生まれくる命。
その輝きに勇気づけられ自らの償いきれない過ちに70年間向き合ってきた老医師がいる。
(東野)かわいいですね。
将来どういうふうになるかね楽しみっていうかね。
もう大きくなったら日本中の宝物。
70年前のある光景が頭から離れた事がない。
それは昭和20年九州帝国大学医学部で起きた。
アメリカ人捕虜8人が解剖実習室で生きたまま手術の実験台となった。
肺を片方取り去っても人は生きられるのか?血液の代わりとして海水の溶液を使ったらどうなるのか?捕虜たちの命と引き換えにさまざまな事が試された。
東野さんはその現場にいた。
終戦後手術を指揮した教授は獄中で自殺。
有罪となった大学関係者14人も今はもうこの世にはいない。
現場を知る唯一の証人となった東野利夫さん。
事件を風化させてはならないと当時の資料や関係者の証言を集めてきた。
戦後事件の影を背負い続けた医師・看護婦14人。
家族は事件の記憶に苦しむ姿を見てきた。
危篤状態になってる時ですかね「私だって人間なんだからね。
私だって人間なんだよ」ってそれを何十回となく繰り返すんですよね。
父さんは後悔しても後悔しきれない悔やみきれない事があったんだっていうふうに。
戦争の狂気の中で翻弄され社会の非難を浴び口をつぐんできた者たち。
戦後70年私たちにはつらくとも語り継いでゆかねばならない歴史がある。
89歳の老医師は問い続ける。
月1回開かれている妊婦向けのウォーキング教室に東野さんの姿があった。
体力をつくるという事は酸素をたくさんとる力をつけるわけですね。
じゃあスタートしますね。
はいじゃあ歩きます。
50年以上母親たちと共に歩んできた東野さんは母と子がいかに健康であるかを第一にしてきた。
半月前に体力測定してて落ちてて。
そしたら歩きよるとだんだんやっぱ力がつきますね体にね。
ショックでそれ以来ちょっとずつ歩いてるんですけど。
やっぱり30分ぐらい続けないと意味がない。
やっぱり酸素を燃やさないかん。
みんなおとなしく寝ていますね。
やっぱり寝てる姿がとってもいいですね。
何とも言えん。
東野さんは昭和35年に福岡市内で開業。
産婦人科の最前線に立ち続け5年前現役から退いた。
これまで1万3,000もの命の誕生に関わってきた東野さん。
医師としての原点は戦時中図らずも巻き込まれたあの事件にある。
それは昭和20年の春だった。
日本の戦況は悪化の一途をたどりアメリカ軍が沖縄に上陸。
本土ではB29による無差別爆撃が激しくなっていた。
東京大空襲では100万人が被災10万人が命を落とした。
その年の4月19歳だった東野さんは九州帝国大学医学専門部に入学した。
不足していた医師を早急に育てるためのコースだった。
既に大学の構内も戦争一色になっていた。
もう大学の中はですね…九大医学部は軍への積極的な協力を求められていた。
軍との関わりが特に深かったのが第一外科を率いる石山福二郎教授。
石山教授は海水を使った代用血液の研究を進めていた。
本土決戦が始まれば大量の負傷者が出て輸血用の血液が足りなくなる事が懸念されていた。
一機のB29が日本軍戦闘機の体当たりを受け大分県の山中に墜落。
生き残ったアメリカ兵は捕らえられ福岡へと連行された。
皆20代以下の若者だった。
B29の機長はただ一人情報価値があるとして東京へ送られた。
軍の内部では残りの捕虜の扱いをめぐって議論が交わされた。
最終的に持ち上がったのが捕虜の体を使った人体実験だった。
計画の中心にいたのが九大医学部出身の…小森軍医は第一外科の石山教授と相談。
軍の嘱託医でもあった石山教授は計画を受け入れた。
手術を行う場所は第一外科ではなく解剖学教室に決まった。
人目につきにくい場所だった。
生体実験手術。
その日の出来事を東野さんの証言と裁判記録をもとに再現する。
その日解剖学教室にいた東野さんは一人で論文の整理をしていた。
用を足しに席を立った時中庭で思わぬ光景を目にする。
2人のアメリカ兵が日本兵に両脇を抱えられ目の前に現れた。
(小森)教室はどこだ?分かりません。
(小森)お前分かるのか?あっちです。
行くぞ。
東野さんは小森軍医に問われ教室の入り口を教えた。
尋常ではない雰囲気に東野さんは後を追った。
中にいたのは石山教授以下10人余り。
張り詰めた空気の中将校がこれから始まる手術の正当性を伝えた。
エーテル麻酔で眠らされていたのは東野さんと年の変わらない若いアメリカ兵だった。
右肩には銃弾を受けたような傷痕があった。
(医師)メス。
しかし教授がメスを入れたのは傷のある右肩ではなく胸だった。
東野さんの目の前で捕虜の右の片肺が摘出された。
石山教授ははっきりとした口調で言った。
最終的に片肺を取って…続けて行われたのは代用血液の実験だった。
手術で出血した分代わりに海水を使った輸液を血管に注入していった。
東野さんは輸液の瓶を持つよう命じられた。
手術の途中東野さんは恩師の平光教授の姿を見た。
この時交わした言葉を東野さんは覚えている。
実験の末この日2人のアメリカ兵が死亡した。
医師が人の命を奪った事に声を上げるものは誰一人いなかった。
全てが終わったあと東野さんは床一面に広がった血を洗い流すよう命じられた。
生体実験は4日にわたって行われた。
実験されたのは肺だけではなく心臓脳の手術。
代用血液の実験は繰り返し行われ合計8人の捕虜の命が奪われた。
(玉音放送)8月15日終戦。
占領統治を始めた連合国総司令部GHQはアメリカ兵捕虜の行方に重大な関心を寄せていた。
九州を管轄していた軍幹部は直ちに隠蔽工作を始めた。
実験手術の中心となった小森軍医は福岡での空襲で既に死亡していた。
実験手術で亡くなった捕虜8人は終戦間際広島に送られ原爆で死亡した事にされた。
しかしGHQは隠蔽工作を見破り九州大学医学部への調査を始めた。
昭和21年7月捕虜虐殺の容疑で石山教授に逮捕命令が下された。
事件の核心を知る石山教授に対して連日厳しい尋問が続いた。
逮捕から4日。
石山教授は拘置所内で自ら命を絶つ。
独房に遺書が残されていた。
「一切は軍の命令を受けた自分に責任がある」。
石山教授の死によって事件の真相追及は困難に直面した。
手術に関わった医師たちに次々と出頭命令が下された。
東野さんにも追及の手が及んだ。
恐らく朝10時ごろから夕方5時までですね4人の取調官ですね通訳が2人と。
結局事件当時医学生だった東野さんは起訴を免れた。
3月11日横浜軍事法廷はいよいよ九州帝大の捕虜虐殺事件の公判を開始しました
昭和23年3月。
手術に関わった九大の医師や看護婦14人と軍人16人が法廷に立たされた。
事件は戦後の社会に大きな衝撃を与えた。
生体実験を行った上に捕虜の肝臓を食べたのではないかという疑いがかけられたのだ。
後に事実無根と判明するが世間は好奇のまなざしを向けた。
医師たちはなぜあの手術に加わったのか追及された。
「当時軍の力は絶大で善悪の判断がつかなくなっていました。
軍の権力の前では私は無力でした。
手術が不要なものだと分かった時に逆らってでも手を引くべきでした。
関わってしまった事を後悔しています。
命をかけてでも止めるべきでした」。
医師たちは皆手術台の上の人間の命よりも軍や教授の命令を優先した事を認めた。
裁判開始から5か月。
医師と看護婦14人全員が有罪。
絞首刑3人終身刑2人。
それ以外は3年から25年の重労働の刑が言い渡された。
手術の場にいた看護婦は日本女性で初の戦犯となった。
裁判が終わると九大医学部は医師や看護婦学生を集め「反省と決議の会」を開いた。
「この事件は本学部とは直接関係ない」という前置きがあった上でこう締めくくった。
「医師としての天職をまもりぬくためにはたとえ国家の権力または軍部等の圧力が加わっても絶対にこれに屈従しない」。
九州大学はこの決議文をもって事件に一区切りをつけた。
その後「九大生体解剖事件」は人々の記憶から徐々に消えていった。
東野さんの戦後は大きな迷いから始まった。
大学卒業後医師になるべきかならざるべきか。
葛藤の日々が続いた。
よみがえってくるのはぬくもりの残る捕虜の体から臓器を取り出す手伝いをした時の事ばかりだった。
迷ったあげく東野さんが選んだのは命の誕生を助ける事ができる産婦人科医への道だった。
35歳で福岡市内に医院を開業。
ところが事件で受けた心の傷は想像以上に深かった。
開業から7年。
事件後東野さんがずっと気にかけてきたのが9年半の服役の後医療現場に復帰した恩師平光吾一の事だった。
東野さんと同様平光医師も事件の記憶を断ち切れないでいた。
昭和42年東野さんは病床にあった恩師を訪ねた。
その時の言葉。
「九大B29」。
決して消える事のない事件の苦しみ。
明らかにされてこなかった真実。
東野さんは自らが事件と向き合う事を決意した。
東野さんがまず調べたのがアメリカ兵捕虜たちがどういう経緯で九大に運ばれてきたのか。
しかし調査は初めから大きな壁に突き当たった。
B29の搭乗員がパラシュートで降り立った場所。
ここに東野さんは何度も足を運んだ。
アメリカ兵たちを目撃した住民たちが一様に堅く口を閉ざしていたのである。
そういう事は後になって…東野さんの熱意に住民たちは徐々に過去を語り始めた。
そして墜落当時の状況が次第に明らかになった。
アメリカ兵の一部は住民たちによって死に追い込まれていた。
あとの人は…。
「とてもアメリカという国は優れた国である」。
もう一人は…生き延びたアメリカ兵たち。
結局九大で医師たちの手により死亡する事となった。
大分県竹田市に建てられた「殉空之碑」。
東野さんの調査がきっかけとなり地元住民の手によってB29の搭乗員らと体当たりした日本兵を追悼する碑が建てられた。
事件に関わった九大の医師たちは戦後苦しみの中にいた。
終戦から5年。
GHQによる占領が終わりに近づくと戦犯に対する恩赦・減刑が行われた。
九大の医師・看護婦14人も釈放された。
しかしその後も自ら積極的に事件を語る事はなかった。
14人全員が今はもうこの世にはいない。
20年前甲状腺がんで亡くなった…実験手術では手元を照らすランプを持つよう指示された。
5年半の服役の後故郷福岡へ戻ると市内に外科医院を開いた。
田代医師は最愛の人にも事件の事を語らなかった。
ただ一人看護婦として有罪となった…4年で巣鴨プリズンを出たあとも女性初の戦犯として世間の注目を集めた。
それから逃げるように日本各地を転々とした。
たどりついたのが東京郊外の病院。
その後30年看護婦長を務めた。
生涯独身だった。
当時の筒井さんを知る同僚の…
(取材者)事件の事は引きずってる感じありました?もうとにかく事件の事は全然言われないですよね。
病院での筒井さんは常に患者の事を第一に考える姿勢を貫いていた。
筒井さんは68歳で看護婦を引退故郷の北九州に戻った。
当時を知る…17年前筒井さんは全身にがんが転移し危篤状態に陥った。
英子さんが病床に駆けつけるとうわごとを繰り返していた。
ずっとそれを繰り返すんですよね。
亡くなる間際になって初めて家族に事件の事を語った人もいた。
事件当時石山教授の下で代用血液の研究を行っていた…釈放後外科医の不足していた福岡県黒木町で外科医院を開業した。
向かいに住んでいた…人づてに久保医師の過去を伝え聞いていた。
年賀状が偶然出てきましたので。
久保医師は30年間地域医療に尽くした。
年賀状に記された久保医師の座右の銘。
「善人にあらずんば良医にあらず」。
「よい医師であるためにはよい人間でなければならない」。
(りんの音)久保医師は肺がんで余命半年と分かった時長女裕美さんに事件の事を語り始めた。
裕美さんには大切にしている父親の形見がある。
これは父が描いた絵なんですけど。
「昭和50年6月3日」って後ろに書いてあります。
事件からちょうど30年久保さんは赤いバラの絵を描いた。
そういう事だったとは思うんですね。
東野利夫さんは壁に突き当たりながらも事件の真相を追い求めてきた。
アメリカ国立公文書館に所蔵されていた九大関係者の写真。
福岡の拘置所で写真撮られた。
これは石山教授平光教授外科の先生たちですね。
もうやつれていますね。
そして巣鴨に入った。
この日か明くる日の夜に自殺して。
尋問を受けた軍医が後にその詳細を書き記した手記。
本人が苦しい拷問の事を全部書いてある。
小森軍医ね。
小森軍医の奥さん。
東野さんは事件の手がかりを見つけようと既に亡くなった軍医や医師の遺族たちに直接連絡を取った。
恩師である平光医師の獄中記。
事件の発端から服役中の生活まで当事者の生々しい心の内が記されている。
東野さんは事件の鍵を握る人々の資料を地道に集めた。
その中でどうしても会わなければならない人物がいた。
情報価値があるとして東京に送られ終戦後祖国に戻ったただ一人の生存者。
東野さんとワトキンスさんとの面会が実現した。
日本に無差別爆撃を行ったワトキンス機長この時62歳。
そして生体解剖事件の現場にいた東野さん54歳。
対話は4時間に及んだ。
「グアム島を出撃される時の印象というか言葉そういった…」。
「ちょっと聞きにくい質問をして申し訳ないんですけど」。
対話の中で東野さんが最も心を動かされたワトキンスさんの告白。
それをはっきりですねずっと持ち続けとったというのそれにびっくりしましたね。
そこに勝者も敗者もなかった。
東野さんにとって生体解剖事件の一つ一つの事実に向き合う事は大きな精神的な負担を伴った。
それを乗り越える事ができたのは医師としての日常があるからだった。
産婦人科医として50年間向き合ってきた命の誕生。
新たな命に東野さんは支えられてきた。
東野さんが50年近くかけて調査してきた資料。
去年9月ついに日の目を見る機会が訪れた。
110年以上の歴史を誇る九州大学医学部が歴史館を開く事になった。
(拍手)九大医学部がこれまで培ってきた医学への貢献。
そして生体解剖事件についての展示も行われる事になった。
東野さんも生涯をかけて集めてきた資料の提供を自ら申し出た。
4月の開館に向けて歴史館の実行委員との打ち合わせが始まった。
これがたくさんあるわけですよね。
いやもう先生しっかり理解して頂いたから。
最後のチャンス。
東野さんは大学で展示が行われる事に大きな意味を感じていた。
展示内容を最終的にどうするかは大学側が判断する事だった。
開館直前まで学内で検討が重ねられた。
(アナウンサー)「創立から110年余りとなる九州大学医学部に歴史館が設けられ今日記念式典が開かれました」。
九大医学部の判断は生体解剖事件の展示自体は行う。
しかし東野さんの資料の展示は今回見送られる事になった。
「終戦の直前に陸軍の監視の下で外科の教官らがアメリカ軍の捕虜8人に生体実験を行い死亡させた生体解剖事件についての資料も展示されています。
この歴史館は今月8日から一般公開されます」。
生体解剖事件についての展示は2点。
事件の概要を説明したパネル。
そして終戦直後の反省文が載る「九州大学五十年史」だった。
パネルには事件を振り返った上で哀悼の意が掲載された。
医師の立場で言うとカルテにあたるようなものとか診療記録にあたるようなものという形の一次資料は実は残ってないんですね。
私どもの感覚としましては一次資料があればそれは文句なく展示するべきだろうと思ったんですけどそれがないので二次資料三次資料あるいは完全な小説というふうなものですからそういうものをここであえて展示する必要はないのではないかというふうに判断しました。
開館直後は落胆の色を隠せなかった東野さん。
しかししばらくするとその表情が変わっていた。
齢90を目前に東野さんは何かを決意しているようだった。
東野さんは自らの医院で生体解剖事件に関する展示を始めた。
東野さんが生涯をかけて集めた資料の数々がそこにあった。
自ら足を運び関係者の話に耳を傾け丹念に掘り起こしてきた70年前の事実。
このようなまた資料が残ってるという事とそれと事実としてこのような具体的な手術の状態であるとかあと背景とか今ちょっとず〜んときてる所なんですが。
人間の狂気というか戦争というものが信じ難い事実現実をもたらすんだという事を心から感じる事ができましたね。
戦争の最後の負ける直前に起こった事件ですからね。
こういう事を知る事で知識として持っておく事がすごく大事なんだなって改めて実感しました。
ありがたい。
この夏もっとこの事調べたりして戦争に興味を持つというかもっと知りたいなと思いました。
4週間にわたって開かれた展示会にはおよそ1,500人が足を運んだ。
展示会の感想ノート。
その中には現役の医師や将来医療の道を志す若者たちの言葉があった。
九州大学生体解剖事件。
人の命を救う医師によって8人のアメリカ兵捕虜の命が奪われた。
その事実は決して消えない。
2015/12/12(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「“医師の罪”を背負いて〜九大生体解剖事件〜」[字]
70年前に起きた九州帝国大学医学部の「生体解剖事件」。事件に関与した医師たちが多くを語らず亡くなる中で、最後に残った当事者として事件と向き合い続ける医師がいる。
詳細情報
番組内容
終戦間際の1945年5月から6月、九州帝国大学医学部で米兵の捕虜を使った生体実験がひそかに行われた。墜落したB29の搭乗員8人が、海水を使った代用血液を注入されたり、片方の肺を切除されたりして死亡した、いわゆる「九大生体解剖事件」。医学生として生体実験の現場に立ち会った東野利夫さん(89)は、戦後、福岡市内で産婦人科医院を営みながら、国内外で事件関係者に取材を重ねながら事件と向き合い続けてきた。
出演者
【語り】池田成志
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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