手塚治虫から敵意をむき出しにされて
2003年、手塚治虫文化賞の特別賞が水木しげる(2015年11月30日没、93歳)に贈られた。戦後日本のマンガ界の先駆者・手塚治虫の名を冠する同賞に設けられた各賞のなかでも、水木に贈られた特別賞は「マンガ文化の発展に寄与した個人・団体」を対象としており、いわば功労賞的な意味合いを持つ。
しかし手塚と水木の関係を思えば、よくこの賞を受けたものだという気もする。そもそも1922年生まれの水木は、手塚より6歳年長だ。当の水木もそのことを気にして、受賞の言葉のなかで《手塚さんは私より年下だったので私の方が早い、即ち早く極楽にゆけると思っていたのですが、逆になってしまって妙な気持ちです》と述べている(朝日新聞社サイト「手塚治虫文化賞」)。1989年に60歳で死去した手塚に対し、水木は受賞時には81歳になっていた。
ノンフィクション作家・足立倫行による評伝『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』には、水木が手塚に会うたび敵意むき出しの態度をとられた話が出てくる。酒が飲めないので、マンガ家の集まるパーティーにはほとんど出なかった水木だが、あるとき珍しく出席すると、手塚とばったり顔を合わせた。すると唐突に、兵庫県宝塚の遊園地で毎年開かれていた水木原作の『ゲゲゲの鬼太郎』のイベントについて、「まだやってるんですか!」となじられたという。宝塚出身の手塚には、自分の領地を荒らされたとの思いがあったらしい。
水木は1965年に『週刊少年マガジン』の別冊に掲載した短編「テレビくん」で43歳にして雑誌デビューし、以後『マガジン』に「墓場の鬼太郎」(のちテレビアニメ化にあわせて「ゲゲゲの鬼太郎」と改題)や「悪魔くん」を発表して一躍ブレイクする。有力な新人が登場するたびに手塚がライバル心を燃やしていたことは有名だが、水木に対してはどうもそれ以上の敵愾心に近い感情を持っていたようだ。
手塚の攻撃的な態度はおそらく、自分にはまるでないものを持っている水木への畏怖から来るものではなかったか。事実、戦後デビューしたマンガ家の大半は手塚から直接的、間接的に影響を受けているが、そのなかにあって水木は手塚とまったく切れたところから画業を始めた異色中の異色の存在であった。「日本のマンガ家は9割の手塚系と1割の水木系からできている」というマンガ家・根本敬の名言(大泉実成「水木しげる山脈」上)は、マンガ史における水木の位置づけをずばり指摘している。
アパートの名から生まれたペンネーム
大阪に生まれ、鳥取県境港で育った水木しげる(本名・
アパートの経営は結局うまくいかず、3年後に売り払った。紙芝居業界もやがてテレビの台頭にともない斜陽を迎える。東京の紙芝居画家たちは続々と貸本マンガ家に転身していると聞いて、水木も1957年に上京、翌年刊行の『ロケットマン』でマンガ家デビューした。だが、この世界でも食べていくのは大変だった。1961年に布枝夫人と結婚してからも、雑誌デビューするまで長らく貧乏暮らしを続けた話は、NHKの連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』(2010年)などを通じてよく知られるところである。
水木が紙芝居から貸本マンガへと転じ、細々と作品を描き続ける一方、手塚治虫は雑誌マンガで次々とヒットを飛ばしていた。アニメ制作にも乗り出し、1963年には国産初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の放送が始まる。両者の歩みは対照的と言うしかない。それだけに前出の手塚治虫文化賞の打診を受けた際、水木にはやや躊躇もあったという。
《手塚さんがコンクリート舗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきたようなものだ。そんな複雑な思いもあって、内定の連絡を受けて躊躇したが、賞金の百万円も目の前にちらつき、受けることにした。妻も二人の娘も「えっ、もらうの?」と言った》(水木しげる『水木サンの幸福論』)
「賞金がちらつき」と正直に書いてしまうあたりがまた水木らしい。これにかぎらず、彼は食欲、睡眠欲とあらゆる欲をときにあけすけに語り、また作品に描きもした。それは濃密というほかない人生体験から来るものであったのだろう。ひょっとすると医師の資格も持つインテリの手塚治虫には、水木のそういう部分こそが不気味であり、ことさらに怖れを掻き立てられたのかもしれない。
戦死者の親の前で笑ってしまった真意
水木しげるはマンガや文章で多くの自伝を著し、たびたびテレビドラマ化もされてきた。そのため先述の貸本マンガ家時代の貧乏暮らしばかりでなく、少年時代、生家にまかない婦として出入りしていた「のんのんばあ」という老婆の影響で妖怪に興味を持ったこと、太平洋戦争中には一兵士として南太平洋の激戦地・ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウルに送られ、空爆で左腕を失ったことなど、その半生はよく知られている。
こうして改めて書くと、いかにも苦労の多い人生である。戦場で爆撃を受けたときにはマラリアにかかっており、高熱と栄養失調で髪の毛もすっかり抜け落ちていた。負傷した左腕からは大量に出血したが、血液型を忘れていて輸血できず、止血のため縛りすぎたせいか手に紫色の斑点が出てきてやむなく切断にいたったという。しかしこの体験を描いた彼のマンガにはどこかのんきさが漂っている。人に語って聞かせるときも、深刻さはみじんもなく、まるで他人事のように愉快そうであったという(足立、前掲書)。
腕の処置後もその切断跡に蛆虫が湧くなど衛生状態は最悪で、周囲では死ぬのは時間の問題だろうとささやかれた。だが少年時代から胃袋の丈夫だった水木は、極限状態にあっても旺盛な食欲を見せ、徐々に回復していく。戦場となったジャングルでは、兵士たちが戦闘中以外にも、魚を喉に詰まらせたり、ワニに食われたりと、しごくあっさりと死んでいったが、そのなかで水木が生き延びられたのは、強運に加え、人並み外れた生への執着のおかげではなかったか。
敗戦の翌年、帰国して境港に戻ったあと、水木は生きて帰ってこられたのがうれしくてしかたなかったという。実家へ戦死した仲間の親が何人か訪ねてきたときには、相手の悲しみように改めて驚きながらも、思わず笑い声をあげてしまった。マンガによる自伝『完全版 水木しげる伝』中巻に出てくる話だが、そこで水木は《考えてみると彼は笑ってたわけではない/なんとなくきまりが悪いので 笑いに似た哀しみの表現をしたのである》と案内役のネズミ男に弁解させている。
後年にいたっても水木は自分が生きていることの喜びを隠そうとはしなかった。かつて水木のもとでアルバイトをし、のちに評論家となった呉智英によると、水木はラバウルに戦後再訪したときの心境を次のように述懐していたという。
《「戦友たちは、うまいものも食えずに若くして死んでいったんですよ。その戦地に立って、ああ、自分はこうして生きていると思うとですなぁ」/水木しげるは確信を込めて言った。/「そう思うとですなぁ、愉快になるんですよ」(中略)「ええ、あんた、愉快になるんですよ。生きとるんですよ、ええ。ラバウルに行ってみて、初めてわかりました」》(呉智英『犬儒派だもの』)
呉はこの発言について《これほど力強い生命讃歌を私は知らない》と書いている(前掲書)。他方、足立倫行によれば、水木はやはり戦地を再訪したときを振り返って《私、戦後二十年くらいは他人に同情しなかったんですよ。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思ってましたからね、ワハハ》といたずらっぽく語ったことがあったという(水木しげる『総員玉砕せよ!』講談社文庫版解説)。
戦場で兵士たちの生死を分けたのは、おそらくほんのわずかの差や偶然にすぎないのだろう。水木自身、マラリアや腕の負傷にとどまらず死と隣り合わせの場面を何度となくくぐり抜けてきた。いまあげた二つの言葉からは、自分が生き残ったことに対する彼の感慨がありありと伝わってくる。
不思議な死生観
学生時代から水木の事務所に出入りし、のちに筑摩書房の編集者として水木作品を多数担当した松田哲夫は、「あの人のなかではあきらかな矛盾が堂々と併存している」と評した。
何しろ水木は少年時代にしてすでに、貝集めや紙相撲に没頭するオタクな性格と、大勢の子分をしたがえケンカに明け暮れるガキ大将としての性格を両立していたのだ。大人になってからも、「勲章」という作品で勲章社会を鋭く批判していたくせに、自分がもらったときには結構喜んでいたりと、とにかく矛盾だらけだった。それでいて動じない、やはり妖怪なのだろうと松田は語っている(足立倫行『妖怪と歩く』)。
死生観からして大きな矛盾を抱えていた。冒頭にも引用した手塚治虫文化賞の受賞の言葉で、《最近少しぼけているせいか非常にうれしいのです(おかしいですネ)。このあとこんなうれしいことは、あの世にゆく時位だろうと思っています》と語った水木だが、べつのところでは「死ぬのは怖い」とも発言している。
《死ぬのは怖いです。水木サンは子どもの頃から死に興味があったから、いろいろと読んだり話を聞いたりして、死って何だろうと考えてきました。戦場では死んだ人をたくさん見て、自分も死にかけて。そうやって八〇年以上も生きてきましたけど、やっぱり死ぬのはいやです。怖いんです》(梯久美子「死者のいる場所 第14回 水木しげるの戦争3」)
なお、「水木サン」とは水木が自身を指すのに用いた呼称である。ただし元紙芝居作家で旧知の仲だった評論家の加太こうじによれば、水木は戦後もずっと兵隊言葉が抜けず、自らを指すのも「自分は」と言っていたというから(『思想の科学』1988年8月号)、ある時期を境に改めたのだろう。「水木サン」の自称はおそらく、自分を客観視したり、作家の水木しげると個人である武良茂を区別したりするため、かなり意識的に採用したものではないか。本人も次のように「武良茂」と「水木しげる」の違いを語っていた。
《武良茂の方は大儀なんです。静かに平和に暮らして、できるだけ長生きしたいと願ってますからね。ところが水木しげるの方は、世界の精霊文化を調べる冒険旅行となると、喜んで慌てふためくわけです。旅の途中で死んでもいいとさえ思ってる。……てやなわけで、近頃は武良が水木さんに圧倒されてるわけです》(足立、前掲書)
死生観に関する矛盾は、ようするに武良茂と水木しげるの志向の違いと考えれば、一応の納得がゆく。
水木サンが連載最終回で放った「最後っ屁」
水木は売れてからというもの、あまりの多忙にいま仕事をやめられたらこんな幸せなことはないと語りつつも、晩年にいたるまで旺盛な創作活動を続け、テレビなどにも頻繁に登場した。それだけに亡くなる半年前、2015年5月に『ビッグコミック』での連載マンガの終了が突如として発表されたときには、事務所側が重病説を否定したにもかかわらず(実際に重病ではなかったのだが)、たくさんの心配する声があがった。
結果的に最後の連載となった「わたしの日々」は水木の身辺雑記で、家族とのやりとりのほか、戦争や霊的な体験を含め過去の想い出がユーモアたっぷりに描かれている。その最終回がまたふるっていて、便秘になった水木サンが美人女医から処置を受けてすっきりするというエピソードだった。
小学生のころ、学校で天長節(天皇誕生日)などの式典が行われるたびに、茂少年はおならをして全生徒の笑いを誘っていたという。おならやウンコの話が好きなのは終生変わることはなかった。2009年、米寿を記念して出版された作品集のタイトルも、ずばり『屁のような人生』であった。
生前最後に発表した作品に、妖怪の話でも戦争の話でもなく、シモの話を持ってきたのは偶然にすぎないのだろう。だが、便秘を治したこともまた、彼にしてみれば自分が生きている証しであり、喜びだったに違いない。そのあっけらかんとした描写に、年を重ねるごとに自分を尊大に扱う世間に向けた、水木サンの文字どおりの“最後っ屁”を見た気がする。
■参考文献
水木しげる『総員玉砕せよ!』(講談社文庫、1995年)、『ねぼけ人生』(筑摩eBOOKS、2002年)、『完全版 水木しげる伝』上・中・下(講談社漫画文庫、2004~05年)、『水木サンの幸福論』(角川e文庫、2015年)、『わたしの日々』(小学館、2015年)
足立倫行『妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる』(文春ウェブ文庫、2004年)
大泉実成「水木しげる山脈」上・下(『新潮45』2011年7月号~8月号)
梯久美子「死者のいる場所」第12回~14回「水木しげるの戦争」1~3(『本の旅人』2009年1月号~3月号)
加太こうじ「日本画人伝」最終回(『思想の科学』1988年8月号)
呉智英『犬儒派だもの』(双葉社、2003年)
「大特集 水木しげる その美の特質」(『芸術新潮』2010年8月号)
イラスト:たかやまふゆこ