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【スポーツ】

<首都スポ>デフバレー女子日本代表 狩野監督、亡き友に誓うデフ五輪金

2015年12月18日 紙面から

デフバレーボール女子日本代表の監督を務める狩野美雪さん(中央)=東京都大田区で(七森祐也撮影)

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 4年に一度行われる、聴覚障害者のための総合スポーツ競技大会であるデフリンピック。次回、2017年トルコ大会で金メダル獲得を目指すのが、デフバレーボール女子日本代表だ。世界一という夢を追うチームの指揮を執る監督は、バレーボール元女子日本代表の狩野美雪(38)。現役時代は、攻守両面でチームにとって欠かせぬテクニシャンとして活躍、08年北京五輪にも出場した。指導者になりたい、と望んだスタートではなかったが、運命の糸に引き寄せられ、11年から監督に就任。新たな場所で日の丸をつけ、再び世界へ挑もうとしている。(フリーライター・田中夕子、文中敬称略)

 ボールの音が響くコートで、監督の狩野美雪が手を挙げ、練習を止める。

 「相手は今、チャンスボールしか返せない状況だよ。スパイクは打ってこないよね? それなのに、どうしてブロックに跳んだの?」

 合宿期間はわずかに3日。少しでも実り多いものにしようと、熱心に身ぶり手ぶりで伝える狩野の隣には、手話通訳者が立つ。一字一句逃すまいと、真剣な表情で手話と狩野の唇を見る選手たち。日本代表とはいえ、デフバレーの選手たちの練習環境は決して満足なものではない。特別支援学校にバレーボール部があっても専門の指導者はいないことも当たり前。「教わる」ことに飢えていた。

 監督に就任当初は、必死で「見る」選手たちの姿にただ感動していた、と言う狩野だが、今は違う。

 「最初はどこかで特別扱いをしていたんです。でも一生懸命聞くために、一生懸命見るのは彼女たちにとって当たり前で、こちらが当たり前と思うことが、彼女たちからすれば初めてのことばかり。だから、特別扱いせずに『周りにもわかるようにもっと大きく動かなきゃ』とか、遠慮せず、言うべきことは言えるようになりました」

 デフバレーを知るきっかけは東京学芸大の1つ下の後輩で、中学教諭として働きながら、デフバレー日本代表の指揮を執っていた友人、故今井起之の存在だった。何げない会話のやりとりの中、「明日から入院する」と聞いたのは、狩野が10年に久光製薬を退団し、デンマークリーグでプレーすることを決めた直後。病名が分かった時にはステージ4、胃がんと診断されたことを聞いた。

 11年4月にデンマークから帰国し、病状を気遣い連絡をすると、変わらぬ元気な声で「6月に練習試合があるから、ぜひ見に来てほしい」と誘われ、初めてデフバレーの練習を見た。楽しそうに、一生懸命ボールを追う選手たちと、熱心に指導する今井の姿。それが、コートで彼を見た最期になった。

 13年に開催されるデフ五輪に向けた合宿を控えた11年7月。「自分にも手伝えることがあるなら」と向かったデフバレー女子日本代表の合宿地で、今井の訃報を聞いた。33歳だった。入院したばかりのころ、冗談交じりで「自分に万が一のことがあったら、監督をやってよ」と伝えられていたこともあり、周囲からも監督就任を熱望された。だが同じころ、自身はバレーボール女子日本代表コーチを務める川北元と結婚。夫を支え、家庭を守ることを最優先に考えれば、監督という重責を担えるはずがない。当初は固辞したが、ふと、別の思いもよぎった。

 「最期の時間をすごく近くで過ごしたことも含めて、これも何かのご縁なのかな、と。自信なんて少しもなかったですけど、亡くなった友達の思いもある。私がやるしかないよな、と思って引き受けました」

 準備期間はわずか1年足らずだったが、13年デフ五輪ソフィア大会(ブルガリア)では2位となり、4大会連続となるメダルを獲得した。最低限の約束は果たした、と安堵(あんど)した後、17年トルコ大会まではチームの指揮を執る覚悟を決めた。

 月に一度、関東や関西で行われる合宿には、大学時代のバレーボール部の後輩や、Vリーグ時代の仲間など、豪華な面々が臨時コーチとして集まってくれる。デフバレーの選手からすれば、テレビで見ていた憧れの存在。そんな選手たちが臨時コーチとして指導にあたる際、狩野が最も重視するのは実際のプレーを「見せること」だと言う。

 たとえばゲーム形式の練習時、ボールばかりを追って、前のめりになってしまうリベロの選手を一度コート外に出し、同じポジションに臨時コーチを入れる。Vリーグでプレー経験のある選手がゲーム時にはどの位置で守り、どんな動きをしているか。言葉で説明するのではなく、見せて伝える。狩野の指導法は選手にとっても、ただ貴重な機会になるだけでなく、意識の変化にもつながっているとチームの主将を務める宇賀耶早紀(25)=国学院栃木高卒=は言う。

 「いろいろな人のプレーを見て、狩野監督から最後まであきらめずにボールを追う大切さを学んだので、2年後のデフリンピックでは絶対に優勝したいです」

 亡き友の思いを受け継ぎ、2年後のデフ五輪で、頂点に立つ。きっとその時、天国から「よくやった」と褒めてくれる声が聞こえることだろう。

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 首都圏のアスリートを全力で応援する「首都スポ」面がトーチュウに誕生。連日、最終面で展開中

 

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