徐京植さんと高文研のご厚意により、「植民地主義の暴力」(徐京植著、高文研、2010年)に所蔵された論考「和解という名の暴力」を公開する許可をいただきました。誠にありがとうございます。
和解という名の暴力──朴裕河『和解のために』批判
他人の歯や眼を傷つけながら、報復に反対し、寛容を主張する、そういう人間には絶対に近づくな。──魯迅「死」
「国民主義」とは何か
本稿では、いわゆる「先進国」のマジョリティが広く共有する「国民主義」が、いわば「国境を越えた共犯関係」を形成することによって、旧植民地宗主国の「植民地支配責任」を問題にしようとする全世界的な潮流に対する抵抗線を形成しているという状況について述べる。また、そのような抵抗が「和解」という美名を用いて行なわれている様相、すなわち「和解という名の暴力」を批判する。
「国民主義」とは何か? 私は以前、日本のマジョリティの内面に深く浸透した「国民主義」について、おおむね以下のように論じたことがある。【註1】
「国民主義」とは、「国家主義」と区別して暫定的に用いる用語である。両者はいずれも英語に訳せばナショナリズムとなるが、いまから問題にしようとする「国民主義」は、いわゆる先進国(旧植民地宗主国)のマジョリティが無自覚のうちにもつ「自国民中心主義」を指す。「国民主義」は多くの場合、一般的な排他的ナショナリズムとは異なるように見え、当事者も自分自身をナショナリストとは考えていない。それどころか「国民主義者」は自分をナショナリズムに反対する普遍主義者であると主張することが多い。彼らは自らを市民権の主体であると考えている。
しかし、その一方で彼らは自らが享受している諸権利が、本来なら万人に保証される基本権であるにもかかわらず、近代国民国家においては、「国民」であることを条件に保証される一種の特権となっているという現実をなかなか認めようとしない。国民主義者は自らの特権には無自覚であり、その特権の歴史的由来には目をふさごうとする傾向をもつ。したがって国民主義者は「外国人」の無権利状態や自国による植民地支配の歴史的責任という問題については鈍感であるか、意図的に冷淡である。この点で、「国民主義」は、一定の条件のもとで排他的な「国家主義」とも共犯関係をむすぶことになる。
このような「国民主義」的心性は、近代国家の国民であれば多かれ少なかれ共有しているだろうが、日本の場合は、旧植民地宗主国であり、かつ第二次世界大戦の敗戦国でありながら、ドイツの場合とは異なり、植民地支配や侵略戦争の歴史的責任を取ろうとしないまま現在に至ったという特徴がある。
また、一九九五年に「戦後五〇年決議」に反対する右派勢力が台頭して以降の日本国家の歩みは歴史的な「反動」と呼ぶべきものであり、二〇〇六年に誕生した安倍晋三内閣は「極右政権」と規定するのがふさわしいが、このような現状は保守派や右派のみによってもたらされたというより、むしろ日本国民多数の「国民主義」的な心性が保守派・右派を大きく利したと見ることができる。
こうした日本の現状は東アジアのみならず世界平和にとっての危険要因である。そして、その危険に対抗するために必要な諸民族間の連帯やマジョリティとマイノリティとの連帯を阻む障碍もまたこの「国民主義」なのである。
植民地責任論
日本国民の多くは、第二次世界大戦における敗戦を、中国をはじめとする被侵略諸民族に対する敗北としてでなく、強大な軍事力を持つ米国に対する敗北として意識している。彼らは「アメリカに敗北した」と思っているのであり、「中国をはじめとする被侵略民族の頑強な抵抗に敗北した」という認識はきわめて希薄である。したがって、戦後日本における「戦争責任」論議は、自国の行なった戦争は不当かつ違法な侵略戦争であったという認識と反省を深めることができず、むしろ戦争中に繰り広げられた個々の行為の違法性や責任の有無という範囲に(それすらも不十分にであるが)局限されてきた。
このような傾向は、「戦争責任」論から植民地支配責任という視点が欠落している点によく現われている。たとえばフランスにおける脱植民地化がアルジェリアやベトナムでの被植民地人民の解放闘争に対する敗北の結果であったのとは異なり、日本における脱植民地化は連合国に対する軍事的敗北の結果として他律的に行なわれたため、民族解放闘争に敗北した結果であるという認識が欠如しているのである。
「慰安婦問題」を、法が禁じている戦時の犯罪行為に違反しているかどうかという狭義の「戦争責任」論の枠内でのみ論じていては真の解決は望めない。なぜなら、「慰安婦」制度は植民地支配と深く結びついた性奴隷制度であり、その真相解明には植民地支配そのものの責任を問う視点が不可欠であるからだ。しかし、日本では、一切の責任を否認する右派や極右派は別としても、国民の多数が、可能な限りこうした問題を戦時の犯罪行為という狭い枠内に閉じ込めておこうとする傾向を見せている。それは、意識的にであれ無意識的にであれ、前記した「国民主義」に根ざした、植民地支配責任を回避しようとする欲求の現われであるといえよう。
たとえば「慰安婦」問題について、日本国民の多くが、「無理やり縄で縛って引っ張っていったかどうか」という瑣末な事実関係に関心を集中させ、そのことを完璧に立証できない事例に対しては疑いの目を向ける傾向をもつのも、戦争そのもの、植民地支配そのものへの批判的、反省的認識が欠如しているからだ。こうした傾向は、右派や極右派による否定論ないし歴史修正主義にとって有利な心理的土壌を提供している。
慰安婦問題や強制動員・強制労働など、国家や企業が行なった個々の行為の土台に植民地支配が存在し、それ自体が違法であるとする主張は今日まで、「植民地支配が開始された当時の法はそれを禁じていなかった」等の理由でまともに採り上げられてこなかった。しかし、そうした「当時の法」そのものが、実は当時国際社会を形成していた帝国主義諸国が被支配民族の主権をあらかじめ否定した上で定められたものであり、植民地支配を受けた側はそうしたルール決定の過程そのものから排除されていたのである。
世界的に見ても、かつて植民地支配を受けた地域の人々からの謝罪や補償を要求する声は、長年にわたり黙殺されてきた。これは全世界的に帝国主義支配がまだ終わっていないことを意味する。
植民地支配責任の否定という防御線は、いわゆる先進国(旧植民地宗主国)が国際的に連係して張っている共同の防御線であるといえる。逆にいえば、日本に朝鮮植民地支配の清算を要求することは、帝国主義支配と植民地支配の清算を求める全世界的な潮流に合致する普遍的な意義をもつのである。私はこうした主張をすでに一二年前に、あるシンポジウムで行なったことがある。【註2】
しかし、その当時、こうした主張が広く理解されたとか、支持されたとは言えない。日本国民多数の認識は、「慰安婦」制度など個々の国家犯罪の反人権性や非人道性は否定しないものの、戦争そのものや植民地支配そのものを根本的に否定するという水準には達していなかった。そして、そのことは、今日も大きな変化がない。むしろこの間、露骨な国家主義的主張が拡散すると同時に、そうした右派的国家主義とは一線を画すリベラルな多数派の間にも、「日本だけではない」とか「いつの時代にもあること」といったシニカルな相対主義、あるいは弱肉強食を当然視する新自由主義的イデオロギーが蔓延したことによって、日本国民の認識水準はさらに低下している。
とはいえ、学会や市民運動の一角に、ささやかではあれ、全世界的な潮流を視野に入れながら日本の「植民地支配責任」を批判的に問題にしようとする動きも芽生えている。板垣竜太「植民地支配責任を定立するために」【註3】は、そのような問題意識を鮮明にした論文であった。板垣の主張は、慰安婦問題や強制連行問題などについて、たんに戦争における国家間の賠償問題に解消することなく、植民地支配による被害を取り上げて国家(ならびに企業)の法的責任を明らかにするとともに、被害者個人の救済のために補償を実現しようとするものである。
また、二〇〇九年三月には南部アフリカ史研究者である永原陽子らの研究グループによる成果として『「植民地責任」論─脱植民地化の比較史』(青木書店、二〇〇九年)が刊行された。同書は、二〇〇一年八月から九月にかけて南アフリカのダーバンで開かれた国連主催の「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(ダーバン会議)の発した宣言が、「植民地主義の責任追及を回避することで成り立ってきた」第二次世界大戦後の世界秩序を破る意義を有するものである(永原)との認識を出発点に置き、七人の著者たちがさまざまな角度から「植民地責任」という概念の定立のため考察を展開している。
だが、これらの動きが広く日本国民に共有されるかどうかについては、悲観的にならざるを得ない。
「道義的責任」というレトリック
前に述べたような、「植民地支配責任の回避」という先進国共通の防御線を守るために頻繁に使用されたレトリックが「道義的責任」である。
日本政府が「植民地支配」の事実をしぶしぶ認めたのは敗戦から五〇年を経た一九九五年のことである。当時の連立政権で首相を務めた社会党出身の村山富市が記者会見で、「過去の戦争や植民地支配は『国策を誤った』ものであり、日本がアジアの人々に苦痛を与えたことは『疑うことのできない歴史的事実』」であると述べたのである。
この談話は植民地支配の事実すら認めようとしなかった従来の政府の立場から見れば一歩前進と言うこともできよう。しかし、談話発表時の記者会見で村山首相は、天皇の戦争責任があると思うかという質問に対して「それは、ない」と一言で否定した。また、いわゆる韓国「併合」条約は「道義的には不当であった」と認めつつ、法的に不当であったということは認めず従来の日本政府の見解を固守したのである。この線、すなわち「象徴天皇制」と呼ばれる戦後天皇制を守護し、植民地支配の「法的責任」を否定すること、相互に深く関連するこの二つの砦を死守するための防御線を当時の日本政府は引いたのだといえる。
これが、それ以来、日本政府が頑強に維持している防御線であり、いわゆる「慰安婦」問題においても国家補償をあくまで回避して「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)による「お見舞い金」支出という不透明なやり方に固執した理由でもある。国民が支出する「お見舞い金」は「道義的責任」の範囲と解釈されるが、政府が公式に補償金を支出すればそれは「法的責任」を認めることにつながるからである。ここで「道義的」という語は、法的責任を否認するためのレトリックとして機能している。
私たちはやがて、このようなレトリックに、別の文脈で遭遇することになる。
先に述べた二〇〇一年のダーバン会議において、初めて、奴隷制度と奴隷貿易に対する補償要求がカリブ海諸国とアフリカ諸国から提起された。しかし、欧米諸国はこれに激しく反発し、かろうじて「道義的責任」は認めたが、「法的責任」は断固として認めなかったのである。その結果、ダーバン会議の宣言には奴隷制度と奴隷貿易が「人道に対する罪」であることは明記されたが、これに対する「補償の義務」は盛り込まれなかった。欧米諸国が法的責任を否認する論拠は、「法律なければ犯罪なし」とする罪刑法定主義の原則であり、奴隷制は現代の尺度から見れば「人道に対する罪」に該当するかもしれないが、当時は合法だった、という論法である。
ここに、どこまでも植民地支配責任を回避しようとし、そして、それができない場合でも、「法的責任」を否定して「道義的責任」の水準に止めようという、先進国(旧植民地宗主国)の共同防御線がはっきりと見て取れるのである。
もちろん、このようなレトリックは「道義」という言葉の本来の意味を否定する、意図的な誤用でしかない。「法」が未整備であった状況での犯罪、あるいは「法」の主体となることを歴史的に否定されてきた人々に対する犯罪、これら現存する「法」の範囲を超える犯罪の責任を問い、補償を行なっていくためにこそ、「法」の上位概念としての「道義」が問題となるのである。そして、場合によっては、このような「道義」の認識にもとづいて新たな立法が行なわれ、「道義的責任論」が新たな「法的責任」を生み出すことにつながる。
永原陽子は先の書物の序文で、一九九三年パン・アフリカ会議の「アブジャ宣言」から、「重要なのは経済的発展を奴隷労働や植民地主義に負い、先祖がアフリカ人の売買や所有、植民地化に参加していた国々の責任であり、その罪ではない」という一節を紹介しながら、「『罪』として成立していようといまいと(つまり該当する『法』があろうとなかろうと─徐)、問われるべき『責任』はあり、償われるべき人々はいるというその主張は、本書のいう『植民地責任』の考え方である」と述べている。
いうならば旧植民地宗主国とその国民の多数派は「道義的」という言葉を責任回避のレトリックとして用い、旧被支配諸民族はあらたな法的責任の源泉として用いようとしているのである。ここに「道義」という概念の定義をめぐる反植民地闘争が繰り広げられているともいえる。
「記憶のエスカレーション」
私はかつて日本人マジョリティの国民主義的心性の重要な特徴である「先の世代が犯した罪の責任を後の世代である自分たちに問われることへの反発」という心理について述べたことがある。【註4】
何か迷惑をかけたことがあったとしても、それはすべて過ぎた昔のことであり、先の世代が行なったことである。自分たちにその責任の帳尻をまわされるのは迷惑だ。アジアの被害民族がそれを執拗に問題にするのは過去に執着する民族性、豊かな日本人へのひがみ、あるいはナショナリズムにもとづく対抗意識などのせいだ。──このような言説に傾く心性を、必ずしも若者に限らず、日本国民の多くが共有している。
実はこうした現象も、日本人に限ったことではなく、むしろ九〇年代以降の文脈の中で世界的な広がりを持っている。
フランスで奴隷制の補償問題に取り組む弁護士ロザ=アメリア・プリュメル(RosaAmelia Plumelle "Lescrimescontrel' human it È etledevoirder È peration")によると、ダーバン会議における鋭い告発はいわゆる先進国の「良心的な人々」をおおいに狼狽させ、それ以来、被害者による補償要求に対する否定的な言説が多く流布するようになった。たとえば二〇〇二年三月にジュネーヴで行なわれた「補償問題─和解あるいは政治闘争?」と題された学術シンポジウムの序文は次のように「憂慮」を表明している。
「今日われわれは記憶のエスカレーション surenchÈ redelamÈ moire を招来する過去の読み直しに直面している。過去の世代が犯した『犯罪』(しかも本質的に今日の考え方や感受性にもとづいて『犯罪』といわれる行為)が、いまの世代が負うべき歴史的負債として、さかんに掘り返されている」これに対して、プリュメルは次のように主張している。【註5】
「記憶のエスカレーションを招来する過去の読み直し」とは侮蔑的な呼び方である。これまで歴史を叙述してきたのはヨーロッパの専門家だけであり、非ヨーロッパ世界を蹂躙した自分たちの破壊政策をどのように解釈し評価するかを決定できるのも彼らだけだった。アメリカ大陸でのジェノサイドの末裔であるアフロ=アメリカンの尊厳は、白人支配の下で法的・制度的にだけでなく、歴史教育においても否認され続けてきたのだ。ここで問われているのは過去の世代が犯した空想の罪などではなく、かつての奴隷貿易国家、奴隷制国家、そして植民地国家が総力を挙げて制度化し、何世紀にもわたって遂行したジェノサイドである。奴隷貿易国家や奴隷制国家が犠牲者たちに負っている負債。これは『過去の世代が犯した』行為のせいで『現在の世代』に押し付けられる『歴史的負債』ではない。これは『いくつかの世代』による行為ではなく、『いくつもの国家』による行為だった。奴隷貿易国家は何百万人もの非ヨーロッパ人男女や子どもの組織的な隷属化と大量殺戮を通じて莫大な富を蓄積し、経済的軍事的強国にのし上がった。この災厄は当該地域の持続的な貧困化と破壊をもたらしてきた。したがって、これらの地域住民とその出身者に対する補償義務に応じることは、かつての奴隷貿易国家が担うべき最低限の責任である。
二〇〇一年のダーバン会議は、ナチズムによるジェノサイドを経験して「人道に対する罪」という概念を生み出した欧米諸国が、同じ基準を自らが行なった奴隷貿易、奴隷制、植民地支配に当てはめる可能性を初めて公的に論じた場所だった。しかし、イスラエルと米国は退席し、欧米諸国はすでに述べたように「道義的責任」という防御線に立てこもった。
この会議の閉会から三日後、いわゆる「9・11」事件が起きた。それはまるで、ダーバン会議を見て、植民地支配責任と補償の問題を平和的な対話を通じて解決してゆく可能性に絶望した者による、欧米諸国への応答のようにも見える出来事だった。
しかし、その後の世界では、和解を妨げているのは責任を回避しようとする加害者の側ではなく、むしろ被害者の側であるかのような本末倒した言説が拡散した。「和解」というレトリックを用いて被害者側に既成事実への屈服を強いる圧力が強まり、これを批判したり、これに抵抗する者たちには「原理主義者」「倫理主義者」「過激派」「ナショナリスト」「テロリスト」といったレッテルが貼り付けられるのが常である。
九〇年代の前半、それまで口を閉ざされていた植民地支配の被害者証人たちが次々と現われ、それに呼応して日本国内にも戦争責任を問う人々の運動が起こってきたとき、私はそれを「証言の時代」と呼んだ。それは日本社会において、国民の多数が加害の歴史と向き合い、被害者たちとの対話を通じて過去を克服していく好機であるはずだった。もちろん右派からの強硬な巻き返しはあったものの、それとの闘いを通じて被害者たちと真に和解する未来へと進んで行くことのできる好機を日本国民は迎えたのである。しかし、実際には、社会全般の右傾化とともに、歴史問題においても実際に教科書の慰安婦関連記述が激減するなど、九〇年代半ば以降、日本社会は反動の時代に突入した。そのような状況のなかで、日本植民地支配の被害者たちは右派や歴史修正主義からの暴力だけでなく、中間派マジョリティからの「和解という名の暴力」にまでさらされている。
和解のために?
ここに述べた「和解という名の暴力」の代表的事例を、朴裕河著『和解のために』(平凡社、二〇〇六年【註6】)が日本で異常なほど歓迎された現象に見ることができる。この本は、韓国ではあまり注目されたとは言えないが、日本ではリベラル派と目される朝日新聞社が主催する大佛次郎論壇賞(二〇〇七年)を受賞し、大きな注目を浴びた。著者の朴裕河はマスメディアに数多く登場して自説を説く機会を与えられた。
この本は教科書、慰安婦、靖国、独島(竹島)という四つの論点をめぐる日韓間の認識のズレと対立を扱っているが、その内容そのものは、用語の誤用、事実の誤認、先行研究や関連文献の恣意的引用などが多く、高く評価できるものではない。この点には本稿では深く立ち入る紙幅はないが、金富子「『慰安婦』問題と脱植民地主義─歴史修正主義的な『和解』への抵抗」【註7】が、広範な論点にわたって徹底的な批判を加えている事実を紹介しておこう。ただ、一方は発行部数が数百万部に達する朝日新聞に繰り返し紹介され、それに対する金富子の批判は事実上一般人の目には触れない小さな媒体にしか掲載されないという、圧倒的な非対称的関係があることは指摘しておかなければならない。
朴裕河の著書は、みずからを日本をよく知る者であると規定した上で、「韓国」が日本をよく知らず、日本に対して根拠のない「不信」を抱いていることが、両国の間での度重なる「不和」の原因であると断言する。そして、そのような日本に対する無知と不信の原因がナショナリズムにあるとした上で、被害者側が加害者側を赦すことで「和解」を実現するよう呼びかける。
以下にそのレトリックの代表的なものを紹介しよう。朴裕河よりの引用は《》で示す。
①《これまで韓国では、どのような問題であれ常に「反省なき日本」と考えられがちだった。その理由の一つは、日本の右派の発言と行動の背景に日本の戦後教育と教科書に対する不満があったという事実についての理解が欠如していた点にある。(中略)しかし、新しい日本を築こうとした人々、いわゆる「良心的知識人」と市民を生んだのもまた、ほかでもない戦後日本ではなかったか。そうである限り、そして彼らが少なからぬ影響力をもつ知識人であり、また市民の多数を占めていることが明らかである以上は、日本が戦後目指してきた「新しい」日本は、ある程度達成されたとみるべきであろう。そのような意味では、韓国における「反省なき日本」という大前提は再考されるべきである。》(二四頁)
前記引用文の第一行目は文法的にみても正確ではないが、それはさておき、このような乱暴な断定口調に朴裕河のレトリックの特徴がある。《どのような問題であれ常に》などというのはほんとうだろうか? そんなことがありうるだろうか? 静かな心でこの一文を読んだとき、これは事実ではないばかりでなく不誠実な断定だと言うほかないであろう。
《日本の右派の発言と行動の背景に日本の戦後教育と教科書に対する不満があったという事実についての理解が欠如していた》というレトリックは「理解」という語の用法が微妙である。かくかくの《事実》について多くの韓国人が「無知」であると言えば、それははっきりと事実に反する。
日本の右派が戦後民主主義教育を標的としてきたことは韓国においても、とくに朴裕河が批判の対象としているような民主化運動や市民運動に携わる人々の間では常識以前の問題であるからだ。だから朴裕河はここでは「無知」といわず、「理解の欠如」というのだろう。しかし、「理解」していないのは誰だろうか?
朴裕河は同書の別の箇所で、《戦後日本の歩みを考慮するなら、小泉首相が過去の植民地化と戦争について「懺悔」し「謝罪」する気持ちをもっていること自体は、信頼してもよいだろう。その上で「あのような戦争を二度と起こしてはならない」と言明しているのだから、戦争を「美化」していることにもならないはずである》などとも述べている。小泉首相を「信頼」するのはご自由だが、保守与党と政府が一体となって戦後憲法の再軍備放棄・戦争放棄条項や政教分離原則を意図的かつ計画的に空洞化させてきたという《戦後日本の歩み》を理解してさえいれば、こんな「信頼」はできないというのが常識というものであろう。
はっきり言うなら、朴裕河こそが日本右派の《発言と行動の背景》について誤った理解をしているのだ。朴裕河が批判する挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)など韓国の市民運動圏の人々は、朴裕河とは違う仕方で(私の考えでは朴裕河よりも正確に)日本右派の言動の背景を理解しているのであって、それが理解できないから《反省なき日本》を批判してきたのではない。その危険性を理解しているからこそ批判しているのである。
引用部分①の後段についても同じことが言える。戦後日本が「良心的知識人」と「市民」を生んだといえるか? その良心的知識人が少なからぬ影響力をもっているといえるか? そんな良心的な人々が市民の多数を占めていると明らかにいえるのか?(ではなぜ在日朝鮮人への差別や「北朝鮮バッシング」にブレーキがかからないのか?)「新しい日本」はある程度達成されたなどといえるのか?
(ではなぜ天皇制は維持強化されているのか?)──ここに列挙された問題は、私自身は朴裕河の見解に反対だがそれはともかくとしても、それぞれに日本社会においても決着のついていない論点である。
しかし、大事なことは朴裕河がこうした問題を分析検証するためにではなく(分析検証すればいくらでも反論がありうるであろう)、「韓国」の「日本」に対する「無理解」を言い立てる材料として列挙しているという点である。自分こそが「日本」を正しく理解しており、「韓国」はそれを理解していない、という粗雑な論法には呆れるほかない。
②《これまでの韓国の批判には、日本の戦後に対する理解が決定的に欠如していた。それゆえ日本の左派が「新しい」日本に変えるために努力を重ねてきた事実も、きちんと理解されたことはなかった。右派の抱く『無念さ』、つまり被害者意識が、はたしてどこに起因するのかについて真摯な関心をもつこともなかった。いわば左派の努力にも右派の被害者意識にも、きちんと向きあうことはなかったのである。そして、そのように、相手に対する理解がともなわなかった韓国と中国の非難は、右派の反発をいっそう強める役割を果たしただけである。》(二二〇頁)
《韓国の批判》とは、これまた粗雑な言い方である。この「韓国」とは誰のことなのか? 政府か? 国民の多数か? 知識人のことか? 民主化運動や市民運動のことなのか? ここで著者が描いてみせる「韓国」像は、李文烈、趙廷来など大衆文学作家の言説、朝鮮日報や中央日報など保守派メディアの論説にはじまり、盧武弦政権から挺対協などの市民運動体にいたるまで、相互に対立さえしている多種多様な政治的主張や社会的立場の相違を無視して包括した乱雑な呼称である。朴裕河はそのように包括した「韓国」像を、植民地支配のトラウマのため日本への無理解と不信に凝り固まったものとして描き出す。その上で、そんな「韓国」と「民主的で多様性に富む市民社会の存在する日本」という対立図式をつくりあげるのである。
しかし、言うまでもなく、韓国内部に排他的国家主義者も存在すると同時に、(朴裕河は意図的に無視しているが)国家主義をきびしく批判し、開かれた社会の形成を目指して闘う諸個人や諸団体も数多く存在している。また、日本はといえば、植民地支配責任の認識と克服という点に限っていっても、市民社会が健全な機能を果たしてきたとはとてもいえない。
日本と韓国という二つの社会を構成する諸要素から、相対立する諸要素のみを取り出して強調し、それを包括的に「日本」「韓国」と名づけているのである。このような図式は恣意的なものでしかない。たとえば朴裕河は国民基金を中心的に担った和田春樹氏を日本の「良心的知識人」の代表に挙げ、国民基金に反対した挺対協などを「無理解な韓国」の代表に挙げる。だが、日本国内に国民基金を批判している人々は広範に存在するし、この人々は韓国の市民運動とも連帯を保っている。
この日本人たちは(朴裕河よりも)日本に対して「無理解」だからそうしているのだろうか? それとも、この人々はもはや「日本人ではない、非国民だ」とでも言うのだろうか? 朴裕河が引いて見せた線は、「韓国」と「日本」の間に引かれているのではなく、実際には継続する植民地主義の克服を志向するか否かをめぐって引かれているのである。
ここに見られるように『和解のために』(日本語版)の記述の主語はほとんどの場合、「韓国」である。原著では「우리(私たち)」である。本来、「우리」と「韓国」は等式では結べないはずだが、日本をよく知り日本語にも堪能であることを自任する著者であるから、この訳語は熟慮の上で用いられているのであろう。しかし、ここにも朴裕河流レトリックの秘密が潜んでいる。
朴裕河がこの「우리(私たち)」という語に自分自身を含めているのかどうかは曖昧である。ある時には自己批判のようでもあり、別の時には韓国内のある勢力や潮流への批判のようでもある。
「韓国」の誰に対する批判であるのか、その対象を厳密に特定し、具体的な論拠を挙げて批判すべきである。
この「우리(私たち)=韓国」という用語の効果によって、少なからぬ日本の読者は「韓国」について抱いている誤ったステレオタイプをさらに強化されると同時に、それを「韓国」の中から出た誠実な自己批判であるかのように受け取るのである。「韓国はこうである」と断言してくれる「韓国人」ほど、日本人マジョリティにとってわかりやすいことはないのだ。しかし、その「わかりやすさ」は誤解のたすけにはなっても、真の理解の妨げでしかない。
③《ふたたび「植民地支配責任という概念」(板垣竜太)の定立が必要だとする日本知識人の主張は、倫理的には正しい。しかし、それ(朝鮮「併合」)が「法」的に正しかったとすれば、依然として韓国側にそれを要求する権利のないことは明らかである。だとすれば、一九〇五年の条約【註8】が「不法」だとする主張(李泰鎮ほか)には、自国が過去に行ってしまったことに対する「責任」意識が欠如しているように、韓日協定の不誠実さを取り上げて再度協定の締結や賠償を要求することは、一方的であり、みずからに対して無責任なことになるだろう。日本の知識人がみずからに対して問うてきた程度の自己批判と責任意識をいまだかつて韓国はもったことがなかった。》(二二六頁)
すでに述べたように、植民地支配責任という概念は日本の知識人がまず主張したのではない。それは多くの被害者たちや在日朝鮮人などの長年にわたる要求と闘争の結果、ようやく最近になって浮上してきたのである。しかも、そうした認識をもつ者は日本社会全体から見ればまだ微々たる少数派にすぎない。
この概念に、朴裕河自身は、「倫理的に正しい」と留保しながらも、根本的には反対しているようだ。まさしく、「道義的責任」を認めると言いながら「法的責任」は頑強に否定し続ける先進諸国のレトリックと同一である。朴裕河によれば、当時の法に照らして「正しい」とされた条約は、たとえそれが不平等条約であっても反対すべきではないらしい。現在の大韓民国国民が、かつての大韓帝国が強制された条約を否定したり修正を要求したりすることは「責任意識の欠如」だと言うのである。
一九六五年の日韓条約は日本が植民地支配責任を認めなかったため、在日朝鮮人の日本居住権の歴史的正当性をも無視することになり在日朝鮮人への差別状況を固定化した。また、同条約は韓国政府を「朝鮮半島における唯一の合法政府」とみなし朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を敵視する中で結ばれた。在日朝鮮人の中でも「韓国籍」の者にだけ「協定永住権」を与え、「朝鮮籍」の者は不安定な在留権のままにするなど民族の分断を固定化するものだった。朴正煕軍事政権が国内での反対運動を弾圧しながら結んだこの条約は、冷戦体制下で強要された不平等条約であるともいえよう。それの見直しを求めることは、朴裕河によれば、無責任なことだというのである。それでは日米安保条約に反対する日本人は無責任だということになるのか?
朴裕河にとって責任ある知識人とは、たとえそれがどんなに反人権的かつ非人道的なものであろうと、国家がいったん締結した条約には最後まで黙々と従う人のことらしい。これほど国家権力を喜ばせ、植民地支配者やその後継者たちに歓迎されるレトリックもないであろう。
先の引用文中末尾の一文は、韓国版の原書にはなく日本版にのみ付け加えられたものだ。どうして著者は、このような一文を加えたのだろうか? 著者は「日本語版あとがき」で、《日本語版を出すにあたって、日本への批判を少し加筆した。その理由は、この本をその場に必要な本にしたかったからである》と書いている。しかし、問題の一文を《日本への批判》と読むことができるだろうか? 《その場に必要な本にしたかった》というのが著者の本音なら、ある層の日本の読者に迎合することが著者のいう《必要》なのだろうか?
端的に言って、この一文は事実に反する。韓国において、朴裕河がさかんに指摘するような問題がまったくないわけではないが、痛切な自己批判と責任意識をもって植民地支配と闘い、軍事政権と闘って来た人々が存在することは、これもあらためて言うまでもないことだ。その一方、日本では、もちろん少数の例外【註9】はあるが、知識人たちは多くの場合、植民地支配責任を痛切に自己批判することができず、自国の犯した犯罪に対して骨身にしみる責任感を示してきたとはいえない。
この引用部分③では歴史学者の李泰鎮の学説が、それ自身の妥当性を議論するためにではなく、ナショナリズムに凝り固まっている「韓国」という恣意的な像をつくるために利用されているにすぎない。別の場所では大衆文学作家の言説が、また別の場所では挺対協など市民運動団体の主張が、断片化されたまま利用される。しかし、李泰鎮の学説は学問的に誠実な考証を経たものであり、真剣な検討と議論の対象ではあっても、決して「無責任なもの」ではない。【註10】
もう一度、この文章をじっと眺めてみよう。
《日本の知識人がみずからに対して問うてきた程度の自己批判と責任意識をいまだかつて韓国はもったことがなかった。》
どうしてこんなに乱暴な断言ができるのだろう? 読者はここに誠実な自己批判を読みとるのだろうか? 私はここに、不誠実さしか読みとることができない。
ここでの「韓国」を「中国」なり「フランス」なり任意の他の国名と入れ替えて眺めてみれば、これがどんなにあやしげな論法であるかは明らかであろう。ある国なり民族なりのステレオタイプをつくっておいて、その一部分をあげつらって全体を包括的に否定するやり方は典型的な否定論のレトリックであり、「ブランケット・ディナイアル(全体に毛布を被せておいて否定する)」と通称される。そんな言辞を他国人が吐けば明らかに差別に該当するが、しかし、その国の人間の口から出れば当事者の「自己批判」であるかのように見えるのである。
朴裕河がこんな断言をあえてすることができる足場は、韓国内に対しては「自分は長い留学経験をもつ知日人士だ」という自任であり、日本に対しては「自分は韓国人だ」という表象でしかない。
そのため韓国内では一部の読者が「それほど日本を知る人の言うことなら」と幻惑され、日本の読者は「韓国人自身が言うことだから」と幻惑されるのだ。「우리(私たち)=韓国」という主語にはそういう効果が潜んでいるのである。
さらに問題なのは、朴裕河が和解の主体と想定する「우리(私たち)」から、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と在日朝鮮人がみごとに脱落していることである。植民地支配がすべての朝鮮人を対象に行使されたものである以上、この両者への謝罪と補償ぬきに日本と朝鮮民族の真の和解はあり得ない。日本の植民地支配責任の清算は北朝鮮、在日朝鮮人その他の在外朝鮮人を含むすべての被害者を対象に行なわれなければならないことは理の当然であろう。
ところが、日本は現在も北朝鮮とは国交すら結んでいない。また、日本政府は在日朝鮮人に対する植民地支配の加害責任を認めたことはないし、もちろん謝罪や補償など問題にされたこともないのである。韓国ナショナリズムの批判者を自任する朴裕河は、「우리(私たち)」を「韓国」と訳して怪しまない意識にあらわれているとおり、韓国という国家やその政府に朝鮮民族全体を代表させることに問題を感じていないようだ。
④《もとよりいまの日本を批判する人々は、日本の謝罪と正しい行動がなされないための不信というだろう。しかし、たとえ日本が国家補償を行い、天皇がやってきて韓国の国立墓地にひざまずくとしても、いまのような対日認識が続く限り、それを、諸外国に披露するためのパフォーマンスに過ぎないとする人は必ず出てくるはずである。不信が消えない限り、どういう形であれ謝罪は受け入れられないのである。
ならば和解成立の鍵は、結局のところ被害者側にあるのではないか。ある意味では、加害者が赦しを乞うたかどうかは、もはや問題ではないとさえいえる。そして不十分な点はありながらも、大枠においては、日本は韓国が謝罪を受け入れるに値する努力をしたのだと、私は考えている。》(「日本語版あとがき」二三八頁)
これにはまったく説得力がない。かりに日本政府が九〇年代に被害者に対する国家補償に積極的に乗り出していたなら、《対日認識》もそれに応じて変化していたはずである。
ここでは原因と結果とが意図的に転倒されている。かりに「韓国」の日本に対する「不信」が著者が強調するほど深刻であるとしても、それは原因ではなく結果である。不信があるために謝罪を受け入れないのではなく、まともな謝罪が行なわれないために不信が増幅されてきたのだ。
そのような「不信」に根拠があることは、二〇〇七年に起こった一連の事態によってふたたび証明された。この年一月、「慰安婦」問題について日本政府に「明確かつ曖昧さのない形」での責任の承認と謝罪を求める決議案がアメリカ下院外交委員会に提出されると、日本右派は危機感を感じて反発を強めた。慰安婦制度への国家関与を認めた一九九三年の河野官房長官談話の見直しをかねてから公言してきた安倍晋三首相はこの時慰安婦制度の「強制性」を否定する発言を繰り返したが、結局、的外れにもブッシュ米大統領に「謝罪」するという醜態を演じた。日本の右派人士や国会議員たちはアメリカの新聞に大々的な意見広告を出し、日本政府は決議案の議決を妨害するためのロビー活動を繰り広げたのである。これら一連の動きが「不信」をさらに強化することになったことは想像にかたくない。【註11】
このように、現在までの歴史をあるがままにみた時、日本国家と国民多数が植民地支配を真に反省したとは到底いえないし、韓国からみて《謝罪を受け入れるに値する努力をした》というのは事実に反する。
私はかつて、日本において戦争責任および植民地支配責任問題がほとんど解決していないのは、「『他者』に対する『日本人としての責任』を自覚的に担おうとする人々と、『他者』を黙殺して自己愛に終始しようとする人々との対立のせいであり、日本では前者が極端に少数かつ脆弱であり、後者が依然として社会の中枢を占め続けているという単純な事実」のせいであると論じた。【註12】
それがすでに一三年前のことだが、今日なお問題はほとんど解決していない。この私の指摘を引いて歴史学者の吉澤文寿は、「我々日本人は積極的であれ、消極的であれ、このような政治状況を作り出してきたのである。これこそが日本国民の政治的な植民地責任であると認めなければならないだろう」と論じている。これが客観的かつ妥当な現実理解というものであろう。【註13】
天皇訪韓問題に関して言えば、もし、ほんとうに《天皇がやってきて韓国の国立墓地にひざまずく》という事態が実現したとすれば(私はその実現性は低いと見ているが)、《対日認識》にかなりの変化をもたらすだろうと思う。ありていに言うと、「天皇が謝る」というパフォーマンスは、現実にはかなり多数の韓国国民の人心を「慰撫」し「収攬」するに効果的であろうと予測する。しかし、植民地主義の克服という課題に照らして考えると、それは許してはならないことだ。
韓国政府が天皇を招請することにも、天皇が訪韓することにも、私は反対である。また、韓国にかぎらず一般的にいって、どの国の場合でも、外国元首が国立墓地に参拝するといったセレモニーによって人心の収攬をはかることは国家主義の強化にほかならない。
かつての植民地支配は日本の天皇制という制度によって行なわれたのであり、朝鮮総督は天皇に「直隷」していた。朝鮮植民地支配の最高責任者は天皇であった。朝鮮植民地支配を根本的に克服するということは、天皇制そのものを克服することと同義である。にも関わらず日本敗戦後、天皇の「威光」を利用して戦後日本を間接支配しようとする連合国の意向もあって天皇制は生き延びた。
戦後天皇制は植民地支配との絶縁の上に成立しているのではなく、戦前の天皇制の延長として存在するのである。一九三〇年代後半に朝鮮総督府は、朝鮮人への徴兵制実施と天皇の朝鮮行幸実現を目標に「皇民化政策」を推進した。しかし、ついに天皇行幸は実現できなかったのである。それは植民地支配への朝鮮人民の抵抗がそれだけ粘り強いものであったことの証左であろう。
私は現行憲法の第一条(象徴天皇制)に反対である。日本国民自身が自らの手で天皇制を廃止すべきであり、それが、侵略戦争に終始した日本の近代と決別し日本人自身を解放するためにも必要なプロセスだと考えるからだ。しかし、そのことを措いて現行憲法に照らして見た場合でも、これは天皇の政治的利用の最悪のケースといえるだろう。現行憲法上でも天皇は元首ではない。日本国家と国民を代表し得ないはずの存在なのである。国家としての謝罪の意は国会決議を経て、内閣総理大臣によって公式に表明されるべきものだ。
日本の天皇を「和解と平和の使徒」に仕立て上げて植民地支配の責任を曖昧にし、旧植民地人民を「慰撫」する役割を演じさせることは、過去の克服ではなく、克服されるべき過去をまたしても延命させることでしかない。そのことを韓国政府が推進しようとするのは天皇を利用して自らの威信を高め国民統合をはかるためである。日本と韓国いずれの国民も、そんなことに手を貸してはならない。
⑤《いわば「被害者」としてのナショナリズムの呪縛から解き放たれるためにこそ自己批判は必要なのではないか?「赦し」は、被害者自身のために必要なのだ。怨恨と憤怒から自由になって、傷を受ける前の平和な状態にもどるために。》(二四〇頁)
朴裕河はいかなる資格において、被害者たちに加害者を赦せと説くのだろうか? もと慰安婦のハルモニ、強制連行された労働者、日帝による弾圧被害者、その他の被害者たちが日本の植民地支配責任を明らかにすることを求めているのである。それらを代表する権利は、韓国という国家にもない。韓国という国家がそれらの要求を代弁する役割を付与されるのは、そうした被害者と、その意を汲んだ国民の要求に応えるためであり、その限りにおいてである。国家自身のために、ましてや時の政権の利害のためにこの問題を横領することは許されない。
朴裕河という人物が、あたかも被害者代表のように「韓国」という主語を用いて寛容と和解を説くのは、どんな理由によるのか?「同じ韓国人だから」という理由は、答えにならない。「同じ韓国人」の中にも、さまざまなグラデーションで被害者性と加害者性が複合的に混在しているからだ。
日本軍慰安婦制度に末端で加担した「朝鮮人業者」にはもちろん応分の加害性と責任がある。同じように韓国軍事政権時代の光州における一般人虐殺などについても、当時の与党政治家、高級官僚、軍人など支配層には加害責任があるだろう。朴裕河という個人は、「우리(私たち)=韓国」という主語を曖昧なままに使用するのではなく、自分自身にはどのような意味で被害者性があるといえるのか、どのような意味で被害者を代弁できるのかをきびしく自問しなければなるまい。
ここでこれ以上詳しく触れることは紙幅が許さないが、朴裕河はその著作において「植民地近代化論」への親和感を隠そうとしていない。もちろん、軍事政権時代にもそうであったように植民地時代にも、それなりに「いい目」を見た特権層は存在した。そういう人々の視点から見ればあの時代もそれほど悪くはなかったのであろう。だが、そういう人々には、「慰安婦」被害者であれ、強制連行・強制労働被害者であれ、政治弾圧被害者であれ、筆舌に尽くせぬ苦痛と屈辱を経験した被害者たちを代弁することはできまい。まして、《「赦し」は、被害者自身のために必要》などと高説を説く資格はあるまい。「同じ韓国人だから」という理由だけで、それをあえてするのだとしたら、それこそ被害経験の横領というべきであろう。
被害者は《ナショナリズム》に呪縛されているのではない。実際に被害に苦しみ、その責任を明らかにして補償することを求めているのだ。かりに百歩譲って、《ナショナリズムの呪縛》なるものが作用していると仮定した場合でも、その《呪縛》の原因は加害者側にあり、《呪縛》を解くためには加害者側からの行動が不可欠であることは当然である。
あらゆる意味で、被害者が《傷を受ける前の平和な状態》に戻ることはもはや不可能である。取り返しのつかない加害を今後二度と繰り返さないためにこそ、真相の究明、責任の承認、謝罪、補償が必要なのだ。それが行なわれた後になってようやく、《赦し》のための条件が生まれるのである。加害者からのそうした行動がない限り、どうして被害者が《怨恨と憤怒》から解放されることができるだろうか。
「和解という名の暴力」──その流通と消費
ハーバード大学教授の入江昭は二〇〇七年大佛次郎論壇賞の選考委員として、朴裕河の著書を「歴史文献や世論調査などを綿密に調べた上で、説得力のある議論を展開している」と評価し、同じく選考委員で朝日新聞論説委員の若宮啓文は著者の「実証的に事実に向き合う知力と根気」を賞賛している。いずれも不思議なほど的外れな評だというほかない。【註14】
朴裕河は『和解のために』の「日本語版あとがき」で、同書の刊行に努力してくれたとして和田春樹に、また、日本語訳をよんで貴重な助言をしてくれたとして、上野千鶴子、成田龍一、高崎宗司に謝辞を述べている。朴裕河が本文中で賞賛する《日本の良心的知識人》の代表的人物ということになろう。私はこの人々を含む日本の知識人たちに、繰り返しになるがもう一度、次の一文を静かに読んでもらいたい。
《日本の知識人がみずからに対して問うてきた程度の自己批判と責任意識をいまだかつて韓国はもったことがなかった。》
その上で、日本の《良心的知識人》たちに問いたい。
「あなた方は、ほんとうにそう思っているのですか?」
私自身は、かつては必ずしもそうではなかったが、今では多くの日本の知識人たちが本音ではこう思っているのだと考えるようになった。かつての私はナイーヴすぎたようだ。
なぜ、こういうことが起こるのだろうか? その理由を推測するに、朴裕河の言説が日本のリベラル派の秘められた欲求にぴたりと合致するからであろう。
彼らは右派の露骨な国家主義には反対であり、自らを非合理的で狂信的な右派からは区別される理性的な民主主義者であると自任している。しかし、それと同時に、北海道、沖縄、台湾、朝鮮、そして満州国と植民地支配を拡大することによって近代史の全過程を通じて獲得された日本国民の国民的特権を脅かされることに不安を感じているのである。
植民地支配による資源の略取や労働力の搾取を通じて蓄積された巨大な富が日本国民の経済生活や文化生活を潤してきた。日本敗戦(朝鮮解放)後、在日朝鮮人の日本国籍を一方的に奪したことだけをみても、植民地支配によって蓄積した富を日本国民が排他的に占有してきたことは明らかだ。まして、被害者側からの補償要求にも誠実に応えてこなかったのである。
しかし、右派と一線を画す日本リベラル派の多数は理性的な民主主義者を自任する名誉感情と旧宗主国国民としての国民的特権のどちらも手放したくないのだ。その両方を確保する道、それは被害者側がすすんで和解を申し出てくれることである。
『和解のために』に上野千鶴子が「あえて火中の栗を拾う」という熱のこもった推薦文を寄せているが、そこに次のようなくだりがある。
《日本の読者に求められる態度は、著者の自国批判に、乗じてはならないという節度であろう。日本語版を刊行するにあたって、著者は日本批判を増やしたという。外国人の書き手が、とりわけ日本の元植民地だった地域の国籍を持つ書き手が、日本の読者に耳あたりのよい情報ばかりを供給することで一定の市場を獲得することがあるが、そのマーケッティング戦略の逆を朴さんは行ったわけだ。韓国の中では自国に批判的にふるまい、日本では日本の読者に耳の痛いことを言う……それは知性というものが、何より批判的知性というものであるからだ。その批判的な知性が自らの属する社会に向けた苦言を、あたかも自分たちへの援護射撃であるかのごとく「領有」してはならない。》
《市場》云々という記述は確かにそのとおりである。しかし、《マーケッティング戦略》という上野の言葉を借りれば、ひとひねり加えた朴裕河の《戦略》に上野自身が乗せられているか、あるいは意図的に《戦略》を共有しているか、そのどちらかであろう。
実際のところ朴裕河の日本批判は、小泉首相談話の解釈について上野自身も《あまりに「善意」に過ぎる》と言及せざるを得なかったように、おおいに甘い。それは日本の読者を居心地悪くさせるような鋭さをまったく欠いている(しかし、起きている事態そのものは居心地悪くて当然なのだ)。
朴裕河の日本批判はほとんど右派の排外的国家主義者や国粋主義者に向けられた批判(それも甘いのだが)であり、その一方でリベラル派の日本知識人については最大限の理解と共感を表明している。したがって、右派とは一線を画すリベラル派にとっては《耳の痛いこと》どころか、むしろ《耳あたり》がよいのである。朴裕河のすべてのレトリックは究極的には、日韓間の不和の原因は(「日本」にではなく)「韓国」の不信にあるという彼女一流のニセ「和解論」へと収斂する。これが日本の国民主義者にとって《耳の痛いこと》であるはずがないであろう。
すでに述べたように朴裕河の《自国批判》は不誠実な断定に終始しているが、それこそが、リベラル派の消費者にとって市場価値があるのだ。どのような価値か?《節度》ある《良心的知識人》と認められたいという欲望ゆえに抑圧してきた隠された本音を、著者が《自国批判》であるかのようなレトリックを駆使して代弁してくれるという価値である。上野は《著者の自国批判に乗じてはならない》と言っているが、同じ文章の中で《「慰安婦」問題に関わる韓国内の女性団体への(朴裕河の─徐)批判は、日本の運動体がもっとも言いにくかった批判のひとつである》と書いている。
これが朴裕河流「和解論」の日本における消費の一類型である。こうすれば《節度》と本音の両方を手に入れられるのだ。
つまり、《自国批判》の形式を備えていることは、上野が言うように《マーケット戦略の逆》ではなく、この戦略こそ、この《市場》における市場価値の源泉なのである。その上、この言説は「ナショナリズム批判」と「家父長制批判」という形式(あくまで「形式」である)まで備えているのだ。自分たちの本音を代弁してくれている人物は「韓国人」であり「女性」であるという二重の護符に守られているのである。リベラルを自任する消費者にとって、これほど口に合う商品もないであろう。
たとえて言えば、『スカートの風』(角川文庫)の著者である呉善花が「サンケイ新聞」の読者層である右派の需要を満たしてきたとすれば、朴裕河は「朝日新聞」の読者であるようなリベラル派の需要を満たしてくれる存在であるといえよう。前者は国家主義に、後者は国民主義に対応しているのである。
朴裕河現象は一九九〇年代以降における日本リベラル勢力の思想的頽落現象が、被害者側(と自称する人物)の口を借りてまで自己を承認しようとする、そして、しばしばそうした承認を被害者側に要求しさえする水準にまで至ったことを示している。
いうまでもないことだが、真の和解とは、真実を明らかにし、責任の所在を問い、責任者の謝罪を経て、初めて達成されるものだ。しかし、日本においては、九〇年代中盤の「証言の時代」以降、このような真の和解を求める運動が起こったものの、その声は少数派のまま封印されてしまった。
真の和解を通じて「新しい日本」へと変化する好機を失ったばかりか、そのような変化の中核となるべきリベラル派の知識層が、一五年あまり経った現在、このような無惨ともいうべき姿をみせているのである。
歴史問題を契機に中国や韓国で反日運動が高揚するたびに、日本のメディアが好んで流す言説は、「反日運動の原因は(日本にではなく)相手国のナショナリズムにある」というものだ。その反日「ナショナリズム」の由来を歴史的な原因にまでさかのぼって考察しようとする議論は乏しい。後進的で非文明的な「ナショナリズム」という正体不明の怪物を想定し、自国と被害民族との不和や対立の原因をこの怪物に負わせようとするのである。彼らはみずからはナショナリストではないと堅く信じているので、自分のうちに根深く浸透している国民主義を自己批判することはない。むしろ、彼らは被害者の側に、みずからの「道義的」な正当性を承認するように要求しさえするのである。
このような心性はある意味で、先に述べた欧米における「記憶のエスカレーション」論に通じるものであり、先進国マジョリティに共通のものだ。朴裕河のように「あいだに立つ」身振りで、ニセの「和解」を説く旧植民地出身の知識人たちは、先進国マジョリティの需要に応えて、今後も世界各地に現われるであろう。「グローバル化」によって、旧宗主国と旧植民地地域との境界をまたぐ言説の市場が生み出され、リベラル派国民主義の需要に応える「和解論」が流通し消費されているのである。それはつまり、植民地主義の克服という世界史的潮流に対する反動の一現象であるともいえる。
「和解という名の暴力」は、和解達成を阻む主たる障害が被害者側の要求であるかのように主張し、和解という美名のもとに被害者に対して妥協や屈服を要求する。しかし、それは結局、真実を隠蔽することで責任の所在をあいまいにする結果を招き、長期的に見れば、むしろ問題の解決を遠のかせることになる。「和解という名の暴力」に反対する理由は、それが真の和解への障碍だからである。
日本の植民地支配を受けた朝鮮民族に課されている人類史的使命は、全世界的に繰り広げられている植民地主義との闘争の前線に自分たちが立っていることを自覚し、被支配諸民族と連帯しながら、ニセの「和解」を拒否して真の和解のために闘うことだ。日本人にとっても、このような闘争に連帯して真の和解を実現する方向にのみ安定的で平和な未来があることは明らかである。
ここに述べた私の見解が日本社会においては不人気であろうことを私は承知している。読者のなかには「この筆者はほとほと悔い改めない反日ナショナリストだ」というわかりやすい結論を下して満足する人も少なくないだろう。私としては、それこそが朴裕河流のレトリックの罠にとらわれた見方であると、あらかじめ指摘しておくほかない。
一枚の絵から何が読み取れるか
本稿をほとんど脱稿した後になって、雑誌『インパクション』二〇〇九年一〇月号に掲載された朴裕河のエッセー「『あいだに立つ』とは、どういうことか」を目にした。「『慰安婦』問題をめぐる九〇年代の思想と運動を問い直す」という副題のついたこの文章は、この間、朴裕河に寄せられた批判に対する反論を主な内容としている。私自身は、この文章を読んだ後でも、ここに書いた自らの見解に修正すべき点があるとは考えなかった。というより、朴裕河「和解論」のもつ問題点がよりいっそうあらわになったと考える。
紙幅に限りがあるので、どうしても気にかかる二、三の点についてのみ、できるだけ簡潔に言及しておきたい。
まず、私自身にかかわることから。私は韓国の日刊紙『ハンギョレ』にコラムを連載しているが、その欄(二〇〇八年九月七日執筆)において、朴裕河『和解のために』に批判的に言及した。短いコラムであるが、その趣旨は本稿とほぼ同じである。朴裕河はこれを取り上げ、かなり長く引用した上で、次のように批判している。
《問題は、このような認識自体もさることながら、「日本のマジョリティ」批判が、韓国のリベラル新聞に大きく載り韓国のリベラル市民が日本に対するさらなる不信に陥ることを促すということである。「文脈」のことがまったく考慮されていないこのような文章は、たとえ徐氏にその意図がないとしても韓国のナショナリズムをあおるほかない。》
この批判はむしろ朴裕河自身に跳ね返ってくるものであろう。「文脈」を考慮しない彼女の「韓国」批判が日本のリベラル新聞に大きく掲載されることが、どんな効果を生んでいるのかは本稿ですでに述べたとおりである。このようなことを書く以上、おそらく彼女自身は自分の言説が日本社会に及ぼす効果を熟知しているのだろう。
《韓国のリベラル市民が日本に対するさらなる不信に陥る》と朴裕河はいうが、私は彼女とは異なり、「韓国のリベラル市民」が日本に対して抱く「不信」にはそれ相当の理由があり、その「不信」を解く第一義的な責任は日本側にあると思っている。また「韓国のリベラル市民」の多くが、日本に対するこのような「不信」にもかかわらず、日本のリベラル派に対してはむしろ過大な評価や誤った期待を抱いていると考えている。
朴裕河が引用している私の文章の末尾は以下のとおりである。(引用文は韓国語から再度日本語訳したものなので表現に不自然な部分がある。ここでは私のもとの原稿〈日本語〉から当該部分を原文で示しておく。)
「『和解という暴力』には、徹底的に抵抗しなければならない。ただし、その場合、私たちが立脚すべき地点は韓国という一国へと閉ざされた国家主義的ナショナリズムではなく、全世界の被害者たちとの連帯へと開かれた反植民地主義という原点である。」
この引用を受けて朴裕河は以下のように述べる。
《目指されるべきは単なる「全世界の被害者たちとの連帯でもって開かれた反植民地主義という原点」に安住することなく、常に「共感的不安定」の場所を選ぶような緊張を保つことであるはずだ。》
「共感的不安定」とは、朴裕河が自己の立論を補強するためドミニク・ラカプラの著作から引いてきた用語だが、ここでは簡単に「対象に共感しつつも安易に同一化しない精神状態」とでも解しておく。さて、ここでいう《安住》とは、どういう含意であろうか?
韓国であれ、他のどこであれ、「開かれた反植民地主義という原点」を理解せず、それを歪曲して利用する人や勢力は存在するであろう。しかし、ここで朴裕河が批判しているのは誰のことなのか? 「韓国」か? すでに繰り返し指摘したように、「韓国」という包括的な記述は大いに問題である。「韓国」の中にも記号化されたスローガンとしての「反植民地主義」に《安住》している勢力と、《安住》を拒否して植民地主義と闘っている勢力が存在する。私の立場は前者を批判し、後者と連帯しようとするものだ。
「開かれた反植民地主義という原点」という言葉が私の文章からの引用である以上、朴裕河の《安住》という批判は私に向けられているとも解しうる。だが、私の言わんとする「開かれた反植民地主義という原点」は《安住》できるような安全で安定的な拠点ではない。それどころか絶えず包囲され、切り崩され、孤立を強いられ、長い闘争の結果ようやく二〇〇一年「ダーバン会議」の地点にまでたどり着いたのに、その後はまた世界的な反動に脅かされている地点である。
それは、一例をあげれば、右傾化の一途をたどる日本社会の中で「北朝鮮バッシング」の嵐にさらされている在日朝鮮人の立場である。学校の校門前で右翼たちがあげる「日本から出て行け!」という罵声を浴びねばならず、日本マジョリティ大半の冷たい無関心に耐えなければならない学生たちが立たされている、その地点のことである。そのような継続する植民地主義の脅威にさらされている人々が全世界に偏在している。《安住》だって? 朴裕河には、一度でもそのような立場への「共感的不安定」を実践してみるようお勧めしておく。
次に、朴裕河はこのエッセーの註で、(『和解のために』が)「リベラルを自称する日本の知識人たちに迎合的なことを書くことによって潮流をつくりだそうとした」のではないか等と早尾貴紀が推測している点について、次のように記述している。
《なによりも二〇〇五年の時点においての日韓関係が、「和解」どころか独島(竹島)問題などで最悪な状況へ走る一方だった「事実」を無視しての暴言といわざるをえない。当時「和解論を待望している日本の知識人」がいたと考えること自体が、根拠のない「憶測」の始まりなのである。》
早尾の推測の当否は別として、この一文が正直に書かれたものだとしたら、「韓国」の「日本」への無理解を非難してやまない彼女自身が、いかに「理解」していないかがわかる。植民地主義の克服という問題は日韓両国間の関係だけに限定されないが、かりに日韓関係に限定してみた場合でも、一九六五年の日韓条約以来今日まで、絶えず対立と緊張が内包された関係であるだけに「和解論」への待望も絶えず存在してきた。緊張がなければ「和解論」も不要なのである。日韓関係の対立相があらわになり、緊張が高まれば高まるほど、そのような「待望」もまた強まる。これは日韓関係だけに限らぬ、一種の一般法則のようなものだが、どうやら朴裕河には、このことがわからないらしい。
最後にもう一点、かなり気の重いことを言わねばならない。朴裕河は今回のエッセーの冒頭に、一枚の絵をかかげている。それは日本軍捕虜としてタイの捕虜収容所で強制労働を経験した元オランダ兵が自身の記憶にもとづいて描いたものだという。朴裕河の説明によると、裸にさせられたオランダ兵が川岸で朝鮮人軍属とおぼしい人物から、性的虐待と拷問を受けている場面であり、そこには川の中に裸で立つ二人の「Japanese Nurses(日本人看護婦)」がオランダ兵に向かって卑猥で挑発的なポーズをとっている様子が描かれている。
朴裕河は断定を避けながらも、その「日本人看護婦」が「慰安婦」であることを強くほのめかした上で、《ここでの女性たちを「慰安婦」とみなしていいなら、わたしたちは彼女たちについてどのように考えるべきだろうか。しかし、どのような解釈をするにしてもそれがすでに定着している「慰安婦」像を大きくはみ出るものになることは確かである。その確認は、慰安婦=被害者の認識を根底からゆらがせる》と述べている。
さて、どうであろうか? 私自身はまず、このようなデリケートな素材を、こうした「ほのめかし」に用いる朴裕河の手つきに強い違和感を覚えた。扱われ方によっては被害者に対する二次、三次的な加害を招きかねないことを危惧する。その女性たちを《「慰安婦」とみなしていいなら》というが、《みなしていい》かどうかは、それほど軽い問題ではないだろう。当事者本人が二次被害をも覚悟しながらカムアウトするのと、他人が憶測を交えて公開するのとはわけが違う。少なくとも、ここに描かれた「慰安婦」かもしれない女性への「共感的不安定」が機能していれば、別の扱い方があったはずだと思う。そのことを押さえた上で、私の感想を述べる。
私自身は、ここに描かれた「日本人看護婦」が「慰安婦」であると断定することは今はできないと思う。タイの捕虜収容所にも慰安所が設置されていたのかどうか、また、この絵を用いて朴裕河が推測しているような出来事が実際にあったのかどうか、研究者の検証を待たなければならない。
だが、かりにそうであったとしても、私には驚きはない。そういうこともあるだろうな、あって当然だな、と思う。私の中の《「慰安婦」像を大きくはみ出るもの》ではない。「慰安婦」にせよ「軍属」にせよ、道徳的に完全な存在ではない。それは、いまさら言うまでもないことだ。民族差別、性差別、階級差別が幾重にも折り重なる差別構造の最底辺に若い年齢で投げ込まれ、その上、「鬼畜米英」をスローガンとする皇国思想を叩き込まれた彼女たちが、その過程で人間のもつ悪しき側面の多くを引き出されることになったとしても、それは不思議のないことだ。不思議がないというのは、それが「悪」ではないと言っているのではない。「悪」には違いないが、彼女たちをそうさせた構造的な「悪」と同一の次元で比較できるものではないと言いたいのである。
この絵を見せられ、朴裕河の説明を読んだあとでも、私の心に最初に迫ってくるのは、拷問の被害者であるオランダ兵への同情とともに、人間をこのようなところにまで突き落とす植民地主義・帝国主義への悲憤である。したがって、少なくとも私に関する限り、「慰安婦=被害者」という認識は根底からゆらぐどころか、むしろより確固としたものになる。
私はアウシュヴィッツ収容所の生き残りであるプリーモ・レーヴィを想起した。彼の最晩年のエッセー集『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞社)の中に「灰色の領域」という一篇がある。それは自分たち生き残り(ナチズムの被害者)のなかにも純粋な被害者とは言い切れない「灰色の領域」があるという、きびしい自己省察である。レーヴィは「自分たち生き残りはほんとうの意味での証人ではない」とまで言う。ほんとうの証人に値する人々はみな死んでしまった、自分たちは誰か他の人の場所を奪って生き残ったのだ、と。
そこでは同じ囚人への暴力や盗みなど、被害者たちの人間性の否定的な側面がいやというほどさらけ出されたに違いないのである。とくに、ナチ収容所で大量殺戮の下働きというダーティーワークをさせられ、その代償としてわずか数週間の延命という「特権」(なんという特権!)を得た「特別部隊」に向けるレーヴィの眼差しはきわめて複雑である。被害者の中に浸透した加害性という問題を、究極の条件において考察した論考である。
私がこの話を持ち出すのは、しかし、レーヴィのメッセージを誤読する人々のように、被害者にも加害性があるのだから加害者をきびしく追及する資格はないとか、結局のところ誰が加害者で誰が被害者かを決めることはできないなどと言いたいからではない。レーヴィ自身、ナチが特別部隊のユダヤ人に大量殺戮の手伝いをさせたことは、被害者から、「自分は無実だという自覚」すら奪いとる「最も悪魔的な犯罪」だったと述べている。レーヴィはさらに、囚人の中の(ナチ当局への)「協力者」の行動に「性急に道徳的判断を下すのは軽率である。明らかに、最大の罪は体制に、全体主義国家の構造自体にある」と強調している。彼はナチ収容所体制というシステムによって人間性の破壊を経験させられた囚人のひとりとして、人間性の再建可能性について苦悩に満ちた考察を私たちに残したのである。それは、そのシステムを作り上げ、運用した加害当事者を赦すためではない。
もちろん、ナチの収容所システムと、日本軍国主義の慰安婦制度とは共通点もあれば相違点もある。しかし、ここで見失ってはならないことは、被害者の中に加害性が浸透していたとして、そのことによって、そのシステムを作り上げ、運用したものの加害責任を相対化してはならないということだ。むしろ、そのシステムの非人間性と残酷さの真実を明らかにし、より深く理解するためにこそ、こうした考察が必要なのである。
朴裕河とレーヴィの大いに異なる点は、レーヴィは自分自身が被害者でありながら、その自分の内部を切り開いて、そこに浸透した微細な加害性までも抉り出していることだ。それに対して、朴裕河は自分自身ではなく、「慰安婦」という他者の加害性を暴いてみせているのである。それがあたかも「自己批判」のように見えるのは、先に述べた「韓国=私たち」という用語のトリックにすぎない。
朴裕河がここで示した資料は、今後、研究者たちによって慎重に検討されるだろう。そして、場合によっては、非常に意味深い考察の機会を私たちに与えるかもしれない。しかし、その考察の引き出すであろう結論は、日本軍慰安婦制度の残酷さと責任の重大さであって、「和解という名の暴力」を補強するものではないはずだ。
【註】
〈1〉徐京植「日本国民主義の昨日と今日」二〇〇六年一一月一日、韓国全南大学における相互哲学国際学会での発表(日本語未訳)。
〈2〉徐京植「民族差別と『健全なナショナリズム』の危険」(『ナショナリズムと「慰安婦」問題』〈青木書店、一九九八年〉、のちに徐京植『半難民の位置から』〈影書房、二〇〇二年〉)。
〈3〉中野敏男ほか『継続する植民地主義』〈青弓社、二〇〇五年〉。
〈4〉前出「日本国民主義の昨日と今日」
〈5〉ロザ=アメリア・プリュメル「白人どもの野蛮─人道に対する罪と補償の義務」(季刊『前夜』二〇〇六年冬号)。なお同論文の訳者・菊池恵介氏の解題に多くを教えられた。記して感謝しま
す。
〈6〉朴裕河は一九五七年、ソウル生まれ。現在、韓国・世宗大学校日本文学科教授。高校卒業後来日。慶應義塾大学文学部国文科を卒業後、早稲田大学文学研究科に進み、日本文学専攻博士課程修了。原書は박유하 화해를 위해서 – 교과서/위안부/야수쿠니/ 독도뿌리와 이파리 2005
〈7〉『インパクション』一五八号(二〇〇七年七月)。のちに金富子・中野敏男編『歴史と責任─慰安婦問題と一九九〇年代』(青弓社、二〇〇八年)。
〈8〉第二次日韓協約(韓国では「乙巳条約」)、日露戦争中に強要されたこの条約によって韓国は外交権を奪われ日本の「保護国」とされた。
〈9〉ここでは「少数の例外」の一例として、山田昭次『植民地支配・戦争・戦後の責任』(創史社、二〇〇五年)を挙げておく。
〈10〉李泰鎮・笹川紀勝編著『国際共同研究韓国併合と現代』(明石書店、二〇〇八年)ほか。
〈11〉このような日本政府の動きにも関わらず、二〇〇七年七月、決議案は米下院本会議で採択され、これと同様の対日「慰安婦」謝罪要求決議はオランダ、カナダ、欧州会議本会議でも採択されるにいたった。
〈12〉徐京植「『日本人としての責任』をめぐって」『半難民の位置から』(影書房、二〇〇二年)所収。
〈13〉「日本の戦争責任論における植民地責任─朝鮮を事例として」『「植民地責任」論─脱植民地化の比較史』(青木書店、二〇〇九年)所収。
〈14〉この本に批判的に言及した日本人の論考は筆者の知る限り、きわめて乏しい。中野敏男「日本軍『慰安婦』問題と歴史への責任」、同「戦後責任と日本人の『主体』」(いずれも前掲『歴史と責任』所収)と早尾貴紀「『和解』論批判─イラン・パペ『橋渡しのナラティヴ』から学ぶ」(『戦争責任研究』二〇〇八年秋号)、おなじく早尾による書評(『軍縮地球市民』二〇〇八年冬号)くらいである。前出の金富子のほか、尹健次と宋連玉も朴裕河を批判しているが、この三人は在日朝鮮人である。(尹健次「むすびにかえて」『思想体験の交錯─日本・韓国・在日一九四五年以後』〈岩波書店、二〇〇八年〉、宋連玉「植民地女性と脱帝国のフェミニズム」前掲『歴史と責任』所収、のちに宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めて』〈有志舎、二〇〇九年〉)