イェスパー・ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』書評
イェスパー・ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する: 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』(Bスプラウト訳、ボーンデジタル、2015)の見本をご恵投いただいたので、レビューします。
原著は、Jesper Juul, The Art of Failure: An Essay on the Pain of Playing Video Games(MIT Press, 2013)で、MIT Pressの「Playful Thinking」シリーズの一冊。このシリーズは、ゲームや遊びに関するユニークな議論をコンパクトなサイズで出すというコンセプトらしい。内容と文体からして、研究書と一般書の中間くらいの雰囲気がある。個人的にもこのシリーズには注目している。
ユールの著作の邦訳が出版されるのは初めてだ。人文系ゲーム研究の本格的な研究書の邦訳も初めてと言えるかもしれない。ゲームデザインの本や、ゲームを使った実践的な本(シリアスゲームとかゲーミフィケーションの類)の邦訳はけっこうあるが、こういう人文プロパーな(とくに哲学指向の)ゲーム研究は紹介が遅れているのが現状だ。
その意味で、この邦訳の意義は大きい。この本がそれなりに売れれば、日本における人文系ゲーム研究書出版の今後の見通しがだいぶよくなるかもしれない。2016年春には、同じくユールによるゲーム研究の古典 Half-Real の邦訳も刊行予定ですので、あわせてよろしくお願いいたします。
以下レビュー。総評、章ごとの内容、翻訳について。
総評
この本は、一言でいえば、ゲームの本質を「失敗」という観点から探ろうというものだ。失敗はつらい、ゲームには失敗が必ず伴う、なのにわれわれは進んでゲームをしたがる、これはどういうことなのか、失敗はどういう働きを持つのか、ゲームのどういう構造が失敗を作り出すのか、プレイヤーは失敗をどのように感じるのか。こういった問いが一貫して論じられる。
一般にゲームはプレイヤーに挑戦(challenge)を与える。ゲームにおける失敗は、この挑戦のうちに含意されたものだ。ゲームとその楽しさを挑戦の観点から特徴づける議論は無数にあるわけだが、ユールの議論は挑戦と表裏一体の失敗に注目することで、「ゲームをすること」の本性という古典的な論点に新たな光を投げかけるものになっている。
哲学的な議論である以上それなりに抽象度が高いが、内容は平易だし事例も多い。先行研究の紹介もある程度あるので、人文系ゲーム研究の入門としてもいいかもしれない。ゲーム研究の領域では、諸論点の定式化や先行研究の整理のスマートさにかけては、おそらくユールの右に出るものはない*。Half-Real もそうだが、オリジナルの議論だけでなく、そういう整理部分も読みどころかもしれない。
そういうわけで、人文系のゲーム研究に興味ある人、ゲームや遊びを哲学的に考えたい人、自己反省的なゲーマー、こういった人には無条件におすすめする。たぶん面白い人にとっては相当面白い内容のはず。一方で、煽り文にあるような想定読者(ゲームプランナー、ゲーミフィケーション導入企業、ゲーム開発者の卵)のためになるかどうかはよくわからない。少なくとも具体性のある実践本ではない。戸田山先生が言うように*、結局のところ哲学は「役に立つ/立たない」が言えるものというより「読者がそれを役立たせられる種類の人間かどうか」というものだろう。
章ごとの内容
1章: 問題提起の章。「失敗のパラドックス」が定式化されたうえで、現実とゲームのちがい、芸術とゲームの関係、ルールとフィクションの二重性などの論点が導入される。この章を読んでつまらなかったら「not for you」だと思う。
2章: 悲劇のパラドックスとゲームの関係が扱われ、失敗のパラドックスと悲劇のパラドックスが対比されながら論じられる。いちばん哲学っぽいところ。美学者はここだけで十分楽しめる。
3章: 失敗したときの心理的メカニズムが論じられる。たとえば、失敗の責任をどこにどのように帰属するか、それを踏まえてプレイヤーはどのような行動を取るか、失敗を含むプレイのプロセスのサイクルはどうなるのか、といった論点。実証的研究もいくらか踏まえている。
4章: 失敗がゲームデザインの観点から論じられる。ようするに、客観的なルール構造としてのゲームメカニクスがどういうふうにプレイヤーの経験としての失敗とその克服を作り出すかという話。ゲームメカニクスは基本的に目標と経路の設計からなるが、経路の種類としてスキルベース、運ベース、労力ベースの3つがあるとされる。目標の分類もちょっとある。ゲームデザインに興味ある人には一番面白いところかもしれない。
5章: フィクションのレベルでの失敗(プレイヤーではなくキャラクタの失敗のレベル)が論じられる。ようするに、ゲームで虚構的な悲劇は可能か、可能ならどういうかたちでか、という話。たいていのゲームでは、プレイヤーの成功/失敗とキャラクタの成功/失敗は同期しているが、これに反する事例もけっこうある。この章は、理論的な話というよりは、へんな事例の紹介が面白い。
6章: まとめの章。
翻訳について
翻訳の質は、類書*のなかではかなりましなほうだと思う。少なくとも、文法的なレベルで英語が読めてないというところはあまりない。また、日本語として意味がわからないということもほぼない。ただし、研究書の翻訳としては頼りにならない。一言でいえば、「この翻訳を読めば原著の内容はおおまかに把握できるが、この翻訳の文言を引用して細かい議論をするのはやめたほうがいい」というレベル。
以下、どういう具合にまずいところがあるかを具体的に示しておく。
微妙なところ
決定的な誤訳はあまり多くない(後述)。一方で、微妙な訳というかマイナー誤訳は正直かなり多い*。たとえば、ニュアンスがちがうとか、議論のつながりがおかしいとか、訳のせいで主張が曖昧になっているといった箇所だ。10ページぶんくらい確認したが、1ページに10個前後あったりする。p.5からいくつか挙げてみる(lは行数、[ ]内は原文)。
l.2
これがゲームの果たす役割です。
[This is what games do.]
「役割」というより「どう働くか」のようなニュアンス。「役割」だとなにか大きな目的があってそれに「どう役立つか」というふうに聞こえる。
ll.7–8
わざわざそれに挑戦する
[we choose to subject ourselves to it]
この「it」は「such a feeling of inadequacy」で、「挑戦する」ではなくて、わざわざそういう感じを「受けたがる」ということ。
ll.10–11
ゲームの楽しさの中心にあるのは、〔…〕失敗を回避できたという感覚です。
[the feeling of escaping failure [...] is central to the enjoyment of games.]
「回避できた」という完了のニュアンスは原文にはない。「回避する感覚」にすべき。これは些末な話ではなくて、ゲームの楽しみが帰結によるものなのか過程によるものなのかという重要な論点に関わるもの。ユール自身の立場はわからないが、少なくとも一方の立場への賛同に見えるような訳にすべきではない。
ll.15–16
ゲームプレイに関する決まり自体が失敗の意義の理念になる
[the conventions around game playing are by themselves philosophies of the meaning of failure]
「決まり」は表現が強い。この「convention」の事例はスポーツマンシップなのだが、ユールはスポーツマンシップを厳密な意味での「ルール」とは考えていない*。ここでは「慣習」とかが穏当。ついでに「失敗の意義の理念になる」は意味がわからない。「失敗に意味合いを与える」とか「失敗の意味についての考え方になっている」くらいでいいのでは。
l.19
社会集団の一形式としてのスポーツマンシップ
[sportsmanship as a form of social union]
「社会集団」はふつうにカテゴリがおかしい。「社会的な団結」とか「社会的な結びつき」とかだろう。
ll.19–20
ゲーム内での高潔な行動をゲーム外に拡げる
[the noble behavior in the game extending outside the game]
ゲーム内での立派なふるまいがゲーム外でも社会的に評価されるという話。「extend」はふつうに自動詞として訳出したほうがいい。意味はそんなにちがわないが、他動詞のニュアンスを出す意味がわからない。
ll.20–21
楽しさを促進する手段としてのスポーツマンシップ(行動を統制することで、このゲームや将来のゲームを可能にする)
[sportsmanship as a means in the promotion of pleasure (controlling our behavior to make this and future games possible)]
「将来のゲーム」がミスリーディング。誤訳とは言えないが、「game」の多義性のおかげでへんなことになっている。この「game」は、日本語だと個々の試合/対局/対戦といった意味に近い(日本語でも「ゲーム」をこの意味で使う場合はあるが)。「future gameが可能」というのは、スポーツマンシップに適ったふるまいをしてこの場を楽しくしておけば次回以降もありえるよという話。
こういうかんじの微妙な訳が毎ページこれくらいの数ある。
訳語の選択
とくに専門的な術語の訳語選択にいろいろ難がある。
- 「video game」を一貫して「ゲーム」と訳しているが、これは問題だろう。ビデオゲームにかぎった話だけをしているならそれでもいいかもしれないが、アナログとデジタルを両方含めたものとしてのゲーム一般を論じているところや、両者を区別して論じているところがある以上、ビデオゲームを「ゲーム」と呼ぶのは端的に不適切だ*。
- 「game playing」とか「playing games」といった動名詞表現をしばしば「ゲームプレイ」と訳しているが、これらは「ゲームをプレイすること」などにしたほうがいい。「ゲームプレイ」は「gameplay」の訳語として別にとっておくべきものだ。ゲームに関する英語記事をそれなりに読む人なら承知だと思うが、「gameplay」はアカデミックの内外である種の術語として使われる一語であり、「game playing」のようなただの動名詞句と混同すべきではない*。
- 「アートフォーム」について。原語の「art form」は術語で、絵画、音楽、映画、演劇、マンガ等々の表現形式を指すもの。伝統的には「genre」とか「medium」などとも呼ばれてきたものだが、これらの用語はいまや別の意味も持っているので、最近の専門的な議論では(表現形式を指すものとしては)ふつう使われない。この意味での「art form」は「芸術形式」以外に訳しようがないと思う。「art form」という術語自体それほど古いものではなく、それゆえまた「芸術形式」という訳語もそれほど定着したものではない。しかしカタカナで「アートフォーム」としてしまうとわけがわからない用語になる。ついでに「アート」もぜんぶ「芸術」でいい。
- 「fiction」を「小説」と訳しているところがいくつかあるが、すべて美学的な術語としてのそれであって、小説という意味はない。術語としての「fiction」の訳語は「フィクション」の一択。ついでにこれは好みだが、「fictional」は「架空~」ではなく「虚構~」がいい。
- 「コンテンツ」はない。
- 「abstract」だけでなく、「metaphysical」や「symbolic」などが「抽象的」と訳されているのが意味不明。難しい(あるいは日常的でない)語彙を極力排除したいのはわかるが、難しい語彙はなんでも「抽象的」にしとけばいいという判断は学問をなめてるとしか思えない。
- あと単語ではないが、コロンの意味を訳文に反映させていないことが多い。そのおかげでニュアンスが拾えていない箇所がけっこうある。
文献の書式
参考文献表および注での参照指示になぜかけっこう日本語が混じっている。アカデミックな観点からはあたりまえの話だが、参照指示の書誌情報はふつうに原文で書くべき(邦訳がある場合でも、参考文献表に添えるだけにすべき)。この翻訳書の売り出し方はどうあれ、原著者はアカデミシャンでありかつアカデミックな作法にのっとって書いてるわけなので、そのあたりは尊重しないとだめだろう。
誤訳
これはあかんやろというレベルの誤訳を挙げておく。とりあえず1章ぶんだけ。類書に比べれば少ないと思う。基本的に「訳文読んでてなんかおかしいので調べたら誤訳だった」というしかたで見つけたものなので、全文をくまなく確認したわけではない。
- p.3「悲しみや怒り」→「悲しみや恐怖」
- p.4「これまでゲームの対象ではなかったあらゆる種類のコンテキストがゲームとしてデザインされています」→「これまでゲームがそれに向けて作られていなかったあらゆる種類のコンテキストに向けてゲームが作られるようになっています」
- p.4「一部の伝統的なゲームジャンル〔…〕は、プレイヤーがいつか勝てるという保証だけはない」→「一部の伝統的なゲームジャンル〔…〕は、プレイヤーが最終的に勝てることをほぼ保証している」
- p.7「ゲームの意義」→「ゲームにはどういう使い道がありえるか」
誤訳とまではいかないかもしれないが、ゲームのような明らかに自己目的的な性格を持つものについて、たんなる有用性を「意義」と訳すのは看過できない。 - p.8「良いゲーム、少なくともゲームと呼べるものには、」→「良いゲームであるには、もっと言えば〔良し悪し問わず〕そもそもゲームであるには」
- p.9「ゲームプレイヤーである夫の発言を引用した〔…〕ニコール・ラザロ〔…〕は」→「〔…〕ニコール・ラザロ〔…〕は、あるゲームプレイヤーの配偶者の発言を引用しながら」
いろいろ間違っている。あとユールの地の文は「spouse」(配偶者)なので、ジェンダー不特定の配慮をちゃんと拾うべき(原著は一貫してジェンダー表現の中立性に気を使っている)。 - p.15「チェスが習慣となるように、いつでもプレイできるように備えるべき」
代案省略。チェスの話ではなく、チェスによって獲得・強化される精神的特質の話。 - p.15「また、この正反対の意見をプレイヤーに公開することによってゲームがうまくいくわけでもありません」→「むしろここで言いたいのは、ゲームはこれらの相反する考えを〔同時に〕通用させることで成立するものだということです」
- p.16「特にスポーツのゲーム(試合)」→「特にスポーツと呼ばれる類のゲーム」
ここは試合の意味での「game」ではない。 - p.16「フランコ時代から政治的な意味合いが重ねられて」→「政治的な」トル
- p.16「このような議論は、ゲームの失敗についてであっても~~」
代案はめんどくさいので書かないが、whether節の構文がちゃんと取れてない。 - p.16「低次の要素を弱めたり」wakenとweakenの取り違え
- p.17, l.1「アート」→「ゲーム」
- p.17「必然的な」→「必要な/不可欠な/必要性のある」
- p.18「プレイヤーの想像を導く架空の世界」
代案省略。関係詞節の構文が取れてない。虚構世界は想像の対象。 - p.21「これは確かにその通りで」→「これは明らかに単純すぎます」
- p.21「アート作品を良しとするチェックボックスが必ずしもチェックされているとは限らず」→「良いアート作品の評価項目を並べたチェックリストは、どんなものであれ必ず的外れになるでしょうし」
Footnotes
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この点は、しばしば並べられる K. Salen & E. Zimmerman, Rules of Play (MIT Press, 2004) と好対照だと思う。
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戸田山和久『哲学入門』 (ちくま新書, 2014), 445–446.
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想定しているのは、オライリージャパン、ソフトバンククリエイティブ、ボーンデジタルといった出版社から出ているゲームデザイン本の翻訳シリーズ。
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翻訳の質を要求しすぎなのかもしれないが、原著が研究書である以上、研究書の翻訳として評価せざるをえない。
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J. Juul, Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press, 2005), 66–67.
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一部「video game」を「テレビゲーム」と訳してあるところもあるが、この和製英語は「インディーズゲーム」と一緒に早く滅んだほうがいい。
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ユールは、もちろんこの術語としての「gameplay」を把握している。以下を参照。Juul, Half-Real, 83ff; J. Juul, "Gameplay," in The Johns Hopkins Guide to Digital Media, eds. M.-L. Ryan, L. Emerson, & B. J. Robertson (Johns Hopkins University Press, 2014). ついでに、同じ難点がスーツの邦訳書(『キリギリスの哲学: ゲームプレイと理想の人生』)における「ゲームプレイ」にも言える。