イギリスウィリアム王子の妻キャサリンさんは2015年3月ドラマ「ダウントン・アビー」の撮影現場を訪れました。
実はキャサリンさんはこのドラマの大ファン。
いつもウィリアム王子と一緒に見ているそうです。
大ヒットドラマ「ダウントン・アビー」は待望のシーズン4がスタートします。
20世紀初頭のイギリス貴族の世界を描いたこのドラマ。
見どころは豪華な館ダウントンを舞台に繰り広げられるさまざまな人間模様と愛憎劇です。
その中心的な存在の一人が…あなたには本当に感謝してる。
華やかに見えるダウントンの暮らし。
しかしコーラの夫グランサム伯爵は代々受け継いだ広大な領地を守るための資金繰りに困っていました。
その窮地を救ったのが伯爵夫人コーラです。
アメリカの資産家の娘でばく大な持参金と共に伯爵家に嫁いできたのです。
あなたは反対を押し切り財産目当ての結婚をした。
コーラの持参金はもはやコーラの持参金ではないのです。
我が所領扱いとなり私の相続人に受け継がれます。
それが決まりです。
手は出せません。
持参金まで持っていかれます。
あなたの夫が私から強奪したせいです。
怒らないで。
法律上の取り決めよ。
おかげで所領の分割を防げた。
当初は持参金目当ての結婚でしたがその後2人は愛を育んできました。
本当に私は君を幸せにしたか?あなたが私に恋をしたからよ。
記憶が正しければ結婚して1年たってからね。
1年もかからなかった。
新たに始まるシーズン4ではコーラを取り巻くダウントンに大きな変化が訪れます。
よくやったコーラ。
大成功だ。
コーラに乾杯。
コーラに。
お母様。
お母様。
コーラは窮地に立たされた娘に優しく寄り添います。
いらっしゃい。
お母様!ごめんなさい。
アメリカから母親と弟がやって来ます。
どうもハロルド。
やあ。
妻として母として女性として輝きを増すコーラ。
ダウントンを支え続けます。
エリザベス・マクガヴァンです。
ドラマ「ダウントン・アビー」で私が演じているグランサム伯爵夫人。
これはそのモデルとなった大富豪の令嬢たちの物語です。
時は1873年。
ニューヨークでも有数の富豪の娘が結婚相手を探していました。
評判の悪い父親のためにアメリカの上流社会から拒絶された彼女はイギリスの貴族と結婚。
やがて偉大な政治家ウィンストン・チャーチルの母となるのです。
イギリス貴族にとって一族に流れるアメリカの血は後ろめたい秘密です。
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて200人を超えるアメリカ人女性がイギリスの貴族のもとへ嫁ぎました。
これは持ち前のバイタリティーと財力でイギリスの支配階級に風穴をあけた美しきアメリカ人女性たちの物語。
真実の愛を見つけた女性。
結婚生活が地獄となった女性。
彼女たちは皆親の財産によって翻弄されたアメリカン・プリンセスなのです。
1873年8月12日。
19歳のジェニー・ジェロームは舞踏会に出席していました。
そこで出会ったのが24歳のランドルフ・チャーチル。
イギリスのマールバラ公爵の三男です。
ランドルフは僅か一度のダンスで黒い髪の美しいジェニーに恋をします。
このダンスがイギリス貴族社会の運命を変える事になるのです。
世界を変えた3日間でした。
3日の間に2人は既に婚約する約束までしていたのです。
2人の勢いを止める事は誰にもできませんでした。
ジェニーの愛称で知られるジャネット・ジェロームは1854年レナードとクララ夫妻の娘としてニューヨークで生まれました。
父レナードは貧しい農家の出身。
母クララは裕福な家庭の娘でした。
1850年代若い夫婦はニューヨークに移り住みます。
クララの望みは上流社会の仲間入りをする事。
レナードの目的はお金でした。
レナードは一財産を築きそれを失い再び築きました。
そういう人は当時は珍しくなかったのです。
レナード・ジェロームはウォール街の投機家でギャンブラー。
詐欺師や怪しげな金融業者が跋扈するこの街で彼はウォール街のキングとして知られるようになります。
彼らは男らしい男でした。
自分たちをコンキスタドール征服者だと考えていました。
激しく変動し予測不可能な市場で危険な賭けを行い勝利を収めていったのです。
まばたき一つせずリスクに正面から向き合っていました。
ジェニーをドラマチックな生涯へと駆り立てた原動力は父親のレナード譲りのようです。
そしてジェニーと同じ粘り強さが息子のウィンストン・チャーチルにも見られます。
これもまたレナードから受け継いだ性質なのではないでしょうか。
1860年代の初めにはレナードの財産は1,000万ドルに達していたと考えられています。
一家はマディソン街と26丁目の角に贅を尽くした邸宅を建て移り住みました。
自慢は600席のプライベートオペラハウス。
竣工パーティーの会場にはシャンパンやオーデコロンの噴水があったそうです。
オーデコロンの噴水のどこがいいのか私には分かりませんが。
しかしレナードはすぐに思い知らされます。
地位はお金では買えないのだと。
(セバ)レナードとクララのジェローム夫妻は財力を使って娘たちを社交界入りさせ立派な嫁ぎ先を見つけたいと思っていました。
何としてでも古くからの資産家の社会に潜り込みたかったのです。
当時ニューヨークの社交界はオランダ系入植者の流れをくむ名門ニッカーボッカーが取りしきっていました。
数百の家系が何世代にもわたりこの街を支配してきたのです。
ジェローム夫妻にとって上流社会への扉は固く閉ざされていました。
ここはニューヨークのグリニッジビレッジにあるかつての商人の邸宅です。
ニッカーボッカーの一員トレッドウェル一族が98年間住んでいました。
(ベラブ)トレッドウェル一族は移民として17世紀にアメリカにやって来ました。
彼らはその後自らの力ではい上がりいわゆるニッカーボッカー社会の一員となったのです。
ニッカーボッカーは当時の流行をリードしました。
音楽を選び美術品を選び建築を選び自分たちの思いどおりの街を作り上げたのです。
彼らは成金を蔑みレナードや当時鉄道王ともてはやされたコーネリアス・バンダービルトのような富豪に侮蔑的な言葉を投げかけます。
即席貴族。
うぬぼれ屋。
成り上がり。
眉唾もの。
にわか成金。
成りたての貴族。
ニッカーボッカー社会の女王として君臨し恐れられたのが途方もない富を持つキャロライン・スカマホーン・アスター夫人でした。
1870年代アスター夫人の邸宅は今のエンパイアステートビルがある場所に建っていました。
邸宅の舞踏室には「アスター夫人の400人」と呼ばれるエリートだけが入る事を許されていました。
離婚した人ユダヤ人そして成金は排除されました。
レナード・ジェロームのような人は絶対に「アスター夫人の400人」には入れてもらえなかったでしょうね。
妻のクララがアメリカ先住民の血を引いているという噂があった事もその理由だといわれています。
ウィンストン・チャーチルはこういう話をとても面白がりました。
でも当事者は面白がってなんかいられません。
そのために上流社会に入れてもらえないのですから。
レナードにはスキャンダルもありました。
(ウォレス)彼はオペラに夢中になっていました。
オペラというよりその歌手にです。
(ウォレス)レナードが援助していた歌手の一人ミニー・ハウクは彼の子どもだったかもしれないといわれています。
ミニーの写真をジェニーの写真の隣に並べてみると疑惑を持たれるのもうなずけます。
(キホー)レナードは華やかな社交の場に招かれなくても気にしませんでしたが妻のクララはひどく気に病みました。
娘たちのためによりよい環境を求めていたクララはヨーロッパへ渡りそこで娘を社交界に送り出そうと考えました。
1867年。
クララは3人の娘と共にパリへ向かいます。
ニッカーボッカー社会への突撃は失敗に終わりましたが彼女たちはヨーロッパで一大旋風を巻き起こす事になるのです。
12歳のジェニー・ジェロームとその姉妹は母親とパリにいました。
フランスはナポレオン3世とスペイン生まれの妻ウジェニーの統治下にありました。
輝かしく退廃的なパリの宮廷。
ウジェニー皇后は財産と品位を持った者であれば誰でも歓迎しました。
(キホー)ジェローム姉妹が足を踏み入れたのは男女関係が複雑に絡み合う世界でした。
そこでは財産が衣装が物を言います。
誰にでも浮気が認められるようなひどくモラルの低い世界でした。
パリの宮廷にいたアメリカ人はジェニーとその姉妹だけではありません。
コンスエロ・イズナガ。
彼女も未来のアメリカン・プリンセスです。
コンスエロの母親はルイジアナ州のプランテーション経営者の娘でした。
父親はキューバの裕福な家の出身で砂糖工場などの資産を持ちニューヨークに仲買商社を作っていました。
コンスエロとジェニーは富裕層向けの学校での知り合いです。
イズナガ家もまたニッカーボッカー社会に受け入れられずパリへ移り住むのです。
しかしジェニーとコンスエロのパリでの生活は突然劇的な終わりを迎える事になります。
パリへ来て3年が過ぎジェニーの姉が幸せな結婚をしようとしていたちょうどその時フランスとプロイセンの間で戦争が勃発。
1871年の初めパリはプロイセンに占領されました。
(セバ)直ちに脱出しなくてはなりませんでした。
周囲で戦闘が広がり食糧が不足していたからです。
僅かばかりの持ち物を手に彼女たちはパリを出る最後の列車に乗り込みました。
向かった先はロンドンでした。
ロンドンでレナードと合流したジェローム一家はブラウンズ・ホテルに腰を落ち着けます。
ここでジェニーたちが考えたのはイギリス社交界へのデビューでした。
しかしニューヨークの社交界がお高くとまった閉鎖的な社会であるならば何世紀にも及んで貴族が牛耳っているイギリスは更に閉鎖的なのではないでしょうか。
こちらは…ドラマ「ダウントン・アビー」でおなじみの邸宅は実際にはカナーヴォン伯爵夫妻の住まいです。
書庫には高貴な一族の家系を示す記録が残されています。
(カナーヴォン)驚くべき家系図です。
カール大帝まで遡る事ができるんですよ。
814年から続いています。
本当にすばらしいですね。
ここにちょっと奇妙なページがあります。
横長になっているんです。
1枚に19世代分が書き込まれていますね。
なんて面白いんでしょう。
イギリス貴族の家系が長く続いているのは独特の階級と相続についての厳格な決まりがあるからです。
(カナーヴォン)貴族社会の頂点はイギリス女王です。
王室の下に公爵がいます。
現在の家系は確か24だったと思います。
その下に侯爵がいて伯爵がいて更にその下に男爵がいます。
爵位は世襲制で何世代にもわたって長男に受け継がれていくのです。
つまり地位が目当てでイギリスの貴族と結婚するなら勝者を狙えという事。
唯一の勝者とは爵位と財産の全てを相続できる長男です。
弟たちは親が亡くなってもせいぜい1枚か2枚の絵をもらう事しかできません。
でもそのおかげで偉大なイギリスの財産は長く受け継がれてきたのです。
しかし19世紀末イギリス貴族はある秘密を抱えていました。
富の基盤が崩れつつあったのです。
(カナーヴォン)領地を支える農業収入が激減していました。
原因はアメリカ産の小麦と農業のグローバル化にありました。
(ジェニングス)美しく由緒ある邸宅なのかもしれませんがその多くは崩れ落ちそうでした。
貴族たちは金が入ってこないのに贅沢な暮らしを変えようとしませんでした。
莫大な富を持つジェニーとコンスエロ。
結婚相手を探す彼女たちは思いがけずイギリス社交界の頂点にいる人物を味方につける事になります。
パリを脱出したあとジェニーとコンスエロはロンドンに滞在していました。
ここで2人が狙ったのはザ・シーズンのスターになる事でした。
ザ・シーズンとは若い男女がデビューする社交シーズンの事。
選ばれた人々が結婚相手を探す場でもあります。
(ウォレス)相手探しはザ・シーズンのさまざまなイベントの中で行われました。
ポロの試合や大規模できらびやかな舞踏会などに足を運ぶのです。
どれもニューヨークにはないものでした。
当時のロンドンは世界最大の国際都市で400万人近い人口を擁していました。
ニューヨークでは社会的エリートの数は400人ほどでしたがロンドンでは1,500人です。
ジェニーたちは数か月しかない社交シーズンを有効に使わなくてはなりません。
ライバルであるイギリスの令嬢たちは教育レベルは高くないものの会話術にたけていました。
私の大叔母のアイシー・ハミルトンは「ダウントン・アビー」の伯爵の母バイオレットのモデルです。
彼女は結婚を意識してしつけられました。
家庭教師と一緒に庭を歩き木のある所に来る度に立ち止まって自分から新しい話題を持ち出すように教育されたそうです。
パーティーの席でたとえ植物並みの社交性しかない男性が相手でも会話を途切れさせないようにするためです。
アメリカ生まれのジェニーにはイギリスのライバルたちに比べて決定的に有利な点がありました。
イギリスではたとえ跡継ぎであっても女の子はそれほど大事に扱われていませんでした。
でもジェニーは褒めそやされて大きくなりました。
両親は娘たちは美しく才能があり音楽に秀でていると信じていたのです。
そのおかげでジェニーは自信に満ちあふれていました。
あの劇作家オスカー・ワイルドも当時ジェニーの美しさと賢さを称賛しています。
更にジェニーやコンスエロには強力な武器がありました。
パリのデザイナーシャルル・ウォルトです。
アメリカ人女性に独特の魅力を与えたもの彼女たちをイギリスの娘たちとは別格の存在にしたもの。
それはウォルトを見いだした事と服の着こなし方を知っていた事です。
アメリカの富豪の娘たちはウォルトのドレスをシーズンごとに90着買う事もありその費用は2万ドルにも上りました。
華やかなドレスを身にまといはじけるような機知に富んだアメリカの令嬢たち。
イギリスの男たちはすっかり魅了されてしまいました。
中でもある一人の男性が。
(ウォレス)皇太子は女性と戯れるのが大好きでした。
暇を持て余してどうしようもなく退屈していたのです。
あのころパーティーを主催する人たちは皇太子を楽しませるために彼が口説けるような目新しい若い娘をあてがっておくのがいいと思っていたようです。
(キホー)アルバート・エドワード皇太子。
この人の存在こそが社交界へのアメリカ人女性流入現象を作ったのです。
1860年にアメリカを訪問した皇太子はアメリカの活力を愛し若い女性たちを愛します。
とりわけ女性たちの方を。
彼が気に入ったのはアメリカ女性のセックスアピール。
中でも一番のお気に入りがコンスエロでした。
皇太子は彼女の事をすばらしい娘だと思ったようです。
愉快で慣習にとらわれずに楽しむ事を知っている女性でしたから。
皇太子と一緒に座って南部の歌を歌ったりなんとバンジョーの弾き方を教えたりしました。
当時の社交界ではありえない事でした。
皇太子が愉快なコンスエロと肉感的なジェニーに夢中になった時全ての扉が2人の前で開いたのです。
夏になるとザ・シーズンはヨット競技の行われるワイト島に場所を移します。
家族と共にワイト島に来ていた19歳のジェニーは舞踏会に出席します。
1873年8月12日の事でこの日付は記念すべき日となります。
(セバ)誰もがジェニーのすばらしい髪を褒めました。
魅力的なその体のラインをまるでヒョウのようだと例えた人もいたようです。
舞踏会にはマールバラ公爵の三男24歳のランドルフ・チャーチルも出席していました。
ランドルフが子ども時代を過ごしたブレナム宮殿。
イギリスでも有数の大邸宅です。
彼はお酒を飲んで騒ぐのが好きでよくパリへ行きました。
あのころのパリの若い娘はちょっと下品なところがあってランドルフはそれが気に入って通っていたんだと思います。
彼は下品であればあるほどよいなどと言っていました。
ホールの反対側にいるジェニーを見つけた彼はダンスを申し込みます。
(セバ)ランドルフは見た目はそれほど魅力がある訳ではありませんでしたがとても粋で話がうまく服の着こなしが上手でした。
そんな男がとてもセクシーなジェニーに引かれたのです。
お互いに一目ぼれでした。
僅か3日後ランドルフは結婚を申し込みます。
しかし両家の親は反対でした。
ニューヨークのジェローム夫妻が不満だったのは娘が爵位も財産も相続できない公爵の三男を選んだからです。
マールバラ公爵夫妻は素性の知れないアメリカ娘との結婚を許しませんでした。
ワイト島から戻ったランドルフは公爵夫妻に結婚の許しを請いましたが両親の反応は予想したとおりでした。
ミスジェローム?誰だ?それは。
しかし交わされた手紙から2人が深く愛し合っていた事が分かります。
(ランドルフ)「あなたはこの世で一番すばらしいいとしい人だ。
あなたのような人の愛を勝ち取る幸運に恵まれた喜びを私は隠す事ができずにいる」。
ランドルフは情熱的でしたが主導権を握っていたのはジェニーでした。
(ジェニー)「思いどおりにさせてくれないのならあなたと結婚は致しません」。
イギリス人なら公爵の息子にそんな口のきき方はしません。
若い2人には味方がいました。
皇太子がランドルフの選択に理解を示したのです。
王室が承認した事で正式に婚約の運びとなりました。
ところが持参金の問題で危うく破綻しかけます。
当時持参金は全て夫のものになりました。
イギリスの女性は親から譲り受けた財産を持つ事が許されていなかったからです。
ジェニーの父レナードは反対しましたが公爵の弁護士たちに説得されついに5万ポンドの持参金を用意する事を承諾します。
1874年4月15日。
ジェニーとランドルフはパリのイギリス大使館で結婚しました。
レナード・ジェロームの娘は今やレディーチャーチル。
富で地位を手に入れたのです。
(ウォレス)ニューヨークの社交界ニッカーボッカーの女性たちは胸を剣で刺されたような気分だったでしょうね。
あのジェニー・ジェロームがレディーランドルフ・チャーチルになったのですから。
(ウォレス)上流階級を自負してきた人たちが自らの過ちを認めざるをえなくなったのです。
貴族の称号を得てニューヨークの社交界に戻ってきた女性たちを受け入れなければならないのは耐え難い屈辱でした。
ランドルフとの結婚から7か月。
ジェニーはブレナム宮殿で男の子を産みました。
8時間かかって誕生したのはウィンストン・レナード・チャーチル。
20世紀のイギリスで最も偉大な政治家となるあのチャーチルです。
ランドルフは結婚の直前にイギリス議会の議員になっていました。
ジェニーは政治家の妻として夫のキャリアのために奔走します。
(クーパー)ジェニーは美しく魅力にあふれていました。
夫に投票してほしいと彼女に言われたらノーとは言えません。
2人はロンドンに居を構えましたが度々ブレナム宮殿を訪れました。
しかしジェニーにとって義理の母親は疎ましい存在でした。
(ジェニー)「公爵夫人は単純に私という人間が気に入らないのです。
私たちは互いに礼儀正しく接していますが火山のようなものでいつ噴火するか分かりません」。
(セバ)ジェニーが早々に学んだのは賢いところを見せるとイギリス人にとても嫌がられるという事でした。
アメリカ人女性は先住民族とコーラスガールをミックスした異国の生き物だと思われていると語っています。
1875年。
もう一人の貴族がアメリカン・プリンセスを探そうと心に決めます。
7代目マンチェスター公爵の長男マンデヴィル子爵。
彼はキンボルトン城を相続する事になっています。
しかし多くの貴族同様立派な爵位と領地を持っていてもそれを維持する経済力がありません。
彼はスカウトのように有望な相手を探しにアメリカへ行く事にしたのです。
そしてニューヨーク州北部のサラトガスプリングスでコンスエロ・イズナガと出会い恋に落ちます。
彼は結婚相手として理想的な人物とは言えませんでした。
公爵家には財力がなく彼自身にもショーガールや娼婦との悪い噂があったからです。
(ジェニングス)イズナガ家は心配しました。
マンチェスター公爵家の評判を聞いていたからです。
一方公爵もコンスエロをアメリカの野蛮な娘と呼びました。
しかし両家ともこの結婚がお互いにとってプラスになるという点では合意しました。
イズナガ家は名門の仲間入りをし公爵家にはいくらかの金が入るからです。
1876年5月22日。
2人はマンハッタンのグレース教会で結婚しました。
これはこの年の一大社交イベントとなりました。
(ラプエルタ)たくさんの馬車と招待客。
式に出席した有力者たちのリストを見ると社交界でのそれぞれの立ち位置が変わり始めていた事が分かります。
ジェローム家のような家だけでなく旧家のニッカーボッカーの名前もそこには見られました。
イギリスに戻り2人は新生活を始めます。
結婚生活は順調で3人の子どもが生まれましたが幸せな時は長くは続きませんでした。
マンデヴィル子爵が妻のもとを去ったのです。
彼はロンドンに姿をくらまし見かけたという噂はいかがわしい場所ばかりでした。
コンスエロはつらい手紙を送ります。
「あなたに手紙を書き返事を期待するのは無駄な事かもしれません。
でも何の便りもないまま時がたつのには耐えられないのです。
あなたに会いたいと思わない日は一日もありません。
子どもたちとあなたの事を話しています。
会えなくても子どもたちにはあなたの事を覚えていてほしいから。
愛を込めてコンスエロ」。
宛先は「ロンドンデンマン・ストリートペリカンクラブマンデヴィル子爵」となっています。
ペリカンクラブは評判の悪いギャンブルの店でコンスエロが知っていた数少ない連絡先の一つでした。
夫は手紙に関心はなくそれどころかミュージックホールの歌手と公然とつきあっていました。
経済的に困窮したイギリス貴族は次々と花嫁探しにアメリカへ向かう事になります。
(アスレット)必要なものをたっぷり持っているかわいい娘が大勢いると思っていたのです。
必要なものとはつまり自分たちの生活費であり屋敷の修繕費です。
「アメリカの金鉱」と題された当時の風刺漫画。
アメリカ国内にも皮肉な見方が広がりつつありました。
スペンサー家が500年以上所有している土地です。
亡くなったダイアナ元皇太子妃も10代をここで暮らしました。
ダイアナの曽祖母はアメリカから海を越えて嫁いできたフランセス・ワークです。
1878年の夏。
フランセスは後に夫となる男性に出会いました。
アイルランドのファーモイ男爵の次男…この出会いから4世代後にイギリスの王位継承者が生まれる事になります。
第9代スペンサー伯爵はダイアナの弟です。
私の曽祖父ジェームズはさっそうとした男でした。
それでアメリカ人のフランセスは恋をしてしまったのです。
ジェームズの方は彼女に恋をしたのか彼女の父親の財産に恋をしたのか私には分かりません。
彼女は堂々とした女性で慣習にとらわれず父親と同じように馬が大好きでした。
アメリカ・ロードアイランド州ニューポート。
ここはフランセスがかつて住んでいた家エルム・コートです。
現在はフランセスのひ孫が住んでいます。
(ヴァン・ペルト)フランセスはとても背が高かったようです。
結婚したのは若い時で確か22歳だったと聞いています。
さっそうとしたエレガントなイギリス紳士にすっかり魅了されてしまったようです。
フランセスはジェームズに夢中になります。
しかしやり手の株の仲買人だった父親フランク・ワークは結婚を認めませんでした。
フランク・ワークはオハイオ州チリコシーの出身です。
幼くして父親を亡くし貧しい中で育ちました。
(スペンサー伯爵)フランクはよく酔って騒ぎを起こしました。
町なかを馬で猛スピードで走るんです。
みんなが果物を投げつけて馬から落とそうとしますがなかなか落ちません。
馬を操るのが上手だったんですよ。
そして14か15の時に5ドルだけ持って家出しました。
最終的にニューヨークにたどりつきその5ドルから莫大な富を築きました。
遺産は1,500万ドルでした。
フランクは持参金として支払う自分の財産がジェームズ・バーク・ローチの生活費になる事が許せなかったのです。
フランクはイギリス貴族が大嫌いだったんです。
私を見たらムカッとするでしょうね。
アメリカのすばらしい女性たちが女々しくて能なしのイギリス人に次々と奪われていくのを彼は途方もなく不公平だと感じていたのです。
こんな形で女性たちに海を越えさせるのは絞首刑にも値する事だとまで言っていました。
しかし恋をしていたフランセスは父親と同じくらい強情でした。
1880年9月。
若いカップルは結婚します。
義理の息子ジェームズに対するフランクの懸念はたちまち現実のものとなりました。
残念な事にジェームズは大変な浪費家でした。
妻のフランセスが父親からもらっている小遣いからも相当な額を巻き上げていたと聞いています。
フランクは娘の夫が賭け事にのめり込み1年で10万ドル吹き飛ばしたと知らされました。
現在の価値でおよそ250万ドルです。
持参金を携えたアメリカン・プリンセスたちの結婚生活は恋愛とともに始まりました。
しかし中にはうまくいかなくなる夫婦もいました。
そして更なる悲劇に見舞われた女性もいたのです。
コンスエロ・イズナガがマンデヴィル子爵と結婚して10年余り。
2人の間には跡継ぎのリトル・キムと愛らしい双子の娘メアリーとネルがいました。
しかし夫はミュージックホールのスターベシー・ベルウッドと同棲。
コンスエロと3人の子どもは放っておかれ屈辱を味わっています。
そして更に悪い事が…。
マンデヴィル子爵に関わる大きなスキャンダルが2つ起きたのです。
1つ目は同棲相手のベシー・ベルウッドがタクシー運転手への暴行で訴えられた事。
事件は大きく報道されコンスエロは大恥をかきます。
更に同じ年に夫のマンデヴィル子爵が破産を宣言しました。
コンスエロはひどく心配して夫が精神を患っている事にするよう弁護士に頼みました。
ランドルフとジェニーのチャーチル夫妻もまた別居中です。
ジェニーはいまだに美しさとカリスマ性を保ち愛のある生活を求めています。
(セバ)ジェニーはとても孤独だったのです。
もちろん言い寄る男性はたくさんいましたが初めのうち彼女はこうした男たちを寄せつけませんでした。
夫をまだ愛していたからです。
(クーパー)ジェニーには大勢の愛人がいました。
一番有名なのは当時のイギリス皇太子です。
彼女ははばかる事なく皇太子をタムタムと呼びました。
ジェニーには愛人が200人いたと噂されていました。
本当にそんなにいたとは思えませんけれど。
自分をあがめてくれる男性が必要だったんでしょう。
心だけでなく体も求めてくれる男性の存在が。
ジェニーは夫の政治活動をずっと陰で操っていました。
おかげで彼のキャリアはうまくいっているように見えました。
次期首相候補とまで言われたのです。
しかしランドルフは政府の要職に就いた6か月後突然辞任してしまいます。
この事を妻に報告もしませんでした。
(クーパー)まさに青天の霹靂。
ジェニーが新聞でそのニュースを知りショックを顔に表すと彼はこう言ったそうです。
「どうだ驚いただろう」。
実はランドルフは病気にかかっていたのです。
進行まひと言っていましたが要するに梅毒です。
彼は自分の病気について妻には正直に話しました。
おかげでジェニーには病気がうつる事はありませんでした。
(セバ)息子たちに悪い評判が立つ事を恐れたジェニーはランドルフをしばらく遠ざける事にして夫を世界旅行に連れ出しました。
ランドルフは暴れる事が多く体を拘束しなければなりませんでした。
無事に戻れるとは思えなかったので鉛で裏打ちをした柩を持っていきました。
なんとそれが現実になってしまいます。
ロンドンに戻ってひとつき後ランドルフは息を引き取りました。
ジェニーは最後まで献身的に看病しました。
ランドルフの死後議員用のマントを引き取りに来た人にジェニーはこう言いました。
「これは息子のために取って置きます」。
彼女はありったけの愛情とエネルギーを息子のウィンストンに注ぎました。
(セバ)「あなたは人を率いる運命にある」。
ジェニーは事あるごとにウィンストンにそう話していました。
ウィンストン・チャーチルは自分がアメリカと血のつながりがある事を強く意識していました。
母親から両国の絆について教えられていたからです。
一方マンデヴィル子爵に嫁いだコンスエロは1890年に公爵夫人となりました。
夫の父が亡くなり夫が爵位を継いだからです。
しかしその僅か2年後夫は亡くなりました。
コンスエロにとって本当につらい出来事はそのあとに起こりました。
双子の娘メアリーとネルが相次いで亡くなったのです。
コンスエロはティファニーに依頼しキンボルトン教会にステンドグラスを飾ります。
愛する娘たちを永遠にしのぶためでした。
双子の娘の一人メアリーは16歳で急死しました。
恐らく熱病にかかったのだと思います。
残されたネルは結核と診断され手を尽くしたもののメアリーの5年後に亡くなりました。
コンスエロの華やかな人生の頂点はマンハッタン・グレース教会での結婚式でした。
でもこのキンボルトン教会では彼女が2人もの子どもの死という大きな悲しみに耐えていた事が見て取れます。
イギリスへ渡ったある富豪の娘が未来に託した偉大な遺産。
当時その重要性は誰にも分かりませんでした。
フランセス・ワークの結婚生活は結局7年で終わりを迎えました。
父親のフランクが娘の夫の無能さにうんざりして援助を断ち切ったのです。
フランクは初めから自分が正しかったと考えていました。
ヨーロッパ人は寄生虫だと。
そして娘に「この男と別れなければもう1ペニーもやらない」と言いました。
更にフランクは娘の夫ジェームズ・バーク・ローチとの話し合いに弁護士を同席させてこう言ったそうです。
「君の借金は肩代わりしてやるが息子たちは私が育てる」。
(スペンサー伯爵)ジェームズは金をもらって子どもたちを義理の父に渡したという事になります。
フランクは更なる手を打ちます。
娘とその子孫にイギリスとの関係を一切断たせようとしたのです。
(ペルト)これはフランク・ワークの遺言書の写し。
こんな一文があります。
「フランセスはグレートブリテンおよびアイルランド連合王国あるいはそれに属する地域に生涯居住または訪問してはならない。
孫たちはローチではなくワークの姓を名乗り成年に達すれば全員アメリカ国籍を取得するものとする」。
子や孫が守るべき事をかなりのボリュームで遺言書に盛り込みました。
「ヨーロッパ人と結婚してはならない。
ヨーロッパに旅行してはならない」。
しかしフランク・ワークは惨めにも敗北します。
娘フランセスの息子モーリスは第4代ファーモイ男爵となりその娘は第8代スペンサー伯爵と結婚。
この2人の間に生まれたのがダイアナ元皇太子妃です。
イギリス貴族を忌み嫌ったフランク・ワークの子孫がなんと将来のイギリス国王となる事に…。
フランク・ワークがこれを見たら完全に裏切られたと嘆くでしょうね。
子どもや孫たちは遺言を全く無視してイギリスに住んでいるんですから。
ものすごく怒るでしょう。
(ペルト)墓の中で怒るかどうかは分かりませんがきっと眉毛をつり上げますよ。
でもイギリスへ渡った子孫はみんな成功しています。
アメリカン・プリンセスと貴族たちのほとんどは恋愛で結ばれました。
父親に逆らって結婚したフランセスはダイアナ妃の曽祖母となりました。
ジェニーは夫の死後息子と同い年の男性と結婚しました。
けれども富豪の娘が財力で貴族の仲間入りをするという強引な取り引きは時に残酷な結果をもたらすのです。
2015/12/13(日) 23:15〜00:07
NHK総合1・神戸
海を越えたアメリカン・プリンセス「第1回 英国貴族への持参金」[二][字]
かつて、アメリカの大富豪の娘たちがイギリスの貴族に嫁いだ。ダイアナ妃の曽祖母もそのひとりだ。彼女たちの数奇な運命をたどるドキュメンタリー。*3回シリーズの第1回
詳細情報
番組内容
番組の案内人は、人気ドラマ「ダウントン・アビー」で伯爵夫人を演じるエリザベス・マクガヴァン。ドラマでは伯爵夫人はアメリカの富豪の娘という設定だ。実際に19世紀末から20世紀初頭、多くの女性が財政難のイギリス貴族に嫁いだ。多額の持参金目当ての政略結婚だった。ダイアナ妃の曽祖母やチャーチル元首相の母親もアメリカから嫁いだ。彼女たちの結婚からその後の人生を再現ドラマを交えて紹介する。
制作
〜Finestripe Productions/Smithsonian Networks制作〜
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 海外・国際
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
英語
サンプリングレート : 48kHz
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