日本の4大公害訴訟の一つ「四日市公害」を記録して住民運動を支えた語り部、沢井余志郎(さわい・よしろう)さんが16日、心不全のため、三重県四日市市内で死去した。87歳だった。通夜は17日午後7時30分、葬儀は18日午後1時から同市芝田1の5の31の四日市中央斎奉閣で。喪主は長女の夫阿部孝司さん。

 戦後、四日市市内の紡績工場勤務を経て労働団体職員になり、公害問題に携わった。同市は1950年代後半から石油コンビナートの進出で大気汚染が悪化。「四日市ぜんそく」が社会問題になる中で、患者の自宅や病室を訪問した。被害者の声に耳を傾け、記録して実態を伝えることで、公害反対運動を裏方として支え続けた。

 72年7月の津地裁四日市支部による住民勝訴の判決後は、公害の教訓を後世に残そうと反対運動の歴史の保存に取り組んだ。四日市公害の「語り部」役を担い、公害時代に児童がのどを洗浄した「うがい場」が残る市立塩浜小などで、県内外の小中学生を相手に公害教室を開いてきた。

 02年の判決30周年以降は大阪市の「あおぞら財団」などとともに、各地の公害訴訟の裁判資料を保存・活用するネットワーク作りにも努めた。

 96年には、公害反対、環境保護などの功労者をたたえる「田尻賞」を受賞。四日市市の公害資料館「四日市公害と環境未来館」の今年3月の設立に携わり、保存してきた多くの資料を提供した。