撮影/山田秀隆
平成の幕開けとともに、シンガーソングライターとしてヒットチャートに登場した高野寛さん。ポップなメロディーとさわやかな歌声が一世を風靡(ふうび)した。テレビなどでも活躍しながら、しかし、ブレイクした自分に違和感を感じていたという。そんな「あのころ」の思い、戸惑いを語る。(文 中津海麻子)
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――音楽に触れた原体験、少年時代の音楽とのかかわりは?
親が音楽好きで、物心ついたころにはレコードプレーヤーとカセットレコーダーが家にありました。カセットはまだ珍しい時代で、ずいぶん早かったと思います。幼稚園の時オルガン教室に一年間だけ通いましたが、音楽にはそれ以上触れず、転校が多かったせいもあって引っ込み思案で、プラモデルを作ったり絵を描いたりするほうが好きな子どもでした。
中学のとき、兄がフォークギターを買ってきました。触らせてもらうと「あれ、できそうだな」と。手先は器用だったんです。友だちの家の物置きで眠っていたギターを譲り受け、弾き始めました。それだけでは物足りず、自分で作ったピックアップ(マイク)をつけて、アコースティックギターをエレキギターに改造したりもしましたね。FMで洋楽を聴いたりはしていましたが、そんなに弾くことが好きというわけでもなく、どちらかというとモノとしてのギターに関心がありました。
そんな僕の目の前に衝撃的に登場したのが、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)です。メカ好きの自分にとって夢のような「コンピューターを使った未来の音楽」だと思いました。同い年のテイ・トウワくんが似たような経験をしたようですが、僕はすでにギターを始めていたので、シンセサイザーのカタログを見ながらギターやベースを弾いていました。
高校に入ると友だちとバンドを結成。YMOのような音楽をやってみたいという気持ちはあったけれど、高校生にはシンセを揃えるのも難しく、ハードロックやフュージョンみたいなことをやっていました。でも、家ではカセットを使って一人で曲を作ったり、YMOの曲をアコースティックギターでコピーしてみたり。バンドとソロ、ライブとレコーディングが、自分の中ではどこか別ものとして存在していました。
その後、シンセの値段はグンと安くなり、高校生でも一式そろえられるようになります。もし僕が3年遅く生まれていたら、シンセで「宅録」ばかりする少年になっていたでしょう。結果としては、早く生まれてきてよかったのかな。シンセにハマっていたら歌おうとは思わなかったかもしれないし、バンドをやったおかげでライブの楽しさを知ることができたのです。
――高校卒業後は、大阪芸術大学に進学されます。
大阪芸大には音響を学ぶコースがあり、勉強してシンセのデザイナーになれたら、と。相変わらず楽器が好きで、裏方志向が強かったんです。とはいえ、バンドを組んでいろんな音楽をやりながら、一人で曲を作ることも続けていました。ソロの曲でコンテストに応募もしたのですが、いつも「録音のクオリティーやアレンジはいいのに、歌が下手」で落とされちゃう(笑)。半ばあきらめかけていたとき、YMOの高橋幸宏さんとザ・ムーンライダーズの鈴木慶一さんが主催する「究極のバンドコンテスト」を雑誌で知りました。これでダメなら終わりにしようと応募したところ、最終選考まで残り、なんと幸宏さんとムーンライダーズのメンバーの前でライブをすることに。あれが、これまでの人生で一番緊張したライブかもしれません(笑)。結果、ベストパフォーマンス賞を受賞して、そこから僕の人生は思いもよらない方向に向かい始めました。
幸宏さん、ムーンライダーズという、まさに自分の血肉になっている音楽をやっている人たちに認められて、天にも昇るような気持ちだった。でも、今思うと、あのとき選ばれたのは必然だったようにも思います。逆に言えば、あそこでしか認められなかった。ほかでは落ちまくっていたわけですから。YMOやムーンライダーズが作った流れは、日本の音楽の中ですごく重要な場所に位置するものだったけれど、決してメインストリームにおもねる流れじゃなかった。常にカウンターだったんです。僕の音楽の中にそんな遺伝子を感じてくれたからこそ見い出してもらえた――。今になってそんな気がしています。
結局、「究極のバンド」企画は実現しなかった。どうしようかと迷っていたとき、幸宏さんが「声に特徴があるから、自分で歌ってみたら」とアドバイスしてくれました。それまで日本語の曲はちゃんと書いたことがなかったのですが、そこから2年間、ひたすら作り続けました。そして1988年、幸宏さんのプロデュースでファーストアルバム「hullo hulloa」をリリースし、メジャーデビューしたのです。
――2年後の90年、シングル「虹の都へ」が大ヒットします。
スキー用品のCMソングのオファーで作った曲です。紫外線をカットするスキーウェアなので「太陽」という言葉を入れて、というオーダーでした。サビの15秒分だけ作ったら、メロディーがいいので1曲にしてみよう、と。そんなノリだったので、名曲を作ろうとか、ヒットを飛ばしてやろうとか、そういう気負いはまったくなかった。ところが、リリース前に当時若者に人気のあったバラエティー番組「ねるとん紅鯨団」の時間帯に半年ほど流れたところ、問い合わせが殺到。想定をはるかに超えるヒットとなりました。
――この「虹の都へ」は、アメリカのミュージシャン、トッド・ラングレンさんがプロデュースを手掛けました。どんな経緯があったのですか?
レコーディングが89年の秋だったのですが、その春にトッドから日本のレコード会社に「日本のアーティストのプロデュースがしてみたい」というオファーがありました。トッドはもともととても日本びいきで、日本の音楽に関心を持っていたのです。色々なアーティストがアプローチする中、僕のファーストアルバムもトッドの元に届けられました。
実はそのアルバムのスペシャルサンクスに、トッドの名前を入れていました。デビュー前からトッドのアルバムを繰り返し聴き、コピーすることで培ってきたものが、僕のソングライティングのベースになっている。そういう意味合いで勝手にクレジットに名前を入れたのです。すると、アルバムを聴いたトッドから「今作っている曲のデモを送ってくれ」と連絡があり、送るとすぐにOKの返事が来ました。高校時代の僕の三大アイドルは、ビートルズとYMOとトッド・ラングレンだったんです。そのうち二大巨匠にプロデュースしてもらうことになった。幸宏さんと出会ってからの人生の展開が自分の想像をはるかに超えてしまって、まったく意味がわからなかったですね(笑)。
憧れの人と一緒に音楽ができて、夢でも見ているような気分でした。でも一方で、作詞作曲もギター・ベースもアレンジもプログラミングも、さらに歌うことまですべて一人でやっていたので、本当に時間がなくてしんどかった。そもそも僕は目立ちたいタイプじゃないので、自分がテレビに出るなんてまったく考えてもいなかった。一気に生活が変わってしまって戸惑っていたし、熱狂の渦に自分が放り込まれたことも受け止められなくて。今思えば、あまりに無防備だし、じゃあなぜメジャーデビューしたの?と自分に説教したくなります(笑)。
そんな葛藤の中「虹の都へ」に次いで、これもトッドのプロデュースでリリースした「ベステンダンク」は、実はビートルズの「Help!」と同じ気持ちで作った曲なんです。でも僕は、「ヘルプ」ではなく「ありがとう」とした。それは、戸惑いと同時に恵まれすぎていることへの感謝の気持ちもあったから。「ありがとう」や「サンキュー」ではわかりやすすぎるし、リリースした90年は、ベルリンの壁が崩れドイツが東西統一した年ということもあって、ドイツ語でありがとうを意味する「ベステンダンク」に。歌詞につづった「こんなところにも 壁が待っていた」というフレーズは、自分の中の葛藤と、時代の激動、二つの意味合いを刻んだのです。
あのころは体力的にも精神的にもギリギリだったけれど、それを乗り越えられたのは、夢のような経験ができているこの瞬間に、やり遂げなくてどうする? という必死の思いがあったから。もし幸宏さんやトッドとの出会いがなかったらあんなに頑張れたかどうか、正直、わかりませんね。
(後編は12月22日配信予定です)
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高野寛(たかの・ひろし)
1964年生まれ。1988年、高橋幸宏プロデュースにより、ソロデビュー。代表曲は「虹の都へ」「ベステンダンク」(共にトッド・ラングレンプロデュース)など。田島貴男(オリジナル・ラブ)との共作シングル「Winter's tale」をはじめ、世代やジャンルを超えたアーティストとのコラボレーションも多い。ギタリストとしてもYMO、テイ・トウワなどのアーティストのライブ・録音に多数参加。坂本龍一や宮沢和史のツアーメンバーとして、延べ20カ国での演奏経験を持つ。2013年デビュー25周年を迎え、記念アルバム『TRIO』をブラジル・リオデジャネイロで録音。同年、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部・音楽コース特任教授に就任。
高野寛オフィシャルサイト:http://haas.jp/
【ライブ情報】
高野寛×畠山美由紀×おおはた雄一
2016年2月5日(金) ビルボードライブ東京(電話予約:03-3405-1133)
2016年2月8日(月) ビルボードライブ大阪(電話予約:06-6342-7722)
2公演共通 2ステージ(19時~/21時半~)
HP予約:http://www.billboard-live.com/reservation/t_index.html
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