質問。
おいっす。
おはようございます。
どうもどうも。
すいません。
失礼します。
結婚おめでとうございます。
何をおっしゃいますやら。
とんでもございません。
ありがとうございます。
それぞれの時代で新しい笑いを作り出した2人。
なぜ2人は笑いの革命を起こせたのか。
その鍵を解く人生の10曲を選んでもらいました。
いや僕の周りでもね福山さんの結婚よりもジュニアの結婚の方がショックやったと。
いやいやいやいや…。
そんな訳ないじゃないですか。
そういう人もいるんです。
ちょっとうれしかったんですよ。
ちゃんとこう異性として見てたんや今までみたいな。
あっ今までね。
はい。
ようこそいらっしゃいました。
桂三枝でございます。
従来の落語家の枠を飛び出した軽妙な語り口で大成功。
以来テレビの第一線で活躍を続けています。
私は次仕事があるんだから行かせてもらう。
待った待った待った待った!ちょっと待ってよ。
仕事の前にサインして。
いい加減にせえよ本当に!ひと目会ったその日から…。
サインを。
しない!恋の花咲くこともある。
見知らぬあなたと。
見知らぬあなたに。
デートを取り持つ…。
(2人)「パンチDEデート」!それではまいりましょう。
「新婚さんいらっしゃい!」。
更に落語家としては250を超える新作落語を自ら書き下ろしその高い評価から数多くの賞を受賞しています。
・「シャボン玉飛んだ屋根まで飛んだ」ほっと前見たら鹿児島支社へ飛ばされる人が座っとったんや。
しかしその輝かしい経歴の裏にはいくつもの苦悩がありました。
そんな桂文枝の人生を形づくった10曲とは…。
15歳でせいじと千原兄弟を結成。
独創的なコントで一躍人気芸人に。
じゃあもう私ので送っちゃえば?そうする。
ありがとう。
「ひろゆきです」。
ひひひひ…。
(笑い声)2011年人気急上昇タレントランキング!現在は本業のお笑いに加え数多く番組の司会をこなし小説やコラムなどの執筆活動更に俳優業など多岐にわたって活躍しています。
私は今原田と出会いいいチームにも恵まれあのころ見失うた夢をもう一度追いかけております。
2015年結婚が話題に。
順風満帆に見えるこれまでの歩み。
しかしその陰には2度も生死の境をさまよう壮絶な人生があったのです。
そんな千原ジュニアに寄り添った10曲とは…。
何か今でも例えば…31歳年の離れた2人はそれぞれの時代の笑いを作り上げた笑いのパイオニア。
僕の場合全然違うんですよ。
新しい笑いを生み出すまでには苦悩の歴史と周囲との闘い人知れず味わった孤独な日々がありました。
心に残る音楽を通して2人の人生を見つめていきます。
1943年桂文枝こと本名河村靜也は第2次世界大戦真っただ中の大阪で生まれました。
ジュニアなんかは生まれた時からずっとお父さんがいたやん。
両親います。
自然に何かこう…いる事が当たり前みたいな感じじゃないですか。
僕は生後11か月に父親が亡くなって。
まあ時代が違うから。
戦争があってね。
父は妻子を残して戦病死。
女手一つで息子を育てるため母親は旅館に住み込みで働きます。
しかたなく親戚の家に預けられた靜也少年。
大正区の新千歳いうもう本当に大阪港の海の端っこいうか海の見える所でね。
土曜日になったら母が仕事終えてから来ておじさんとこへ来てで日曜日一緒に過ごして。
たまにおふくろが帰ってきて会うからすごくこうかわいがり方がちょっとまあ普通じゃなかったと思うんですよね。
毎日接してるのとちゃうから。
そやからもういつも会った時は手つないで映画へはよく連れてってくれましたね。
週末映画を見る時だけが親子の時間。
母親との甘い記憶と共に芸能界への憧れが育ちます。
中でも心を捉えた映画は喜劇役者総出演のコメディー「東京シンデレラ娘」。
人気絶頂雪村いづみが歌っていたのは父親を亡くした娘が父を思って歌う「オー・マイ・パパ」。
靜也少年は我が身と重ねます。
何かこうお父さんとかいう形は僕の中にはないけどもお父さんってこんなんかみたいなね。
自分だけ父親がいない。
その寂しさを埋めるにはどうしたらいいか。
靜也少年は人を楽しませる事で乗り越えようと考えました。
友達はみんなお父さんおるから夕方になったら帰っていく訳。
遊びに来とってもね。
なんとか友達を引き止めよう思うてあれこれ考えてね。
海のそばやから材木屋がいっぱいあって材木の棒切れでいろいろ作ったりゲームを考えたりとか。
あれが原点やと思うんですよ。
え〜!いろんな事を考えるね。
その棒切れでなんとか楽しく遊ばれへんかなみたいなところが発展していってたたいてかぶってジャンケンポンになったり。
そんなんなったりとかね。
はあ〜!たたいてかぶってジャンケンポン!後に桂三枝師匠が全国に広めたこのゲーム。
実は寂しい子ども時代に考えついたものだったのです。
「私は今日引退を致しますが我が巨人軍は永久に不滅です」。
長嶋選手が17年の選手生活を終えて現役を引退した1974年。
千原ジュニアこと本名千原浩史は京都府福知山市で千原家の次男として誕生しました。
父親は設計士。
図面を描く父親に感化されジュニア少年も絵を描く事が好きになりました。
部屋の壁一面落書きをするほどのめり込んだとか。
父親との思い出がよみがえる曲は「StandByMe」。
この曲を主題歌にした映画は少年たちの一夏の冒険を描いています。
僕が小学5年生ぐらいの時にどっちかっていうとおとんにどっか連れていってもらったみたいな記憶はもうほとんどないんですけどある日突然「ちょっと映画見に行くぞ」って言われたんですよ。
この「StandByMe」を見たんですよ。
大人になった主人公が失われた少年時代を回顧する物語。
ジュニア少年の父は見ながら泣いていたといいます。
俺何かね途中で寝てもうたんですよ字幕やし。
パッて起きたら隣で見てるおとんが泣いてるんですよ。
号泣してるんですよ。
そんなおとんやなかったのに。
なかったのに。
で俺その時におやじの涙っていうのを初めて見て「うわっ父親が泣くねや」っていう事にすげえびっくりして何かメッチャ怖かったんですよ。
すっげえこの手すりをギュッて握ったのは覚えてるんですけど「うわっおとん泣いてる。
おとん泣いてる。
怖い怖い。
何やこれ?」みたいな感じで家帰る道中に「お前も俺ぐらいの年になったら大人になったらこの映画もう一回見ろ」って言われたんですよ。
去年見たんですよ2回目。
「StandByMe」。
ほなあのおやじの涙の意味が分かるかな思て見たんですけど結果…まあ映画として別に楽しかったですけど「これ泣くほどか?どこで泣いたんやろなおやじ」と。
俺よう分かんなかったんですよ。
でよくよく考えたらその10歳の俺に「お前大人になったら見ろ」と言ったおやじの大人になった息子の想像の中ではもうその息子にも息子がいてその息子を連れて一緒に見てるような映像が多分おやじには浮かんでたと思うんですよ。
なるほどなるほど。
40歳の息子がまさか独り者やとは多分思ってなかったと思うんですよ。
「あそういう事か。
だから俺はこれを息子と見ろとおとんはどっかで言うてたんやろうな」みたいな事を去年思うてたんですよ。
昭和30年代テレビが普及します。
高校生になっていた桂文枝靜也青年はテレビの中にあふれていたお笑いに夢中になります。
高校では演劇部。
芸能の華やかな世界に少しでも近づきたかったからです。
ここで人前に立つ事に自信を持った靜也青年。
友達と漫才コンビを結成。
ラジオ番組に出演します。
これが大評判。
更に自信を深めていきます。
「このままプロになれるんちゃうか」。
そう思ったやさき靜也青年は大きな壁にぶち当たります。
それは先輩から偶然紹介された横山やすしとの出会いでした。
高校3年生の時に初めてやすしさんを見たんですね。
同い年なんですやすしさんとは。
すごい人がいるなぁという感じでしたね。
ほいでそのころねちょっと漫才の世界いうか面白いしええなあって芸能界に憧れてたけどこんな怖い人のおるとこへよう行かんわ思うて。
圧倒的な才能に打ちのめされ自信をなくします。
人生そんなに甘くない。
そのころの挫折感を思い出すのが映画「愛と死をみつめて」の主題歌。
人生のはかなさを歌った曲に心打たれます。
何かやたらそのころねこういう何か死んでしまったとか何かやたら悲しい歌ばっかりがはやるんですよ。
ほいで何か若くても死ぬんやいうのがねいつ死ぬか分かれへんから好きな事をせなあかんのちゃうかなというような感じがありましたね。
漫才師いうかお笑いに入りたい思うたけどちょっとあの世界もなぁ思って自分が一体これからどうしてええのんか暗たんたるもんがありましたね。
へえ〜。
一方10歳のジュニア少年は4歳年上の兄せいじの後について遊び回る活発な男の子へと成長しました。
兄たちの仲間に入れてもらおうと必死に背伸びをしていた日々。
年上の気を引こうという思いこそが後の芸人千原ジュニアを形づくるとはまだ知るよしもありませんでした。
僕はもうせいじが好きで好きでずっとせいじについて歩いて漏れなくせいじのTシャツは右斜め後ろが伸びてたらしいですけど。
ずっと俺が持って歩くから。
ほんで僕もやっぱ4歳上の人と一緒に遊ばなあかん。
4歳上の人に楽しんでもらえるようにお話しせなあかんとかっていうふうになってくとだんだん早熟になっていくし生意気になっていくし。
ほなせいじにしたら「何生意気な事言うとんねん」みたいな事でようどつかれたり。
よう泣かされてましたねせいじに。
なかなか兄に認めてもらえなかったこの時バイブルにしていたものがありました。
それが…困難と闘うジョーの姿に共感したジュニア少年。
その主題歌は自らの応援歌となりました。
みんながそのいわゆる「週刊ジャンプ」とか「週刊マガジン」とかっていうのをみんなが回し読みしてる中僕一切読まずに「あしたのジョー」読むみたいな。
ほんで何か僕はちっちゃい時からみんなと違う事しよう違う事しようってばっかり思ってるんですよ。
無理やりひねくれようとしてる子どもで。
ひねくれるような環境はどこにもないもんね。
何にもないんから逆にやと思うんですね。
人と違った事をする事で存在感を出していたジュニア少年。
中学進学でも人と違う選択をします。
え〜私立の中学を受験するんですよ。
本当福知山いうのはちっちゃい町なんでみんな普通の公立の中学生は黒い学生服なんですけどその私立の6年制の学校は紺色なんですよ。
その辺の町歩いてると紺色やと「あそこの子や。
あの学校行ってる子なんや」みたいなふうに分かる町やったんですけど。
「みんなと違う紺色の制服が着たい」。
そう思ったのは傷ついた経験があったからです。
それは…。
小学生の時に例えば友達のとこ行ったらせいじと一緒にやんちゃしたりもしてるんで「あんな子と遊んだらあかん」みたいな事があったりとか幼心にちょっと傷つく事もあったりしながらほんなら勉強してあの青い学生服手に入れたら変わるんちゃうかみたいな。
でそこ受験して行くんですけど行ったら行ったで何かそこが全く合わなくてそっから休みがちになって。
親はその時に「どないすんねん」と。
「どないすんねやろな」という事は思ってたと思うんですよね。
僕自身も「これどうしようかな」っていう。
自分でも「どうなんねやろ?この人生」と。
パソコンなくてよかったなと思いますね。
今もし家にあったら俺まだ福知山から出てないかも分かんないですね。
欲しかった紺色の制服を手にし目標を失ったジュニア少年。
進学校の校風にもなじめず自宅に引きこもる生活が始まりました。
1964年東京オリンピックで日本中が沸いていた頃。
いまだ将来の目標が見つからないまま大学2年生になった靜也青年。
何気なく過ごしていたある日その後の人生を大きく変える衝撃的な出会いがありました。
それは大学で開催された落語会で見た後の人間国宝桂米朝の落語でした。
「これぐらいの頭を働かさなんだらあかんねやでお前ら。
盗人というものも半分はここじゃ。
分かったか」。
高校の時からお笑いの世界入りたかったけど漫才っていうのの難しさコンビの難しさいうのは分かったような気がしてでその時に米朝師匠が落語されたんですけどそれ見て「あっ自分はこれしかない」と思って落語家になったんですよね。
一人で笑いを作り上げる落語の魅力に取りつかれ早速落語研究会に入ります。
そして自らを浪漫亭ちっくと名乗り落語を猛勉強。
研究会の会長も務め学内の人気をさらいます。
ようやく人生の目標を見つけた靜也青年。
そしてファンだった桂小文枝後の先代桂文枝への弟子入りを果たします。
名乗った名前は桂三枝。
66年デビューを果たします。
「売れるのは絶対に売れるだろう。
俺はこの世界で絶対に飯が食えていけるようになるんだろう」っていうのはあるんですか?それは全くなかったんですよ。
いつかはと思ってましたけども。
当時の落語界は厳格な徒弟制度。
師匠の家に住み込みで雑用に稽古にと追われました。
こんな暮らしがいつまで続くのか。
不安が胸を締めつけた時聞こえたのはこの歌。
この歌は好きとかいうんじゃなくってものすごいはやってたんですよ弟子入りしたての頃ね。
そのころ京都花月がありましてね京都花月へ行きましたらね往復の電車賃がもったいないというのもあって弟子は残されてそこへ泊まりまんのや。
で京都花月の裏はね墓場になってまんのや。
聞いた事あります。
僕怖がりでね小さい時から。
夜が怖いんですわやっぱり。
でまあ夜になったらちょっと近所のうどん屋みたいなとこへ行ってね。
ほなこれが流れてきまんね。
何か知らんけどどの店へ入ってもこれが流れてきてね。
でこの時代師匠のとこへまあ住み込みですしいつ売れるかその時は分かれへん訳やからこういう生活が延々と続くんかなみたいな感じでね。
本当に毎日が…まあ落語家になったもののねこれでやっていけるのかないうのはありましたね。
そこへ追い打ちかけるようにこの歌が。
どの店入っても。
僕の心の中をぐわ〜っと締めつけるようにね。
入門して10か月。
なかなか落語が受けずプロの厳しさを痛感していた三枝に師匠が小さいながらチャンスを与えます。
若者向けのラジオ番組。
出演者を決める公開オーディションでした。
「持ち時間は3分。
何か小ばなしをやってこい」。
師匠から言われたのはたったそれだけ。
修業いうても10か月ですから。
そうですね。
落語も1つぐらいしか師匠に教えてもろうてないし。
今までみんなが見てた落語家は「え〜何でございましてここにこういうのおりましてな」みたいな事言うてねそういう口調やったんが全然違うっていうかね。
普通のしゃべり方で「こないだ映画館行きましたらこんな映画やってましたんや」みたいな感じでね。
たまたまスタジオにいる中学校高校生の女の子が…まあちょっと受けたんですね。
ほんならディレクターがえらい気に入ってくれてまた来週も。
ほいで行ってるうちにこう…まあ人気出てくるっていうか。
10か月やったから普通の口調でこれがもう2年3年やってたらいろんな人の手あかがついて「え〜」いうて普通の落語家口調にね。
5年ぐらいたっとったらもう普通の落語の…。
口調になってますもんね。
多分なってたと思いますね。
まだ落語が身についていないからこそ独特の個性が出た。
三枝はこの幸運を生かしラジオ番組の人気者として圧倒的な支持を集めます。
「ヤングおー!おー!」。
更にその2年後テレビの世界に進出。
桂三枝の名は全国区に知れ渡り続々と人気番組をスタートさせていきます。
僕が横からパッと顔出して「どうもすいません」と。
ほな女の人「や〜!」。
これ見て2人「おもろいな〜」。
見知らぬあなたと。
見知らぬあなたに。
デートを取り持つ…。
(2人)「パンチDEデート」!「新婚さんいらっしゃい!」。
運が開けた三枝。
同時に戸惑いも抱えます。
「このままでいいのか?」。
そんな時響いてきたのが孤独な気持ちを歌った「真夜中のギター」。
人気出だしたら何かやっぱりこう周りからの目もねちょっとこう違てくるっていうか余計に孤独感になってくる訳ですよ。
結局表でキャーキャー言われててもまあ一人やったみたいないつもね。
そういう時にああいう歌がまたこうヒットしてね世間でよく流れてたから余計さみしくなるっていうかな。
「売れたけれどもすぐ駄目になるかもしれない」。
一度得たものを失わないために必死でもがきます。
人気を落とさんためにはどうしたらええかとまあそればっかり考えてましたね。
その一つにはやっぱりギャグ作る事やと。
とにかく出ていって早くつかまなあかんと。
それでつかめたらと思ってまああれが出来たんです。
皆さん…三枝は定番ギャグを次々に生み出し人気を不動のものにします。
高度成長時代の雰囲気にマッチした軽妙なギャグ。
12三枝ご苦労さん。
67はっきりくっきり東芝さん。
グッ!東芝の…。
ブラックストライプ。
一方1988年日本初の屋根つき球場の東京ドームが完成しバブル景気で日本が沸いていたこの時。
進学校に入学するもその雰囲気になじめなかった14歳のジュニアは自分の部屋に鍵を掛け外の世界から遮断された場所で毎日を過ごしていました。
これからの人生をどうしたらいいか悩み苦しんでいた時にかかってきたのは一本の電話。
それは高校を卒業して大阪のお笑い養成所に通っていた兄せいじからでした。
NSCでこう相方が見つけられず何人かとコンビ組んだらしいんですけどすぐ一回やっては別れみたいな。
せいじさんいうのは見たままの感じなんですか?あのままです。
あんな感じ。
だからなかなかうまい事みんなとやられへんかったみたいな?そうなんですかね?どうなんでしょうね?1人2人ぐらいコンビ組んだらしいんですけど結局うまくいかずに。
「あっそうや。
家に何かおかしなやつおったな」みたいな事でせいじが電話してきたんですよ。
ほんで「お前ちょっと来い。
学校も行ってへんねんからそれやったらお前吉本来い」っつって「3日後にネタ見せがあるからネタちょっと作ってこい」って俺せいじに言われるんですよ。
で「俺が作るの?」と思って。
たった3日でコントのネタを作る。
突然のムチャぶりにジュニアは応えます。
「今しかない!」。
人生を変える勝負の時。
外の世界に飛び出す勇気をくれたのは若者へのエールを歌うこの曲でした。
何かこの曲がすげえ僕好きで何か今でも例えば舞台に向かう時に「ここすべったらやばいぞ」とか「ここはもう絶対勝負のポイントやぞここ」みたいな時に本番向かう時に何かこう頭の中で流れる曲なんですよね。
生まれて初めて作ったネタと共に大阪の養成所に向かったジュニア。
そこでは人生を変える光景が待っていました。
えっとFUJIWARAとかバッファロー吾郎とかがこうやってるんですよ。
お〜。
ホッホッホ。
ほんでFUJIWARAとかメチャクチャ面白いんですよ。
原西とかね。
原西とか「何やこの動き。
メチャクチャおもろいやん。
こんなやつがいるとこは絶対無理やな」なんて思いながら。
でも人とは違う事をやりたいみたいな事があるからやったのがたまたまぐちゃぐちゃなのが「何やこれ!こんなん初めてや」みたいなんで多分笑いになったと思うんですよ。
それでドッカ〜ンって受けて生徒200人ぐらいがワッて笑ってそんな200人が一気に笑う声を僕の鼓膜が揺れたの初めてなんでほんま電気走って「何やこれ!すげえ気持ちいい!俺はここにいたい。
この世界入りたい」って思ったんですけど。
「これはいける」。
芸人としての手応えを感じたジュニアは僅か2か月で高校を中退しお笑い養成所に入学。
しかし待っていたのは厳しい現実でした。
全く受けなくなるんですけど。
「こいつただただ何にも分かってない。
ムチャクチャやってるだけなんや」っていうのがだんだん分かっていくんですね。
養成所に入り本格的にお笑いを始めて気付いたのは真剣に取り組むライバルたちとの力の差。
自らの未熟さを初めて痛感します。
その後15歳で千原兄弟としてデビュー。
しかし笑いが取れない彼らが舞台に立てるはずもなくつらい日々はジュニアを不安にさせました。
とにかく高校をやめて中卒でいくという事はもう変えられへんからもうここでなんとかやるしかないぞという怖さはすごいあったのはありましたね。
焦りと不安に押し潰されそうになりながらネタを作り続けたこの時デビューを同じくして既に脚光を浴びていた人物がいました。
(実況)あ〜効いた!さあチャンス!やりました!新チャンピオン誕生!日本最短で世界チャンピオンになった21歳のプロボクサー…彼の強じんな戦いぶりに刺激を受けたジュニアは辰の入場曲を聴いて自らを奮い立たせたのです。
この曲は本当にいつ聴いても緊張してちょっと鼓動が速くなる感じがあるんですけど。
何なんですか?これは僕のデビューと辰さんのデビューが一緒なんですよ。
年は全然辰さんの方が上ですけど。
僕ら大阪でこうやりだして辰さんが最短で世界チャンピオンになってみたいな。
僕も1週間に1本新しいネタ作ってとかっていう事をずっとやってた頃ですね。
デビューが同じ辰に鼓舞され真剣に笑いに取り組む決意をしたジュニア。
人のネタに興味も示さず独学でお笑いをやろうとしていたこれまでを改めます。
そっからです。
僕いろんな人のそれこそテレビ番組全部録画してネタ番組全部見てNGKとか2丁目劇場にスタッフみたいな顔して「おはようございます」とか言いながらずっと袖で見て。
当時出番って1週間ずっと同じネタしはるじゃないですか。
「昨日受けてたあそこのくだり何で今日すべってんねん?あそうか。
ネタ振り甘いからや」とかだんだん分かっていくんですね。
それが3年ぐらいかかりました。
へえ〜。
ほんで1本作って「こういう事なんかな」っていってやったら3年ぶりにド〜ンって受けて。
辞書柔道。
辞書柔道とは実在する辞書を使いある言葉を引きその言葉の意味の説明のユニークさを競う競技である。
「頭。
首から上の部分」。
どうぞ。
「しゃれ。
その場の思いつきとして類音の語に引っ掛けてちょっとした冗談を言う言語遊戯。
例トンダという男が何か失敗してみんなが気まずい思いをしている時に『とんだ事になったな』などと言ってしらけた空気を散らすなど」。
判定!八段!
(拍手と笑い)デビューして5年。
三枝は若い女性からキャーキャー言われる存在に。
しかしアイドル的な人気では長続きしない。
三枝は若い女性からの人気を捨てる覚悟で番組アシスタントの女性と結婚します。
「これからは全世代を相手にする大人の芸人になる」。
そんな決意の新婚時代海でこの曲を聴きました。
まあ相変わらず忙しかったのであれやったけどあの〜家族のために頑張らないかんないう思いにすごいこう駆られたような感じの曲ですね。
このころファン層が変わっていくいうのはもう覚悟してたしそれをねらってましたんで大人の芸人になりたいみたいな。
それはやっぱりやすしきよしさんの影響も大きかったと思いますね。
あそうですか。
向こうはもう本当に子どもから年寄りまで笑わしてると。
自分のネタは若い人向きのネタばっかり作ってきたみたいなとこあったからこらいかんという事でね結婚生活みたいなもんとか子どもが生まれたら子どものネタもできるしいう事でまあ大きく変化していったと思いますね。
一方芸人としての未熟さを痛感したジュニアは兄と2人ひたすら劇場でのライブやネタ作りに打ち込む毎日を過ごします。
当時若手芸人の活躍の場で数々の人気芸人を輩出していた…そこで活動していた千原兄弟はほかのコンビにはない独創的な場面設定やキャラクターが受け絶大な人気を獲得。
更にジュニアはそのとがった芸風からジャックナイフという異名でその名をとどろかせ一躍劇場のリーダー格になります。
そしてその人気はテレビにも波及。
人気芸人の階段を一気に駆け上がりました。
お前趣味何や?早口言葉。
まあええわ。
まあええわ。
坊主と坊主が頬ずりしてたら屏風になった。
なるか!どういう事やねん!坊主と坊主…。
なるか!アホ!赤パジャマ洗たら黄ばんだ。
知ら〜ん!ちゃんとネットに入れて洗えよ!僕もそうですしせいじも「お兄ちゃんかっこいい!」言われてましたからね。
ほう〜。
それもお客さんに対して「分かっとるわ!」言うてましたからね。
人気実力共に関西若手芸人の頂点に立ったジュニア。
その人気を象徴するかのように関西のある番組がスタートします。
千原兄弟が司会を務め絶大な人気を博したこの番組。
共演していたのがロックバンドDynamiteMaker。
彼らが歌う「LastSongs」の歌詞は当時のジュニアの暮らしそのものでした。
このDynamiteMakerっていうバンドが特にこう近しくしてくれて東京後に出てくる時もタイミングが一緒やって東京で一緒にずっと遊んでたっていうのがあってすげえこう懐かしい曲ですね。
このころはまだ東京へ行こうとかそういうのはなかった?そろそろ東京がうっすらチョイチョイ呼ばれるようになって見えてきたかなみたいな。
念願の東京進出を目前に思いがけない出来事がジュニアに襲いかかります。
急性肝炎による緊急入院。
初めて僕が司会で始まった番組が3月に1発目の収録があって「さよなら〜」って言ってそのまま俺倒れたんですよ。
(拍手)はいOK!それも当時それこそもうメチャクチャ忙し…。
学園祭とかがねシーズン60本とか呼んで頂いてみたいな頃で。
60本!…とかの時やったんですけどまあまあ過労やろうという事で一応病院行ったら急性肝炎やと。
はあ〜。
うちの親と会社が呼ばれて「五分五分です」と。
4日間意識不明で一命は取り留めるんですけど。
生死の境をさまよったジュニア。
一体どうなる?過酷な笑いの世界で2人はどう生きたのか。
更なる波乱が続きます。
2015/12/10(木) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「桂文枝×千原ジュニア 第1夜」[字]
桂文枝と千原ジュニアの10曲。時代の笑いを作ってきた二人が人生を語る。/今も舞台に向かう時に脳裏をかすめる激励の一曲/桂文枝が「新婚さん」だった頃を思い出す一曲
詳細情報
番組内容
「あなたが人生で出逢(あ)った『大切な歌』を10曲選んでください」この問いに、あなたは何を選びますか?この番組では、二人の表現者が自分の人生の『大切な歌』を持ちより、対談。それぞれの人生を「音楽」を切り口につづっていきます。今回は、桂文枝と千原ジュニア。/華やかな世界の裏側。孤独だった若い時を思い出す一曲。/千原ジュニアが経験した2度の生死をさまよう危機。/桂文枝、ジュニア、父への思いを語る。
出演者
【出演】桂文枝,千原ジュニア,【語り】ヒロ寺平
ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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