昭和の戦争指導者を断罪した東京裁判は、戦後の社会にどのような影響を与えたのか。評価が分かれる「戦勝国の裁き」について、作家半藤一利氏(85)とノンフィクション作家保阪正康氏(75)は本紙の対談で、批判を超えた意義を見いだすべきだとの意見で一致しました。二人は「戦後の再スタートの礎(いしずえ)」と位置付け、半藤氏は「南京事件など日本軍の残虐行為も明らかにされた」、保阪氏は「平和や人道に対する罪は許さない、という文明理念を入れた」と述べました。
裁判では一九三一年の満州事変から日中戦争、太平洋戦争と続いた約十五年間をめぐり、政府や軍部の指導者ら二十八人がA級戦犯として起訴され、東条英機元首相ら七人が絞首刑になりました。
半藤氏は「それまでの国際法には戦争指導者を犯罪人として裁く考え方はなかった」と述べ、戦後の条例に基づいて罰した不合理さを指摘。保阪氏は「約十五年間に次々と交代した指導者らが侵略に合意していた、という共同謀議の概念が日本の実態に合わない」と分析しました。
その上で、半藤氏は「日本国民も軍閥の被害者と位置付けた」と評価し、指導者の戦争責任を問うべきだという当時の国民感情に沿った裁判だとの考えを示しました。
さらに保阪氏は「平和に対する罪、人道に対する罪を許さないという文明の理念を入れた」と指摘。判決を受け入れた戦後日本について「平和を語る責任を自覚しなければならない」と訴えました。
東京裁判 侵略戦争の計画や実行など「平和に対する罪」を裁くため、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官が布告した極東国際軍事裁判所条例によって設置。1946年5月〜48年11月、東京・市ケ谷の旧陸軍士官学校講堂を改装した法廷で行われた。裁判官と検察官は各11人で、米国、ソ連、中国、オーストラリアなど戦勝国11カ国から1人ずつ選ばれた。28人の被告のうち、絞首刑が7人、終身禁錮が16人、禁錮20年が1人、禁錮7年が1人、病死などが3人。日本は51年9月のサンフランシスコ講和条約で判決を受諾した。