【まちの変遷見守る看板】
大正から昭和にかけて、洲本-福良間23・4キロをつないだ兵庫県の淡路鉄道。全17駅の線路道には、一体どんな物語があったのだろうか。廃線から来年で半世紀。「島の鉄道」を知らない世代と一緒に、廃線跡をたどった。
同行してくれたのは、洲本高校放送部2年の男子生徒3人だ。淡路鉄道ファンの野村哲也君(17)と、同級生の竹中洋君(17)、近野雅文君(17)。昭和30年代と12年前に撮影された駅舎や線路跡の写真約50枚(洲本市教育委員会提供)を頼りに巡った。
午前10時半、洲本駅跡の淡路交通本社(洲本市栄町1)に集合。バスが何台も並ぶ駐車場の周辺をぐるりと歩くと、早速かつての面影が…。「洲本駅前給油所」。すっかりさび付き、文字の所々がはがれ落ちた看板が、交差点でそっと町の変遷を見守っていた。
「あっ、電柱!」
野村君の声で見上げると、電柱に取り付けられた案内板に「エキマエ」の文字。1、2、3…。数えてみると、全部で約20カ所。頭上の小さな案内板は、当時の駅周辺のにぎわいを誇らしげに主張しているかのようだ。
鉄道はイオン洲本店の前を通り、「潮橋」を渡って洲本川を越える。当時、橋の手前には寺町駅が、奥には宇山駅があった。
そのまま真っすぐに車道を走ると、下加茂駅、先山駅。二本松駅跡には、駅名が交差点名として残っている。
「上下線がすれ違う駅の一つでな。それぞれ30分間隔で運行しよって、15分ごとに交わるんや」
二本松駅の様子を教えてくれたのは、同駅前に住む近野君の祖父、原田健治さん(76)。廃線までの約7年、淡路鉄道の車掌を務めていた。
「下りホームには待合所と駅事務所もあったなあ。そうそう、それから…」。次々と語られる鉄路の記憶。言葉の端々に、郷愁がにじんでいた。
(長江優咲)
【淡路鉄道】沖縄を除くと全国で唯一の島の鉄道だった。1922(大正11)年11月に運行を開始し、25年に淡路島内の洲本-福良間23・4キロ(17駅)が全線開通。48年には電化も実現したが、本格的なクルマ社会の到来により経営困難に。66(昭和41)年、44年間の歴史に幕を閉じた。
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