【決断レジェンドの引き際】(3)谷佳知、盟友キムタクさんの墓前に報告「一生懸命プレーができたかな」

2015年12月17日10時30分  スポーツ報知
  • 2010年4月24日、故・木村拓也コーチ追悼試合で代打逆転満塁本塁打を放った谷
  • 2009年、日本一となり木村さん(右)と記念写真を撮る谷

 現役を引退したレジェンド4人によるインタビューの第3回はオリックス、巨人で活躍した谷佳知外野手(42)。走攻守そろった外野手として巨人移籍後、7年間で5度のリーグ優勝に貢献したバットマンだ。2000安打まであと72本に迫ったが、引退を決断。手にできなかった“名誉”よりも、ひとつの心残りがあった。また恩師の仰木彬さんや盟友の木村拓也さん(ともに故人)に引退を報告したことを明かした。(聞き手・楢崎 豊)

 氷上を駆け抜ける愛息たちを、谷は優しい表情で見つめていた。現役を終えた谷は、都内のアイススケートリンクにいた。9歳の長男と5歳の次男が約1年前に始めたアイスホッケーの練習に付き添うことが、今の楽しみだという。東京と神戸、離ればなれの生活を終え、一緒の時間が増えた。

 「今の生活は新鮮です。野球のストレスから解放された感じはします。選手の時は休みの時も打撃のことを考えていた。シーズンオフも考えていたから。その辺がなくなって家族、子供のことを考える時間が増えた。充実している気はする」

 19年の現役生活を終え、ユニホームを脱いだ。10月3日の引退試合では代打で通算1928本目の安打を放つなど、持ち前のバットコントロールは健在だった。オリックスは2000安打達成を期待し、13年オフに巨人を自由契約となった谷を獲得した。しかし8月末、引退を決断した。

 「今年は勝負と思っていたし、2000本を目指すとやってきたけど、(到達までの)減り方が少なくなってきた。このままやっていても―という思いはあった。決め手となったのは1軍での出場試合数。状態が整っていても、なかなか1軍から声がかからなかった。試合に出られない歯がゆさはあった。若手に切り替えたいというチームの意向もあるとは、分かっていたから。プロ野球というのは、そういう世界だと思うしね」

 巨人での7年間では5度のリーグ優勝。オリックスでは1度も優勝がなかった。谷は恩返しをするために、最後は古巣で骨をうずめる覚悟を決めていた。

 「弱かったチームを、自分が変えたかったというのもあった。7年間、勝つことだけを意識してきた巨人での経験を、オリックスの1軍選手にもう少し伝えたかったというのはある。自分が1軍にいることで、いろんな選手と話ができたりとか、アドバイスできたらと思っていた。現役選手が話すのと、コーチが話すのとでは違う。あまり1軍に呼ばれることがなかった。それは心残り―というのはある」

 来年はユニホームを着る予定はなく、ゆっくりと自分の時間を過ごす。引退試合後、家族4人で長野県内の温泉にも行った。育ての親である仰木さん、そして同い年で10年にくも膜下出血で急逝した木村さんの墓前にも、手を合わせてきた。

 「仰木さんは自分だけでなく、家族のことも心配してくださったので、引退したことと『家族は元気です』と報告した。タクには『引退したよ』って。先に彼が引退をして『できる限り、長くやってよ』と言われた。自分の中では言われたように、長くできたかなと思っている。あいつは本当に一生懸命だった。そういう現役生活を送っていた。俺も一生懸命、タクと同じようなプレーができたかなと思う」

 いつか一緒に同じチームでコーチをやりたいと話していた2人。夢は、かなわなかった。だが谷は再び球界に戻る可能性について「お話(オファー)があれば」と話した。盟友の思いも胸に秘め、再びユニホームに袖を通す日は、決して遠くない。

 ◆谷 佳知(たに・よしとも)1973年2月9日、大阪府生まれ。42歳。尽誠学園から大商大、三菱自動車岡崎を経て96年ドラフト2位でオリックス入団。2001年にプロ野球記録となるシーズン52二塁打。02年に盗塁王、03年には最多安打。06年11月に巨人移籍。13年オフにオリックスに復帰。通算1888試合に出場し、打率2割9分7厘、133本塁打、741打点。173センチ、77キロ。右投右打。家族はシドニー、アテネ両五輪柔道女子48キロ級金メダリストで参院議員の亮子夫人と2男。

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