地球ドラマチック「イースター島 モアイ像の謎に迫る」 2015.12.14


巨大な石像モアイ。
南米チリから西へ3,700キロのイースター島にあります。
誰が何のために造ったのでしょうか。
世界中の人々の想像力をかきたててきました。
今研究者たちは島から持ち去られた1体のモアイ像から謎を解く手がかりを得ようとしています。
謎が解けるかもしれません。
最新技術を駆使していにしえの信仰の秘密を探ります。
イースター島の最も重要なモアイ像です。
このモアイ像は信仰の中心にあったと考えられています。
その背中に刻まれたシンボルとは?イースター島の失われた文明の謎に迫ります。
イースター島の巨大な石像モアイは長い間多くの謎に包まれてきました。
海に隔たれた島は長い間孤立していました。
考古学者による調査が本格化したのはこの数十年の事です。
科学的な分析技術を用いた調査はまだ始まったばかりです。
考古学者たちはさまざまな証拠から島の歴史を明らかにしようとしています。
モアイはかつて神としてあがめられていました。
しかしその後この信仰を打ち砕くような何かが起きました。
一部は復元されていますが巨大な石像のほとんどは島の至る所で倒壊したままになっています。
未完のまま放置されたものもあります。
しかし一つだけ最後まで倒壊する事なく大切にされたモアイがありました。
このモアイが謎を解くカギを握っていると考えられています。
このモアイはイースター島から運び出され島にはありません。
ロンドンの大英博物館にあります。
まさに完璧なモアイです。
大きくてしっかりした眉に突き出た口がっちりした顎と胸両腕は体の脇にぴったりとつけています。
考古学者マイク・ピッツは「ホアハカナナイア」と呼ばれるこのモアイに注目しています。
現地の言葉で「盗まれた友」を意味します。
正面から見ると普通のモアイですが背中側を見るとこれが特別なものだと分かります。
ホアハカナナイアの背中には一面に鳥の姿をかたどったような彫刻が施されています。
イースター島の他のモアイには同じような彫刻は見られません。
正面は他のモアイと同じようです。
しかし後ろに回ってみると異なる時代の痕跡が残されている事に気付きます。
ピッツは背中の彫刻は石像の完成後だいぶたってから特別な印として刻まれたのではないかと考えています。
彫刻を解読するためピッツはホアハカナナイアの画像を取り込み3Dモデルを作成する事にしました。
人間の目では判別できない細部が解読されれば造り手の人々の物語が明らかになるはずだとピッツは確信しています。
島の人々の信仰の物語がこのモアイに刻まれているはずなんです。
最新の技術を駆使するピッツですがその目的は絶海の孤島で調査してきた研究者たちと何ら変わる事はありません。
イースター島は太平洋に浮かぶ火山島です。
南米大陸から遠く離れ周りは海に取り囲まれています。
面積はおよそ160平方キロメートル。
端から端まで1日で歩け現在およそ6,000人が住んでいます。
最初に島に住み着いた人々がいつどこからやってきたのか確かな証拠は見つかっていません。
海に阻まれたイースター島はその存在自体が18世紀になるまでほとんど知られていませんでした。
西洋人が初めて島にやってきたのは1722年の事でした。
イースター島に初めて足を踏み入れた西洋人はオランダ人でした。
その時の証言があちらの公文書館に収められています。
1722年のイースターの日に島に到着したオランダ人探検家ヤーコプ・ロッヘフェーンはその日にちなみ島を「イースター島」と名付けました。
この箱には1722年に記されたロッヘフェーンの日誌の原本が入っています。
ロッヘフェーンはイースター島について日誌にこう記しています。
「彼らが望めばここイースター島は地上の楽園ともなり得るだろう」。
ロッヘフェーンは巨大な石像はもちろん島の人々の様子にも驚きの目を向けています。
やりもこん棒も持っていない。
彼らは平和的な人々だったと記されています。
その後100年にわたって多くの探検家が島を訪れました。
1774年にはイギリスの探検家ジェームズ・クックが上陸。
巨大な石像のうわさはヨーロッパ中に広まりました。
しかし19世紀半ばにはイースター島はもはや楽園ではなくなっていました。
奴隷商人の標的となったからです。
島の人々は船の到来を恐れるようになりました。
1862年にペルーからやってきた奴隷商人たちは島の人々を容赦なく何百人も拉致したのです。
1868年にはイギリス海軍の船がやってきましたが奴隷探しのためではありませんでした。
付近の調査に訪れた海軍の士官や乗組員たちはイースター島の巨大な石像に興味を抱きました。
考古学者エドムンド・エドワーズは彼らの日誌から当時の事を調べています。
彼らは島で見聞きした事を全て日誌に記しています。
一行は島の南西部に位置するオロンゴ村を目指しました。
この先にあります。
行く先々には多くの石像が倒れたまま放置されていましたが彼らは無傷のまま今もあがめられている石像があるといううわさを耳にします。
多くの石像の中で彼らが特に興味を引かれたのはオロンゴ村の丘の上にある石像でした。
丘を登るうちに目的の石像は何か特別なものに違いないと彼らは気付き始めます。
他のものとは異なり石室の中に隠されていたからです。
この上です。
さあついてきて下さい。
士官たちを先導したのは島に住むキリスト教の宣教師でした。
宣教師はこの特別な石像を始末したかったのかもしれません。
彼が敵視する異教の儀式に関わるものだったからです。
士官たちが石室に入るとそこには地中に半分埋もれた石像がありました。
地面からそびえていたのは他とは違う生き生きとした石像でした。
石像は赤と白で鮮やかに彩られていました。
それは化石でもなく失われた文明の遺物でもありませんでした。
当時も人々にあがめられていたんです。
綱を緩めるな!しかしイギリスの士官たちは自分たちが目にしているものを全く理解していませんでした。
150年たった今大英博物館のモアイ像ホアハカナナイアの秘密が明らかになろうとしています。
エドワーズはおよそ50年前に島で研究を始めました。
当時どのモアイも倒れたままだったと言います。
当時の様子は今とは全く異なりました。
これらの石像は全てつい最近まで倒れたままだったんです。
唯一立ち続けていたのがホアハカナナイアでした。
現在大英博物館にあるこのモアイ像はイースター島の人々の信仰において特別な役割を果たしていたと考えられています。
どんな信仰だったのでしょうか?儀式の様子に触れた記録が一つだけ残っています。
今からおよそ300年前イースター島を発見したヤーコプ・ロッヘフェーンが記したものです。
ロッヘフェーンは儀式についてこう記しています。
「人々は石像の前で火をたきひざまずいてこうべを垂れた」。
もちろんロッヘフェーンには彼らが何を話しているかは分かりませんでした。
しかし神に祈りを捧げているのだと考えました。
のちの探検家の中でこのような儀式に触れている者は誰もいません。
島の人々自身も記録を一切書き残していません。
更に伝承を途絶えさせる悲劇が島を襲いました。
儀式についてはほとんど分かっていません。
というのも西洋人が島の人々に信仰について尋ねたころには既に奴隷商人が知識階級を連れ去ったあとだったからです。
信仰に関する儀式を取り仕切っていた人々です。
19世紀半ば以降イースター島は奴隷商人の狩り場と化していました。
奴隷商人は人々を拉致しチリやペルーに連れ去りました。
1862年の大略奪ではイースター島の現在の王様の祖先も連れ去られました。
私の先祖も連れ去られました。
多くの人が殺され残りの者はほとんどがさらわれていきました。
連れ去られた人の中にはナク・マウラター当時の王様もいました。
私の先祖です。
真っ先に捕らえられたのが王とその息子そして地域集団の長祭司たちでした。
彼らは皆ペルーに連れていかれました。
知識階級が根こそぎ連れ去られたんです。
彼らとともに島のしきたりに関する多くの知識も失われました。
しかし太平洋の他の島々には同じような宗教儀式が残されています。
イースター島とポリネシア東部の他の島々の宗教儀式を比較すれば謎が解けるかもしれません。
モアイは神格化された先祖を象徴しています。
人々は死者に供え物をささげ死者は人々が現世で必要とするもの全てを与えると考えられていました。
私たちにとってモアイはとても大切な存在です。
先祖が私たちを気にかけそして守ってくれるからです。
島にある1,000体を超えるモアイ像の意味が明らかになりつつあります。
3〜4世代ごとに新しい像が造られました。
生者は死者を忘れ死者は生者を忘れるからです。
「ひいひいひいおじいさん」はおじいさんやお父さんほどあなたを気遣ってはくれません。
ですから島の人々は3〜4世代ごとに身近な先祖を神格化したんです。
モアイは死者をあがめ死者からの助けを仰ぐために必要とされました。
イースター島の人々は島が全世界だと思っていました。
モアイは未知の外界から自分たちを守る防壁として島の内側を向き海岸に沿って並べられたんです。
モアイは死者の世界である海と生者の世界である陸地の境界に立っていたんです。
島の言葉で干潮を意味する「タイパバグ」は「死者のうしお」という意味です。
人々は膨大な時間と労力をかけてモアイを造りました。
地域社会にとって重要な存在だったからに違いありません。
モアイが造られた当時イースター島の人々は石器しか持っていませんでした。
モアイを1体造るのに2年はかかったと考えられています。
考古学者パトリシア・カサノヴァはモアイがどのように造られたのかを研究しています。
この石切り場を見ればモアイがどのようにして彫られたかが分かります。
この石像の場合右側は既に完成しています。
向こう側には作業をするための通路が掘られています。
通路の壁がカーブしています。
これはのみを動かすのに必要な最小限のスペースだと考えられます。
正面が完成すると制作者たちは少しずつ背中側を削り取っていきました。
やがて削り出された石像は石の土台に乗せられました。
そうして斜面の下へ石像を移動して背中側を仕上げたんです。
「ラノ・ララク」と呼ばれるこの一帯でおよそ500年の間に1,000体ものモアイ像が造られたと考えられています。
近くに残されたものもあれば遠くまで運び出されたものもあります。
石切り場から何キロも離れた場所まで運ばれたんです。
本当に驚かされます。
1950年代。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールはモアイがどのようにして造られ運ばれたのかを調べる実験を行いました。
島民180人を集め木の皮で作った綱を使って重さ10トンの石像を引っ張りました。
500年前も人々はこうしてモアイを運んだのかもしれません。
しかし起伏の多い地形のため全てのモアイが無事目的地までたどり着いた訳ではありませんでした。
おそらくこのモアイは石切り場から運ばれる途中で割れてしまったのでしょう。
2年に及ぶ苦労が水の泡となった訳です。
考古学者クラウディオ・クリスティーノにとって打ち捨てられたモアイは貴重な情報源です。
ここがラノ・ララクの噴火口跡です。
ほとんどのモアイはこの一帯で彫られました。
この地図にはモアイの位置が全て書き込まれています。
モアイは全部で1,000体ほど造られそのおよそ1/3が島の沿岸にある祭壇まで運ばれました。
しかし他は途中で捨てられました。
理由は分かりません。
捨てられたモアイの位置を地図に記していくとかつてモアイが運ばれた古代の道が浮かび上がってきます。
島の人々は石像を「モアイ」と呼びます。
研究者たちが島の言葉を詳しく調べると驚くべき発見がありました。
「モアイ」は単に「像」を意味し祭壇に立つ石像は「アリンガオラ」と呼ばれました。
「命ある顔」という意味です。
この言葉を裏付ける遺物が祭壇の跡から発見されました。
さまざまな遺跡からサンゴや赤色凝灰岩などが見つかっていたんですがそれが何を意味するのか長い間分かりませんでした。
発見された遺物の複製がここにあります。
ほぼ完全な形で見つかったものです。
こうして組み合わせると…。
目の形になります。
儀式の際にこのような目を石像にはめました。
そうする事で先祖の魂が宿り石像は「生きる者」となりました。
「命ある顔」がどのようなものだったのかを知るために復元されたモアイです。
崇拝されていたころのモアイは着色されていた事も分かっています。
あるモアイの表面から赤い鉱物顔料の痕跡が発見されています。
現在ロンドンにあるホアハカナナイアもイースター島から運び出された時には赤く彩られていた事が分かっています。
しかしその赤い色は今は消え去っています。
ホアハカナナイアは丘の上から引きずり下ろされました。
荒れてゴツゴツした場所です。
背中の傷を見れば岩の上をどのように引きずられたかが分かります。
しかしそれだけではありません。
船に運ぶため海に入れたんです。
海水によって色はほとんど流れ落ちてしまいました。
唯一残った証拠がこの写真です。
ホアハカナナイアを運び出して間もないころに撮影されたおそらく最初の写真でしょう。
当時の記録には全ての色は洗い流されてしまったとありますが顔がまだ白い顔料で覆われているのが分かります。
実に驚くべき記録です。
「ホアハカナナイア」とは「盗まれた友」を意味します。
島の人々にとってこの名前は抗議するための唯一の手段でした。
ホアハカナナイアが持ち去られた事で立った状態のモアイはイースター島に一つもなくなりました。
なぜ全てのモアイが倒れていたのかは大きな謎です。
モアイが倒れていた理由について研究者の意見は割れています。
エドムンド・エドワーズは1960年に起きたチリ地震津波を根拠に巨大津波説を唱え証拠を集めています。
イースター島は度々津波に襲われてきました。
津波は遠くアラスカなどから来る事もあればチリからもやってきました。
(キャスター)「チリ地震によって引き起こされた巨大な津波が時速800キロ近い速さで太平洋を横断しました」。
マグニチュード9.5を記録した1960年のチリ地震は観測された中で史上最大の地震です。
津波は海岸沿いに立ち並ぶモアイを直撃しました。
私はこの目で見ました。
エドワーズは津波による惨状を実際に見ています。
津波はまっすぐに押し寄せ石の祭壇を破壊したのでしょう。
石像があちこちに散らばっていました。
津波によって他にも3つの祭壇が破壊されました。
エドワーズは歴史上の地震記録を調査し16世紀後半にも同じような災害が起きていた事を発見しました。
1575年チリ南部で大地震が起き巨大な津波を引き起こしました。
1960年と同じ規模の津波です。
こうした災害はそれまでも度々起きていたに違いありません。
そして今後も起こる危険性があります。
確かに地震と津波はモアイが倒れた一つの要因と考えられます。
しかし海岸周辺のモアイの中には津波による傷がないのに倒れているものもあります。
また海から遠く離れた場所にあるモアイも倒れていました。
ホアハカナナイアを除いた全てのモアイが倒れていたのには他にも理由があるはずです。
当時のイースター島で何が起きていたのかを知る確かな手がかりはほとんどありません。
研究者たちは島の歴史からモアイが倒れている原因を探ろうとしています。
島の歴史に関しては今2つの相いれない説があります。
1つ目は島の人口が増えすぎた事で人々が自然を破壊し自ら社会の崩壊を招いたという説です。
この説を唱える研究者たちはイースター島に人が住み始めたのはおよそ2,000年前で最初は50人から100人ほどだったと言います。
イースター島には西暦100年ごろには人が住んでいたと考えています。
歳月とともに島の人口は増え続けました。
2万人を超えていたとしても不思議ではありません。
バーンは人口が過剰に増えた事で自然が破壊されていったと指摘します。
人々が初めてイースター島に足を踏み入れた時島はヤシの木などの樹木に覆われていた事が分かっています。
しかし伐採によって森は消え木がほとんどなくなってしまったんです。
やがて食料不足から平和だった島に戦いが勃発します。
17世紀ごろには戦いが表面化するようになりました。
この説によれば人々は地域ごとに派閥を結成し互いに敵対するようになりました。
少なくとも10の派閥が縄張りを持ち島を分断していました。
海岸沿いには儀式を行うための祭壇が地域ごとにありました。
研究者たちはモアイが攻撃の対象となり倒されたと推測します。
多くの場合は報復として計画的に倒されました。
人口過密が招いた内戦によって社会は崩壊しモアイも倒された。
この1つ目の説に今異議が唱えられています。
2つ目の説は島を訪れたロッヘフェーンの日誌の内容から内戦の可能性を否定するものです。
島を初めて訪れた西洋人ロッヘフェーンが見たのは崩壊状態に陥っているような文明ではありませんでした。
ボースマは島の人口はかつて想定されたよりもはるかに少なかったと推計しています。
島に人が住んでいたという確実な証拠が残っているのは西暦1100年ごろからです。
それらをもとに計算すると18世紀半ばの人口は3,000人ほどだったという事が分かります。
この数字は私が収集した日誌や文書などに記された数字と一致します。
ロッヘフェーンが日誌に記したのは争いのない社会でした。
また3,000人であれば食料が不足する事もなかったでしょう。
しかしかつて肥沃だった島から樹木が消えたのはまぎれもない事実です。
2つ目の説を唱える研究者たちは島は人間ではなく気候変動によって荒廃したと指摘します。
樹木に何が起きたかを突き止めるため気候変動の痕跡を調べます。
環境考古学者のキャンダンス・ゴッセンは火山の火口にたまった水の底から土壌のコアサンプルを採取しています。
サンプルには植物の花粉や種子昆虫の断片植物の破片などこの島に生息していたもの全てが入っています。
サンプルを調べる事で時とともに何が変わっていったのかが分かります。
何百年もかけて積み重なった堆積物の層には過去の痕跡が残されています。
ゴッセンの調査からイースター島が一定の期間で繰り返し干ばつに見舞われている事が分かりました。
(ゴッセン)私たちは島の気候変動には周期がある事を発見しました。
(ゴッセン)どう?
(男性)ああうまくいったぞ。
(男性)ほら完璧だ。
(ゴッセン)ここを見て。
(男性)ああ。
(ゴッセン)サンプルから島が719年ごとに猛暑に襲われ637年ごとに極端に低温で乾燥した気候に見舞われている事が分かりました。
つまり一定のサイクルで猛暑もしくは異常低温と干ばつという両極端の事態が発生しているという事です。
ゴッセンはおよそ560年前に大干ばつが起きていた事も突き止めました。
1456年の事です。
サンプルに痕跡がありました。
モアイが造られなくなった原因かもしれません。
文明の崩壊は気候変動などの自然災害によって徐々に進んでいったという説です。
1456年からの大干ばつによって島の樹木の多くが枯れました。
更に1575年には地震による津波が島を襲いました。
そして1722年。
ロッヘフェーンはモアイ崇拝の儀式を目撃した最初で最後の西洋人となりました。
ロッヘフェーンは消えゆく文明の最後の目撃者だったのでしょう。
モアイ崇拝は当時消滅しつつあったのだと思います。
島は苦境に陥っていました。
人々がモアイの力は失われてしまったと考えたとしても不思議ではありません。
人々はモアイを信仰する事をやめました。
(クリスティーノ)全てが崩壊しようとしていました。
人々はそれまでモアイが彼らを守ってくれると信じていました。
しかし信仰は徐々に失われます。
故意に倒されたモアイもあれば自然と崩れ落ちたモアイもあったかもしれません。
いずれもその場に打ち捨てられました。
人口過密による社会崩壊説と気候変動による衰退説は今なお激しい論争を繰り広げています。
しかしある一点において考古学者たちの考えは一致しています。
長いモアイ崇拝ののちに人々が異なる信仰を求めるようになったという点です。
人々は厳しさを増す日々の支えとなる信仰を求めました。
古くからの信仰は消えうせました。
人々はモアイに背を向けたんです。
樹木が枯れ内戦の嵐が吹き荒れていたかもしれない16世紀以降新たな信仰が根を下ろし始めた事が分かっています。
それから300年後の19世紀に島の人々の証言が集められました。
証言によると島の人々は争う事なく年に1度集まり島全体を統治する1人の「生き神」を選びました。
生き神は「鳥人」と呼ばれ1年間島を統治しました。
石像の代わりに人々が求めたのは生きた生身の人間でした。
その人物は生者の世界と死者の世界とを結びつける存在でした。
それまで崇拝されてきたモアイはもはや必要とされませんでした。
しかし一体だけなお中心的な役割を果たしたモアイがありました。
イギリス海軍によって持ちだされたホアハカナナイア。
島の人々が崇拝し続けたただ一つの石像でした。
今このモアイの重要性がようやく明らかになりつつあります。
ホアハカナナイアは古い信仰から新しい信仰へのいわば橋渡しをしていたと考えられます。
ホアハカナナイアの背中には複数の鳥人が描かれています。
これは特別な事です。
他のモアイにも首や背中に彫刻が施されていますが鳥人が描かれたものはありません。
モアイ信仰と鳥人信仰をつなぐ存在だという事です。
もしかしたら最後に作られたモアイかもしれません。
研究者たちはホアハカナナイアの分析を進めています。
では鳥人信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。
イースター島の人々は生き神である鳥人を選ぶためにある方法を編み出しました。
年に一度過酷なレースを行ったのです。
19世紀に集められた島の人々の証言をもとに研究者たちはレースの全容を明らかにしました。
舞台となったのは島の南西部にある聖なる村オロンゴ。
村からは小さな島が見えます。
海鳥の繁殖地です。
9月の初めごろになると何千羽ものセグロアジサシが渡ってきます。
まるで黒い雲のような大群で遠くからも鳴き声が聞こえてきます。
レースは海鳥の到来とともに始まりました。
出場するのは各地域集団から選ばれた若者たち。
誰が一番早く小島から海鳥の卵を持ち帰るかを競いました。
勝利した若者が属する集団の長がその後一年間鳥人となり島を治めました。
まさに命がけの勝負でした。
出場者たちは250メートルもある断崖を下り1キロ半泳いで小島まで行き卵を探しました。
太平洋のうねりを見ればレースがどれほど過酷なものであったかが想像できます。
人間を寄せつけない島は海鳥の繁殖地でした。
ここまで泳いできたなんて。
最後のレースが行われてから200年ここを訪れた人はほとんどいないはずです。
小島はボートからでさえ上陸するのが難しい場所です。
今日みたいに荒れた日は上陸するのが大変だったでしょう。
しかもレースが行われたのは南半球の8月から9月。
つまり冬の時期です。
雨も降り風も強くまだ寒いころです。
先を競って崖を下りようとすればケガをしてもおかしくありません。
この海域にはサメもいます。
まさに命がけです。
それでも挑戦したのは聖なる卵を見つける事が大きな名誉だったからです。
卵を見つけた者は今度は卵を持って村に戻らなければなりません。
再び海を渡り崖をよじ登るんです。
それには両手を空けておかないといけません。
そこで卵を入れておくものが必要だったはずです。
おそらく卵をこうした袋に入れて鉢巻きのように頭に巻いたんでしょう。
これなら両手を塞がれる事なくオロンゴ村に向かう事ができます。
盛り上がったでしょうね。
勝者は誰か?人々はオロンゴ村で待ち受けていました。

(ピッツ)最初に卵を受け取った人物が鳥人になりました。
鳥人は政治と宗教両方の権力を併せ持ち彼が属する集団もまた権威を与えられました。
しかしそれは僅か1年で終わり翌年渡り鳥がやってくると再び儀式が行われました。
儀式によって毎年多くの若者が命を落としたと考えられます。
一方で島の結束は強まりました。
宗教的権力を一つにまとめた事で鳥人信仰はイースター島に平和をもたらしたんです。
鳥人信仰において重要な役割を果たしていたのがホアハカナナイアです。
村の断崖のすぐそばにホアハカナナイアが立っていた石室があります。
ホアハカナナイアは鳥人信仰の象徴が彫られた唯一のモアイです。
ホアハカナナイアはモアイ信仰が終わりを告げたあとの島の人々の新たな信仰を体現しています。
最新のスキャン技術でこれまで識別できなかった彫刻の細部が明らかになりました。
画像分析によってある事実が判明したんです。
その結果新たな物語が見えてきました。
これまでホアハカナナイアの背中には2羽の鳥がほぼ左右対称に彫られていると解釈されてきました。
しかし最新の画像分析からそれが間違いであり重要なシンボルが見逃されていた事が分かりました。
左右のくちばしに微妙な違いがある事を発見しました。
分かりやすいように色を変えてみましょう。
右側の鳥のくちばしが丸い事が分かります。
くちばしのそばに何らかの傷があります。
そのせいで2羽のくちばしが同じ形のように見えたんでしょう。
くちばしの違いなど取るに足らない事のように思えるかもしれませんがそこから新しい物語が読み取れます。
丸いくちばしの鳥はメスかもしれません。
つまりつがいです。
そして2羽の間には巣立ったばかりのひな鳥がいます。
鳥人信仰は新たな命新たな季節を象徴していた訳です。
この解釈が正しいなら鳥人信仰は単に指導者を選ぶ以外に豊かさや新たな始まりを象徴していた事になります。
最初の卵が届けられた時新たな年が幕を開けたのです。
人々にとってそれは希望の印でした。
食糧不足に陥っていた人々は鳥卵そしてその繁殖力を新しい信仰の中心に据えるようになりました。
ホアハカナナイアは今年に600万人もが訪れる大英博物館に収蔵されています。
ホアハカナナイアにはイースター島の物語が詰まっています。
正面は典型的なモアイですが背中には鳥人信仰の物語が刻まれています。
全てがこの一つの石像に込められているんです。
イースター島にはホアハカナナイアの返還を求める人々がいます。
ホアハカナナイアはイギリスに奪われました。
私は大英博物館に祖先を返してくれるよう手紙を書きました。
ホアハカナナイアはイギリスではなくイースター島にあるべきです。
ホアハカナナイアは今なお島から遠く離れた大英博物館にあります。
文字を持たなかったイースター島の人々によって刻まれた歴史の証人であり人々がどのように祖先をしのび未来に目を向けるようになったかを記した信仰の記録です。
そして人々がどう逆境に立ち向かい新たな未来を切り開くため平和に暮らすすべをどう勝ち得たのかその全てを物語っているのです。
2015/12/14(月) 00:00〜00:45
NHKEテレ1大阪
地球ドラマチック「イースター島 モアイ像の謎に迫る」[二][字][再]

ナゾの巨石像、モアイ。いったい誰が、何のために作ったのか?そして、なぜ一体を除いてすべて倒れていたのか?最新技術で判明した新事実をもとにモアイ像のなぞに迫る。

詳細情報
番組内容
太平洋に浮かぶ絶海の孤島、イースター島に立ち並ぶ巨大なモアイ像。長い間、多くのなぞに包まれてきた。そんな中、一つの像からなぞを解く手掛かりが見つかった!背中に、あるシンボルが刻まれていることがわかったのだ。また、島に上陸した英国人の日誌から、彩色されていたことや、ほとんどの像が倒されていた事実も判明。当時の気象状況など、島の歴史をひも解きながら、モアイ像のなぞに迫る。(2014年イギリス)
出演者
【語り】渡辺徹

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 自然・動物・環境
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
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英語
サンプリングレート : 48kHz

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