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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

思い出が美化されるのは、美化されないとやってられないから

思考の種子
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幾年か前の環境は私にとってあまりよいものとは呼べず、むしろ悪いものでさえあった。退屈で、つまらなく、いかに嫌気が差してしまうのかを同グループに所属している友人と愚痴るくらいには無駄な時間の連続だった。

それは日記も付けていることから間違いない。当時はそんなふうにその時のことを書き綴っていているだのけれど、今振り返ってみれば「まあそんなに悪くなかったのかな」と思ってもいる。

あれ?………。

ちょっと前に一緒に愚痴り続けて友人に、この時のことを聞く機会があったのでそれとなく尋ねてみると「まあそんなに悪くなかったよ」と返ってきた。

あれ?……

 

「でもあの時は散々だったじゃない?○○はダメだとか、××が最悪だとか」

「そんなこと言ってったっけ」

「言ってたよ。忘れちゃったの」

「…そういえば、うん、言ってたね。けど…なんだろ…今はもうそう思えなくなっているような」

……

…………

このとき、私は「思い出が美化されるのは美化されないとやっていけないから」なんて思ったりした。嫌な思い出を風化させ、クリーンな記憶へと書き換えることで不快な過去を改竄していく。

あるいは、たとえば今現在あらゆるすべてを剥奪されたとき──地位とか血統とか人間関係とか家族とか自分が拠り所になっていたもの──あとに残るのはもう「過去」しかなくなる。そしてその「過去」が悪い思い出ばかりだったら、立ち上がる気力なんて湧かず、前を向くことさえとても嫌になってしまうのではないだろうか。

しかしそこにきらびやかな思い出があったのならば、少しは慰めになるかもしれない。もうすこしだけ頑張ろうかななんて思ったりすることができるかもしれない。

そんなふうに美しい過去が人生上において「拠り所」になるならば、それは精神のセーフティーネットとして機能していることになる。思い出が美化されるのは、そういったある種の建設的な機能なのかなと感じたのだ。

 

 

───たった一握りの思い出が、自分を救ってくれることがあるのならば

 

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