沖縄本島の奥の奥。
その名も「奥」という集落があります。
(指笛)奧では戦争で焼け野原になった村が見事に復興した事を祝って毎年みんなで大騒ぎします。
でも舞台には「共同店創立109周年」って書いてあります。
「共同店」って何でしょう?実はこの「共同店」がとても大切なんです。
奥は共同店のおかげで復興できたという集落なんです。
(演奏)これが共同店です。
一見何の変哲もない売店に見えますがちょっと違います。
ガク君です。
集落の人たちみんなで出資して運営するお店なんです。
合い言葉は…戦争の後も沖縄はいろんな事がありました。
人々は共同店をよりどころにして乗り越えてきました。
「シヌグ」と呼ばれる豊作を祈るお祭り。
集落挙げての運動会。
そして復興祭。
奧が一年で一番盛り上がるのが秋です。
古きよき沖縄が残るという奧の秋を訪ねましょう。
那覇から車で3時間半。
「やんばるの森」と呼ばれる亜熱帯の豊かな自然が広がります。
ちなみにナレーターは私那覇育ちの新城カメと申します。
おばぁラッパーズでラップを歌ってます。
せん越ながら奥への旅をエスコートさせて頂きます。
どうぞよろしくお願いします。
海の向こうに鹿児島県の与論島を望む国頭村奥です。
沖縄には観光客がたくさん来ますが奧まで来る人はめったにいません。
人口は180人。
お年寄りが多くなりました。
お茶やシークワーサーを作って一年を過ごし9月になるとがぜんにぎやかな季節がやって来ます。
(演奏)エェーッ。
あ〜おいしくない!砂糖入れればいいのに少しは。
ちょっと甘い?甘い。
(取材者)皆さんこれ何の仮装なんですか?マリリン・モンローよ。
はい私は「共同一致」でございます。
何の仮装ですか?キジムナー!この人たちこれから秋の最初の祭りのために寄付を集めて回ります。
一緒に回りながら集落をご紹介しましょう。
こちらは郵便局。
お年寄りが年金を受け取る大切な場所です。
はいこちらは交番です。
犯罪はほとんど起きないそうです。
奥小学校の生徒は13人。
集落にとって大切な大切な子供たちです。
アーハハハハー!奥の宝物といえばこちら。
人口の半分近くを占めるお年寄りたちです。
みんなとにかく元気です。
こちら奥の最高齢99歳のおばぁです。
元気でね。
長生きしますように〜!ずっとずっと長生きしますように〜!したからもう困っておる。
は〜い大丈夫大丈夫。
そしてここ奥の集落の要共同店です。
奥の人にとって共同店はどんな場所なんでしょうか。
じっくり見ていく事にしましょうね。
朝6時半。
おはようございます。
おはようございま〜す。
主任は2年に一度住民の中から選挙で選ばれます。
秀俊さんはお茶を作る農家ですが今年から主任を務めています。
朝からお忙しいですね。
ハハハハ。
早速常連さんが主任をからかいに来ました。
店の中にゆんたくスペースがあります。
「ゆんたく」とはおしゃべりの事です。
朝昼はお茶で。
仕事終わりには缶ビールで。
共同店は人々のたまり場になっています。
犬も来ます。
秀俊さんの奥さん朝子さんがやって来ました。
この10年奧の共同店を切り盛りしているのはこの朝子さんです。
朝子さんは秀俊さんの前の主任を3期6年務めました。
今も主任代理。
店の全てを知り尽くしています。
2万3,000円。
朝子さんをサポートするのは従業員の…5人の子供を育てるママさんです。
・はいこんにちは奥共同店で…は〜い。
ひっきりなしに電話が鳴ります。
知り合いへの言づけとか荷物を預かってほしいとか何でもここにかかってきます。
1時半で〜す。
は〜い。
バスの…。
3便しか出ないですから朝昼晩と。
「昼の時間は何時ですか?」という質問でした。
1時半です。
朝子さんは週に6日土日も休まずにお店に出ます。
以前はお店の定休日がありましたが少しでも売り上げを伸ばそうと休み返上で働いています。
全然苦にならないです。
みんなが区民のみんなが助かって頂けるんでしたら何の苦にもならないです。
結構大変ですけどね。
うん。
うれしいぐらいです。
助かってもらうと。
よしこんだけ。
マリリン・モンローのケイコねえねえが買い物に来ました。
すいませ〜ん掛けでお願いしま〜す。
は〜い。
ここでは「掛け」つまり後日精算のツケで買う事ができます。
安定した現金収入を得るのが難しかった時代の名残だそうです。
どうもありがとうございま〜す。
(男性客)現金でお願いしま〜す。
精算はどう…?もう次来る時で。
便利ですね。
便利です。
大変助かります。
給料取った時とかです。
そうです。
またお金ない時もね掛けでやったりして。
もう区民みんな助かっております。
こうか。
これ何ですか?え〜と株台帳ですね。
みんな屋号で書かれてるんですけど。
前は配当金があったんですけど1人につき3,000円でした。
今はもうすみません売り上げがないもんですから…。
共同店の一番の特徴は住民全員が株主になり共同でお店を運営している事です。
こちらは株台帳。
生まれてから死ぬまでよそに引っ越さない限りずっと株主なんです。
配当金が出た事もありました。
今は109歳のおじぃになってしまった共同店ですが若い時はそれはそれは元気だったんですよ。
かつて共同店は売店だけではなくさまざまな事業を手がけていました。
一番の収入源は林業でした。
木を切り出し材木や薪木炭を作りました。
船も所有していました。
那覇で材木を売り日用品を買って帰りました。
お茶も共同店が葉っぱを買い上げ自前の工場で加工して出荷しました。
子供たちの学費などを貸してくれる金融業も共同店の役割でした。
共同店は奧の経済のエンジンとして人々の生活を支えてきたんです。
かつて共同店の主任を務めた…14年前に心臓の病気で倒れ今はリハビリのため朝夕集落を散歩します。
途中で立ち寄るのが共同店。
用があってもなくてもほぼ毎日です。
すかさず郁代さんが椅子を用意。
でも今日は何か買い物があるようです。
安輝さんは昭和46年から3年間第22代の主任として難しい時代を乗り越えてきました。
当時沖縄は本土復帰の時代。
本土から商品や投資が押し寄せたら共同店はどうなる?安輝さんはこの時お茶に注目したんです。
工場に思い切って大型機械を導入しました。
そして「日本で最も早い一番茶」として売り出しました。
なんとか荒波を乗り越えた共同店には今安輝さんの場所があります。
休憩。
あ〜疲れました。
いや〜ハハハ疲れました。
(朝子)先輩疲れましたか?もう。
痛い?
(宮城)痛いよ。
大丈夫大丈夫大丈夫。
はいありがとう。
ありがとうございました。
共同店の前に貸し切りバス到着。
奥で生まれ今は那覇などで暮らす人たちが帰ってきました。
2年に一度の伝統のお祭りシヌグを応援しにやって来たんです。
(泣き声)さあこれから奧でしか見られない独特の行事が始まります。
「ビーンクイクイ」と呼ばれる行事です。
長老を桶に乗せて練り歩きます。
棺桶に入る事で生きたまま神様のような存在になるといいます。
ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイとは「福よ来い来い」という意味。
長寿にあやかり人々の健康と豊作を祈願します。
ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!ビーンクイクイ!
(一同)エイヤーサー!祭りのあとは食事会。
仮装行列で集めた寄付も使われました。
かつてはこうした費用も共同店が負担しました。
は〜い。
いくつですかって。
ん?何歳ですかって。
もう分かりません年寄って。
(笑い声)おばぁなんかももう分からんな。
ひとつ下おばぁより。
もう100歳です90…。
7。
97歳。
100歳願っていつまでも
(歌声)笑ってるんです。
(歌声)
(笑い声)沖縄では97歳を「カジマヤー」と呼びお祝いをします。
おはようございま〜す。
・は〜い。
おはようございま〜す。
・おはようございます。
・何か?はい村長さんの代理で来ました。
(笑い声)村長さんの代理で来ました。
はいおめでとうございま〜す!ありがとうございます。
お祭りで歌を歌ってくれたおばぁ…屋号で「門ん屋のおばぁ」と呼ばれています。
ありがとう。
(金城)お祝い金とですねこれ…。
(金城)カジマヤーますます長生きして110歳120歳までもちゃーがんじゅうでいて下さいね。
ありがとうございます。
(金城)これはお祝い金です。
ありがとうございますほんとにもうすいません。
ありがとうね。
ありがとう。
(笑い声)好きな食べ物は何ですか?何でもおいしい。
(笑い声)それが健康の秘けつですかね。
何でも食べて。
一番野菜のみそ汁がおいしいね。
(笑い声)何でもおいしいよおばぁは。
嫌いはない。
嫌いはない。
ゆんたくをしてみんなで楽しく過ごしましょう。
それでは始めま〜す。
(拍手)沖縄には……という言葉があります。
「人が集まってこそ楽しい」という意味です。
・これ女子会だよおばぁ。
女子会。
お年寄りたちは仲間と助け合いながら苦しい時代を乗り越えてきました。
特に敗戦直後アメリカの統治下で復興に立ち上がる時は本当に貧しかった。
門ん屋のおばぁもその時代の事は忘れられないそうです。
昭和23年奧の共同店は船の再建に取り組みました。
住民たちの共同作業でした。
全土が焼け野原になった沖縄の復興には材木を運ぶ運搬船がどうしても必要だったんです。
門ん屋のおばぁは当時29歳。
船を造る作業員の食事を一生懸命作りました。
完成した船が材木を運び沖縄の復興は加速しました。
奥の林業も息を吹き返し共同店は奧だけではなく沖縄の戦後復興を支えたんです。
奥で暮らしてきた97年の年月。
若い頃は共同店が運営する茶摘みの仕事もしました。
共同店はいつもおばぁの人生と共にありました。
ありがとうありがとうはいありがとう。
そんな共同店が誕生したのはおばぁが生まれる12年前明治39年の事です。
奧の歴史に詳しい…あれが猪垣ですね。
イノシシから田畑を守るために築かれた…奥の人々は全長9キロの猪垣を共同で造り上げました。
そして世帯ごとに分担して管理を厳しく義務付けました。
ここから奥の「共同一致」の精神は単なるお題目ではなく強い掟になっていったそうです。
これ出っ張ってる所がそこまでイノシシが来るとイノシシは怖がって下には下りきれないと。
奥の村の田畑を守るための砦。
指示を受けたら早急に修理をする修復をする。
そうしないと罰金を科すという規約があったわけです。
この猪垣っていうのは奥の田畑にある農作物食糧を守るのが猪垣ですね。
それから奥の生活を守るのが奥の共同店。
いずれも共同一致の精神という奥の精神的根幹の上に立ってそういうものがなされているとつくられているという事ですね。
猪垣の建設と管理を指導したのがこのお方。
この盛邦さんは共同店をつくった人でもあるわけです。
これは糸満家の家系図ですね。
盛邦さんのひ孫…これが共同店開設創設者の糸満盛邦。
首里からすると14世ですね。
糸満家はもともと琉球王朝の士族の家系です。
18世紀に首里を離れ奥に入植しました。
教育を重んじる士族の伝統が入植先の奧で発揮されたと考えられています。
多分そういう意味でいうと少し…みんなのために少しでも尽くせればという心は持っていたんじゃないですかね。
資金を貸したりもしますしまた利潤が出たら学資金という上級学校に行く方々には補助金を出したり当時からすると新しい事に取り組んだ人だとは言われています。
盛邦さんが生まれた当時沖縄は「琉球」と呼ばれる独立国でした。
でも1879年に琉球王朝は廃止されて日本の領土に組み込まれました。
すると近代化の波が押し寄せ那覇などにあっという間に資本主義が広がったそうです。
やがてその波は奥にも打ち寄せてきました。
よそから来た商人が奧で店を始めると盛邦さんにとって困った事が起こり始めました。
自分の利益ばかり追い求める価値観が人々の心を動揺させたんです。
そこで盛邦さんがつくったのが村人全員で営む共同店でした。
商人はその後村から姿を消したそうです。
この日共同店に商品が届きました。
でも運んできたのは業者の人ではなさそうです。
実はこの方奥の出身。
月に2回の里帰りの度に量販店に寄って安い商品を仕入れてくるそうです。
こういうのも…草刈り機の刃なんですけど。
共同店の商品は都市部の量販店に比べると割高なんです。
はっきり言って全体的に値段が高いんですよね。
だから少しでも安く仕入れしてあげて…したら皆さんも助かるはずだし店ももうかるしという事で。
でももともと共同店は「高い安い」という商売とは違う発想でつくられた店でした。
今こうした共同店の商品を「半商品」と呼んでその独特の価値に注目する研究者もいるそうです。
行きましょう。
ご苦労さんで〜す。
これからみかん畑行ってきます。
(朝子)あっそうですか。
魚もらったんだけど持ってきます?あっそっか。
見てみよう。
こっちにあるよ。
朝子さんは品物を買ってきてくれた男性にお魚をお裾分けしました。
(男性)あっこれ上等じゃない。
天ぷらできるじゃない。
(朝子)じゃあ今日は天ぷらですね。
今日の夕飯です。
はいご苦労さんです。
はいお疲れさまでした。
今度はみかんが届きました。
どっこいしょ!奥では自宅の庭で野菜や果物を作るおじぃやおばぁが大勢います。
でも自分で食べるだけでは張り合いがないでしょ。
共同店が委託販売を引き受けてくれるから元気が出ますよ。
共同店の経営は年々厳しくなりますが開店以来なんとか黒字経営を続けています。
今も売り上げの一部を集落に寄付して奧の財政を支えています。
じゃおばぁ行こうね。
はいどうもありがとう。
ありがとうございま〜す。
さてこうした奧の共同店に熱い視線を注ぐ人たちがいます。
(朝子)これは宮城県の丸森町の「なんでもや」さんの方から新米の時にお米を農家さんから直送で頂いております。
丸森町大張地区ではお店が全て閉店し買い物に困るようになりました。
この時奧の共同店のやり方をモデルにして2003年「なんでもや」を設立しました。
住民や地元企業が共同で出資しました。
備品は企業などから譲り受けました。
出資した人が育てた野菜を店頭に並べお年寄り向けの宅配サービスも引き受けます。
何より喜ばれたのは気軽に集える場所が生まれた事でした。
沖縄の共同店の心が東北で花咲いたんです。
いっぱいあります。
そういう…お店がなくなるから困ってるんでこういう感じでやりたいっていう問い合わせいっぱいあります。
いろいろ問い合わせがあるんですか?お勉強にも来ました。
長野県の…どこでしたかね長野県と宮崎でしたかね来ました。
共同店には何か今の世の中に必要なものがあるのかもしれませんね。
突然の事でした。
救急患者用のヘリコプターです。
前回1月に行ったんですけどこんな大きいけいれんじゃなかったです。
共同店は時に救急患者の対応も任される事があります。
でもこの日倒れたのは朝子さんの身内でした。
血圧は?・160です。
おぉ…。
ご主人秀俊さんの父親です。
元気なって…なあ?お父さんは名護市の病院へ運ばれていきました。
お父さんもともと血圧…。
高くない。
高くない。
高くないけど血管が…こっちの血管が細いって言われてました。
私あんまり面倒見てないんですいません。
すいませんお店の事だけやって面倒見てないです。
幸い病院から「命に別状はない」と連絡がありました。
この10年朝子さんは共同店の運営に全てをささげて取り組んできました。
朝子さんが店を閉めます。
あれ?小学校の運動会?・頑張れ頑張れ!
(拍手と歓声)ギリギリで駆けつけた朝子さん。
最後のプログラムに間に合いました。
この子は?お孫さん?この子はお孫さん違います。
カリンさんの子供。
踊ろうって言ったらくっついちゃった。
一緒にやります。
(校歌)校歌に合わせて集落みんなで踊る校歌ダンスです。
はい一緒に踊って!かつて2人の息子さんが通った小学校。
共同店に勤めてからは運動会に参加する事もできませんでした。
この日は店を閉めてその運動会に参加したんです。
(拍手)
(アナウンス)「保護者地域の皆様ご参加ありがとうございました」。
ありがとうございました。
どうでした?校歌ダンスは。
涙出ちゃいました。
じゃバイバイ。
10月。
共同店の裏で始まりました。
これは豚です。
沖縄では豚は鳴き声以外は全て食べると言われます。
(朝子)皆さんお疲れさんですね〜。
飲みながらどうぞ。
間もなく1年に一度の大切な日がやって来るんです。
それは10月5日。
これは創立100周年の時に作ったTシャツなんですけどその下の方に「明治三十九年十月五日」が創立記念日ですね。
という事で復興祭は10月5日です。
共同店の誕生日を「復興祭」と称して集落挙げてお祝いするんです。
作り方も奥独特なんですか?かつて豚はお正月の時だけ各家庭でつぶして食べるごちそうでした。
豚の折詰を昔ながらの共同作業で作っていきます。
リンケン兄さんこれ少ないかどうか見てごらん。
ところで共同店の誕生日をどうして「復興祭」と呼ぶのでしょうか。
そこには奥の人々の深い深い思いが込められているんです。
(銃声)昭和20年3月沖縄にアメリカ軍が上陸しました。
奧のある本島北部も前の年から空襲を受け機銃掃射にさらされました。
住民は全員山に入り防空壕を堀って避難生活を続けました。
激戦地となった南部からの避難民も流れ込み飢えと恐怖の中で人々がひしめき合っていました。
7歳だった島田さんは母や幼いきょうだいとここで息を潜めていました。
(島田)うちの防空壕です。
私の作業はかばんの中に位牌を入れて歩く仕事。
沖縄は祖先崇拝だから位牌を大事にしたんです。
私の場合はかばんの中に帳面とかは入れないです。
位牌だけ入れて。
それから2つ違いの姉は弟をおんぶする。
それからおやじは兵隊に行ってる。
だから母と子供3名だけ一緒に行動しました。
人が分からんように隠した食糧あるいは隠した芋とかねそういうものを夜になると取ってくるとかそういう事を母がやって…面倒は母親がやりました。
アメリカ軍はすぐそばに迫っていました。
そんな中奧の人々は共同一致を貫きます。
食べ物を分け合い助け合って避難場所を変えていきました。
そしてついに山で1人の犠牲者も出しませんでした。
村の警防団というのを組織してこの警防団が始終米軍の動きを見張りしてこれを絶えず住民に情報を流すわけですね。
こういうものも村の一致したリーダーたちが話し合いをして住民をいかに戦禍から守るかこういうものにも先輩方は非常に力を注ぎました。
それで山の中で安全に生活ができたわけです。
8月3日奥の人々はアメリカ軍に集団で投降。
いくつもの捕虜収容所に分けられ不安な日々を過ごしました。
そして2か月後ついに奥への帰還を許されます。
人々は再び集まって歩き始めます。
疲れきった体で進み続けとうとうふるさと奥にたどりつきました。
10月5日その日は偶然にも共同店の誕生日でした。
美しかった奥の集落はアメリカの空襲や焼き打ちで跡形もなくなっていました。
それでも人々は立ち上がりました。
一から集落を立て直そうと心に決めたのです。
戦災で焼け落ちた共同店は人々の強い思いによって昭和22年に復活します。
10月5日は奥の人々にとって忘れ難い日になりました。
共同店の誕生日から奥の復興が始まったのです。
こうして10月5日は「復興祭」と呼ばれるようになったんです。
さあ待ちに待った日がやって来ました。
奧の人々がほとんど全員そして里帰りの人も加わって復興祭が始まります。
共同一致の精神を築き多くの苦難を乗り越えてきました。
そのような一つ一つかなえる事ができたのも共同店のおかげでございます。
ありがとうございました。
(拍手)復興を共に成し遂げた喜びを今もみんなで分かち合います。
共同店が生まれて109年。
海の向こうからいろんな時代がやって来て沖縄の心を引き裂こうとしました。
でも奧の人たちの共同一致の心は変わらなかったさー。
(拍手と歓声)
(子供たち)「109才おめでとうございます」!
(拍手)奧といえば共同店。
共同店といえば奧。
あっそうなんですか?それも撮りに来ないとじゃあ。
沖縄本島の奧の奧。
「奥」という名の集落には「肝心」が生きています。
肝心とは沖縄の言葉で「思いやりの心」。
おぉ〜!すごいいっぱいあるいろいろ。
共同店には私たちうちなーんちゅが大切にしている「心」がぎゅっと詰まっていました。
ありがとうございます。
でもこっちにも写ってるや。
いいよいいよこれで。
いいですか?ありがとうございます。
助かりました。
は〜い。
ご苦労さんで〜す。
2015/12/12(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「沖縄の心(くくる) 共同店物語」[字][再]
沖縄本島最北端に奧という名の集落。人びとは「共同店」を大切にして暮らしている。「ゆいまーる(協働)」の心が凝縮されているという「共同店」を見つめたドキュメント。
詳細情報
番組内容
沖縄本島の最北端に奧という名の集落がある。そこに暮らす人たちは「共同店」を大切にしている。一見何の変哲もない売店に見える「共同店」だが、住民にとっては最も大切な場となってきた。109年前に創設された「共同店」は、住民みなが株主となり運営してきたもので、生活のよりどころであり、奧の歴史そのものだ。ここに沖縄の「ゆいまーる(協働)」の心が凝縮されている。一年で最も盛り上がる秋、奧の共同店を見つめた。
出演者
【語り】新城カメ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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