被災を作り出した張本人「ふくしま安全神話」デマ排撃とエセ科学の検証へ 吉田邦吉


はじめまして。
生まれも育ちも福島県大熊町の原発避難者、吉田邦吉と申します。

フライングダッチマンのこのCDを持っています。
初心に帰りながらつづりたいと思います。

震災や東電の加害からそろそろ5年になります。実にいろいろなことがありました。少しだけ、デマ排撃の、いわゆる「非国民病」や「安全エセ科学」が、いかに被災地をそのまま被災のままにしているかのお話をさせていただこうと思います。

新刊の全国発売書籍「フクシマ発(現代書館)」にて、多くの人達の編集長をさせていただいた観点から、前置きを一つ言わなければなりません。福島は誰か一人のものではないということです。いろいろな考え方があるでしょう。いろいろな精神状況にあるかたもいるでしょう。

むろん、原発事故の避難者でもない、生産者でもない人が、それらよりも声を大にして謙虚ぶって安全論をしているのをよく見かけているのを、至極残念に思っております(表現は自由でしょうけど、無責任ですね)。その理由として、原発事故は、この場合まやかしのために使われる共存などの言葉とは関係が無く、とにかく加害があってのことを忘れさせようとしている人達が居るからです。

そういう人達が、「被災者や避難者の発言を無力化」しようとしているのを、日々見かけているのです。あたかも「理想的な民主主義なんだから避難者の声はもう忘れて、自分の声を聞け」という言い方に辟易しています。避難者を無視した帰還政策を作り出そうとする。福島愛郷心をかきたてて排外主義化。まるきり「右傾化トラップ」だと言って良いでしょう。

原発は意見が対立しやすい問題などでは決してありません。とにかく要らないものです。緊急的に国家国民とその大自然について存亡問題にかかる重要性として、いち早くゼロにしなければならないものを、あたかも「イデオロギーの対立だ」というレッテルを貼り付けてくる言葉が散見されています。ほんの、ごく少数のことでしょう。熱心な妄想のようなものにとりつかれているようです。

わたしなどは原発のせいで家族との平和な暮らしや生業、代々の苦労を重ねた土地や思い出の全てを奪われ、これでも「曖昧な当事者性だ~」「避難者の言葉は政治だ~」「避難者には語らせないぞ~」という風にさせられて、ほとんど嫌気が通り越して、あきれ返っております。事故直後から、ずっとこの状況が続いていて、とても嫌な気持ちでいました。ずっと忘れても居ました。ウンザリなのです。そういう論調。

居るのは加害者と被害者なのです。

原発事故の後、いわゆる「ふくしま安全神話」が、加害者の捏造だったことが分かり、それらに対するしっかりとした責任の追求をするために、いろいろな考えが生まれ、みなで原発を減らそうと大勢の人達がデモやムーブメントを起こしてくれたこと、とても感謝しています。勇気付けられました。

ところが、それらへのアンチテーゼとして一部の頑迷な、多くの「安全科学」や「デマ排撃」という、いわゆる「非国民病的ふくしま安全神話」が、再生産されました。明確な加害という事実や、それへの責任を遂行するというルールがあるなかで、勝手な表現の自由を称して、あたかも東電免責の方向へばかり物事をすすめようとしている人達が居るのです。

双葉町の原発事故前の看板のように、
「放射能ただしい理解で豊かな暮らし」なのでしょう。
おなじことを繰り返しています。

そんな中で、一部では、いわゆる「御用学者が数多く登場」し、武器輸出も改憲も原発輸出も再稼動も全てOKという超過激でセンセーショナルな言論で目立つことや、デマ排撃という正義イデオロギーの御旗によって、一般庶民のささやかな会話をすら封殺弾圧しようとする私人が現れてきました。

おそらく、孤独や煮え切らなさからの劣等感の憂さ晴らし、という心理構造でしょう。つまり、「加害・被害」という至極「客観的かつ科学的かつ常識的かつ法的」なことを、「一部の人のちょっとしたことを揚げ足とりをすること」によって、そのほか全ての常識的な価値基準が崩壊されてしまっていくのです。

これは自由や民主主義とは全く逆行する、いわゆる「カルトによる支配」をもたらすでしょう。たとえば「鼻血の原因は原発事故ではないか。放射性物質のせいで鼻血が出たのかもしれない」と、少なくとも、「そのとき出た」ことを証言しているだけの人に対して、「科学的根拠に乏しい」の一点張りで、「わからないことを無いこと」にしようとしているのです。

福島県でも鼻血が出ているとわたしに証言した人達は居ますのに、「福島県民が否定しているんだぞ」と、あたかも「福島県民さま」と言うような人が居ます。なぜ、そういう人達の症状をしっかり見ないのでしょうか。なぜ、被害を隠そうとするのでしょうか。神戸新聞での医療論文では、放射性物質で鼻血はありえるという内容が出ています。津田論文についても同様です。

これらの論文は無い扱いされています。おどろきですよね。しかも、放射能大丈夫論文だけは新聞に載れます。これもおどろきというか新聞の、エセ公務員化でしょう。困ったものです。わたしは震災後、何度新聞をやめようかと思ったか数え切れません。失望していることが非常に、非常に多いのです。

このことに、一部のマスコミまでもが加担し、「統計的に影響なし」ばかり報道し続けました。そこに喉を切った子が少数でも居たら、原因の有無の前に、まず人生を救済しないんでしょうか。少なくとも放射能ではがんを誘発することが分かっているのに、「違う、違う」ばかりでは、おかしいではありませんか。世界最大の原発事故ですよ。

現場の声が、かき消されていっていると存じます。親御さんやご家族は非常に辛い思いで居ます。私は実際に聞いております。現場の声を逆用し、「現場では無いと言っている」「本当の被害はがんじゃない」などと、意味不明なことを言う声もあることにショックを隠せません。悲しい。

山積する問題を全て棄民するためにそういう論はあるのでしょう。そういう論を全て「強引に示している」のが平仮名の「ふくしま」です。これこそが、一部の人によって、安全神話の象徴に使われてきています。再び安全神話は蘇ろうとしているのです。それも、「フクシマ」表記を攻撃することで、愛郷心を盛り立てようとしています。

原発事故の被害者であるわたしがフクシマ表記を使っていることは無視どころか、あたかもわたしに恨みでもあるかのように連日連夜、「フクシマ負のスティグマが悪い~」と言って、被災や被害を無き物にしようとしている話があるのです。おどろきでしょう?実際にあるようです。ものすごいイデオロギー、すごい政治的です。

それも被災者の声を「力づくだ」などと言う人も居るから驚きです。あきらかに真逆です。わたしにチカラがあるなら、どうぞ、東電に責任をもっとしっかり取らせたいです。彼らは謝りにきたことすらありませんし、説明会と称して来て見たら、とんでもなく不遜傲慢な東電社員が東京から仮設住宅に来たこともあります。写真もあります。

残酷ふくしま神話です。

それに対して、カタカナの「フクシマ」は、悲しみを見る、被災を見る、純粋な人としての「やさしさ」だから、「どうすれば回復しえるか」が見える、本当の意味での復旧・復興が見えてくるのです。それを、「カタカナ・フクシマは生活者の立場を無視していて、ありがちな被害者の像を求めているから、イデオロギーに利用されている、言論活動のネタになっている、消費されている」などと隣人の言説を無力化すべく言ってくるのですね。

排外主義の「踏み荒らされる福島」的な考えでしょう。そのような言論活動を見るたびに、「そういう論こそが被災をネタにしている」と、わたしなら思います。なぜ?簡単です。その人は直接の被災者ではないからこそ、直接の被災者を無視させる方向へばかり進ませようとするのです。

そもそも「原発事故は政治」などでは決してありません。刑事告訴されている立派な「加害」です。2011年から続いている公害です。これをなぜか、「フクシマに便乗したイデオロギーが」と始め、結局は「改憲・戦争ビジネス・第二原発再稼動・放射能安全、食べて応援」と言った、あたかも「被災に便乗」をしようとしているほうこそが、そういうことを言い続けるのです。

危険だから安全と言い続けてきたのです。いつでも同じ。いつでも逆のことを喧伝して周る人達に要注意です。愛国心のかわりに「愛郷心」を利用します。「生活者」を利用します。イデオロギーのために利用します。利権構造のために利用します。原発利権は物凄い税金収奪システムなのです。

その象徴が「ふくしま」。

そもそも「純粋な被害者像を求めるな」などと、被災者でもない人が、自分に言われてないのに、過剰反応していると思われます。被災者ならわたしが被災者ですから、そういう過剰反応の人はどうぞ下がっていればいいのです。なぜ、被災者の前にしゃしゃり出る被災地の人間が居るのでしょうか。

わたしが「フクシマ」という言葉を雑誌のワードに使っているのには、幾つもの理由がありますが、この文字を使っている人は大勢いらっしゃいます。わたしはそれに習っています。むろん、フクシマという文字が生まれたのは、政府東電の加害による悲しみと怒りからです。

ある情報によると、この文字をわたしが使い始めた直後から、毎晩そればかり言う人が出てきて、わたしのフェイスブックを監視し、実名でわたしへの陰口を書いていた人が居るそうです。そのツイート内容からは、わたしのフェイスブック投稿を見ていないと分からない内容があったそうです。とんでもない人が居ますね。

しかしわたしは見たことも無い人で、知らない人なのです。
あまりの粘着すぎる陰湿さに恐怖を覚えています。

こうして、
そのような人が叫んでいる「ふくしま」には、相当辟易しています。

とにかく、被害は実際には少なかったと言う安全論であれば東電の加害をなかったことや減少させられるので自分が言論として出世できる、自分よりも肩書きがある人とフリーランスとして書けると考えているのでしょう。御用はなはだしいと思います。そういう人達にとって、「ふくしま」は、ハッピーであればあるほど自分がハッピーなのでしょう。

まるで宗教のようです。ハッピー宗教。被災地でハッピーハッピー。被災者を愚弄しているとしか思えません。ほとんど利己的なデマに等しいものに感じられます。自分が幸せなら自然に享受していればいい。それをなぜ被災者に押し付けようとしているのでしょう。御用のご機嫌取り以外に理由が思いつきません。

被災地を心配するあまりに「デマ悪い」と称して、言論人でもない人を無闇に集団でつるし上げたりしているのを、そういう一定の決まったメンツの決まった集団の人達でやっているのを何度かツイッターで目撃したこともあります。いま、ツイッターはそういう愛郷心の非国民病のウィルスが蔓延しているようです。誰も彼もよく知りませんので、誰がどうとは言いにくいですが原発事故が起きたら発生したようです。

たとえば「子供を守れというスローガンはイデオロギー利用だから悪い」などと言って、本当に子供の被害を全く忘れさせるかのよな、要は、「話をずらしていく論」が、どんどんと展開され、拡散されていきます。デマの隠れ蓑だから子供を守れが心が痛いなどと言って、そもそも子供を守る主張を全然してない人も居ます。一体全体、何が言いたいのかさっぱり分からない論理破綻です。

結局、左翼叩き、フクシマへの憎悪。リベンジ・ヘイトクライム。こればかりです。いろんな意味で恥ずかしいと思います。本当の意味での愛郷心がないのでしょうね。本当の意味での保守的な考えがないから、被災地としてのふるさとが苦しんでいても、自分だけは被災を売り渡し御用で出世と思っているのでしょう。

歴史が判断しますよ。

平穏な日常を取り戻したいからこそ、被害を回復したいのに、その主張を手伝ってもらうことを、あたかも「フクシマが危険だとは言わせない~!」と言わんばかりの「ふくしま安全論」のような主張には、実に現場の声を掻き消す「善意の暴走」でしょう。イデオロギーとしか思えません。大衆の暴走と言うのかもしれません。確か、B層などと名づけた人も居たように記憶しています。

権力という正義に燃えているのでしょうね。しかしそれだと被害は放置され、累積被害が深刻化するでしょう。2020年以降は、復興補助金もどしどし停止する予定です。そういうことを見せなくするために左翼悪いなどという妄想を触れ込みまくっているとしか思えない言論態様です。

そもそも「人がどういう情報を見ていようが人の自由」であり、どういう誤解した情報であろうとその人の情報なのです。勝手に他者が、その人の思想や表現に対して、あたかも「被災者の話を聴け弾圧」をして良いとは思えません。人の口に戸は立てられないのです。

たとえ1ツイートが間違っていようとも、一言が間違っていようとも、そこから丁寧に成長していけばいいことです。それをあたかも「フクシマというワードが悪い」ということを象徴にしてしまうと、(もう隠すのはやめましょう、そういう論が言いたいことは簡単です)「デモや左翼つぶし」でしかないのです。

つまりイデオロギーです。
権力側から庶民側を悪い風に持っていき朝敵に仕立て上げる。

そもそも「専門家」と称した「御用学者」が、原発事故後、どれぐらい出たでしょうか。プルトニウムは飲んでも大丈夫だとか、年間100ミリ浴びても大丈夫とか20ミリあびても大丈夫とか、まるで悪い冗談のようなことを平気で言っている学者を、「庶民より偉い」などというように位置づけしようとするネトウヨ系オオカミ少年がいます。

そんなに専門家の知見が大事なら、どうして憲法改悪には反対しないのです?学者や専門家らが1万人も反対しているのですよ?思い切り見てみぬフリではありませんか。この件のとき、そういう人達はたいてい、デモがね~、デモが~、葬儀デモが~と、また違うところへ、本質と外れたところへ話を持って行き、またやっているなと思うだけなのです。

20ミリが決定される動きのとき、そんなことは自分の子に決して出来ないと泣いてやめた専門家の涙を思い出します。とてもやるせない気持ちでいっぱいです。そんなにまで他人というか「ふるさと復興の不幸ふくしま」にしてまで、社会への恨みがあるんでしょうか。

「原発事故関連死」が沢山でました。
それを「デマのせいで人が死んだ」と思っている人も居ます。
当然ながら「原発事故のせい」です。

感情に訴えかけて、デマのせいだ、と言いたい気持ちも、全く分からないわけではないですが、避難していたひとであれば、あきらかに原発事故の被害者です。それなのに、その東電側、原発事故をかばい、いつもいつもデマ憎悪というのは、少々逆恨みに過ぎるかもしれません。加害者を守り、被害者を捨てる、そんな状態でよいでしょうか。

自殺されたかたの言葉「原発事故さえなければ」を思い出します。

もし放射能が入っているコメを売ったら、テロとか人殺しとかきつい言葉遣いの人からわざと言われても不思議ではないのではないのでしょうか。福島の農家自身が自分では食べないと発言した記録もあるようです。そういう矛盾を、どう説明するのでしょうか。わたしも農家ですが、もしわたしのコメに放射能が入っていて、それを売るのは、良心が咎めますよ。猛毒なのですから、当たり前です。

世の中には、放射能への恐怖を口にしただけで苛烈な言葉を投げつけてくる人も居ます。私が放射能は怖がって良いんだとエッセイを書いただけで、「なにこのクズ放射脳」とか「クソ左翼」とか「被災乞食」だのと言ってきた人も居ます。

その人達はみな安全科学好きで、一定の徒党を組んでいるようです。フクシマは風評ではなく実害だと言うだけで、それを槍玉にあげ、「ライターだ」などと言っている人も居るのです。いかんともしがたいしょうがない状態ですよね。これが「ふくしまの惨状」です。実は震災前にも「ただしい理解でゆたかな放射能暮らし」はあったのですから、二度目、喜劇になってしまうでしょう。

とにかく人の実害主張論を槍玉にあげたようなことをして、あたかも魔女狩りを正義感のヒロイズムによって非国民病の排外主義を行う、それがライターなのでしょうか。わたしには、そういう文は、ただのご機嫌鳥の媚へつらいにしか見えません。東電擁護したいのでしょう。被害を被った区域とその周辺に申し訳が立ちません。まったく信じられない恥です。ふるさとへのプライドもへったくれもないのでしょう。

なにか、自分の劣等感や孤独みたいなものを、その「御用で連帯」することによって「埋めている」ように見えます。さみしいですね。そうまでして、被災者の本当の被害を全てデマのせいにしてしまい、そうまでして、右傾化し、そうまでして、原発再稼動し、そうまでして被災をなきものしようとして、楽しいのでしょうか。わたしは一生、いえ、すぐにでも忘れたいような暗黒史だと思っています。多様な意見がそこでは全く尊重されていないのです。

そもそもこんな話題はもうだいぶ前に卒業していましたが、いまだに「ふくしま安全神話」が生まれてくるので、少々くりかえしになりますが書き残しておこうと思った次第です。とにもかくにも、あまりに逆恨みすぎるのです。そもそもデマなど誰も見ていないような言説です。インターネットの情報は自ら取捨選択できるのです。デマ恨みの調子を続け、いつもいつも便所の落書きのような匿名掲示板に恨みを抱いて生きるのでしょうか?酷く惨めです。

そういう「反デマ、反センセーショナル、被災をフクシマで搾取するな」という文を、復興事業をしている人が書いている場合もあるそうです。それはつまり、二つのことで「自分こそがフクシマ被災で飯を食っている」ことの証拠です。ある意味、「だからこそ人のせいにする」のかもしれませんね。

ウソを隠すために誰かを攻撃しているのでしょう。

人がノンベクレルを求めることは実に当たり前のことです。それを「霊感商法」や「便乗商法」と言っても、無理があります。そんなことを言ったら、「無添加」もやっていけないことになってしまいます。「無肥料」「無農薬」も、やっていけないことになります。違いますか? あまりに生産者目線に陥りすぎて、消費行動の実態を忘れても、そこで苦しむのは生産者となってしまうでしょう。

ときどき、デマのせいで離婚した恨みを出している人が居ますが、少々無理があります。ネットの情報とは、どんな内容に関しても玉石混交なのですから、ネチケットがない人はネットをやるべきではないのです。情報の取捨選択ができない人はやらないほうがいいです。絶対に「いろんな情報」は消えてなくなりませんから。ネットは人の内心や話し言葉をそのまま出す面がありますから、誤情報であろうとなんだろうと防ぎようがないのです。

また、遺伝への影響は、放射能の影響で懸念されています。ところが、医療業界は、なんだか不透明で困ります。それが憶測を生む原因でもありましょう。そして、放射線が細胞を傷つけることは、広く知られていることですから、奇形が放射線の影響で生まれない保障をわたしは聞いたことがありません。避難中に死んだ人もいて、原発事故の加害の深刻さは計り知れません。

私自身の体験としても、原発避難の初日の夜に高熱を出して、毛布一枚で、ヒーターのない体育館で苦しんだ記憶と2週間後ほどにも高熱で寝込んだ記憶が、確実にあります。特に2度目のほう、放射能を吸ってしまい、免疫力が下がっていたのかもしれません。わたしはめったに風邪をひかないのです。なぜでしょうか。そういう証言をすれば、「確たる証拠もなく放射能のせいにするな~!」と、あたかも怒られるわけです。意味が分かりません。

ある避難の遅れた村の女子がテレビで言った一言が忘れられません、記憶によれば、「ちゃんとした子供が生めるのか」という憤怒にも似た悲しみの言葉だったと思います。NHKの報道によれば、放射線はDNAを傷つけるそうです。ほとんど回復するが、まれにミスコピーするとのこと。であれば生殖器に関し、放射線が過剰にあたれば個人差によって奇形が生まれない保障があるんでしょうか。確約ない以上、加害がもっとある以上、まず手厚い賠償をすべきなのを、デマのせいにして片付けようとしています。

むろん、科学的に分かってないことを断定し、不公平不利益な対応をすれば「差別」になりえるでしょう。わたしも東京の友達に宿泊しに行く2011年6月ごろ、「服は持ってこないでね」と言われショックは受けましたが、相手の気持ちを考えれば当然だったでしょう。いまや日本中に微量の放射能はあると言ったところ納得いてもらえましたが、あれを「差別」と言うのかどうなのか、正直言って、わたしには分かりません。

なぜなら、<<ここはじっくり読んでください>>【放射能を】「食えば自己責任」「避ければ差別や風評被害」、これ、おかしな理屈だと思いませんか?食べて被害が発生したら通常、加害者の責任です。ある意味、理知的な判断力によって放射能を避けることは、お互いの生活の知恵とも言えるでしょう。無添加食品を選ぼうとするのは人の本能です。

しかしそれを複雑な人間関係における結婚について、「結婚差別が~」などと言っても、「好悪の問題」として片付けられたらどうするのでしょうか。差別というのは、本当は潜伏していくものなのです。世の中を簡単な正義イデオローグ「ふくしま安全神話」でナメてはいけないとわたしは思います。政治的目的のためにやりすぎれば、「本当に差別が残るだけ」でしょう。放射能被災の実態を隠せば隠すほど、デマのせいにすればするほど、いろいろなことが潜伏していくでしょう。

「データだ、科学的知見だ」と言った言説が、また神話として、あたかも神を名乗っているように見えて、大変な恐ろしさを感じます。データなどいくらでも操作のしようがあります。信頼するしないの世界になりませんか。そのデータをデータであるという一点で、無知に信仰するなれば、それは宗教でしょう。正体不明のバケモノのようです、データと科学。

いろいろな被災・被害の事実を、なぜ無視していくような言説が蔓延るのでしょうか。政府・東電の肩をもつことでフリーランス出世したいなどという欲望があるのでしょう。それこそ「被災事実を食い物にする搾取である」と、言えるのでしょうね。むなしいことだと思います。孤独なのでしょう。見ていてください。歴史が判断します。いずれそういう人達の一派は、福島第二原発を再稼動したがるでしょう。利権のために被災潰しなのです。

被災地なのに現場の被災者を無視した論にはあきれ返るばかり。

原発避難者にはいろいろな区域があります。飯舘村などは解除論ばかり先行して大変な状況にあります。それを「選択が迫れている人々へ安全科学を」と言わんばかりの上から目線には少々わたしの怒りも堪えかねるのです。放射能があって、それは実害です。「フクシマという実害」です。

放射能を完全に除去してください。当たり前です。放射能があるままで、そこで暮らし、生業を復活させ、今までどおり同じ市場競争の原理のもとで、「放射能ちょっとなら大丈夫だから」と、がんばれますか?かなり大変でしょう。どうするのでしょうか。そこで被害がさらに出ない保障もありません。放射能の影響は個人差があるようです。

「フクシマを憎しみと責任論に終始させ信頼をなくす」などという、完全なる意味不明の論理破綻の蒙昧愚民をさらけ出してなんとも思わない福島県民もいるようなのです。おそらく、東電や公共事業の関係の人なのかもしれません。そういう論調で名を馳せたいのでしょうね。あきらかに「東電免責」でしかありません。

きっと、「他人の活躍に嫉妬」しているのでしょう。ほとんどカルト化していると思います。自分だけが本当の脱原発で他の大勢の庶民の真面目な気持ちの脱原発はカルトだと言えば言うほど、ほとんど「自分がカルト」にしか見えませんし、原発は推進しやすくなりますからね。そういう人達を「偽りの脱原発」とわたしはかつて名づけてヴェルトに書いております。

自分で自分のカルトぶりをさらけ出す、まさに「ひとりアホ踊り」と言えるでしょう。このままでは、「ふくしま安全神話」によって、御用イデオロギーライターのために、フクシマの被災が旨み、つまり「生贄」にされるでしょう。特別な御用チームなど本当に要りません。無駄です。

被害を放置・深刻化させるだけです。加害というのはデマ云々フクシマ搾取ビジネス云々とは関係ありません。逆恨みも良いところです。まず「政府東電に責任をとらせること」が大事です。全電源喪失はありえないとアベさんが言いましたね?誰も見ていないようなデマが何億円の賠償をするんでしょうか?

加害者は政府東電です。これをずらさないでください。明白すぎます。その明白を隠そうとしている行為が、表ざたになればなるほど、余計に明白になっていくでしょう。福島第二原発を再稼動して普段から薄めた汚染水を海へ垂れ流し漁業者の邪魔をし、人殺しの武器を輸出して人を殺させる改憲をすることが、大事なことですか?

わたしは、震災後、非常に多くのデモや、声を強くあげてくれた人達や、わざと炎上させてまで声をあげてくれる人や、脱原発ムーブメントや、反戦ムーブメント、憲法を守ろう、原発輸出をやめよう、武器輸出をやめよう、そういった声を、心から嬉しく、非常に心強く思っています。

ありがとうございます。
これからもクサノネ庶民派でやっていきましょう。


カテゴリー: ESSAY   タグ:   作成者: 吉田 邦吉   この投稿のパーマリンク
吉田 邦吉

吉田 邦吉 の紹介

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 1981年1月大熊町生まれの原発避難者。中大法卒(法学位:不真正不作為犯における作為義務の発生根拠- A評価)、2000年より塾長。311より各地を転々し、2012年7月4日から会津若松市に避難▼2013年4月、赤坂憲雄代表理事(社)ふくしま会議の発行するウェブマガジン「ふくしまの声」ライターとなり約1年半で33本の文を執筆、2014年9月22日に卒業、同日、ウェブマガジン「WELTGEIST FUKUSHIMA」を創刊。 同月、歴史作家星亮一主幹のもとシリーズ化を目指す雑誌型書籍「フクシマ発 現代書館」の編集長に就任、創刊▼ 福島民報新聞や福島民友新聞、会津若松市や教育委員会など多数が協賛する県内最大の市民フォーラム『原発と人間』第三回より企画委員。赤坂憲雄と遠藤由美子が発起人で町づくり喜多方が実行委員会のふくしま本の森プロジェクト私設図書館づくりの実行委員。さをり織りフェアトレードのセラー。都市農村対流交付金事業・西会津ふるさとファンづくり協議会の研修員 ▼ 趣味はデッサン、字:芸術先生▼2014年5月21日 「偉人を育てた母の言葉」(著:大坪信之 致知出版)コンクール、大坪社長特別賞受賞▼書籍「戦争の教室」編:松本彩子 月曜社/ クサノネ 2014年10月編集・発行:(社)ふくしま会議 / 2015年3月号 「未来へ」に随筆(出版労連)/ うた新聞(いりの舎)2015年7月10日発行(40号)に随筆 / Dark tourism Japan Vol.1 ミリオン出版 中筋純、東浩紀、井出明、猪瀬直樹、 ら先達と共著 ▼facebook / website / ※私の発言がこのマガジン全体を代表するわけではありません。 / I live in Aizuwakamatsu city in Fukushima. I've been a nuclear evacuee from Okuma machi where is the Fukushima 1st nuclear power plant since the 11th of March in 2011 who work as a tutor at my temporal home, and writer, and chief editor of a book and learned from Akasaka Norio Prof. at a meeting Fukushima Kaigi and learn from a writer whose name is Hoshi Ryoichi to edit and publish a Japanese book which is called, "Fukushima Hatsu (Gendaishokan)." I like dessin (drawing). Got a literary prize "A Great word from Mother (Chichishuppan)." One of the writers on two books, "Classroom to learn what is War (Getsuyosha)" and "Grassroots (Fukushima Kaigi)." I graduated from Chuo University where I majored in Law with Law bachelor' degree of thesis: "Reasons to occur a crime called, "A crime of no genuine commission (A)".