明日へ−支えあおう− 証言記録 東日本大震災 第48回「福島県飯舘村」 2015.12.13


あの日未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第48回は福島県飯舘村です。
山あいに広がる和牛の産地飯舘村。
豊かな牧草地に牛を放牧し220戸もの畜産農家が飯舘牛を飼育していました。
やがて育てられた肉牛はブランド牛となり産業の柱として村を支えてきました。
しかし2011年3月12日。
福島第一原発1号機建屋が爆発するとこの日から飯舘村の日常は一変します。
福島第一原発から村まではおよそ40キロ離れています。
それでも一帯は深刻な放射能汚染にさらされます。
1か月後飯舘村は全村避難となり住民は村外へ避難する事を余儀なくされます。
この時厳しい選択を迫られたのが畜産農家です。
廃業するのか。
それとも牛を連れて避難するのか。
選択肢は2つ。
牛を置いて逃げるわけにはいかない。
しかし牛と避難する場所は見つからない。
多くの牛飼いたちが廃業へと追い込まれていきます。
それでもあきらめなかった人たちがいました。
廃業した仲間の牛を引き取り育てています。
原発事故で奪われた飯舘村の人と牛の暮らし。
廃業か継続か。
牛飼いたちの苦悩の2か月を描きます。
福島県を震度6強の大地震が襲います。
飯舘村では電気水道電話などあらゆるライフラインが寸断されます。
中でも畜産農家たちを苦しめたのは停電でした。
暗闇の中手探りで子牛の出産を行った松下義喜さんです。
真っ暗な牛舎から聞こえてきたのは産気づいた母牛の鳴き声でした。
松下さんは急いで明かりを確保しようと車に飛び乗ります。
ヘッドライトで母牛を照らし続けたのです。
衰弱した状態で生まれた子牛。
しかし暖房が使えず寒さの中でみるみる体力は奪われていきます。
1週間後。
子牛は命を落としました。
震災当日に生まれた子牛の死。
しかし飯舘村の畜産農家が本当の悲劇に襲われるのは翌日から。
3月12日福島第一原発が水素爆発。
更に3日後2号機が損傷。
放出された高濃度の放射性物質が風に乗って北西に位置する飯舘方面に降り注ぎます。
やがて牛の世話を続ける飯舘村の農家に放射能の影響が徐々に現れ始めます。
1週間後搾乳した牛乳から放射性ヨウ素が検出。
出荷が禁止となり酪農家たちは搾った牛の乳を捨てざるをえなくなります。
2日後今度は畜産農家に対して福島県から通達が出ます。
「放射能に汚染された牧草を食べないように」。
「放牧などを自粛するように」というものでした。
放牧で品質を高めてきた飯舘牛。
春先の放牧を控えた畜産農家に危機感が生まれます。
このまま飯舘村で牛を飼育する事はできるのか?長年にわたって優良なブランド牛を育ててきた農家の鴫原喜市さんです。
放射能への不安感が増す中専門家による説明会に参加すると牛の世話は続けても大丈夫だと言われます。
ところが翌日。
これまで避難指示のなかった飯舘村。
しかし政府は突如飯舘村を計画的避難区域に指定。
これによって住民は全村避難となり5月いっぱいをめどに村を出なくてはならなくなるというのです。
畜産農家は厳しい選択を迫られます。
牛と共に避難し畜産を継続するか。
牛を手放し廃業するか。
選択肢は2つしかありませんでした。
突然の全村避難。
53頭の牛を抱えていた鴫原さんは混乱します。
全村避難と言われても牛は手放せない。
鴫原さんは継続を強く望みます。
畜産農家になって44年。
牛飼い一筋に生きてきた鴫原さんにとって飯舘牛の飼育はまさに人生そのものでした。
高冷地の飯舘村は深刻な冷害に何度も襲われてきました。
更に国の減反政策も重なり村民たちの生活は困窮します。
そこで昭和40年ごろから稲作に代わる生活の糧としてすがったのが肉牛の生産でした。
先人たちが苦労して山を切り開き広大な牧草地を作りました。
その草を食べ自然の中で育った牛がやがてブランド牛となり冷害に苦しむ村民の暮らしを支えてくれました。
飯舘の畜産業に情熱を注ぐ40代の鴫原さん。
その貴重な映像が残されています。
この20年後。
鴫原さんたち畜産農家は原発事故という未曽有の事態に直面する事になったのです。
5月。
避難の期限まで1か月を切ると村民たちは次々と村を離れていきます。
一方畜産農家は村にとどまっていました。
牛を残して逃げるわけにはいかない。
しかし牛とどこへ避難すればいいのか?避難の期間はどれくらいになるのか?判断するには時間も情報もありませんでした。
5月11日避難期限まで残り20日。
国や東京電力の担当者を交えた畜産農家への説明会がやっと開かれます。
どんな具体的な対策が出るのか牛飼いたちは望みを持って出席します。
しかし…。
具体的な説明はほとんどなく畜産農家のいらだちと落胆は頂点に達します。
畜産農家と最後まで飯舘村に残った人がいます。
平野さんは牛飼いたちの悲痛な叫びを診療日誌に書き残していました。
「そんなに急に簡単にあきめられるかよ。
悩まない方がおかしいでしょうよ。
ねえ先生」。
「エサは限界。
牛は子供と同じで夫婦二人で育てたのに牛を手離さざるを得ないよ。
先生なら俺たちの気持わかってくれっぺ」。
畜産農家は追い込まれていきます。
その時あきらめずに継続に向けて動きだしていた人がいました。
畜産農家のリーダー的存在山田猛史さんは空き牛舎を探し始めます。
頼ったのは5月になって福島県が作成したリストです。
県は全国の空き牛舎の情報を集め畜産農家に配布します。
受け入れ頭数や放牧地の状況なども記され適切な放射能検査を行えば牛を移動する事ができるというものでした。
仲間と共に山田さんが向かったのは広大な放牧地がある長野県八ヶ岳。
ところが現場に着くと…。
山田さんが目にしたのは一面のレタス畑。
そこはまさに高原野菜の一大産地でした。
希望は落胆に変わります。
放射能の見えない不安が壁となって立ちはだかったのです。
一方継続を希望していた鴫原さん。
県内の牛舎を探し回っていましたがなかなか見つかりません。
飯舘の畜産農家にとって牛を育てるのに大切なのは牛舎だけではなかったからです。
条件に見合う場所を探し回るうちにようやく一つの牛舎にたどりつきます。
飯舘村の隣町にある理想的な場所でした。
ところがここでも鴫原さんたちを苦しめたのが放射能の存在でした。
しかし鴫原さんは福島から離れた場所には行けない訳がありました。
それは福島市内に入院していた高齢の母親の存在です。
大切な牛と家族。
その狭間で身動きがとれなくなった鴫原さんは決断を下します。
鴫原さんは自ら育てた53頭の牛全てを手放します。
44年の牛飼い人生が終わりました。
いやぁほんとは…。
畜産農家は次々と廃業へ追い込まれていきます。
この時点で継続を希望する農家は220戸のうち13戸にまで激減します。
一体何戸の農家が残れるのか。
役場や農協も何とか畜産農家を救おうと動いていました。
国や県に避難先を当たっていました。
避難期限が迫ると西さんは村内にとどまる農家に牛を手放すよう促します。
人の安全を最優先に考えるとやむをえない対応でした。
う〜ん…。
畜産農家を救いたいと思う一方で廃業を促す自分。
板挟みの中で一つの考えに至ります。
少しでも飯舘牛を未来に残すために西さんは1,600頭もの母牛の中からおよそ200頭の優秀な血統の母牛をリストアップします。
更に畜産を継続する農家が飯舘牛を引き取る場合1頭につき10万円の補助金を出すよう村に働きかけたのです。
既に避難期限が過ぎていた6月。
八ヶ岳まで牛舎を探しに行っていた山田さんはようやく福島県内に牛舎を見つけます。
しかし牛舎は狭く放牧地もない条件の厳しい場所でした。
山田さんの決断を後押ししたのは震災前飯舘牛を共に飼育していた三男・豊さんの存在でした。
豊さんは震災後妻と幼い子供を連れて京都に避難していました。
その豊さんのとった行動が山田さんの継続の決め手になります。
避難先のスペースは限られていたため全ての牛を移動する事はできませんでした。
それでも29頭のうち10頭の牛を連れて避難する事ができました。
(取材者)それはなぜですか?一方飯舘村からおよそ400キロも離れた千葉県で空き牛舎を見つけた人もいます。
当時100頭もの飯舘牛を飼育していた小林将男さんです。
空き牛舎を求め東北中を探し回った小林さん。
最後にたどりついたのが千葉のこの牛舎でした。
自分の避難先を見つける事に精いっぱいだった小林さん。
その一方で仲間が廃業を決めたと知り複雑な気持ちになります。
自分だけが仕事を続けられる…。
そう思うと牛舎が見つかった事をすぐに伝える気にはなれませんでした。
仲間の思いを何とかつないでいけないか…。
小林さんは廃業した農家の牛を引き取ろうと競りに参加したのです。
そこで27頭購入しました。
その中には震災当日に生まれた子牛を亡くしその後廃業を決めた松下さんの牛もいました。
あの日小林さんは松下さんの牛の出産を手伝っていたのです。
2人は飯舘村で30年以上にわたり畜産を営んできた仲間でした。
避難期限が過ぎた6月小林さんは千葉への牛の移動を始めます。
しかし仲間の牛と自分の牛など合わせて142頭の牛をどう運ぶのかが問題でした。
1台のトラックで運べるのは7頭から8頭。
一人ではとても運びきれません。
その時廃業を決めた畜産農家が駆けつけました。
牛の放射能検査を行うと小林さんたちは142頭の牛を運び出します。
4tトラックで20往復。
6人で手分けして10日間かけて全ての牛を移動させました。
牛舎に着くと小林さんは引き取った牛のそばに木のプレートを掲げます。
書いたのは廃業した仲間の名前でした。
しかし継続を決めた農家をまたしても放射能が苦しめます。
7月8日福島県産の牛から基準値を上回るセシウムが検出。
その影響で避難させた牛にも出荷制限がかかったのです。
出荷するための検査待ちが半年以上も続きます。
2012年4月ようやく検査を行う事ができました。
結果はヨウ素やセシウムなどの放射性物質は不検出でした。
小林さんが牛を出荷する事ができたのは避難して実に9か月後の事でした。
(小林)気持ちよさそうだな。
ほんとに…。
飯舘村にあったおよそ220戸の畜産農家。
その96%が廃業しましたが9戸の農家とおよそ300頭の飯舘牛が残りました。
今飯舘村では平成29年春の帰村を目指し除染作業が行われています。
ただいま〜。
おかえりなさい。
今年11月県内で牛の飼育を続ける山田さんのもとに京都に避難している三男・豊さんが訪れていました。
来年春豊さんは4年半ぶりに福島へ戻り山田さんを手伝う事を決めたのです。
飯舘村で生きるために畜産業に全てをかけてきた村民たち。
廃業した人継続した人それぞれに飯舘牛への思いを抱きながら…。
今も放射能との闘いが続いています。
廃業した畜産農家の鴫原さんのあの希望に満ちた20年前の姿。
とても印象に残りました。
それだけにかつて牛を飼っていた牛舎にたたずむ姿が原発事故のもたらした影響の過酷さを訴えてるようにも感じました。
さて震災の被害に遭った沿岸部には旬の海の幸をふんだんに使った名物料理がたくさんあります。
それぞれの地域で料理自慢の浜のかあちゃんたちによる料理を紹介しましょう。
寒くなるこの時期お薦めの郷土料理を紹介しましょう。
一年中とれるどんこですが脂がのったこの時期は熱々のみそ汁。
作ってくれるのは漁協のかあちゃんたち。
ばあちゃんとかも好きだったからね。
料理の肝はキモ。
どんこ汁できたじょ〜。
はいほ〜ら。
淡泊な白身と濃厚なキモの脂。
そしてみそがからんでう〜ん絶妙!あったまりますよ。
続いては…。
岩手県小本川のさけ漁です。
被災した町を盛り上げようと浜のかあちゃんたちが考えた料理を紹介しましょう。
使うのはメスのさけです。
さけの身を有効活用し少し保存が利く料理を考えてさつま揚げにたどりつきました。
さあ作り方。
まずはさけの身につなぎの山芋や調味料を加えてすり身に。
形を整えて油で揚げます。
出来たよさけのさつま揚げ。
さけの味が口いっぱいに広がります。
紹介したあのどんこ汁私も浜で頂いた事があるんですけども味に深みがあると申し上げておきましょうかね。
本当に体が温まるんですよね。
それからあのさつま揚げ。
揚げたてがおいしいというふうにおっしゃってましたけども是非地元に行って味わいたいですよね。
この浜のかあちゃんたちの名物料理は1分の番組で随時放送します。
これからも季節ごとに海の幸を使った料理を紹介していきます。
では被災した地域で暮らす方々の今の思いです。
陸前高田市で素泊まりバンガロー宿を経営しておりました。
今年の10月かさ上げ工事のために閉店する事になりました。
私の信条は「ケセラセラ」。
やる事をやってればなるようになりますねと。
私たちは陸前高田市復興支援連絡会です。
以前は仮設の連絡会でしたが復興が進む中でその役割が地域のコミュニティーづくりの後押しへと変わっていきました。
(金野)13人いるメンバー全員が地元の人間です。
陸前高田の広田半島で憩いの輪をつくってます。
震災以降ここを必要とする人応援してくれる人と触れ合ってきました。
町の復興は進んでいますが人とのつながりはますます大事になっていると思います。
2015/12/13(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう− 証言記録 東日本大震災 第48回「福島県飯舘村」[字]

福島県飯舘村では、220戸あまりの畜産農家が肉牛を飼育していた。しかし、原発事故で全村避難を余儀なくされた。廃業か継続か、畜産農家の2か月を証言でつづる。

詳細情報
番組内容
福島県飯舘村では、220戸あまりの畜産農家が、2,300頭もの肉牛を飼育していた。ブランドの“飯舘牛”は、村の主産業だった。しかし、原発事故で全村避難を余儀なくされ、畜産農家は牛を手放し廃業するか、牛とともに避難するか、厳しい選択を迫られた。徐々に廃業へと追い詰められていく中、飯舘牛を守ろうと懸命に行動した畜産農家や農協職員もいる。廃業か継続か、苦渋の決断に至った畜産農家の2か月を証言でつづる。
出演者
【キャスター】畠山智之

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
情報/ワイドショー – その他

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