記憶に遺る邦画を1つ挙げるならば市川監督の[ビルマの竪琴]です。
これを越える映画を存じません。
戦没した数限りない日本兵遺骨供養の為に水島一等兵独りが現地へ
残った実話です。(ビルマ:現ミャンマー)
「ビルマの竪琴」のモデル…僧侶・中村一雄さん
2008年12月17日 92歳で死去
福井県の永平寺で修業中の1938年に徴兵され、フィリピンなど東南アジアを転戦。多くの死者が出たインパール作戦に参加し、ビルマで終戦を迎えた。
海浜にいくつもの大山となった日本兵の死体シーンが
今も私の脳裏へのこります。
水島一等兵の台詞
「ぁぁやっぱり自分は日本へ帰るわけにはいかない
山の上、森の中、谷の底、このビルマ全国に散乱している
同胞の白骨(ビルマ戦線で倒れた日本兵の数限りない死体)を
どぅしてこの侭にしておけよぅ。」
私が八才で鑑賞した映画ですが
戦地.戦争体験者の市川崑監督と
安井昌二主演の両氏でしたから子供にも
響くものだったのでしょぅ。
ビルマの竪琴白黒映画 1956年1月21日(土)公開
市川崑監督が 竹山道雄の小説を
安井昌二主演.三國連太郎.三橋達也.伊藤雄之祐他出演映画化
いったい、
戦争の度に“戦没者の遺体”はどぅなったのでしょぅ?国内の、“戦没者の墓の中はからっぽ”です。
島民100名に満たない座間味の島の海は
沖縄地上戦時下
10万人にも及ぶ米軍で真っ黒に埋まった そぅです。まるで「市」ひとつヤッテキタサと。
沖縄離島座間味の某民宿のおばぁは私へ言いました。
今、観光地となるあの青い海の砂浜の下には
沖縄地上戦で死んだ日本兵の死体が
山とぃうほどにごろごろしてるサ−と。
だってサ−
友軍(日本兵)は
この島民の女.子供たちよりやせ細ってたサ
中央から物資も食料もとどけられずに、、
あれは、戦う者じゃなかったサ–
わしらがもつ白い握り飯を
じーっと睨んでサ-「くれっ」てサ−。
だから「あげたサ-」
「もぅガツガツ食べてたさサ−」
でもサ−アメリカ兵は違ってたサ−
食事どきにはスピーカーから音楽が流れてサ-
砂浜に大きく広げられたシートには
ポークやいろんなご馳走が出てたサ-
夜中の12時ころ消灯され真っ暗になったあと
午前1時2時ころ友軍(日本兵)がやって来るサ-
アメリカ兵の残飯を狙うのサ-
友軍が「残り物がくっついた缶詰」他残飯を
かかえたところで
まわりの電柱からパーッと電気がつくサ-
一斉に友軍がバババババ–ンと撃たれるサ-
その死体を誰も始末しないから、
あの砂浜の1Mも下くらいにはごろごろしてるサ-
「もぅ止めろよ昔の話は」と息子に止められて不承不承おばぁ
は口をつぐみました。 (2006年、座間味における紫音の聞き取り)
[ビルマの竪琴]には兵士死体シーンも山ほど、
出てきました。
また、現実には、日本兵は
戦場へ出る前の隊の中で
現小学中学校のいじめさながら!
上官から、
殴られ蹴られ死ぬほどの目に
遭わされていました。
日本の軍隊自体が日本人同士の戦場でした。
そのシーンも上映した
市川崑監督.安井昌二主演の
[ビルマの竪琴]には本当を知らせる為にウソが
ありませんでした、、
哲学する力のある日本の市川監督は
隠さず、真実を美にかえて記憶させました。
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