である日本でも貧困から抜け出せず、こういう現実もあるのかとニュースを
みて驚きました。別に珍しくもないよとおっしゃる方もいるかもしれません。ホームレスになった事情はそれぞれ
いろいろあると思うし、状況もいろいろなのかとも思います。


 システム的に社会のセーフィティネットからドロップアウトしてしまったら、そこから抜け出せないようになっていたら
悲しいことです。私の感覚では昔、教会にはこういった困った人を助けたりしているケースもあったように思うのですが、
積極的に教会が何か活動をしている例というのはあるのでしょうか?里親制度などは時報などで時々、記事を見ますが。
何かあったら話を聞かせてもらいたいものだと思っております。

 また教会では身寄りもない老人などが身を寄せるところとして通っていたりするケースもあったように思います。
高齢化社会になり、家族の核家族化も進み、孤独な老人もどんどん増えていくと思いますが、老人だけでなく
先に紹介したニュースのような女性たちも支援できるようなことを考えて、教会の活動としてできればいいなあ
思ったんですけど、言うは易し行うは難しです。

 例えば支部や教区で知恵を絞りあって、細々でもいいから何かやるとか、本部主導でキャンペーン的なことをやるとか、
自分の教会でもやれそうだと思ったら、地道なことから始めてみるとか。「そばが勇めば神も勇る」とは言いますが、
動き出したら案外、神様が裏で働いてくれるということもありそうな気がするんですけどね。一人一人の力は弱いけど、
意見を出して機運が高まれば、専門的な人も現れて協力してくれたり、思わぬいいアイデアや意見が出たりもすると
思うんですけどね。
 

(無題)

 投稿者:さっちん  投稿日:2015年12月16日(水)16時50分15秒
返信・引用
   正直しんどいさん、私に、天理教に何か恨みでもあるのか、と訊かれた事がありましたね。私は無いと答えましたけども、あると言えば一つ、個人的な事ですが、ある教会長に対する恨み。でもそれがどんな事かは、ここで書くつもりは無いですけども。書くなら、他の被害サイトに書き込みます。表面は教会長の仮面を被り、人に会長として一目置かれていようと、クズ以下としか言えないような人間を、私は確実に一人知っています。
 教会長が17000人もいれば、全員が教会長としての資質があるわけがないですね。玉石混交、石ならまだ良いが・・汚泥も交じっている。そういう教会長さえも、表面は善人の振りをしていれば、教会長としておられるわけです。人に被害を与えかねない、そういう教会長でも教会長としている、天理教組織はやっぱり、改革が出来得るならば、改革して頂きたいけども、改革が出来ないのなら、教団はあってはならないでしょう。
 正直しんどいさん、あなたは教会長の後継者さん?あなたなら、りっぱな教会長になれる方でしょう。書いてる文を見ればわかります。そういう方々ばかり、というのは、教会の17000の数からして、とうてい無理というものでしょう。教団改革なら、まず、多数ある教会の整理、をして欲しいですね。でも、誰がするのかな? 自教会から、50メートル先にまた、天理教教会があったりしてますもの。うちと同じく、信者さんが来てるのかどうか、わからない位ですけど。
 

ラグビーさんへ 5

 投稿者:苦しむ末端  投稿日:2015年12月16日(水)15時58分30秒
返信・引用
  > No.789[元記事へ]
>人間の目線から見たら、大衰退していると映るのかもしれません。しかし人間の尺度で神様はご覧になってなってないのではないかと思います。

人間の目線からって言いますけど、ラグビーさんが引用した「成ってくるのが天の理」という言葉は教祖の言葉、すなわち神の言葉(神の目線)であり、どんな状況も結果も親神様がお見せ下さることだということですよね。大衰退してきたのも親神の残念であり、天の理の表れであるということは明らかです。ラグビーさんの言っていることは矛盾しすぎていて論理破綻で理解不能です。

>周りに不足していても人間のすることでありますから切りがありません。

「不足をするな」は、天理教の支配層にとって非常に便利な常套句ですね。どんな理不尽でも正当化できる。神の権威を用いれば簡単に思考停止した信者は操れますからね。

批判すること=不足することとお考えですか?
批判とは人や物事の誤った箇所や悪い部分を、根拠を示しながら論理的に指摘し、改善を求めることです。
あざない人間のすることだからこそ、批判は絶対に必要だと思います。

この掲示板の皆さんはラグビーさんの言う通り「教会の在り方というものをより良くしていくように考えること」を談じ合っているのであって、ほとんどが根拠に基づく批判をされているのであり、ただの不足をしているのではないと思います。「人間のすることだから仕方ない」から教団幹部や大教会長達の横暴を末端や信者は(教外者も)黙ってみていろと言いたいのですか?そういう横暴を許してしまう構造は改革すべきじゃありませんか。教団にとって都合の悪いことは黙っていろ、「事実であっても憶測だと言い逃れて臭いものにはフタをしろ、教団には批判もいっさいするな」と、ラグビーさんは言いたいのですか? ラグビーさんの書き込みの目的は教団にとって都合の悪いことを言う人間の「口封じ」でしょうか?
 

すみませんさんのご意見に同意

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月16日(水)15時57分37秒
返信・引用
  >宗教にすべてを委ねるのではなく、自分で考え自主性を持って自分の人生を歩み、自律した生き方を目指すのが人間として生きるということだと思います。
宗教はあくまでも生きる指針であり、おやさまの教えを胸に、自分の家族を大切にし、子どもを慈しみ育て次の世代に繋げて行く。

本当にその通りだと思いました。多くの方は自分は何も考えず周りが信仰しているから信仰しているといった【自主性】のない方が大半を占めているのではないのかと思います。信仰はやはり神と自分を向き合わなければならないと思います。人は皆魂が違うようにそれぞれのカラーを持ち合わせてますから神とはハハーッと頭を下げていくものだという人もいれば仲良し親子のようにラフな関係だという人もいてたり人それぞれなのかも知れません。自主的でなく水の流れに逆らわず立場上何となく教会長になり無難に皆と意見を合わせていたらいい、この流れが信仰だ。流れに沿わない者はわからない徳のないものだ。とでも思ってるのかも知れません。
しかし皮肉なことにすみませんさんや色々な方がそこまでの考えにたどり着くには矛盾だらけの組織にいたからこそだとも思えるのです。そう考えると何が正解だとわからなくなります。意味のないものだと思っていたり最悪の環境でも学ぶべきことはどこかにあると僕は思います。
また話は変わりますが天理教はどんなに酷いことをされても許していくべきだと以前書き込みましたが基本的にはそう考えていますがあくまでそれは過去の事であって今現在受け続ける必要はないと思います。無理なお供えを頼まれたり納得のいかない理の親に振り回され続ける必要はないと思います。
 

なんか、うれしい!

 投稿者:縁の下  投稿日:2015年12月15日(火)22時43分4秒
返信・引用
  kazuさんからの書き込みから、一文字さんまでの書き込み、
なんか、どっかの飲み屋で偶然ばったり出会い、信仰話に花が咲いたような展開ですね。

なんか、ちょっとうれしい!
 

また長文ですみません。(いつものことか、、、)

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月15日(火)22時00分45秒
返信・引用
   皆様の投稿を読んで、いい歳こいてまだまだ至らないことだらけだと本当に思っています。私に対して過分な評価を
してくださっていることも感じます。天理教的に言えば「こうまん」の塊だったのではないかとも思えてきます。

 自虐的になりますが、こんなレベルの「人間」です。(実際の私はオヤジギャグ言っては若者から「はあ~(T-T)」と
言われるようなおっさんです。)

 実は「伊蔵伝」を読んでから、心を低くするということを学んだつもりでいましたが、仕事でも日常生活でも10人いれば
その10人の中で一番低いところに心を置いて、数は変わっても心は一番低いところに置いて通らねばならないと思って
いたのに、このザマです。申し訳ない次第です。
=================================

さっちんさんをはじめ皆様へ

 今は何のわだかまりもありませんし、逆に一連のことを通して、かえってさっちんさんと分かりあえたとも思っています。
リアルで会えれば握手してハグして、会えてマジでうれしいですと笑顔で言うと思いますよ。

 実はさっちんさんが投稿を始めたころ、男の人だとばかり思い込んでいました。いつごろか「え?女性の方だったんだ」と
驚きもしてました。それと私も最初から、ただの批判を繰り返す荒らしのような人だとは思っていませんでした。
書かれる文の裏にある「何か」を感じていました。恐らく他の方も同じだったのかと想像しております。

 お母さんが会長さんをされているとのことで、子供の頃から積み重ねてきたいろいろな思いがあると想像しておりました。
他の方々もそれは同じかと思います。私もそうですが、皆さん共通するのは「やっぱりおかしい」と思う部分だと思います。

 そのおかしい部分は何であるか?そして、そのおかしい部分がどうしてそうなったのか?そして、真実は何か?
どうすることが神の真意なのか?
を皆で考えて、やれることはやっていくのがいいのではないか、神も望まれているのでは
ないかとも思いました。

 私は原典以外は信じられないということを書きましたが、原典の解釈にはおかしなところやわかっていないことも多々
あるように思っています。おふでさきに「上」と出て来ても「時の政府」のことなのか、やしきの内で教団の上に立つ者
さしているのかと解釈が分かれたり難しい面があります。だからこそ教理面でもしっかり学んで心に治めていかないと
変な方向にいってしまうとも思っています。


 批判や文句は言う。でも自分では何も調べない他人任せでいつかは変わるだろう自ら道も求めないどうせやっても無駄
何も変わらない。無気力に育てられただけ。私がそうでしたから偉そうなことは言えない部分なのですが。


 でも、これじゃいけないと思ってからは自分なりに勉強もしたつもりですし、だんだんわかってきたことも多いです。
この掲示板でも教理に関することについて投稿しても、スルーされることの方が多いと感じています。

 そんな投稿はせず、教団が悪い!極悪非道だ!と投稿して私は喝采を受けていればいいのでしょうか?
結局、皆が関わっている教会や教団のことであるなら、他人事とは考えず、我が事として変えていこうとしなければ
ならないのではないでしょうか。

 批判覚悟で書きましたが、正直な私の気持ちです。

=================================

 こういうことを考えるもとになったエピソードの一つを聞いてください。

 同級生の末端教会長になった友人と話していて、教理に関すること、天理教の行事に関することに意見を求めても、
彼は「そんなんどうでもええやん」とか「難しいことわからへん」という感じでした。

「お前、教会、継いだんちゃうんか?教会長がそんなんでええんか?」と口にしそうになり、慌ててやめました。言っても
彼との関係が崩れることはありませんが、何かおかしいという思いしか残りませんでした

 末端ですから夫婦ともにパートで働きながら教会をやっています。支部や教区の用事もやっているようで、信者宅の
講社祭もし、食う為に働きもし、教理なんて求める時間もなければ、彼も精一杯生きてると思うと、それ以上、何も言えなくなりました。

いったい天理教の信仰って何なのでしょうか。 まだお道を知らない人々に陽気ぐらしを伝えていかなきゃいけないのでは
ないですか?でも、その陽気ぐらしが自らできずに、不平不満が渦巻いているというのは、どう考えても不自然だと思いませんか?

 この三年千日と心を定めておたすけに行っていましたが、三年目にしてご守護らしいことを見せていただいて夫婦で喜んでいます。
愛町初代の真似していいですか?    「神さんはあるよ」
 

宗教について思うこと

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月15日(火)21時48分32秒
返信・引用
  何度も申し上げるようですが、私は天理教末端分教会の息子として、生を受けました。地元の公立中学校と公立高校を卒業し、2年前のNHKの大河ドラマでも取り上げられた、京都市内の某私立大学に進学し、キリスト教についても学びました。天理教以外の他宗教について学んだことは、私の人生にとって、初めての経験でした。その経験や学んだ事は私の人生観を変えるきっかけとなり、天理教という宗教について客観的に考えられるようになったと思います。「朝起き、正直、働き」、「感謝、慎み、助け合い」という天理教のスローガンは、別に、天理教に限らず、他宗教においても共通するスローガンであり、宗教という枠組みを超えた人類共通のテーマであると共に、人間のあるべき姿、人間が幸せになるための「普遍性」を持つものであると考えています。  

縁の下の部屋

 投稿者:縁の下  投稿日:2015年12月15日(火)21時00分33秒
返信・引用
  ちょっと気持ちの整理がしたいので、徒然なるままに書き込みます。

私は最近「おたすけ」と言う言葉を嫌うようになりました。
それよりも「(大きなお世話にならない程度の)小さな親切」
「ささやかで、さり気ない気遣い、気配り」
そんな表現が好きですね。

「にほいがけ」…「天理教」と言う固有名詞を出したら
おそらく引いてしまう人が多いでしょうね。
もし、誰か困ってる人に遭遇したら
「こんな時は、おやさまならどのような行動にでるかなあ?」
「この行いは、神の思惑に沿った、天の理に適ってるかなあ?」
と、いろいろ鑑みて適切な判断をしたいものですね。
何も「天理教」や「中山みき」の名前を出して
「修養科」「別席」に送り込む事だけが「にほいがけ・おたすけ」ではありませんものね。

「成ってくる理をよろこべ」…これって、あきらめモードになることなのかなあ?
違いますよねぇ。
たとえ、希望通りではない結果に終わっても、そこから、また始まるものがある。
或いは、発見出来るものがある。
更には、そこから月日が流れ、その時の「好ましくなかった結果」で、「却ってよかった」場合もある。
俗に言う、「人間万事塞翁が馬」ってヤツですかな。

目には見えぬ、「人智を超えた存在」を意識しながら、
人として出来る事を人の道に外れぬように、この先も進んで行きたいものです。

?
 

(無題)

 投稿者:kazu  投稿日:2015年12月15日(火)20時48分14秒
返信・引用
  今嬉しくなって一言、書いてみたくなりました。皆さまの忌憚のない意見を読ませていただき感心と安心を同時にいただきました。私は皆さまから見ますと「年配」(苦笑)になるのだと思いながら「掲示板」という形ですがこんな機会があるとは思いもしなかったので不思議な気持ちです。私にも10代20代があり「天理時報」と「みちのとも」などを読んでも教会生活の実情との乖離に矛盾も感じないで高邁な(?)教理を説くのかとか、おやさまのひながたと言うなら高邁な先生方は貧に落ち切らないのとか、思う一方で信者さんに育てていただいていることへの負い目をどうしたらよいかわかりませんでした。10代が終わる頃ある方から「天理教教団は戦争に協力した偽物だ」と指摘受け、そのことは考えてみたことがありませんからショックで教会の書棚を漁りましたらたしかに協力している記事などが出てきました。(「松川事件12年無罪利」頃)今考えると傲慢もいいとこですがこれで教会から離れる正当な理由ができたと。信者さんの恩もみんなが平等になる社会をつくる運動で返していくのだと。自分の心の底と向き合うこともせず。それからいろいろあって~。今また「おやがみさま」「おやさま」に向き合おうとしている不思議さを感じている次第です。そして同時に、過って疑問に思っていたことがこの掲示板で皆さまが話されていることに生きてきて良かった感じています。  

さっちん様へ

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月15日(火)13時55分2秒
返信・引用
  >  私に対する批判がいろいろ書かれてるのではないか、と恐くて今までよう開けなかったのですが、(よく、自分が投稿した後、その内容に対し、否定的な意見が返ってないか、とこわごわ掲示板を開け、危惧したことが無いと、ほっとしたりしてますが、だったら投稿しなければいいのですが)、今回は、もう離れようと決めたことでもあり、一切見るまいと思ってましたが、やはり気になるもので、未練がましく開けてみますれば、案に相違して擁護して頂いてるご意見も複数あり、ありがたく、恐縮致しております。中には過大評価とも思えたりするところもあったりで、面映ゆいですが。
>  ストレートな意見、というご評価も頂きましたが、大勢の方が見ているだろう、考えれば怖いこの場所に書き込める、只一つの自分の拠って立てる所は、
ウソは書いてない、真実思っている事をそのまま書いている、そのことだけです。こんな事書くのはこれも、気恥ずかしいことですが。教理のことについて書く知識は無いですしね。

私も、決してウソは書かれていないと思っていました。御自身のこれまでの経験に基づいて、真実思っている事をそのまま書かえていると思っています。教理を知らなくても、一般常識に照らして「おかしいことはおかしい」「間違っていることは間違っている」ということを率直にストレートに書かれるのも、大切なことだと思います。そうでないと、この掲示板は教理を知っている一部の人でなければ投稿できなくなってしまいます。現実、教理を完璧に理解して投稿される方などおられないのではないでしょうか?これからも、あなたのご投稿を楽しみにお待ちしています。

>
> <一文字様へ>
>  一文字さんが、私のあの「おまへんか」が、そこまで癇に障られてたのかと意外でした。関西言葉は、表現を婉曲にするものとばかり思っておりましたが、失礼しました。どうも私に対して風当たりが強いように思ってたのですが、あの言葉が尾を引いてたとは思いませんでした。
関西以外の人間が、みだりに使うものではないかもしれませんね。
>  しかし、関西弁は、私はリスペクトしているのです。なぜ関西弁が標準語にならなかったのか、と思う事もある位です。こう書くと今度は東京人の怒りを買うかしら?例えばあの文章、「教団が崩壊したって、どうという事あらしまへん」も「教団など崩壊しても、どうという事は無いと思いますが」よりも、はるかに私の気持ちにぴったりと当てはまるものであり、関西弁ほど気持ちを的確に表してくれる言葉は無いと思います。言葉として、こんな便利なツールは無いと思っております、それでいて、言葉の角も和らげてくれる。「関西弁習得講座」があれば、入りたい位です。
>

>  この掲示板に書き込みをするようになって、同じような疑問を持っておられる方、私など及びもつかない程の、つらい思いをされてる方、いろんな事も知り、結局辿りついた所は“教団崩壊”でした。最初からそのような事、考えても無かったですが、そういう方向へ傾きました。教団なんて所詮、人間が作ったものですから、縛られる必要など無いと思っております、今は。

投稿者の一個人が、「関西弁を生理的に受け付けない」とか「不愉快」に感じるという理由で、掲示板の運営に影響にでてくれば、「掲示板の公共性」という見地からしても間違っているのではないでしょうか? 掲示板が私物化されてしまうような気持ちすらします。関西弁が俗にいう「標準語」にならなかった主たる理由は、明治維新になって、日本の首都が京都から東京に移されたためだと思います。また、一口に関西弁といっても、関西圏の都道府県によって、語彙の違いや、表現の仕方も違います。また、同一の都道府県内であっても地方によってイントネーションや語彙が違う場合もあります。私個人の感覚ですが、京都の市街地で使用されている「京都ことば」が、大変、やわらかく、やさしく、聞こえます。いずれにせよ、あまり、方言などの枝葉末節にこだわらず、御自身の意見を率直にストレートに正確に述べられたら、それで良いのではないでしょうか。
「教団なんて所詮、人間が作ったものですから、縛られる必要はない」というご意見に対して、私も賛同いたします。むしろ、教団という組織が存在するが故に、天理教は誤った方向に進んでしまったように思います。一般信者や末端教会にとって、教団運営は不明な部分が多く、極めて不透明であります。教団の会計についてもしかりです。私が三島神社の移転について疑念をいだいている原因も教団運営や会計が、一体どのようになっているのか、不明・不透明であるからです。教団は信者の「御供え」によって運営されている以上、税金と同じように極めて公共性の高いものであり、信者の誰もが納得できるよう適正に使われるべきです。国には「会計検査院」という、他の省庁とは完全に独立した組織があり、国税が適正に使用されているか、徹底的に厳しくチェックする機関がありますが、仮に宗教法人の運営上、教団という組織がどうしても必要不可欠であるならば、教団とは一切利害関係のない第三者的な「会計検査院」のような組織なりシステムを導入する必要があると考えています。
 

改めて考えさせられた次第です

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月15日(火)11時16分23秒
返信・引用
  僕はさっちんさんは少なからず天理教に恨みの念があると感じていたのですが表裏一体さんのご意見を拝見し改めて過去の投稿を見直して見たところ違う角度で見えたといいますか、思い過ごしだったのかと考えされられた次第です。表裏一体さんの正直なご意見がなければ気付くことはなかったかも知れません。正直なご意見ありがとうございました。そしてさっちんさんその点は本当に申し訳ありませんでした。あとさっちんさんここを卒業すると言うことを何度か仰られていらっしゃいますが正直に言うとそんな寂しい事をわざわざ言わないでほしいと感じてます。さっちんさんのようなテレビのタレントでも居てるような辛口コメンテーターも必要だと思います。さっちんさんのコメントを楽しみに見ておられる方もいらっしゃいますよ。好きな時に言いたい事をふらっと書き込んで頂きたいです。もちろん投稿する義務はありませんがやめるとわざわざ宣言する必要もありませんよ。好きな時にふらっと来てはいかがでしょう?
話は変わりますが表裏一体さんが仰ったように僕も一文字さんには大人の紳士的な対応をされる方だと勝手に想像しておりました。そういった意味での規律やマナーの【正しさ】を持った発言を感じていた次第です。しかしあくまで人間が決めた正しさは神から見れば誰でもズレが生じていると思います。僕自身も小さな失敗と反省を繰り返しているように人間はやはり人間で感情や欲望に支配され失敗して反省し、いつの間にやら忘れてしまいまたそれの繰り返しをする生き物ではないでしょうか。人間が決めたルールも場合によっては破らなければならない勇気を持つ。そしてそれは今の天理教組織にも当てはまると考えます。神から見た正しさとはとても深い気が致します。
 

(無題)

 投稿者:さっちん  投稿日:2015年12月15日(火)10時42分50秒
返信・引用
   私に対する批判がいろいろ書かれてるのではないか、と恐くて今までよう開けなかったのですが、(よく、自分が投稿した後、その内容に対し、否定的な意見が返ってないか、とこわごわ掲示板を開け、危惧したことが無いと、ほっとしたりしてますが、だったら投稿しなければいいのですが)、今回は、もう離れようと決めたことでもあり、一切見るまいと思ってましたが、やはり気になるもので、未練がましく開けてみますれば、案に相違して擁護して頂いてるご意見も複数あり、ありがたく、恐縮致しております。中には過大評価とも思えたりするところもあったりで、面映ゆいですが。
 ストレートな意見、というご評価も頂きましたが、大勢の方が見ているだろう、考えれば怖いこの場所に書き込める、只一つの自分の拠って立てる所は、ウソは書いてない、真実思っている事をそのまま書いている、そのことだけです。こんな事書くのはこれも、気恥ずかしいことですが。教理のことについて書く知識は無いですしね。

<一文字様へ>
 一文字さんが、私のあの「おまへんか」が、そこまで癇に障られてたのかと意外でした。関西言葉は、表現を婉曲にするものとばかり思っておりましたが、失礼しました。どうも私に対して風当たりが強いように思ってたのですが、あの言葉が尾を引いてたとは思いませんでした。関西以外の人間が、みだりに使うものではないかもしれませんね。
 しかし、関西弁は、私はリスペクトしているのです。なぜ関西弁が標準語にならなかったのか、と思う事もある位です。こう書くと今度は東京人の怒りを買うかしら?例えばあの文章、「教団が崩壊したって、どうという事あらしまへん」も「教団など崩壊しても、どうという事は無いと思いますが」よりも、はるかに私の気持ちにぴったりと当てはまるものであり、関西弁ほど気持ちを的確に表してくれる言葉は無いと思います。言葉として、こんな便利なツールは無いと思っております、それでいて、言葉の角も和らげてくれる。「関西弁習得講座」があれば、入りたい位です。

 この掲示板に書き込みをするようになって、同じような疑問を持っておられる方、私など及びもつかない程の、つらい思いをされてる方、いろんな事も知り、結局辿りついた所は“教団崩壊”でした。最初からそのような事、考えても無かったですが、そういう方向へ傾きました。教団なんて所詮、人間が作ったものですから、縛られる必要など無いと思っております、今は。
 

(無題)

 投稿者:すみません  投稿日:2015年12月15日(火)10時34分33秒
返信・引用
  一文字隼人さま
そうですかー、文章は男前だったのですねーわたし・・・。
実際、主人には うちには男しかおらん と言われてますが(笑)子どもも息子なので。


私の書き込みに対して、みなさまから反応して頂き、この掲示板に出会って本当によかったと思っています。
いろんな方が真剣に信仰のことを考え、天理教の様々な問題点や疑問点を追及され、自分の考え方や思いを綴ってくださり、みんなで共有できる場は本当に貴重だと思います。
みなさまのおやさまの教えに対する熱い思いを実感でき、自分も間違ってないし、人それぞれの信仰の仕方があると、前向きな気持ちになることができました。
教団は残念な姿になっていますが、小さなうねりが大きな潮流になって、やがて硬い岩盤も形を変えていくだろうと思います。

これほど真剣に自分の内面をみつめ、考えたことが無かったのですが、何事も遅すぎると言うことは無いと信じ、ますます勉強して行こうと思っています。
これからもみなさまの貴重なご意見をお聞かせください。
よろしくお願いいたします。
 

ご参考までに

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月15日(火)02時36分55秒
返信・引用
  「天理教の歴史と現実」とタイトルの植田義弘氏のブログを、たまたま、見つけましたので、ご参考までに紹介させていただきます。

http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/repo-mattan.htm
 

また失礼します

 投稿者:表裏一体  投稿日:2015年12月14日(月)22時25分45秒
返信・引用
  様々な環境、様々な立場の方々から学ぶことは多いです。
現在の自分の考え方と違うほど、新しい発見があり、自分の器を広げてくれます。
真剣な談じ合いを読ませて頂き、学ばせて頂いております。

一文字隼人さま

実は自分は一文字さんのさっちんさんの投稿に対し、茶化してると云われたことが理解できませんでした。
なぜいつもは冷静で大人の対応をされる一文字さんが、こんな頭の固いことを(すみません;)言うんだろう
と思い、正直に自分の気持ちを投稿してみました。
一文字さんの気持ちを読ませて頂き、それまでの流れの話も関係していたことが解り、なるほどとそういう気持ち
だったのかと理解できました。やはり、改めて本人から話を聞いて見なければわからないこと、
相手の立場に立ってみなければわからない事もあるものですね。
不愉快さも含め、正直に話して下さった一文字さんの誠実さに感謝致します。

ぶたまんさま

自分はまだまだ「己」というものを解っておらず、日々、色々なことに振り回され、
右往左往することも多々あるような人間です。
出来れば高い信仰心を持ちたい、しかし「信仰心」とは一体何だろう?
などと、まだそんなところででうろうろしている人間です。

ぶたまんさまの投稿からは、真摯な気持ちが伝わってきました。
いえ、以前から純粋なお気持ちは投稿を読ませて頂き、感じさせて頂いておりましたが。

ぶたまんさまの「ご恩報じ」の気持ちには共感いたします。

>私はおやさまへのご恩報じは、おやさまからしていただいた分をそのまま人にしてあげることだと考えます。

「おやさまにしていただいた」と信じ、おやさまを立て、感謝の気持ちを持って自分の出来ることを出来る機会に
周りに返していく。そうして、感謝と喜びの心が広がっていけば、陽気暮らしにも繋がりますね。
ぶたまんさまのいうとおりかと思います。

また、気持ちのよい関係を保つうえでの常識の範囲内でのお返しや気持ち、お礼は
一般常識的な「バランス感覚」さえあれば、心ある常識人同士であれば、日常の中で行われていると思います。

ただ、御礼にしても関係性にしても、「アンバランスなこと」は、気持ちのよい「お互い様」の関係よりも
不信感に繋がり、後々問題を生み易いのではと思います。

笑われるかもしれませんが、自分は、神とは、無条件の愛のかたまりだと認識しております。
なので、神と神から遠いものとを判別する時、

「人も自分も、真に幸せに自由にするものなのかどうか?」

ということを、先ず判断基準の最初に考えます。
例えば、
人や自分を真に幸せにする言葉なのかどうか?
人や自分を真に幸せにする行動なのかどうか?
人や自分を真に幸せにする考え方なのかどうか?
など、
とはいえ、どのようなことも様々な要素で成り立っているのがこの世の中なので、一部を見て全てを決め付けるようなことなく、
ケースバイケースで考えることも必要だと思いますし、柔軟に、責任をもって、日々見識を深めていかなくては
真の判断は難しいとも感じております。
 

Re: 信仰とは?

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月14日(月)20時18分26秒
返信・引用
   文面だけでは相手が誰なのか、男なのか女なのかもわかりません。ましてや顔の表情もわからないので、
誤解してたりすることもよく起こります。最近の例ですが、ずっと男性だと思って投稿を読んでいたら女性だった
ということもあり、勝手な「思い込み」が知らず知らずのうちにあるんだと実感しております。
「すみませんさん」すみません。m(_ _)m ずっと男だと思っておりました。

すみませんさん
>それは、お供えやひのきしんとして、教会、上級教会、大教会、本部に労働力を無償で提供し、お金まで納めることですか?

 違うと思います。お供えはもともと教祖の時代には自分のところで採れた野菜や米の初物などを供えていたと
思います。金銭のお供えに関しては最初のふしんの際に教祖の高弟と言われる人が出したのが始まりだと
理解しています。お金であっても物であっても、その中に込めた真実が大事であって「形」だけなら意味はないと
思っています。

しかし今は「真実」より「形」が求められているように感じます。だから衰退というかおかしな方向に流れていると感じています。

>自分の都合は後回しにして、教会行事や組織の都合を優先し、一生懸命お供えし、家族の不平不満も
>「徳積みや」と黙らせて・・・そんなことを親神様はお望みなのですかね?


 全くのいつわりだと思います。理の親制度の弊害としか思えません。勇んでいないところに神が勇む訳もないと
思います。でも難しい面もあるように感じます。何度もここで談じ合ってきた問題そのもののような気もします。

>「ひながた」はおやさまが通って下さったから「ひながた」なのであって、私たち普通の人間に求めるものでは
>ないのではないでしょうか。


 これについては本当に子どもの頃から疑問でした。「ひながた」の「ひ」の字も通っていない人が壇上に上がり、
力をこめて「ひながたを目途に~」とか「ひながたこそ~」と話すたびに嘘っぽく聞こえ、広い神殿の中で参拝者が
「また始まった、、、」と居眠りを始める様子を見てきました。

 教祖のひながたは人間が容易く通れるものではないと思います。教祖であっても、その道中には大変な苦労が
あったと思います。私は教祖のひながたは神の社となり、この世のもとはじまりを伝える立場の教祖だったからこそ、
通らねばならない道だったのかと考えています。しかし、初代の方でもそれを信じて素直に通ろうと努力した
先人の先生はいると思います。ですから道が続いてきたのかと思います。

>「朝起き、正直、働き」 「感謝、慎み、助け合い」天理教のこのスローガンだけでいいのでは?


 極論するとその通りではないのかと思います。人間がどう守護されているかは「十全の守護」、日々の心のほこりを
払うよすがとして「八つのほこり」があるように思います。しかし、この辺も更に追求していかなければならないようにも
感じています。
どうも史実を調べていくと教団が形成されてから「人間」が作ったというか、まとめたものもありそうな気がするからです。

>こんなことは、今まで姉妹でこそこそと言ってただけで、教会関係の誰にも言えませんでした。


 同感です。言ったら最後、異端視され、挙句は「そんなことを言うもんじゃない」とか「素直じゃない」と片づけられて
しまいます。しかし、“こそこそと”掲示板で話してもいいのではないでしょうか?そこにこそ皆で真理を一緒に追求しよう
という動きも出るのではないでしょうか。

>どうにもならなくなったら、また自分で考えて自分の信仰を見直し、そうやって深めていくのが、他からの押し付け
>ではない自分の信仰だと思います。


 それでいいのではないでしょうか?実は私もそれの繰り返しのような気がしております。
ですから、いろいろ本を読んでいます。ただ教内で書かれた本はどれもこれも二代真柱の御機嫌を損ねないように
神経を使って書いたと思われるような本も多いので、今はそれらを避けています。ですから敢えて芹沢氏の本や古い
時代の本を読むようにしております。
 

教祖のひながたについて

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月14日(月)18時13分10秒
返信・引用
  私は、小学生時代に、書道を習った経験があります。習った期間の長短は別として、読者の皆さん方の中にも同じように習われた経験がある方も大勢おられると思います。書道の先生の朱書きの「お手本」を自分の左に置き、「お手本」の筆の運び方や力の入れ方、文字の形等を意識して、一生懸命、書いたつもりで、先生に添削をしていただいても、悪い所は、必ず朱の墨汁で直されました。先生の「お手本」と全く同じように書くことは不可能でした。私よりも上級・上段の子ども達でさえ、先生の添削を受け、悪い箇所は朱の墨汁で直されていました。しかし、半紙に何枚も繰り返し書き、練習をしているうちに、訂正される箇所も減り、少しずつながらでも上達していきました。例えとしては、おかしいかもしれませんが、教祖様の「ひながた」とはそういうものではないでしょうか?先の私の投稿で、「ひながた」通りに人生を歩むという表現を使いましたが、教祖の「ひながた」と全く同じような人生を歩むことは、不可能であると私も思います。教祖の生きておられた時代背景も、現代あるいは、それに続く未来とは違うわけですから。しかし、教祖の「ひながた」を常に手本(参考)にしながら、つまずき、失敗しながらでも歩んでいけば、「陽気暮らし」の世界に少しでも近づいていけるのではないでしょうか?  

(無題)

 投稿者:ぶたまん  投稿日:2015年12月14日(月)10時30分5秒
返信・引用
  > No.815[元記事へ]

すみません様 表裏一体様 ご意見をありがとうございました。
お二方はご文章もすばらしく意識も高く、私などより高い信仰をお持ちのようで、気おくれを感じながら
今ここに書いております。

結論を先に申し上げますと、私の考えとしましては、おやさまへのご恩報じはしなければならないという
ことに変わりはありません。これは義務です。
先達の方ですが「(神や人から何かをしていただいたら)人間だったらお礼をします」と言われてい、
私もそう思うからです。

また聖書から引用させていただきますが、ルカ伝に(17章11)
イエスが重い皮膚病(ハンセン氏病か?)を患った人を十人助けたことが記されています。
しかし、その十人のうちお礼を言いにイエスのもとにやって来たのは一人しかいませんでした。
他の九人は助けてもらったらどこかに行ってしまいました。

人ってこんなものではないかとは思います。宇宙にロケットを飛ばし、地上に新幹線を走らせ等するように
なった現代も、人の心は二千年前と少しも変わらないんじゃないか、少しも進歩していないんじゃないかと。

イエスにしてもおやさまにしても病気を直す超能力を持った救世主みたいな存在ですから、そういう人が
人を助けた場合、助かった人が喜ぶのを見て喜ばれるだろうから、助けてもらったらそれでいい、という
ことは出来ないと思います。神さまから特別なお慈悲をいただいたら、やはりお返しをしなければなりません。
そこで、どうやってお返しをするか、が問題になります。
私はお金(お供え)ではないと思います。お供えをするのもいいとは思いますが、お金でご恩報じが
出来たと考えるのは、私にとったら下の下です。

私はおやさまへのご恩報じは、おやさまからしていただいた分をそのまま人にしてあげることだと考えます。
おやさまから538g(←どうやってこの重さを測ったんだ、と聞かないでください。例えばの話です)の
慈悲をいただいたら、人に538gの慈悲を垂れる、というものです。(539g以上の慈悲を垂れると、
その分は神さまから利息をつけて返してもらえます、と言うと少し浅ましいかもしれませんね)

でも、人にしてあげるということはなかなか難しいかもしれません。実際、何かしてもらうのは大好き
だけど、人にしてあげることはダッ嫌いという人はけっこういます。
なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので、というお歌、真実をついていますね。

要は、おやさまの教えを行いに換えていって、人によいことをしてあげるということになるでしょうか。
ここで、すみません様は‘ひながたを通る’とか言われていましたが、そんな大きなことではなく、
おやさまからしていただいたご慈悲を思い出しながら、ご自身の身の回りの人、奥さんや主人に対して
やさしい心遣いをしてあげるというようなことでよろしいのではないかと思います。

私はそうやってご恩報じをしていくことによって、その道中でおやさまの気持ちを理解していけるように
なるのではないかと思っています。そしてそれが本当の救いであって、病気を直してもらったというような
ことは、ただのきっかけでしかないと考えます。
言ってみれば、ご恩報じは天から垂らしてもらったロープをたぐっていくようなもので、結果的に自分
を救います。だから神様へのご恩報じは必要だと主張したいのです。それは自分のためになるからです。

とりとめもないことを、わかったように長々書いてしまいました。不快に思われましたらご容赦ください。
最後に、表裏一体様の
>自分の心の中に住む神である「良心」にさえ誠実に、平和に人と調和して暮らすことが出来れば、
神の御心に適っているのではないでしょうか?
すみません様の
>宗教はあくまでも生きる指針であり、おやさまの教えを胸に、自分の家族を大切にし、子どもを慈しみ育て次の世代に繋げて行く。
というお考えに賛同いたしますことを告げて終わらせていただきます・
 

言葉は怖い

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月13日(日)22時53分1秒
返信・引用
  表裏一体さん

>まず、さっちんさんの朝ドラ仕立ての投稿についてですが、一文字隼人さんのご意見には、非常に驚きました。
>やはり受ける印象というのは本当に人それぞれなのだなと。


 私も非常に驚きました。私は真意がどうのこうの以前に不愉快に感じていましたが、表裏一体さんをはじめ、
他の方々もそういう風に感じていらっしゃるのかと驚きを禁じえません。私の心が狭いのかもしれません。
正直しんどいさんの「そこは愛嬌で」という意見もわからないではありません。

 しかし、それはそれでいいのではないでしょうか。みんな違うから様々な意見が出るのであって、受け取り方も
それぞれ違うからこそ多角的に見る精神も養えるように思います。

 蒸し返すようで申し訳ありませんが、2015年11月11日(水)21時50分10秒の私の書き込みで天理市の寄付の話を
書いた後に、掲示板の皆さんの書き込み傾向として一言、忠告しておいた方がいいと思い、よけいなことを書いたのですが、
それが原因でさっちんさんから関西弁の返信をいただきました。

 特にさっちんさんだけに向けて書いたつもりはなかったので、返信が返ってきて驚いていました。しかし、それ以上に
驚いたのが関西弁の返信
です。今だから正直な気持ちを吐露すると「喧嘩を売られた」ように感じました。

 もちろんそんな風に思って書かれたのではないかもしれませんが、その段階で言葉の真意とか、中身以前に生理的に
受け付けなくなります。あとはそれ以降の投稿を読めばわかると思いますが。

 考え方や意見が合わないことは、もちろん起こります。知らず知らずのうちに不愉快な思いをさせていることが
私もあると思います。ですから言葉には注意しなければなりませんし、多くの人が読んでいることも意識しなければ
ならないと自分にも言い聞かせているつもりです。

 今回のことでまだまだ成人が足りないと感じております。またほこりを積んでしまったように感じます

まあ、私はこんなレベルの人間ですからたいしたことありません。また、気軽にお付き合いくださいますようお願いいたします。
  ね?さっちんさん。

 ストレートなご意見、いいと思っていますよ。遠慮がちにわからない文を書くよりスカッとしてて、いい面もあるなあと思って
今まで読んできましたよ。ただそれだけに危うい感じがして、他の人々のことも考えて、つい余計なことを書きました。
その件に関しては許してください。私は典型的な「瞬間湯沸かし器」ですから、直さなきゃならない性格だと思います。
 

信仰とは?

 投稿者:すみません  投稿日:2015年12月13日(日)22時10分43秒
返信・引用
  親神様が私たちのためにお働き下さっている事に対して、感謝し、お礼申し上げるのは当然ですね。
それは、お供えやひのきしんとして、教会、上級教会、大教会、本部に労働力を無償で提供し、お金まで納めることですか?
自分の都合は後回しにして、教会行事や組織の都合を優先し、一生懸命お供えし、家族の不平不満も「徳積みや」と黙らせて・・・
そんなことを親神様はお望みなのですかね?

そもそも、普通の人間が「ひながた」を通って「陽気ぐらし」をするって、無理でしょう。
「ひながた」はおやさまが通って下さったから「ひながた」なのであって、私たち普通の人間に求めるものではないのではないでしょうか。
このあたりから教団による教えの歪曲を疑ってしまうのですが・・・
私たち人間をおつくりくださったから、という理由で親に向かって延々とつくし運びをするのが教理ではないでしょう?
それさえしてれば、神様が全部いいように取り計らってくださって、悪いことが起きるとつくし運びが足りんと言われ・・・

おやさまが本当に教えたかったのは、どんな境遇に陥っても自分の考え方、気持ち次第で、地獄と思っていたことが天国にもなる、ということではないですか?
心ひとつが我がの理?でしたか・・・
宗教にすべてを委ねるのではなく、自分で考え自主性を持って自分の人生を歩み、自律した生き方を目指すのが人間として生きるということだと思います。
宗教はあくまでも生きる指針であり、おやさまの教えを胸に、自分の家族を大切にし、子どもを慈しみ育て次の世代に繋げて行く。
「朝起き、正直、働き」 「感謝、慎み、助け合い」天理教のこのスローガンだけでいいのでは?

こんなことは、今まで姉妹でこそこそと言ってただけで、教会関係の誰にも言えませんでした。
教団に深く関わっている方から見れば、わかってないな と思われるだけでしょう。そこから出ないとわかりません。
誰がどう思おうと、私は私の信仰をするだけです。
どうにもならなくなったら、また自分で考えて自分の信仰を見直し、そうやって深めていくのが、他からの押し付けではない自分の信仰だと思います。

投稿の流れに乗れてない内容ですが、お許しください。
 

やはり自分の目で確かめるべき

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月13日(日)21時17分49秒
返信・引用
  ふーてんのプータローさん

>三島神社移転に関わった3人の幹部が本部から罷免されていますが

 その後、調べてみたのですが、罷免どころか本部内のポジションが変わっただけじゃないでしょうか。
お一人はT大学の理事長のようですし、お一方は大教会長さんですし、別に本部員の立場を罷免された
ようでもありません。本部の月次祭でもお見掛けしますし。ネットの情報はこれだからこわいです
鵜呑みにできないです。情報ソースを取り急ぎ送りましたが、先に調べてから貼り付けるべきでした。
申し訳ありません。想像すると罷免というよりその立場での処分があっただけのような気がします。

>3人の幹部の方々も「御安泰」だったと考えても不自然ではないと思います。

 立場は変わっても今も安泰といえば安泰なのでしょうか?よくわかりません。
以前、「憶測で意見を~」とありましたが、こういうことが起こるのがネットです。ですから出展をはっきりさせたり、
情報ソースを書くべきだと主張してきたのですが、今回は私もソースの確認をしたり、自分の目で確認しなかったので、
お恥ずかしい限りです。

正直しんどいさん

>潰れることを願うより本当に人の役に立てる組織の再生を願いましょう。そのための掲示板だと思うんです。
>ここが講ではなくやはり講はリアル世界で築くものだと思います。


 教祖の時代を調べたり、講についても調べていると、もとは教会も教団というような大きい組織もない時代に
信仰をする人が集まったのが始まりのようです。鉄道も飛行機もない時代ですから、その地域ごとで集まった
団体になっていたと思います。しかし、時代が変わり、ネットもこれだけ発達して距離を意識せず、コミュニケーションを
取れる時代になったのですから、これも利用していくべきだと思います。段階を踏んで、リアルに集まったり、
何かを現実に一緒にやってもいいかと思います。ただ、そこにも難しい問題が絡んでくるようにも思います。


>あとマナーやモラルはもちろん必要だと思いますし一文字さんは本当に意義のある場にするため
>常に正しい発言されていますが


 「正しい」といってくださることに対してうれしくもあり恐縮なのですが、私は自分が正しい発言をしているとは思っていません。
なぜならその時代で正しいと思っていたことが、時の流れや人々の考え方の移り変わりで、正しいことが正しくなくなったりします。
「パラダイムシフト」と言いますが、それを半世紀以上、生きてきて経験してきたからです。

今まで正しいと信じて疑わずにいたことが、時の流れと共にひっくり返ってしまったことも仕事の上でもいろいろ経験しました。

 天理教の中でもパラダイムシフトのようなことは史実の上でいくつもあったようです。私はその中でも「しめ縄」や「玉串」を
やめたことがとても不思議でした。この掲示板に書き込み始めた頃、そういった変わったことについても書き込みましたが、
誰からも意見も来ず、教団批判や教会長さんへの愚痴などがほとんどの感じでした。

 いくつかの天理教に関するホームページや掲示板なども見てきて思うのですが、あまり建設的ではないように感じました。
吐き出したり愚痴をこぼしたりも大事なことだとは思いますが、ではその原因はどこにあり、何を変えていかなければならないのか
他人任せで自分はこぼしてばかりいればいいのかとも思います。自分が信仰している宗教ではないのでしょうか?

 初代の人は別にして親々の代から続いてきた信仰ではないのですか?でしたら、自分の代で正しい方向へ変えてやる!とは
思わないのでしょうか?「つぶれればいい」とか「つぶしてしまえ」とか簡単に口走れる感覚が私にはわかりません。

 掲示板というのは顔が見えず文字だけのコミュニケーションになるので、言葉の使い方が非常に大切になってきます。
技術的にはもうWEBカメラを使い、リアルタイムでお互いの顔を見ながら話し合うことも出来ますが、まだまだ匿名で思い
を書き込める掲示板は続いていくと思われます。

 天理教が「だめの教え」であるなら変わってはいけないし、変わるはずもないと思っています。
しかし何か腑に落ちない変な感じがするので、やはり自分で調べ、自分で納得し、またいろいろな方の意見も聞きたい
と思って、ここへも書き込んでいます。

>ブログや掲示板と言ったネット用語などは(中略)知識がなかったら発言してはいけなかったりダメかと言われれば
>そうではないと思いますし


 仰るとおりかと思います。皆が遠慮なく投稿したらいいと思います。ただルールやマナーは守らなければいけません。
無法地帯になった掲示板などをたくさん見てきたり、自らもHPや掲示板をいくつも管理したりしている経験から、
私はついつい厳しいことを書いているのかもしれません。ご理解ください。
 

失礼します

 投稿者:表裏一体  投稿日:2015年12月13日(日)19時55分53秒
返信・引用
  投稿するつもりはなかったのですが、談じ合いの意見を読ませて頂いているうちに、
ひとこと自分の感想も述べさせて頂きたく、失礼致します。

まず、さっちんさんの朝ドラ仕立ての投稿についてですが、一文字隼人さんのご意見には、非常に驚きました。
やはり受ける印象というのは本当に人それぞれなのだなと。

実は自分はさっちんさんのこの時の投稿を読ませて頂き、
「さっちんさん、GJ(グッドジョブ)!」と投稿しようとしたくらいです。

といいますのは、さっちんさんの内容そのものは、いちいち核心を突いていることばかりで、
決してただ茶化すだけの内容の無い文章ではありませんでした。
しかしながら、きっと教団に深く傾倒されている人には嫌がられる内容だろうなとも思いました。
教団内では誰もがリアルに口にすることの出来ない部分でもあり、
だからこそ、角が立たないように朝ドラ仕立てにして、ユーモアの要素も交えて語られたのだなと、
読んでいてその心遣いが伝わってきて、

教会の娘さんという立場なのにも拘らず、非常に客観的で中立な鋭い視点をお持ちの、
頭のいい方なのだな~と感心しておりました。
なので、一文字隼人さんのご意見には、そういうとらえ方をされてしまう場合もあったのかと、
自分も勉強になりました。

また、正直しんどいさん

>僕が疑問に思ったのはそこではなく教団が潰れてほしいと発言されたことに少し残念に
思いました。さっちんさんの今までの投稿で天理教に少なからず恨みを持たれていることを
感じますが潰れてほしいと書き込んだのはそこから来ているんではないかと思いますが
何をわかりきったことをと思われるかも知れませんが恨みの心を抱かないでほしいんです。
もちろん色々あったと思うんですがどんなに酷いことをされようが許すのが天理教だと
思うんです。


の部分ですが、
自分は、さっちんさんの言葉は、「一度教団が潰れて再生しなければ、真の再生はありえない」という
風に読ませて頂いてましたが、これは恨みの心から言っているとは、全く受け取りませんでした。
これも人それぞれの受け取り方ですね。
自分はさっちんさんは、いつも本音や核心に近いことを話されるな~と感じて読ませて頂いてました。
中立公平な立場に立てば、当然出てくる考え方だと。

「一度教団が潰れて再生しなければ」というようなことは、さっちんさん個人の話ではなく、
お供え等お金が絡む様々な問題、極端な上下関係からくる様々な問題等、
信仰と絡められながらも実は純粋な信仰とは別な部分で苦しめられてきた人々の決して届くことの無い
声なき声に対する、真摯な気持ちから出た言葉ではないでしょうか。

泣き寝入りしてきた人、犠牲者となってしまった人々、今苦しんでいる人々に対し出来ることは、
その原因を他人事ではなく自分事として目を背けずに理解し、認めるところはきちんと認め、
改善すべきことは改善することなのではないでしょうか。
それが、いちれつ兄弟を詠われた親様の願いであり、真の「誠実さ」というものなのではと思います。

正直しんどいさんは、「どんなに酷いことをされようが許すのが天理教」と話されてますが、
イエスキリストのように、磔になっても「主よお許し下さい」と祈られた姿のように、
上の人から雛形を見せてくれれば、下々の者は皆後に続くのではないでしょうか?
下々にばかり、「許しなさい、我慢しなさい」というのは、通常の感性の持ち主には通用しません。
例えば、上の人が、困った教会を、自分が犠牲になっても金銭的にも精神的にも実親の様に助ける。
末端の者に楯突かれても、許し、出来るだけ相手が喜ぶように対応する、
お供えをしてもなお、思いが届かなかった人に対しては、きちんと全額返金し、心に寄り添う、
などの徳を目にしたなら、おそらく、もう誰も何も言えないでしょうし、
この掲示板は、感謝と褒め言葉で埋め尽くされるでしょう。
信者さんも増えるでしょう。

ぶたまんさま

>信仰というのは、つまりは「困った時の神頼み」で、困ったことが解決してしまうと、人は
神さま仏様のところに足を運ばなくなるんじゃないでしょうか?


困ったことがあると、信仰の無い人は、必死で現実の問題と取り組み解決しようと知恵を絞ります。
その結果、現実的な知恵や勘、自立心が身について行きます。
また、心を豊かに安らかにする信仰心を心に抱くことは大事なことだと考えます。
ただ、必ずしもどこかに足を運ばなくても、宗教に入信しなくても、
自分の心の中に住む神である「良心」にさえ誠実に、平和に人と調和して暮らすことが出来れば、
神の御心に適っているのではないでしょうか?

>助けてもらって「フフフ、しめしめ」とホクソ笑んでいても、天の帳面にはちゃんとつけられて
いる以上、おやさまに助けていただいたとしても、支払いはきっちりさせられると思います。
恩返しはしなければならないのであって、


「助けること」や幸せは、神様の願いではないでしょうか?
助かってほくそ笑む時、神様も一緒に喜んでいるのではないでしょうか?
神様は、高利貸しのように、支払いなど求めないと思いますが?
もし、払わされるとしたら、それは自らの「植えつけられた罪悪感」や神の愛を信じられない、
「疑いの心」や「恐れの心」が、そういう支払いに見える現実を呼ぶのではないでしょうか?

以上、つい、本音で言いたいことを書き過ぎでしまいました。
意見を否定する為ではなく、こういった考えの者もいるということを知ってもらいたく、
談じ合いに参加させて頂きました。
ひとことどころではなく、失礼致しました。
 

さっちん様へ

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月13日(日)19時30分28秒
返信・引用
  >  正直しんどいさん、本当にありがとうございます。書き込みをする、という事は楽しい反面、神経を使わなければならない、厳しいことを言われる事も覚悟しなければならないのだな、とわかりつつあったところです。そして、どうも私の感性は、この掲示板には合わないようなので、今度こそ本当に、おさらばしようと思ってました。あまり何べんも言うと狼少年みたいで、信用されなくなってしまいますが。いや、もう既に信用されてないかもしれませんけど。
>  関西弁で書いたのは、やはり一文字さんのおっしゃったように、行き過ぎだったのかもしれないと思ってますが、前の文にも書きましたように、書いてることがちょっと過激なので、ストレートにしないよう、ユーモアも入れたつもりだったのですけど、うまくいかないもんですね。


ご投稿の際に、「関西弁」とか俗にいう「標準語」とかにこだわっていれば、余計な神経を使うだけだと思います。今の時代、TV放送等マスコミ関係のおかげで、関西弁も、東北弁も、九州弁も国内で十分、コミュニケーションのツールとしての地位を確立しつつあります。とりわけ、関西弁は日本国内では、「標準語」と同等であると言っても良いと思います。どうぞ、これからも、枝葉末節にこだわらず、忌憚のないご意見をお聞かせください。但し、インターネットの掲示板という性格上、ルールだけは守られたら良いと思います。あなたのストレートなご意見は、読む側にとってもストレートに伝わってきますので、私自身は、あなたの投稿をいつも楽しみにしています。決して「狼少年」だとは思っておりません。インターネットの掲示板は公共性が高いが故に、民主的に維持運営されるべきだと考えています。一番、大事なことは、自分の意見が不特定多数の読者に正確に伝わり、誤解の無い正確な意見交換(談じ合い)をすることだと思います。


 

インターネットの掲示板について

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月13日(日)16時33分31秒
返信・引用
  インターネットの掲示板とは、極めて公共性の高いものであり、世界中に不特定多数の読者や投稿者がおられるという前提で、私なりの意見を述べさせていただきます。

先ず、さっちん様へ
別に、関西弁で投稿されようが、俗にいう標準語で投稿されようが、日本語以外の言語で投稿されようが、一投稿者の愉快とか不愉快とかいう感情に左右されずに、ご自分なりの意見を忌憚なく投稿されたら良いと思います。もちろん、何の根拠や理由もなく、他の人なり団体を誹謗中傷することは許されないと思いますが、読者は日本国内に限らず世界中におられるのですから、別に、英語で投稿されようが、仏語で投稿されようが、他の言語で投稿されようが、問題はないと思います。


正直しんどい様へ
やはり、私の予想していた通りのレスが返ってきました。おっしゃる通り、皆がペコペコする以上に低い心で通るのが天理教の本来の教えであると私も思います。しかし、現状は「先生」と呼ばれるのをある種の「快感」と感じておられる教会長なり、幹部の方々が多数おられるように思います。私の経験上から申し上げれば、大変、失礼かもしれませんが、一般社会にでれば、ごく普通の人、あるいはそれ以下の人も多数おられるようにさえ思います。(私自身も自分が人格的に立派な人間であるとは決して考えてはおりません)私も、誰も傷つかない優しい社会になってほしいと思います。この掲示板の読者の誰もがそれを望んでいると思います。そうした社会を実現していくためには、先ず、現状の矛盾や問題点を分析し打破していく「厳しさ」も必要であると考えます。


 

(無題)

 投稿者:ぶたまん  投稿日:2015年12月13日(日)14時03分37秒
返信・引用
  今、ここにヨコ槍を入れると混乱してしまうことになるかと思うのですが、
私も基本的に「正直しんどい」さんと同じ考えです。

宗教の盛隆を望めば信者の人数が気になるのは人情というものでしょうが、そもそも宗教が栄えるのは、
歴史的に見て世情が不安定な時でして、必ずしもいいことではないと思います。
奈良の大仏さんも、奈良時代のあの当時に疫病が流行らなかったら、こうまで大きな仏像を造っ
たりはしなかったろうという気がします。
大きな仏像を造ったとしても、それが必ずしも信仰の厚さを表しているとは限らないでしょう。

信仰というのは、つまりは「困った時の神頼み」で、困ったことが解決してしまうと、人は
神さま仏様のところに足を運ばなくなるんじゃないでしょうか?
仏様のお慈悲で助けてもらったとしても、「仏様への恩返しに、さぁ今度はあなたが人に慈悲を
垂れる番ですよ」と言われると、急に尻ごみをするのではりませんか?
それどころか、助けてもらったら尻に帆をかかげて逃げ出してしまう・・そんなんじゃありませんか?

おさしづに、「もろたもろたと言うて、にまにま笑う。まるで三歳の子どものようだ」というのがあります。

助けてもらって「フフフ、しめしめ」とホクソ笑んでいても、天の帳面にはちゃんとつけられて
いる以上、おやさまに助けていただいたとしても、支払いはきっちりさせられると思います。
恩返しはしなければならないのであって、「おやさまはお助け人なのだから、人助けが仕事なん
で、助けられてもこのままズラかっていいや」とは決して思わないで下さい。

宗教は人がたくさん集まってにぎやかになることが大事なのではなく、「どうあるべきか」が
問われるんじゃないでしょうか。
その意味で、三島神社のことも、一部の人たちの勝手な思惑で捏造・隠蔽・欺瞞などで
教えが腐食されていくのには反対します。
 

(無題)

 投稿者:さっちん  投稿日:2015年12月13日(日)12時58分29秒
返信・引用
   正直しんどいさん、本当にありがとうございます。書き込みをする、という事は楽しい反面、神経を使わなければならない、厳しいことを言われる事も覚悟しなければならないのだな、とわかりつつあったところです。そして、どうも私の感性は、この掲示板には合わないようなので、今度こそ本当に、おさらばしようと思ってました。あまり何べんも言うと狼少年みたいで、信用されなくなってしまいますが。いや、もう既に信用されてないかもしれませんけど。
 関西弁で書いたのは、やはり一文字さんのおっしゃったように、行き過ぎだったのかもしれないと思ってますが、前の文にも書きましたように、書いてることがちょっと過激なので、ストレートにしないよう、ユーモアも入れたつもりだったのですけど、うまくいかないもんですね。
 教団に恨みを持っている、というよりも、私自身は別に恨みは無いのです。会長しているのは母であり、私が書いたのは、先々代の事だったりしてますしね。でも、天理教世界は理不尽な事であることよ、とは思っておりました。第一、私だったら、辛抱しません。それこそ、ケツまくって、上と喧嘩します。(お下品ですみません。)現状で、被害を被っておられる人が多数いるのは事実ですから、それには今の教団が潰れるのが一番良いのでは、と思ってる次第です。悪いものを良くするのは、なかなか至難の事と思います。前にも書いてますが、一度潰れた方が、再生もしよいのではないかと思うのですが。今の教団が、いい教団に変わって頂けるなら、もちろん邪魔はしませんよ。ここなら、身も心も預けられる、と思う位の教団に変わって頂きたいです。
 

天理教教会本部のチェック機能

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月13日(日)10時39分34秒
返信・引用
  一文字様 早々のレスありがとうございました。街宣車が走り回って、約2ヶ月程で三島神社移転に関わった3人の幹部が本部から罷免されていますが、移転前の三島神社は真柱邸の真向かいにあり、移転工事が始まれば、直ぐに当時の三代真柱様も気づかれ、工事の中止を命令されたはずです。天理教の教団本部の運営は一部の幹部連中によって取り仕切られているような印象さえ受けます。街宣車が走り回り、わずか2ヶ月後に3人の幹部が罷免されたということは、裏返して考えれば、もし、街宣車が走り回らなければ、3人の罷免処分も無く、3人の幹部の方々も「御安泰」だったと考えても不自然ではないと思います。天理教教会本部の内部構造やチェック機能は一体どうなっているのか疑念の念を抱かずにはおられません。天理教教会本部とは利害関係の全く無い第三者のチェック機能を導入する必要があるのではないでしょうか。「覆水盆に返らず」ですので、一旦移転されてしまったものを元に戻すことはできないことは重々、承知しているのですが・・・  

一文字さんとさっちんさんへ

 投稿者:正直しんどい  投稿日:2015年12月13日(日)03時02分58秒
返信・引用
  一連のやりとりを拝見して感じたことがあります。横入りするつもりはなかったのですがやはり気になるので意見を書かせて頂きます。さっちんさんは教団が潰れることをお望みでそうなることで多くの人々が助かる旨を関西弁で茶化したと指摘を受けた件ですがさっちんさんは朝ドラの影響で関西弁なら角がなく言いやすいと一言前置きしての発言だったので指摘する必要はなかったのでは?と思いました。僕が疑問に思ったのはそこではなく教団が潰れてほしいと発言されたことに少し残念に思いました。さっちんさんの今までの投稿で天理教に少なからず恨みを持たれていることを感じますが潰れてほしいと書き込んだのはそこから来ているんではないかと思いますが何をわかりきったことをと思われるかも知れませんが恨みの心を抱かないでほしいんです。もちろん色々あったと思うんですがどんなに酷いことをされようが許すのが天理教だと思うんです。不徳を働いてる方がドン底に落ちて苦しめばいいとかではなく間違ってたなと気づいてくれたらそれでいいじゃないですか。潰れることを願うより本当に人の役に立てる組織の再生を願いましょう。そのための掲示板だと思うんです。ここが講ではなくやはり講はリアル世界で築くものだと思います。
あとマナーやモラルはもちろん必要だと思いますし一文字さんは本当に意義のある場にするため常に正しい発言されていますがブログや掲示板と言ったネット用語などはもし昨日今日インターネット始めた方などは違いがわからなかったりすると思うんですが知識がなかったら発言してはいけなかったりダメかと言われればそうではないと思いますし年配の方もいらっしゃると思います。一文字さんは間違った事は言われてませんし襟を正すことは必要ですがあからさまな荒らしや妨害のような行為でなければある程度は愛嬌として見てはいかがでしょうか?
ふーてんのプータローさんへ
いつも投稿を拝見させて頂いてます。ご想像通りまだまだ若輩者で20代ももうすぐで終わる年齢です。確かに外で働いて初めて違う視点で天理教を見ることで気付くことは多々あります。ずっと教内で過ごして狭い視野で捉われてしまってる人は正直少し苦手ですね。そしてそんな方が理の親になり突如神のような存在になり人々を困惑させてきたのでしょう。大教会長や本部員=偉いという図式を払わなければいけないと思います。皆がペコペコするから偉いと思うんではなくて皆がペコペコするならそれ以上に低い心で通るのが天理教の在り方だと思います。しかし誰も傷つかない優しさに溢れた世の中になればと甘い戯言ですがそんなことをよく考えてしまいます。そんな世の中になるにはやはり優しいこの教えは必要だと思います。
 

Re: 三島神社の移転について 一文字様へ

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月12日(土)20時15分14秒
返信・引用
  >どちらの情報筋からお聞きになられたのでしょうか?差し支えなけれ教えていただけないでしょうか。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/omithisonogoden/omithisonogoden_11sonogo1co.htm

 こちらの2002年のところをご覧になってください。当時、真柱宅の周りをものすごい音で街宣車が走って
いたのを見たこともあります。その時、三島神社がどうのこうのと言ってるのを聞いたこともあります。

取り急ぎ
 

三島神社の移転について 一文字様へ

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月12日(土)16時22分24秒
返信・引用
  >東礼拝場拡張のため移転したと思っていますが、法に則って手続きはしたのかと思っています。
そうしなければ実現もできなかったと思います。 しかし、穏便にことが運んでのではないことは聞いております。<

私としては、どうしても理解しかねます。東礼拝場は三島神社が突然、移転する以前に完成し、使用されていたはずです。東礼拝場の東側に更に礼拝場を増築する計画でもあったのでしょうか?参拝者数が激減しているにもかかわらず、巨額の経費(御供え)を使ってまで、なぜ拡張する必要があったのでしょう?穏便にことが運ばなかったということは常識的に考えても理解できますが、穏便にことが運ばなかったということは、どちらの情報筋からお聞きになられたのでしょうか?差し支えなけれ教えていただけないでしょうか。
 

ハンドルネーム(HN)記入のお願い

 投稿者:管理人  投稿日:2015年12月11日(金)21時01分55秒
返信・引用
  >投稿者名”のところには、名前らしきハンドルネームをちゃんと入れるように
> ルールを作ってはいかがでしょうか?
 投稿者名に「投稿者名さんへ」などの投稿は返信するにも困りますし、
> スレッドが増えてくるとわかりにくく感じます。管理人様、いかがでしょうか?

一文字様のご意見に同意いたします。

皆様、書き込みいただく際にはなるべくハンドルネーム(HN)をご記入いただきましてご投稿くださいますようよろしくお願い致します。
 

若江の家について

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月11日(金)20時44分30秒
返信・引用
  若江の家は、二代真柱中山正善氏が、大阪府豊中市におった大阪高等学校(現大阪大学)に通学し、勉強することがメインの目的で建築されたものあり、元々、東大阪市内に建築されたものでありますが、二代真柱が天理大学の前身である天理外国語学校の創設者であるという理由で、現在地の天理市内に移築されました。建築物としては文化財的価値のあるものですが、いくら一宗教法人の次期代表者の勉強部屋兼宿舎であったにせよ、少し贅沢すぎるのではないでしょうか?建築費用は、信者さん達の「お供え」によって賄われたはずです。一方、三島神社は、天理教の一般信者に対して何の通告や了解もなく、突然、移転されました。一般の信者に知れれば、何か不都合なことがあったとしか思えません。  

天理教の「先生」

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月11日(金)18時57分33秒
返信・引用
  私の妻は、新聞販売店に勤務しております。妻の勤務先で、末端分教会の会長の立場におられる方がおられます。年齢は70歳を少し過ぎておられます。その方は、新聞販売店の新聞代の集金のアルバイトをされています。月収は2万円に満たない程度で、生活の足しになるかならないかの金額らしいのですが、私の妻がその方に、どうして、アルバイトをされるのかお聞きしたところ、「修行」のためにアルバイトをしているという返答が帰ってきたということです。その教会長さんは、天理教の分教会にお生まれになり、一般社会に出ることなく、そのまま、父親の教会長の職を世襲して教会長になられたということです。妻が「修行」とはどういう意味なのかとお聞きしたところ、その教会長さんは、若い頃から信者さん達に、「先生」と呼ばれて久しくなるが、はたして、社会経験の全く無い自分が「先生」と呼ばれるような立場にあるのかという素朴な疑問を抱かれ、ご自身の「修行」として集金のアルバイトをし、少しでも一般社会で働くことの厳しさを知り、信者さん達の日常のご苦労を体験したいとのことでした。世の中には、そうした教会長さんもおられるという事実を紹介させていただきます。  

鏡池にまた行ってみたいものです。

 投稿者:一文字隼人  投稿日:2015年12月11日(金)17時46分10秒
返信・引用
  すみませんさん
>何事も、信じて豊かな人生を送れるのなら信仰は必要でしょうが、どんな宗教でも人間としての
>根本の教えは同じだと思います。


私もそれは感じております。他宗教の人でも分かりあえる部分も多いと思います。

>自分が心穏やかに豊かに人生を送るための信仰であって、宗教のための自分であっては
>ならないと思います。 教会のため、上級のため、大教会のため、本部のため、自分を犠牲にして人生を
>生きておられる人がどれだけおられるか


 教会後継問題で苦しんでいる方がどれだけいるのかと思うと、悲しい気持ちになってきます。本当に道を求め、
人のあるべき道や通り方を、陽気に暮らせていない人々に伝え、陽気世界を作っていこうと本気で思わなければ
後継もするべきではないでしょうし、後継すると腹を据えたなら、現在のような枠組みではなく陽気暮らしの道場と
して運営されることが大事なのかとも思っております。


正直しんどいさん
>先生方から何を言われようとこれからも正直に話し合っていくつもりです。皆の意識を変えれば天理教は
>変わるし世界も変わると冗談ではなく本気でそう思っています。


 おっしゃる通りかと思います。自分が尊敬でき、信頼できる方が身近にいらっしゃるのなら本音で教えを
乞うこともできますが、そうでなければ道を求め自ら勉強するしかないようにも思います。また自ら勉強した
ことで疑問に思ったことなどをこの掲示板で取り上げて話し合うことは意義があると思います。
それが今まではできなかったのですから。

さっちんさん
>決して茶化してではありません。100%ありません。

わかりました。では今後は標準的な言葉でお願いします。私は関西弁ネイティブですが、不愉快に感じましたので。


 三島神社移転や鏡池の話も真相がどうであるのかも、いろいろ調べてみなければわからないことも多いですし、
教祖ゆかりの場所に関しても今では三昧田の誕生殿、櫟本分署跡くらいでしっかり保存されているものも少ない
ように感じます。櫟本分署跡に関しては、既に本部管轄でもなく八島さんの方になっていますが。歴史的価値があり
保存すべきところもたくさんあるのでしょうが、教会本部がそういったものを残そうとしているとは思えません。
むしろ若江の家など二代真柱に関するものが残されていっていることに少し違和感を感じます。

 東礼拝場拡張のため移転したと思っていますが、法に則って手続きはしたのかと思っています。
そうしなければ実現もできなかったと思います。 しかし、穏便にことが運んでのではないことは聞いております。
2002年頃のことだと思います。
鏡池の亀には私もパンをやったり、ベンチでたこ焼きを食べたこともあるので、教祖の身投げしようとした逸話を
思い出しながら、また行ってみたい気もします。


 社会学さんの天理教維持財団の話も現実にあったことまではわかっていることですし、その運営について何か
言ったところで、真相が分かるわけでもないので、また新事実が明るみに出るまでは、これ以上、談じようがないとも
感じています。また先々で明らかになることもあるのかと思っています。

 今、私自身はどうして明治から大正にかけて今のような体制が形成されていったのかが気になっております。
キーワードになる人物の名前があれこれ挙がってはいるので、ネットで調べたり、本を探して読んだりしているところ
です。
 

すみませんさんと正直しんどいさんへ

 投稿者:ふーてんのプータロー  投稿日:2015年12月11日(金)16時23分54秒
返信・引用
  この掲示板と出会い、読ませていただいて、すみませんさんも正直しんどいさんも教会関係の方であり、年齢も比較的お若いと私なりに推測しました。(間違っていればごめんなさい)しかし、あなた方のように、純粋で素朴で真摯なご意見こそ、現在の天理教を正常な状態に戻していく原動力となると私は考えています。これからも忌憚のないご意見をお聞かせください。私も天理教の末端分教会の息子として生を受けたものの、大学卒業後、すぐに社会に出て、教会と直接関わる時間は、ほとんど無かったため、教団組織の矛盾点に気づくまでに、かなりの時間を要しました。しかし、社会に出て働くことは決して、自分にとってはマイナスにはならず、むしろプラスになったと考えています。何度も申しますが、教祖の「ひながた」こそ「陽気暮らし」の手本であり、親神様に対する感謝であり、ご恩に報いるための手本であると考えています。  

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